明光−琴音−
私にとっても、葵ちゃんにとっても賭けかも知れません。
ましてや相手があの綾香さんとなれば、ひたすら回避に専念する作戦は無謀とも思えます。
だけど私にはそれぐらいの事しか思いつきませんでした。
正直、格闘技の実戦を観たのも参加したのもこれが初めてでしたから、本当のところは作戦なんて何ひとつ
立てられませんでした。
だけどそんな事は言っていられません。
ここで素人だからと甘えてうろたえてしまえば、葵ちゃんをますます不安にさせてしまいます。
葵ちゃんが本当に自分らしく闘うためには、プレッシャーを取り除いてあげなければなりません。
できるだけ普段の練習に近い気持ちで望めば、きっと緊張して体が思うように動かない、なんて最悪の事態を
避けることはできるでしょう。
「さあ、行くわよ!」
第2ラウンドが始まって、先に動いたのは綾香さんでした。
私には分かりませんでしたが、葵ちゃんは相手がどんな行動に出るかが分かったようです。
葵ちゃんは拳を軽く握っただけで、とても格闘家と言えるような構えではありませんでした。
「危ない!!」
私は思わず目を逸らしたくなりました。
ほとんど無防備の葵ちゃんの正面で、綾香さんが目にも止まらないほど素早い回し蹴りを放ったのです。
放たれた回し蹴りが当たると思った瞬間、なんと葵ちゃんはその場から一歩も動かないで首だけを反らせて
それを避わしたのです。
続く上段蹴りの二連撃も、まるで”そう来ること”が分かっていたかのように片手で捌きます。
「ふふ・・・・・・さすがは葵ね・・・・・・なんだか急に強くなった感じよ」
「綾香さんのおかげです・・・」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
第1ラウンドの疲れが全く残っていないのか、二人とも息に乱れがないようでした。
綾香さんが再び構えました。
今度は葵ちゃんも体を傾けて防戦の姿勢に入ります。
一気に間合いを詰めた綾香さんの右腕が伸びました。
きっと私なら身動きひとつ取れずに終わるでしょう。
でも葵ちゃんは、自分の腕でその打撃を押さえ込むと、すかさず反対の腕を振り上げました。
腕を押さえ込まれていたせいで回避が遅れた綾香さんの首筋にきれいに決まりました。
「くっ・・・・・・」
よろけた綾香さんに、葵ちゃんが得意のハイキックを放ちます。
しかし背を反らせた綾香さんには効果はなかったようです。
わすかに距離を開けるだけに終わりました。
ですが、空振りしたさっきのハイキックが確実に綾香さんに効いていることが直後に分かりました。
綾香さんが防御も忘れて、ひたすら連打で攻めてきたのです。
しかもその動きは今までのように考えられたものではなく、傍から見ても単調だと分かります。
それを寸前のところで避わしつづける葵ちゃん。
今の葵ちゃんは練習の時とまったく同じで、緊張感や恐怖感を全く持っていないのでしょう。
動きがとてもしなやかで、綾香さんの攻勢を軽々と避けているように見えます。
そんな葵ちゃんとは対照的に、次第に焦りが色濃くなってきた綾香さん。
試合開始当初とは明らかに動き方が違います。
この作戦は綾香さんが現チャンピオンであるからこそ、有効な手だといえます。
”トップ”だというプライドやプレッシャーが、無意識のうちに綾香さんに焦燥感を与えています。
だからこそ、彼女は判定による勝利は避けようとするハズです。
「もらったわ!」
葵ちゃんの一撃をかわし、綾香さんが反撃に出ようとしたところでした。
自信に満ちたその目が、直後、驚愕に変わりました。
避けたと思っていた攻撃は、葵ちゃんが自分から空振りした一撃でした。
そのまま背を向けると同時に背後に回る葵ちゃん。
間髪いれずに裏拳。
体の回転の勢いが加わった拳が、綾香さんのこめかみに直撃します。
よほどの威力があったのでしょう。
よろめいた綾香さんがこめかみを押さえながら下がりはじめます。
「信じられない強さよ、葵・・・・・・どんな練習をしたのか知りたくなってきたわ。でも・・・・・・本番はこれからよっ!!」叫んだと同時に飛び込んだ綾香さんのスピードは、これまでとは比べ物になりませんでした。
神速の一撃を葵ちゃんは何とか避わしたようですが・・・・・・。
「うっ・・・・・・」
綾香さんの不意の一撃にさすがの葵ちゃんも反応しきれなかったようです。
今の動き・・・・・・まるでサソリみたい・・・・・・。
私は改めて綾香さんの強さを知りました。
きっとこの人は、私たちが想像もつかないような練習を重ねてきたんだ。
葵ちゃんを見ても心から凄いと思えるのに、綾香さんはそのさらに上にいる・・・・・・。
エクストリームって・・・格闘技って凄いんだ・・・・・・。
「かはっ・・・・・・!」
感心している場合ではありません。
綾香さんが真っ直ぐに伸ばした右腕が、葵ちゃんを真正面から捕らえました。
遠くから観ていても、なお速く感じる綾香さんの一撃。
目の前で闘っている葵ちゃんには、どんなふうに映っているのでしょうか。
数発のパンチでかろうじて退けることはできたようですがその表情は険しく、これ以上の闘いはかなり辛いかも
しれません。
そう思っていると、葵ちゃんの体勢がわずかに変わりました。
体をこれまでとは逆に傾けているようです。
直後、綾香さんの猛攻が始まりました。
上下に、小刻みに、時には大振りの一撃。
無数のパターンの攻撃を上半身を反らせることで避けつづける葵ちゃん。
動きそのものは前半戦とは比べものにならないくらいしなやかになっていました。
でもさすがにチャンピオンだけあって、綾香さんの攻撃は葵ちゃんを上回っているようでした。
ううん、違う?
もしかして・・・・・・。
相手の隙を探る・・・・・・私が言った作戦を実行しているのでしょう。
焦りを見せた綾香さんに必殺の一撃を与える。
けれど、この作戦は相手の攻撃を的確に避けなければなりません。
なのに今の葵ちゃんにはそれができない。
さっき受けた攻撃が響いているのでしょうか。
時々バランスを崩し、今にも倒れそうになる葵ちゃん。
「はぁっ!!」
そんな自分を悟られまいとしているのか、それとも勝負を決めようとしているのか。
葵ちゃんが渾身の力を込めて回し蹴りを放ちました。
おそらくこれが最後の大技でしょう。
これが決まらなかったら・・・・・・。
・・・・・・ダメです・・・。
威力もスピードも全然足りません。
綾香さんをわずかに足止めしただけで、決定打にはなりせんでした。
そして・・・・・・綾香さんの攻撃が始まりました・・・・・・。
最初はかろうじて防いでいた葵ちゃんも、次第に押され気味になりガードの手を緩めるときがありました。
もはや、彼女に反撃する力は残されてはいないようです。
ダメなの・・・・・・?
あんなに一生懸命、辛くても熱が出てもひたむきに練習に取り組んでいたのに・・・・・・。
それでも綾香さんには勝てないの・・・・・・?
あれが・・・チャンピオンの実力なの・・・・・・?
綾香さんはチャンピオンで強いから、葵ちゃんは負けてもしかたがないの?
違う。
その考えは間違ってる。
私はずっと葵ちゃんのがんばる姿を見てきた。
私もできる限りのサポートはしてきたつもり。
だから葵ちゃんの敗北は私の敗北でもある。
負けたくない。
勝ってほしい。
勝ちたい!
綾香さんの優勢を見るたびに、私の中でその気持ちがだんだんと強くなっていく。
絶対に勝ちたい!
葵ちゃんはもう、立っているのもやっとの状態です。
綾香さんが一転して、葵ちゃんから離れました。
終わらせるつもりでしょう。
でも私は――私たちはこれで終わるつもりはありません。
「あおいちゃーーーーんッッ!!」
瞬間、私は叫んでいました。
一体、何が起こったのか。
それを理解するのに、しばらくかかりました。
一瞬、ほんの一瞬だけ目を閉じてしまっていた間に、それは起こったようです。
圧倒的に有利だったハズの綾香さんは、リングの反対側にいました。
切り札・・・・・・。
思い当たることはそれしかありませんでした。
相手の攻撃の勢いを利用して、拳を真っ直ぐに叩き込む。
言葉で聞いただけで、どんな技かは想像もつきませんでしたが。
それが強い相手と闘うときの切り札だと、葵ちゃんは言っていました。
技の全容を見ていない私にも分かります。
葵ちゃんはその、”切り札”を使ったのだと。
そうでなければ綾香さんが昏倒している理由が説明できません。
「やったよ! 葵ちゃん、やったよ!!」
状況をようやく理解した私は、まだ理解できていないような葵ちゃんに走り寄ります。
小さな体を抱きしめると、熱くほてった激戦の後が伝わってくるようでした。
最後は彼女のエクストリームにかける熱意が勝利に導いたのでしょう。
こんなに小さな体で最後まで果敢に闘い、そして勝ち抜いた事実。
私には葵ちゃんが今までとは想像もつかないくらい大きな存在に思えました。
「勝ったんだよ! 葵ちゃん! 勝ったの!」
きっと葵ちゃんはまだ、状況を把握できないでいるのでしょう。
目をしばたかせて、私と綾香さんを交互に見つめます。
私も初めこそ信じられませんでしたが、それを成し遂げたのは他ならぬ葵ちゃん。
だからこそ信じることができるのです。
葵ちゃんの体から力がふっと抜けた感じがしました。
支えてあげないと崩れそうになる葵ちゃんの両肩をつかみ、もう一度こう言います。
「綾香さんに勝ったんだよ・・・・・・」
その言葉が染み渡るのを待ちます。
やがて彼女の頬を一筋の涙が伝いました。
「お、おかしいね・・・・・・。嬉しいのに、涙が出るんだね・・・・・・おかしいね・・・・・・」
「おかしくなんかない。全然、おかしくなんかないよ」
嬉しくて涙が出るのは当然なんだから・・・・・・。
本当の涙は悲しい時に流すものじゃない・・・・・・。
葵ちゃんを見ているとそう思えてきました。
「やったよ・・・・・・わたし・・・・・・やったよ・・・・・・」
「うん・・・よくがんばったね、葵ちゃん・・・・・・」
全てが報われたという想いが、時間とともに強くなっていきます。
「今大会の優勝者、松原葵選手に盛大な拍手をお願いしますッッ!!」
瞬間、会場はかつてない熱気に包まれました。
勝ったんだ・・・・・・綾香さんに・・・・・・。
私の胸に、ふたたび熱いものが込み上げてくるのを感じました。
「葵、おめでとう。やったわね」
「ありがとうございます!」
リングを降りた私たちを迎えてくれたのは好恵さんでした。
「姫川さん、あなたのサポートも的確だったわよ」
「いえ、私はただ・・・・・・」
サポートという大袈裟な表現に、少し恥ずかしくなりました。
「今にして思えば、一度でもあなたを引き止めた事が悔やまれるわ」
「好恵さん・・・・・・」
「葵にはエクストリームこそが相応しかったのね・・・」
好恵さんの目が潤んでいます。
その目が自嘲しているように見えました。
「坂下さん。たしかに結果を見れば、葵ちゃんは間違っていなかったと思います。でも・・・・・・」
私なんかが偉そうに言えることではない事くらい分かっています。
「今の葵ちゃんの基礎となったのは空手です」
これは紛れもない事実です。
坂下さんや綾香さんほど付き合いは長くありませんが、それでも自分なりに葵ちゃんの事は知っているつもりです。
「だから、坂下さん。自分が間違っていたなんて思わないでください」
「姫川さん」
そう考えれば、葵ちゃんをもっとも勝利に導いたのは空手ということになるでしょう。
それはつまり、坂下さんのおかげでもあるということです。
「葵ちゃんがエクストリームを続けて、この試合で勝てたのは、私たちが何らかの形で葵ちゃんを応援できたから
だと思うんです」
足音に振り返ると、リングから綾香さんが降りてくるところでした。
最後の一撃がよほど効いたのでしょうか、セリオさんに支えながら足取りは重そうです。
「綾香さんッ!」
「セリオ、もう大丈夫よ。葵、本当に強くなったわね」
「はい」
綾香さんにそう言われ、それまでの疲れも一気に飛んでいったようです。
「まさか綾香が負けるなんてね・・・」
いつの間に拭いたのでしょうか、好恵さんはいつもの表情で綾香さんを睨みつけていました。
「ふふん。言っとくけどね、私が弱いから負けたんじゃないわ。葵が強かったから負けたのよ」
「どっちも同じじゃない」
「違うわ。葵は努力した、って言いたいの。私や好恵よりもよっぽどね」
「そうね・・・・・・」
二人の会話には珍しく、とげとげしさは感じられませんでした。
それどころか妙な清々しささえ感じられました。
「どう? あなたもエクストリームやってみない?」
「・・・・・・せっかくのお誘いだけど断らせてもらうわ。私は空手を極めるつもりよ。その時は・・・・・・こっちから
あなたたちに勝負を挑むわ!」
好恵さんは笑っていました。
「あら、いいわね。それじゃ私ももう一度特訓しなおさなくちゃね」
綾香さんも笑っていました。
微笑ましい光景でした。
二人のやりとりを聞いていると、これが始まりだということがすぐに分かります。
綾香さんと坂下さん。
今いる場所は違っても、目指すところは同じなんだ。
葵ちゃんも。
次もその次も、少しくらいの失敗があったって、彼女ならきっと乗り越えられる。
「おめでとう」
私はそっと葵ちゃんに言いました。
後書き
本当の完結。
サンドバックだけを相手に練習していた葵ちゃんが、綾香さんに勝てるハズがない、とも思いましたが。
その努力を無碍に壊すのも惜しいので、最後の最後に勝つように展開させました。
僕にはセコンドという立場が選手に対してどの程度までサポートするのかなど、格闘技に関する知識はまったく
ありませんが、恐らく精神面での補助が重要なウェイトを占めるだろうと思い込み、琴音ちゃんをかなり動かす
結果となりました。
ファイトシーンを書くのが難しいのは、動きをどの程度まで表現するのかの選択にあると思います。
腕を動かす、体を動かす、右に避ける、左に避ける。
こと細かに書いていたら、かえって状況をイメージしにくくなります。
捨てるところは捨て、必要なら描写する。
これが今後の課題です。
「出会い〜から始まった一連のお話はこれで完結となります。
最後に、稚拙ながらここまでお読みくださりありがとうございました。