第20話 Wheel of Fortune

 

局員の1人が身を乗り出した。
「それは何度も聞いたよ。そろそろ教えてくれないか? あの時、アースラで何があった?」
管理局本部の局員は立場上、厳しい口調で話す者が多い。
任意聴取と銘打たれた尋問は、フェイトを不愉快にさせる以外の作用は及ぼさなかった。
機転を利かせたブライトがアースラの針路を管理局本部に変更したことで、本部では混乱が起こっていた。
先に到着したデメテルからはアースラが闇の攻撃によって消滅させられたと報告を受けている。
これはビオドール艦長、リンディ艦長からもたらされた情報だが、アースラが太陽に向かったという点だけは伏せていた。
ところがデメテル到着の約2時間後にアースラが本部に到着した。
ホールで争った跡が残っている以外は、艦に損傷はなかった。
当然、事実と報告内容が食い違っているために本部は厳しく追及してくる。
リンディはできるだけ齟齬のないように取り繕おうとしたが、フェイトがしばらく黙秘を続けたせいで現場と本部の溝が深まってしまった。
「リンディ提督が嘘をついているとは思わんし、きみが嘘をついているとも思えない」
「闇の再来以降、情勢は緊迫している。誰もが闇の消滅を確信できないんだ」
長テーブルを挟んでフェイトと5人の局員が向かい合う。
局員といってもこの5人はいわゆる高官で、情報管理課最高責任者や司令部総督などの立派な肩書きを持っている。
「すでにお話ししたとおりです。ヒューゴという影が”本体”だと突き止めたので私が――」
フェイトが伏せ目がちに言った。

 

 以下は、『 闇の再来と消滅に関する証言 −参考人フェイト・テスタロッサによる証言 第1回− 』に収録されたデータである。
筆記記録、音声記録、映像記録からの照合が確認された信頼しうる情報であり、今後の闇の動向を考察する上で極めて有用な情報とあることから、
時空管理局の管理する最高機密記録として厳重に保管されているものである。

――闇は滅びたか?

フェイト:はい

――そう断言できる根拠は?

フェイト:(考えるように少し俯き)”本体”を倒したからです

――これより前に、すでに”本体”を倒し、闇の脅威は去ったと証言しているが、これについては?

フェイト:闇が私たちを欺いたんです。アースラの中で倒した影こそ、本当の”本体”です

――ではその影が”本体”だと確信したのはなぜか?

フェイト:それは・・・・・・ブライトが独自に調べた結果です。彼の助けがあったからこそ私は闇を倒すことができました

――ブライトはなぜ去ったのか?

フェイト:役目を終えたからです。彼はアンヴァークラウンに戻ると言っていました

――現在、ブライトの所在が掴めていないが、彼は本当に故郷に戻ると言ったのか?

フェイト:はい、間違いありません

――そう言ったのはいつか?

フェイト:アースラの制御が不能になった時、クルーの皆さんが避難するのと入れ替わりにブライトが乗艦しました。その時です

――ではきみはブライトと共に”本体”を倒した?

フェイト:はい

――アースラが制御不能になりクルーが退避した直後、小型艇がアースラに着艦したのを確認しているがこれに心当たりは?

フェイト:ブライトのものです

――なぜきみは避難しなかったのか?

フェイト:(無言。数秒してから顔を上げて)気配を感じたからです。うまく説明できませんが、とても嫌な予感がしました

――そのことは他のクルーに伝えたか?

フェイト:いいえ、私の思い過ごしだと考えて言いませんでした。しかしいざ避難する頃になってその気持ちがとても強くなり、

     避難艇に乗るのをためらってしまいました

(15分の休憩。フェイト退席。12分後、フェイトが戻ってくる)

――ブライトの掴んだ情報等について、リンディ提督に全て報告しなかったのはなぜか?

フェイト:(少し考えて)未確認のこともありましたし、かえって混乱させると思い黙っていました

――しかしそれでは、きみはその未確認の情報を元に動いていたことになるが

フェイト:私にはブライトの集めた情報が嘘か本当か分かりませんでした。現場で影と戦ううちに正しい情報もあると思い、

     勝手な判断で独自に闇の正体を探っていました

――危険だとは思わなかったか?

フェイト:思いました

――独断で動くことで多くの人々が危険に晒される可能性については?

フェイト:考えました。(語気を強めて)しかし闇さえ祓えば危険は去ると思い・・・・・・

――では最後に。きみはそうする事で闇の脅威を退けられると思ったか?

フェイト:(数秒の沈黙の後)確信はありませんでしたが、自信はありました

(記録終わり)

 

 フェイトは疲れていた。
すでに12回ほど繰り返された尋問では、同じ事を訊かれ同じ事を答え続けた。
「そもそもブライトという少年の言葉をそこまで信じる理由が分からん。結果的にそれが奏功したようだが、しかし・・・・・・」
「普通なら疑うか、提督の裁量に委ねるためリンディ提督に報告するのでは・・・・・・?」
フェイトはうんざりしていたが、今の自分にはこの尋問を面倒だと思う資格がないと思っていた。
フェイト、ブライト。
2人には2人の事情があるが、他の誰にもその事情は分からないのだ。
周囲から見れば隠れてこそこそ勝手な行動を取った、と思われるのは当たり前でその理由について説明しない限り、
自分の証言は受け容れられない。
秘密は隠したまま、闇の消滅だけ聞き入れろという都合の良い展開があるハズもなく、いつまでも口を割らないと焦る管理局高官の尋問と、
どうしても秘密を話せないフェイトの証言は決して妥協することはなく、こうして平行線をたどっている。
「アルテアの影・・・・・・その時はそれが”本体”だと思っていたようだが、それを倒した時点で、きみはどこまで知っていた?」
この質問は3度目だ。
しかも1度目はハイかイイエで答えられる訊き方だったのが、今は極力こちらに文章で答えるように誘導する質問方法だ。
管理局はフェイトが何か隠し事をしていると睨んでいる。
そのため同じ内容の質問を訊き方を変えて繰り返すことで、回答に矛盾が生じるのを誘っていると思われる。
利口なフェイトはもちろんこの画策に気付いており、過去自分が証言した内容を全て頭に叩き込んで矛盾が出ないようにしている。
とはいえ時を経る毎に厳しくなってくる追求に、いつボロが出てもおかしくない。
尋問回数が7回を数えたあたりから、彼女は何もかも打ち明けてもよいのではないかと考えることがあった。
フェイトが真実を話さない限り――少なくとも管理局が納得する回答を得るまでは――この尋問は永遠に続くような気がした。
全てを話してしまえば楽になる。
隠し事をするのは嘘をつくのと同じだ。
嘘をつくのが悪い事もこの歳なら嫌でも分かる。
なら、いっそ――。
ここまで来て、彼女の思考はいつも止まる。
――いや、駄目だ。
言ってはならない。
今まで黙秘してきたことが無駄になるし、何よりシェイドがそれを望むハズがない。
彼女が秘密を守ることでシェイドを守り――ひいては彼の遺志を継ぐことにもなるのだ。
「・・・・・・・・・」
とはいえ厳しくなる追求を躱し続けることは難しいし、リンディたちにも迷惑がかかる。
フェイトは板ばさみに苦しんだ。
永く続く苦痛をとるか、シェイドの遺志を裏切ってでも安楽を選ぶか。
これを考えること自体がフェイトには苦痛である。
が、幸いにもすでに闇は滅びているため、この負の感情が悪影響を及ぼす事はない。
彼女にとって厳しいのは、先のムドラ事件でも独断で動いてしまっていることだ。
結果としてそれが事件解決につながり、ムドラとの和解の架け橋となっているのも事実だ。
しかし体制を重んじる管理局はやはり彼女のこうした勝手な行動には眉をひそめている。
前回は謀叛を起こしたなのはを救い、ムドラとの和平の使者としてその罪は恩赦となった。
だが今回は違う。
フェイトには独断先行の罪はあっても、何かを解決したという実績がない。
もちろん実際には闇の脅威を退けているのだが、黙秘を続けるフェイトから管理局がその功績を認めることは絶対にない。
アースラ側もこのような事態が続くと、さすがに庇いきれない面が出てくる。
「以前にお話ししたとおりです・・・・・・」
ボロを出さない回答の仕方をフェイトは心得ていた。
とりあえずこう答えておけば当座はしのげる。
・・・・・・これはあくまで問題を先延ばしにする措置であって、実際には何の解決にもならない。
今の状態が続けば、必ず本部と現場に摩擦が生じる。
そうでなくてもフェイトの知らないところでは、局長が特権を行使して調査団を危険な現場に派遣したことが議論されている。
彼女はここまで思考を巡らした末に黙秘を選んだ。
きわめて個人的な感情を優先させてしまったことをフェイトは悔いている。
世界中の人々を危機から救ったのにその事実を告げられず、また誰にも認められないもどかしさ。
彼女が利益や名声に溺れる性格であれば、いま局員らがしているような尋問は1回で終わっていたハズだ。
今、フェイトにのしかかる重圧は果てしなく重い。
20分後。尋問は終了した。
何ら進展はなく、彼女が最後に聞いたのは3日後に次の尋問が行われるという予告だった。

 アースラは闇の事件以降、本部から離れられなくなった。
最も激しい攻撃を受けたため長期メンテナンスを要する・・・・・・というのが理由であるが、リンディはそれが口実であると知っている。
アースラに所属する全ての人員が、3日以上本部を離れることを禁じられているのだ。
学校があるなのはやフェイトは特例的に地球に戻る事が許されているが、この場合でも5日置きに本部に戻ることが条件となっている。
ここまで行動を厳しく拘束されている理由はひとつしかない。
監視されているのだ。
幹部はフェイトだけではなく、リンディをも疑っているようだ。
クルー全てを拘束しているところを見ると、厳密にはアースラそのものを信用していないと考えたほうがよい。
「あまりお考えにならないほうがよいのでは?」
ビオドール艦長がリンディに声をかけた。
2人は窓際に立って遥か彼方の星間地帯を眺めている。
「今、不服そうな顔を見せれば本部はさらに疑いを強めます」
あれ以来、ビオドール艦長は何かとリンディを気にかけていた。
本来ならば彼の艦デメテルは次の航行に出る頃だが、メンテナンスを理由に逗留している。
2人は旧知の仲だから、リンディを支えるに彼は適任だった。
「私はいいとしても、クルーに会わせる顔がありません・・・・・・」
リンディは落魄していた。
実際、幹部の彼女を見る目は冷たかった。
局長を含め数名はリンディを支持しているが、常に安全策を取ろうとする中枢の人間はやはりアースラの奇行を問題視しているらしかった。
「みんなの活躍の場を私が奪ってしまったみたいで・・・・・・」
「・・・・・・場所を変えましょう。喉が渇きました。休憩室に行っても?」
「ええ・・・・・・」
ビオドールはリンディの肩に手を回し、すぐにその場から離れた。
好意から、というのももちろんある。
リンディはまだ若いし、ビオドールもまだ独身だ。
親密になる条件は充分に揃っている。
が、彼がそうしたのはそれが主な理由ではない。
窓の外に見える離着艦ベースから7番艦ゼークトルが飛び立とうとしていたからだ。
いまこれをリンディに見せるわけにはいかない。
彼女は本部という、本来なら局員が最も安心できる場所にいながら、最も危険な立場にある。
就航する艦をもし目撃すれば、リンディの傷心はより深くなるだろう。
幸い、休憩室には誰もいなかった。
ビオドールは手早く紅茶を淹れてリンディに差し出す。
彼はリンディのお茶に対する少し変わった嗜好を知らない。
「ありがとうございます」
妙にしおらしく受け取る。
紅茶の味はほとんど分からなかった。
温かい飲み物を機械的に流し込んでいる感覚には彼女にはない。
ビオドールにはそれでも良かった。
紅茶でひとまず苦痛を忘れられるなら安いものだ。
「これから・・・・・・どうなるんでしょう?」
普段は気丈なリンディも、部下がいない状況では弱音も吐く。
(・・・・・・傷は相当深そうだな)
ビオドールは口調に気をつけて、
「先など誰にも分かりません。しかしリンディ艦長、あなたには他の誰もが成しえなかったほどの功績があります。決して悪いようには――」
「ビオドール艦長」
「はい・・・・・・?」
長い間をあけ、リンディが呟いた。
「私はもう・・・・・・”艦長”ではなくなるかも知れません」
リンディの脳裏にあの瞬間が蘇ってきた。
1ヶ月前。
デメテルから吐き出され、管理局本部という広い空間に投げ出されたリンディはまずアースラの消失に心を痛めた。
アースラは彼女にとって家のようなものだ。
それを失う悲しみは彼女にしか分からない。
クルーの安否を確認する過程で、さらにフェイトがいない事もその時になって初めて知らされた。
彼女らがデメテルに拾われてから本部到着まで5時間はあったがその間、誰もその事実をリンディに報告しなかった。
彼女の心労に配慮してのことらしいが、後に言われようと先に言われようと受ける傷の大きさに大きな違いはない。
アースラとフェイトを失ったと思い込んでいたリンディは、自己を喪失する寸前まで憔悴していた。
目の前から一切の光を奪われたような絶望を味わったのだ。
ところがその2時間後、本部の管制官がアースラの帰還を告げた。
ただちに牽引ビームが発射され、アースラは本部の誘導により無事の帰還を果たす。
それを知ったリンディは、即座にフェイトが生きていると確信した。
彼女の思ったとおりフェイトはいくつかの擦過傷を生々しく刻んだ体でアースラから出てきた。
その時に感じたのは喜びや安堵を通り越した幸福。
今までに味わったことのない不思議な感覚だった。
しかしその感情に浸れるのはそこまで。
この後には黙秘を続けるフェイトと、彼女から真実を聞き出そうとする幹部との板ばさみに苦悩するリンディがいる。
彼女は・・・・・・どちらの加担もできなかった。
個人的な感情を優先すればフェイトを支持するべきだが、リンディはフェイト以外にも多くのクルーの命を預かっている身だ。
管理局という組織の一部に属する以上、勝手な判断、勝手な行動は決して許されるものではない。
だから彼女はフェイトに対しても幹部に対しても非協力的な態度で接した。
追求には曖昧に返し、自分の意見は言わず、嵐が過ぎ去るのを静かに待つという彼女らしからぬ狡猾な手段だ。
常に凛としているリンディを見てきたクルーにとって、彼女の処世術は失望に値した。
結局、彼女の行動は保身に走ったとしか評価されず、結果、幹部に監視されるという窮地に自らを追い込んでしまった。
しかも追い討ちをかけるように、彼女に悲しむべき報せが舞い込んでくる。
ブリガンスが死んだというのだ。
かつて離反したなのはが刑事責任を問われて裁判にかけられた時、好意的に動いてくれたブリガンス弁護士だ。
その裁判――厳密には事情聴取――の模様を記録していたハーマン司法記録官。
さらには魔導師総括ソウェル、行政副官のメイドン、管理局法律顧問ガンレイ。
彼らは影に殺された。
管理局に属する者も、そうでない者も。
特にブリガンスの死は、リンディとも接触する機会が多かっただけに衝撃が大きかった。
「リンディ艦長・・・・・・・・・」
ビオドールはやはりリンディのことを艦長と呼んでいた。
事情をほとんど知らない彼には、こうして少しでもリンディの苦痛を和らげる方法を試行錯誤するしかなかった。
彼が分かっているのは、この事件の鍵を握っているのがフェイトだということくらいだ。

 フェイトを見つめるアルフの眼は優しくもあり厳しくもあった。
前者も後者も使い魔としての素直な感情によるものだった。
たとえ精神リンクに頼らなくても、フェイトにはアルフの考えている事が分かった。
同時にどんな叱責も甘んじて受ける覚悟もできていた。
「フェイト――」
アルフの性格からして感情的な言葉を投げられるだろう、とフェイトは身構えていた。
「どうしてあんな事を・・・・・・?」
が、予想に反して彼女は実に温厚な様子だった。
幹部による尋問だけでなく、アルフからの追及も長期に及んでいた。
彼女はある意味ではリンディやクロノよりも多くの秘密を知っているが、ブライト=シェイドまでは知らせていない。
「あたしにだけ教えてくれよ。誰にも言わないって約束するからさ・・・・・・このままじゃ納得できないんだよ」
「・・・・・・・・・」
主と使い魔の関係が成り立っている以上、フェイトにとってアルフは信頼できる存在だ。
口外もしそうにない。
せめてアルフにだけは隠し事をしたくないと思うフェイトだったが、
「ごめん、アルフ・・・・・・。それは・・・・・・」
言えない、という言葉をやはり口にできない。
フェイトにとっては幹部からの尋問よりも、アルフからの問いかけのほうが辛かったかもしれない。
しかし誰にも言えないのだ。
リンディにも隠し続けている。
同様になのはやユーノはもちろん、クロノやエイミィなどの親しい人物にすら打ち明けていない。
「危なっかしいんだよ、フェイトは。いつも危険な戦いに飛び込んでいくじゃないか」
もっと自分を大切にしろ、とアルフは言いたいのだろう。
それは分かるし、正しい。
だが自己を犠牲にしてでも成すべき事があることを、アルフも知っているハズなのだ。
頭では分かっているが感情が先に立ちその判断を邪魔してしまう。
この辺りが狼素体の使い魔らしいところだが、フェイトはそこを突っ込もうとはせず、
「分かってる。でも退くわけにはいかなかったんだ――」
と言って目をそらした。
「1時間もすれば何もかも無くなってしまうような状況でもかい?」
アルフが問い詰める。
時間の問題ではない。
あの時、あの場にいた影が重要だったのだ。
鋭敏なアルフでさえ嗅ぎ分けられなかった闇こそが――。
全ての鍵だということをアルフは知らない。
この問いに関してはフェイトは返事をしなかった。
もう2度と無茶な事はしないと約束できないし、これからは自己の保身を最優先にするという考え方もできない。
思えば彼女は、
『自分にしかできない・自分がやるしかない』
と考えることが多かった気がする。
その理由は、それを運命だと感じているからだ。
重大な分岐点に立った時、彼女はどの道を選んでもそれを運命だと受け容れてしまう危うさを持っている。
決して英雄になりたいわけではなかったが、こう考える根底には迂闊さとある種の傲慢さが入り混じっている。
彼女はそれを乗り越える強さ――実質的な魔力に加えて不撓不屈の精神力――を持っていたから今日を生きている。
「頼むからさ・・・あんまりあたしに心配かけないでくれよ・・・・・・」
表情にこそ出さなかったものの、フェイトはアルフの本心に深く感謝した。

 こんな真剣な表情のエイミィを見たのは初めてだ。
クロノは思った。
彼女がアースラの通信士として勤めて長いが、今はその実績を認められるどころか仕事を失っている状態である。
クロノも執務官という役どころを与えられているものの、それを充分に機能させられる立場にない。
「しばらくは我慢するしかないな」
いつも気負っているクロノは、思いがけない長期休暇だと開き直ってイスに深く腰かけた。
「クロノ君ってそういうところ、すごいよね」
対するエイミィは全く笑っていない。
これでは普段と逆だ。
役割を奪われたエイミィは本部に対して強い不信感を抱いている。
「考えたって仕方ないじゃないか」
陽気に答えるクロノだが、ひどく合理的な意見のような気もする。
「僕たちは管理されてるんだ。上には逆らえない」
典型的な縦社会の欠点を、彼は皮肉交じりに呟いた。
「だとしても、なのはちゃんやユーノ君まで閉じ込めるなんて・・・・・・」
エイミィがちらっと視線を移した先に、なのはとユーノが座っている。
「僕は別に・・・・・・でもなのはは・・・・・・」
「私も・・・平気・・・・・・だよ?」
2人は庇い合う。
この状況では互いの傷を舐めあっていると表現した方が適切だ。
本部はかなり広いが彼らにとっては居心地は悪く、見た目よりずっと狭い小屋に隔離されていると錯覚しそうになる。
そういう状況だから奥部のロビーに集まった4人には、まるで覇気が感じられなかった。
「これって局長の判断なの?」
もう何日も書物を手にしていないユーノが訊いた。
彼らしくない口調の冷たさがある。
もしかしたら一定時間以上、書物に触れなければ体を害してしまう性質があるのかもしれない。
「局長は僕たちに好意的なハズだ。たぶん他の高官がとった措置だろう」
内部の状況をリンディからある程度聞いて知っているクロノは、この措置を快く思っていない。
母親の影響を強く受けている彼は生真面目な性格を貫きつつも、和やかなあのアースラの雰囲気に戻りたいと思っていた。
「何のために?」
「おそらく――」
「監視するために決まってるよ」
ユーノの質問にエイミィがふてくされたように言い放つ。
「どうしてですか? 無事に解決したのに・・・・・・」
邪でないなのはの疑問は、人間の邪な面を知っている者たちには答えにくい。
実際、なのはも”解決”とまでは思っていない。
それはフェイトがそう言っているだけで、客観的に闇の脅威が消えた事実が見えないのだ。
なのはの質問を無視できず、エイミィは、
「今回の事件、よく分からないことが多かったでしょ? だから詳しく調べるためなのよ」
歯切れ悪く答える。
よく分からないのは半当事者の彼女たちも同じだった。
幹部たちはアースラ全体が秘密を握っていると思っている節があるが、突き詰めればこれは少し違うと分かる。
今回の事件の真の当事者はフェイトと、行方をくらましたブライトだけだ。
他のメンバーは艦長であるリンディでさえ核心までは知らない。
「でも、なんかおかしくないですか?」
素直ななのはは中途半端な答え方では納得しない。
「本部は現場のことをよく知らないから・・・・・・」
諦観した口調のクロノからは、管理局に対する不満がオーラとなって出てくる。
常に安全な場所にいて事態の重さも知らず、そのくせ現場に指示ばかり飛ばす高官の態度には嫌気がさしてくる。
「よく知らない・・・・・・私たちもそうなのかも・・・・・・」
なのはは呟いた。すぐ傍にいる3人には当然、この呟きは聞こえていて、
「そう・・・・・・だね・・・・・・」
と曖昧に相槌を打つしかなかった。
避難艇をデメテルに拾われ、安否確認をとった時点でフェイトがいないことはすぐに分かった。
分乗した皆がフェイトは違う艇にいると思い込んでいた。
ところが彼女はいなかった。
後になって帰還してきたアースラにフェイトひとりが乗艦していた事実は、多くの局員を驚かせた。
放っておけば宇宙の塵どころか残骸すら燃え尽きているハズのアースラが、なぜか突然の針路変更の末に帰還。
アースラの中で何かがあった。それにフェイトが関わっていた。
誰にも明らかなことだった。
しかしその状況を彼女は尋問する幹部どころか、なのはたちにも話さない。
ただ一言、闇は去ったと繰り返すだけ。
ということは闇の脅威が去ったとなのはたちが知ることもない。
「・・・・・・喜べないよね・・・素直に・・・・・・」
相通ずるものがあったか、ユーノとエイミィが同時に漏らした。
それが何かは知らないが、フェイトが何かを隠していることは皆が知っている。
それも重大な理由があっての事だとも。
誰にも話せない秘密があり、それを話せない理由も話せない。
個人の感情を可能な限り尊重し、優先したいと思うのはアースラのメンバーならではの感性だ。
たいていの艦の、たいていの局員は血の通わない管理局の仕事と割り切っているから、公的な手続きを重視する。
むしろ個としての独立を沈黙の中に排除しようとする傾向が強い。
フェイトが告白しない限り、彼女以外の全ての人間が今回の事件を解決したと確信することはないだろう。
1年経ち、2年が経っても誰かは闇の再来という妄想に恐怖する。
5年も経てばそろそろ人々の記憶は薄れ始め、事件は解決したと勝手に解釈してくれるかもしれない。
10年後にはこの恐怖は思い出となって美化され、日々の繁忙の中に埋没する。
しかし記録には永遠に残る。
物好きが記録の初めから終わりまでを目撃した時、風化した事件は再び芽を出すことになる。
そして人々は恐怖を繰り返すのだ。
この点ではやはり闇は永遠に滅びず、しかも世界を覆っていることになる。

 

 虚無を漂うブライトは何も感じないこの空間に懐かしさを覚えた。
五感を失っているにもかかわらず今、自分がここにいると理解できる矛盾。
この矛盾を説明する術を彼は持ち合わせていないが、表現できない心地よさを味わっているのは事実である。
光や闇の概念すら超越した世界が、彼を覆い、広がっている。
点が線となり、線が面となり、面が奥行きを生み出し、無限に広がる奥行きがいつしか時間の概念をも奪い去ってしまう。
「シェイド様」
声をかける者がいる。
「レメクだな?」
今度は意思疎通の手段を知っているシェイドは、彼女の名を淀みなく呼んだ。
「そこにいるのは・・・・・・ツィラ」
彼は周囲を取り巻く4つの存在を確認した。
「あの時、僕たちを助けてくれたのはお前たちだろう?」
4つの存在が、そうだと言った。
「僕は成すべきことを成してここに・・・・・・プラーナと一体になるために戻ってきたんだな」
ムドラには民はプラーナから生まれ、死ねばプラーナに還るという考え方がある。
この虚無がすでにプラーナの中なのか、それとも単なる死後の世界なのかはブライトには分からなかった。
「私たちの役目もこれで終わりです。シェイド様・・・・・・これからは――」
ミルカが寄り添うようにブライトに声をかけた。
(ブライト・・・・・・シェイド・・・・・・僕はどっちだったか?)
それを聞きながら、彼は混乱していた。
する必要の無い混乱だ。
「ああ・・・・・・そうだな・・・・・・」
表情があるなら、ブライトは間違いなく顔に暗い影を落としていたに違いない。
彼の口調にはまもなくプラーナに還る喜びと、プラーナに還らなければならない寂しさが混在している。
「恐れることはありません。これは安息なのですから」
イエレドは虚無に飽きたのか、早口で言った。
「みんな、兄さんを待ってたんだよ? 還る時はみんなで一緒にって」
ツィラは肉体を失い、虚無に留まり続けた今でも彼を兄と慕った。
妹であり続けたいと願っていたのかもしれない。
「還る・・・・・・・・・」
それは5人がひとつになることだ。
プラーナの中で彼らは混ざり合い、過去、失われた全てのムドラの民の命と同居することを意味する。
その先がどうなるかは誰も知らない。
「ちょっと待て」
何かを思いついたか、ブライトが声を荒げて制止した。
「ツィラ、今”待っていた”と言ったな?」
「うん、そうだよ。兄さんが戻ってくるのを――」
「ということは・・・・・・ここは・・・・・・どこなんだ?」
これに答えたのはレメクだった。
「ここは・・・どこでもありません」
「・・・・・・・・・?」
答えになっていない。
ブライトは質問を変えることにした。
「ではプラーナは? プラーナはどこに?」
「この先に――さあ、参りましょう」
ミルカが促す。
音も光もない空間には後も先も存在しない。
しかしブライトよりもずっと永く、この虚無にいるハズの4人は彼よりもこの虚無の性質が分かっている。
「・・・・・・・・・」
「シェイド様、あなたは成すべきことを成しました。何も躊躇われる必要はありません」
ブライトが何か引っかかりを感じていることを悟ったイエレドが、珍しく包み込むような優しさを伴なった口調で言った。
「分かってる。分かってるが・・・・・・少しプラーナと話がしたいと思ってね」
ブライトの言葉の意味を、誰もが理解できなかった。
プラーナと対話をする必要性はどこにもない。
ただプラーナと一体となる現実だけがあるのだから、それを無言で受け容れればいい。
「僕を連れて行ってくれ」
まだ移動する術を知らないブライトは、4人に引っ張られるようにして虚無から抜け出した。

 虚無の向こうには、もうひとつの虚無があった。
今までいた場所と違うのは、明確な巨大な存在が中央に鎮座している点だ。
5人はこの存在を前に停止した。
『レメク・・・ミルカ・・・ツィラ・・・イエレド・・・・・・』
目の前の存在が呼んだ。
(これが・・・・・・?)
巨大な存在がプラーナだと、ブライトはすぐに悟った。
彼にはこのプラーナが、とてつもなく巨大な星のように見えていた。
肉体を失った4人を生前の名で呼ぶことに意味があるのだろうか。
ブライトがそう考えていると、
『・・・・・・そして、ルーヴェライズ』
プラーナが彼の名を呼んだ。
この時、自分たちの名を呼ぶのが単なる通過儀礼だと彼はようやく解した。
「あなたがプラーナか?」
圧倒的な存在を前にしても、彼は全く怯むことなく問いかける。
プラーナは大きく頷いた・・・・・・・・・と、ブライトは感じた。
『お前の役目は終わった。ムドラの民として、お前たちは私とひとつになる』
「ああ、そのことだが」
恐れ多くも彼はプラーナの言葉を遮るように言った。
ツィラたちの意識は一斉にブライトの方に向く。
「他の・・・・・・道はないか? 還ることを拒んでいるわけじゃない。ただ、他にも道があるなら僕は・・・・・・」
「兄さん、どうしたの?」
「シェイド様・・・・・・?」
当然、4人は彼の質問の意図を理解できず動揺してしまう。
『お前の進む道はひとつだけだ』
プラーナは冷たく言い放つ。
そう言われてもブライトはすぐさまその言葉に従うつもりはなかった。
「シェイド様」
ミルカが静かに言う。
「何かお考えがあるのなら、この場で言ってください。プラーナに還ればこうして話すこともおそらく――」
「・・・・・・・・・」
ミルカはプラーナに還ることを素直に喜んでいるのだろうか。
ブライトは思った。
これはムドラの民の変えられない終末だが、結局は死んだ者同士が永遠に会えなくなることも意味する。
”ひとつになる”とはつまりブライトとミルカの区別がつかなくなる事になる、互いを認識できなくなる。
そうなる前に――。
ブライトは話すことにした。
「僕はムドラの復興しか考えずに魔導師と・・・・・・管理局と戦った」
「・・・・・・・・・」
「その末に敗れたが悔いはない。むしろお前たちを巻き込み、挙句に命を奪ってしまったことを後悔してる」
「兄さん、それは・・・・・・」
不思議なことにプラーナが全く口を挟んでこない。
ブライトの独白に耳を貸しているのか。それともそもそも聞いていないのか。
「闇を祓うために戻った時も、結果的に管理局の――魔導師の力を借りる事になった」
「はい。私たちも見ておりました」
レメクが頷く。
「僕は運命をあまり信じないが、これはもう運命だと思ってる」
イエレドが寄って来た。
「フェイト・テスタロッサのことですね?」
「!? ・・・・・・そうだ」
イエレドが彼女の名を出したことにブライトは驚いた。
4人はそれぞれに何かを考え、何かを想い、ブライトの次の言葉を待った。
が、ブライト自身も自分の考えをうまく言葉にできず無言になる。
『お前はどうしたい?』
そうなるのを待っていたようにプラーナが問うた。
「その質問はつまり、やはり別の道が用意されているのか?」
ブライトが期待を込めて問い返したが、
『お前はどうしたいのだ?』
プラーナから返答はなかった。
「・・・・・・・・・兄さん」
ツィラだけは彼がこの後、言うべきことを知っているようだった。
ブライトは数瞬のためらいの後、
「僕は彼女の――彼女たちの傍にいたい! 叶わないことだと分かっていても! でも、彼女たちの傍に――!!」
虚空に向かって叫んだ。
声は4人の間を駆け抜け、プラーナを貫き、虚無を漂った後、再びブライトの元に戻ってきた。
「できないのか? 僕は一度、蘇っている。それと同じようにもう一度! 戻ることはできないのか!?」
『それはできない。お前はすでに摂理を超えているが、死の後に訪れる運命からは誰も逃れられない』
「いや、できるハズだ! 僕はやった! 同じことをすれば――」
ブライトは死にたくないのではない。
生にすがりたいわけでもない。
消滅を恐れているのだ。
彼女と――フェイトと離れることが耐え難い苦痛なのだ。
彼の短い生涯で、特定の人間にこれほど強い感情を抱いた経験はなかった。
それが今、全て消えようとしている。
『それがお前の望むことか?』
「・・・・・・ああ、そうだ。それだけでいい。それだけで――充分だ」
4人は成り行きを見守った。
ブライトの気持ちを分かっている4人は、プラーナがどう答えるかに注目した。
『ならば戻るがいい』
意外だった。
思いの外、あっさりとプラーナは許諾した。
つい先ほどまで不可能だと言っていたプラーナが、ブライトの熱意に揺り動かされたのか。
「・・・・・・戻れるん・・・だ・・・・・・な・・・・・・?」
プラーナが強く輝いた。
『しかし戻れば、お前はお前ではなくなる』
「どういうことだ?」
『お前の記憶、人格は全て失われる。お前は自分自身すら忘れてしまう』
プラーナは淡々と語った。
(輪廻?)
レメクがふと、そういう言葉があったのを思い出した。
「それは・・・・・・生まれ変わるということですか?」
恐る恐るミルカが訊いた。
『そうだ。ルーヴェライズとしての記憶はなくなり、新たな生命としてなら戻ることができる』
特例、と言ったところか。
「つまり僕はフェイトさんを見ても、それが彼女だと分からないわけだな。彼女から見ても当然・・・・・・」
『そうなる。生まれ変わるとはそういうことだ』
選択肢は他にない。
ブライトがフェイトの傍にいる方法はこれしか無いのだ。
だが、ここでひとつ疑問が湧く。
「なら戻っても、僕は彼女の傍にいられるとは限らない。互いが互いを認識できないのであれば、すれ違っても分からないじゃないか」
記憶を失ってまで戻っても、フェイトの傍にいられないのなら意味がない。
『その心配はない』
「なぜ言い切れる?」
『運命の輪は常に廻っている』
具体性に欠ける答えだったが、ブライトは納得することにした。
彼がいかに強かろうと、プラーナには遠く及ばない。
プラーナから見れば彼も所詮はムドラの民のひとりでしかないからだ。
この全てを超越したような存在を前に、ブライトは反論の余地をほとんど与えられない。
”運命の輪”の意味は分からなかったが、プラーナが言うのなら間違いはないだろう。
彼にはこの程度の思考しかできない。
「記憶も人格もなくなると言ったが、僕という存在そのものは変わらないんだな?」
『そうだ。かの地に戻るお前は、記憶も人格も失った”お前”だ』
「なら、いい」
ブライトは安堵した。
彼の知るフェイト・テスタロッサではなくなるが、彼が彼女と再会できる未来は約束されたのた。
その時を前に、自分の記憶の中からフェイトに関するものだけを必死に拾い集めるブライト。
不意にレメクが、
「私たちも行きます」
と思いもよらない事を言った。
「もうお前たちを巻き込みたくない。僕はひとりで戻る」
ブライトが拒んだが、今度はミルカが、
「いえ、私たちの選んだ道です」
と食い下がる。
「僕に無理に付き合う必要はない。もう以前の僕とお前たちの関係じゃないんだ。お前たちはプラーナと――」
「私も兄さんといたいから・・・・・・」
ツィラはわすかにプラーナから離れた。
「――いいのか?」
「もちろんです。私たちはそのために――」
「――あなたを待っていたのです」
ミルカとイエレドが同時に言った。
この4人の感覚が、ブライトには今ひとつ分からなかった。
(僕はお前たちを死に追いやったんだぞ? それでどうして・・・こんな・・・・・・)
恨むのが普通だ。
永いこと憎悪と共に生き続けてきた彼は、4人の無私の精神が理解できない。
「そうか・・・・・・」
ブライトは深く考えないことにした。
間もなく、こうして考えることすらなくなる。
「しかし・・・・・・とうとう母に逢えなかった。それだけが心残りだ」
ブライトは急に悲しくなった。
こうして妹とは話せているのに、産みの親とは一度も会っていない。
同じ悲しみをきっとツィラも感じているだろう。
「シェイド様」
イエレドが囁いた。
「ご母堂は先にお戻りになりました」
「何だと!!?」
すでに意識しかないブライトが思わず大声で聞き返していた。
「戻った? 戻ったとは・・・・・・どういうことなんだ?」
「シェイド様と同じご決断をなさったのです」
「同じ・・・・・・? じゃあ母は・・・・・・生きているというのか?」
ブライトはプラーナに問うた。
『彼女は待っている。運命の輪はまだお前たちを繋いでいない」
相変わらずプラーナは分かりにくい答え方をする。
「お母さんね、きっと兄さんがそうする事を知ってたんだよ」
ツィラが言った。
口調は亡き母を偲んでいるようにも感じられるが、さほどの悲しさは伝わってこない。
「――お前たちもそのつもりだったんだな? だから僕を待っていたんだろう?」
ブライトの指摘に4人は笑った。
その反応から自分の考えが当たっていたことを彼は知る。
血を分けたツィラだけでなく、レメクもミルカもイエレドも、彼をよく知っていた。
彼の考え、主義、感情――それら多くを4人は敏感に感じ取る。
ひとり成すべきことを成すために戻ったブライトを、4人はそっと見守っていた。
だからこそ彼が特にフェイトにどのような感情を抱いているかを知っている。
そして、プラーナを前に彼が還るのを拒むであろうことも。
「そうか。母はプラーナに還らなかったか・・・・・・」
思い残すことはない。
何ひとつ、後悔することはないのだ。
ブライトは安らぎを覚えた。
ずいぶんと回り道をしたが、ムドラと魔導師の和平が結ばれ、それを脅かす闇を打ち倒し今、彼を慕う者と集うことができた。
「ツィラ・・・・・・」
普段の彼からは想像もできないほど穏やかな口調だ。
「また僕の妹になってくれるか? 今度はきっと・・・・・・お前を大切にする」
「兄さん・・・・・・」
2人の間に割って入るように、
「私たちは家族です。イエレドもミルカも・・・・・・」
レメクがそっと言った。
「ああ、ああ、そうだな。僕たちはずっと一緒だ。常に一緒にいよう。誰も欠けることなく――」
ブライトには展望があった。
明るい未来があった。
短い生涯の中でささやかにしか感じることができなかった幸せを。
次の世代で彼はその身に余るほど享受できるのだ。
しかも孤独ではない。
彼の周りには常に彼らがいる。
「プラーナよ。僕だけでなく、この4人も戻ることになるがいいか?」
ブライトは問うたが、彼はプラーナがどう答えても5人で戻るつもりでいた。
『いいだろう。ただしルーヴェライズ同様、お前たちも記憶と人格を失うぞ』
おそらく許すだろうと踏んでブライトはこの質問をした。
すでに母がプラーナへの帰還を拒んだのを許しているのだ。
今さら5人が戻ることを許さない理由はない。
「いいな?」
ブライトが最後の確認をとる。
「もちろんです」
「分かってる」
「構いません」
「参りましょう」
逡巡する者はいない。
儀式は終わった。
「偉大なるプラーナ。私たちはムドラの運命に背き、プラーナに還ることを拒みました。どうか、お許しを――」
レメクが精一杯の謝罪の念を示した。
しかしプラーナはそれを咎めるどころか、
『お前たちは運命に背いたのではない。”それ”こそが運命なのだ』
妙に温かみのある声で言った。
「・・・・・・・・・」
運命。
この言葉をどれほど聞いて――聞かされて――きたか。
現実は常にブライトが望む望まざるに関係なく進んでいく。
そのために優越感に浸ったこともあるし、屈辱を味わったこともある。
彼が生涯の中で最期に理解したものが運命だった。
それも単なる運命ではなく、”自分自身”の運命だ。
生きている者には――おそらくフェイトでさえ――運命という言葉は理解できても、その本質までは分からないだろう。
ましてや自分自身の運命など、絶対に理解できない。
できるハズがない。
死ぬことで初めて自分の運命が完成するのだから。
(次の僕は運命という考え方をすんなりと受け容れるだろうか?)
ブライトが思った時、目の前から厖大な量の光が押し寄せてきた。
時間の概念が存在しないこの空間にも時間が来たらしい。
5人の別れと再会の時が。
「シェイド様、先に行きます」
押し寄せる光に当てられ、イエレドが空間から弾き飛ばされた。
「お待ちしております・・・・・・」
続いてミルカが。
「しばらくのお別れですね、シェイド様。しかし私たちはすぐに再会できます――」
レメクがミルカの後を追う。
「兄さん――」
「ツィラ・・・・・・」
2人の意識は虚空を越え、虚無を駆け抜け、光の中に消えた。

 

 

 

 ムドラの少年が登山に出かけたまま消息を絶ったと、少年の両親から捜索隊に捜索の要請が入ったのが4ヶ月前。
数度に渡って付近の捜索が行われたが、少年を見つけることはできなかった。
ある日のことである。
アンヴァークラウンのとある山麓で行方不明だった登山者の遺体が発見された。
遺体は白骨化が進んでおり身元の確認はとれていないが、その骨格から15歳前後の少年のものと推測された。
不思議なことに遺体が発見された場所は数ヶ月前、すでに捜索を終えていた地帯の一部だった。
さらに調べたところ、遺体の損傷具合からして死亡時期は捜索直後という奇妙な事実が明らかとなった。
食糧もとっくに尽き、本来ならば生きているハズのない期間をこの少年は生きていたことになる。
この珍事は怪異ではあったが大きく報道されることはなく、時が経つにつれ人々――少年の両親を除いて――の記憶からは次第に薄れ、最後には消えた。

 

 

 

――3年後。

 そろそろ春の暖かさが肌に感じられるようになってきた3月。
節目が来た。
別れの寂しさと新たな出会いへの希望を抱く、最も心を揺り動かす催事。
「もうこの制服を着ることもないんだね」
胸に手を当てながら、なのはがしみじみと呟いた。
「そう・・・・・・だね・・・・・・」
フェイトも名残惜しそうに胸のリボンを何度も弄る。
初めての卒業式は少女たちに深い感慨を与えた。
学校長の挨拶も、在校生の送辞も、卒業生の送辞も、校歌の斉唱も。
これほどの別れは普通の小学生はまず味わうことのない貴重な体験だ。
「そう思うと、この風景もいつもと違って見えるね」
フェイトは空を見上げ、海を見下ろした。
どちらも碧いが、この碧さは見る者の心情によって色を変える。
「でもさ、どこか遠くに行くわけじゃないんだし、学校と制服が変わるだけなんだよね」
アリサが伸びをしながら現実的な発言をした。
彼女とは対照的に夢を見たがるすずかは、
「でももうあの校舎で勉強する事もできないね」
遠い目をして言った。
「ほんまやな。出会いと別れの季節とか言うけど、分かる気がするわ」
はやての感覚はすずかに近いらしい。
卒業式は当然のことながら卒業生とその保護者が同じ空間で行う門出の儀式だ。
多くの卒業生は保護者とともに通い慣れた道を逆に辿って帰路についているが、この5人は保護者とは別れて異なるルートを通っている。
最後の日は気心の知れた仲間で過ごせばいい、という保護者たちの配慮だ。
彼女たちはわざと遠回りをしながら、観光するかのように見飽きた風景を記憶に焼きつけていく。
「過ぎてみれば6年って、あっという間だよね」
言ってからすずかは慌てて口に手を当てた。
中途からやって来たフェイトやはやてに対する配慮だったが、当の2人は気にしていないようだ。
「そう考えたら中学での3年間も早いんちゃうか?」
足の不自由さから解放されたはやては、同時にそれまでの屋内中心の生活からも解放された。
自分の力で自由に歩きまわれる幸せは、彼女のように不自由さを経験していなければ永遠に感じることのできない喜びだ。
内から外へ。
視界の変化はそのまま心情の変化となり、はやては昼夜をまるで別世界のように見ていた。
車椅子からの低い視点は視野を狭くし、直立状態からの高い視点は視野を広げた。
手を伸ばしても届かなかった本棚の書籍は意外と低いところにあったし、路傍の草は俯瞰しなければ視界に入らなくなった。
4人ははやての歩調に合わせて穏やかな気候の中を進む。
感受性豊かな少女たちは空を見上げるたび、このまま時が止まればいいのにと願う。
どこまでも碧い空は威圧的で偉大で、しかし母のように温かく地上を抱擁してくれる。
常に今が一番楽しいと思う彼女たちは、大人が日々の生活で見向きもしない事柄にいちいち感動を覚えた。
「で、これから2週間くらい休みなわけだけど――」
中でも楽しさに関しては飽きのこない提案を続けるアリサが切り出した。
「どうする?」
こういう時は強引に遊びに誘うアリサは、珍しくまず質問から始めた。
「どこか行く・・・・・・とか?」
すずかは積極的に意見を言わない。
なのはやフェイトも同様だった。
自ら進んで意見を述べ、それが容れられなかった時に輪をかき乱すのが嫌いなのだろう。
特にすずかからすれば、アリサの全身から発せられるような発言力や行動力は尊敬に値した。
「そうだね。行き先を決めない旅行なんてどう?」
フェイトが不思議なことを言った。
「行き先を決めないでどうやって旅行するのよ?」
案の定、反射的にアリサが問うた。
「適当に切符を買って適当な列車に乗るんだ。それで適当な駅で降りる」
「あ、面白そうやな、それ」
はやてが乗ってきた。
「で、どうなるの?」
「うん? それだけだよ」
アリサの再度の質問をフェイトがさらりと躱す。
話の流れからして旅行に行くこと自体は決まったも同然だが、行き先や日時に関しては話がまとまりにくかった。
性格の異なる5人の少女が集まれば、人数分の意見が出てくる。
すずかを除いてそれぞれの考えがぶつかり合うため、妥協案にたどり着くまで数十分を要した。
が、先の見えない意見交換会は最後はなのはの、
「まだまだ時間はあるんだし、ゆっくり考えようよ」
発言でお開きとなった。
ちなみにここまでで1泊2日で収めること、温泉地以外を目的地とする条件が盛り込まれた。
日も傾きかけ、誰が言うともなしに次第に解散の兆しが見えてくる。
5人は高台の公園をはやての歩調に合わせて下り、交通量の少ないなだらかな道を行く。
その途中で。
「あ・・・・・・」
フェイトが路傍に視線をやった。
真っ先にそれに倣ったすずかは、彼女が一輪の花でも見つけたかと思った。
「おいで」
フェイトがその場に屈み、手の平を上に向けてそっと差し出した。
路傍で震えていたそれが、吸い寄せられるようにフェイトの元にやって来た。
「ミィ・・・・・・」
薄茶色の被毛をした仔猫だった。
「かわいい――」
すずかが微笑んだ。
「人に慣れてるみたいやけど、もしかして捨てられたんやろか・・・・・・」
はやてもその場に屈み、フェイトと同じように手を差し出した。
しかし仔猫はふいっとそっぽを向くと、フェイトの手首あたりに頭をすりつけた。
「あらら、嫌われちゃったね」
アリサが笑った。
そういう彼女も何とか仔猫に好かれようと試みるが、やはり仔猫はフェイトから離れようとはしなかった。
「あれ、この仔?」
なのはが何かに気付き、仔猫の後ろに回った。
「やっぱり・・・・・・足、怪我してる」
「そうなの?」
アリサがなのはの示した先を見ると、仔猫の後ろ足に切り傷があった。
流れ出た血が被毛に絡まったまま凝固している。
「病院に連れて行ってあげようよ」
そう言ってなのはが仔猫を抱き上げようとした。
しかし後ろから、しかも不意に触れられたことで仔猫は小さな牙を剥いて暴れた。
「そうじゃないよ、なのはちゃん。こういう時はね――」
猫の扱いには慣れているすずかが、音を立てないように仔猫と目線の高さを合わせた。
「あまりじっと目を見ちゃ駄目なんだよ。猫にとってはケンカの合図になるから――」
すずかは両手を地面すれすれで開き、誘うように指を小さく曲げた。
「みぅ・・・・・・」
「あら・・・・・・?」
彼女にとっては残念なことに、仔猫はその脇をすり抜けてフェイトに寄り添うようにもたれた。
そこでフェイトが両手を差し出すと、仔猫は何のためらいもなくその中へ。
「フェイトになついてるみたいね」
アリサが少しつまらなさそうに言った。
仔猫を抱き上げたフェイトは、手の中で震える小さな体を愛おしく思った。

 この後、5人は仔猫を槙原動物病院に連れて行った。
緊急ということですぐに診察をしてくれたが、深刻なものではないという。
院長によれば他の野良猫とのケンカでできた傷らしく、患部を洗浄消毒するだけで診療は済んだ。
念のために入院したほうが良かったのだが、折り悪く院内は満床だった。
「どなたか、1日だけ預かってくれれば」
という院長の言葉にアリサはすずか宅を勧めたが、これはすずか自身が断った。
彼女の邸宅にはすでに多くの猫がいるため、負傷した仔猫が療養するには不向きだと思ったからだ。
そこでフェイトが名乗りをあげた。
元々、この仔猫はなぜか彼女にだけ懐いていたし、ここに連れてきたのも彼女だ。
療養のための安心できる環境を提供できる。
なのはもはやても納得してくれた。

 夜。
フェイトは緊張と照れの狭間に苦しみながら、リンディと向かい合った。
「あの・・・・・・母さん・・・・・・」
この呼び方にはまだ違和を感じる。
心根ではもうほとんどリンディを母親として認識しているが、それを言葉に出すことにはまだためらいがあった。
というより、まだ自分にはそんな資格は無い、とさえフェイトは思っている。
必要以上に自虐的になるのは、彼女の幼い頃の体験がそうさせる。
あの時は”本当の母”の一方的で、あまりにも身勝手な理由による虐待だった。
だが今は――。
今は少し違う。
彼女がリンディに対して負う精神的な問題は、誰でもない彼女自身が原因となっていた。
闇の襲撃事件が表面上、解決したと発表された翌日。
リンディはアースラの艦長ではなくなった。
リンディ自身が艦長職を辞任したことになっているが、本部からの圧力があったのではと実しやかに囁かれている。
確かに彼女――アースラ――には功罪が多かった。
魔導師とムドラとの和平の礎を築いたのは功績だ。
それに伴ない、ジュエルシードを回収したことも認められる。
離反したなのはを再び連れ戻したのも功績だ。
しかし。
なのはが離反し、多くの局員と艦を失うに至ったのは罪だ。
アースラメンバーの一部が闇について核心に迫る部分を知っておきながら、それを報告しなかったのは罪だ。
そしてその当事者が、今も尋問に対して黙秘しているのも罪だ。
リンディはこれら功罪をひとりで被り、結果として艦長職を退いた。
フェイトはそれが自分のせいだと思っている。
闇について、ブライトについて何もかも吐露することができれば、リンディの罪も少しは軽くなる。
むしろ最前線で闇の脅威を祓ったことで賞賛されるかもしれない。
だが、それは――。
できなかった。
フェイトとブライトの間にある、きわめて個人的で自分勝手な理由によって。
彼女は堅い口をさらに堅くして、頑としてそれを語ろうとはしない。
「どうしたの?」
彼女の新しい母は、柔和な顔を新しい娘に向けた。
「あの、急な話でその・・・・・・もっとよく考えなくちゃいけないんですけど・・・・・・」
「いいわよ、言って?」
話を持ちかけられるのは嬉しいが、言葉遣いがよそよそしいのは悲しい。
本来、娘が母に話すときの口調はこうではないハズだ。
「仔猫を・・・・・・仔猫がいるんです」
まるで面談のように、フェイトは一語にも気を遣いながら話した。
「仔猫?」
「はい。今日、帰り道で見つけたんです。足を怪我してて・・・・・・」
「病院に連れて行ってあげたのね?」
「・・・・・・はい。あ、最初に病院に連れて行こうって言ったのは、なのはですけど」
「うん」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
2人の会話は妙なところで途切れる。
秒針の音がやけに大きく聞こえてくるのはこういう場合、どちらにとっても苦痛だった。
「それで、その仔を・・・・・・うちで・・・・・・」
フェイトが口を開いた時、
「みぅ・・・・・・」
と、小さな小さな声で鳴いた仔猫が、いつの間にかリンディの足元にすり寄ってきていた。
「ああ、この仔なのね」
フェイトに懐いた仔猫は、リンディに対しても特別な警戒は抱いていないようだ。
このタイミングでやって来たところを見ると、この仔猫は次にフェイトが言うべき言葉を後押ししているようにも思える。
「その仔をうちで飼いたいと思うんですけど・・・・・・」
彼女は淀みなく言った。
しかし語尾はしぼみ、かなり下から許可を得る恰好となっている。
彼女がなぜこう考えるようになったのか、本人もよく分かっていない。
懐いてきた仔猫が怪我をしており病院に連れて行ったまでは縁かもしれないが、なぜか飼いたいという意思が湧いた。
彼女の性格上、見捨てることはできなかったとしても、里親を探すなどの方法もとれたハズだ。
しかしフェイトはこの仔猫に魅了された。
一緒にいたい、と強く思うようになった。
彼女はこれをリンディと1対1で話したかったため、アルフが買い出しに行った隙を縫ってこの話題を持ちかけている。
「そうね・・・・・・」
リンディは目の前のフェイトから視線をはずし、足元をうろつく仔猫を見やった。
後ろ足の包帯が痛々しいが、仕草だけ見れば活発そうな性格であると分かる。
「あなたはどうかしら? うちで一緒に暮らす?」
「み・・・・・・」
リンディの問いかけに仔猫は小さく返事した。
「ふふ、可愛いわね」
というリンディの反応に、フェイトは少し手ごたえを感じた。
リンディが動物嫌いなら、これはどう説得しても叶いそうにない。
しかし仔猫とたわむれるリンディからは動物への嫌悪は微塵も感じられない。
「あの駄目でしょうか? その仔を飼うのは・・・・・・」
この機しかないと確信し、フェイトが再度尋ねる。
リンディは軽く息を吐くと、
「駄目よ」
と言った。
瞬間、人語を解したように仔猫がリンディから離れた。
「”飼う”のは駄目」
リンディはもう一度言った。
「そう・・・ですよね・・・・・・やっぱり駄目ですよね・・・・・・」
五分五分だと踏んでいたフェイトは落胆した。
ここではひとまず一晩だけ預かり、翌日にはもう一度動物病院に連れて行くと言わなければならない。
「あの・・・病院がいっぱいだったから、今夜だけうちで預かることになったんです。だから明日には――」
「明日、フードとか揃えなくちゃいけないわね」
リンディがさらりと言った。
「はい・・・・・・?」
見当違いの言葉にフェイトは思わず情けない声を出してしまう。
「だって必要でしょ? この仔、まだ小さいからとりあえず仔猫用でいいかしら? ・・・・・・あ、でも体が小さいだけで歳が分からないわね・・・・・・」
分からないのはフェイトのほうだった。
「ペットシーツとかも要るわよね・・・・・・ワクチンの接種もしないと・・・・・・・その前に役所に届け出るのが先・・・・・・」
「あ、あの・・・・・・!」
「どうしたの?」
リンディは何事も無いように聞き返してくる。
この仕草がフェイトをさらに混乱させた。
「あの、さっき飼うのは駄目だって・・・・・・」
「ええ、駄目よ」
「でもフードがどうとかって・・・・・・」
フェイトには分からなかった。
リンディの意図が。
彼女が本気なのか、冗談を言っているのか。
リンディは諭すように言う。
「”飼う”んじゃないの。この仔と一緒に暮らすのよ。ペットとしてではなく、家族としてね」
「・・・・・・・・・ッ!!」
その一言でフェイトは、リンディが言いたい事のほとんど全てを理解した。
確認をとるようにリンディが続ける。
「みんな同じ命なのよ。それを”飼う”とか”飼われる”なんて言うのはおかしいわ。命は平等だから」
フェイトが思ったとおり、リンディは動物が好きなようだ。
突き詰めれば、彼女はおそらく”動物”という表現方法にも嫌悪するかもしれない。
彼女が命について哲学的な見解を持っていることは充分に分かったが、フェイトにしてみれば許可を得ただけで満足だった。
「あなたも今日から家族の一員よ」
再び寄って来た仔猫を、リンディはそっと抱き上げた。
仔猫は嬉しそうに喉を鳴らした。

 

「そっか、あの仔猫、フェイトちゃん家で飼うことにしたんだ」
すずかは少し残念そうに言った。
やはり猫のことになると、人一倍敏感になってしまうらしい。
「うん・・・・・・」
リンディの影響もあってか、”飼う”という言葉に後味の悪さを覚えたフェイトは曖昧な答え方をした。
「名前は?」
問うたのはアリサだ。
「まだ決めてないんだ。名前は・・・・・・いろいろと候補があるけど、この仔、女の子だから。似合う名前がいいんだけど」
「タマとか?」
「・・・・・・タマ?」
「・・・・・・・・・」
タマという猫の名前を、フェイトは漫画でしか見たことがない。
無理に日本の慣習にあてはめる必要はなく、フェイトはミッドチルダの言語での命名を考えていた。
名前がこの世界に生きる人間にとって、どれほど重要であるかは説明するまでもない。
人間が生きるためにはまず名前が必要であり、それを持つ事によって初めて他の人間に認識してもらうことができる。
フェイトは”名前”の持つ意味を厭というほど思い知らされてきた。
だから彼女は、あの仔猫に一生つきまとう名前を真剣に考えた。
彼女のつける名は――おそらく仔猫の生涯にまで影響を与えうる力を持っている。
決して安易に考えてはいけない、とフェイトは自分に何度も言い聞かせた。

 

「おいで、ステア」
「ミィ・・・・・・」
仔猫はステアと名づけられ、フェイトの愛を一身に受けた。
3日も経つと仔猫も新しい環境に慣れ、猫特有の愛くるしい仕草を随所に見せながらフェイトにすり寄る。
足の傷はすっかり治っており、ステアは嬉しそうにフェイトの周りをぐるぐると回った。
「そうしてるのを見ると、ずっと前からいるみたいね」
役所での手続きを済ませたリンディが、書類をテーブルに置いてステアを手招きした。
ステアはフェイトの元を離れると、足音を立てずに跳躍しリンディの胸元に飛びついた。
「ふふ・・・・・・かわいいわね」
全身で甘えてくるステアを、リンディは何度も何度も愛撫した。
”ステア”は”明日への希望”を意味するミッドチルダの古語だ。
生後1年と獣医師に判断されたステアが、末永く幸せに生きるようにとのフェイトの願いが込められている。
予防接種等の必要な事は全て済ませ、フェイトは春休みの多くをステアと過ごすことに決めた。
1週間後にはなのはたちと小旅行に出かけることが決まっている。
行き先ははやての希望で、九州にあるオランダの街並みを切り取ったような観光地となった。
残念ながらステアは連れては行けないため、2泊3日間の短い別れとなる。
「・・・・・・・・・」
ステアはいつの間にか、またフェイトの元へ移っていた。
「・・・・・・・・・」
リンディはステアではなく、ステアを可愛がるフェイトを見ていた。
この少女を見ていると、なぜか命の尊さや死の意味について考えたくなる。
大人になってもなお明確な答えを出せない哲学的な難問を、リンディはこれまで意識的に避けてきたような気がした。
生と死については過去、あらゆる種族、あらゆる民族が宗教を中心として考察してきた。
無数の捉え方が歴史を通じて生まれてきたが、そのどれもが正しいとも間違っているとも言えない。
「ミュウ・・・」
濡れた瞳でステアを撫でるフェイトは、少なくとも生か死のどちらかを理解しているのではないか、とリンディは思う。
12歳にもなればそれは当然のことなのだが、リンディが考えているのは単なる言葉ではなく”本質”のほうだ。
でなければ少女の口から”ステア”という単語が出てくるハズがない。
明日への希望を意味する”ステア”はミッドチルダの古語の中でも、ごく一部の地域でしか使われていない言葉だ。
それをフェイトが元々知っていたのか、それとも名づけのために調べたのは定かではないが、彼女はあえてその意味の名をつけた。
この年頃では逞(たくま)しさや可愛さに主眼をおいて命名するのが普通だ。
ステアがフェイトの頬を舐めた。
「ふふ・・・・・・分かったよ、ステア。ちょっと待ってて。すぐにご飯の用意するから」
ステアの世話はほとんどフェイトがしていた。
リンディは役所への届出等、煩雑な手続きを担当する。
もちろん家族と言った以上、リンディもステアの面倒を見る義務がある。
だがフェイトが、
「この仔の世話は私が」
と事あるごとに言うため、結局リンディは少し離れたところで見守るという立場になった。

 

 この頃、時空管理局は定例会見において、闇の脅威は去ったと正式に発表した。
この発表を疑問視する声に対し、管理局本部はその根拠を示した。
影の最後の襲撃から3年以上が経過しており、今後の襲撃を予想することは困難で、実質的に闇の脅威は去ったと認識して差し支えないため。
事件に深く関わる参考人の証言からも、闇の消滅を示唆する内容が多数寄せられたこと。
という2点をを根拠に挙げた。
が、反論の声は予想に反して大きかった。
管理局発足当時から取材を続ける記者や識者の中には、
「そもそもアースラ内の不審な動きと不祥事の数々が、事件を長引かせたのではないか?」
と指摘する者が多かった。
これに対して管理局は、リンディ提督を退役させたことで不祥事に対する責任はとった、としている。
世論の反発は強かったが、管理局はあくまで闇の脅威が去ったことを繰り返し表明した。
この発表には内部でも意見が分かれ、発表の撤回を要求する者たちまで現れるようになった。
反対派と呼ばれた彼らの多くは、影に命を奪われた局員の知人や上司、部下で構成されていた。
これに対して闇の消滅を信じる者は肯定派と言われ、局長を中心にその数は管理局の大部分を占めた。
なのは、ユーノ、アルフは最後までフェイトを信じるとして肯定派へ。
クロノは立場上、肯定派に組み入れられていたが、彼自身はやや反対派に傾いていた。
僻地で別の任務に当たっていたために深く関わっていないはやて及びヴォルケンリッターは、中立という曖昧な位置をとった。
リンディはもちろん肯定派へ。エイミィもそれに追従する恰好で肯定派に回った。
どちらの考え方にしても、常にその中心にいるフェイトはしばしば召喚されることになる。
肯定派はより確証を得るために尋問を続けたし、反対派はフェイトから闇の存命の可能性のある発言を引き出そうとする。
フェイトは疲れた。
原因は自分にあるのだが、ここまで長引くとも思っていなかったのだ。
管理局の発表はありがたかったが、それが新たな議論の種になっていることがフェイトには心苦しい。
この議論はまだまだ終わらない。
いずれは全員が納得――つまりは諦めて――して闇の消滅を認めてもらうしかない。
成り行きまかせだがフェイトが真実を黙秘する以上、こればかりは風化を待つしかないのだ。
フェイトは疲れていた。
今の彼女にとっては、かつてブライトが言った、
『人間は忘れる生き物だ』
だけが心の支えとなっていた。
苦しみから逃れるにはこの言葉を信じて生きていくしかないが、これを肯定すると、
”フェイトもやがてシェイドの存在を忘れる”
ことをも肯定してしまう。
フェイトは苦しんだ。
彼女が何か、心に痛みを覚えるたびにステアは彼女にすり寄り、全身で慰めようとする。
フェイトの愛を受けたステアは、他者の心の微動に敏感になっていた。

 

 

 

 

 1ヵ月後。

ようやく中学での生活に慣れたフェイトは、帰宅するなり動揺するリンディに肩をつかまれた。
「母さん・・・・・・?」
リンディは判断つきかねる事柄に出くわしたか、いつもの優雅さを伴なった落ち着きはなく、
「大変なのよ!」
という言葉を3度ほど繰り返した。
「何か・・・・・・何かあったんですか?」
そう訊くしかなかった。
動転しているリンディからは何があったのかをまだ聞いていない。
「ステアが大変なの!」
フェイトは靴を乱暴に脱ぎ捨て、ステアのいる部屋へ駆けた。
「ステアッ!?」
飛び込むなりフェイトは叫んだが、ここは大声を出すべきではなかった。
設えられた寝床で、ステアは小さくなっていた。
後ろ足と尾をいっぱいまで丸めて、上目づかいにフェイトを見ている。
小さくなっているのは姿勢であって、実際ステアの体自体は大きくなっている。
「・・・・・・急に元気がなくなったような気がして、見てみたら・・・・・・」
後からリンディが部屋に入ってきて言った。
フェイトはそれには答えずひざまずき、そっとステアに触れた。
「これって・・・・・・?」
腹部が膨らんでいる。
適度に運動させていたから肥満ではない。
膨らみは下腹部を中心としており、ステアはまるでこれを隠すようにうずくまっていた。
「信じられないけど・・・・・・とにかく病院に連れて行きます」
フェイトは不可解そうな顔をすると、部屋の奥からケージを取り出した。
ステアは特にフェイトに懐いているため、ケージに誘導するのは彼女のほうが手際がよかった。
「私も行くわ」
リンディは手早く着替えると、壁にかけてある鍵を手に取る。
どうやらリンディはステアを病院に連れて行く考えがあったらしいが、ひとまずフェイトの帰宅を待っていたようだった。
しかしフェイトの帰宅が思いのほか遅く、時間とともに憔悴している様子のステアに気が動転したのだろう。
不思議なことにこの間、ステアは全く鳴かなかった。
フェイトは疑問を抱きつつも、槙原動物病院へと急ぐ。
が、状態が状態だけに走るわけにもいかず、2人はステアに負担にならないよう細心の注意を払った。

「先生、どうでしょうか?」
腰の高さほどの診察台に横たわるステアを見て、リンディが問うた。
「心配することはありません。この仔は妊娠しています・・・・・・」
獣医師が静かに告げる。
予想はしていた2人はさほど驚かなかったが、どうしても理解できない点があった。
「そんなハズは・・・・・・この仔はその、オス猫と接していないんです」
ええ、と獣医師は頷いた。
「この仔は1ヵ月前に怪我をしていて当院で診察を受けていますね。たしかあの時もあなたが――」
「はい」
フェイトは頷いた。
「あの後、うちで飼うことになったんです」
「そうでしたか」
獣医師は再度、ステアを触診した。
「・・・・・・・・・」
レントゲン写真とステアを見比べながら、獣医師は難しい顔をする。
「お尋ねしますが、今日まで一度もオス猫と接してはいないんですよね?」
突然に問われリンディは虚を衝かれたように、
「え、ええ。外に連れ出す時もリード(紐)をつけて私が見ていましたから間違いありません」
「そうですか・・・・・・」
獣医師は小さくうなった。
こういう表情をされると、患者は不安になる。
フェイトの視線に気付いた獣医師はパッと顔をあげて言った。
「猫は普通、交配から60日前後で出産しますから、この状況では飼われる以前に交配したと考えるのが自然なんです」
「ええ・・・・・・つまり私が見つける前に、ということですよね?」
「そうです。でもこの仔の場合は・・・・・・」
獣医師は言葉を切った。
どうせなら一気に喋ってくれ、とリンディは思った。
ステアに何があったのかは素人の自分たちでは分からない。
ここでは獣医師に全てを委ねる他ないが、だからこそこの獣医師が時折見せる不安げな顔が、リンディたちにそのまま伝わってしまう。
「1ヶ月前に怪我の様子を見た時、念のためにレントゲン写真も撮りました。その時には妊娠の様子は見られなかったのです」