濁世の嘆

 

 その日、3年B組は深い悲しみに包まれた。
沈痛な面持ちで俯く者、溢れる涙を抑えられない者、自責の念に駆られて体を震わせる者など様々いた。
「どうしてこんなことに…………」
中でも高良みゆきは”悲しみの表現の仕方”が分からず、ぼんやりと中空を眺めている。
暗く、濁った朝日である。
クラスを取りまとめる立場のななこも、今ばかりは子どもに帰ったように泣き続けている。
この現代日本において、自殺という人生の締めくくりほど悲劇的な結末はない。
戦争からほど遠く、食べる物も十分にあるこの世界で。
自ら命を絶つという行為は罪だ、とする人も少なくはない。
だが――。
彼女は死んだ。
禁忌を犯してまで彼女は自分の手で生を終えたのだ。
「なんで…………」
彼女と親しい間柄にあった少女は、まだこの現実を受け容れられないでいるようだ。
死からは最も縁遠そうな人物だったのだ。
朗らかで人当たりがよく、決して活発とは言えなかったが悲観的な性格でもない。
「つかさ…………」
泉こなたはその名を呟くのである。
「何か悩んでたのなら一言くらい相談してくれてもよかったじゃん……。
私なんかじゃ頼りにならないかもしれない……けどさ……だって…………」
柊つかさは日曜日の夜に死んだ。
死が訪れたのではない。
彼女は自ら死神を呼び寄せ、ビルの屋上に忍び込み遥か下方に身を投げたのだ。
重力に従って落下した少女の体は地面に激突した衝撃で頭蓋が砕け、四肢はそれぞれが違う方向に折れ曲がっていた。
「私たちは――」
潤んだ瞳でみゆきが言った。
「何ができたのでしょう……私たちなら――つかささんのじ、自殺を思いとどまらせることができたでしょうか」
虚空に向けての呟きは、そのすぐ横にいるこなたの耳にしっかりと届いていた。
「――分からない」
こなたはかぶりを振った。
過ぎ去った時間は戻らない。
みゆきの仮定の話はそれをするだけで、自分の無力さを思い知らされる戒めとしての役割しか果たさない。
(私たちが何もできなかったから、こんなことになったんだと思う……)
落涙するみゆきを見上げ、こなたは思った。
この言葉を彼女は決して口にはしない。
できないのだ。
己の至らなさをわざわざ発音によってまで痛感することはない。
今はただ友人の早すぎる死を悼むだけである。
「つかささん…………」
令嬢の悲痛な声を聞き、こなたもまた溢れる涙を止めることはできなかった。





報せはもちろん3年C組にも齎された。
平素から沈んだ感じのひかるの声がさらに淀んでいたのは、この教室に柊つかさの姉が在籍しているからだろう。
その本人は今日、ここにはいない。
身内が死に、彼女は今も自宅で最愛の妹との別れを惜しんでいるのだ。
彼女をよく知るみさおとあやのは、他の生徒に混じって嗚咽を漏らしていた。
他人といえば他人であるが、このクラスの誰よりもかがみやつかさと接してきた2人である。
こみ上げる悲しみは深く、また抱く想いは強い。
「妹ちゃんが……どうして……」
つかさの死を心底から悲しむ者たちは、誰もが同じ疑問を呟く。
将来を悲観しているような様子はなかったし、不治の病に冒されたという話も聞かない。
修復不可能なほど人間関係が拗れたこともなければ、自殺によって免罪を図ろうとするほどの大罪も犯してはいない。
誰にも何も分からなかった。
もし彼女が耐え難い苦痛――たとえばいじめに遭う等――を受け続けていたとすれば、まだその死は納得のいくものであった。
だがそれも理由ではない。
「ひいらぎ……妹…………」
双子でありながらまるで正反対の2人を思い返し、みさおは唇を噛んだ。
つかさとの接点は決して多くはなかったが、だからといって不特定の死者と同列には扱わない。
みさおもあやのも、もしできたのなら彼女の自殺を止めたかったのだ。
「なんでだよ…………!!」
みさおは悲しみの中に怒りを混ぜたが、その怒りは自分に対して向けたものだった。
あれほどかがみに構っていた自分が、なぜその妹にまで目を向けてやれなかったのか。
ほんの少し、話をするだけでも見えたものがあったのではないか。
「みさちゃん、あまり――」
思い詰めないほうがいい、と言いかけてあやのは口を噤む。
そう慰める資格が自分にはないと気付いたからだ。
むしろ自分こそつかさの死を嘆かなければならないと。
2人が親しくなったのはごく最近だ。
料理やお菓子作りの話題で意気投合し、メールのやり取りもするようになっていた。
そうして徐々に打ち解けてきたからこそ、この度の衝撃は大きかった。
共通の趣味を持って愉しい時間を過ごしているばかりで、彼女が何か悩み事を抱えていることに気付けなかったのではないか。
相手の心情を察せずに楽しめる話題ばかりで盛り上がり、つかさが心情を吐露する機会を失わせてしまったのではないか。
こう考えると、あやのは自分がとてつもなく重い罪を背負っているような気になった。
「………………」
彼女はひかるに見つからないように、机を死角に携帯電話を開く。
律義なあやのは受信したメールを一定期間保存しておく癖がある。
素早い操作で過去、つかさから受け取ったメールを遡る。
(どこにも……)
しかし自殺を仄めかすような一文も、悩みを抱えていると匂わせる文章もない。
「――ということだ。もし何か心当たりがあれば私か黒井先生まで…………」
抑揚のないひかるの話し方は、意図せず生徒たちの感情を昂らせない作用を持つ。
とりあえず明日は休校である、という旨以外はみさおもあやのも殆ど担任の言葉を聞いていなかった。
ホームルームが終わると、まるで今日が通夜であるかのように生徒たちはしずしずと教室を出て行く。
「あやの」
周囲を窺い、自分たちもそうするべきだと判断したみさおは鞄を手にした時、
「日下部、峰岸……ちょっといいか」
生徒がおおかた出て行ったのを見計らい、ひかるが声をかけた。
「2人とも柊とは親しいだろう。何か心当たりはないか?」
「いえ……特に何も……」
「日下部は?」
「私もです……柊とは昨日もメールをやりとりしましたけど、いつも通りでした」
「そうか…………」
担任として桜庭ひかるは、まず聞き取りによって真相に近づこうとする。
だがその狙いはあっさりと外れ、彼女は早くも己の無力さを感じさせられる。
「先生はどうですか? 柊さんに変わったところは――?」
今度はあやのが問うたが、ひかるは少し考えてかぶりを振った。
それが分かっているなら生徒には問わないし、それをわざわざ教えることもない。
「何でもいい。思い出したことがあったらすぐに私に教えてくれ」
いつもの眠そうな目はパッチリと開き、瞳の奥には真実を知りたがっている人間が宿す炎が見える。
2人は立ち上がって一礼し、教室を出た。
それほど長く話し込んだわけでもなかったが、教室にも廊下にも人の姿はない。
みさおがちらっとあやのを見た。
”柊の家に行くか?”
その視線の意味を素早く察知したあやのが頷くことはなかった。
知人の弔問は時期を誤れば遺族の深い悲しみを誘う。
「そうだよな……」
自身の軽率さを恥じるようにみさおが俯く。
「峰岸さん、日下部さん」
廊下の向こうから呼ばれ、顔を上げるとこなたとみゆきがいた。
「2人ともどうしたんだ? みんなもうとっくに帰ったぜ?」
「私たち、黒井先生にいろいろ訊かれてたんだ。その、つかさのこと……」
「そっか」
「もしかして2人も?」
「うん。柊ちゃんに変わったところはなかったかって――」
ここにいる4人はつかさ、かがみと接点が多い。
それだけにこうして頭を交えると彼女の自殺の原因を探ろうとする者、想い出話を語りたがる者が出てくる。
「受験のことで悩んでた――ってことはないよね……」
「チビッ子……ちょっと失礼にも聞こえるぜ」
「あ、いや、そうじゃなくってさ。調理師目指してるって言ってたじゃん。だから――」
「そう、よね。妹ちゃんは将来の目標をちゃんと定めてたもんね」
「進路っつったら私こそ何も決めてないんだよな」
「私もだよ。とりあえず進学っていうだけでその先は……」
B組とC組で互いに情報を交換し合う。
2人は普段のつかさを、2人は普段のかがみを語り、どこかに原因はないかと探る。
だがそれでも思い当たる点はなかった。
つかさの死は自ら招いたものではなく、事故死か病死を疑いたくなるほど生に前向きだったのだ。
「まさかいじめに――」
「それはないよ」
あやのの仮説に、こなたは素早く割り込んだ。
「学校じゃほとんど一緒にいたもん」
みゆきと共につかさとは多くの時間を過ごしたことをこなたは強調した。
そのような事実があれば彼女たちが必ず気付くハズなのだ。
「高良ちゃん、どうしたの?」
校門を出たあたりで、みゆきが全く口を開かないことを疑問に思ったあやのが問う。
みゆきは雪のように白い肌を青くさせている。
「………………」
「高良ちゃん?」
「はい……?」
あやのに顔を覗きこまれ、みゆきはそこで初めて反応した。
「すみません……! 少し考え事をしていたものですから……」
何を考えていたのか、は訊くまでもない。
つかさとかがみに接した時間、交わした会話、場所はそれぞれで異なる。
4人には4人の付き合い方があり、思い出がある。
「私には――」
みゆきが頬に手を当てて言った。
「夢に向かって歩もうとする人が……その、自ら命を絶つとは思えません」
”自殺”という直截的な表現を彼女は避けた。
「そうだよな……」
その一言にみさおが同調する。
やはりどう考えても死に至る理由に思い当たらない、というのが彼女たちの見解だった。
差し当たって思い悩むのは明日以降、かがみにどのように接するかである。
自分たちまで暗い顔をしていれば却って悲しみを増すだけだ、とするみさおに対し、
だからといって明るく振る舞うのは正しいとは思えない、とみゆきとあやのが揃って反駁した。
「今は……敢えて声を掛けるのは控えたほうがよいかもしれません……」
妹を喪った少女には、どれほど親しい者が言葉をかけても心を抉るような苦痛しか与えないだろう。
ヘンに意識せず、かがみが他人と会話ができるようになった時にこそ慰撫するのがいい。
彼女たちはひとまずの結論を得、それぞれの家路についた。

 

 瀟洒な門扉をくぐったみゆきは、外から戻った者が言うお決まりの文句を吐いた後、いそいそとリビングに向かった。
「おかえりなさい」
ソファにもたれたまま、母ゆかりは肩越しに振り返って娘の帰宅をにこやかに迎え入れた。
「お邪魔でしたか?」
みゆきがそう問うたのは、ゆかりが録り溜めていたビデオの消化をしていたからだ。
デジタル機器に疎い彼女は、テレビ番組の録画再生にビデオテープを使う。
「最近は面白いドラマが多くて――」
再生を中断し、ゆかりは伸びをした。
終始笑顔の彼女を見る限り、疲れとは無縁のように思える。
専業主婦たる彼女の楽しみはドラマ観賞に尽きる。
恋愛モノならなお良い。
架空の男女の馴れ合いは、灰色の現実に生きる者にとってはオアシスだ。
「ところでお母さん、ウェルテルは大成功ですよ」
母に似て、みゆきの笑みも実に柔らかい。
見る者を油断させ、警戒心を解かせる温かさがある。
「それは良かったわ」
レコーダーの電源を落としたゆかりは、ゆっくりと振り向いた。
「ええ、偉大な発明だと思います。一口飲むだけであれほどの効果があるとは……」
みゆきの笑顔は恍惚に変わり、妖しげな艶やかさを覗かせた。
高良製薬が開発した新薬ウェルテルは、服用した者から生きる気力を奪い、自殺に向かわせる作用がある。
どのようなメカニズムでそうなるのかは研究に携わった者しか知らず、みゆきやゆかりの知り得るところではない。
この薬の開発には大きな意義があった。
人間が高度な文明社会を築きながら、同時に発達させてきた理性。
この理性は高次の思考をする際に必要だが、人類を一生物とみた場合、これがしばしばマイナスの方向に働く。
狭い枠内での損得勘定を優先してしまうのだ。
いま地球環境の為だと言い、エコだと言い、尤もらしい言葉を並べ立てながらの運動が盛んであるがこれは詭弁だ。
つまるところ人間にとって益を齎すか、害を及ぼすかが全てを決定してしまう。
地球に優しくなるのは、突き詰めれば人間が快適な暮らしをするに必要だからである。
「最近、このコマーシャルよくやるわね」
放送を地上波に切り替えたゆかりがモニターを眺めて呟く。
安易な森林伐採が地球環境の悪化に繋がることを啓発したCMである。
最後には”エゴを捨てればエコに変わる”などという言葉遊びのロゴが表示された。
(ふふ、地球に優しくですって? その為の最も効果的な方法は人間の数を間引くことですよ)
生きているだけで既に害悪となっている人を薬の効果で死なせ、選ばれた一握りの人間だけでより良い未来を構築する。
ウェルテルは概ねこのような理由で開発された。
「ええ、白々しい文句ですね」
達観どころか濁世に半ば諦観している様子のみゆきは、冷やかに言う。
「着替えてきますね」
偽善に満ちたテレビCMを観ただけで不愉快になったみゆきは、やや大股でリビングを後にする。
(絶滅危惧の動物を保護する傍らで、牛や豚や鯨を平気で殺す……愚かしい矛盾です)
くだらないバラエティ番組を蔑視しながら、彼女は小さく息を吐いた。
(食べるためなら殺傷は構わないとでも言うのでしょうか? しばしば人は異常発生した生物を減らそうとしますが、
だとすれば増えすぎた人間も間引くべきです。世界中に分布している支配者気取りの愚かで優秀な生物こそ――)
自らの手で駆逐されて然るべきだ、と彼女は思っている。
独善的な性格に育った才女は同時に、
(その作業の中、ほんの少し娯楽を織り交ぜても問題はないでしょう)
とも自分に言い聞かせる。
この冷徹な少女は他人を死に追いやっても罪悪感を持たない。
つかさの飲み物にウェルテルを混入し、その結果彼女が自殺したところでみゆきが味わうのは苦痛ではなく快楽である。
(料理以外に取り柄らしい取り柄のない貴女に生きる価値などありません。どれだけの食材をただ彩りのためだけに犠牲にしたかを考えれば――)
柊つかさを死なせる理由は十分にあった。
まず彼女自身に生産性がないこと。
勉学において愚、体を動かすにおいて鈍。
そのような人間が生きていてこの先、何かを生み出すとは思えない。
(つかささんは料理が得意です。将来はその方面の仕事に就きたいとも言っていましたね。ということは…………)
みゆきは口の端を歪めた。
「貴女はこの先、牛や豚を殺して……あるいは死んだそれらにさらに刃を突き立て、焼き、食し、そのうえお金を貰うわけでしょう?」
中空に向かって彼女は呟いた。
「食べるために命を奪うことまでを悪とは言いません。しかし貴女がこれからするのは、食べるために必要なことではありません。
そうした犠牲を顧みることなく笑いながら貪る人間を喜ばせるために、”盛り付け”と称して憐れな食材となった彼らを自分勝手に加工する……。
悲しくも人間の糧となった命を弄ぶ愚弄な行為ではありませんか」
霊魂というものがあって、挨拶がてら生前の友人を訪ね回っているとしたら、彼女はこの呟きを聞いているかもしれない。
「つかささん、貴女がそうして漫然と生きている間、多くの尊い命が奪われていくのですよ?」
愚鈍な人間が他の命を饕(むさぼ)り己の命を繋ぐ様は、みゆきにとっては目を背けたくなる現実だ。
だから彼女はつかさを死なせた。
殺したのではない。
自ら死ぬよう仕向けたのだ。
(こうして価値ある人間だけが生き残り、他の命と共存共栄を図る――素晴らしいことではありませんか!)
艶美な笑みを浮かべたみゆきは、妙に質素な部屋着をはためかせて自室を出た。

 

 憔悴しきったかがみは、石同然に固くなった足を引き摺り数日ぶりに登校した。
口を開けばダイエットという単語を放っていた彼女は、今や痩身を通り越して過食が必要なほどに窶れている。
「ひいらぎ…………」
変わり果てた友人にどうにか声をかけようとするが、みさおには気の利いた台詞は思いつかない。
葬儀には多くの弔問客が訪れ、遺族が手続き等に忙殺されていたために参列した彼女たちは今日まで言葉を交わしていなかった。
「みさきち」
朝のホームルームが始まるまでの時間。
こなたがそっとC組に顔を出した。
入口でかがみの姿を認めた彼女は、近くにいたみさおに声をかける。
「あ、チビッ子」
かがみに負けないくらい暗い顔をしていたみさおは、見知った相手に安堵のため息をつく。
「どう……?」
という質問がもちろんかがみの様子についてだと分かっているみさおは、
「見てのとおりだよ」
消え入りそうな声で答える。
柊かがみは支えなしで着席できるのが不思議なほど萎えている。
最愛の妹の喪失は、彼女にとっては体の半分を無惨に切り取られたに等しい。
言わば生と死の狭間に置き去りにされたかがみの目には、自分をちらちらと見ながら案じてくれているこなたやみさおの姿は映らない。
ただ虚空を見つめるのみである。
「学校に来るだけでもつらいだろうにな」
みさおが腕を組んで言った。
「あんまり顔出さないほうがいいかな……」
というこなたの呟きに、
「泉ちゃんは妹ちゃんともずっと一緒にいたのよね?」
いつの間にか傍に寄ってきたあやのが問う。
「ならしばらくは顔を合わせない方がいいと思う。泉ちゃんや高良ちゃんを見たら柊ちゃん、きっと――」
そこに亡きつかさの影を見てしまうだろう、とあやのは続けた。
「そう、そうだよね…………」
これにはこなたも承服せざるを得ない。
慰めの方法には直接に声をかける他、敢えて時の経過を待つというのもある。
辛苦に打ち拉がれながらも、かがみは今日、学校に来た。
それをひとつのステップと見れば、慰撫はその後だ。
タイミングを計ったようにチャイムが鳴り、こなたは暗い顔をして教室に引き揚げた。
入れ替わるようにやって来たひかるは、なるべくかがみを見ないようにしてホームルームを進行させた。
彼女は終始、俯いたままだった。

 

 その日の放課後。
つかさと親しい間柄にあった少女たちは柊家に招かれた。
呼んだのはかがみだが、弔問客としてではない。

『見てほしいものがある』

昼休みに彼女は短いメールを送った。
口頭で伝えなかったのは返事の応酬による会話を避けたかったからだろう。
今のかがみには言葉を受けて、それを言葉で返すだけの余裕はない。
それでも一応のケジメと落ち着きを取り戻す為に、放課後を指定して時間を稼いでいた。
「お邪魔します」
4人は見慣れた玄関に向かってお辞儀をした。
空気が重い。
本の数日前までここには遊びに来ていたのだと思うと、何とも妙な気持ちになる。
「いらっしゃい」
億からまつりが出てきた。
客人をもてなすにはあまりに沈んだ表情であるが、状況を理解している招待客は同じように恭しく頭を下げた。
「あれ、あんたの部屋に置いてあるから……」
まつりはかがみに耳打ちするとキッチンに消えた。
「さ、上がって」
いつもは凛としている少女の声はやはりか細い。
こなたたちは無言でかがみの後ろを歩く。





中央の卓を囲んで4人が座ると、部屋はそれだけでいっぱいになる。
「あの、かがみさん……今日はどういった…………?」
ひとり青白い顔でみゆきが問う。
「うん、ちょっと、ね……みんなに見てほしいものがあるのよ……」
だからその見せたいものとは何なんだ、と訊きたかったみゆきは深呼吸して逸る気持ちを抑える。
周囲を見て彼女はハッとなった。
誰もが視線を下にしている。
ここでは友人の死を悲しむ常識的な令嬢を演じなければならない。
みゆきは慌てて――慌てていることを誰にも悟られないように――俯いた。
「これなんだけど……」
かがみが抽斗から取り出したのは真っ白な封筒だった。
開封済みのそれには汚れひとつなく、どれほど大切にされていたかが分かる。
「手紙……?」
あやのの呟きにかがみは無言で便箋を抜き出す。
「つかさの遺書よ……机の中に入ってたの」
この瞬間、みゆきだけは他とは違う種類の緊張感に襲われていた。
手紙の内容は知りたい。
しかしそこに何が書かれているのか……。
みゆきは掌にじとりと掻いた汗をスカートの裾で拭った。

 

『 お父さん お母さん いのりお姉ちゃん まつりお姉ちゃん かがみお姉ちゃん

ごめんなさい。

私にもよく分からないけど急に死ぬことを考えるようになりました。

このまま生きていていいのかとか、死んでしまったほうがいいんじゃないかとか。

本当によく分かりません。

でも生きているのはとっても辛いです。

だからちょっとこわいけど死ぬことにしました。

ありがとう ごめんなさい

                つかさ    』

 

各々が黙読し終えた時、部屋は恐ろしいほどの静寂に包まれた。
女の子らしい丸みを帯びた文字の羅列だが、綴られた内容は不釣り合いなほど重い。
具体的で抽象的な遺書を何度読んでも、つかさが死を選んだ理由は判然としない。
「つかさ…………」
こなたが小さく小さくその名を呼んだ。
悲観的な想いは伝わるが、何に悲観的になっているのかは明らかにされていない。
「これがつかささんの……」
みゆきは安堵のため息をつく。
妙な薬を飲まされたという事実も書かれていなければ、みゆきが何らかの形で関与していると匂わせる一文もない。
(誤謬のない作文には論理的思考力が必要……ただ自殺に追い込むだけかと思いましたが、直前まではある程度の意識は保っているようですね)
これにより彼女は少し用心深くなる。
突発的に自殺するのではなく、当人に遺書を用意する時間とそれだけの精神の余裕があるなら、死の直前に様々な行動をとることが予想される。
例えば自暴自棄になって誰かを巻き添えに……という可能性も無くはない。
「どうして……つかささん…………」
みゆきは眼鏡を取り、涙を拭うフリをした。
遺書という予想外の事実が発覚したが、彼女自身には何ら災禍は降りかからない。
むしろ薬の効果が覿面であったことに笑みすら零れそうになる。
「みゆき…………」
大仰な泣き真似に、かがみは苦悶の表情を浮かべる。
事実の裏側を知らない彼女は、みゆきが本当につかさの死を悼んでくれているのだと思っている。
ハンカチで目元を覆いながら、みゆきは突如沸き起こった怒りに肩を震わせた。
(……次はあなたですよ……かがみさん…………!)
震えは大きくなり、床についた拳を握りしめる様は誰が見ても悲しみに打ち震えているようにしか思われない。
(私とあなたの間には雲泥万里の差があるのですよ? なのに学年が同じという理由だけで私を呼び捨て?
出来損ないの泉さんですら敬称をつけるというのに…………私と同格だと思っているのなら、勘違いも甚だしい!)
独善的な支配者気取りには、他者を殺める理由にいちいち正当性を求める必要はない。
(選ばれた人間に対する尊崇や敬意を表せない輩のレヴェルなど、高が知れています。
悪辣な人間がいなくれば司法も弁護士も必要ないのですよ!!)
かがみの死に様をあれこれ想像していたみゆきからは憤怒の情は消え、体の震えは歓喜のそれに変わっていた。
難しいのは薬を飲ませることだけ。
後はその効能で彼女が死ぬのを待てばいい。
今ならその自殺の原因も、愛する妹を喪った悲しみに耐えきれずに……と周囲が勝手に解釈してくれる。
こなたも、みさおも、あやのも。
まさか自分たちと同じように哭する少女がその発端であると気付きはしないだろう。
「つらい想いをしてたのね――」
それが何か分からないままにあやのは呟く。
「妹ちゃんの痛み、私たちが気付いてあげられれば……」
止められたかもしれない、と彼女は言う。
しかし彼女やみさおには難しかっただろう。
つかさとの接点が少ない2人に、柔和な少女の心情の変化に気付けというほうが無理である。
その意味ではこなたこそが自責の念に駆られるべきだった。
姉に次いで多くの時間を過ごしてきたこなたは、もう何度も自身の無力さを痛感している。
同じクラスでありながら、親しくしていながら、実際につかさの死に直面してもなおその理由はおろか兆候さえ思い当たらない彼女は、
泣く資格さえ自分には無いのではないかと激しく己を責め立てる。
悔恨の想いは、
「私なんだ……私こそ気付いてあげられたハズなのに……」
この呟きに現れている。
「こなたの所為じゃないわよ――」
そんな少女をかがみは決して責めたりはしない。
もしこなたを責め立てれば、それはそのまま自分に返ってくる。
彼女より遥かに永い時間を過ごした姉に。
咎は跳ね返ってくるのである。
「みんなに宛てた遺書じゃないけど……でも見てほしかったのよ。つかさはどう思うか分からないけど」
柊つかさが確かに生きていた証として遺書がある。
これを親しかった者に見せることが供養のひとつにもなる、とかがみは考えている。
付き合いの度合いにより受け止め方はそれぞれだが、少なくともつかさが自らの意思で死を選んだことだけは誰もが理解した。
その理由が明らかでないこともまた、全員が理解した。
今はただ、若くして命を絶ったつかさと、悲劇の渦中に投げ込まれたかがみのために泣くだけである。
「柊ちゃん、その……なんて言っていいか分からないけど…………」
元気を出して、などという無神経な台詞は吐かない。
あやのはそこで言葉を切り、友人のために気の利いた声かけひとつできない自分を恨むように唇を噛んだ。
「つかさ…………」
妹の名を呟いたかがみの顔には――。
既に死期が迫っているような暗さがある。
「ひいらぎ……」
その肩にみさおが手を置きかけた時、彼女はぶるっと体を震わせた。
「ごめん……私、まだ――つかさが死んだなんて信じられない……」
焼かれ、骨だけとなった妹の姿をかがみは確かに見た。
火葬場に入れられるところまで見送った彼女なら、あの遺骨がすり替えられたものでないことは分かる。
主観的にも客観的にも柊つかさがこの世の人でないことは明らかだ。
青白い顔で俯くかがみを見て、みゆきはハンカチで口元を押さえて笑みを隠した。

 

 それから1週間が経ちきる前に、柊かがみは旅立った。
双子の絆の強さはその死に際にも表れていて、彼女はつかさと同じ場所から身を投げた。
今度は遺書の類は発見されなかったが、死そのものが生者への強烈なメッセージとなった。
「なんで……? なんで……かがみまで…………!?」
告別式場を後にしたこなたは我慢していた涙を溢れ出させた。
滂沱として流れる涙は止められない。
親しい者を2人も喪った悲しみを表するのにこの程度ではとても足りない。
「柊……!! バカだよ……お前は……お前が死んでどうするんだよっ!!」
みさおの慟哭は、普段の快活ぶりとの対比によってその場に居合わせた者の深い悲しみを誘う。
「妹んとこに行ったと思ってんのか!? 冗談じゃねえよ…………!! こんなことして……何になるんだよッ!!」
「みさちゃん…………」
泣き崩れたみさおを支えようとするあやのもまた、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「ひいらぎッ!!」
つかさの死は突発的だった。
結局、自殺の原因は薬を飲ませたたった1人を除いては誰も知ることができなかった。
キッカケはおろか、その兆候すら見抜けなかったのだ。
その意味では彼女の死を防ぐことは不可能に近かっただろう。
家族でさえ見抜けぬ死の歩みに、こなたたちが気付ける道理はない。
だが――かがみの場合は違う。
自殺の原因は明らかなのだ。
真実は違うが、何も知らない彼女たちからすれば、かがみの死は即ち後追い。
喪失感が引き金になったものと思い込んでいる。
だとすれば、こちらは防げたハズだ。
適切なタイミングで、正しいタイミングで声をかけ、生きる気力を取り戻すように彼女を慰めていたら……。
かがみは死なずに済んだかもしれない!
記憶の中に亡き妹の姿を描き続けていたとしても、時の経過が悲しみを癒してくれたかもしれない。
最愛の妹を喪った痛みは消えなくても、その痛みをいつかは克服し、思い出のひとつとして残りの人生をともに歩めたかもしれない。
しかしそれは叶わなかった。
いつ癒えるか分からない受苦を伴うよりは、その苦しみからただちに解放される道を彼女は選んだのだ。

――誰にも説得させる暇さえ与えず。

――誰にも別れを告げず。

柊かがみは死んだ。

近しい者の逝去はまだこの世に生きる者に様々な想いを抱かせる。
悲しみ、怒り、恐れ。
それらに苛まれるこなたたちを横目に、みゆきは充実感に酔いしれた。
(まずゴミの始末はできました。が、まだまだ足りません。世の中には――)
みゆきはちらりと、
(取り去るべき穢れが蔓延っていますからね……)
少女を蔑視した。
悲しみを怒りに転化させて嘆き悲しむ少女がいる。
(視界に置くのも汚らわしい……体を動かすばかりで頭をまるで使わない愚かな人……。
知性の欠片もない癖に私を”眼鏡ちゃん”ですか? あなたがこの先、何かの役に立つとは思えません)
みゆきは今後の行動についてシミュレートした。
比較的接点の多かったかがみやつかさに薬を飲ませることは簡単だったが、今度は相手が違う。
自然に飲み物等を提供しても、その行為自体が不自然にとられかねない。
(難しくはありますが……私は愚昧な輩に生きる資格など与えませんよ。ええ……ただちに――)
新薬ウェルテルにはみゆきも最近まで気付かなかった性質がある。
服用する量と、服用後に標的が自殺するまでの時間とに何らかの関係性がある、というものだ。
彼女が初めてこれを用いたのはつかさに対してだが、効能については詳しく聞いていなかったため、ごく少量を数回に分けて服用させた。
結果、つかさは望みどおり命を絶ったが、最初に薬を飲んでからかなりの日が経っており遺書を遺す余裕まで与えてしまった。
そこでかがみに対してはその数倍の量を飲み物に混ぜて供した。
果たしてみゆきの考えた通り、かがみはウェルテルを飲んだ3日後に投身自殺を図った。
しかも今度は生者へ宛てたメッセージはない。
多量のウェルテルが強烈な自殺願望を湧かせたのだ、とみゆきは思った。
死に際を彩る精神的余裕も与えず、殆ど反射的に死に向かせたのだと。
つかさと同じ場所、同じ死に方を選んだのも彼女に僅かばかり残っていた理性の為せる業で、
分量を増やせばそれすらせずに突然死のごとく命を絶っていたに違いない、と。
(さらに多くのウェルテルを飲ませれば――日下部さん、醜いゴミは即死も同然です)
ゆかりによればこの薬は無味無臭、水にも溶けやすいという。
難しいのはみさおに自然な形でそれを口に運ばせるところまで。
自殺を誘う成分が混入していることなど微塵も疑わないだろう。
(そのためには癪ですが日下部さんと親しく振る舞わなければなりませんね。癪ですが……)
ため息をついたみゆきは、しずしずとみさおに歩み寄った。
「日下部さん……お気持ちはお察ししますが……どうか気をしっかりお持ちください」
慰め方としては及第点だ、とみゆきは思った。
「かがみさんの遺志……私たちが尊重するべきです。悲しいことですけれど、それがかがみさんの望みなのでしたら厳粛に受け止め――」
「――できるかよ……」
「はい…………?」
「んなことできるかよっ!!」
差し伸べられた手をみさおは乱暴に振り払った。
「納得できねえよ!! 妹だって何で死んだのか分かんねえのに……! なんで柊までこんなことするんだよ!!」
友人を喪った者としては、ごく自然な反応だった。
自分の想いを正しく言葉にして叫ぶことはできたが、今の彼女は錯乱状態。
第三者の陳腐な慰めなど到底聞き入れられないほど疲弊している。
それはみゆきも分かっている。
分かってはいるのだが、
(下賤なあなたが私の手を……ッ!! この――!!)
演技で慰撫しようとした自分を拒んだ蛮行は許し難かった。
憤る彼女は今、この場で薬の瓶を開け、学識の微塵も感じられないしまりのない口にウェルテルを流し込みたい衝動に駆られた。
ひと瓶を希釈せずに服用させれば、その強力な作用で彼女は目の前でただちに舌を噛み切って死ぬかもしれない。
「そ、そう、そうですよね……そのとおりです…………」
獣のように鋭く光る双眸に加え、何か言いたげなあやのの視線に貫かれ、みゆきは不細工な作り笑いを浮かべた。
(少しあからさま過ぎましたか……ここは泉さんにも同じように接してバランスを)
煮えくり返る腸に冷水を浴びせ、みゆきはぎこちない足どりで少し離れた場所にいたこなたの元へ歩み寄る。
みさおほどストレートではなかったが、こちらも深い悲しみに涙を堪え切れないようである。
「泉さん…………」
子どものように涙するこなたを見ている間は、ある種の憐れみの情が湧くためにみさおへの怒りはいくらか抑えられる。
「みゆきさん……なんでつかさもかがみも、自分から死にたいなんて思ったのかな……」
「………………」
この小学生かと見紛う友人想いの少女は――。
百科事典のごとく多くの知識を詰め込んでいる才媛に意見を求めた。
彼女なら答えてくれるかもしれないと。
愚かな自分には到底想像もつかない回答を得られるかもしれないと。
少女は博識に縋ったのだ。
「それは…………」
私が薬を飲ませたからだ、とは間違っても言えない。
蘊蓄を傾け、愚者に知識のごく一端を披露することに無上の喜びを感じるみゆきは、この言いたくとも言えない事実を牴牾(もどか)しく思った。
「私にも……分かりま――」
高良みゆきが最も嫌うのは知性に欠ける者と、質問に”分からない”と答えることだ。
知に対して人並み以上に敬意を払い、畏れ慎むみゆきは無知であることに心底から恐怖する。
そんな彼女が”分からない”と答える――実際には答えを知っていても――のは、最上級の屈辱なのである。
「………………」
みゆきはこなたを恨んだ。
止むを得ないとはいえ、自分に”分からない”と答えさせる質問をしたこなたを激しく憎む。
蔑(なみ)するべき相手に味わわされた屈辱は、閃電が中空を駆け巡るように殺意に転じた。
だが今、自殺に追い込むべき相手はこなたではない。
(あなたはいつでも殺せます。まずは日下部さんを始末しなければ……)
殺意を強烈な憤りにまで抑え込み、みゆきはウェルテルを飲ませるシチュエーションを模索した。
いくつかのパターンは思いつくが、どれも実現性に乏しい。
理想はみさおだけを呼び出す等して服用させることだが、彼女の傍にはいつも峰岸あやのがいる。
(今のように…………)
彼女が見る限り、あやのは才女だ。
さして親しくもない相手から提供された飲食物に、易々と手をつけるような人物ではない。
みさおの保護者的役割を担うこの少女なら、みゆきの策にも簡単に乗らず一度は咎めるだろう。
(では一人の時を狙うしかありませんね)
みさおとあやの。
両者の特徴を素早く掴んだみゆきは、好機があることに気付いて北叟(ほくそ)笑んだ。

 

 人は同種の経験を繰り返すことによって耐性が付き、事物に対する”慣れ”が身につく。
腕を磨くというのはつまりこの”慣れ”のことであり、刻苦勉励を重ねてきた職人がその道の匠へと昇華するのは自然な流れである。
しかし、自らを高みに押し上げる反復は人生に益として働くが、深い悲しみの連続は消えない傷痕をその者の心に刻み込む。
日下部みさおの死は慣れない痛みのひとつだった。
彼女の名前を知っている、顔を知っているという程度の間柄の人間には、ここ最近頻発している自殺の連鎖の一部としか見えないが、
彼女と接点のある人間には心を引き裂かれるほどの大事件だった。
かがみ同様、遺書を記さなかったみさおはある晩に自宅で首を吊った。
直前の様子には変化はなく、家族も自殺の理由が分からないという。
理由――。
彼女の死にはそれがない。
もしあるとすれば友誼があったかがみの死に触れ、自責の念に駆られた、とこじつけるのが精々だろう。
自責とはもちろん彼女の死を防げなかったという意味だ。
友人への深い情があればこう考えるのも自然とは思えるが、みさおに限っていえば不自然である。
もし理由がそれであるなら、彼女はかがみの死に共感し、理解していたハズだ。
だが実際はそうではない。
日下部みさおは最後までかがみの死に方には納得していなかった。
前向きな彼女は自らの死によって解決を図るのではなく、生きることで答えを見つけるタイプだったのだ。
「なんで…………?」
こなたがこう呟くのは3度目だった。
底抜けに明るく、ポジティヴを体現したような少女が。
死を逃避と考え、生を尊いと考えていたハズの少女が。
もうこの世にはいないという事実。
それがこなたには信じられなかった。
病苦に苛まれて将来を悲観したゆたかが……というシチュエーションのほうがよほど納得できる。
(みさきち…………)
こなたの記憶の中には陽気なみさおの姿しかない。
快活さと恬淡さは時によって疎ましがられる要素でもあるが、彼女に関してはそうしたマイナスの面はなかった。
少なくともこなたにとってはかがみ同様、肩肘張らずに付き合える相手だった。
たまに毒舌を真に受ける傾向こそあったが、たいていの冗談には素早いリアクションを返してくれた。
性格はもちろん、かがみを中心に置いた時の立ち位置も自分と似ていただけに親近感を抱いていたのは間違いない。
(なんでこんな…………)
こなたは太陽の消滅した昼間に投げ出された感覚に襲われた。
「泉さん……峰岸さん…………」
頃合いを計ったようにみゆきが声をかける。
彼女はここ数週間で演技の腕が格段に向上した。
好きな時に涙を流せるし、唇を噛む、深く項垂れるなどの仕草も自然になってきた。
特に感情移入をしているわけではない。
瞬きをやめれば涙は乾いた眼球に勝手に流れる。
まだ消すべきゴミがいくらでもいることを憂えると、意識しなくても彼女は唇を噛みしめている。
己の英知に陶酔し、また1人死に追いやった成果に表情が綻んだ時、それを周囲に悟られまいとすれば自然と頭は垂れる。
才媛みゆきには一切の努力は不要だ。
「ウソよ……こんなの……ウソに決まってる…………」
虚空に向かって呟き続けるのはあやのだ。
体の半分を切り取られた想いの少女には、精神を襲う激痛に抗えるだけの力はない。
「峰岸さん――」
ふらつく足取りであやのの元に歩み寄ったこなたは、そのまま崩れるようにしてその肩を抱く。
「なんで……つかさも……かがみも、みさきちも…………!」
「言わないでっ!」
温厚篤実と評して差し支えない少女がヒステリックに叫んだ。
「ウソなの! 全部ウソなのっ! 夢に決まってるっ!!」
「ちょっ――!? 峰岸さ…………」
現実をしっかりと見据えていたハズのあやのは、ここに来て全てが夢だったと結論付けて逃避を図ろうとする。
つかさ、かがみの死は堪えられたが、やはりみさおまでもが自殺したことには精神が持たなかったようである。
「あるハズないわ……こんなこと…………みさちゃんが……! みさちゃんがこんな…………ッッ!!」
家族を除けばみさおと最も長く時間を共有していたのは彼女だ。
性格こそ違えど幼い頃から多くを共有してきたあやのにとって、みさおの知らない部分など無いハズだった。
ポジティヴで奔放に振る舞っているようで、さりげなく他者への気配りを見せるところも。
体を動かすことが好きで勉強嫌いという典型的な体育会系でありながら、こなたと違って宿題や課題のまる写しなどせず、
周囲に頼りながらも自分で成し遂げようとする潔さも。
陵桜に入るために猛勉強した努力も。
さらに言えばその努力があやのと同じ学校に行きたいから、という理由によるものだったことも。
峰岸あやのは全て知っている。
その性格の差ゆえに喧嘩をしたこともあったし、励まされたことも何度もあった。
だから彼女にとってみさおは、かがみにとってのつかさ同然だった。
隠し事をしていても誰よりも早く見抜けた。
どんな些細な事柄でも、みさおがあやのに対し後ろめたさを感じることがあれば、彼女はそれを敏感に察知できたのだ。
「ウソなのよ……!!」
しかし今回だけは違った。
気付けなかったというレベルの問題ではない。
みさおの死に直面した今もなお、あやのは”気付け”ないのだ。
彼女が死を選んだ理由が――。
「………………」
どれだけ思案を巡らせても永遠に答えには到達し得ない。
それが分かっているみゆきは頬の筋肉が弛緩しないように注意を払った。
鮮やか過ぎる手口を思い出し、つい笑いそうになってしまうのを堪えるのは彼女には難しかった。
(ふふ……いくら仲が良いとはいっても四六時中、行動を共にするわけがありませんものね。
日下部さん、陰鬱な気分を吹き飛ばそうと、この状況で不謹慎と後ろ指をさされることを覚悟で敢えて部活動に打ち込むこと。
私には読めていましたよ。あなたは頭でモノを考えることを放棄し、体を動かすことで逃避を図るタイプですものね。
嗚呼! 汚らわしい! 人間としての知性の欠片も感じられないあなたは早々に死ぬべきだったのですよ!)
死者の体に鞭打つように、みゆきは法では決して裁けない罪を心の中で犯し続ける。
当初、難ありと思われていた作戦だったが、みさおの性格から行動を先読みしたみゆきは、彼女を自殺に追い込むのに手間はかからないと確信した。
日下部みさおの言動は分かり易い。
あれこれ思案して動くタイプではないため、その行動の幅も限られてくるのだ。
みゆきはそこに目を付けた。
何かあれば体を動かしてストレスを発散する人間は、そのストレスの種類に関係なくやはり同じ手段での解消を図る。
テストの点が思わしくないのも、友人が無惨な死を遂げたのも、彼女にとっては結局はスポーツに打ち込むことで発散できるストレスなのだ。
だからみゆきはその隙を狙った。
みさおは陸上部、あやのは茶道部。
放課後はこの2人も別々の場所で、別々のことをして時間を送る。
あやのさえいなければ、みさおに薬を飲ませることは容易い。
全力でトラックを走り終え肩で息をするみさおに、差し入れという口実で飲み物を提供するのは極めて自然な振る舞いだ。
元々マネージャー不在のクラブであったため、特に不審に思われることもない。
むしろかがみの死に悲嘆に暮れるみさおを慰める友人―ーという位置取りができるだけに、みゆきにとっては絶好の機会でもある。
その際、ウェルテルの量をさらに増やしたのも計算した上での行動である。
(仮にあの薬に味があったとしても、息が上がっている状態ではその味をいちいち確かめることはしなかったでしょう。
それどころか水分を欲していたのです。訝るハズもなく、本能の赴くままに摂取したハズです。そうです! 本能の赴くまま、です!)
その様を今も鮮明に思い返せるみゆきは、ここで再び気を引き締めた。
同時に早くも次の標的を定め、計画を練る。
(サカリのついた雌猫……日下部さんのお兄さんと睦んでいるのは知っていますよ。
どうせやる事をやって子孫を残すつもりでしょう? あなたなら良母良妻になれるでしょうが、そうはさせませんよ!
これ以上、不要な人間が増えては困りますからね。それに……)
形だけ泣く素振りを見せ、慟哭するあやのを蔑視した。
(妹を見ればその兄がどの程度の人間かは容易に想像がつきます。そんな輩の遺伝子を受け継いだ子どもが生まれるなど……。
想像しただけで恐ろしい! 吐き気を催しますよ!)
青白かったみゆきの頬が少しだけ赤に染まった。
(できればその彼氏にもお裾分けして欲しいくらいですね)
2人に背を向けて微笑む。
最愛の……と言ってもいい無二の親友を喪った峰岸あやのだ。
もはや彼女には正常な思考も冷静な判断もできない。
憔悴ぶりを見れば何もしなくても死に向かいそうだったが、彼女にはまだ彼がいる。
それを支えにしぶとく生き延びる可能性は、もちろんみゆきも考えているのだ。
(それなら私が行動するだけです。慟哭する峰岸さんを慰撫する振りをして、気分を落ち着かせるためにと出す飲み物に――)
彼女の中では既に峰岸あやのはこの世の人ではなくなっていた。

 

「もう……いいよ…………」
これは遊びではない。
鬼役の子があちこちに隠れた子を探す遊びではない。
ただ、ある意味ではかくれんぼという表現でも間違いではない。
決して見つかることのないかくれんぼ。
鬼役はいつもみゆきだった。
「もうたくさんだよ…………」
4度目の友人の死は、決して癒えることのない傷をこなたの心に刻み込んだ。
3年C組――。
ここまで来るとクラスメートの死に悲観的だった者たちも、相次ぐ死に懐疑的になってくる。
陵桜は呪われているのではないか?
3年C組は祟られているのではないか?
自殺を図った彼女たちが昵懇の間柄であることはC組の誰もが知っている。
仲良しグループがまるで示し合わせたように次々と死に、その度に教室は悲しみの沈黙に包まれる。
元より抑揚のないひかるの声には感情が込められず、峰岸あやのの死と当面の休校、それに加えて
つかさの自殺後に常駐していたカウンセラーを2名に増やすことなどが淡々と伝えられた。
「お前たちの年代は悩み、躓くことが多いだろう。それを誰にも相談できないことがあるかもしれない。
だが味方は必ずいる。話を聞いてくれる人は近くにいる。親御さんでもいいし、私でもいい。
さっき言ったようにカウンセラーだっている。いいか、決して独りで思い悩むな。誰かに頼れ。甘えてもいいんだ」
滔々と、しかし聞く者の心に訴えかける力強い弁だった。
受け持つクラスから3人もの自殺者を出している彼女こそ、いま最も死に近い人物であろう。
頼りない幼躯はさらに小さく、生きる気力を失い、塵埃にも等しい儚さがある。
ひかるの心の中は自責で満たされている。
人の死には必ず原因があり、その原因によって責任をなすりつける相手が人か、人以外の何物かに分類される。
病死なら病の所為にすればいいし、餓死なら飢饉を恨めばいい。
今回のケース……自殺ではその原因が特定できない。
そもそも自ら死にたくなる状況とはどのようなものだろうか、とひかるは考える。
どちらかと言えば恵まれた人生を歩んでいない彼女だが、少なくとも生を放棄したくなるほどの艱難はなかった。
ふゆきの存在が大きかったのだが、仮にあの世話女房がいなくても斜に構えるひかるなら世を渡って行けたかもしれない。
達観――あるいは諦観――によって人格を形成してきた彼女には、自殺の原因など想像もできない。
(日下部に続いて峰岸もか…………)
悲運の少女たちの背景は想像できなくとも、これから起こるであろうことは想像がつく。
バッシングの始まりだ。
これだけの死者が出たとなれば、遺族は”いじめの実態を調査しろ”と要求してくるだろう。
生徒が死んだ時、ましてやそれが自殺となれば学校を取り巻く環境は必ずこの方向に動く。
(いじめ、か…………)
37人となってしまった教室を見渡しながら、ひかるは考えた。
(あの3人は仲が良かった。いじめがあったのなら誰かが生きているハズだが、3人全員となると……。
他にグループを作っていてそいつらから……? 柊や日下部がよく話をしていた相手は――?)
ひかるは静かに目を閉じた。
もっと自分の受け持つクラスをよく見ていればよかった、と後悔する。
かがみにみさお、そしてあやの。
彼女たちの日常を彼女は知らなさすぎた。
せいぜい休み時間に一緒にいるのを目撃する程度で、その交遊関係がどの程度に及んでいるのか、趣味は何なのか、
休日は何をしているのか、などについては目を向けようともしなかった。
その怠りが今、ここに報いとして現れている。
(聞き取りをするしかない!)
深く知ろうとしなかったとはいえ、3人は間違いなくひかるにとって大切な生徒だ。
このまま原因不明の自殺で片づけるつもりは彼女にはない。
どう頑張っても真実に辿りつけない問題に、桜庭ひかるは挑もうとした。

 

 隣に比し、B組はまだ落ち着きがあった。
最初の死亡者であるつかさ以降、自殺者はずっとC組で生まれているのだ。
従ってこのクラスの生徒たちは一部を除いて、この問題にさほどの感情移入をしない。
しかし黒井ななこは無関心になるわけにはいかない。
相次ぐ自殺がつかさの死を引き金としているとなれば、その咎は彼女にも向けられる。
初動の遅れを糾弾され、原因究明を怠った罪を責められるかもしれない。
3人もの自殺者が出たC組の担任ひかるは、免罪を図るためにななこに責任を転嫁するかもしれない。
(柊は……柊はなんで死んだんや? そない思いつめるような事があったんか?)
つかさの顔を思い浮かべた彼女は、咄嗟に彼女と親しかった少女たちを見た。
こなたもみゆきも、今は魂が半分抜けてしまったように見える。
(これで終わりか? これで終わりなんやろな?)
この世にまだ生きている者には、真実は掴めない。
柊家に弔問に訪れた際も、家族はただ泣き崩れるだけで話を聞くことはできなかった。
それだけ悲しみが深いということなのだが、この昂る感情がいつ自分に向けられるか分からないのだ。
(桜庭先生は何か知っとんやろか……)
早く手を打たなければならない。
遺族か、あるいは安全な位置から批判を行いたがる他の保護者から”いじめ”を疑うキーワードが出て来るよりも先に――。
攻撃の矛先を躱す準備を進めておかなければ最悪、今度はななこが死にたくなるほどの憂き目に遭うかもしれない。
(とにかく桜庭先生と連携をとらなあかん。3人連続で向こうで死んでるからいうて、うちへの批判が逸れることにはならんからな)
現実をシビアに見つめるななこは彼女たちへの追悼をそこそこに、追及逃れの策を探し求めた。
もしまた自殺者が出たとしても、流れからしてまたC組の生徒だろうと踏んだ彼女には、まだ精神的にいくらかの余裕がある。
結局のところ次に誰が死ぬかはみゆきの気分次第なのだが、それを知らないななこは狭い範囲で物事を考えようとする。
彼女にとって生徒の死はもうどうでも良い些末な問題なのだ。
重要なのはそれによって受ける咎。
周囲からの攻撃をどう回避するかに尽きる。
この点がななことひかるの意識の差だった。
(面倒くさいことになったなあ…………)
柊つかさの死は、体罰も厭わない教師にとってはこの程度の扱いなのである。

 

「呼び出してすまなかったな。適当に掛けてくれ」
小会議室に通されたこなたとみゆきは、入口に近い席に腰をおろした。
向かい合う恰好で着座したひかるは、平素見られない深刻な顔つきで2人を交互に見る。
「理由はだいたい分かっていると思うが……」
こうして座ってみると座高はひかるもこなたも変わらない。
「峰岸たちのことで2人に話を聞かせてほしくてな」
みゆきはぴくりと眉を吊り上げた。
最後に死んだのがあやのだからという理由もあるからだろうが、ひかるが出した名前が”かがみ”でも”みさお”でもなかったのは、
彼女が最も生徒として信頼していたのはあやのだったからではないだろうか?
みゆきは思った。
これからの取り調べを思えば、ひかるがどの生徒に重きを置いているのかを推理したところでまるで意味のない作業であるが、
どうせ何を訊かれてもかぶりを振るつもりでいるみゆきにとって、退屈な時間を潰すにはこうした無意味な考察が必要だった。
「泉も高良も峰岸たちとは親しくしていただろう? 何か……気付いたことはなかったかと思ってな」
ひかるはこの聞き取りが、取り調べや尋問の体にならないように注意を払った。
デリケートな問題である。
威圧的に構えたり、返答を急かすような口調になったりしてはならない。
「いえ、私は特には……」
みゆきは頭の中で5秒を数えてから答えた。
「泉はどうだ? 何か心当たりは……なんでもいいんだ。何かあったら――」
「すみません、私にも分かりません……」
体を小刻みに震わせ、殺した声で呟くこなたを見て、みゆきは自分もそうするべきだったと悔いた。
彼女は慌てて眼鏡を持ち上げ、指先でそっと涙を拭うフリをする。
「そうか…………」
聞き取りは既に終わってしまったが、ひかるはまだ諦めない。
この2人が重要な事実を掴んでいる可能性もあり、たった一度の質問にかぶりを振ったからといってお終いにしてしまっては、
再度意見を求めようにもそのキッカケを得難く、辿りつくべき真実は遠退いてしまうだろう。
直接話を聞けるのはこの1回限りだ、とひかるは思った。
「柊が亡くなった時に日下部と峰岸にも話を訊いたのだが、やはり2人とも知らないと言っていたな」
ひかるはどちらに聞かせるでもなく小声で言った。
「こういう事は考えられないでしょうか?」
みゆきが遠慮がちに言った。
「有名人などがその……自殺をすると熱狂的なファンが後を追って同じ死に方をする、というお話があります」
「ああ、よくある話だ。数年前にもそういうのがあったな――」
みゆきが何か解決の糸口になりそうな口調だったため思わず身を乗り出したひかるだったが、
根本の原因に繋がりそうな内容でないと分かると彼女は小さく息を吐いた。
「立て続けに起こっているのは……そういう事かもしれません」
「ふむ…………」
関連のなさそうな話だったが、ひかるはひとまずその意見を受け止めることにした。
発言の内容それ自体よりも、その発言が高良みゆきの口から出たことを彼女は記憶に留めるべきだと考えた。
「あの、桜庭先生」
今度はこなただ。
「どうした?」
「………………」
「何でもいいんだ。気にせずに言ってくれ。ここで話した事は誰にも言わないから」
「みゆきさんが言ったこと、あるかもしれません」
こなたの声には覇気がない。
認めたくないものを見えない力で認めさせられているようで、今の彼女からは自身の意見などは見えてこない。
「妹が亡くなったことが耐えられなくなってかがみさんも……それに峰岸さんだって日下部さんとすごく仲が良かったから――」
後追い自殺したのかもしれない、とこなたは言う。
しかしひかるは懐疑的だ。
考え方のひとつとしてはあるかもしれないが、それで片づけてよい問題ではない。
かがみ、あやのの死は説明できても、そもそもの発端となったつかさの死が説明できない。
人は自ら死ぬのに勇気を必要とするが、後を追って死ぬのにはもっと勇気がいるのではないか?
ひかるは思った。
(交友関係が原因ではないのか? この2人は悲しんでいるように見えるが……)
悪い考えも首を擡げてくる。
(これは演技で、裏でいじめをしていたとか――)
考え込むひかるを見て、みゆきは内心で笑った。
(いくら考えたところで結論を出せたとしても、それは真実ではありませんよ。桜庭先生。
ゴミはゴミ箱に捨てる、という当たり前の行動を私たちがしているのに気付かなければ……。
難しく考えれば考えるほど、正答からは遠退くでしょう)
ドス黒い感情を湧き立たせるみゆきだが、今こうして自分の自由を妨げているひかるは生かしておくことにした。
(この方は生きていても害はありません。むしろ未来のために優秀な人材を育て上げる教師です。
極めて尊い行いです。残念ながら彼女の受け持つ生徒の中に少なくとも3名ほど、その教えを活かせそうにない輩が混じっていましたが……)
という具合に思慮していくと、狭い会議室での一幕もみゆきにとっては有意義なものに思えた。
ただ彼女が許せなかったのは、自分のすぐ横に塵埃にも劣る泉こなたが座っていることだ。
演技とはいえ死者を悼む風を装う自分と、同じ仕草の下衆が気に入らない。
(あなたもすぐに後を追わせてあげますよ)
ここではこなたへの不快感を顔に出しても構わない。
場の空気のお陰で苦痛に醜く歪む彼女の表情は、夭逝した友人に想いを馳せている者のそれにしか見えないからだ。
「率直に訊きたいのだが……」
「はい?」
「………………」
”率直に”と言った割には、ひかるはその先を述べようとしない。
「どうかなさいましたか?」
「あ、ああ……その、いじめとかは無かったのかと――」
「えっ!?」
こなたは思わず頓狂な声を上げた。
縁遠い物騒な言葉に、彼女は信じられないという顔をする。
学生の自殺について具に調べた時、それがいじめに起因している確率は極めて高い。
将来を悲観する年端に至っておらず、しかし自ら死を選ぶのは現状に苦痛を感じているからだ。
そのように絞り込んでいくと、むしろ無限の可能性広がる思春期の娘が命を絶つ理由は限られてくる。
「それはどういう……?」
このキーワードにみゆきは反応した。
加害者を問い詰めたところで、自白するような人間はいない。
仲良しグループの生き残りにこう訊ねては、ひかるが主犯格として2人を疑っているようにしか映らない。
「いや、あくまで可能性の話だ。こう立て続けに起こると、もっと根の深い問題があるに違いないからな」
ひかるの目は真剣だった。
なかなか口を割らない容疑者への掣肘のつもりであろうか、彼女は語気をやや強めた。
「ねえ、みゆきさん」
こなたが囁く。
「桜庭先生、もしかして私たちのこと――」
「やめてください」
みゆきは余所を向いて反駁した。
(”私たち”の中に私を含めてもらっては困ります。それに―ー)
ひかるはじっと2人を見つめている。
(地球を、自然を、私のような有能な人間をいじめてきたのは彼女たちのほうですよ)
みゆきは喉まで出かかっている言葉を呑みこみ、
「そういう事はありませんでした。かがみさんたちが亡くなった理由は――私たちこそ知りたいと思っています」
この場を繋ぎ合わせる台詞を選んで真摯な顔つきでぶつける。
感情的になるまいと抑えていたみゆきも、こなたと同類と見なされるばかりか、いじめっ子の汚名まで着せられては流石に黙ってはいられない。
「……すまない、失言だった」
言葉では謝罪しているものの、ひかりはまだその線を捨て切っていないようだ。
(私とこのゴミが結託してかがみさんたちを追い詰めた――とでも思っているのでしょうね)
みゆきは息を吐いた。
(いいでしょう。すぐにその考えが間違いであったと教えて差し上げますよ)
その後の取り調べでは返答をこなたに任せ、殆ど口を開かなかったみゆきは退室の際にだけ、
「失礼します」
当てつけがましく妙に通る声で言い、やや乱暴にドアを閉めた。
ひかるに嫌疑をかけられたのは癪に障るが、みゆきの独善的な判定基準では彼女はまだ自殺に追い込むには至らない。
立場上、かがみたちを庇護するのは当然であり、受け持ちの生徒の死に見て見ぬ振りを決め込まない潔さが、却ってみゆきからの評価を高めた。
むしろ問題解決に消極的で、相次ぐ自殺者が自分のクラスから出ていないことに安堵さえしているらしい黒井ななこのほうが、
よほど次のみゆきの標的になってもおかしくないくらいだ。
桜庭ひかるはこの世界に生きることを許されたのだ。
一方でそれを許されていない少女がすぐ傍にいる。
「ねえ、みゆきさ――」
「泉さん」
こなたが何か言いかけたのを、みゆきは慌てて遮った。
余計なことを喋らせてはいけない。
余計なことを考えさせてもいけない。
友人の死を4度も経験している今のこなたなら、思考力も判断力も相当に鈍っているだろう。
言葉巧みに自殺に追い込むだけの材料を、みゆきはずっと前から持っているのだ。
「よろしければ家にいらっしゃいませんか?」
表面上は低頭で。
重要なのはこなたを家に招き入れることだ。
そのためなら一時の屈辱にも耐えられる程度の精神力が、みゆきにはある。
「みゆきさん…………」
この誘いをこなたは真実とは正反対の意味に受け取った。
つまり身近で自殺が頻発し、孤独を恐れるあまりに自分を誘ったのだと。
(そうだよね……こんな事ばっかり起こって……怖いなんて言葉じゃ足りないよ)
こう推測するのが精いっぱいだった。
実際、こなたにもみゆきの心情を慮る余裕はない。
従って、
「うん…………」
彼女が力なく肯うのはごく自然な反応だった。

 

 ゆかりがいない、という状況は彼女にとって幸運だった。
この日、このタイミングでたまたま買い物に出かけている母に、みゆきは心から感謝した。
ウェルテルを使って級友――彼女はそうは思っていない――を死に追いやっているのはゆかりもよく知っている。
従って迂闊な言動はしないだろうが、彼女はみゆきを産み育てたとは思えないほど不器用だ。
何かの拍子に口を滑らせ、相次ぐ自殺の真相をこなたに知られてしまう可能性もなくはない。
「どうぞ、そこにお掛け下さい」
こなたをリビングに通したみゆきは、入口に最も近い椅子を指した。
もうすぐ死ぬ卑賤な人間に上座を勧めるほど、みゆきは蒙昧ではなかった。
初めて見る豪奢な内装にも、こなたは別段の反応を示さない。
平素ならこのブルジョワに萌え要素を絡めてみゆきの頬を紅潮させるところだが、今となってはそれは不可能だ。
ツッコミ役も聞き役もいない。
この状況で明るく振る舞えるだけの精神力は、こなたには無かった。
「はい、どうぞ」
憔悴しているこなたは、お茶を差し出すみゆきが嗤っていることに気付かない。
「ありがと……」
俯いたまま力なく礼を述べる声には起伏も抑揚もない。
「なんでこんな事になったのかな…………」
この呟きにすら波が無く、語尾を曖昧にしているためにみゆきにはそれが単なる独り言か、質問なのかは分からない。
「さあ…………」
取り敢えず相槌を打っておく。
ここでは会話は問題ではない。
こなたが出されたお茶を飲むかどうか。
みゆきはそこにだけ気を配っている。
もちろんウェルテルを混入しているが、その量はこれまでに比べればかなり少ない。
こなたがみゆきの家を訪れ、その直後に自殺してしまうと疑いの目が向けられてしまうかもしれない。
常に慎重で時に大胆なみゆきはその可能性を考慮し、少量のウェルテルをこなたに飲ませることにした。
これなら死までの期間を延ばすことができ、彼女の死と高良家に因果関係を見出す者はいなくなるだろう。
「私にも何がどうなっているのか分かりません。発端はつかささんなのでしょうけれど――」
自分の手で4人も葬っておきながら、悲嘆に暮れる友人を完璧に演じ切るこの少女の精神は、既に常人のそれを遥かに超越している。
加えて博学才穎、狡兎三窟を地で行くみゆきにとってこの程度の工作や推測は知を働かせるまでもない。
「うん……それはそうだと思うけど……」
凋落した様子のこなたは視線を落とした。
(飲みましたねっ!!)
小躍りしそうになるのを、みゆきは何とか食い止める。
こなたがお茶に口をつけたのを、彼女は確かにその目で見た。
この時点で目的はおおかた達成されているが、この才女はさらに、
「泉さんが気になさることはないと思います」
敢えて冷たい口調でこう言った。
”気にするな”と言われるほど”気にしてしまう”人間の心理を衝いた初歩的な作戦だった。
一度絶望を味わわせて正常な思考をできなくし、その直後に一本の救いの糸を目の前に垂らす。
それだけで対象の心を意のままに操ることができる。
知識の収集を趣味にするみゆきが、比較的早い段階で得た人間の面白さである。
仕掛け人が人望厚い才媛だったこともあり、この作戦は見事に嵌まった。
こなたは何を感じているのか、体を小刻みに震わせ、
「ねえ……ねえ、みゆきさん……」
絞り出すように言う。
「楽に死ねる薬とかないかな…………」
「…………ッ!?」
この呟きには流石のみゆきも動揺を隠せなかった。
(まさか……いえ、そんなハズは――)
平静を装うことに全力を注ぐ。
大丈夫だ。何も問題は無い。
4人の死と自分を結び付ける線など存在しない。
あったとしても自分はこなた如きが見破れるような襤褸(ぼろ)は出していないハズだ。
それに相手は心神耗弱状態だ。
たとえ多少の動揺を見せても、それに気付かれることはないだろう……。
みゆきは自分にそう言い聞かせ、深く息を吸い込んだ。
これがゆかりなら、手足の震えを両手で顔を覆う事で誤魔化す――という機転すら利かせられなかっただろう。
さらに不覚にも動揺を誘われたこなたの発言を逆手にとり、ウェルテルの効果を最大限に発揮させる立ち回り方があることなど、
母ゆかりでは到底考え付かないだろう。
(妙に勘が鋭いところがありますものね、泉さんは。いいでしょう。それならこの状況、大いに利用させていただきます)
僅か数秒で落ち着きを取り戻したみゆきは、徐に席を立って廊下の向こうに消えた。
塞ぎ込むこなたはそれには気付かない。
「好都合ですよ……」
薬瓶を片手にみゆきはうっとりとした表情で呟いた。
彼女にはまだまだこの世から消し去ってしまいたい人間が多くいる。
だが自然な形でウェルテルを飲ませられるだけの関係は築けていない。
そこでみゆきは直ちにこなたを利用する方法を思いついた。
オタクのくせに――あるいはオタクだからか――思いの外、交友関係の広いらしい彼女を通して、
さらに多くの人間にウェルテルを飲ませることができる。
「泉さん……」
何食わぬ顔で戻って来たみゆきは、ここ暫らくで飛躍的に上達した演技の腕を見せつける。
「死ぬだなんて……冗談でもそんなこと言わないでください」
危うく笑いそうになるのを堪える。
「みんな死んじゃって……家族までそうなったらどうしようとか考えたら不安で――」
一度悲劇的な思考をしてしまうと、その負のスパイラルから脱するのは難しい。
現に近しい者たちが相次いで自殺しているという事実が、こなたの悲観的な推測をより強化してしまう。
(…………………)
みゆきがちらりと視線を落とした先。
こなたの前に置かれた湯呑みは空になっていた。
(不愉快なオタク。何も生み出さないあなたは今から既に地球のお荷物なんですよ)
内心の悪意を全身に滲ませながら、彼女は粉末状のウェルテルを差し出した。
「みゆきさん……?」
「安定剤です。今は薬の力を頼ってもいいと思います」
有無を言わさずこなたに持たせる。
調剤薬局で貰ったと言っても疑われない程度の細工が施されている。
1回分ずつに分けられた包装。
12回分が連なっているが、もちろん僅かでも飲んでしまえば服用者は自ら命を絶つことになる。
「小早川さんやおじ様も安らかではないでしょう。どうぞ差し上げて下さい」
高良みゆきには善意というものがない。
自分勝手に基準を設け、そこから外れた”ならず者”に対しては死という最も厳しい制裁を加える。
小早川ゆたかもまた、その制裁の対象だった。
(病弱なあなたは人に甘え、消費するだけの人間です。生産性のない虫ケラは死になさい)
たとえ社会に何ら貢献できず無為に日々を貪る人間であっても、みゆきはただちにそれらを殲滅の対象には据えない。
やはり一定の基準を設け、減点方式によってそこからどれだけ乖離しているかによって生殺の別を決めている。
彼女たちの場合、生産性が無いというだけで大きなマイナス評価を受けるため、そこからよほど挽回できなければ忽ち制裁されてしまう。
蒙昧な虫ケラが高良みゆきへの表敬を怠ったり、世間的にはまだ十分に受け入れられていないオタク気質を押しつけるような真似をしたりすればその時点で失格。
長命は諦めなければならない。
(あなた方を生かしておくほど私はお人好しではありませんよ)
穢れたDNAを持つ少女への処刑を躊躇わないみゆきは、そのDNAを受け継がせた親に対しても憐れみ無き死を与える。
親が存命なら、いつ異性と交わってゴミを産み出させるか分からない。
禍根は早いうちに取り除いておいたほうがいいのだ。
彼女ができるのはここまで。
後はこなたが勧めに従い、ウェルテルをゆたかやそうじろうに分け与えるのを祈るのみである。
そのための一押しとして、みゆき自身もこなたの目の前で粉薬を飲んでみせる。
もちろんこれはウェルテルではなく調味料の類だが、見た目には差異はない。
「実は私も……少し前からこれを服用しておりまして……」
笑みを隠すために俯き気味に呟く。
「こんな悲しいことばかり起こって、本当に心苦しいのですが――安定剤のおかげでかろうじて正気を保てているのだと思います」
過剰な演技ではない。
泉こなたにとって高良みゆきが尊敬の対象であることを彼女は知っている。
示された敬意は萌え要素の集合体に対してだとこなた自身が口にしたことがあるが、それだけではない。
学年トップで雑学にも詳しい才媛なら、注がれる想いは尊崇か嫉妬のどちらかしかない。
こなたが抱く想いは間違いなく前者である、と賢しいみゆきは分かっている。
分かっているからこそ、
”あのみゆきさんでさえ、平静を保つためには薬に頼らざるを得ないのだ”
とこなたが感じるであろうことも彼女は読んでいた。
こうして自ら薬を服用しているところを見せれば、その効能について説得力が増す。
加えて精神の安定のために薬剤に頼ることへの抵抗感も無くなる。
(その忌々しい顔を見るのもこれ限りと思いたいですね)
目的のためとはいえ陋劣な少女を家に招き入れることに強いストレスを感じているみゆきは、
それ以上は言葉を紡ごうとはせず、相次ぐ知人の自殺に心を痛めている嫋(たお)やかな少女を演じ続けた。
こなたが帰った後、彼女が潔癖症のごとく室内を殺菌して回ったのは言うまでもない。

 

 2週間後。
目先の掃討を終えたみゆきは、母ゆかりとの晩餐を楽しむ。
「ゴミの処理は捗っていますよ。まずはごく近いところから――」
数日前、こなたの訃報に接した彼女は自身の才能をほんの少し恐れた。
実際に死に追いやったのはウェルテルであるが、それを最も効果的な形で見事に服用させた自分の演技力と読みの深さを考えた時、
高良みゆきの味わう快感は表現し難い極上の甜味となるのである。
形式上、泉家の葬儀に参列した彼女はすっかり憔悴しているそうじろうを認めた。
妻に先立たれ、娘に自殺された鰥夫(やもめ)にはもうこの先を生きる気力は無いようだった。
(泉さんはあの薄汚い父親にもウェルテルを分けたでしょうか……)
という疑問も今となってはさほど真剣みを帯びたものではない。
窶れ果て、覇気を失った彼を見た時点でみゆきの目的はおおかた達成されているのだ。
定期的でなくてよい、大量でなくてもよい。
あの粉末のほんの一粒でも体内に取り込まれた瞬間、その人物の生は必ず終わりに向かう。
(飲まなかったとしてもじきに死ぬでしょう。そこまでの気概は無さそうでしたからね)
そうじろうは制裁の対象となっているが、こなたと違って自分の生活に関わりが薄い分、
みゆきは彼の処遇についてはそれほど執着していないようである。
それよりも同じクラスになったばかりに否応なく不快な想いをさせられるオタクを始末できたことに彼女は歓喜した。
「それは良かったわね」
この女性は目の前の娘が”自殺に見せかけた他殺”を繰り返しているというのに、
平素のにこやかな表情を全く崩すことなくお茶を啜っている。
迂闊なところの多い彼女だが、娘の行為に動じないあたり精神は常人のそれを逸したレベルに達しているようだ。
「効果は実証済みです。これが大量に作られ、撒布できる態勢が整えば世界にとってこれほど喜ばしいことはありませんよ」
不要な人間を自殺に追い込むのに、その人物と接点を持ってウェルテルを飲ませるのが酷く非効率的であることは、
才媛みゆきなら実行前から気付く事実である。
たったひとりを死なせるのに数日がかかる上、自身も逐一動かなければらないという煩わしさとリスクを伴う。
粛清には向かないのだ。
英邁な彼女はこの欠点を克服する方法を考えている。
粉末状のウェルテルを風上から撒布する。
これだけでよい。
風下にいる人間は吸気とともに体内に取り込んだウェルテルによって生きる力を奪われ、みゆきの望むとおりの行動をとる。
ただしこのやり方では対象を選べない。
将来にわたって社会に貢献し得る好人物まで巻き込んでしまっては、未来にとって大きなマイナスとなる。
そのために選別を行い、不要な人間のみを一ヵ所に集める必要があるだろう。
「そうね…………」
近づく理想の未来に瞳を輝かせるみゆきに比し、母ゆかりは声調に抑揚を持たせない。
怒っていても、悲しんでいても、彼女はいつも穏やかな表情と一定の口調で話す。
いつものように優雅に食事を楽しむ女性とその娘。
「あら…………」
ゆかりが不意に視線を落とした。
「飲み物がなくなったわね」
「私が淹れてきます」
「いいのよ」
腰を上げかけたみゆきを制する。
「今晩も貴女に作らせちゃったから、お茶くらいは私が淹れてくるわ」
2人分のコップを持ってゆかりは厨房に向かう。
彼女自身は滅多に料理をしない。
才女を育てただけあってその腕前はかなりのものだが、ゆかりはそれを披露するのを意図的に避けてきた。
生来の面倒くさがりな面もそうさせていたのだが、彼女が厨房に立ちたがらない理由は別にある。
(お茶くらいは、ね…………)
コップを持つ手の震えを必死に抑える。
高良みゆきは所謂天才肌の部類に入る。
よほどマニアックなもので無い限り、見聞きした情報は余さず吸収し、習得する。
そのうえ運動能力も高いというあたりは、凡百の人間からすれば十分に羨望の的になり得る。
(………………)
しかし自慢の娘を持つ母ゆかりは栄光浴に溺れることはなく、むしろその正反対の想い――つまり憎悪と嫉妬の炎を、
そのにこやかな笑顔の裏に細々と燃やし続けていた。
彼女が料理をしなくなったのは、みゆきがいるためだった。
何を聞いても覚え、何をやらせても会得してしまう才女が。
彼女には妬ましかった。
もちろんあの英邁な少女は母を見習い、瞬く間に料理の腕を上げた。
その技能はあっさりとゆかりを越え、それを趣味とするつかさやあやのに迫るほどである。
「この新薬の効き目は大したものね」
食事の準備をみゆきに任せる一方、飲み物だけは常にゆかりが用意していた。
最も自然な形で娘に薬を飲ませるには、調理に気を取られている隙にお茶などに薬を溶かす方法が手っ取り早い。
ゆかりはそうして毎日少しずつ、みゆきに薬を飲ませていた。
しかしそれはみゆきが陋劣な級友に対して使ったのとは名前も効果も全く異なるものだった。
いま、ゆかりの手にある新薬の名はマンスローター。
服用すると人を殺したくなる作用がある。
ウェルテル同様、ほんの僅か体内に取り込んだだけで溢れる殺意は誰にも止められない。
少量であれば人を殺めたいという欲求に留まるが、それも時間を経れば実際に行動に移すほどに強烈に作用する。
「貴女は悧巧だもの。いくら人を殺したくなったからといって、警察のお世話になるような馬鹿な真似はしないと思っていたわ」
彼女は娘が嫌いだった。
自分と違って何でもそつなくこなし、見れば覚え、聞けば記憶し、触れれば体得する。
不器用だった自分から何故これほど器用な娘が生まれたのか、ゆかりはその成長を楽しみにしていたが、
いつしか2人の関係――厳密にはゆかりから見たみゆき――は”母と娘”から”女と女”にすり替わっていた。
そうなると生まれるのは嫉妬心。
万能なみゆきの後ろ姿に自分への嘲笑を感じ取ったゆかりは、寝食を共にするこの少女を自分の生活から排除してしまいたい、
と考えるようになった。
排除と言えば抹殺してしまうのが最もストレートな手段であるが、娘を殺めた自分にも当然、咎が及ぶ。
精神的な苦痛の根源を潰しても、今度は肉体的な苦痛として鉄格子の中に閉じ込められたのでは意味がない。
だから彼女はみゆきにマンスローターを飲ませ、ウェルテルを与えた。
「飲めば自殺を図ってしまう薬……そう聞かされてそれを他殺に使うなんて。貴女はやっぱり才女ね。
直接手を下さずに欲求を満たせるもの。そんな考えによく辿りついたものだわ」
ゆかりは小さく息を吐く。
「第三者にとって自殺と他殺に差異はない。自分以外の誰かが死ぬという意味では同じなのよね」
こう考えているから彼女は娘が級友を死なせたことに罪悪感を抱かない。
自分には関係のない人間の死だ。
彼女たちの死に慟哭するような白々しさはゆかりにはない。
(私は貴女が嫌いだった。私と違って優秀で何でもできる貴女が憎かった……でも…………血は争えないもの。
不要な人間を間引けば社会はもっと良くなる! その考え方だけはしっかり受け継いでくれたわね)
思想だけでなく能力も遺伝していたなら、ゆかりがみゆきに対して殺意を抱くことはなかっただろう。
(貴女はいずれ薬の力によって私を殺すかもしれないわね。近親者は対象から外れるなんて虫の良い効果はないもの――)
悲観的な将来を描きながら、ゆかりは妖艶な笑みを浮かべていた。
(でもいいのよ、それで。娘を殺人鬼に仕立て上げた母親の末路はそれくらい皮肉的なものでなくちゃ…………)
みゆきへの憎悪はここに来て、生への諦観に転じていた。
娘を抹殺した上で劣等感に苛まれずに日々を過ごしたいという願望が、時を経るごとに薄れていく。
代わって首を擡げたのはそれとは正反対の想い。
(その時はいつ来るかしらね、みゆき……)
彼女は既に自分の死に踏み込んでいた。
生への執着はもはや無く、かといって人生を悲観しているわけでもない。
危うい天秤の上にゆかりの精神はあった。
(私は待ちきれないのよ。さあ、早く殺してちょうだい――)
彼女自身、濁世に疲弊していた。
高良という資産家の中で暮らしていると、世間とはとかく卑陋に満ちていて救いようのない穢れきった泥沼に見えてくる。
集る俗物や大衆、風俗の醜さはこちらが求めなくても容赦なく迫って来る。
新聞にラジオにテレビにインターネット。
どのような手段を用いても得られる情報はいつも同じ。
無意味で無価値な有象無象の下卑な様が、時に文字で、時に音で、時に映像で五感に届く。
しかしそんなつまらない世界の中でも、人品高潔な者もいる。
たとえば岩崎家のように俗世の数段上のレヴェルにいるような人間だ。
ゆかりが何かとほのかと接点を持ちたがるのも、彼女が汚濁に染まらず気高く在り続けるからだ。
あの柔和な岩崎ほのかが一度でも地に堕ち、愚昧な様を露呈すればその瞬間、ゆかりは即座に身を翻し冷徹にあしらうだろう。
世界は魯鈍の大海と、その海洋に僅かに浮かぶ英邁さという孤島とで出来ている。
そう考えるゆかりは、仮にみゆきが目の前から消え去っても真の安寧は訪れないのではないかと思い始めた。
「みゆき…………」
黒い思考がぐるぐると渦を巻き、ゆかりの脳を浸食する。
(お母さんはもう疲れてるのよ。娘に何もかも奪われて悔しかったのよ。憎かったのよ……。
でもね、貴女がいなくなったところでそれらは戻って来ないの! 私はずっと”何もできないまま”なのよ!)
ゆかりは一度は棚の奥深くに隠したマンスローターを再び取り出し、みゆきのお茶に大量に溶け込ませた。
柔和なのは表だけ。
いま、高良ゆかりの内情はごく短時間で激しく揺れ動き、気がつけば血気に逸った行動を彼女にとらせている。
(娘に殺されるのも面白いかもしれないわね、みゆき)
薬はたっぷりある。
(貴女が破滅するのが先か、私が死ぬのか先か――)
悲劇的な未来を思い描き、ゆかりは表情を変えずに嗤った。
(やれるものならやってみなさい、みゆき。私は逃げも隠れもしないわ…………)
潔さではない。
娘に人を殺させた罪償いでもない。
主に諦念。
彼女には前向きな思考はできないし、そもそも彼女自身それをしようともしない。
ゆかりは自分がそうしたネガティヴな思考に陥るのは、自分に無いものを持ちすぎた娘に自尊心を傷つけられ、
且つ愚昧な輩の蔓延る現世に期待が持てないからだと思っている。

 

あらゆる煩わしさから、死という究極の手段で逃避を図ろうとする彼女は――。

 

”ずっと前から”既にみゆきが用意した夕食にウェルテルが仕込まれていることに、決して気付くことはない。

 

 

 

 

   終

 

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