意志−琴音−



 いつもなら週明けの登校は、何となく憂鬱な気分になりますが今日は違いました。
秋風が体に心地良く、私に気力を与えてくれます。
きっと、昨日大好きな絵を描くことができたからでしょう。
絵を描くことはもちろん大好きなのですが、それ以上に絵を描いている時間が好きなのです。
風の匂いや空気の匂いは、絵を描いている時にしか感じることができません。
だから、自分の好きな風景を描いている間は本当に自分らしさが表れているような気がします。

 ようやく長かった6時間が終わりました。
英語ってちょっと苦手・・・。
先生に当てられたところに限って、読まされるんだもん。
その苦手な授業も終わり、早めのホームルームを経て、私はC組まで葵ちゃんを迎えに行きました。
C組はまだホームルームが終わっていませんでした。
5分ほどして、ようやく生徒たちが教室を出てきました。
葵ちゃんが私を見つけて小走りにやって来ました。
「ここって、いつもホームルーム長いね」
「うん。先生が教室に来るのが遅いの」
「そうなんだ」
「あ、この前言ってた絵って、もう出来上がったの?」
「ううん、あともう少しなの。憶えててくれたんだ」
「だって早く見たいんだもん」
「ありがとう」
そんな話をしているうちに、神社に着きました。
青々としていた木の葉が黄や赤に染まっています。
こういう風景を見ると、ちょっと寂しい気持ちになります。
っと、今はそんなことを考えている場合じゃありませんね。
「それじゃ、準備するからね」
そう言って、私はお堂の下、サンドバックに意識を集中しました。
両手を前に出し、サンドバックに念じます。私の頭の中で起こるとおり、サンドバックは徐々に浮き上がり
やがて一番大きな木の根元で止まりました。
ここからは少し大きな能力が必要です。
一瞬息を止めてさっきよりも大きな能力を込めると、サンドバックはゆっくりと上昇し、太い枝の少し下のあたりで
停止させます。
さらに上部のチェーンも同時に動かし、枝を何周かさせて固定しました。
「ふう、これでいいかな」
「やっぱりいつ見てもすごいよ」
能力を使い終えて、葵ちゃんがそう言いました。
最近はずっとこの方法で準備しているのですが、見るたびに葵ちゃんは感心します。
「ここまで出来るようになるのに、ずいぶんかかっちゃったけどね」
でも、そんなことよりも・・・、
「それより、葵ちゃん。大丈夫なの?」
「えっ、何が?」
「なんだか顔が赤いけど・・・」
「そう? べつになんともないよ」
「それならいいけど・・・」
なんともないようには見えないのですが・・・。
まあ、体調は本人にしか分かりませんからね。
練習に取りかかろうとしている葵ちゃんを見て、私もそのことは気にしなくなりました。
10分ほどして、葵ちゃんは練習を始めました。
練習開始直後から、なんだか飛ばしぎみのような気がします。
葵ちゃんはすぐにラッシュを繰り返しました。試合での有効打・・・。
実戦ではこのラッシュが際限なく繰り出せるかどうかが勝負の分かれ目、と以前読んだ本に書いてあり
ました。
葵ちゃんもずっとそれを意識しているみたいです。
「はあっ!!」
葵ちゃんのハイキックが決まると、サンドバックがひときわ大きく揺れました。
左のジャブ、右のストレート・・・。
試合を想定しての積極的な練習です。
「残り30秒!」
私は腕時計を見てあわててそう告げました。
1ヶ月ほど前から1分間の集中練習をしています。
このやりかたの要領を掴んだ私は、その頃から時間計測を担当しています。
25・・・20・・・。
もうすぐ1分が経とうとした時、突然、ドサッという音が響きました。
いつもの音と違う・・・!
私が慌てて顔を上げると・・・、
「葵ちゃんッ!?」
サンドバックの前で葵ちゃんが倒れていました。
うつ伏せに倒れている葵ちゃんを抱き起こし、額に手を乗せました。
・・・すごい熱・・・。
こんな高い熱なのに練習してたなんて・・・。
こうしてはいられません。
私は自分の荷物もそのままにして、葵ちゃんを横抱きに抱き上げると急いで保健室に向かいました。
人ひとり持ち上げられるほどの力は私にはありません。
もちろん能力を使っているからこそできることです。
今まで嫌ってきた私の能力が、こんなところで役に立つとは思いませんでした。

「失礼します」
できるだけ音を立てないようにして保健室に入ります。
私の姿を見て、すぐに先生が駆けつけてくれました。
「あの、友達が熱を出して倒れたんです。診ていただけませんか?」
「熱? 分かったわ」
私は葵ちゃんをベッドに寝かせました。
先生は体温計を持って来ると、それを葵ちゃんの脇に挟みました。
「先生、私ちょっとカバンを取りに行ってきます」
「わかったわ。こっちはまかせて」
「はい、失礼します」
それだけ言いおいて、私は神社まで戻りました。
能力で手早くサンドバックをお堂の下にしまうと、葵ちゃんと私のカバンを持って、急いで保健室まで
引き返しました。
「先生、具合はどうですか?」
「すごい熱よ。運動部みたいだけど・・・こんな調子でやってたの?」
「・・・ええ、本人は大丈夫だって言ってたのでまかせてたんですが・・・」
「そう・・・。あ、そういえばあなた名前は?」
「1年B組の姫川琴音です」
「姫川さんね」
「はい、この娘は1年C組の松原葵ちゃんです」
「C組の松原さんね」
先生はメモ用紙に私たちの名前を書き始めました。
「とりあえずこれ、職員室に持って行くわ。クラブ中のことだから、先生にも見せておかないと」
「はい、分かりました」
「何かあったらすぐに行くから」
「はい」
そう言って先生は保健室を出て行きました。
残された私は、ベッドに横たわる葵ちゃんに近づきました。
「ん・・・・・・」
その時、葵ちゃんが小さく声をあげたのが聞こえました。
「良かった・・・気がついたんだ」
ようやく私は落ち着くことができました。
「琴音ちゃん・・・私、どうして・・・?」
「練習中に倒れたところを、この子がここまで運んできてくれたのよ」
ちょうど、先生が入ってきました。
先生はちょっと怒ったように、
「ずいぶん無理したわね。ダメじゃない、そんな高熱で運動しちゃ」
そう言いました。
「え・・・? 高熱って・・・」
「さっき測ったら40℃ちかくあったわよ」
「そんなに・・・?」
当の葵ちゃんはようやく自分が高熱で倒れたのだと分かったようです。
ほんとに葵ちゃんってすごく熱心で一生懸命なのはいいけど、ときどき飛ばしぎみになるのが心配です。
「急に倒れるんだもん。びっくりしちゃった」
「ごめんね、迷惑かけちゃって・・・」
「ううん」
今はこうやって笑っていますが、本当は葵ちゃんが目を覚まさなかったらどうしよう、と気が気では
ありませんでした。
「あ、もうこんな時間・・・」
葵ちゃんが壁にかけてある時計を見て言いました。
私たちも反射的に時計を見ます。
「ほんとだ」
「困ったわね、そろそろ保健室も施錠しないといけないんだけど・・・。姫川さんのお家って松原さんの
お家から遠いのかしら?」
「いえ、それほど遠くはありませんよ。葵ちゃんなら私が付き添って帰りますから大丈夫です」
「そんな、悪いよ。私1人で帰れるから・・・」
「先生も姫川さんに付き添ってもらったほうがいいと思うわ」
「でも・・・」
「でも、じゃないでしょ。途中で倒れたりしたらどうするの?」
「う、うん・・・」
私がちょっとだけ怒ったように言うと、最後には葵ちゃんも納得してくれました。
葵ちゃんがベッドから降りた途端、急に足元をふらつかせました。
私は慌てて体を支えます。
「あ、ごめん・・・」
「やっぱり私が付いてたほうがいいみたい」
「うん・・・」
「それじゃ、先生。私たちはこれで失礼します」
「気をつけて帰るのよ」
「はい、さようなら」

 薄暗い廊下を通って、私たちは学校を出ました。
学校から葵ちゃんの家まではそう遠くはないようです。
「急に寒くなったからかな」
「え・・・?」
「葵ちゃんが体調崩しちゃったの」
「うん・・・」
ここ数日、異常なほど冷え込む日が続きました。
私はなんともありませんが、練習熱心な葵ちゃんのこと・・・きっと疲れが溜まっていたのでしょう。
 ほどなくして葵ちゃんの家に着きました。
「あ、着いたよ」
「今日はほんとにありがとう」
「ううん、早く治してね。それじゃ、私はここで・・・」
「あ、待って。せっかくだから上がっていって」
「え、でも・・・」
「いいから。ね?」
どうしよう・・・。
上がってもいいのかな・・・。
でも、せっかくこう言ってくれてるし。
「うん、それじゃ・・・」
私は葵ちゃんの厚意に甘えることにしました。
「お母さん、ただいま」
玄関が開くと、温かい風が吹き込んできました。
「おかえり」
奥から女の人が出てきました・・・葵ちゃんのお母さんでしょう。
「あら、お友だち?」
「おじゃまします」
「寒かったでしょう。さあ、上がって」
「失礼します」
優しそうな人・・・。
やっぱり葵ちゃんのお母さんですね。
案内されて居間のソファに座っていると、しばらくして葵ちゃんもソファに座りました。
「葵ちゃんの家ってはじめて」
「そういえばそうだったね」
「熱はどう?」
「ちょっと楽になったかな」
そういう葵ちゃんの顔は昼間に比べて、いくらか赤みがひいているようでした。
声にも元気があります。
と、そこへお母さんがココアを持ってきてくれました。
「はい。熱いから気をつけて」
「ありがとう」
「いただきます」
温かいココアを飲もうと口を近づけたとき、
「あなたが姫川さん?」
突然、お母さんに訊かれました。
「え? あ、はい。はじめまして、姫川琴音といいます」
あやうく火傷するところでした。
「葵から聞いてるわ。いつも葵を手伝ってくれてるんだってね。ありがとうね」
「いえ、そんな・・・たいしたことしてませんから・・・」
「葵が今もエクストリームを続けられるのは、あなたがいてくれたからこそだと思うわ。この子、こう
見えても寂しがり屋だから」
「お、お母さん・・・」
「さあ、葵は部屋で寝てなさい。いつまでたっても治らないわよ」
「うん、そうするよ・・・」
葵ちゃんはまだ少しふらつくようで、ゆっくりと2階に上がっていきました。
「ふぅ・・・」
熱いココアが冷えきった体に心地良く流れ込みます。
「ごめんなさいね」
「えっ・・・?」
「葵が迷惑かけてしまって」
「い、いえ、気になさらないで下さい! 友だちなんですから、当然ですよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
どうして急に黙っちゃったんだろ・・・。
とりあえず私はココアを一口飲むことにしました。
「私ね、ときどき不安になるのよ」
お母さんが遠い目をして言いました。
「え、何がですか?」
「いつもひたむきで一生懸命・・・母の私が言うのもなんだけど、そこが葵の良い所だと思うわ」
「はい、私もそう思います」
「でもね、それがいつか葵を苦しめることにはならないか、ってね・・・」
「・・・どういう・・・ことですか?」
「あの子はまだそれほど大きな挫折を経験していないのよ。でも、何事にも熱心な分、自分が頑張ってる
ことが失敗したら・・・あの子は立ち直れないんじゃないかって」
「それは・・・エクストリームのことですか?」
私が訊くとお母さんは俯いて、
「ええ・・・」
そうひと言だけ答えました。
「あ、ごめんなさいね、つまらない話して。こんな時間だけどお家の方に電話入れなくてもいいの?」
「え、いえ、大丈夫です。でも、そろそろ帰らないと・・・」
「そうよね。こんな遅くまで女の子が帰らなかったら心配するものね」
「あの、ココア・・・ごちそうさまでした。おかげで温まりました」
「いいわよ、片付けなくて。本当に今日はありがとうね」
「それじゃ私、これで失礼します」
「気をつけてね。この辺りは車が多いから」
「はい、ありがとうございます」
ドアを開けて出ようとしましたが、私は振り返って言いました。
「あの、さっきのことですけど・・・勝ち負けに関係なく、純粋にエクストリームをやってるんだと
思います。それに、たとえ失敗や挫折があったって葵ちゃんは大丈夫だって、私は信じてますから・・・」
「ありがとう・・・。葵は本当にいい友だちを見つけたわね・・・」
「それと、葵ちゃんにくれぐれも無理はしないようにって伝えておいてもらえませんか?」
「伝えておくわ。姫川さん」
「はい?」
「これからも、葵の友だちでいてくれるかしら?」
「もちろんです!」
私は満面の笑みでそう答えました。

すっかり帰るのが遅くなっちゃった・・・。
お母さんに怒られるかなぁ・・・。
でも、その時はごめんなさいって謝っちゃお。

外はとっても寒かったけど、でも何だかとても暖かいような気がしました。





   後書き

 他人が突然倒れたら・・・あなたはどうしますか?
誰かに助けを求めるでしょうか。それとも素知らぬ振りを通すでしょうか。
理想は「助ける」です。
でも、頭では分かっていてもそれを実行に移すのは難しいことだと思います。
僕もそういう場に直面したら・・・どんな行動をとるかはその時になってみないと分かりません。
それでは他人ではなく、自分の身近な――例えば友だちなら?
これはさすがに無視することはできないでしょう。
本当に仲がいいなら助けるのが当然のことです。
 同じ“人”なのに、この差はどこから出てくるのでしょうか?
いずれはそういうのをテーマにした話も書きたいと思っています。



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