滄の向こう(菊地真篇)

 

 潮風が気持ちいい。
日向ぼっこもいいけど、ボクとしてはせっかくの海だから泳ぎまくりたい。
泳ぎに特別自信があるわけじゃないけど、765プロの中では一番か二番だと思ってる。
スポーツ系の仕事が最近多くなってきたけど、陸上競技が中心で海やプールは滅多にない。
今回も仕事でここに来たけど、内容はインタビューとグラビア撮影だ。
気持ちいいんだけどなあ……。
水着姿で泳ぎもしないでカメラの前でポーズだけ、っていうのもちょっと退屈かもしれない。
後でプロデューサーに言ってみよう。
どうせなら泳いでるところも撮ってほしいって。
とか考えながらホテルに向かっていて、ふと思い出したことがある。
「ねえ、2人とも。結局、宝物って何だったの?」
「ふえっ!?」
もう訊かれないと思って油断していたのか、雪歩がヘンな声を出した。
隣を見るとやよいもそわそわしてる。
「ヒントだけでもいいから教えてよ」
「ダメだよぅ、やよいちゃんとの約束だもん」
「じゃあ、やよい!」
「それはちょっと言えないかなーって……」
どうやら本当に2人だけの秘密みたい。
だけど、そうなるとなおさら知りたくなってしまう。
ナントカ効果って言うんだよね、たしか。
「気になるなあ……ねえ、響もそう思うでしょ?」
僕の少し後ろを歩いていた響を振り返る。
何か考えごとをしていたみたいで俯いていたけど、
「え? ごめん、聞いてなかった……」
ボクの声に慌てて顔を上げる。
「宝物のこと。雪歩もやよいも教えてくれないんだよ? 響も気になるよね!」
「あ、うん、うん……そうだな!」
取り繕うように笑う響を見て、考えごとの邪魔しちゃったかなと反省する。
楽天的に見えるけど根が真面目な響のことだから、明日の仕事のことでも考えていたのかもしれない。
「私だって、ひと夏の思い出が気になるよぅ」
なんて雪歩が言うから、
「お互い様だよ」
と返しておいた。
宝物なんて実はいっぱいあるんだよね。
言葉で聞くと箱の中に入ってる金銀財宝をイメージしちゃうけど。
きっと目に見えない、もしかしたら耳にも聞こえないようなものがあると思う。
なんて考えながら歩いていたら、あっという間にホテルに着いた。
「晩ご飯まではまだ少し時間がありますよ?」
やよいがロビーの時計を指差した。
走り回ったり、歌ったりしたおかげでお腹が空いてたけど、もう少しガマンかな。
「とりあえず部屋に荷物を置いて――どっちかの部屋に集まろうか?」
ロビーにいても仕方がないからそう提案する。
部屋はダブルでボクと響、雪歩とやよいの組み合わせになっていた。
といっても日中は4人で行動するし、寝る時だけの部屋割りってあまり意味がない気がする。
「じゃあ私たちが真ちゃんたちの部屋に行くね」
「あ、それじゃあゲームしませんか?」
「ゲーム?」
「先に荷物を片付けて明日の用意をした方が、もう片方の部屋に行くんです。先に終わらせた方が勝ちです」
エレベータを待っている間、そんなやりとりをする。
やよいにとってはゲームなんだろうなあ、と思いながら。
僕はそれをしっかり“競争”と受け取っていた。
しばらくして、やって来たエレベータに乗り込む。
目的階のボタンを押そうとしたところで響が乗っていないのに気付く。
見るとホールの壁に背をあずけて何か考えているようだった。
「おーい、ひびきー?」
呼びかけるとすぐに気付いて慌てて乗ってくる。
「あ、ごめん!」
「………………?」
響、なんかさっきからボーッとしてない?
海にいた時はこんな感じじゃなかったと思うけど……。
肩越しに振り返ると、雪歩とやよいも何か感じてるみたいだった。
ボクたちが泊まる部屋は9階。
ここしか空いてなかったってプロデューサーは言ってたけど、あの人なりに気を遣ってくれたんだと思う。
高層階なら見晴らしもいいし。
気を遣ってくれたプロデューサーのためにも、明日の仕事はがんばらなくちゃね。
……普段、がんばってないって意味じゃないよ?
今まで以上に、って意味で。
「じゃあ、行くよ?」
それぞれの部屋の前まで来たところでゲームスタート。
どっちが先に片づけを準備を終えられるか。
なんでもゲーム感覚でするのは楽しい。
面倒なこととか難しいことが少し楽しくなるからね。
ボクはついつい熱くなっちゃうけど……。
今だって部屋に入るなり、響と競争している。
なんだか響が相手だと、どんなことでも負けたくないって気持ちになるんだよね。
勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。
でもどっちになっても嬉しい。
「それにしても、もうちょっと小さめのカバンでもよかったかなあ……」
後悔先に立たず、って上手い言葉だと思う。
荷造りの時にあれも要るだろう、これも要るかもしれないと考えているうちに荷物が増えてしまった。
結局、遠征にでも行くみたいな重量になったけど、これはこれで体が鍛えられていいかもしれない。
「自分はもう終わったぞー!」
と、悪戦苦闘しているうちに響が言う。
「ええ!? もう終わったの?」
見て納得。
響のカバンはボクのより二回りくらい小さい。
よくあんなのに収まるなあ、って思ってたら、
「ふふん! これで2連勝だな!」
なんて響がしたり顔で言う。
悔しいけどここは負けか……ん?
「あれ、響? ベッドの下に何かあるよ?」
「ん……ベッドの下? あっ!」
響が屈んで取り出したのは、もうひとつの小さなカバン。
口が開いていて充電器やらドライヤーやらが顔を出している。
ということは、これはつまり……。
ゆっくりと顔を上げた響と目が合う。
分かってるよね?
そんな顔で響を見る。
「ううー、これさえなければ自分の勝ちだったのに……」
「へへ、油断したね!」
こういうアクシデントがあるから勝負って面白い。
っていうのは大袈裟だけど、競争心ってアイドルとして成功するのにけっこう重要だと思う。
特にトップアイドルを目指すならなおさら。
「あ、こっちも同じ間取りなんだね」
そうこうしているうちに雪歩とやよいがやって来た。
「あー、やっぱり雪歩たちの方が早かったか〜……」
二人とも手際が良さそうだし、そもそも片付けるようなものも無かったかもしれないね。
「やったね、やよいちゃん。私たちの勝ちだよ?」
「うっうー! やりましたー!」
こういう時、やよいは全身で喜びを表現する。
いつも元気いっぱいだね。
「早かったね」
「うん、打ち合わせの資料も多くて時間かかっちゃったけど」
明日は撮影よりもインタビューに重点を置いているらしい。
かなり突っ込んだ質問もされると思うけど、ちゃんと答えられるかな。
できれば雪歩のためにインタビュアーは女性にしてほしいかも。
最近はちょっとずつ克服していってるけど、やっぱり不安だし……。
「ところで何をするんですか?」
やよいに言われて気付く。
部屋に集まったのはいいけど、これといってすることがない。
場所は一緒だけど仕事の内容はそれぞれちょっとずつ違うから、読み合わせもあまり意味がなさそう。
「そうだね……」
夕食にはまだ早いし――部屋にあるのは……聖書とパズルくらいか。
「さっきの続きでも、する?」
そう言って雪歩がトランプを出してくれた。
これを作った人ってすごいと思う。
いろんなゲームができるし、手品にも使えるし。
シャッフルとか流れるような手つきでできたらカッコイイよね。
ボクはヒンズーシャッフル(だっけ?)しかできないけど。
雪歩の提案でとりあえずババ抜きをすることになった。
トランプって遊び方はいっぱいあるけど、他のルールはあまり知らないなあ。
神経衰弱とかスピードとか……他にはどんなのがあるんだろ。
「じゃあ、やろっか」
そういえば電車の中でやったときは、響の十連敗だったんだよね。
やよいもけっこう顔に出るほうだけど、そういう意味で二人は似てる気がする。
いつも明るくて元気で、暗い雰囲気も吹き飛ばしちゃうような感じ。
たまに落ち込んだりした時も、そんな二人を見るとヘコんでたのがバカらしくなるくらいだ。
「はい、響さんの番ですよ!」
順番が回り、やよいが扇状に広げたカードを響に向ける。
「うーん…………」
響ってわりと負けず嫌いだから、さっきのリベンジを、って考えてるんだろうなあ。
「さーて、どれにしようかな……」
ここから見るとやよいの持ってるカード、一番左だけちょっとはみ出してる気がする。
あれがババかな。
もしかしたら、やよいの引っ掛けかもしれない。
何にしても響が引いたら、次はボクの番だからここは響の表情を観察する。
もしババを取ったら絶対に顔に出るからね。
悪いけど、勝負は勝負、ボクは手加減なんてしないよ。
「………………」
おかしいって思ったのは一瞬だけ。
でもその一瞬の後で、響から表情が消えた。
その後、響は真ん中のカードを引いた。
表情は――変わらなかった。
ババじゃなくて安心したわけでも、ババを引いて慌てたわけでもなかった。
何の反応もしなかった。
ただ、機械的に今度はカードをボクに向けるから。
「ん〜……どれにしようか……」
とか言いながらカードの上に置いた指を順番に滑らせていく。
指がババの上に来たところで表情が変わるハズ……と思って試したけど、やっぱり変化はない。
ってことは響は持ってないのか。
じゃあどれを選んでもいいや。
「あれ…………?」
つい声を出してしまう。
適当に引いたカードはジョーカーだった。
ボクを出し抜いたから、さぞや喜んでいるだろうと思って顔を上げて見る。
響…………?
やっぱりヘンだった。
彼女は感情表現が豊かで、喜ぶときは全力で喜ぶし、悲しむときは見ていられないくらい悲しむ。
たかがトランプゲームでさえ、それを隠せない響だったのに。
響はポーカーフェイスができないって笑ったけど、なんだか今の響は見たくなかった。
だってどう見ても、感情をどこかに置いてきたような顔だったから。
駆け引きをしている様子じゃない。
そういえば少し前から様子がおかしかったけど……。





ゲームは4回目で終わった。
雪歩が気を利かせて、そろそろ休憩にしようって言ってくれた。
たぶん何か感じてるんだと思う。
さっきだって響はやよいに言われるまで、ずっとカードを持っていた。
「響ちゃん、すごいね」
響は一度も敗けなかった。
ゲーム中、ずっと何かを考えてるみたいに俯き加減でボクたちが先を促すことが何回かあった。
「自分、完璧だからな!」
なんていつもの調子で言うけど、いつもと違うことはみんな気付いてる。
そのとき携帯の着信音が鳴った。
きっとプロデューサーから雪歩宛てのメールだろう。
今回の仕事では雪歩が連絡役を務めていた。
どうせ同じ内容なら一斉送信してもよさそうなのに、そうしないのはプロデューサーの考えがあるらしい。
「あ、プロデューサー、少し遅れるって」
雪歩が受信メールを見せてくれた。
急な用事が入ったから、それを済ませてからこっちに来るらしい。
「そっか……プロデューサーも忙しいんだし仕方ないね」
仕事が増えればそれだけボクたちもアイドルとして成長できるのはいいけど、
そうなるとプロデューサーがもっと忙しくなるから、それはそれで心配だな。
ボクたちもできることは自分でやらなくちゃいけないな。
「じゃあ、まだ時間あるよね。ちょっと出てきてもいいかな」
響が弾んだ声で言って立ちあがった。
まるでこうなるのを待っていたみたいだ。
「え……う、うん」
ちょっとビックリした様子で雪歩が頷く。
「響さん、どこに行くんですか?」
「お土産見に行くの? それならボクたちも――」
一緒に行こう、と誘おうとしたけど、
「ううん、ちょっと海を見てくるだけ! それだけだから!」
響は逃げるように部屋を出て行ってしまった。
「あ…………!」
慌てて追いかけようとしたけど、なぜか体が動かなかった。
ちょっと海を見てくるだけ、って言ってたけど……。
そこに“ひとりで行きたい”っていう意味があるんじゃないかと思うと、足が竦んでしまう。
「響さん、どうしたんでしょう……?」
やよいが不安そうな顔でボクを見た。
「うん…………」
分からないからボクも曖昧に頷くしかない。
「響ちゃん、なんだか様子がおかしかったような――」
こういう気持ちって、けっこう周りに伝わっちゃうんだよね。
せめてボクだけは平気そうな顔をしていないと……って思うんだけど。
「なにかあったの?」
雪歩に訊かれて返事に困る。
「ここに着いた時はいつもの響だったと思うけど……」
思い返してみる。
電車の中でトランプして、海が見えたから約束どおりお昼を食べて……。
海まで競走したのはいいけど、もうちょっと女の子らしいことをしよう、ってことになって。
ボクが歌って、女の子にナンパされて、その後で響が歌って。
それから雪歩たちと合流してホテルに戻ってきた。
「真さん……?」
「ホテルに着いてから、かな……」
思い当たることがなかった。
キッカケになるような出来事もなかった、と思う。
「あの、もしかして体調が悪いんじゃないでしょうか?」
どうしてそう考えなかったんだろう。
海で遊び過ぎて疲れが出た、なんて真っ先に考えそうなことなのに。
「なら早く連れ戻さないと!」
明日の仕事のこともあるし、休ませないといけない。
「ちょっと待って!」
そう思って出て行こうとしたボクを雪歩が止めた。
「違う……と思う」
すごく弱々しい口調だけど、確信があるみたいに雪歩が言う。
「響ちゃん、本当に海が見たいのかも」
「どうして?」
「分からない、けど……ホテルに戻る時も元気がなかったから……」
もう海が見られなくなるから元気がなくなった、っていうのが雪歩の考えらしい。
でもそれなら、明日だって見られるじゃないか。
海くらい別に……。
「………………」
とは思ったけど、そう言われるとためらってしまう。
一緒に行動してるけど、四六時中べったりってことじゃないから、ひとりでいたいのなら、
それを邪魔するのは良くないっていうのは当然だ。
事情もあるだろうし。
それは分かってる。
分かってるけど……。
なんか心配なんだよなあ――。
「うん…………」
でも、こうやって不安に思うこと自体、響を信用してないってことなんじゃないかって。
雪歩に言われたこともあって、何もしないほうがいいんじゃないかとも思えてきたりして。
「そうだね、響もひとりになりたい時もあるだろうし――」
本当にそれでいいのか、って思いながらボクたちは待つことにした。
プロデューサーの到着まではまだ時間があるから、明日の仕事の内容に目を通すのもよかったけど、
せっかく部屋に集まったからということで、いろいろ話をすることにした。
最近は少しずつ仕事が増えてきたから、みんな揃って――という時間も少なくなってきた。
前は事務所には常に誰かがいたけど、全員が現場にいるってケースも珍しくない。
嬉しいことだけど、ちょっとだけ寂しくも思うかな。
だからこうやって話ができるのは嬉しい。
みんながどこでどんなことしてるか分かるしね。

 

「それで響さんと一緒にお買い物に行ったんですよ! 弟たちもすっごく喜んでました!」
「へえ、賑やかそうだね」
「はい! それに響さん、お料理がとっても上手なんです。この前も冷蔵庫の中身で――」
「そうなんだ! それじゃあ、今度はボクもお邪魔しようかな」
「あ、私も……!」
「真さんも雪歩さんも、ぜひ来てください! みんなでもやし祭りしましょう!」
やよいは少し忙しくなったことで、弟たちの面倒を見る時間が減ってしまったらしい。
そこで遊びに行ったことのある響や伊織が、暇を見つけて簡単な手伝いをしているそうだ。
兄弟がたくさんいるのは楽しそうだけど、下の子ばかりだから苦労も多いみたい。
響たちは面識もあるし兄弟もよく懐いているから、助かってるんだって。
伊織はなんだかんだで優しいし、響も面倒見が良いのは普段を見ていると分かる。
ボクも何かのかたちでやよいに協力できないかな。

「小っちゃい犬もダメなのに絶対に無理、って思ったけど……“いぬ美はおとなしいから大丈夫だぞ”って。
その時に響ちゃんに教えてもらったんだ。まずは目線を合わせることからだ、って」
「うんうん」
「私、それまでちゃんと目を見たことがなかったんだけど、いぬ美ちゃんってすごく綺麗な目をしてるんだよ。
そうしたら怖くてたまらなかったのに、少しだけ撫でてみようかなって気持ちになって――」
「今は子犬くらいなら平気になったんだよね」
「うん……さすがにいぬ美ちゃんくらい大きな子はまだ無理だけど……」
「いぬ美ちゃん、とっても良い子なんですよ〜。番組でも大人気ですし」
「だよね! レギュラーコーナーまでできてるし」
自分のことを知らない犬と仲良くなるには、目の高さを合わせないとダメらしい。
ついやってしまいがちだけど、立ったままの姿勢で腰だけ曲げて頭を撫でようとすると、
犬からすれば大きなものが覆いかぶさってくるから警戒して吠えたり、恐怖心から噛んだりすることもあるんだとか。
目線を合わせたら、今度は下からゆっくり手を差し出して匂いを覚えてもらうのが鉄則で、
そうして緊張が解けたら胸や肩、耳のあたりを優しく撫でれば仲良くなれるんだって。
この時も視界を覆わないようにすれば、少なくとも怖がられることはない……そうだ。
響といぬ美の協力のおかげで、犬が苦手だった雪歩は少しずつ克服している。
不思議なことに雪歩と接する時、いぬ美は絶対に吠えたり走り寄ったりしないらしい。
響がそう言ってるんだと思うけど、そうしなくてもいぬ美は分かってるのかもしれない。
動物と共演すると聞くと断っていたのに、最近はそういう仕事もこなしているらしい。
雪歩はボクが憧れる女の子像だけど、実はすごく芯が強くてがんばり屋なんだよね。
そういうところ、見習わないと。

 

いろいろと話をして改めて分かったのは、みんな響から元気をもらってる、ってことだった。
やよいや雪歩だけじゃない。
千早に律子、貴音やあずささんも。
聞けば些細なことかも知れないけれど、いろんな形で刺激や影響を受けてる。
それはお互いにそうなんだけど、その輪の中にはいつも響がいるような気がした。
響はいるだけで場が明るくなる。
いないと、ちょっと寂しい――そんな感じかな。
それにしても……。
「………………」
ちょっと遅い気がする。
海を見に行くだけっていっても、もう陽も傾き始めてるし。
「電話してみるね」
ボクの表情で悟ったのか、雪歩が響のケータイに電話をかけた。
くぐもった着信音が部屋の奥から聞こえた。
「あ、カバン……」
やよいが指差したカバンから音がする。
まったく、“携帯電話”なのに携帯しなくてどうするのさ。
仕方ないなあ……。
「ボク、見てくるよ。入れ違いになるかもしれないから、二人はここにいてね」
「うん、気をつけてね」
なんとなく嫌な予感がして、部屋を出たボクは急ぎ足でエレベータに乗り込む。
すれ違いにならないかとロビーを見渡しても響の姿はない。
やっぱりまだ海にいるのかな。
焦ると自動ドアが開く間ももどかしい。
ホテルを出て、道を一本挟んだ向こうの砂浜まで走る。
人通りはまばらで、走ってる車も少ない。
石段を降りて砂を踏むと、靴が沈む独特の感覚に足をとられそうになる。
昼間は陽光が反射して砂の一粒一粒まで眩しいくらいだったのに、今は夕陽を照り返して暗い赤に染まっている。
響は――その砂をずっと辿った先にいた。
オレンジ色の空と少し深くなった海の青に跨るように、小さなシルエットが浮かび上がっている。
「………………」
綺麗だと素直に思った。
響の長い髪が風に揺れて、その様子が絵画みたいに映えて見えた。
ただ立って、海を見ているだけなのに。
その後ろ姿はボクが憧れる女の子そのものだった。
「響…………?」
その背中に呼びかける。
この距離なら聞こえてるハズだけど振り返らない。
「どうしたの?」
近づいて、今度はもう少し通る声で言ってみる。
響は今度は振り向きかけて、ふいに顔をそらした。
「いつまでもいたら風邪を引いちゃ――」
様子がヘンだったから顔を覗き込んで、そのまま言葉が詰まってしまう。
「響、どうしたの!? なんで泣いてるの!?」
目元が濡れていたんだ。
見間違いや勘違いなんかじゃない。
響は泣いていた。
「泣いてなんかないぞ!」
そう言って響は目をごしごしとこする。
「だって響――」
「泣いて……泣いてない!!」
そう言って必死に否定するけれど。
こぼれた涙が砂に吸い込まれていく。
「ひびき…………」
いったい何があったのか、ボクは気が気じゃなかった。
女の子がひとりでいたから、誰かに何かされたんじゃないか。
アイドルの我那覇響と知って、心無い言葉を浴びせた奴がいたのか。
それとも、それとも他に何か理由が?
「…………どうしたの?」
ボクがもっと早く――ううん、一緒に来ていればこんなことにならなかったんじゃないか。
やっぱり断られてもついて行くべきだったんじゃないか、って。
そんな悪いことばかり考えてしまう。
「何でも、ない」
鼻声でそう言われても、何でもない、で片付けられるわけないじゃないか。
何があったんだよ、響。
言ってくれなきゃ分からないよ。
「何でもないことないじゃないか。心配して来てみたら響、泣いてるし――」
自分の不手際にもイライラしてしまって、つい口調が荒くなる。
「だから泣いて……」
「泣いてるだろ!」
止められなかった自分と、響が泣いてる理由が分からないことと、それを響が隠してることに、
どうしようもなく腹が立って。
間違ってるって分かってても、怒鳴らずにはいられなかった。

 

それからしばらく、ボクも響も黙ったままで。
響が泣きやむまでの間、ボクは冷静になるように努めた。
つい熱くなってしまうのは昔からの悪い癖だ。
気をつけてはいるけど、さっきみたいな時は思わずカッとなってしまう。
でも今はボクも響も落ち着いてるから、話ができると思う。
「間違ってたら、ごめん」
前置きに謝るのはどうかと思ったけど、
「もしかして……寂しくなった……?」
無神経な質問だったから間違いではないと思う。
それに事実でなかったら見当違いもいいところで、気を悪くするかもしれない。
そんな心配をよそに響はかぶりを振った。
「そっか…………」
響はすぐに顔に出るから、今のがウソだってことは分かった。
「……そんな気がして」
納得したフリなんて器用な真似、ボクにはできない。
もしかしたら本当の理由を話してくれるんじゃないかと期待したけれど、響は何も言ってくれなかった。
だからちょっと意地悪で、こんなのボクらしくないけれど、
「沖縄の海ってこれよりずっときれいなんでしょ?」
そう言って反応を確かめることにした。
「…………ッ!?」
響はパッと顔を上げて驚いたようにボクを見る。
それじゃバレバレだよ……。
「やっぱり――」
思わず声に出す。
「けっこう意地っ張りだよね、響って」
「自分、意地なんか張ってないぞ!」
なんて涙声で反発しても説得力ないよ。
「ボクもそういうところあるから、よく分かるよ」
響を見てると時々、自分を見ているような気になる。
もちろんボクたちには違うところだっていっぱいある。
響みたいに料理が得意なわけじゃないし、編み物だって全然できない。
でも、なんていうか根本的な部分は同じような気がする。
「分かってない! 真は……何も分かってないぞ!」
まるで分かってほしくない、みたいに響は言う。
ボクってそんなに頼りないのかなあ……。
そうやって必死に隠そうとする姿が痛々しくて、なおのこと何とかしてあげたいって思ってしまう。
「前にさ、沖縄で仕事があったでしょ? 枠の都合でうちの事務所からは1人しか出られないって話で――」
アイドルとして有名になってくると、そのアイドルに縁の深い仕事が来るようになる。
プロデューサーが言ってたことだ。
出身地とか、愛用してるブランドとか。
結びつくイメージが強いほど、そういう機会も増えてくるって。
「あの時、誰も手を挙げなかった。みんな、響を推してたんだよ? 響のためにあるような仕事だ、って。
だけど前日に響が体調を崩して……それで急遽、春香が行くことになって――」
あれは本当に響のための仕事だったと思う。
プロデューサーは絶好のタイミングで仕事を受けるかどうかを訊ねてきた。
合同ライブのためのダンスレッスン。
事務所の全員がいたけど、たったひとり――響だけが急用で先に帰宅した日。
その瞬間を狙っていたようにプロデューサーがやって来て、順番に答えを聞いていた。
ボクは千早の次に訊かれたっけ。
もちろんボクは辞退したし、みんなも同じだった。
むしろ受ける理由がなかったくらいだ。
誰も口にしなかったけど、みんなあの仕事は響が受けるべきだって共通認識があった。
それが分かってたからプロデューサーも、敢えて響にだけは仕事を受けるか否かの意思確認をしなかった。
いわゆるお膳立てなんだって、後になって気付いた。
あらかじめ全員が断っておけば、響も気兼ねなく受けられるだろうという配慮だったんだ。
“我那覇響の凱旋”という節目みたいな意味もあったのかもしれない。
だけど、それは叶わなかった。
響が体調を崩して、春香が赴くことになった。
さいわい事前の打ち合わせはほとんど要らなかったから、上手くこなせたらしい。
せっかくの機会だったのに残念だったね、で済む話だと思っていたけれど。
今はもう、そうは思えなかった。
「これ、今だから思うんだけど、体調を崩したのって……本当だったの?」
「じ、自分のこと疑ってるのか?」
「うん」
響のあんな表情を見たら、疑いたくもなる。
「………………」
今のボク、きっとすごくイヤな顔をしてると思う。
少なくとも響にはそう映ってる。
隠してることを暴こうとしてるから。
そんなつもりはないのに響を疑って、問い詰めて、隠してることを言わせようとしてる。
ボクは何をしてるんだろう……?
響を困らせたいわけじゃない。
何か抱えていることがあるなら、それを一緒に持ってあげたいと思ってる。
「真の、言うとおりだぞ……」
だからこの言葉を聞いた時、ボクは後悔してしまったんだ。
一生懸命、隠そうとしてたことを暴いてしまったんだって。
「そっか……」
ほんのちょっとでいいから、時間が巻き戻ればいいのにと思った。
「怒らないのか?」
意外そうな顔で響が訊く。
「なんで?」
「だって自分、ウソをついたんだ。悪いこと、なんだぞ……?」
ウソは悪いことだって、ボクも小さい頃にそう教えられてきた。
正直に、真面目に、真っ直ぐに生きなさいって言われてきた。
ボクの名前――真もそういう意味で付けられた。
だけど大人は子どもには教えないんだ。
実は世の中には、ついていいウソや、つかなきゃいけないウソがあるんだってこと。
多分、響はそういうのがまだよく分かってないんだと思う。
ある意味、ボクよりもずっと正直で、真面目で、真っ直ぐだから。
「ボクが怒ることじゃないよ。それに社長やプロデューサーだって多分、怒らないんじゃないかな」
きっとウソだと分かったら、怒るより先にその理由を尋ねると思う。
それで言いたがらなかったら、今度は心配する。
社長もプロデューサーも、もちろんボクたちだってそうしただろう。
それに――。
なにより、無理やり白状させたボクに怒る資格なんてない。
「………………?」
「そりゃあ当日にドタキャンみたいになったら、さすがに小言くらいはあるだろうけどさ」
「意味が分かんないぞ……」
ボクだって分からないよ。
どうしたらいいか分からない。
響の力になりたいだけなんだ。
響のことをもっと知りたいんだ。
「………………」
やっと思い当たる。
思い出す。
これを機にボクは響のことを知りたいんだ。
同じ事務所にいるアイドルってだけで、響のことはあまりよく知らなかった。
沖縄出身でダンスが得意で、ハム蔵にいぬ美、他にもたくさんの動物がいることくらいしか。
改めて訊いたこともなかったし、響のほうから話してくれたこともなかった。
そういう話題にならなかった、っていうのもあるだろうけど……。
「ねえ、響……訊いてもいい? 答えなくなかったら別に答えなくていいからさ」
これは興味本位なんかじゃない、って何度も自分に確かめる。
好奇心なんて安っぽい理由でもない。
「な、なんだ……?」
どうにか力になってあげたいから。
そのために必要なことなんだ。
それが理由だ。
「もしかして……沖縄に帰れない理由とかあるの?」
すごく無神経なことを訊いている自覚はある。
プライベートというかこんなの、デリカシーの問題だ。
もし触れられたくない話題だったら、怒りを買うかもしれない。
他人が踏み込んでいいことじゃないから、嫌われるかもしれない。
デリカシーのない奴だ!
気配りもできない、配慮もできない、無神経な男みたいな奴だ!
そんなふうに……怒鳴りつけられるかもしれない。
それが今になって怖くなる。
もっと訊き方があったハズじゃないか。
タイミングだって今じゃなくてもよかった。
ボクは思ったことをそのまま口にしてしまうから、雪歩や春香ならきっと響に嫌な想いをさせなかったのに。
間違ってしまったんだって、ボクは思った。
だけど、そうじゃなかった――。





「そうだったんだ――」
響は話してくれた。
沖縄ではダンススクールに通っていたこと。
島で行われたダンスイベントで優勝して一気に注目を集めたこと。
それからも行事や祭りで得意のダンスを披露して、ファンがたくさん増えたこと。
お父さんは響が幼い頃に亡くなっていて、お母さんとお兄さんと3人で暮らしていたこと。
得意のダンスを活かして(多少は有頂天になっていたのも認めたうえで)アイドルを目指したこと。
それが遊び半分なんて中途半端な気持ちじゃなく、生活の助けになるためだったこと。
反対するお兄さんとケンカになって、なかば自棄になってトップアイドルになるまで戻らないと宣言したこと。
ボクの知らないことばかりだった。
みんないろんな理由で事務所に入ったわけで、一度くらいは会話の中で触れたことはあった。
その時、響はトップアイドルになるため、としか言わなかった。
ストレートで分かりやすい理由だなあ、ってあの時は思ったっけ。
登山家が言ってた、”そこにエベレストがあるから”みたいに単純そのものだった。
だからそんな経緯があるなんて想像もしなかった。
両親についても健在だって勝手に思い込んでた。
ボクたちは響のこと、実は何も知らないんだって思い知らされた。
「………………」
だけどそれらは全部、過去に起こった出来事だ。
調べようと思えば調べられるし、そもそも社長やプロデューサーは本人から聞いているかもしれない。
ボクがいまはじめて知った中で、重要なのはそれじゃない。
この瞬間まで、響しか知らなかったこと。
それが一番大切だった。
「だからあの仕事に行きたくなかったのか」
沖縄での仕事を受ければ、まだトップアイドルになっていないのに帰ったことになってしまう。
――というのは表面的な理由で、本当は彼女の気持ちの問題だった。
「軽蔑しただろ? こんなバカみたいな――」
その本当の理由に響は軽蔑されるんだと思ってたみたいだ。
「バカなんかじゃないよ。響はすごいよ」
仕事を断ったのは、実家に帰りたくなってしまうからだった。
お母さんは信じて送り出してくれたらしいし、お兄さんともケンカはしたけど絶交したわけじゃない。
帰ろうと思えばいつでも帰ることができるんだ。
だけど……。
一度でも家族の顔を見てしまったら、こっちでの一人暮らしを続ける自信がなくなるからって。
それが嫌だったから、と響は言った。
「すごいし、カッコいいと思う」
アイドルを目指した経緯も含めて、ボクは心からそう思った。
「なに言ってるんだ、真? ひょっとして自分の話、聞いてなかった……?」
「トップアイドルになるまで沖縄には帰らないって、ずっと貫き通せるってすごいじゃないか」
ボクだったら、どうだろう。
なにくそ! って気持ちで奮い立たせるかな。
それとも音を上げてしまうだろうか。
親元を離れたことのないボクにはよく分からない。
ただ、間違いないのは、
「響は強いんだな……って思ったよ」
っていうこと。
「なん――」
「ボクさ、実を言うと響が怖かったんだ」
「ええッ!?」
今までずっと黙ってたことを白状する。
響だってボクに教えてくれたから、これでおあいこだ。
「ダンスだけは誰にも負けない自信があったんだ。得意分野だって自負もあったしね。
美希や春香も上手いけど、女の子らしさは勝てないけど、これだけはボクの方が上だって思ってたんだ」
ボクとしては本当は優劣をつけるのは好きじゃない。
純粋に勝負事としては楽しいけれど、勝ったから驕るのも、負けて惨めになるのも違うと思ってる。
上手く表現できないけど、クリーン(?)な戦いっていうのかな。
そういう意味でダンスではボクは負けていない、ってことだった。
「765プロだけじゃない。他の事務所のアイドルにだって負けないって、それくらいの自信があったんだ」
「………………」
「だけど響のダンスを初めて見た時、怖いって思ったよ。怪獣がいるって」
「か、怪獣って表現はちょっとヒドイと思うぞ……」
響はそう言うけれど、ボクには本当にそう見えた。
そう大きくないステージで踊る響は、まるで全部を支配しているみたいだった。
いろんな人たちのダンスを見てきたけど、それらとは比べものにならない完成度だった。
BGMも、照明も、ファンの歓声も、スタッフも、他のダンサーも。
何もかも響のためだけにあるように感じた。
「誰にも負けないなんて、いい気になってたボクの自信を粉々にされた気がしたよ。
上には上がいるってよく言うけど、ほんとにそんな感じ」
あの時、ボクも出演していたけど、響の前で良かったと思った。
もしあれを観た後だったら、実力の半分も出せなかったかもしれない。
「そう、なのか……?」
「うん。見惚れるくらいにカッコよかったし、それに怖かった。もしかしたらボクはこの我那覇響って娘に、
一生勝てないんじゃないかって思ったこともあるよ」
今にして思えばさすがに大袈裟だけど、当時は本当にそう思っていた。
自分が唯一勝負できる分野なのに、それをあっさり否定されたような気さえしていた。
ちょっと卑屈になってたのかな、ボク。
しばらくはレッスンにも身が入らなかったっけ。
「ご、ごめん……そんなの、全然気が付かなくて……!」
なぜか響が謝る。
少ししてその意味が分かった。
「謝らないでよ。今まで言ったことないけど感謝してるんだからさ」
「……自分に、か?」
「ボク”も”負けず嫌いだからね。響のダンスはたしかにすごいけど、ボクだってこれまで以上にレッスンをがんばれば、
追いつけるかもしれないって信じてたんだ」
怖気づいて投げ出すなんてボクらしくない。
相手が自分より上なら、自分はそのさらに上を行けばいい。
「だからボクにとって響はずっとライバルだったんだ。いつか絶対に勝ってやる、ってね。
そうやって目標ができたから、レッスンだって仕事だってがんばれた」
それまではオーディションの合格とか、大会で何位までに入る……っていう客観的な目標に向かっていたけど、
そこで初めて”誰かを越える”っていう特定の人を目標にできた。
「自分が……目標……?」
響はキョトンとしている。
「だからさ、響のおかげで張り合いっていうか、負けるかって闘志が湧いてくるんだよね。
響がいなかったら自信の上に胡坐をかいて、ボクのダンスも今みたいには上達しなかったかもしれない」
勝負事にはやっぱり勝ちたい。
だから響は目標であり、憧れであり、ライバルだった。
人一倍のレッスンをすれば一度くらいは響に勝てるかもしれない。
でもそのとき限りのオーディションとは違う。
次にまた競ったらボクが負けるかもしれない。
100回戦って100回全部勝てるようになるまで、響はボクの目標であり続けるんだ。
「初めて聞いた……」
響が呆気にとられたようにボクを見る。
「今まで言わなかったからね」
「もっと早く言ってほしかったぞ!」
「な、なんか恥ずかしいじゃないか……こういうこと言うのって……」
そんなこと言ったら少年漫画みたいな感じになるし、女の子らしくなくなるから。
恥ずかしさもあって黙ってたんだ。
それに――言えなかった理由はもうひとつある……。
「今でも、自分のこと、怖いのか?」
そう尋ねるところからして、怖がられるのは嫌みたい。
「う〜ん、どうだろ……」
訊かれて改めて考えると、よく分からない。
「怖いっていうのはちょっと違うかな。あの時は”ダンスをしている響”を見ただけだったからね」
「ん……どういう意味?」
「普段の響は全然怖くないってこと」
「うがーっ! それってバカにしてるのかー!?」
「してないしてない」
「ウソつけ! 絶対にしてるだろ!?」
「してないって」
「ふんだッ!」
こういうのって二面性っていうのかな?
もし初めて見た響が”普段の響”だったら、彼女のダンスを見てもそれほど怖くなかったかもしれない。
ステージの上と下ではまるで別人だった。
ダンスをしている響は周囲を寄せ付けない圧倒的な威圧感があった。
競うのを諦めそうになるくらいの迫力があった。
この小さな体のどこにそんなパワーがあるのかって、不思議なくらいだった。
だけど一度ステージを降りれば、年相応の女の子だ。
……いや、年齢よりちょっと幼い感じかな。
表情はころころ変わるし、反応は素直だし――たぶん亜美と真美がよく響にいたずらするのはこれが理由だと思う――、
けっこうすぐ騙されるほうだし、ウソをついてもすぐバレちゃうし……。
同じ娘とは思えなかった。
泣いたり笑ったりする、ちょっと子どもっぽい響。
圧倒的なダンスで観る人を魅了する響。
どっちが本当の響なんだろう……なんて今でも思ってしまう。
「………………」
そんなことを考えていると、不意に寂しい気持ちになる。
ボクのライバルは響だけど、彼女は違うのかなって。
響からすればボクなんてライバルとすら思われてないのかもしれない。
彼女は目標だからそれは当然なのかもしれないけれど、やっぱり悲しいというか悔しくなる。
お互いに競い合いたいし、高め合いたい。
ボクだけが響を追いかけるんじゃなくて、響からも意識されるようなレベルになりたい。
「自分……もしかしたら、寂しい……かも……」
だから彼女がこう漏らしたことが、ちょっとだけ信じられなかった。
「うん…………」
「あ! でも、ちょっとだけ! ほんのちょっとだけだぞ!!」
慌てて訂正する。
「海、見てたら沖縄を思い出して――それで……」
「うん」
また言葉が詰まりだす。
誰にだって特別な場所はある。
他の人には何でもないような景色でも、人によっては想い出の場所だったりする。
楽しいことを思い出したり、嫌なことを思い出したり――そういうのが誰にでもあって。
響にとっては海がそうだったんだ。
「まだ島には戻れない、けど……帰りたいって……思って……ダメなのに…………」
涙が出ないようにか、響はそこで言葉を切った。
だけど見てしまった。
きっと我慢しようとしたけど間に合わなかったんだ。
響は泣いていた。
もう、どう言ったって誤魔化せない。
ボクの目の前で彼女は目を潤ませていた。
そんな姿を見たくなかったから、ボクは無意識にそうしていた。
「え…………?」
腕の中で、響が小さく声を漏らす。
さっきまで泣いてたせいか、響の体はちょっと熱い。
背中に回した腕に少しだけ力を込める。
反対に響はまったく力を入れていなかったから、ボクのほうに倒れかかるような恰好になった。
仕事柄、男装して相手役の女の人に同じようなことをしたことが何度かあるけど――。
その経験が役に立った……なんて思ってはいない。
他に方法が思いつかなかったから、こうしているだけなんだ。
「………………」
響は震えていた。
多分それをボクに悟られまいとしているんだろうけれど、密着してるから嫌でも伝わってくる。
「ボクたちがいるじゃないか」
そんな彼女を安心させたくて、勝手に言葉が出てくる。
「今日だって雪歩とやよいも一緒だし。最近は一人での仕事も多いけど、たいていプロデューサーがついてくれるでしょ」
「そう、だけど……」
「事務所には小鳥さんもいるし、社長だって」
正直、響の言う”寂しい”はちゃんと理解できてない。
ハム蔵たちがいるとはいえ、(人、という意味では)ひとり暮らしだから寂しいんだというくらいにしか思っていなかった。
「もっと頼ればいいんだよ」
「………………?」
軽はずみ――だったと思う。
「響ってさ、ハム蔵がいなくなった時とかはすぐに言うけど、他の大事なことってあまり言わないよね」
ボクの感覚でしか考えてなかった。
「困ってることとか相談したいこととか、誰かに聞いてほしいこととかさ、今までもあったんじゃないの?」
ボクは響じゃないから、もっと彼女の気持ちを分かってあげるべきだったんだ。
「そういうの、我慢してないで誰かに言っちゃえばよかったんだ。みんな助けてくれるよ?」
「………………」
「響が逆の立場でもそうするだろ?」
油断みたいなのがあったのかもしれない。
もし相手が雪歩なら違う言葉を使ったし、もっと時間をかけたと思う。
相手がやよいなら目線を合わせたし、伊織ならキツイ言葉をぶつけたんじゃないかな。
それは雪歩が引っ込み思案で、まだまだ自分に自信を持てない、ちょっと臆病な女の子だからだ。
やよいに厳しく言うのはかわいそうだし、伊織なら少しくらい強めに言っても大丈夫だと思うからだ。
響は楽天的で自信家で、レッスンやライブの時を見ても逆境をはねのけるタイプだった。
だから力強く励ませばいい、って単純に考えてた。
「う……ぐすっ…………」
震えはだんだん大きくなって、響はとうとう泣きだしてしまった。
「え………? ちょ、響…………ッ!?」
突然のことで動転してしまう。
ボクは思わず響を離してしまった。
「寂しいなんて……言えるわけないぞ! だって……う……じぶん、ケンカして飛び出して……。
エラそうなこと……言って……言って、出てきたんだ…………!!」
今まで一度も見たことのない泣き顔に、ボクはどうしていいか分からなかった。
こんな顔をさせたかったんじゃない。
抱えてることがあるなら思い切って打ち明けて、それでみんなで助け合えば――って。
「こっち来て、右も左も分から……な、くて……自分でがんばらないとダメだって……!
トップアイドルに、なるんだから! 頼るようじゃダメなんだ…………ッ!」
泣きながら、叫びながら。
顔を真っ赤にして響はすがるようにボクの両肩を掴んだ。
「響…………」
とんでもない思い違いをしていたことに気付く。
彼女はただ寂しかったわけじゃない。
それを紛らせる方法を自分から断ち切ってしまって、頼る術を失くしたことが苦しかったんだ。
「寂しい、なんて、そんなこと言っちゃいけないんだ……そんな恥ずかしい……言えるわけない……。
それに言ったら迷惑かける、みんなを困らせるだけ……だから……あぁ…………!!」
アイドルを目指して沖縄から出てきた話と、やっとつながる。
”たった独り”であんなに遠い故郷から飛び出して、それこそ右も左も分からない都会でアイドルになるなんて、
どれだけのパワーが必要か分からない。
中途半端な気持ちじゃ、未練を残すようじゃ、きっと途中で引き返したくなる。
だから響はトップアイドルになるまで故郷には戻らない、って条件を自分に付けたんだ。
そうやって自分を追い詰めて、退路を断って、もう前にしか進めないようにしたんだ。
決心が揺らがないように。
明るくて積極的な性格だから、彼女はすぐに事務所のみんなと仲良くなった。
オフの日は一緒に遊んだりもした。
だけど本当に困ってることや悩んでることを響は誰にも打ち明けなかった。
響は――そうすることを誰かに頼ってるとか、甘えてるとか、迷惑をかけるとか……そんなふうに考えてるんだ。
きっと事務所の誰も、響がこんな想いを隠していたなんて想像もできないだろう。
彼女はいつも元気で明るくて、寂しさとか悲しさなんてちっとも感じさせなかったから。
そんな素振りをほんの一瞬さえ見せなかったから。
そう考えると、響はボクたちと顔を合わせる時はいつも”我那覇響”を演じてたんじゃないかって思う。
ロケに向かう途中も、打ち合わせの時も、レッスンの合間も、一緒にご飯を食べる時でさえ――。
どれだけ仲良くなっても、彼女はあくまで沖縄を出てきた時の、”たった独り”を貫こうとしてる。
一度でもそうしたら気持ちが揺れてしまうから、そうならないようにしてるんだと思う。
それがふとしたキッカケで立ち止まって、それを求めたくなった……。
「響…………」
見ていられなかった。
響の強さと脆さに胸が締め付けられる。
こんな気持ちで。
こんな想いを隠しながら――。
なのにボクは全然気が付かなかった。
ライバルだ、目標だ、って言っておきながら……ボクはいったい何をしていたんだろう?
響の何を見ていたんだろう?
そこに思い至ると胸が苦しくなる。
「アイドル……トップ、アイドルになる……って……言ったのは自分、なんだ! だから…………ッッ!!」
救いだったのは話を聞く限り、故郷の家族と険悪な仲になってないことだった。
帰ることができないっていうのも、物理的な問題とかじゃなくて覚悟の問題だ。
だから本当は帰ろうと思えばいつでも帰れる。
でも帰れるのに帰れないって状況だからこそ、つらいっていうのも分かる。
「だから――!!」
肩を掴む手に力が込められる。
「つ…………っ!」
爪が食い込み、痛みに声を上げそうになった。
「真のせいだぞ!」
突然そんなことを言われて、ボクはわけが分からなくなった。
いつもより少しだけ高い声で、爪を立てて。
「真が来なかったら自分……思い出さなかったんだ!」
怒っていた。
なんて理不尽な怒り方だろうって思った。
だけどこの時の響はそう言うしかなかったんだって、後になって分かった。
「自分、ひとりでも大丈夫だったんだぞ! 大丈夫だったのに……こんな気持ちにならずに済んだのに……!!」
ボクは響がかわいそうになった。
ステージの上ではあんなに大きく感じた彼女が、今はやよいよりも小さく見えた。
「ひびき…………」
悲痛な叫び声を通して、彼女の寂しさが伝わってくる。
ずっと我慢してきたんだろうな。
寂しかったのに誰にも言えずに、ずっと耐えてきたんだ。
”完璧”とか”なんくるないさ”って口癖のように言っていたのも、もしかしたら自分を奮い立たせていたのかもしれない。
『響はいつも元気だな』
『響ちゃん、今日も元気いっぱいだね』
いつもそんなふうに言われてる響が、ずっと寂しさを堪えてたんだと思うと無性に悲しくなる。
それに気付けなかった自分にも――。
「キライだ! まこと、なんて……大嫌いだ…………ッッ!!」
そうやってボクを責める響に、何も言えなかった。
いつも明るく振る舞っていたのは寂しさの裏返しだって。
いつも自信満々だったのは不安を隠すためだって。
それを何ひとつ分かってあげられなかった、気付こうともしなかったボクには何も言えない。
だから響の気が済むまで泣かせてあげようと思った。
好きなだけボクを責めればいい。
それで響が少しでも楽になるなら、肩や腕の痛みなんて大したことない。
今のボクなんかよりも彼女のほうがずっと痛くて、ずっと苦しかったんだ。

 

しばらくそうした後。
ボクの肩を掴んでいた響の手からふっと力が抜けるのを感じた。
もしかしたら泣き疲れて寝ちゃった……なんてことはないよね……?
そう思ってそっと彼女を離す。
「…………」
よかった、起きてる。
「………………」
けど、まだちょっと混乱してるみたいな感じだった。
「落ち着いた?」
取り敢えずそう訊いてみる。
ほんとはまた泣き出しちゃうんじゃないかって、ボクのほうが構えてる。
「うん…………」
こういうの、借りてきた猫っていうんだっけ?
いつもの元気いっぱいの響からは想像もつかないくらい、儚げで弱々しい声だった。
でも、さっきみたいに取り乱すような心配はなさそう。
「――なら、よかった」
本心からそう思う。
誰だって辛そうな、苦しそうな友だちを見たいなんて思わない。
「ごめん…………」
何に対して謝っているのか、響はほとんど聞こえない声で言った。
ボクが分からないって顔をしていると、
「いっぱい迷惑かけちゃった……それにひどいことも、いっぱい――」
たどたどしく理由を話してくれる。
「いいよ、気にしてないから」
「…………?」
普段の響になら、バカだなあって笑い飛ばすところだけど……。
「友だちって仲良くするだけじゃないでしょ? そりゃあ仲が悪いよりは良いほうがいいけどさ。
たまにはケンカもするし、迷惑かけることもあるし、傷つけちゃうこともあるかもしれない」
これはボクなりの友だち観。
要は”友だちは対等だよ”っていう意味のつもりなんだけど、ちゃんと伝わったかな?
「そういうのも全部ひっくるめての友だちだって、そう思うんだ。だから気にしなくていいよ」
「うん――」
って言っても響、まだちょっと遠慮してる感じがする。
一緒に仕事してて思うけど、すごく責任感強いからね。
もちろん皆もそうだけど、彼女の場合は勢いっていうか意気込みも違う。
どんな内容でも不満も言わずに楽しもうとするのは、素直に尊敬する。
ボクなんて男役が多くてプロデューサーや律子に愚痴っちゃったことがあるけど、
そんな響の姿を見たら自分は子どもみたいだな……って思ったり。
「その代わり、何かあったらボクも遠慮なく響に頼らせてもらうからね!」
あくまで彼女とは対等でいたいから、ボクはこう言う。
今回の件も恩を着せたいわけでも、貸しを作るつもりでもない。
それをしたらまた遠慮して、本音で話せなくなるから。
響にもそんなふうに思わせたくなかった。
良いことも悪いことも、お互い様だよって笑って言える仲になりたいから。
それが効果があったのか分からないけど、響は呆気にとられたような顔をしてから、
「も、もちろんさ! カンペキな自分に任せておけばなんくるないさー!」
なんていつもの調子……にはまだちょっと遠いけど、お決まりの台詞を返してくれた。
「う、うん! でも、これはちゃんと言っておかなきゃだぞ!」
照れ隠しにか響は握りしめた自分の拳を見ながら、うんうんと頷いてる。
「さっきはひどいこと言って……ほんとにゴメン! それと――――」
それからじっとボクを見上げて、
「その……あ、ありがとう…………」
真っ赤になった顔で言った。
なるほどね。
そりゃ勇気がいるわけだ。
「真のおかげで自分……もう少しがんばれそうだぞ……うん、もう大丈夫だ!」
半分はきっと自分自身に言い聞かせてるんだろうけど。
「よかった――」
素直に、思ったことをそのまま口にする。
「響が元気ないとボクたちまで元気がなくなっちゃうからさ」
「………………」
「前にプロデューサーが言ってたよ。響は太陽みたいな娘だって」
「……自分が?」
キョトンとした顔で響が訊き返す。
「うん、いるだけで明るくなるからって――ボクもそう思うし」
沖縄って聞いて思い浮かぶのは海とか、南国とか、太陽とか……とにかく開放的で明るいイメージだ。
出身地を知ってるからそういう先入観もあるかもしれないけど、それを抜きにしても彼女からは、
明るくて、楽しくて、元気なイメージが一番に伝わってくる。
だからさっきみたいに落ち込んでると、こっちも調子が狂ってしまう。
「それなら真もそうじゃないか」
「う〜ん、ボクはちょっと違うのかも」
響とは似てる部分も多いと思ってるけど、他の人からの印象は違ってるらしい。
う〜ん……やっぱりイケメンとか思われてるのかなぁ。
ファンレターとかもまだまだ女の人からのほうが多いし……。
まあ、そういうのは今度プロデューサーにも訊いてみるとして。
「どうする? もう少しここにいようか?」
陽もすっかり沈んでいたし、響も落ち着いてきたみたいだからタイミングはよかったと思う。
本音を言えば、いつもの彼女に戻るまで待ちたかった。
大丈夫かどうかはボクが勝手に判断できることじゃない。
それに今日のことで辛くても我慢してしまうって分かったから、こんな訊き方をしたらきっと、
”自分はもう大丈夫だぞ”なんて言うに決まってる。
「あ…………!」
響が急に声を上げた。
「どうしたの?」
「真、ちょっとお願いがあるんだけど……」
なんか言いにくそうな感じだ。
まだボクに対して遠慮してるのかなって思うと、ちょっと悲しくなる。
「今日のこと、みんなに内緒にしてほしいんだけど……」
だけどそれには理由があるみたいで、響はボクから目を逸らした。
なんとなく分かった。
分かったから元気づける意味も兼ねて、ちょっとだけからかってみようかな。
「響が本当は寂しかったってこと?」
「そうじゃなくて! いや、それもそうなんだけど……だから…………」
「お兄さんとケンカして出てきたこと?」
「うがー! 違うぞーッ!」
いつもの調子が戻ってきた。
さっきまで泣いてたことも忘れてるみたいに、表情をコロコロ変える響を見てちょっと安心する。
イジワルはこのくらいにしておこうっと。
「誰にも言わないよ」
「だから自分が言いたいの…………え?」
「響が泣いてたことは誰にも言わないから」
ポカンとしていた響だけど、しばらくして気が付いたらしく、また顔を赤くした。
「ほ、ほんとに言っちゃダメだぞ!? 内緒なんだからね!」
あ、なんか最後のとこ伊織っぽい。
「分かってるって。響を困らせるようなことはしないよ」
これはもちろん本心。
そんなこと、したくないしね。
「でも、雪歩とやよいにはそれとなく伝えておくよ。二人も心配してたし」
とはいっても、どうやって説明すればいいんだろう。
あまりウソは吐きたくないけど、この前の沖縄での仕事を受けられなかったことを気にして……とか?
なんて考えてると、
「ううん、二人には自分からちゃんと言うぞ」
意外にも響から切り出してきた。
「そう? 無理してない?」
「大丈夫、ちゃんと言えるから」
その声にはしっかりとした張りがあった。
響の中では二人にどう伝えるかも決まってるのかもしれない。
だとしたらその点の心配は無用かな。
本人もこう言ってるし、言葉に詰まったりしたらその時はフォローしてあげよう。
「それじゃ、そろそろ戻ろう」
ちょっと海風にあたりすぎたかもしれない。
体が冷えてきたし、体調を崩して明日の仕事に支障が出たらたくさんの人に迷惑がかかる。
ホテルに戻ろうとして、ボクは咄嗟に響の手を握った。
正直、まだちょっと危なっかしい感じがしたから。
こうやってしっかり掴んでおかないと、離れてしまいそうな気がした。
もう本音を話してくれなくなるかもしれない……そんな怖さも少しあったから。
響の手は――熱かった。
感情を吐き出した後だから、その熱がまだ残ってるんだと思った。
「まことっ!」
不意に呼ばれて振り返る。
ボクにまだ行くなと言うみたいに、その場に立ち止まったままの響は。
何か決意を固めたような顔つきで、ボクを見ていた。
「自分……真のこと…………」
恥ずかしそうに一度俯いて、それから。
怒っているのか笑っているのか分からない、掴みどころのない眼差しで。
「真のこと、ずっとライバルだと思ってたぞ」
何を言うのか身構えていたボクは何かと聞き間違えたのかと思った。
「ダンスだけは誰にも負けない自信があったけど、真を見て油断できないって思ったんだ。
追いつかれないように、追い抜かれないように必死にがんばってたんだぞ?」
「ひびき……?」
「だからこれからもずっと、真とはライバルだからな!!」
そう言って勝気な笑みを浮かべる響は、いつもの、カンペキな彼女だった。
どんなこともこなしてみせる! と豪語して、本当に何でもこなしてしまう我那覇響だった。
眩しくて、凛々しくて、清々しいくらいの笑顔に、いつの間にかボクも笑っていた。
「望むところさ! ボクだって負けないよ!」
やっと響と同じ場所に立てたことが、何より嬉しかった。
だからボクは決意する。
いつでも、いつまでも彼女のライバルでいられるように。
ボクはいつだって全力で響とぶつかり合おうって。
それはただ単に競い合うことだけじゃない。
楽しいことも苦しいことも、悩みごとや困ったことがあった時も、本音をぶつけ合う。
友だちで、仲間で、同僚で、そして――ライバル。
傍から見ればボクたちの関係は複雑かもしれないけれど、実はとっても単純だ。
握り返してきた響の手から伝わってくるのは、きっと同じ気持ちだ。
「ひびき……話してくれて、ありがとう……」
後ろを歩く響には聞こえていないだろうけれど、それでもかまわない。
大事なことは全部伝えたし、きっと伝わってる。
「よし、真! どっちが先にホテルに着くか競走だぞ!」
突然、そう言って響が走り出す。
「あ……ずるいぞ、響!」
ボクは慌ててその後を追う――必要はなかった。
響を引っ張っていくハズだった手が、今度は響に引っ張られていく。
それがおかしくてボクはつい笑ってしまった。
きっと、響とはいつまでもこれを繰り返すんだろうなあ。
どうでもいいようなことでも競って、勝って喜んで、負けて悔しくなって。
だけど遺恨なんて残らない。
いつも一回限りの真剣勝負だ。
やっぱりボクたちはこうでなくちゃね!

 

 

 

 

   終

 

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