破滅への淫佚

 

 ホームルームが終わると同時に、こなたは机に突っ伏した。
最近の教師は生徒に学習意欲を持たせるような授業をしてくれない。
殆どが教科書の朗読で、やることといえば重要な単語を黒板に書き写すだけ。
生徒は生徒でそれらは既に教科書に羅列されているものであるから、同じ箇所にマーカーを引く。
実に単調でつまらない授業だった。
こなたは解放感よりも先に疲労感を味わった。
例えば高良みゆきのような人間なら事務的な教師の仕事にも不満を抱かず知識の習得に努めるだろうが、
泉こなたのような性格ではそれは難しい。
「お疲れのようですね」
鞄を手にしたみゆきがやんわりと声をかける。
「授業の後はいつも疲れるよね」
という誰もが抱く想いを、
「そうですか? 私はいつも新しい出会いがあるおかげで退屈はしませんが……」
みゆきは訝しげに否定する。
彼女くらいの才媛ともなると勉強は知識との出会いになるようだ。
「そういう時は気分転換をなさるといいですよ。たとえば趣味に時間を使うとか」
「そうだよね〜」
だらけた様子で答えたこなたは、そっと視線を右にずらす。
つかさが携帯電話を操作している。
「あ、私は委員会の仕事がありますのでこれで失礼しますね。泉さん、ではまた明日――」
「うん、バイバイ」
いそいそとみゆきが退室する。
殆ど同時にかがみがやって来た。
「お、来たね私のよ――」
「誰が嫁だ!」
という掛け合いもお馴染み過ぎて、そろそろ飽きがきている。
「で、今日はどこか寄るの? 買いたい本があるんだけど」
珍しくかがみが切り出した。
「特に予定はないけど……いつも付き合ってもらってるから今日は私がお供するよ」
「殊勝な心がけね」
かがみは滅多に”ありがとう”とは言わない。
「っていうわけでつかさも――」
と、こなたが声をかけようとした時、当の本人は既に鞄を手にこちらに来ていた。
「ごめん、今日はちょっと行くところがあるから……」
「ほえ? どこに?」
「う、うん、ちょっとね……」
つかさが仄かに頬を朱に染めた。
「あんまり遅くならないようにしなさいよ? みんな心配するんだから」
「うん、ちゃんと連絡するよ。それじゃね」
リボンを小さく揺らし、つかさは足早に教室を出ていく。
その後ろ姿を退屈そうに眺めるこなた。
「さてっと、それじゃ私たちも行こっか」
「ねえ、かがみ」
「なによ?」
「最近つかさ、よくひとりでどっか行くよね」
「え? そういやそうね」
「………………」
「なによ……?」
「気にならないの? 姉として」
「なんで?」
「…………」
同意が返ってくるものと思っていたこなたは、拍子抜けたように息を吐いた。
「いやいや、そこは気になるでしょ。つかさが何してるのかとか興味ない?」
「ならなくはないけど、別に双子だからっていつもベッタリしなきゃいけないってワケでもないだろ?
つかさにはつかさの予定とかあるだろうし」
常識人のかがみはここでも理解のある姉を見せた。
だが何かと首を突っ込みたがるこなたは、その回答には満足できなかったのか、
「悪い遊びとかしてるかもよ〜?」
殊更に不安を煽るような発言をする。
「あんたと一緒にするなっての」
腰に手を当て、強気のかがみは頑として姿勢を崩さない。
「むぅ〜…………」
ノリ悪いぞ、とジト目に乗せて訴えるこなただが、かがみは意に介さない。
「やっぱりパス! 悪いけど本屋はかがみひとりで行ってきてよ」
「はっ? あんた、さっき付き合うって言ってたじゃないの」
「すまぬな、かがみん。男には全てを賭して戦いに挑まなければならない時があるのだよ」
「あんたはいつから男になったんだ?」
呆れ顔で返すかがみは、
「で、ドタキャンの理由は何なのよ?」
社交辞令で一応訊いておく。
「もちろん尾行だよ。つかさの」
よくぞ訊いてくれた、と言わんばかりにこなたは人差し指を立てた。
これにはかがみも閉口するしかなかった。
言うこともやることも小学生並みだ。
「だって気になるじゃん。つかさが大人の階段を上ろうとしてるんだから、ちゃんと見届けなきゃ」
「あんたの中じゃ見届けるのは尾行なのか……」
「まあまあ。かがみは――って言ってもどうせついて来ないよね?」
「行くわけないだろ。っていうか、そもそも尾行する意味が分からんわ」
かがみは話を切り上げたがっているのか、鞄を持つ手を不自然に揺らす。
「ちぇっ、付き合い悪いんだから……」
「本屋に付き合うって最初に言ったのは誰だっけ?」
「………………」
そこを衝かれると反論の余地はない。
窓から校庭を見下ろせば、つかさは既に校門の近くを歩いている。
「見失っちゃうから行くね!」
返事も待たずにこなたは鞄を引っ掴み、風のように教室を飛び出して行った。
残されたかがみは、校庭を走り抜けるこなたを見下ろしながらため息をついた。

 

 背の低いこなたは人混みに紛れるのが巧い。
特段、変わった方法を用いずとも容易に姿を隠すことができるからだ。
十数メートル先を歩くつかさは、背後からの怪しい視線に全く気付く気配がない。
こなたの尾行が見事だからではない。
みゆきとはまた違った天然ぶりを発揮するつかさに、警戒心が芽生えていないだけである。
(どこ行くんだろ……?)
寄り道をする以上、つかさの進路は帰路からは外れる。
彼女の足取りは軽やかで、最寄駅を素通りし次第に人通りの少ない道に入っていく。
行き交う人の姿もまばらになり、こなたは電柱や茂みを利用して身を隠す。
(………………?)
辿りついたのは住宅街。
マンションが立ち並ぶ一角である。
(お店があるような雰囲気じゃないね)
可愛いモノ好きのつかさのこと、彼女の目的はショッピングにあるとこなたは思っていた。
ストラップやキーホルダーなど、姉とは違って持ち物にアクセントを加えたがるつかさはいろいろと飾る道具を持っている。
だが今、彼女が歩いている辺りにはそれらしい店は見当たらない。
足取りは軽く、何かを探しながらというより明らかに目当てがあるようだ。
ある集合住宅の前に来た時、それまで隙だらけだったつかさが突然振り向いた。
(やばっ…………!!)
尾行を気にしているかのような素早い動作に、こなたは慌てて物陰に隠れる。
「…………」
幸い、姿は見られなかったようだ。
つかさは何事もなかったように近くの公園に向かう。
「え……? こんな所に……?」
こなたは思わずそう口にしていた。
公園とはいっても、子どもの遊び場でもなければ老人の憩いの場でもない。
長いこと人の出入りがなかったであろうことはすぐに分かった。
あちこちに生い茂った雑草が入口を示すポールをすっかり覆ってしまっている。
鞦韆(ぶらんこ)や滑り台などの遊具は一通り揃ってはいるが、どれも錆だらけでこれで遊ぼうという子どもはいないだろう。
左右に設置された木製のベンチも幾度となく風雨に晒されて塗装は剥げ落ち、隙間だらけの大きな木片と化している。
廃れた――というよりもはや廃墟に近い公園に、つかさは制服が汚れるのも気にしないで入っていく。
こうなるとこなたの好奇心はますます強くなる。
(あ、もしかして……)
音を立てないようにその後を追い、茂みを掻き分けて中ほどまで進む。
こなたの目線からは見えなかったが、公園のほぼ中央に紅娘(てんとうむし)を模したドーム型の遊具があった。
ちょうど星の部分がくり抜かれており、そこから子どもたちが出入りして遊ぶものだ。
他の遊具に比べて比較的状態は良かったが、それでもこれで遊ぶにはちょっとした勇気がいる。
つかさは雑草を踏みしめ、そのドームの中に入っていく。
(やっぱり……)
柊つかさのキャラクターを考えたこなたは、彼女がなぜここにやって来たのかようやく理解できた。
きっとあのドームの中に仔猫がいるのだろう。
その仔のためにこうして毎日のようにミルクやご飯を運んであげているのだろう、と。
そうでもなければ友人からの寄り道の誘いを断るどころか、誘う暇も与えずにそそくさと
学校を飛び出してヤブ蚊が飛び交うような寂れた公園にやって来る理由が説明できない。
(むふふ、仔猫にミルクをあげる優しいつかさに萌え)
などと内心で笑みつつ、どのタイミングで声をかけてやろうかと考えながらつかさの後を追うこなただったが、
ドームの中から聞こえる話し声に思わずその足が止まった。
「ごめんね〜遅くなっちゃって」
というつかさの声に続いて、
「いやいや、全然待ってないって。俺もさっき来たとこだし」
若い男の声がした。
(え……なに…………?)
こなたは知らず額に汗を浮かべていた。
(猫が喋った……なんてあるワケないよね)
あるワケのない展開を取り敢えず考え、それをすぐに打ち消す。
こなたはドームに張り付くと、一番高い星からそっと中を覗き見る。
太陽を背にしていないため内部に差し込む光を遮らず、つかさに気付かれる心配はない。
こなたはむしろ聞いた覚えのない声の男に警戒した。
「船本くんは優しいね」
くぐもっている所為もあるが、つかさの口調は普段と違って甘く間延びしていた。
男に媚びるような声を聞き、こなたは目を凝らす。
ハッキリとは見えないが男は相当若いようだ。
(えっ…………!?)
こなたは危うく声をあげそうになった。
この誰とも知らない男は突然服を脱ぎ出し、躊躇なく下半身を露にした。
これにはさすがのこなたも目を背けてしまう。
「船本くん気が早いよぅ〜」
しかしつかさは悲鳴を上げるでもなく、狭いドームの中で不自然に身を屈めている。
「だって我慢できねえし。1週間ぶりなんだぜ?」
つかさが既に聳立しているそれを優しく撫でる。
「見ろや、俺の息子を。つかさちゃんのコト考えただけでカッチカチやぞ!」
「あはは、船本くんおもしろ〜い」
笑えないのはこなただけだった。
あり得ない展開が矢継ぎ早に繰り広げられ、順応性が高いハズのこなたも理解が追いつかない。
エロゲでも見られないような状況が彼女の足を竦ませ、もはや目を背けることも立ち去ることもできなくなっている。
「じゃあ……するね――」
つかさはそう呟くと最大級になったそれを徐に銜(くわ)えた。
左手をそっと添え、舌端で弄ぶ様がちょうどこなたの位置から見える。
船本と呼ばれた男はサービスに酔いしれているだけではない。
対価と言わんばかりに四つ這い状態のつかさの頭を撫でている。
「つかさちゃん……!」
快感に震える船本は肩で息をしながらつかさを見下ろす。
(なに、これ……どうなってんの…………!?)
今になって見てはならないモノを見てしまっていることに彼女は気付く。
つかさも船本も享楽に耽っているために、外部への警戒心を完全に捨ててしまっている。
かたやこなたはどうする事もできない。
(つかさがこんな…………)
眼前の蜜事に体温が上昇しているのを感じる。
儀式は次の段階に移った。
つかさが上体を起こすと、今度は船本がぐいっと体を前に突き出し、2つのふくらみを揉みしだく。
「あれ、ちょっと大きくなったんじゃね?」
乙女心を擽る褒め言葉も忘れない。
「えへへ、いつも揉んでもらってるからかな?」
そしてその言葉を額面通りに受け取るつかさである。
このやりとりの最中にも2人の行為はエスカレートしていく。
船本の手つきは時に強く、時に弱く、緩急をつけてつかさの快感を底から引きずり出す。
丈夫だが繊細な彼女の体は異性から与えられる刺激に、ぴくりぴくりと可愛らしく跳ねる。
(………………)
こなたは妙な気分になった。
見てはいけないモノを見ている悖徳感はあったが、それ以上に男女の睦みに触れているうち、彼女の股間も俄かに潤いを増してきた。
モニター越しの虚像ではない、生の営みはどっぷりゲームに浸かっても決して得られることのない快感。
当事者でなくとも、それに極めて近い位置にいるだけで疑似的な気持ちよさが幼躯を閃電のごとく駆け抜ける。
「なにやってんだ!?」
突然後ろから怒鳴り声が聞こえ、こなたは飛び上がりそうになった。
「え、ちょっ――!?」
振り向き、そこに立っているのが若い男だと認識するより先に、何者かがこなたを組み伏せた。
完全に虚を衝かれたこともあり、こなたはなす術なく押さえつけられる。
「え、なに? なに?」
ドームの中から慌てふためくつかさの声がする。
「おい、船本! ガキが覗いてたぞ!」
こなたを組み敷きながら男が叫ぶ。
「マジかよっ!? つかさちゃん、ちょっと行ってくる」
「は、離してよっ!!」
こなたは何とか拘束から逃れようとするが、全体重をかけられているせいで撥ね退けることができない。
その間に衣服を整えて船本が出てくる。
「ちょっとは警戒しろよ。こいつ、多分ずっと前からお前たちのこと見てたぞ」
「全然気がつかなかったぜ……ん……あれ?」
船本がドームの中を覗き見たつかさと目が合う。
(制服――同じ高校の奴か?)
と船本が訝ったところに、ようやくつかさが這い出てきた。
「何がどうなったの……? あれ、吉田君?」
「よぅ、つかさちゃん。久しぶりだな――ってそれどころじゃないんだ。覗き見してた奴がいるんだ、ほら――」
吉田という男は、もがくこなたの襟元を掴んで顔をつかさの方に向ける。
「………………」
「………………」
2人の目が合う。
「こなちゃん…………?」
信じられないものを見るような目つきでつかさが呟く。
「知り合いか?」
「うん、こなちゃん……泉こなたっていうの。同じクラスなんだ」
知らない男たちに自分の名前を告げられ、こなたは厭な予感がした。
柊つかさはもう彼女が知っている友人ではない。
人気のない公園で異性と不純な営みを些かの疑問も抱かず受け容れ、楽しむ淫らな女性だった。
先ほどの台詞から察するに、つかさはこなたが不利にならないよう取り計らう様子はない。
「そうか……つかさちゃんの友だちなら手荒な真似はしたくないんだがな……」
吉田と呼ばれた男はさらに体重をかけてこなたを押さえ込む。
「つかさ、どういうことなのこれ!?」
言外に拘束を解いてほしいというサインをこなたは送るが、
「それは私が聞きたいよ。なんでこなちゃんがここにいるの?」
分かっているのか分かっていないのか、つかさが間延びした声で訊き返した。
”こなちゃんを離してあげて”
という言葉を期待していた彼女は、ここで諦念したように唇を噛んだ。
状況はさらに悪化する。
「ねえ船本くん、吉田くん。これからどうしよう……?」
「どうするって?」
「だってこの場所、お気に入りだったのにもう使えないよ」
「ああ、そうだよなァ。つってもラブホとかじゃ嫌なんだろう?」
「うん……ああいうあからさまな感じは好きじゃない、かな」
「また探しとくよ」
「いやいや、それどころじゃないだろ」
吉田がこなたから目を離さないようにして言った。
「こいつだよ、こいつ。おい、暴れるな! つかさちゃん、このコト喋られたらヤバいぜ!?」
「あ――――!!」
つかさがようやくそこに考え至る。
「口封じしといたほうがいいんじゃねえか?」
「い、言わないよっ! 誰にも言わないから!! だから――」
”口止め”ではなく”口封じ”という言葉を選んだ船本に対し、こなたは悲痛な声をあげた。
「ん〜〜…………」
口元に手を当てて思案するつかさは、すぐに答えを返さない。
「つかさッッ!!」
「誰かにバラされたら困るし……仕方ないかな……吉田くんはどう思う?」
「俺が決められることじゃないからなあ。つかさちゃんの友だちだって言うし……仲が悪くなってもマズイだろ?」
吉田はあくまでつかさの事を考えて答えた。
こういう現場に居合わせた以上、いまさら仲もなにもないハズだが、この男は少なくともつかさには優しいようだ。
「2人とも手伝ってもらっていいかな?」
「…………ッッ!?」
この瞬間、肩越しに振り返ってつかさの顔を仰いだこなたは彼女の後ろに悪魔の影を見た。
「つかさ、ちょっと待ってよ! 私、誰にも言わないから! 約束するからさっ!!」
胸を押さえつけられ、息苦しさを感じながらこなたが叫ぶ。
(不意打ちじゃなかったらこんな男、簡単に倒せるのに……!!)
それができれば彼女は窮地には追いやられなかったし、逆につかさに強く迫ることもできたハズだ。
だが今、イニシアティヴを握っているのはつかさの方だ。
2人の男――船本と吉田も自我はあるが、やりとりを考えればつかさの言いなりになる可能性が高い。
「ごめんね、こなちゃん」
言葉だけは申し訳なさそうに。
しかし顔はにこりと笑顔――異性の心を擽るような――で彼女は言う。
「信用できないよ。こなちゃんって口軽そうだし。だいたい尾行なんてするのが悪いんだよ?」
「………………」
「友だちならそんなことしないよね?」
「ウソでしょ……つかさ…………?」
青白い顔のこなたに蔑(なみ)するように一瞥をくれたつかさは、事態を見守る船本に向き直り、
「こなちゃんが言いたくなくなるようにして」
と、静かに処遇を告げた。
「いいのか?」
吉田同様、つかさとこなたの仲を案じる船本は怪訝そうな顔で問うたが、
「うん。そうでもしないとこなちゃん、誰かに喋っちゃいそうだし」
躊躇う風でもなくさらりと答えるつかさは、この処遇に微塵も迷いがないようである。
「吉田くん、気をつけて。こなちゃん、格闘技やってたみたいだから」
「格闘……!? おい、船本! ガムテかなんか持ってるか?」
言われた船本は茂みに隠しておいた鞄から素早くガムテープを取り出す。
それが必要な職業に就いていない限り、持ち歩くような物ではない。
そうしたプレイをするために携行していたことは明らかだった。
「やめてっ! やめてよっ!!」
「静かにしろ!」
船本が暴れるこなたの両足をテープで縛る。
「こいつ……マジ痛てぇ……!」
その際に何度か蹴られたのか、彼は脇腹を擦って怨みがましい目でこなたを見下ろす。
「船本くん、大丈夫?」
すぐにつかさが駆け寄る。
心配そうな顔の彼女は一瞬、こなたを敵愾心に満ちた眼で睥睨した。
「ああ、大丈夫だ。吉田、念のため腕も縛っておこうぜ」
「おう!」
既に半身の自由を奪われているこなたは抗う術を持たず、されるがままに両腕を拘束された。
「やめてよっ! つかさ、お願い!! 離してよっ!! 誰にも言わないから……!!」
身動きがとれず、しかも見知らぬ男が2人もいるという事実が恐怖心を駆り立てる。
これから先、酷い目に遭わされるか、何の咎もなく解放されるかはつかさの一存にかかっており、
それが分かっているこなたは涙目で歎願する。
「私の後、尾けておいて信用できるわけないよ……」
つかさは艶っぽい唇をゆっくりと動かす。
あの飄々とした泉こなたが形振り構わず助けを請う様を見て、つかさの中に加虐性欲が芽生え始める。
(こなちゃんが泣き叫んだらどんな感じかな……見てみたいな……)
妄想に耽る人間はしばしば定まらない視点のまま対象を捉えることがある。
こなたには今や何を考えているのか想像すらできないつかさが怖かった。
「吉田くん、誰かに聞かれるかもしれないから口も押さえて」
恐ろしく冷静で残酷なつかさは、こなたから一縷の望みを悉く奪う。
四肢を拘束したことで押さえつける必要のなくなった吉田は、仕上げにこなたの口にガムテープを貼り付ける。
「ん〜〜!! ん〜〜ッ!!」
いよいよ助けを呼べない状況に、こなたはぶんぶんと頭を振った。
「あはは、情熱的なお兄さんみたいだよ」
釣り上げた大魚を引き上げるように、2人がこなたをドームの中に運び込む。
狭く、暗く、高湿の舞台だ。
小さな体はこの不愉快な空間のちょうど真ん中に放り出された。
声も出せず、手足の自由も利かず、しかしこなたはなおも逃れようとする。
砂漠の蛇のように背を反らし、あるいはくの字に体を曲げる。
だが可愛い抵抗も船本に腕を掴まれてはままならない。
「ん〜〜ッッ!?」
スカートが下ろされた。
乱暴な所作ではなく、実に丁寧に。
そのせいで一度は膝のあたりで引っかかって止まったが、つかさが暴れる足を押さえつけると、
スカートは導かれるようにして細い脚を抜け出した。
下着を脱がせるのはこれよりももっと簡単だった。
こちらはどのみち制服で隠れるのだから、乱暴に引きちぎってしまってもよい。

”制服が破れたりしたら後で面倒だから”

船本のこの助言はつまり、これからこなたに降りかかる災厄の予告である。
彼は鞄からデジカムを取り出し、献上するようにつかさに手渡した。
(………………ッッ!?)
こうなると愈々気が気ではなくなる。

”言いたくなくなるように”

先ほどつかさの口から出た恐ろしい台詞は、ここにきて現実のものとなる。
「俺にヤらせてくれよ」
そう言う吉田は既にズボンを脱いでいる。
「船本はさっきつかさちゃんとヤッたからいいだろ?」
「別に構わねえよ。俺たちはここで見学させてもらうから」
内壁に張り付くようにして船本はデジカムの使い方を説明する。
「RECって書いてある赤いボタンを押せば録画、もう一度押すと一時停止だ。再開する時はもう一回押せばいい」
「うん、うん……途中で止める必要はないと思うけど」
「――で、こっちのツマミを左に倒すとズームアウト、右でズームインな。録画中にシャッターボタンを押せば静止画も撮れるぜ」
「へえ〜いろいろできるんだね。でもどうしてこんなの持ってたの?」
「そりゃつかさちゃんの可愛い顔が撮りたかったからさ」
そう言って笑う船本の鞄には、ガムテープに留まらず何種類かの拘束具が収められている。





儀式が執り行われた。
吉田は前戯も何かも無視して、いきなり本番に入ろうとする。
彼にとっては快楽を得るための行動でもあるが、そもそもこれは口止めというこなたへの制裁の意味がある。
つかさの手前、彼はこの行為を楽しむ素振りを見せず、小学生とも見紛う少女に忘れられない痛みを与えた。
「んん〜〜〜ッッ!!」
心地よさなど全くない。
恐怖と激痛とが代わる代わるに襲いかかり、こなたの精神を瞬く間に食い破っていく。
「くっそ……見た目どおり狭いな……! こっちが痛くなってきたぜ!!」
腰を強く振って短剣を差し込もうとするが、少女の隘路はその侵入を簡単には許してくれない。
この生々しいやりとりを、つかさは頻繁にアングルを変えてデジタルデータとして保存する。
接写だから画質は極めて良好。
明度を上げればこなたの手足の擦り傷すらハッキリと浮かび上がる。
「いつもこういうゲームしてるんでしょ? 学校でもよく話してるもんね……ギャルゲーだっけ?」
つかさが無邪気に笑う。
そのすぐ下では苦痛に顔を歪め、なおも窮状から逃れようともがくこなたがいる。
吉田はその小さな腰をしっかりと掴んで位置を固定する。
こうしなければ少女の体が小刻みに震え、狙いが定まらない。
「こなちゃん、かわいい〜〜」
猫が鼠を甚振るように、つかさは口の端に厭らしい笑みを浮かべて惨状を記録している。
「つかさちゃんの方が可愛いよ」
「か、からかわないでよ〜」
耳元で船本が囁き、俄かにつかさの頬が赤くなる。
「…………!!」
だが羞恥心に火照った顔は一転、恐ろしい事実に気付き蒼白になった。
「ふ、船本くんっ!」
「どうしたんだよ、急に大声出して」
「声……声入っちゃったよ。私、こなちゃんの名前呼んだし船本くんも――」
「ああ、大丈夫だって。音声の加工くらい簡単にできるんだから」
「そ、そうなの?」
「サイレントにしてもいいし、名前のトコだけテレビでやるようなピー音にしてもいいし」
「な、なんだぁ〜……ビックリしちゃったよ〜」
こなたへの切り札として用意したこの動画に、柊つかさの関与を疑わせる要素があってはならない。
下手を打てば加害者として特定され、後々の災禍になりかねない。
このビデオに必要なのは、”蹂躙される泉こなた”だけだ。
憂いがなくなれば恐れるものは何もない。
つかさは先ほどのように巧みにアングルを変え、泉こなたを襲う悲劇を文字どおり写実的に映し出すためにカメラを向ける。
「んん!! ……んぅ…………!!」
容赦のない責め――あるいは攻め――に、こなたの体力は急速に奪われていく。
健気に拘束を逃れようとしていた彼女は、もはやそうするだけの力も希望も失ったらしく、ただ吉田という悪鬼の思うままに嬲られ、貫かれる。
共に快楽を得、高みに昇るつもりなど微塵もないこの男は、ただ機械的に体を動かし続ける。
その蠕動の速度は徐々に上がっていく。
時間をかけて楽しむ儀式ではない。
「く…………ッ!!」
吉田が少女から聳え立つソレを抜き取った瞬間、先端から白濁の液が勢いよく発射された。
照準は既にこなたの上半身に合わせられており、ゲームでしか見られないような淫靡で凄惨な結末を迎える。
やや小麦色の肌にかけられた白濁の液は、一見しただけでこの少女の身に何が起こったのかについて様々な妄想を掻き立てさせる。
性交渉にはまだ早いと思わざるを得ない体躯の彼女を、知らぬ者が見ればある種の禁忌を犯したであろうことは容易に想像がつく。
一瞬、仄暗いドーム内が光に包まれた。
動画を撮っていたつかさが静止画モードに切り替えたのだ。
フラッシュに照らされ、泉こなたの健康的な肌とそこに付着するトッピングが露になる。
「けっこう画質いいんだぜ、これ。1000万画素以上あるからな」
船本が得意気に言った。
デジタル機器に疎いつかさにはデジカムの性能などどうでも良かった。
ただできるだけ鮮明に――誰が見ても泉こなただと分かるように――これを映像として、写真として保存しておく必要がある。
「ひくっ……うぅ…………」
男の体温をぶちまけられたこなたは、激痛と恐怖と悔恨に小さな体をわなわなと震わせた。
その様を恍惚の表情でモニター越しに見つめるつかさ。
膣内に出さなかったのはつかさの指示だが、もちろん優しさからではなく後顧の憂いを絶つためだ。
「あ〜自己嫌悪だ……」
ポケットティッシュで先端を拭いながら吉田が掠れた声を出した。
「つかさちゃん以外の女の子で出しちまうなんてな」
この男はこなたの目の前で平然とこういう台詞を口にできる。
尤も当人は意識も霞の向こうにあり、彼の発言の内容を日本語として正しく認識できる精神状態ではない。
「いいよ、そうしてって言ったのは私だもん」
モニターを見ていたつかさが、ここで初めて顔をあげた。
もはや”動画”にする必要はない。
動きがあるとすれば、肩で息をするこなたの小さなふくらみが小刻みに上下しているくらいである。
「つかさちゃんは優しいなあ」
天使の微笑みに吉田の中で燻っていた罪悪感がいくらか取り除かれる。
たしかに――。
たしかに船本と吉田にとっては、彼女の微笑は天使が見せるそれである。
だが泉こなたにとっては、悪魔よりももっと凄まじい存在が浮かべる嘲笑だった。
「………………」
つかさはこなたの顔を覗きこむ。
「こなちゃん、分かってるよね。このこと誰かに喋ったりしたら――」
普段、間の抜けているこの少女は脅し文句を最も効果的な部分で切る術を心得ている。
「んぅ…………」
口を塞がれているこなたは言葉を返すことができない。
返す必要はないのだ。
ぼやけた視界の中には邪悪に満ちたつかさの顔と、いまや彼女の切り札となっているデジカムがある。
「そろそろ行くか」
という吉田の声がかかり、船本がつかさを率いてドームの外に出る。
やや時間をおいて吉田がこなたの両手を縛っていたガムテープを解く。
「つかさちゃんには悪いけど……なかなか良かったぜ」
言われても全く嬉しくならない褒め言葉を残し、吉田は2人の後を追う。
「………………」
自由になった両腕をすぐには動かせなかった。
究極の恐怖と痛みとが彼女を極度の緊張状態に追い込み、彼女自身、腕だけとはいえ拘束から解かれたことにすら気付いていない。
だが涙だけは本人の意思に関係なく流れ続けた。
(………………)
やがて感覚が戻り、腕を自由に動かせることに気付いたこなたは文字どおり”口止め”にされていたテープをゆっくりと剥がす。
途端、湿った空気が口元にまとわりつき、思わず咳きこんでしまう。
しかしその不快感は今の彼女にすればあまりにも些細なものである。
「こんなのって…………」
元を辿れば友人を尾行するという、倫理的にも問題のある軽率な行動が招いた結果である。
その失敗――あるいは友への背信行為――の咎としてその身に罰を受けたと考えれば、少なくともつかさは納得する。
こなたは自分の迂闊さを悔やみこそしたが、その代償があまりに大きすぎるのではないかと憤怒の情が湧き上がるのを感じた。
(ひどいよ……つかさ…………)
幼虫のように器用に体をくねらせ、両足の拘束を解く。
固い地面に直接座るという姿勢は、激痛を伴うために今はできない。
歩くことはおろか、支えなしに立ちあがることさえ困難な状態だった。
「………………」
つかさから憐憫の情が感じられなかったこなたは、この薄暗いドームの中、今は独りでいられることになぜか安堵してしまう。





といっていつまでもこうしている訳にはいかない。
「くっ…………!!」
一歩……たった一歩踏みしめるだけで音よりも光よりも速く秘部に激痛が走る。
できるだけ振動が伝わらないようにしながら、こなたは蠢動する啓蟄の虫のごとくドームから這い出す。
猫背気味になり、数センチの歩幅で寂れた公園を歩くさまは滑稽だった。
「つかさ…………」
スカートの前部を押さえながらの帰宅は、さながら尿意を懸命に堪える女児のようだ。
この内側からくる痛みに抗う術はない。
どれだけ鍛錬を重ねようとも、克服できない痛みなのだ。
普段の倍ほどの時間をかけて帰宅する。
屋外で凄惨な目に遭った人間にとって、自宅は聖域にも等しい。
「おかえり、遅かったな」
といういつもどおりの言葉をかけてくれる父が頼もしい。
「うん、ただいま」
しかし返す声はか細く。
明るく振る舞わなければ父にいらぬ心配をかけてしまうことは、こなたにはよく分かっていた。
だが分かっていながらも快活に挨拶を返すことができない。
「どうした? なんか元気がないみたいだぞ」
案の定、そうじろうは平素と様子の違う娘に怪訝そうな顔つきになる。
「あはは、ちょっとダルくてさ……」
自然な切り返しができた、とこなたは思った。
あれこれ言い訳をするより、体調が悪いの一言で済ませておけばそれ以上の追及はない。
日頃、夜遅くまでゲームに興じているおかげでそれを隠れ蓑にすることもできる。
こなたの演技が巧かったのか、そうじろうが深く考えていないだけなのか。
ともかくこの場をやり過ごすことに成功した彼女は、逃げるように自室に向かう。
母親が生きていればさりげなく悩み相談を持ちかけることもできるが、相手が親とはいえ異性ではそれも難しい。
性別でいえば同居しているゆたかも女性だが、彼女には刺激が強すぎる話だろう。
「いたっ…………」
制服を脱ぐのにも注意を要する。
スカートを脱ぐのに無理な体勢をとれば激痛が走る。
(シャワー浴びよう……)
このまま何もかも投げ出してベッドに突っ伏したいこなただったが、不意に無性に汚れを洗い流したくなった。
上半身のあちこちにぶちまけられたアレらを一掃したかったのだ。
あの後、たまたま持っていたティッシュで拭いはしたが、こぼれたアイスクリームのようなベタつきまでは取れなかった。
すっかり恐怖の対象となった吉田がすぐ傍にいるようで、こなたはそれから逃れるように痛みを堪えて浴室に飛び込む。
温めの湯が全て――あくまで表面上の――を洗い流す。
頭髪は丁寧に、体は軽く撫でるように。
ここが唯一落ち着ける場だと彼女は改めて認識した。
(つかさ、なんであんな…………)
とっくにお相手がいそうなみゆきにはおらず、恋愛から程遠そうなつかさには一気に性行為にまで進める相手がいた。
その事実だけでも十分に衝撃的だったが今日、彼女が見せた普段からはあまりにもかけ離れている悪辣な一面がこなたを震え上がらせた。
どちらが本当の柊つかさなのか。
こなたには分からない。
(かがみは知ってるのかな……つかさのコト……)
身内だからといって大っぴらに話せる内容ではないハズだ。
仮に既知であったとしても、今日クラスメートを強姦させたところまでは決して打ち明けられないだろう。
(………………)
ある種の想いを固めたこなたは、緩慢な動作で浴室を出る。
これは告げ口ではない、つかさのためなのだと言い聞かせて。
「もうすぐ夕食だぞ? 今日はゆーちゃんが作ってくれたんだ」
「うん、すぐに行くよ」
浴室を出たところで出会したそうじろうが言ったが、こなたは決心が鈍らないうちにやるべき事をやろうと足早に部屋に戻った。
多くの説明はいらない。
まずはかがみに水を向けるだけでいい。
そう思い、ベッドに投げ出した携帯電話を手に取ったこなたは、それを開く前に厭な汗が額を伝うのを感じた。
メールの受信を知らせるランプが点滅している。

 

 発信者:つかさ

 件名:

 

 本文:(このメールに本文はありません)

 

それはつかさからのメッセージだった。
件名も本文も空欄のまま。
誤送信などではない。
この真っ白な画面にこそ、つかさからの強烈なメッセージが込められている。
(やられた…………!)
こなたが思っている以上に柊つかさは知恵が回るようだ。
彼女がよこしたメールは即ち無言の圧力。
いかにも口の軽そうなこなたに強姦という打撃を与えてもなお、その現場の動画をちらつかせるだけでは決定打にならず、
かがみあたりに密やかに吐露する可能性がある。
それを考慮しての念押しの一手だ。
ところがこれには肝心の脅し文句がない。
脅迫めいた一文があればこなたの軽率さに楔を打つこともできるが、敢えて空白となっているのはつまり、
メールそのものが第三者の目に触れるのを警戒しているということになる。
下手な脅しではそれを逆手に取られて訴えられかねない。
差出人が”柊つかさ”であれば、たとえ本文が無くともそれを受信するこなたにだけは口止めを示すメールであることが分かるだろうし、
それ以外の人間に露見したところで、それこそ”誤送信”という言い訳が成り立つ。
「………………」
出端を挫かれ、こなたは呆然とした。
かがみに密告するという行動はとっくにつかさに読まれていたのだ。
為す術なく立ち尽くす彼女は、父の呼び声にひとまず空腹を満たすことにした。
今日はもう何もできそうにない――。

 

 

 翌日。
気も体も重いままのこなたは、最も苦痛を味わわされる組み合わせで学校までの道を歩く。
つかさを真ん中に、その両側にこなた、かがみという最悪の位置取りである。
これではかがみに声をかけようにも、どうしても間にいるつかさに阻まれてしまう。
にこやなか笑顔の彼女は言外に、こなたに無言であるようにと、無言の圧力をかけている。
(やっぱり、かがみは知らないんだ…………!!)
昨夜のメール、そして今。
つかさはこなたに秘守を迫っている。
この事から船本や吉田の件は誰にも知られていないことであり、また誰にも知られてはならないことだと分かる。
「ちょっと、どうしたのよ? さっきからヘンよ?」
不意にかがみが言う。
テンションの低いこなた、といえば深夜アニメを見逃した時などであるが、特にそうした理由もなく会話に入って来ない彼女に、
かがみは怪訝そうな顔をした。
「え? そ、そうかな……」
切り返しも精彩さを欠く。
かがみに視線を向けると、視界には必ずつかさの顔が入ってしまい平静でいられなくなるのだ。
「こなちゃん、体調悪いの?」
つかさが心配そうに言った。
(よく言うよ……!!)
怒鳴りつけてやりたいところを何とか抑える。
「う〜ん、なんかダルいんだよね。なんでか分からないけど」
代わりに精一杯の皮肉を込めてつかさに返す。
だがそれだけでは治まらず、こなたは、
「あのさ、かがみ……」
上ずった声で名前を呼んだ。
「ん? なに?」
訝るようにこなたに向き直ったのはかがみではなく、つかさの方だった。
こなたはその反応を視野で感じ取り、
「いや、なんでもないよ」
おどけてみせた。
「…………? あんた、ホントに大丈夫なの?」
「大丈夫だって」
ちらっとつかさを見やるこなた。
(………………ッッ!?)
ちょっとした掣肘のつもりだった。
動画を楯に強気に出ているつかさへの、小さな小さな抵抗のつもりだった。
だがこなたの思わせぶりな態度に、つかさは怒っている風でもなく惑っている風でもなく――。

――嗤っていた。

何もかもが自分の思い通りに運んだような、心底から愉快そうな笑みだった。
時おり彼女の感情を示す――ようにこなたには見えている――リボンがふわふわと揺れている。
この少女はかがみに見えないようにそっと携帯電話を取り出す。
その所作だけで彼女が何を言わんとしているかは分かる。
(つかさ…………!!)
一夜明け、昨日の恐怖がいくらか和らいだ時、こなたがつかさに抱いたのは憎悪だった。
といってあからさまにその感情はぶつけられない。
相手は切り札を持っているのだ。
それを失効させない限りは互いの位置関係は決して覆らない。
「お姉ちゃん、こなちゃん、ちょっと急いだほうがいいかも」
この殺伐とした空気を作り出した張本人は、自ら築き上げたそれを柔らかい口調で叩き壊す。
「あ、ほんとだ! もうこんな時間!」
腕時計を見たかがみが小走りに学校に向かうように促す。
後ろをつかさ、やや遅れてこなたが続く。
緩やかな坂を駈け上がる瞬間。
ほんの僅か肩越しに振り向いたつかさは、男を魅了する艶っぽい唇を不気味に歪めた。

 

 傍からは分からないが、こなたには明らかに分かる変化があった。
つかさだ。
いつにも増して、この恐ろしい少女はこなたにべったりと張り付くようになった。
その間柄には令嬢高良みゆきも加わっているのだが、距離感でいえば雲泥万里の差がある。
それが親しさからくるものではないと分かっているのも、こなたひとりである。
監視なのだ。
秘密を暴露されたくないと思う者は、そのネタを抱えている人間の全てを監視しておかなければ安心できない。
目を離した隙にメール一通送られでもしたら、そこから露呈してしまう恐れがある。
「ねえねえ、こなちゃん」
休み時間ごとにこうして声をかけてくるつかさが、こなたには疎ましい。
2、3日も経てばあらぬ噂が立ちかねないほど、彼女は常にこなたを行動を共にしたがる。
その様子を微笑ましげに眺めるみゆきだが、時に見せるこなたの迷惑そうな表情が気にかかり、
「あの、泉さん……どこかお体の具合が悪いのでは?」
やや直截的に問うた。
表情に出過ぎたか、とこなたは思ったが時は既に遅い。
「ちょっとダルくてさ……昨夜ゲームやりすぎたかもね」
つかさの手前、尤もらしい言い訳で回避する。
「………………?」
その答えに納得していない様子のみゆきは、しかしそれ以上の追及はしない。
この才女は他人事には自ら深く踏み込むような真似はしないのだ。





苦痛の午前が終わり、昼休みを挟んで再び苦痛が訪れる。
この日、5時間目の授業はB組、C組合同の体育だった。
体育館でのバレーボール。
しかしこなたにとって種目は関係なく、今日の体育は見学するつもりでいた。
激しく体を動かすどころか、いつもよりペースを落として歩くのにも痛みを伴う体だ。
「やはり保健室に行かれたほうがいいのでは?」
意外と気がつくみゆきがそう言うが、
「ううん、大丈夫だって。端っこで見学するだけだから」
こなたは力なく微笑を返す。
無理でない限りは見学者も体操服に着替えることになっている。
不要な心配をかけまいとこなたも衣ずれの痛みを我慢して体操服に着替える。
「そうですか……それでしたら申請書は私が取ってきますよ」
胸のふくらみに多少着替えに手間取っていたみゆきが、やんわりとした口調で言った。
体育の授業を休む場合には職員室にある申請書に必要事項を記入して体育教官に渡さなければならない。
用紙には理由を書く欄があるがここには、”体調不良のため”という便利なキーワードを記しておけば問題はない。
律義な生徒は頭痛や発熱といったように、もう少し具体的な事柄を書き込むが、この書き方の違いは成績には何の影響も及ぼさない。
さしあたって見学者が留意するべきは提出するレポートにある。
「悪いよ。私がとってくるから――」
と遠慮するこなたに、
「いえいえ、私にはこれくらいしかできませんから……」
にっこり笑ってみゆきは更衣室を出て行った。
「――って感じだな。私がバッチリ決めてやるから見てなって」
後ろで快活な声が聞こえ、こなたが振り向くとみさおがあやのとかがみに何事かを話していた。
会話の流れから今日の試合について打ち合わせをしているのだと分かる。
(………………)
その中にあって楽しそうにしているかがみを見て、こなたは胸が締め付けられる想いがした。
「こなちゃん、そろそろ行こっか?」
とっくに着替え終わっているつかさが、こなたの手をとった。
そのやや強引な所作がこなたを惑わせ、恐怖させる。
「う、うん……」
抗う術を持たない彼女は、引きずられるようにして体育館に向かう。
「つ、つかさ……! つかさ!」
「ん? なあに、こなちゃん?」
「もうちょっとゆっくり歩いて……」
つかさが速足だったのはこなたに股間の痛みを味わわせるためではなく、秘密を暴露されるのを防ぐためにかがみから遠ざける目的があったからだが、
意図せず彼女に苦痛を与える結果となった。
「ごめんね〜。全然気がつかなかったよ〜」
校舎内では誰が見ているか分からない。
つかさは周囲に気をつけて笑みを浮かべた。
(分かってたくせに……ッ!)
こなたは唇を噛んだ。
何とか反撃の糸口はないものかと探るも、隙だらけのようで隙の無いつかさには打撃を与えるのは難しい。
心中穏やかでないこなたは、痛みを堪えながら何とか体育館に辿りつく。
少ししてみゆきが申請書とレポート用紙を持ってきた。
「ごめんね、みゆきさん」
感謝ではなく謝罪の言葉を述べたところに、少なからずこなたの心情が表れている。
「いえいえ」
淑女の振る舞いを見せ、みゆきはつかさを伴ってB組の輪の中に入っていく。
「調子悪いのか? うん、今度からはもうちょっと具体的に理由を書くようにな。あそこにイスがあるから端で見学していなさい。
授業が終わったらちゃんとレポートを提出しろよ。ああ、それと飛んでくるボールに気をつけてな」
「はい」
理由が生理でも書かなければならないのだろうか、とこなたは一瞬思った。
申請書に必要事項を記入し、教官に手渡したこなたはようやく一息つく。
授業を休むというのは気持ちの良いものではないが、少なくともこの時間はつかさから離れていられるのだ。
広い体育館でまで窮屈な想いをさせられては堪らない。
「じゃあ10分後に始めるから両クラスはそれぞれチームを決めなさい」
体育というものは体を動かすことさえ苦痛でなければ、教師にとっても生徒にとっても楽な授業である。
指導者の側からすれば審判を務めていればよく、生徒の側からすれば適当にルールに従っていればよい。
勝敗が成績を左右しないのだから全力で挑む必要もない。
あやのやつかさには苦痛な1時間であるが、みさおにとっては休憩時間のようなものだ。
「………………」
放物線を描くボールを目で追いながら、こなたは形ばかりのレポートを作成する。
大した内容ではない。
眼前で繰り広げられるクラス対抗バレーボールの試合の模様を文章に起こすだけの作業だ。
「珍しいじゃん、チビッ子が見学なんてさ。具合悪いのか?」
汗を拭いながらみさおがやって来た。
C組チームの主力として活躍していた彼女の体操服はたっぷりとかいた汗を吸い込み、
その内側に付けているブラをうっすらと透けさせている。
「う、うん……ちょっとね…………」
快活な少女の妙に色気を感じさせる立ち姿に、こなたは反射的に目をそらした。
「ひょっとして”あの日”かぁ〜?」
したり顔でデリカシーの欠片もない発言をするみさお。
だがその際の声量はとても小さく、対面するこなたの耳にようやく届く程度だった。
「………………」
思わぬ一言にこなたは俯いた。
「わ、悪りぃ……」
その様子にみさおがばつ悪そうに謝る。
(そういうの気にするタイプだったのか……マズイこと言っちまったな……)
日頃、飄々と構えるこなたのこと、この程度の話題もさらりと流すものだと思っていたみさおにとって、
この時の彼女の反応は実に意外なものだった。
「ほんとにごめんな」
という消え入りそうな謝罪の言葉にもこなたは何も返さない。
それが却ってみさおの不安を煽ることになったが、
「大丈夫っ!?」
コートの方からした突然の叫び声に彼女は小さく体を震わせた。
「何かあったみたいだ。ちょっと行ってくる」
巧くこの場を離れるキッカケを得たみさおは、コート中央の人だかりに駆けていく。
こなたはその後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
彼女の向かう先では両クラスの生徒が小さな輪を作っている。
「足は……うん、いや……いいのか? 保健室に……無理……見学を…………」
雑音に混じって教官の声が聞こえる。
(誰か怪我したのかな……?)
状況はすぐに呑み込めた。
体育の時間にはこうしたアクシデントは付き物だ。
やがて人の輪はゆっくりと解かれ、その中から教官と怪我をしたらしい生徒がやって来る。
(………………)
「ここで泉と見学していなさい。ああ、レポートはいいから。痛むようなら無理せず保健室に行くんだぞ」
と言って教官がこなたの横に座らせたのは――。
「はい、分かりました」
つかさだった。
彼女は用意されたイスにゆっくりと腰をおろす。
教官はすぐにコートに向かって走り去った。
「えへへ、足ひねっちゃった――」
恥ずかしそうに俯くつかさ。
「だ、大丈夫なの……?」
今や怨敵であるつかさの負傷に、まともな感覚なら嘲ってやるところだが、こなたは根っこの優しさを垣間見せた。
「――っていう事にしちゃった」
「………………!!」
彼女は優しさの無駄遣いをしてしまったようだ。
ウソなど吐けそうにない少女の、躊躇無きウソと裏切り。
たかだか体育の授業をサボるなど、彼女にとっては造作もないことなのである。
「日下部さんとなに話してたの?」
負傷を演じてまでここに来た理由はこれだったようだ。
「別に…………」
同情なんてしなければよかった、とこなたは思ったが遅い。
真に悪辣な妖女の行動は全てが計算ずくである。
「まさかとは思うけどこなちゃん、あの事バラしてないよね?」
「し、してないよっ!」
声が上ずる。
つかさにすれば、ここは気にかかる点だろう。
彼女の見立てではこなたもだが、みさおも口が軽そうな部類に入る。
快活な女性は得てして交友の輪が広く、そして浅慮だ。
「ふうん…………」
「…………」
「あ、そうだ。船本くんがね、今度こなちゃんとヤッてみたいって。私の横にいた男の子、こなちゃんも見たでしょ?」
バウンドするボールとコートを走る生徒の足音が、憚りたくなる台詞をかき消した。
「日時はまた知らせるから」
「嫌だよっ!」
拒絶の叫びもまた、コートにまでは届かない。
つかさはゆっくりとこなたに顔を向けた。
「断るんだ?」
「誰にも言わないから。だから私には関わらないでよ。それでいいでしょ?」
卑屈にならないようにこなたは訴える。
弱みを握られてはいるが、それを相手に意識させない程度の抵抗は必要だ。
「船本くん、怒りっぽいからなあ。こなちゃんが来ないって知ったらあの動画、インターネットに出しちゃうかも?
ええっと……ニタニタだっけ? ヘラヘラ? そういう動画観られるサイトがあるんでしょ?」
口調だけはこなたを案じるように。
しかし見えない凶器を振りかざす意図がある事が、こなたにはハッキリと分かった。
「つかさ」
「ん? なあに? やっぱり受けてくれる?」
「弱みを握ってるのはお互い様なんだよ? 私だってつかさの秘密知ってるんだから」
関係はあくまで対等だ、と彼女は言った。
「さっきだってみさきちにバラすこともできたけど黙ってたんだよ?」
この言葉の真意は、”私はいつでもつかさを地に堕とすことができる”である。
「ん〜……別にいいかな」
こなたは脅しのつもりで言ったが、残念ながらそれは通用しなかった。
「え…………?」
期待した成果が得られるどころか、まるで正反対の反応をされ、不覚にもこなたは惑ってしまう。
「だって証拠ないもん。こなちゃんがそう言い張ったって無駄だよ」
つかさは真顔で言った。
「ゆきちゃんならともかく、こなちゃんの言い分なんてきっと誰も信じないよ」
ある事柄につき、それを発言する者の出自や素行が聞く者の印象に多大な影響を与えることをつかさは知っていた。
ハロー効果の何たるかまでは理解していない彼女でさえ、こうした受け手側の心理については分かっている。
(あの時、見たのがこなちゃんで良かったよ。もしゆきちゃんや峰岸さんだったらって思うと…………)
そうなったら口封じも二重、三重に巡らせる必要があるだろう。
「そんな…………」
劣勢から一転、対等の立場に立てると思い込んでいたこなたにはこの度の衝撃は大きすぎる。
「そういうわけだから」
終始イニシアティヴを握り続けるつかさに、もはやこなたは抗えなかった。
彼女にとって幸いだったのは、つかさが来る前にレポートを書き終えていたことである。
恐ろしい要求を突き付けられ、精神が疲弊している状態ではまともな文章は書けない。
(このままじゃ駄目だ……!)
こなたは芯から来る震えを懸命に抑えた。

 

 学校内では空気のようにすぐ傍にいるつかさも、さすがに家の中にいるこなたまでは監視できない。
いくらかマシになった全身の痛みに、彼女は依然として自分がつかさの虜になっていることを痛感させられる。
(つかさの為なんかじゃない!)
自室に籠もったこなたは携帯電話を握りしめる。
つかさが握るのは泉こなた自身だか、彼女が自由にできるのはせいぜいこの小さなツールくらいだ。
だがこのツールがあれば、現状を打破することができるかもしれない。
(とにかくかがみに知らせないと…………!)
密告には3つの目的がある。
ひとつにつかさへの報復。
自分だけが切り札を持っていると高をくくる、悪辣な少女への復讐だ。
もうひとつはつかさを想いやってのことである。
これほど手酷い仕打ちを受けてもなお、こなたにとってつかさは親しい友人だ。
彼女と違い、こなたはそこまで非情にはなりきれない。
友人が間違った異性との付き合い方をしているなら、それを何とかして止めたいという想いが確かにある。
最後のひとつは防衛だ。
つかさの秘密が暴露され騒ぎになれば、船本云々の話は流れる。
素行に関しては柊家の監視がつくことも予想されるし、そうなるとこなたも船本や吉田の影に怯えなくて済む。
これだけの利点があれば密告しない理由はない。
こなたは震える手でかがみに電話をかけた。
『もしもし? こなた?』
何度目かのコールの後、目的の人物が出た。
「かがみ、あのさ――」
話題が話題だけに声は小さくなる。
「近くにつかさ……いる?」
『つかさ? いま買い物に行ってるけど』
天はこなたに味方をしてくれたようだ。
密告の内容をつかさに聞かれるのはマズいが、そもそも携帯電話を使って密談しているところを目撃されるだけでアウトだ。
『どうしたのよ?』
すぐに切り出さないこなたに、かがみは不審そうな声で問う。
「ヘンなこと言うけど笑わないでね……」
『はあ? あんたはいっつもヘンでしょうが』
「真剣な話なんだよ、かがみ。お願いだからちゃんと聞いて」
『…………? 分かったわ』
ただならぬ様子にかがみが身構えた――と、こなたは思った。
相手が聞く姿勢を持ってくれるのなら話しやすい。
こなたは冷静に努めて全ての事実を打ち明けた。
つかさを尾行したこと。
少なくとも2人の男と姦通している事実。
口封じに乱暴され、脅迫のネタに動画を撮られたこと。
そして体育の授業での一幕。
『……………………』
こなたの語りは時に静かに、時に感情的になった。
だが一切の虚飾はなかったし、一方的につかさを貶めるような論調でもなかった。
ただ事実をありのままに伝えただけである。
「――そういうワケなんだ……だから、かがみ……」
沈黙。
どちらも言葉を発しないまま秒針が一周した。
『あんたさ、言っていい冗談と悪い冗談があるわよ』
「え…………?」
数十秒ぶりに聞いたかがみの声は、こなたを地の底に叩き落としかねない冷たさを孕んでいた。
『いくら冗談でも今のは笑えないわ』
「ちょ、ちょっと待ってよ……!! 私、本当に――!!」
こなたは真実をそのまま語ったが、聞き手がそれを発信者の意図どおりに受け止めるとは限らない。
ましてや悪行を重ねているとされているのはつかさ――柊かがみの双子の妹である。
公平に受け止めようにも身内としての感情が先に働き、彼女にはこなたが愛する妹を貶しているようにしか見えない。
『つかさがそんな事するわけないだろ? ――っていうか、なんでそんなこと言うわけ?』
一部で怒りっぽいと評されるかがみは、ここにきて明らかに怒気を露にした。
妹を侮蔑するかのような悪質な冗談――。
荒唐無稽のこなたの妄想。
かがみは彼女が話し終えるまえにそう結論付けていた。
「ウソじゃないよ! 全部本当なんだって!」
『あ〜はいはい、分かったわよ……』
「信じてよッッ!!」
こなたは声を限りに叫んだ。
だがムキになればなるほど、現実味はさらにさらに遠退いていく。
『………………』
もちろんかがみは信じない。
この3年間、こなたのこうした言動に根が真面目な彼女は何度もやりこめられた。
善良と悪辣とが対立する時、必ず勝つのは後者である。
こなたの言葉をいちいち真に受け、その度にしたり顔で揶揄される――というお決まりのパターンを、
かがみはどこかで楽しんではいた。
しかしそれも度を超えれば悪質極まりない冗談に成り下がる。
普段が普段だけに、聞く側にすれば到底信じられる話ではない。
『もう分かったから。やる事あるからもう切るわよ』
かがみは返事も待たずに通話を切った。
「えっ? ちょっ――――」
切り際のあしらい方から、かがみが頭から信じていないことは明らかだった。
唯一縋れそうな人物に見離されたこなたは、他に何かできることはないかと探る。
だがこうした局面に出会わした経験のない彼女には、思いつく対処法があまりに少なすぎる。
頼りになりそうな人物がいない。
ゆたかやそうじろうはまず論外だ。
同性という点ではゆいがいくらかマシかもしれないが、彼女は口が軽そうな気がする。
同様の理由で同級生も除外。
知り合いの中で唯一異性との交際があるあやのならよい助言をくれるかもしれないが、この問題を持ち出せるほど親交が深くない。
結局、あれこれと考えても最後はかがみに行きつくのだが、その彼女からはまるで信用を得られていない。
(どうしよう…………)
震える手で携帯電話を握りしめるこなたは、ぼんやりとディスプレイを眺める。
そこで彼女は今日が金曜日であることに漸く気付いた。
明日、明後日は学校が休みだ。
時間が物事を良い方向に運ぶとは限らないが、少なくとも今のこなたにとっては熟慮する時間が必要だった。
(もっとちゃんと説明すればかがみも信じてくるかもしれないし)
たった一度の訴えでは冗談と退けられてしまう。
しかし何度も話せば、相手も只事ではないと心変わりしてくれるかもしれない。
そうした効果を狙うのに連休というチャンスを逃す手はない。
「よし……」
深呼吸をして、再び携帯電話を開く。
声が駄目なら文字にすればいい。
こうすれば送り手も受け手も落ち着いてその内容を確認し合うことができる。

”つかさには絶対に見せないで”

この一文を頭に添え、こなたは先ほど訴えたのと同じ内容のメールを送った。
(お願いだよ、かがみ……信じてよ……)
無駄だと分かっていながら、こなたは紙飛行機の絵が送信完了を伝えるまで、かがみが信じてくれるようにと祈り続けた。

 

 

 努力はその深さや長さに応じて実るものだが、それが却って逆の効果を及ぼす場合もある。
土曜、日曜とこなたは病的なほどにかがみへのアプローチを繰り返した。
つかさを諭し、止められるとすれば柊家しかない。
しかし直接に乗りこめばつかさを刺激し、さらに苛烈な要求をしてくるかもしれない。
憂慮の末にその結論に至ったこなたは努力を重ねたが、とうとう実ることはなかった。
メールでの訴えにも初めこそ返信はあったものの、執拗に食い下がるこなたに、ついにかがみも返事を送らなくなった。
電話も同様で、出る前から発信者が分かる携帯電話では意図的に拒否することができる。
いい加減うんざりしていたかがみはこれも拒否。
こなたのアプローチは尽く失敗に終わってしまったのだった。
この最悪な状況で月曜日を迎え、こなたは重い足を引きずって登校する。
いつもの如く合流する柊姉妹はいない。
こなたの顔を見たくなくて先に行ったか、あるいは時間を遅らせたか。
(誰か…………)
助けてくれる人はいないのか、とこなたは思った。
彼女の交友関係は狭すぎた。
いつものメンバーでいることが心地よく、そこに新しい風を通すことも、友誼の輪を拡充することもしなかった報いがここに来て現れる。
最後の砦は高良みゆきだ。
あの博識な才女なら事態を好転させる妙案を思いついてくれるだろう!
一縷の望みを胸に、こなたが教室のドアを開けた時――。
彼女は教室を間違えたのかと思った。
先に来ていた生徒たちの目が、異形の者を捉えるように鈍く輝いていた。
(え、なに…………?)
咄嗟に教室を確かめる。
間違いなく3年B組だ。
だが雰囲気は明らかにおかしかった。
風邪で学校を休んだ翌日に登校した時でも、これほどの違和感はない。
(つかさは…………?)
無言の圧力を感じながら、視線だけでつかさの姿を探す――が、いない。
まだ来ていないようだ。
その代わりにこなたは最も頼りになりそうな人物を見つけた。
「おはよう、みゆきさん」
優雅な佇まいの彼女は、ただ席についているだけで格の違いを見せつけてくる。
「い、泉さん…………」
不意に声をかけられ、ビクリと体を震わせる。
「なんかあったの? 教室、ヘンな感じだけど?」
「い、いえ……私は何も……気のせいでは?」
こなたは反射的にみゆきから目を逸らした。
実際、彼女に言われるまでは空気の妙はまだ気のせいと考えることもできた。
つかさの件に加えて連休明けということもあり、自分の受け止め方がいつもと違っているからではないかと思うこともできたハズだ。
「そう…………?」
だが、もうそれはできない。
”気のせいではないか?”と答えるみゆきの様子があまりにもおかしかったからだ。
何かを隠しているか、何かを知りたがっているか。
そわそわする彼女はこなたに声をかけられることを避けたがっているようにも見える。
(…………みゆきさんも?)
状況がまるで把握できないこなたの横を少女が通り過ぎた。
「こなちゃん、ゆきちゃん、おはよう」
この中でひとり、”いつもどおり”にやって来たつかさだ。
「えへへ、寝坊しちゃった……まだチャイム鳴ってないよね?」
とぼけたモノの言い方がこの異様な空気を混ぜっ返す。
明らかにつかさだけが浮いているのに、彼女は素知らぬ顔だ。
(つかさ…………)
こなたはそっとその場を離れる。
みゆきに助けを求めようにも彼女がいては話はできない。
「席つきやー。もうすぐホームルーム始めんでー」
普段と変わらない者がもうひとり現れた。
出席簿を手に入ってきたななこは気怠そうな似非関西弁で着席を促す。
時折り怠け癖を垣間見せる教師だが生徒には思いのほか人気があるようで、特に強い口調でなくともクラスメートは自分の席につく。
全員が着席した時、ななこはちらっとこなたを見やった。
蔑むような目が違和感の正体を掴めないまま竦んでいる少女を捉えた。
(先生…………?)
その視線に気づかないこなたではない。
何かが違うのだ。
ホームルームが始まったというのに、生徒たちはちらりとこなたを蔑視したかと思うと、ひそひそと何かを囁いている。
「こら、お前ら。ホームルームいうても授業と同じなんやで?」
ななこにしては珍しく、遠回しな言い方で私語を戒める。
この一言でクラスのざわつきは一応は収まったものの、視線による静かな私語は今も続いている。
(……………………)
こなたはワケが分からずただ俯くばかりだった。

 

 この日は恐ろしいほどに静かだった。
つかさは無理な要求をするどころか、あの出来事すら初めからなかったかのようにこなたに接する。
その馴れ合いの中で邪悪な笑みを浮かべることもなければ、脅迫を言外に含めることもしない。
変化があったのはみゆきも同様だ。
彼女はもともと淑やかで口数の多い方ではなかったが、今日に限っては殆ど言葉を発しなくなっている。
さらに他の37人にも違和感を持ったこなたは、休み時間は極力教室の外に出るようになった。
トイレ、中庭、保健室……。
とにかく自分を知っている人間がいそうにない場所を選んで、ただ時間が過ぎるのを待つ。
C組を覗こうという気も起こらない。
かがみとの仲は決裂してしまっているし、気分的にはみさおやあやのとも顔を会わせたくはない。
何とかみゆきに相談を持ち掛けようにも彼女自身が会話を避ける上に、つかさが常に傍にいる状況ではそれも難しい。
結局は人目を避けるように行動するしかない。
もちろんこなたはそういう消極的な姿勢では何も解決しないと分かっている。
だが何か行動を起こすキッカケもチャンスも現実は与えてはくれない。
彼女にとっては差し当たり、つかさが無理難題を押し通してこないことだけが救いだった。





彼女にとっての”救い”はこの時のための伏線だった。
「――っちゅーわけで課題の提出がまだの者は今週中にウチに出すように。遅れたら追加でレポート書かすからな〜」
永い6時間が終わり、放課後。
ななこが連絡事項を伝えたところで生徒の一日は終わる。
「ほな日番、号令頼むで」
この言葉が出れば生徒を待つのは自由な時間だ。
だるそうな挨拶を終え、彼らはひとりで、あるいは何人かとグループを作って教室を出ていく。
「泉」
クラスメートの半数ほどがいなくなったところで、ななこが呼ぶ。
既に帰り支度をしていたこなたは、何事かと振り返る。
「すまんがちょっと話があるんや。もうちょっとしたら会議室に来てくれ」
短く要件を伝えると書類を手に、ななこはさっさと教室を出て言った。
この言いつけにこなたは惑った。
提出した課題に不備があるとか、テストの点が思わしくないなどの理由であれば職員室で話をするのが普通だ。
会議室で話――となると重い内容のものが大半で、生徒指導のための空間という意味合いが強い。
それほど強く咎められる理由が、こなたには見当たらなかった。
授業中の居眠りをしたことはあるが、そこまで頻繁ではないしそれ以外での素行にも問題はないハズだ。
「私、お姉ちゃんと先に帰ってるね」
一緒に下校する約束などしていないというのに、つかさがこなたの背中に向かって言った。
「う、うん……また明日ね、つかさ、みゆきさん」
つかさを刺激しないように、こなたは妙な愛想笑いを浮かべた。
「ええ、それでは」
作り笑いで送りだすのはみゆきだ。
こちらも誰に気を遣っているのか、いつもよりさらに小さな声でうわべだけの挨拶を返す。
(なんか今日はいろいろおかしいよ……)
鞄を手に教室を出たこなたは考えた。
妙なことだらけだが、ななこの”時間を置いて会議室に来い”という言いつけもおかしい。
話があるならこなたを伴うハズだ。
尾行やスパイ等が存在するならまだしも、わざわざ時間差で顔を合わせる必要はない。
「なんだろう……」
なにひとつ判然としない中、無意識に疑問を口にする。
ななこが先に教室を出て5分。こなたは会議室前までやって来た。
鍵はかかっていない。
すりガラス越しでは中の様子はよく分からないが、普段施錠されているドアに鍵がかかっていない点を考えれば、
暗にこなたに入室を促しているのだろうと推測できる。
「泉か? 入ってええで」
案の定、ノックするやななこの声が返ってくる。
「失礼します」
普段はフレンドリーに接しているこなただが状況が状況だけに、先生と生徒としての振る舞いをする。
「そこに座ってくれ」
ななこは長テーブルを挟んで向かい合わせに座るように促す。
鞄を置いて着座したと同時に、こなたはななこが数枚の紙を持っているのに気付いた。
「すまんな、急に呼び出して。予定もあるやろうに」
「あ、いえ、大丈夫です。今日はバイトも休みですから……」
「…………バイト?」
ななこの眉がぴくりと吊り上がった。
「それ、何のバイトや?」
「え? コスプレ喫茶……ですけど」
「喫茶店? 普通のか?」
「はい。店員がコスプレしてる以外は普通のお店です」
陵桜では生徒のアルバイトは特に禁止されていない。
反社会的でない限り、生徒の自主性を尊重するというのがこの学校の方針だった。
「そうか…………」
目を閉じ、ななこは小さく息を吐いた。
奇妙な沈黙が流れた。
ななこは目を閉じたまま話を進める様子がない。
こなたは呼ばれた側だから自分から切り出しはしない。
「………………」
「………………」
予定はないとはいっても、こうしてただ向かい合わせに座っているのは苦痛だし時間も無駄だ。
「あの……」
こなたが声をかけようとした時、
「これなんやけどな――」
突然、目を開けたななこが脇に伏せていた数枚の紙を差し出した。
机上を滑るように手許に回って来た紙を受け取る。
「――――ッ!?」
裏向けのそれらを返したこなたは絶句した。
動画サイトのスクリーンショットだった。
10分程度の動画のためか、モノクロのそれらはやたらと画質が良い。
良いからこそこの印刷物には、多くの情報が鮮明に詰まっていた。
「あの、先生、これ……は…………?」
こなたは動揺を隠そうと努めた。
ほんの少しでも反応してしまえば、心当たりがあると思われてしまう。
だが既に喉は渇ききっていて、紙を指差すだけの動作にもいちいち震えが走る。
「昨日、電話がかかってきてな。なんやよう分からん男の声で、面白いもんがあるからここにアクセスしてみろ言うてな。
半信半疑で開いてみたら――これがな……」
「………………」
半信半疑なら開いて欲しくなかった、とこなたは思った。
「誰の仕業か知らんけど、相手はうちらのこと知っとうみたいやな。怨みがあるんかただの愉快犯か。
どっちにしても悪趣味極まりない、しょうもない奴や」
ななこは憤然として吐き捨てたが、彼女の否定とは裏腹に全てが正解だと分かっているこなたは吐き気を催した。
(………………ッ!!)
震えを懸命に抑えるこなたは、しばらくしてから自分が疑われていることに気付いた。
彼女が頭から撥ねつけているなら、そもそもこうして会議室に呼ばれていないハズなのだ。
「ウチは泉やとは思わん。ただ似すぎとうからな……念の為、な。もちろん心当たりなんかないやろ?」
事において杜撰に見える黒井ななこは、思いの外抜け目がないようだ。
ネットゲームでもしばしば交わりがある生徒を疑っている担任にこなたは遣る瀬無さを感じるが、
突き付けられた物件が真実とあっては、そうした想いを抱くことすら間違いであることに気付く。
「知りません」
偽りがバレないようにするには、言葉短くこう答えるしかない。
「やろな。これもどっかで手に入れた写真で合成でもしとんやろ。泉やないんやから堂々としとったらええ」
ななこが腕を組んで言った。
その表情には安堵と些かの不安が混じっている。
(………………)
こなたはじわりと掌に掻いた汗をスカートで拭った。
わずかな沈黙の間に、彼女は様々なことを思案する。
電話をかけたのは船本か吉田だ。
しかしその相手にななこを選んだのはつかさだ。
いったい何の得があって暴露したのか。
握った弱みはそれを行使した途端、敵を揺さぶる材料にならなくなる。
脅迫の種は一度きりしか使えないのだ。
(つかさ、なんで…………?)
信憑性の有無は別として、互いに切り札を持ち合っている2人にとって、先にそれを使うという行為は極めてリスキーだ。
それ以上の手がなくなるどころか、相手の怒りを買って反発を招きかねない。
暴挙に出る理由がこなたには分からない。
今や悪辣さを隠さないつかさは、この動画をネタに船本との性行為をこなたに迫っている。
この強要が有効なのは動画を公開していないからであって、たとえななこ1人といってもそれをバラした時点で
脅しとしての効力は失せ、息絶えた人質も同然となる。
暴挙というよりは愚挙に近い。
「泉、これは決して疑っとんやない。そやけど担任としてもう一回訊いとくで……ほんまに関係ないやろ?」
尋問でも詰問でもなかった。
黒井ななこのこれは嘆願だった。
疑ってはいないと言いつつもわざわざ問いなおし、しかしその真摯な眼差しにあてられたこなたは、
この担任が自分を蔑んだり嘲ったりすることなく、正面から受け止めようとしてくれることに感謝した。
「知りません。関係ありません」
だからこそこのウソはつらい。
自分を信じてくれるななこへの裏切り。
悪戯好きの狐は冗談はかましてもウソを吐くことへは罪悪感を抱くようである。
「そうか、それ聞いて安心したわ」
ななこは大息した。
「性質の悪いイタズラや。こういうのんはこっちが反応したらツケあがるからな。泉も無視しとったらええ。
ただ内容が内容だけに、親御さんにも相談しにくいやろ。もし今後、なんかあったらウチにだけこっそり教えてくれ。
面と向かって言いにくかったらメールでも何でもかめへん。ええな?」
この言葉にこなたは危うく形振り構わず泣き叫び、あの日のあの出来事を吐露しそうになった。
黒井ななこは頼りになる!
その事実が彼女の抱える秘密の殻に罅(ひび)を入れたらしい。
だが全てを暴露してしまえば、彼女はもう一度ウソを吐くことになる。
「呼び止めてすまんかったな。後のことはウチに任しとき」
こなたが再三否定したことで、”確認の作業”は終わった。
イスを引きずりゆっくりと立ち上がる彼女に、
「泉は何も気にせんでええ――言うても難しいわな……泉」
ななこは真摯な口調で言う。
「このことはウチらだけの秘密や、心配すんな」
「はい…………」
閉じられたすりガラスに浮かんでいたシルエットが消えると、ななこはスクリーンショットを手早くかき集めた。
カラーコピーにしなかったのは、こなたへのせめてもの配慮だった。
仮に本人でなかったとしても、自分と同じ顔の少女が睦んでいる様を見せられては気分を害するに決まっている。
「………………」
遠近感をも感じさせる静止画を、ななこは食い入るように見つめた。
(泉は無関係や……間違いない……こんなもん、どっかのアホがでっちあげたに決まっとう)
そう思う反面、紙上の少女は見れば見るほどこなたに近づいてくる。
(そんなワケないわ! あいつに限ってこんなんあり得んわ……!)
ななこは目頭を押さえた。
着座したまま立ちくらみを起こす感覚を、彼女は生まれて初めて味わう。
(そうや……今は合成でなんでもできるんや。これは泉やない。それに……泉自身も知らんって言うとったやんか……)
体が小刻みに震えだす。
こなたは無関係だ、とななこは何度も思いこもうとする。
(ウチの受け持つクラスからレイプ被害者が出たなんてなったら大変な騒ぎになる……!)
神仏の類を信じないななこは独自の祈り方でたった今、心の中に作り出した神に縋った。
(教師やって10年近うなるけど、こんなん初めてや――頼むわ、面倒事に巻き込まんといてくれ!
ウチの教師生命に傷つけんといてくれっ!!)
黒井ななこは変化も革新も望まない。
ただ平穏無事であること――それが彼女が欲しがっているものであり、願っているものである。
口では結婚相手がいないことを嘆いていてもその実、彼女は人生のパートナー探しには消極的だった。
赤の他人――愛し合っているとはいえ――が自分の生活に踏み込んでくることへの抵抗感が先に立ち、
出会いの喜びを感じることすらできなくなってしまっていた。
人は自分のペースを掻き乱されるのを厭う。
担任する学級からレイプ被害者が出、またそれによって起こるであろう擾乱が齎(もたら)す苦痛は、
伴侶と邂逅し気を遣い続けながらの同棲の比ではない。
「たのむ…………」
ななこは静謐を希求した。

 

 他方、泉こなたを待ち受けるのは黒井ななこに迫る騒動よりも遥かに鮮烈な悲劇である。
ふらつく足取りで校門を出た彼女は、携帯電話の振動を察知するのに数秒を要した。
受信したメールは素っ気ない文体である。

 

 発信者:つかさ

 件名:

 

 本文:もうお話は終わったかな?

 

この一文の向こうでつかさの笑みを感じ取ったこなたは、携帯電話を叩きつけたくなった。
ななこに呼ばれた時、彼女はまだ教室にいたのだからもちろん何らかの話し合いが行われたであろうことは分かっているハズだ。
もちろん、その内容も。
(つかさ…………!!)
今朝、教室に入った時のクラスメートの視線。
様子のおかしかったみゆき。
ななこが見せたスクリーンショット。
今日一日を振り返ったこなたは、緩やかな坂を下る途中、漸く恐ろしい現実に突き当たった。
(あの動画のこと……みんな知ってるんだ!!)
全員が自宅にパソコンを持っているとは限らない。
だが知人宅で観る、ネットカフェで閲覧するなど、動画に触れるタイミングもチャンスもいくらでもある。
方法は簡単だ。
動画サイトのURLをどのような手段でもいい、B組の数名に流すだけで良い。
後は勝手に情報が広まるのを待つだけだ。
土日を挟んで今日――
つかさや船本、吉田には下地作りの時間は十分にあった。
「…………っ!?」
再び、携帯電話が振動する。
今度はメールではない。
「もしもし……」
『あ、こなちゃん。そろそろいいかなと思って。学校出たあたりかな?』
柔らかい口調が却って神経を逆なでする。
「どういうつもりなの?」
凄みを利かせたつもりだった。
自分は今、激しく憤っているのだ!
こんなことをしてタダで済むと思うな!
低く、暗く、おぞましい声は間違いなくつかさに伝わっているハズである。
悪女の面を覗かせたとはいえ、相手はあの柊つかさだ。
押しに対する弱さは偽物ではないだろう。
そう踏んだこなただったが――。
『そんなの私が訊きたいよ』
返ってきた少女の口調に変化はなかった。
『誰にも内緒だって言ったのに、お姉ちゃんに喋ったでしょ?』
「――――ッ!?」
不覚にもこなたは小さな悲鳴をあげてしまった。
しまった、と思うももはや遅すぎる。
先に切り札を使い、不利になっているハズのつかさはまだ強気の姿勢を崩さない。
『お姉ちゃんが言うんだもん。”こなたがまたヘンなこと言ってきたわよ”って。そこでだいたい分かってたんだけどね。
念のために訊いたら、やっぱりあの日のことだったよ。昨日も一昨日もメールとかしてたんでしょ?』
全ては筒抜けだった。
こなたにとっての誤算は自分とかがみの仲の深さを過信するあまり、実の姉妹の絆の強さにまで目が行かなかったことだ。
骨肉の争いに発展しない限り、身内と身内は信じあう。
彼女たちからすれば泉こなたは所詮は他人、到底許せるものではない性交云々の話に耳を傾ける道理はない。
この現実こそがこなたの弱みであり、つかさの強みである。
『だから言ったでしょ? どうせこなちゃんの言う事なんて誰も信じないって』
あの言葉は強がりでもハッタリでもなかった。
互いに秘密を握り合い、牽制し合うことでパワーバランスは保たれていると思い込んでいたのはこなただけであり、
その裏では船本、吉田の入れ知恵――あるいは独断――か、つかさは常に優位に事を進めていたのである。
しかし泉こなたの側にもまだチャンスはある。
彼女にも”身内”がいるのだ。
かがみが駄目なら、そうじろうに訴える……という手もなくはない。
そのためにはこれ以上ないほどの屈辱を味わう必要があるが、溺愛する娘の嘆願を実父が聞き入れない理由はないだろう。
「確かに約束は破ったよ……でもこんなことしなくてもいいじゃん。私だってつかさを困らせたくてかがみに言ったんじゃないよ……」
『じゃあどういう理由で?』
「それは、放っておけなかったから――」
『………………』
「あんなのおかしいよ! 男の人と付き合うにしてもさ……! 手順っていうかそういうのがあるじゃん。
私が言えたことじゃないけど軽はずみにあんなことしちゃ駄目だよっ!!」
泉こなたという少女は毒舌家で飄々としており、勉学を嫌いゲームやアニメに没頭する怠け者としてのキャラを隠そうともしないが、
本人も自覚していない友人想いの一面もある。
虚像相手に日々を貪りながらも、彼女は生身の人間との触れ合いや絆を大切にしている。
『………………』
その熱意と思いやりに触れてか、つかさは沈黙を返した。
半分は当てつけもあった説得が成功したのか……。
こなたがそう思い始めた時、
『大きなお世話だよ』
呪詛をたっぷりと込めた一言が返ってきた。
『こなちゃんは何? 私の保護者でもないのにそんなこと決める権利あるの?」
「え……どういう……」
『私が何をしようと勝手でしょ? 楽しいから船本君や吉田君と付き合ってるのに、こなちゃんに邪魔する権利なんてないよ』
「け、権利って……私はただ――」
『私が楽しんでるのが気に入らないんだ? そうでしょ? ゲームばっかりだもんね、こなちゃんは。
自分には生身の相手なんていないから私が羨ましいんでしょ? だからああやって後を尾けて邪魔しようとしたんだ!』
「ちょっと待ってよ! そんなつもりないよっ!」
『…………ねえ、こなちゃん。もうそろそろ駅に着くでしょ?」
つかさの思考や行動は読めない。
激昂したかと思えば、次の瞬間には寝起きのようにか細い声を出して流れを断ち切ってくる。
『駅に着いたらね、一番左の券売機をよく見てね。面白いものが見つかるから』
「面白いも――」
こなたが訊き返すよりも先につかさは通話を切った。
「………………」
かけなおす勇気は彼女にはない。
かがみとの仲は拗(こじ)れ、つかさも聞く耳を持ってはくれない。
あの天使のような微笑みの裏に悪鬼が潜んでいるのをかがみに見せつけようとも、妹を信じ切っている彼女の前では、
つかさに襤褸を出させるのは容易ではない。
(これじゃ私ひとりが悪者じゃんか……!)
苦痛と屈辱に塗れながら、重い足を引きずるこなたは帰巣本能に従って駅に辿り着いた。
行き交う人々に何度かぶつかった時、数分前のつかさの最後の言葉を思い出す。
改札を目指していたこなたの足は魅了されたように券売機に向かっていた。
8機ほど並んでいる券売機。
その左端の機に目をやったこなたは、そこにあるものが何であるかを認識する前から戦慄していた。
彼女の位置からは目を凝らさなければ見えないほどの、あまりに小さな悪戯だった。
だがそこに立ち、切符を買おうとする者ならば必ず目に留まるものである。
硬貨投入口のすぐ横――。
5センチ角のシールが貼られている。
(これ…………!!)
切符を買う必要のないこなたは足早に券売機の前に立ち、硬貨を入れるフリをしてそのシールを引き剥がした。
そしてすぐにその場を立ち去る。
(もうイヤだ!! 耐えられないよっ!!)
シールに印刷されていたのは――件のシーンだった。
元データよりかなり縮小されているが、誰が見ても泉こなたと分かるほど鮮明である。
滑稽なほど臆病になっている彼女は足早に改札を通り抜け、ホームに立った。
剥がしたシールはポケットの中にある。
これはゴミ箱には捨てられない。
丸めて投げ入れたところで、誰かが拾ってしまうかもしれない。
細切れに千切ったとしても、それをかき集めて復元してしまう輩がいるかもしれない。
追い詰められたこなたは常にそうしたネガティヴな結末を思い描いてしまう。
特に大勢が集うこのホームにいると、誰もが自分を見ているのではないかという錯覚に苛まれる。
「………………」
椅子に腰かけて雑誌を見ているスーツ姿の男が、ちらちらと自分を見ているような気がする。
「………………」
あそこで携帯を凝視している若者は、実は動画サイトにアクセスしあの痴態を閲覧しているのではないか?
「………………」
向こうでイヤホンを通してリズムをとっている男が聴いているのは、吉田に貫かれる自分の悲痛な叫び声なのではないか?
恐ろしい想像と妄想とが合わさり、彼女は咄嗟に線路に飛び出したくなった。
停車のために減速する車両でも、人ひとりを轢死させるには十分な速度と質量があるだろう。
それによって多大な迷惑を社会にかけることになるが、これから死ぬ本人には問題ですらない。
おそらく痛みを感じる暇もなく頭部が車輪に押しつぶされるか、あるいは四肢を引き千切られるかして彼女の精神は、
瞬く間に現世とは違うところに旅立つだろう。
悲劇的な人生の終わりだが、これをもってつかさに罪悪感を植え付け、かがみに悔悛の情を抱かせることができるかもしれない。
「飛び込んだら楽になれるかな…………」
絶望の淵に立つこなたは、ホームの縁に立っていた。
その横で彼女とは違う理由で電車を待つ男がその呟きを聞いていたが、しかし特に止めようとはしない。
現実、自分の目の前で飛び込み自殺が起こる確率など皆無に等しい。
それに本当に死ぬ気のある人間が傍にいたとしても、無関係であればわざわざ面倒に巻き込まれたくないと思うのが普通だ。
男はそっとその場を離れ、十数メートル向こうの列に加わった。
やがて構内アナウンスとともに電車が走って来る。
こなたの足は一歩、前に踏み出していた。

 

 

 この日は晴れていたハズだが、彼女にとっては一日中曇天だった。
上を見ても下を見ても灰か黒しかない。
周囲を敵と無関心に覆われ、彼女の体も心も行き場を失っていた。
唯一残されたのは「泉」の表札が掲げられている家。
生まれ、育ったこの屋根の下こそ、こなたにとって最後の憩いの地だ。
「ただいま…………」
ドアをくぐる少女の声はか弱い。
家に着いたところで一時の安らぎを得られるだけで、辛辣な現実は何ひとつ変わらない。
一夜を明かせば、また地獄の日々が始まる。
それが厭というほど分かっているこなたには、真の安息は永遠に訪れない。
「おう、おかえり」
そうじろうだけは”いつもどおり”だった。
娘がどれほどの屈辱を味わったかを知ってか知らずでか、彼は娘の帰宅をごく当たり前の言葉で迎え入れる。
が、ゆっくりと顔をあげたこなたは、父親の目がいつにも増して厳しいのに気がついた。
「うん、ただいま」
家族の前では気丈に振る舞おうとする彼女は、父の手前、少しだけ声を張った。
「ああ、そうだ。後で父さんの部屋に来てくれるか?」
「え?」
聞き返す前に彼は早々と自室に引き揚げてしまった。
(なんだろう……?)
普段、用事がある時は決まってそうじろうがこなたの部屋に入る。
もちろん父娘とはいえ一線を引いていて、ノックもせずにドアを開けるような無粋な真似はしない。
それが常となっている泉家では、逆にこなたがそうじろうの部屋に入ることは滅多にない。
彼の部屋が仕事場だからだ。
「………………」
部屋着に着替えたこなたは、なぜか足音を立てないようにそうじろうの部屋に向かう。
「お父さん?」
「おう、来たか、入っていいぞ」
入室を促す彼の声は暗い。
そこに違和感を持つこなただが、だからといって部屋に入らない理由にはならない。
「どうしたの? そんな改まって?」
作務衣のこの男は部屋のほぼ中央で正座していた。
まるでこれから子を叱るような佇まいだ。
「そこに座りなさい」
低い声で言う彼の目は、先ほどとは違い敵愾心に満ちている。
射竦められたように指示に従うこなた。
こんなそうじろうは初めてだ。
「お父さ――」
「誰なんだ?」
「え…………?」
突飛な質問はその内容も意図も、こなたには計りかねる。
「誰なんだッ!?」
たった今、座れと言った彼は顔を真っ赤にして立ち上がっていた。
「ちょっ――何の話なの!?」
「白々しいぞ! まだウソを吐くつもりかっ!!」
そうじろうはパソコンの前に立ち、キーを叩いた。
「これだよ!!」
モニターには動画サイトが映っている。
投稿された動画に対して視聴者がコメントを打ち込むと、即座にメッセージが画面を横切る。
「………………!!」
こなたは逃げ出したくなった。
動画には既に5万人超がアクセスしており、寄せられたコメントも1万に達しようとしている。
そうじろうは見やすいにコメントを非表示にした。
高画質の営み――凌辱は液晶パネルを劇場として生々しく展開されている。
「お前がこんな淫乱な女だったとはな!」
彼はこなたを睚眥し、口汚く罵った。
父が娘に発する言葉ではない。
音量を上げると少女の叫びと男の厭らしい声が混ざり合い、部屋中を駆け巡った。
「し、知らない……!! 私そんなの知らないッッ!!」
反射的にこなたは否定した。
あっさりと認めてしまえばそうじろうまで敵に回してしまうかもしれない。
「どう見たってこなた、お前じゃないか!」
モニターを指差し、彼は吼えた。
「この体! この声! ほら! 泣き黒子まであるっ!!」
妻が夭逝し、彼は愛娘を幼い頃から見ていた。
成長の過程をアルバムに綴じ、対話を欠かさず、文字どおり母となり父となって育ててきた。
だからこそ彼にはすぐに分かる。
モニターを介した虚像であっても、映っているのは間違いなくこなたなのだ。
「お父さん、落ち着いて聞いて! これは――」
”落ち着け”という言葉が飛び出す時、大抵は既に手遅れとなっている。
小刻みに肩を震わせるそうじろうは、両の腕をぐっと伸ばしてこなたを押し倒した。
「――――ッッ!?」
虚を衝かれたこなたは人形のように背中を床につけた。
「お、お父さん…………?」
そうじろうはこなたの両肩を掴んだ。
「俺は……俺は我慢してたっていうのに……!!」
「なにを――!?」
この構図。この体勢。この位置。
見上げればすぐ傍に迫る男の顔。
「い、いやっ……!」
痛みと恐怖に顔を歪めたこなたの視界には、父そうじろうの姿はない。
あるのは1頭の餓えた獣。
ただし彼が満たすべきは食慾ではなく性慾だ。
「かなたに似たお前とヤりたくて堪らなかったんだぞ! でもそこは父娘ということで抑えてたんだ!」
彼の手は妖しく動き、一度は穢された少女の部屋着を乱暴に引き剥がす。
「なのに――なのになんだ!? お前は俺を裏切ってどこの馬の骨とも分からん男と交わってたのか!!」
「ち、違う……! やめてよ! 離してよっ!!」
かつてその身に叩きこんだ格闘技も、圧倒的な体格差で押さえ込まれた今では何の役にも立たない。
ぎらつく双眸は少女の恐怖心を掻き立て、金縛りにあったかのように四肢の自由を奪うのである。
「似ているのは見た目だけか!? なあ、こなた!!」
ビリビリと繊維の裂ける音がし、薄い褐色の肌が露になる。
「かなたは純粋だった! お前みたいに軽々しく体を差し出すような女じゃなかった!!」
抵抗も虚しく遂にこなたの衣服は剥ぎ取られ、隠すべき部分も恥じらうべき秘部も父の前にさらけ出していた。
もはや彼女を守るものは何もない。
最悪の状況に追い込まれ、この事態を好転させ得る要素はゆたかが直ちに帰宅することであるが、現実はそう上手くはいかない。
「我慢してたのにこんな淫乱だったとはな! かなたに悪いと思って抑えてたが、こんなことならさっさとヤればよかった」
仕事上の付き合いの相手には紳士的に振る舞うこの男は、全ての仮面を取り去り、”泉そうじろう”としての人格を露呈させた。
娘がそうであるように彼自身も片手でこなたを押さえ、片手で服を脱ぐという器用さを披露し父子ともどもに裸体となる。
だがそこに合意はないし、了承し合う手続きもない。
「いやっ!? やめて!! やめてよっ!!」
忘れ去りたい記憶が呼び起こされる。
少女の嘆願は空を切る、次の瞬間には聳立するそうじろうの茎が傷だらけの穴へと埋没した。
「いたっ!? いやああぁぁぁっっ!!」
耳を劈く悲鳴もそうじろうには届かない。
心身ともに熱り立った彼は既に満身創痍の娘に何の後ろめたさも感じず、ただ欲望を満たす為に棒を突き刺していく。
「ははっ……このへんはかなたそっくりだな! あいつもそうやってよがってたよ! こっちは……キツイってのに!」
体格の違いはそのまま快楽の感じ方にも直結する。
この不釣り合いな2人の行為は、こなたに激痛を齎し、そうじろうには少々の痛みとそれと同じだけの快感を与える。
彼が得られる心地良さの程度が低いのは、お相手が娘であって最愛の妻ではないからだ。
「あの男も……よく平気でいられたな! こんなに狭いってのに!!」
そうじろうが愛してきたのは妻かなた、ただ一人である。
容姿こそ似ているものの、この娘には妻にはない泣き黒子があるし、妻とは違って体も丈夫だ。
そのうえ重度のオタクとくるから、そうじろうにとっては自分の厭な部分が寄り集まった蔑みの対象でしかない。
(まったく……鏡見てオナニーしてる気分だ!)
泉かなたの姿に化けた不出来な娘――。
それが彼の見る泉こなたである。
「いやあぁぁッッ!! やめ……やめてよぉぉぉッッ!!」
浸蝕はさらに苛烈さを増す。
苦痛しか伴わないこなたと、特に快感を得る目的で行為に及んでいるのではないそうじろう。
彼はただ、空腹になれば食事をし、眠くなれば寝るのと同じように、適度に欲求を満たしているだけである。
こなたの生の叫びと、パソコンのスピーカーから流れてくる悲鳴とが不自然に混ざり合った。
「ハァ……ハァ…………」
行為に及びながら、そうじろうはちらっとモニターに目をやる。
吉田の姿と自分の姿がダブって見えた。
ということは動画の少女とこなたの同一性をより強く確信することになり元々、加減していなかったそうじろうは
いよいよ本気で娘を刺し貫く覚悟ができてくる。
「かなたなら! お前を……そんな淫乱……! 女に育てるハズがないんだ! そうだろ! なぁっ!?」
腰の動きに合わせて彼はところどころで言葉を切る。
「片親だからか!? 俺をナメてるのかっ! だからあんなコトして素知らぬ顔で! いられるんだろ!?」
「ちがっ……!! あああぁぁぁぁッッ!!」
いま、こなたは心と体で激痛を味わった。
いざという時、最も頼れる存在だった父に誤解され、敵意を剥き出しにされ、躊躇いなく犯し穢さんと腰を振るそうじろうに――。
彼女は何度目かの絶望を味わわされた。
「俺のかなたは子どもを! お前を産んで死んだっ! だったら俺はお前をっ! 子どもを産めない体にしてやるっ!!」
間髪を入れずさらなる攻撃をしかける父そうじろう。
防ぐ手立てもなくその侵攻を許してしまうこなた。
「いやあああぁぁぁぁッッッッ!!」
究極の恐怖と痛みと絶望が巨大な口を開けて少女を呑みこむ。
先ほど聞こえた悲鳴はこの少女があげたものか、それともスピーカーを通して鳴り響いたものか。
こなたにもそうじろうにも分からない。
「………………」
だが分からなくても良かった。
この行為の向こうには、どのみち悲劇的な結末しか待っていないからだ。

 

 

 全てが終わるとそうじろうは自身の先端をティッシュで丁寧に拭き取り、手早く作務衣に着替えた。
余韻に浸ることもなければ、感情の波にまかせて嬲ってしまった娘を慰撫することもない。
彼にとっては質の悪い間食。
永い人生のほんの一部分のつまらない通過点であって、これは記憶にも記録にも残らない極めて些細な出来事なのである。
しかし他方、対照的に娘にとってはこれこそが人生最大の山場である。
既に多くのものを失い、起き上がる気力さえ今はないこなたは、ぼやけた視界に天井を仰いでいた。
「こなた」
小さな声で呼びかける彼の顔からは一切の感情が消え失せている。
快楽に酔いしれるわけでも、痛ましい姿になった愛娘に後悔の念を抱くわけでもなく。
彼は機械的に唇を動かし、
「晩飯作って来る。その間に部屋を掃除しておいてくれ」
残酷な言葉を残して部屋を出て行くのである。
最も頼りになる――信頼していた――存在だったハズの父にあっさりと裏切られ、こなたの瞳から輝きが消えた。
流す涙ももうないし、体が痛みを感じることもない。
虚無だった。
泉家、泉そうじろうの部屋に横たわる少女の精神は現実とは違うところにある。
「………………」
もぞもぞと蠢動しながら、こなたは卓の縁を支えに立ち上がった。
(お母さん…………)
亡き母に想いを寄せながら、作業机の抽斗を開ける。
罪の意識などない。
他人の持ち物を漁ることが罪どころか子どもの悪戯にも値しないほどの辱めを受けてきたのだ。
今さらこの程度の行為にいちいち罪悪感を抱くほうがどうかしている。
彼女が取り出したのは使いかけの原稿用紙。
ワープロソフトを駆使する彼も、咄嗟のメモ書きにはこれを遣っていることをこなたは知っていた。
「恨むよ……つかさも……かがみも…………」
乱雑な書体で彼女は怨嗟に満ちた文章を綴っていく。
起承転結も推敲も必要ない。
言わばこれは彼女の日記。
たった一日だけの短すぎる記録なのだ。
「おとうさんも…………!!」
ペン先は素早く動き、初めこそ罫線を守っていた文字の列も次第に歪んでくる。
だが判読は可能だ。
誰がこれを読んでも、彼女が伝えたい事柄は正しく解釈されるだろう。
彼女にとっては思い出したくない記憶――忘れ去ってしまいたい陰惨な過去――も、この時だけは活き活きとした筆致で、
一部の謬りもなく事実を克明に記していく。
最後に怨恨の情を添え、少女が間もなくとる最期の行動が誰の、どんな行為に起因するかを明らかにしたところで文書は締められた。
しかしこれで終わりではない。
(お母さん、待っててね……)
カッターナイフを取り出したこなたは、仕上げにとりかかる。
怨みを込めた遺書にはまだ足りないものがある。
この白い罫紙には――こなたが流した夥しい血を連想させるものがない。
「許さないッッ!!」
マエストロが力強くタクトを振るが如く、こなたは左手に握ったカッターナイフを高々と上げた。
第一楽章の始まりとともに、同時に挙げた右手頸にさくりと滑る銀の刃。
その軌跡を追って、数瞬遅れの赤い液体が放物線を描いて迸る。
これが彼女の最初で最期の復讐だ。
殴り書きの遺書により強いインパクトと説得力を与え、これを読む者に様々な情景を思い描かせるためには、
無機質な罫紙に天然の色素を使って彩りを添えなければならない。
菊花を思わせる紋様に広がる血は、書かれた文字が読める程度に遺書を赤く赤く染め上げていく。
天井に、壁に、床にばら撒かれた液体は何よりも凄惨さを物語る。
「はは……ざまあみろ……つかさもお父さんも……苦し――」
だらりと腕を下ろしたこなたは、次の瞬間には真っ赤な壁を見ていた。
(お母さん…………!!)
視界が赤一色だったのは室内の色ではなく、角膜に張り付いた自らの血液によるものだと分かった頃には、
泉こなたの意識は既に黒一色の世界に旅立っていた。

 

「こなた、片づけはもう――」
部屋に入るなり、そうじろうは極彩色の部屋に眉を顰めた。
「――終わった?」
状況を把握するのに数秒。
彼は小さく息を吐く。
終わったのは片づけではなく、こなたの命だった。
「こんなに散らかしやがって……」
赤を基調としたインテリアは、時の経過とともに焦げ茶色に化け、最後には黒に転じる。
鼻を衝く鉄錆の臭いにそうじろうは露骨に顔を背けた。
汚れの中でも血液は特に落としにくい。
乾いてしまえば拭き取るのは難しく、再び水分を与えればベタつく。
かなたのものならまだしも、特に愛してもいない娘のそれらを綺麗にするなど、彼にとっては受苦を伴う作業でしかない。
こうなっては3人分作った夕餉も意味を持たなくなる。
「………………?」
彼は卓上の遺書を見やった。
この場、この状況で出した覚えのない原稿用紙が卓に広げられていた時点で、彼にはそれが遺書だとすぐに分かった。
「仮にも小説家の娘なんだから、もうちょっとマシな文章は書けないのか……」
何度か黙読したこの男はつまらなさそうな顔で呟く。
生に疲れ、苦し紛れに遺したメッセージにさえ、生粋の作家そうじろうは修辞技法を求めた。
彼にとってはこれは文章ではない。
幼児が覚えたての言葉を思いつく限りに書き殴った、駄文とすら呼べないものである。
(こんなものを俺の部屋に置いておくなんて我慢ならない)
文筆家の高すぎるプライドは、たとえそれが実娘の作であっても彼が独善的に定めた水準に僅かでも達していない限りはゴミ同然と評した。
折り畳んだ遺書を灰皿に置き、火を点ける。
これがもし推敲の重ねられたもので、文学的芸術的な要素を秘めた手紙であったなら、彼は安易に焼却はしなかっただろう。
秘かに作品に使えそうな文言を抜粋し、その後で娘の自殺の咎が自分に降りかからないよう処分したハズだ。
しかしこれには1秒として残しておく価値がない。
先端に踊る火がゆらゆらと揺れながら手を伸ばし、瞬く間に全てを包みこむ。
数秒が経つ頃には少女の最期のメッセージは灰と化した。
「さて…………」
灰のうえにさらに灰を落とし、そうじろうは長大息した。
ニコチンを含んだ呼気が室内の血の臭いと混ざり合い、不愉快極まりない悪臭を放つ。
が、リラックスの手段として喫煙に頼る彼にとっては不快感よりもまず安息を得られる芳香だ。
病弱なゆたかが居候しているために煙草は控えていたが、この状況なら容認されると彼は考えた。
「はあ…………」
ため息をひとつ。
差し当たり彼が考えなければならないのは、すぐ横に転がっている少女の亡骸をどう処分するかだ。
海に捨てれば腐敗して浮き上がり、山に捨てるには掘り返されないくらいの穴を掘らなければならない。
ドラム缶にコンクリート詰め……は非現実的だろう。
どの方法を取るにしても持ち運びを容易にするためには四肢を寸断する必要があるし、
ただちに処分するというわけにもいかない。
となれば遺体を一時的に保管しなければならないのだが、家庭用の冷凍庫に押し込んでも問題ないのだろうか。
腐敗を防ぐには大量の食塩でもまぶしておけばいいのか。
推理作家でないそうじろうはこの辺りは疎く、苦慮を強いられる問題だ。
まだまだ人生を謳歌したい彼には、娘の自殺とその経緯を世間に公表し、懺悔の日々を送るという選択肢はない。
いかに他人の目を欺き、表向きは行方不明の娘の身を案じるフリをし、変わらず泉そうじろうとして生き続けるか。
(山か海か……中途半端なやり方じゃ見つかっちまうんだよなぁ…………)
あと2時間もすればゆたかが帰って来る。
部屋に入るなと言いつけても悪臭や空気、そもそもこなたがいない点から彼女はすぐに怪しむだろう。
こなたを姉と慕う彼女のことだから、警察に連絡をするのも予想がつく。
もちろん娘がいなくなっているのだから、そうじろうも通報せざるを得ない。
だがそれは遺体を完全に隠すなどしてからだ。
警察が動いてからでは遺体を処分するなどまず不可能だ。
(なんとかゆーちゃんが帰って来るまでに始末しないと…………)
1本の煙草が終わりに差しかかる。
あれこれ考えなければならないそうじろうはたいそう面倒くさそうに立ちあがると、憎々しげにこなたを見下ろした。

 

 

 

 

   終

 

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