閻しき貴女よ

(希望から絶望への転落が美樹さやかを異形の怪物に変えた。杏子はまどかと協力して彼女を取り戻そうとする)

 

 なぜあんな話をしてしまったのか。
少女は今になってその理由を考えようとした。
本来なら忌避するべき話題だった。
楽しい思い出話ならまだしも、生活の破綻や家族の心中など他人はおろか、身内にも秘匿にしておきたい陰惨な過去だ。
それを何度か顔を合わせた程度の相手に吐露してしまったのだ。
現実の辛辣さに散々に弄ばれ、それでも自棄にならず自分なりに折り合いをつけて今日まで生きてきた彼女は、
その過酷な道を辿ることによって独自の人格を形成してきた。
彼女は自分を不幸だとは思わなかった。
他人よりも幸せになれなかっただけで、それが不幸せだとは彼女には考えられない。
そういう思考を一度でもしてしまった時点で、封じ込めていた悔恨の念に押し潰されるであろうことを知っていたからだ。
だから彼女は後ろ向きにならずに生きることができた。
世の中の仕組みを知り、幸不幸の均衡に気付き、そのおかげで培われた飄逸さは彼女自身を守る強力な武具となった。
(ワケ分かんねえ…………)
忌々しい過去を杏子は封印していた。
思い出したところで不愉快な気分になるだけで、その作業によって得られるものは何もない。
いま彼女が手にしている熟れた林檎のように空腹を満たしてくれるわけでもなければ、心に充足を齎してくれるわけでもない。
なのに彼女は美樹さやかに全てを打ち明けてしまった。
努めて忘れようとしていた昔を自身も指でなぞって確認するように、仔細に語ってしまった。
彼女にとってさやかは敵だった。
マミの死によって空席となった魔法少女の座を手に入れる。
元々才能はあったし、実戦経験も豊富な杏子にとってこれほど旨みのある話はない。
彼女の凄惨な最期をただちに教えてくれたキュゥべえに、彼女は感謝していた。
事実を知るのが遅くなれば後任の魔法少女が育ってしまい、縄張り奪取は難しくなる。
行動の早い彼女はすぐに見滝原にやって来たが、美樹さやかは彼女よりも行動力があったようだ。
マミと入れ替わるように契約したさやかが、杏子にはまるで自分に対する挑戦のように感じられた。
正義や人助けなどという甘すぎる理想を掲げて戦う彼女が、杏子は気に入らなかった。
魔法少女は遊びではない。魔女との戦いは演技ではない。
生きるために契約し、生きるために戦うのが魔法少女だと彼女は今でも思っている。
それが陰惨な現実をくぐり抜けてきた杏子が出した結論だった。
その持論が脆くも崩れ去った時、彼女は行き先を失いかけた。
何度も危殆に瀕し、それでも生き延びてきた自分が、まさか契約した時点で半分死んだも同然の身となっていた事実を突きつけられ、
彼女は今度こそ自暴自棄に陥りそうになった。
だが佐倉杏子はあらゆる意味で強かった。
生ける屍になるなど苦痛でもなんでもない。
発狂した父がたったひとりを残して心中した時、彼女は既に死んでいたのだ。
いまになって精神と肉体が分離して壊れやすい宝石に魂が移ったと分かったところで、何ら影響を及ぼさない。
キュゥべえに真実を聞かされるまで自覚できなかった秘密を、数年越しに知ったに過ぎない。
これ以上ない絶望と艱難辛苦を味わってきた彼女だからこそ、この重大な事実を”そのていど”として片づけることができた。
だが、美樹さやかは違う。
杏子とは対照的に、どちらかといえば恵まれていた側の少女が”犠牲”や”代償”という言葉の意味を表面的にすら捉えられないまま、
軽率にも千載一遇のチャンスを他人のために使ってしまった事実は取り消しようがない。
目の当たりにしたマミの最期を除いては、さやかは幸せな人生を歩んでいたハズだった。

『たとえ想い人とはいっても恭介は所詮は他人だ』

彼女がこう思いさえすれば、よく考えもしないで契約することはなく、従って一生を魔女退治に捧げる必要もなかったのだ。
何不自由なく暮らしてきた少女にとっては、何もかもが急すぎた。
杏子と違って時間をかけて事実を受け容れ、逡巡し、熟考し、折り合いをつける暇すら与えられずに、美樹さやかは厖大な量の不幸せをその身に浴びてしまった。
彼女に足りなかったのは決意や覚悟ではなく時間だ。
(さやか……)
他人との交わりを断ち、大気に溶け込むように生きることを決めた杏子の中で、あの愚直な少女の存在が大きくなっていく。
どうしても彼女の凛とした表情――明らかな強がり――が忘れられない。
(さやか……!!)
胸が張り裂けそうな痛みに耐えるうち、杏子は昨夜の出来事を思い出してしまった。

 

 美樹さやかが危ない。
キュゥべえもほむらも揃ってそう言ったが、具体的なことは語らなかった。
元より杏子は彼女たちに期待はしていない。
意味深な発言を繰り返して曖昧な受け答えに終始し、手の内を明かさずに自分のペースに引き込もうとする。
そういうタイプの人間はいざという時に恐ろしいほど頼りになるか、いざという時にも全く役に立たないかのどちらかだ。
圧倒的に多い後者を何度も見てきた杏子は、自分の手で見えない脅威からさやかを救おうとした。
恩を売るつもりはなかったし、義務感がそうさせたのでもない。
彼女はただ、彼女を助けたかった。
自暴自棄になって無茶な戦いを繰り返し、満身創痍になっているに違いない、と。
キュゥべえの言う”消耗”の意味をそのまま捉えた杏子は街を走った。
自分と違って帰る家がある少女なら、その行動範囲は限られてくる。
世を拗ねた魔法少女は必ずこの近くにいる!
神に短い祈りを捧げながら、彼女はテレパシーを使ってさやかを呼び続けた。
この空気を振動させない会話の手法は、神秘的な力に依拠している以外は電話と同じだ。
声の発信者と受信者がおり、受信者がそれを遮断してしまえばメッセージは一方通行に終わる。
さやかはそれをしていた。
おそらく杏子の声は届いていただろうが、彼女はそれに応答しなかった。
自分すら見失い始めている不安定な精神状態が、意味のある言葉として送り返すのを阻んでいたようだった。
さやかは居場所を知らせてはくれない。
にもかかわらず駅のホームで彼女を見つけられたのは、祈りが通じたからだと杏子は思った。
全知全能の神が存在するなら、このくらいの融通を利かせてもらっても罰は下るまい。
聖職者の娘としては忌むべき驕慢な考えを心の奥にしまいこむ。
「希望と絶望は差し引きゼロだって、あんた言ってたよね」
すぐ横に座る美樹さやかは、数日前の彼女からは想像もつかないほど憔悴していた。
諦念の宿った濁りのある瞳はかつての杏子に似ていた。
が、明らかにそれとは異なる部分がある。
「今ならよく分かるよ」
濁っていたのは彼女の魂のほうだった。
澄んでいたソウルジェムは穢れに塗れて輝きを失っている。
吸い込まれそうな静謐の美が禍々しい黒に染まったのを見て、杏子は絶句した。
「私は何人か救ったけど……その分だけ誰かを呪ってしまったんだ」
不気味なほど低い声でさやかは言う。
「あんた…………」
痛々しいほどの変貌ぶりに気の利いた言葉が思い浮かばない。
揺るがないハズの信条が砕け散ろうとしているのをかろうじて押えている少女に、陳腐な慰めは何の意味も持たない。
だから彼女は何も言えなかった。
ボロボロになっているさやかに全てを吐き出させれば、少しは楽になるかもしれない。
自分の無力さを誤魔化すように彼女は聞き役に徹した。
紡がれる言葉のひとつひとつに呪詛が込められていた。
他人を憎み、呪い、怨んでいるのは彼女がそれだけ誰かを愛し、慈しみ、救ってきたからだ。
「一番大切な友だちまで傷つけて……もう何がなんだか分からなくなっちゃったよ……」
杏子の知る美樹さやかは決して弱音を吐かないし、愚痴もこぼさないハズだった。
文字通りバカみたいに突っ走り、自分が信じてきたもののみを信じて戦っていたハズだ。
(あんたは不器用なんだよ……不器用なくせに高い理想ばかり掲げやがってさ…………)
杏子は彼女が可哀想になった。
自分にもそんな時期があったのだ。
空想の世界にしか存在しないような神秘的な力を得て、人々の安穏を守るために戦う魔法少女。
ありがちな正義の使者を気取って魔女と戦っていた時期が、彼女にも確かにあったのだ。
「あんたは間違ってないさ」
無意識に、杏子はそう呟いていた。
そもそも何ひとつ正しさを証明できない世界では、この言葉は空気よりも軽い。
「ううん、あんたの言うとおりだった。私もあんたみたいに……何だっけ……自業自得の人生を楽しめばよかったのかもね」
もう後戻りはできない。
何もかもが手遅れだ。
ゆっくりと顔を上げたさやかは、
「わたしって……ほんとバカ…………」
自身の愚かさをその一言に集約して――。
魔女を産み出した。
美樹さやかの肉体は残ったが彼女の精神は完全に分離され、魔法少女に倒されるべき存在に成り果てた。

 

 腹立たしいほど燦々と降り注ぐ陽光の下、杏子はあの瞬間を記憶から引きずり出して身震いした。
あの時だ。
あの時、何も考えずにグリーフシードでさやかのソウルジェムを浄化していれば……。
少なくとも最悪の結末をいくらか先延ばしにはできたハズだった。
何もできない自分が、何もできないことを自覚したくないばかりに何もしなかったことを彼女は悔恨した。
「後悔する人生を続けるべきじゃない……ったく、誰だよ……そんなこと言ったのは――」
懐のグリーフシードを弄びながら彼女は呟く。
魔力に余裕を持たせるためにと持ち歩いていたこれも、今となってはきっと何の役にも立たない。
魔女退治の報酬は魔法少女のためであって、魔女のためではないのだ。
(自分勝手に生きろって言ったのは私だけどさ……あんたがあんな姿になってどうすんのさ……!!)
やりきれない想いに彼女が拳を握りしめた時、憚るように規則正しい足音が聞こえてきた。
「あの、話って…………?」
おずおずとやって来たその少女は、いつもの如く深く沈みきった顔を杏子に向ける。
(来てくれてよかった)
彼女は思ったが言葉にはしない。
さやかとの諍いに幾度か居合わせたこの少女は、きっと自分に良い印象を持っていないだろうと杏子は思っていた。
2人が友だち以上の絆で結ばれているであろうことは彼女にも分かっている。
杏子自身が口走ったように、まどかとさやかはおそらく親友なのだろうと。
「美樹さやか――助けたいと思わない?」
こう切り出したのは贖罪の意味合いが強い。
判断をまどかに委ねる些か卑怯な手に見えるが、これはまどかにその意思があるなら自分も手伝ってもよいという意味ではなく、
”たとえあんたがかぶりを振っても私はさやかを助けるつもりだ”という決意の表れだ。
あくまで可能性の話だ。
これまで魔女といえばその背景を考えずに、ただ魔法少女にとって倒すべき敵としか捉えていなかった彼女は、
多くの魔法少女がそうだったように魔女との対話を試みたことはない。
結界の中に閉じこもり、見境なく不幸を振りまく害でしかなかったからだ。
しかし魔法少女の憐れな末路を知った今、呼びかけるという手法は無駄ではないかもしれない。
「親友の声くらい覚えてるかもしれない。声をかけたら答えてくれるかもしれない。それができるとしたら、多分あんただ」
言いながら杏子はさやかとの遅すぎた出会いを呪った。
もう少し対話を重ねていれば主義の違いから完全な和解はできなかったとしても、さやかにとっての杏子の存在はもう少し大きくなっていたハズだ。
もっと遡れば魔女化すら防げたかもしれない。
美樹さやかを救いたい!
彼女はそう思っているが、その役はまどかをおいて他にはいない。
自分の無力さに杏子は何度も何度も打ち拉がれた。
「助けられるなら……手伝う。私にも手伝わせてほしい」
鹿目まどかは争いを好まない性格だが、困難から逃げるタイプではない。
契約こそしていないものの魔法少女との接触を繰り返し、その世界に半分足を踏み込んでいるも同然の彼女が、
今になって親友の冷たい骸から目を背ける理由はない。
この子は優しくて芯の強い子だ。
杏子は思ったが、同時に彼女が何気なく発した、
”手伝わせてほしい”
という言葉に僅かに眉を顰めた。
能動的なニュアンスはない。
実際、まどかは杏子の言うように、”昨日の今日で呑気に学校に通う学生”として振る舞おうとしていた。
それが受け容れ難い現実からの逃避の結果というのなら分からないでもないが、あれほど親密な関係を築いてきたさやかに対して
あまりにも冷淡すぎるのではないか、と杏子は思ってしまう。
「分かった」
消極的な響きの言葉であろうとも、まどかの意思が揺るぎないものであることは分かる。
その証拠に彼女は、
「わたし、鹿目まどか」
そっと手を伸ばし、遅すぎる自己紹介をした。
杏子とまどかの関係はこの一時で終わるわけではない。
さやかを救った後も交流を続けていきたい、という想いがこの名乗りに託されていた。
これまで会ったことのないタイプに杏子は些か戸惑ったが、儚げな佇まいに見えにくい強さや優しさを感じ取った彼女は自然と笑んでいた。
「佐倉杏子だ。よろしく、ね」
想いを繋ぐのはどこにでも売っているような駄菓子。
手を取ってくれるものと思っていたまどかは、渡された菓子に目を白黒させた。
食べ物を分け与える。
それが杏子にとっての当然の親愛の証であることに、彼女は気付かない。
「よし、決まりだ。あいつの居場所はだいたい分かる。結界の中に入ったら、とにかく呼び続けるんだ」
人ひとりを救うにしてはあまりに大雑把すぎる作戦だった。
智謀も戦略も用いない、最もストレートな方法である。
まどかは頷くことでそれに答えた。

 

 まどかと別れた彼女は、今はすっかり荒れ果てた教会を訪れた。
本心はすぐにでもあの魔女を探したいところだったが、敢えて3時間後にまどかと合流することにしたのは、
ここでの最後になるかもしれない祈りの時間を作るためだ。
加えてまどかにも心の準備をさせる意味もある。
親友をあのような形で失い――あるいは失いかけて――あのどこか弱気な少女は心に深い傷を負っているに違いない。
自分に似て活発で積極的で、勝ち目のない相手――正義や人助けをくだらないと言い張る魔法少女――にも逃げずに挑んできたさやかでさえ、
矢継ぎ早の展開と残酷な真実の連続に絶望してしまったのだ。
感情的になっている今こそ、気持ちを落ち着ける暇くらいは必要だろう。
(神様……いるんだろ…………?)
杏子はその場に跪拝した。
割れたステンドグラスから差し込む陽光が内装を照らすが、空気中を漂う埃のせいで床までは十分に届かない。
(頼むよ、あいつを……さやかを助けてやってくれ)
早くに父を喪い、夢も希望も奪われた少女は絶望だけはしなかった。
現実はこういうものだと割り切って生きてこられたのは、祈りを欠かさなかったからだ。
あの陰惨な出来事をキッカケに、それまで他人のために捧げてきた祈りを自分だけのものにした。
幼いころから聞かされ続けてきた神が存在するなら、その加護を誰かに譲るのではなく自分に降り注ぐように祈ればいい。
結局、幸も不幸も譲り合いか奪い合いかでしか移転しないのなら、その環から離れた場所に居続けさえすれば面倒事に巻き込まれることはない。
自分より幸せな者を妬むことも、自分より不幸せな者を笑うこともない。
そういう現実から少し遠ざかった場所に、杏子は居場所を求めてきた。
その拠(よりどころ)となるのが、今は忘れ去られたこの教会だ。
「神様…………」
家族に先立たれたあの瞬間から、彼女は神の存在を信じなくなった。
契約した当初は多大な奇跡を齎してくれたキュゥべえこそ神の御遣いだと考えていた。
魔法少女となって魔女と戦う運命も、人智を超越した奇跡を願った代償だと思えば安すぎるハズだった。
短すぎる夢から覚め、間もなく”対価の支払い”のみが残された時、彼女の中から神の存在は消え去った。
自暴自棄にならず自業自得と片づけられたのは、それまでに重ねてきた祈りの残滓が目に見えない形で杏子を取り巻いていたからかもしれない。
祈祷は神仏へのアプローチと言われるが、その実は精神の安定を図るための一作業だと杏子は考えている。
幸福を齎すものも、不幸を振りまくものも必ず人間の目に見える。
彼女にとっての前者がキュゥべえであり、後者もまたキュゥべえだったのだ。
「さやか…………」
努めて記憶の外に排除しようとしていた、あの光景がまた蘇る。
あの時、彼女は黒く濁りきったソウルジェムを杏子に見せた。
その何気ない所作に深い意味があったのではないか、と彼女は今になって思い至る。
ソウルジェムは契約の証。
魔法少女や魔女の存在を知らない者に見せても意味はない。
換言すれば過酷な運命を背負った者同士にしか伝わらない秘密の共有。
思想や主義が違ってもキュゥべえとの契約を交わし、魔女との戦いに身を投じたという点では同じだ。
向こうの見えない淀んだソウルジェムを自分に見せたのは――。
助けを求めていたからではないか、と杏子は思った。
彼女の知る美樹さやかはその身に合わないほど高すぎる理想を追い求めていた。
無償の愛や見返りなき善行に無上の価値を見出そうとしていたハズだ。
行動の結果が悉く裏目に出ても、彼女はなお気高くあり続けようとしていたハズだ。
従ってさやかは誰に対しても弱みは見せなかったし、泣き言はおろか愚痴すら零そうとはしなかった。
”意固地な性格がそうさせた”と言えばそれまでだが、一度は神に縋った杏子にはそれが単なる個人の価値観ではなく、
それよりももっと重く尊い信念に基づくものだと分かっていた。
最後まで折れるハズのなかった意志が、微風にさえ無惨に吹き飛ばされるほどに脆くなったのが――。
つまりあの瞬間なのだ、と彼女は考える。
(それだけじゃない。あいつは……さやかは私に涙も見せた……)
プライドの高さは他者に弱さを晒すことを極端に厭う。
誰かに頼ることも、助けを求めることも彼女は拒んできた。
ほんの少しの力を借りることにさえ逡巡していたあの少女が最後の最後に見せた涙。
その意味を考えた時、杏子は激しい動悸に襲われた。
(あいつは私を頼ってたんだ…………!)
血液が恐ろしい速さで体内を駆け巡る。
烏滸(おこ)がましい考え方であることは自覚できている。
出会って間もなく、言葉を交わしたのもほんの数度。
互いに殆ど理解し合えず、むしろ真っ向から対立する持論をぶつけ合った挙句に決別したも同然の間柄だ。
しかし杏子にはあの最後の瞬間のさやかが自分に救いを求めているように思えた。
かつて救済を冀って父親を訪ねてきた信者たちの姿が目に浮かぶ。
本心から助けを求める人間は、プライドも何もかも投げ捨てて無様に縋りつく。
跪き額を床につくほどに拝み続ける信者を、彼女は何度も見てきた。
それと同じことを美樹さやかもしたハズなのだ。
見栄も誇りも何もかも脱ぎ捨て、杏子に救いを求めていたハズなのだ。
(さやか…………!!)
一心に祈りを捧げていた杏子は、約束の時間が迫っていることに気付かなかった。

 

 佐倉杏子は人を待たせるのが嫌いだ。
”待たせている”という負い目を感じたくなかったし、相手がそれにちょっとした貸しを作った気分になっているのではないかと考えると、
どうにも落ち着かなくなる。
だから彼女は覚悟を決める意味も含め、30分ほど早く約束の場所に来た。
待たされるのは苦痛ではない。
合流場所も時間も自分が指定した時点で、ここには遅れて来るわけにはいかないのだ。
「まだ30分ちかくあるじゃんか」
杏子は目の前の儚げな佇まいの少女に声をかけた。
「なんだか落ち着かなくて……」
この殺伐とした現実にあって、鹿目まどかだけは違う世界に生きているかのような穏やかさを漂わせている。
純朴で素直に思っていることを言葉にする少女に、杏子は好感を持った。
少し前までの彼女なら、世の中の厳しさを何もしらない愚昧な箱入娘と内心では嘲弄していたかもしれない。
実際、一度は彼女をさやか共々”ウザい仲間”と評している。
その言葉を杏子はとうとう撤回することはなかったが、この後の救出劇で彼女を身を挺して守り抜けば、
言葉以上の罪滅ぼしに成り代わるハズだ。
「私と同じだな」
杏子は自然と笑んでいた。
前身がさやかとはいえ凶悪な魔女と対峙するというのに、場違いなほど鋭さのないまどかを見ていると、
一抹の不安を抱くと同時に得体の知れない頼り甲斐をも感じる。
戦いではおそらく全く役には立たないが、過度の緊張を和らげる意味では彼女ほどの適役はいない。
間を空けるわけにはいかない。
2人は小さく頷き合い、”さやか”を求めて歩き出す。
「ほむらちゃんも手伝ってくれないかな?」
か細く仲間を求める声に、
「あいつはそういうタマじゃないさ」
杏子は即座に切って捨てた。
何もかも知っていそうな癖に手を貸そうとしない暁美ほむらが、杏子は嫌いだった。
彼女の長所はただ博識なだけで、それを活かさなければ意味がない。
考えなしと言われようと、我武者羅に行動するほうがまだ潔いと彼女は思っている。
(それにあいつは……さやかを殺そうとした……!)
ほむらに人助けや協力を期待するのがそもそもの間違いなのだ。
彼女はいつだって事が終わる頃にやって来る。
ソウルジェムの濁りが魔法少女を魔女に変える前兆だと分かっていたなら、もっと強引な手法に訴えてでも浄化していただろう。
自分たちにとって重要な情報を事後になって得意顔で語るのは、ある意味では無知よりも罪深い。
ワルプルギスの夜に対抗する為に仮に手を結んだが、今すぐにでも破約にするべきではないか、とすら杏子は考えている。
無機質な骨組みを露出させたビル。
ここにこそ、彼女たちが探している魔女がいる。
「最後に訊くけど、本当に覚悟はいいんだね?」
という杏子の問いにまどかは小さく頷いて返す。
法衣を纏った彼女は得物を力強く振りおろし、結界への道を拓いた。
(………………)
瞬間、不思議な感覚に襲われる。
魔女の作り出す空間は現実とは一線を画していて、その殆どが不気味で禍々しい色彩を放っている。
しかしこの結界にはそれがない。
それどころか初めから魔女など存在していないかのような、妙な静謐さがある。
煉瓦の壁にずらりと貼られたコンサートのポスター。
綺麗に舗装された通路。
現実のそれと何ら変わりはない。
「ねえ、杏子ちゃん」
足音を立てずについて来るまどかの声はやはり弱々しい。
「誰かにばっかり戦わせて、何もしない私ってやっぱり卑怯……なのかな?」
彼女にとっては切実な悩みだ。

”才能があるのに何もしないまどかに代わって、私がこんな目に遭っている”

最後に突きつけられた親友からの言葉が、少女の心を無惨に抉剔した。
その傷は塞がるどころか、時間を経てますます大きくなっていく。
「なんであんたが魔法少女になる必要があるのさ?」
杏子はその問いに対する明確な回答をしなかった。
まどかは決して卑怯ではないし臆病でもない、と杏子は分かっている。
親友を助けるために命の危険も顧みず、こうして結界に飛び込んでいる時点で敬意を表すべき勇気の持ち主だ。
それでも彼女が卑怯だとすれば、今このタイミングでそういう質問をしていること事体が卑怯と言えるかもしれない。
「この仕事はね、誰にでも務まるわけじゃないんだ」
この手の話題になる時、彼女の口調は少しだけ強くなる。
「毎日ウマイ物食って幸せ家族に囲まれて……そんな何不自由なく暮らしてる奴が魔法少女になるっていうんなら、そんなの私が許さない」
もちろんこれは単なる彼女の主張であって、実際にそうするだけの資格を有しているわけではない。
今の杏子が持っていないものを全て持っている人間が、さらに何かを求めて奇跡を叶えてもらおうとするのは、
一度底の底まで落ちかけた彼女からすれば贅沢で慾張りとしか見えない。
不幸な人間が幸せを願っても、待ち受けているのは残酷な現実だけだ。
だからこそ幸福の中に生きる人間が、貪欲になる様が彼女には許せないのだ。
「命を危険に晒すっていうのはね、他にどうしようもない奴がとる最後の手段なのさ」
その最後の手段にあっさり手を出してしまったことを、杏子は少しだけ後悔している。
「あんたにもいつか命懸けで戦わなきゃならない時が来るかもしれない。その時になって考えればいいのさ」
少なくともその時は今ではないハズだ、と彼女は付け足した。
やや厳しい言い方だったが、もちろんこの言葉は全てまどかのためだ。
魔女がそう簡単に人間の声に耳を貸すハズがない。
当然、これまで彼女が戦ってきた時同様、対話の余地なく襲ってくるだろう。
それを何としてでも食い止め、まどかを守り切るのが杏子の役目だ。
友だち想いの鹿目まどかのこと、もし杏子が劣勢に立たされれば彼女はさやかはもちろん、
杏子をも助けるために契約してしまうに違いない。
その時に起こす奇跡が何であれ、一度魔法少女になったが最後、戦い続ける運命を受け容れなければならない。
さやかは助けたいが、まどかを魔法少女にするわけにはいかない。
ある意味、最も過酷な戦いを杏子は自ら選択してしまっている。
しかしこの選択を彼女は誤りだとは思わない。
むしろ後に退けない状況に自分を追い込むことで、只管に前に進む勇気が得られるのだ。
(命懸けで戦う…………?)
たった今、自分が発した言葉を反芻した彼女は小さな疑問を抱いた。
これはゲームではない。
望まない結果に陥ったからといってやりなおすことはできない。
敗北が死を意味する真剣勝負だ。
そこに今、自分はいる。
冷静になればおかしな話なのだ。
美樹さやかの存在は彼女が生きていく上で本来、何の値打ちもない。
むしろいずれ魔女になる使い魔までも律義に倒そうとする彼女は、杏子にとっては邪魔者でしかないハズだ。
自らの祈りが破綻を招いた時、杏子は他人の為に力を使うことをやめた。
賢しい彼女は決して覆轍を踏まない。
利己的に生きるのは自分を守るためではない。
その実は”自分が他者のために働いたことで他者を破滅に追い込まない”ためだ。
一度はそう決心し、その信念に従って生きてきた彼女は再び他者を破滅に導く道を歩もうとしている。
この場合、その犠牲になるかもしれないのは…………。
(あんただけは絶対に守ってやるからな)
すぐ後ろをついて来るまどかに、杏子は決意を新たにした。
「杏子ちゃんは……」
「ん?」
杏子は肩越しに振り返る。
元々か細い声は後ろから掛けられると殆ど聞き取れない。
「あんなに戦ってたのに、どうしてさやかちゃんを助けてくれるの?」
当然の疑問かもしれない、と杏子は思った。
実際のところ彼女にもその理由はよく分かっていないのだ。
「さあ、なんでだろうな」
特に理由はない、と返したいところを彼女は曖昧な言葉に置き換えた。
「なんとなく放っておけないから、かもね」
まどかに話しかける時、彼女は言葉遣いも口調も柔らかくする。
この一見頼りなさそうで、しかし友人想いの芯の強さを内に秘める少女は愛する妹によく似ていた。
愛する家族に囲まれている時の杏子は、今よりもずっと淑やかだった。
彼女が信奉していた神の教えは、乱暴や掠奪を許さない。
かの父の娘として清楚な振る舞いを心がけていたのだ。
従ってまどかを妹に重ねている間、杏子は無意識的に”当時の彼女”に戻って亡き妹の影に接している。
「あの…………」
まどかは先ほどより少しだけ声を大きくし、
「ありがとう」
ストレートに謝意を伝えた。
こういう純朴そうなところがまた妹に似ている。
「お礼を言われる筋合いなんてないよ」
苦笑交じりに杏子が呟く。
「私はあんたの親友を傷つけたんだ。それも身勝手な理由でね」
これはその罪滅ぼしのつもりだ、と彼女は附け加えた。
魔法少女は常人にはない力を持っている。
その神秘的な力は魔女を倒すためだけでなく、その前身を取り戻すためにも使えるかもしれない。
期待や希望といった前向きな観念を半ば捨ててきた杏子だったが、さやかやまどかを見ているうちに、
諦めていた多くのものが今からでも取り戻せるのではないかと思い始めた。
「私、絶対にさやかちゃんを助け出したい!」
魔女どころか手下にさえ抗する力を持たないまどかに、杏子は頼もしさを感じた。

 

 

「ここだ……」
長い通路に終わりが来た。
重厚な扉が彼女たちの前に現れ、2つの結界を分け隔てている。
(………………)
扉の隙間から音が漏れている。
足を止めた2人は床や壁が僅かに振動しているのに気付いた。
「準備はいいね?」
この感覚には憶えがある。
これまでの結界とは異なる、荘厳で優美な気配が杏子の心を掴んだ。
まどかが力強く頷いたのを確かめ、杏子は勢いよく扉を開けた。
「これが…………?」
飛び込んできたのは音だった。
コンサートホールを模した空間に表情のない楽団が整然と並び、美しく悲しい旋律を奏でている。
タクトを揮るマエストロは陽炎のようにゆらゆらと体を揺すらせ、演奏に一体感を与える。
このたったひとりのために催されたオーケストラは華麗で力強く、そして豪奢だ。
「さやかちゃんっ!」
まどかはその中央に鎮座する魔女に呼びかけた。
あの魔女を親友と同じ名で呼ぶことに些かの抵抗があったが、彼女にも杏子にもそれ以外の方法は思いつかない。
高級感のある調べに下賤な少女の喚き声が不協和音として組み込まれ、ホールの熱気に酔いしれていた魔女は
演奏を妨害するこの不届き者を摘み出そうと中空に巨大な車輪を出現させた。
剣を振り下ろした魔女に呼応するように、無数のそれらがまどかめがけて襲いかかる。
「怯むな! 呼び続けろ!」
この状況で頼りになるのは矢面で戦う杏子と、さやかに声を届けられるまどかだけだ。
格子状の結界を幾重にも巡らせた彼女は勢いよく飛び出し、魔女の攻撃を誘導する。
「さやかちゃん! お願いっ! 私たちに気付いてッ!」
眼前の異形の怪物が闖入者を排除しようとするのなら、そこに個としての意識や感情があるハズだ。
「正義の味方になるんでしょっ!? 魔女をやっつけるんでしょっ!?」」
魔法少女の凄惨な末路に接し、未だ契約できずにいる臆病者の説得は虚しく空を切るばかりだった。
かつてさやかが日和見主義者と罵ったように、今また杏子の庇護に縋りながら声を限りに叫んだところで、
外界のあらゆるものを遮断した魔女には届くハズがない。
四方から迫る大輪がまどか目がけて飛ぶ。
「こんなことやめて! お願いだよ、さやかちゃんッッ!!」
この巨大な人魚はあくまで演奏の邪魔となるものを消し去りたいようだ。
杏子はまどかの真正面に立った。
守りの戦いを苦手とする彼女の張った結界は、術者の性質を忠実に表している。
度重なる攻撃を遮った深紅の壁に亀裂が走る。
次の一撃でこの結界は脆くも崩れ去り、その隙を逃さず魔女は無防備なまどかの息の根を止めようとするだろう。
「聞き分けがねえにも程があるぜ、さやか!!」
言葉の持つ力は偉大だ。
それを発することによって相手の心を揺さぶることもできるし、自らを鼓舞することもできる。
不要な争いを避けることも、避けられるハズの諍いを引き起こすこともできる。
しかし何よりも強いこの空気の振動には大きな欠点がある。
聞く耳を持たないものには全く効力を発揮しないことだ。
自分の殻に閉じこもりあらゆる言葉を悪意と受け止める相手には、無意味な単語の羅列は一本の短剣にも劣る。
ひときわ大きな車輪が落ちてきた。
甲高い唸り声をあげて迫るそれを杏子が押し留める。
だがこれは罠だった。
暗闇の向こうに出現した新たな車輪が、勇敢に戦う魔法少女を左右から押し潰そうと地を滑る。
「杏子ちゃんッ!!」
この声は聞く者の耳に届いたが、聞いたところで彼女には何もできない。
三方からの無慈悲な攻撃を避ければまどかが犠牲になり、まどかを庇おうとすれば彼女はその直撃を受けてしまう。
自分のためだけに魔法を使うと決めたこの少女には究極の選択となったが、迷う必要はなかった。
「避けてっ!!」
できないことをまどかが叫ぶ。
集中攻撃が来ることを空気の流れから悟った杏子は、背後にまどかの息遣いを感じながら槍を持つ手に力を込める。
「杏子ちゃんッ!!」
冷徹に回る車輪が杏子の体を吹き飛ばした。
歴戦の魔法少女は空中で体を回転させて体勢を立て直すと、槍を地面に突き立てた。
少女の祈りがまどかを庇護する結界を作り出す。
「私は大丈夫だ! あんたはさやかを呼び続けろ!!」
鼓舞するように叫んだ杏子は魔女の目の前に立ちはだかった。
「ねえ、思い出して! こんなこと、さやかちゃんだって嫌だったハズだよ! お願いだから元のさやかちゃんに戻ってよ!」
まどかは声を限りに叫んだ。
喉に焼けつくような痛みを覚えても、声が掠れても、彼女は親友を取り戻すために叫び続けた。
魔女はその雑音を掻き消そうとさらに大量の車輪を送りこむ。
四方から、八方から飛び交う輪が防御に徹する杏子を無惨に食い破っていく。
既に意識も途切れがちになり、結界の維持のために魔力の大半を使っている彼女は気力だけで持ちこたえている。
痺れを切らせた魔女が剣を振りかぶった。
巨体から繰り出される斬撃は結界ごとまどかを斬り伏せてしまうだろう。
(くそ…………!!)
醜く美しい姿に変貌したとはいえこの魔女がさやかであることを分かっている杏子は、かすり傷ひとつさえ付けたくはなかった。
しかし今、この緩慢な動作を見過ごせば自分はもちろん、まどかも無事では済まなくなる。
「さやかッ!」
「さやかちゃんっ!!」
2人の声が重なった時、杏子は地を蹴っていた。
まだ鋭さを失っていない穂先が一閃し、右腕を斬り飛ばす。
断面から青い涙が迸った。
魔女が無言の悲鳴をあげて杏子を睥睨する。
「あんた、信じてるって言ってたじゃないか! この力で、人を幸せにできるって!」
必死の呼びかけは無数の使い魔が作り出す演奏に掻き消され、半分も届いていない。
だが彼女たちが信じているのは発声の持つ表面的な力ではない。
「いい加減、目を覚ませよっ!!」
目に見えない存在に縋るように杏子が叫んだ。
「お願い! 私たちに気付いて! さやかちゃん!!」
ボロボロになりながら、それでも立ち続ける杏子に鼓舞されたまどかは、悲痛な声で親友の名を繰り返し呼んだ。
彼女はいつも自身の無力さを味わわされていた。
契約を逡巡したためにマミを救えず、魔法少女となったさやかの手伝いができるわけでもない。
役に立てるのはせいぜいケガや病気に見舞われたクラスメートを保健室に連れて行ってやるくらいで、
親友に対しては同じ立場に立ちもせず甘過ぎる理想論を語っただけだ。
魔女が音の無い咆哮をあげ、再び中空に巨大な車輪を出現させた。
結界越しにそれが迫って来るのを見ていたまどかは、不意に視界を遮られた。
「杏子ちゃんッ!!」
彼女の叫び声は何の力も持たない。
異形の怪物となったさやかの心を取り戻すこともできないし、自分を庇おうと開(はだ)かる勇敢な魔法少女の援けにもなれない。
「心配すんな……あんたは私が守ってやるから……」
肩越しにそう呟く彼女には、この攻撃を受け止められるだけの力は残っていない。
指揮者の揮るタクトが激しく揺れた。
ホールは再び異様な熱気に包まれ、大音量の演奏会は愈々クライマックスを迎えようとしていた。
禍々しい大輪が冷たい空気を噛みながら走る。
杏子は槍を真横に構え、その攻撃に備えた。
「………………ッ!!」
まどかは反射的に目を背けた。
轣轆(れきろく)の音が破裂音に変わり、その直後に押し寄せる衝撃波が2人の華奢な少女を吹き飛ばした。
背中から床に叩きつけられたまどかは慣れない痛みに一瞬呼吸が止まったが、かろうじて意識は保っている。
「平気か……?」
徐に立ち上がった杏子は苦悶の表情を浮かべながら歩み寄る。
さやかの親友を守り切れなかったことを悔やんでいる彼女に、まどかは弱々しい笑みを浮かべた。

”大丈夫だよ”

口唇の動きを読み取った杏子は小さく頷く。
限界が近い。
無意味な説得も次で最後かもしれない。
そう悟った杏子はまどかの手を引いて立ちあがらせると、さりげない所作で背後に回らせた。
彼女に弱気な姿を晒すわけにはいかない。
戦う力を持つ自分と違い、この少女は本来、魔女と対峙するべきではない。
「さやかちゃん! お願い! もうこんなことやめて!!」
その無力な彼女ができるのは呼び続けることだけだ。
腕を斬り落とされても激痛に表情を歪めるどころか、今も演奏に聴き入っている魔女には、もはや”生きるもの”としての感覚はないかもしれない。
プログラムされたように音楽を愛で、それを邪魔する輩を叩き潰すだけの憐れな機械に等しいかもしれない。
それでも2人には美樹さやかを呼ぶ以外にとるべき方法はなかった。
「あんたの親友だぞ!? まどかがあんたの為に来てくれたんだ! あんたを助けたいって来てくれたんだ!!」
杏子の叫びも、まどかの訴えも。
あらゆる音が重厚な調べに吸い込まれていく。
(なあ、神様。あいつはあんたの教えのとおりに人を救ってきたじゃねえか……。頼むよ、神様……。
あんまりじゃねえか……。私はどうなってもいい、あいつを助けてやってくれよ…………)
彼女は長くその存在を忘れていた神に祈った。
魔女の作り出す結界の中からの祈りが届くかは誰にも分からない。
(私は罪を重ねてきたけどさ……あいつは、そうじゃない。自分を犠牲にして愛した奴を救ったんだろ?
他人の為に戦ってきたんだろ? だからさ……あんたがあいつを救ってやってくれよ……)
身勝手な祈りが人を破滅に追いやるなら、敬虔な祈りは人を救うハズだ。
杏子はまだ信仰心を捨ててはいない。
捨てられるハズがないのだ。
なぜなら彼女があの時、祈った相手は神々しい存在ではなく得体の痴れない宇宙からの生物だからだ。
禍々しい魔女は激しく揺れるタクトを見つめた後、真下にいる2人に視線を向けた。
自分を見上げて何事かを叫んでいる闖入者に、この怪物は大剣を振りかぶった。
「さやかッッ!!」
「さやかちゃんッ!!」
風を斬る音がし、白銀色の剣が眼前の空間をふたつに分けた。
一瞬遅れて床が細動する。
「………………!?」
異変が起こっていた。
杏子を斬り、まどかを潰すハズだった切っ先は彼女たちからずっと離れた床を叩いている。
あれほど囂(かまびす)しかった演奏もぴたりと止まっている。
「どういうことだ……?」
陽炎のような指揮者は両手をおろして佇立していた。
魔女を喜ばせるためだけに存在する楽団も、この奇妙な静謐を演出するのに一役買っている。
「さや……か……ちゃん…………?」
まどかの中から恐怖心や警戒心が抜け落ちて行く。
この魔女は――。
不気味だが美しいこの魔女は、もう攻撃をしてこないのではないか、と彼女は思った。
直感は正しかった。
剣が魔女の手からするりと抜け落ちる。
支えを失った刃は重力に従って床に転がり、青白い炎をあげて消滅した。
「さやか…………?」
声が届いたのだ、と杏子は思った。
対話を邪魔する大音量はもうない。
無数の使い魔たちは今、”3人の少女”をぐるりと取り囲み、成り行きを静観しているように見える。
突然、魔女は叫び声を上げた。
くぐもった少女のような声が広闊なホールに響き渡る。
胸を掻きむしり巨体を左右に揺らしながら、魔女は無様に転げ落ちた。
陸に揚げられた魚のようにもがき苦しむ様に、まどかは無意識に目を逸らせた。
魔女の指は床にしがみつこうとしたが、指先が圧力に耐え切れずボロボロと砂のように崩れていく。
斬り落とされた腕の断面から今も流れ出ている青い鮮血が、凝固せずに大きな水たまりを作った。
(さやか…………)
片腕を失い、のたうち回る怪物に凛とした少女を重ね合わせることができない。
だがこの不幸を振りまく存在は、間違いなく美樹さやかから生まれ出たものだった。
ずるり、と布を引きずるような音に、杏子は我に返った。
果てない砂漠に一滴の水を求める遭難者の如く、蠕動を繰り返して近づいて来る。
禍々しい巨体が一転、芋虫ほどにしか前進の敵わない憐れな姿を見て、杏子は言葉を失った。
彼女がこれまでに見てきた魔女にも使い魔にも、明確な意思は感じられなかった。
文字どおり別の世界の住人で、魔法少女と魔女とは経緯や理屈を抜きにしてただ戦うだけの関係だと彼女は思っていた。
獣のような唸り声をあげ、五指の砕けた手で床を引っ掻きながら、魔女はゆっくりと近づいて来る。
「ね、ねえ……杏子ちゃん……」
自分たちはどうすればいいのか、とまどかは視線で問う。
もちろん杏子には分からない。
その前身を知るまでは何も考えずに斬り伏せてきた相手だ。
条理を覆す存在も、次に取るべき手が思いつかなければ何もできない。
しかし彼女に考えている時間はあまりない。
既に魔法の力は尽きかけ、深紅のソウルジェムは美樹さやかが見せたそれと同じく黒く淀み始めている。
「………………」
まどかを後ろに立たせ、杏子は一歩を踏み出す。
蠢動しているとはいえ、これはまだ魔女だ。
戦う力を残しているかもしれない。
仮に無力な存在に成り果てているとしても、まどかに危害を加えない可能性はなくはない。
些か矛盾した気持ちを抱え、杏子は油断なく魔女を睥睨する。
互いの距離は数メートルもない。
「さやかちゃん…………?」
ゆっくりと、ゆっくりと近づいて来る魔女に向かってまどかが呟く。
演奏の鳴り止んだ今では、彼女のか細い声も届くハズだ。
声をかけられた側はそれには特段の反応を示さない。
自我があるのかないのか、モゾモゾと同じ動作を繰り返して2人に迫ろうとする。
「………………!!」
両者はついに数十センチの隙間を挟んで相対した。
まどかに下がるように言い、杏子は油断なく槍を構える。
赤い瞳の凛々しい少女を見つめた魔女は夜闇の梟を思わせる嫋々とした声で鳴いた後、枯れ枝のような腕をゆっくりと伸ばした。
「杏子ちゃんっ!」
まどかが叫んだが、彼女は恐れも不安も抱くことなくその様を眺めていた。
歪な手の先端が杏子の構える槍に触れた。
腹部の力だけで小刻みに震える体を引きずり、さらに接近した魔女は――。
紙縒のような指で彼女の槍を持ち上げ――。
その穂先を自らの額に宛がった。
「さやか…………?」
どこを見ているのか分からない瞳が杏子を捉えた。
こつん、と僅かな衝撃が彼女の指先から伝わる。
魔女が上体を反らすようにしてさらに顔を近づけ、身を乗り出したのだ。
「もしかして…………」
後ろでまどかが呟く。
美樹さやかとしての意識があるのかもしれない!
2人は視線だけで短く会話した後、同じ姿勢を保ち続ける魔女を見つめた。
「さやかちゃん、聞こえる? 私だよ! まどかだよ!!」
もはや親友の訴えを邪魔する者はいない。
彼女を救うには今をおいて他にないのだ。
「戻ってきてよ! ねえ、さやかちゃん!」
魔女は――微動だにしない。
「聞こえてるんだろ?」
槍の穂先から伝わる感触が杏子の心を落ち着かせ、同時に昂らせた。
”聞こえている”だけではない。
”見えても”いるのだ。
理想のコンサートホールで悦に入っている時から、”彼女”は2人の存在を認めていたのだ。
だが生来の意地っ張りな性格が姿を変えてもなお引き継がれ、自分を想い気遣ってくれる少女たちに心根を曝け出すことができなかったのだ。
「………………」
救いを求めているのか、それとも全てを諦めて消滅を冀っているのかは分からない。
死の危険も厭わず駆けつけてくれた親友にまで手を上げてしまった事実に、今になって後悔しているのかもしれない。
あるいは体内に孕んでいるハズのグリーフシードを、せめて杏子のために捧げたいと思っているのかもしれない。
言葉にならない声をあげている”彼女”からは真意は読みとれないが、杏子は何をすべきかを理解した。
「――分かったよ」
彼女は聖母のような慈愛に満ちた表情を浮かべ、そっと槍を引いた。
それを見た魔女は首を擡げて頷くように上下させた。
「…………杏子ちゃん?」
まどかが不安げに声をかけた。
「危ないから、さ。ちょっと下がっててくれよ」
いつの間にか忘れていたことがある。
とても重要で、少なくとも彼女にとっては人生を左右するほどの尊い美徳だ。

”愛と勇気が勝つストーリー”

使い古されたようなこの言葉は、佐倉杏子という少女を構成する大部分だった。
他者を愛し、慈しみ、敬い、そして援ける。
彼女は父に教えられるまでもなく、そうしていた。
貧困に喘ぐ友には食べ物を分け、病に苦しむ小さな命には薬を与えた。
信心があれば全ての人はあらゆる痛みから救済される。
杏子は自身もまた敬虔な信者のひとりとして戦ってきた。
人智を超越した存在の甜言蜜語に耳を貸し、奇跡を叶えてしまったばかりに彼女は多くのものを喪失したが、
目に見えず触れることもできない唯一のモノ――幼いながらに育んできた強靭な心――だけは残っていた。
この心は誰かを救う時に最も強くなる。
いま彼女がやろうとしているのは全ての魔法少女がグリーフシードを得るためにとる行動と同じだが、その意味も目的も全く違う。
「………………」
杏子は肩越しに振り返った。
主人に恭順な仔犬のように、まどかは言われたとおりに離れた位置からこちらを見ている。
(それでいい)
本来なら矮小な使い魔にも抗する力を持たない生身の人間だ。
放たれた魔力の余波をまともに受ければ、その体がどうなるかは分からない。
杏子は背後に再び格子状の結界を作り出した。
これはもはや魔女の攻撃からまどかを守るための壁ではない。
ここより全てを見通すための特等席だ。
(あんたの親友にケガさせるわけにはいかねえもんな)
杏子は深く息を吸い込み、凝固しかけた血液のような色をしたソウルジェムから力を引き出した。
後先を考えていないような言動とは裏腹に、彼女はしっかりと最後の手段のために手を打っていた。
作戦と呼べるほどのものではないし、読みの的確さと自慢できる類のものではない。
彼女はただ、力を残していただけだ。
どのような結末を迎えようと、その最後の最後の瞬間を自分の手で終わらせるための――。
万全で杜撰なプランだ。
「杏子ちゃんッ!?」
叫ぶまどかの目の前で、変幻自在に舞う槍が全てを焼き払う巨大な龍の姿に化けた。
幾重にも折り重なった長い体が幾何学模様を描き、荘厳なコンサートホールに聳え立つ。
その真下では今にも息絶えそうな人魚が、鋭い穂先に輝かしい未来を見るように上体を起こしている。
「さやかッッ!!」
地が轟き、空間が震えた。
龍の頭蓋は一度背を反らすように高く昇った後、惨めな姿を晒す魔女を俯瞰した。
「あんたは私が――!!」
杏子が叫んだ時、既に辺りは眩い光に包まれていた。
赤とも白ともつかない明滅がホールに巨大な影を落とす。
歪なふたつの影は生々しい咆哮と無機質な甲高い唸り声をあげた後、ちょうど真ん中でぶつかった。
荒々しく舞い躍る龍が身動きひとつしない魔女を絡め取る。
襤褸切れのようになった左腕ごと拘束し中空に持ち上げるその様は、まどかには見覚えがあった。
ほんの数日前に見たのと同じなのだ。
この続きは誰の記憶にもない。
感情の見えない機械のような魔法少女が介入したおかげで、誰もその続きを目撃することはできなかったのだ。
だが今は、違う。
この戦いを邪魔する者はいない。
そもそもこれは戦いですらないのだ。
美樹さやかはとっくに負けていた。
戦意を削がれ、無防備な姿を晒す彼女に槍が突き刺さる瞬間は永遠に来なかったハズなのだ。
「さやかちゃんッッ!!」
まどかは水入りに終わったあの戦いの続きを見た。
龍が無言の叫び声を上げ、魔女の腹を噛み砕いた。
鋭い牙が腸を齧り取り、骨を食い破っていく。
それが閃光の中に光よりもハッキリとした影絵となり、まどかには一本の黒い槍が憐れな人魚を刺し貫いているように見えた。
「ああッッ!?」
幻想的な演劇の終わりは唐突にやって来た。
龍が真っ赤な炎を吐き、魔女の体を内側から焼き焦がしていく。
人魚は数瞬だけ苦しそうにもがいた後、青白い炎をあげて明滅の中に溶けていった。

 

 

 目の眩む光も、耳を劈く音も、ない。
魔女の結界に特有の禍々しい気配も、いつの間にかなくなっていた。
ただどこかから吹き込む冷たい風が、赤銅色の壁によりかかる少女を優しく嬲るだけだ。
「………………」
頬を撫でる一陣の風に、まどかはゆっくりと上体を起こした。
夕闇のビルは冷たく固い。
「杏子ちゃん……!」
眠気に近い朦朧とした意識から覚めた彼女が最初に見たのは、格子状の足場に倒れる佐倉杏子の姿だった。
「よう…………」
まどかが駆け寄るより先に、その声に反応した彼女は力の無い笑みを浮かべている。
「――大丈夫かい?」
この少女にはある意味では美樹さやかよりも痛みに対する耐性が備わっているらしい。
身を守る法衣は既に解かれ、煽情的な恰好を露にする杏子の体には、あちこちに切り傷ができている。
流れ出た血液は凝固が始まっており、それが戦いの激しさと、彼女の強さと弱さを印象付けた。
「私は大丈夫……でもそれより杏子ちゃんが……」
壁に叩きつけられたらしいまどかは肩や背に鈍い痛みを覚えたが、行動に支障はない。
目立った外傷もなく、約束どおり”彼女を守り通せた”ことに杏子は安堵のため息を漏らす。
「平気さ。こんなのただのかすり傷だよ」
杏子はまどかに手を引かれて徐に立ち上がった。
その時、危うくバランスを崩しそうになるのをまどかがしっかりと支える。
「少し休んだほうが……」
彼女はそう言うが、
「いや、大丈夫だ。それより――」
かぶりを振った杏子は右手に大事そうに握っていた”それ”をまどかに見せた。
「これって…………!?」
「ああ、奇跡が起きたんだ……愛と正義が、さ……勝ったんだよ……」
乱れた呼吸を整えながら杏子は満面の笑みを浮かべた。
聖母のような慈愛に満ちた表情の下には、少しだけ濁っている青色のソウルジェムがある。
「まどか」
彼女は噛み締めるようにその名を呼んだ。
「早くあいつのところに届けてやりな……あんたが……」
美樹さやかの魂をまどかに預け、彼女は壁にもたれかかった。
時おり深く息を吸い込む杏子は虚ろな瞳で中空を見つめている。
「でも……!」
一度冷たく拒絶された親友を助けたいと願うまどかは、
「杏子ちゃんが…………」
それと同じくらいにこの勇敢で慈しみ深い少女をも助けたいと思った。
敵対していたハズの杏子が、助けたところで何のメリットも無い――と、まどかは思っている――美樹さやかを、
文字どおり満身創痍になってまで忌々しい魔女の姿から解き放ってくれたのを見て、まどかは選択の板挟みに悩まされた。
「バカ野郎!」
本来なら怒声とともに聞く者へ反発や萎縮を招くこの言葉も、弱々しい響きを纏った虚しい強がりでしかない。
「あんたはさやかを助けるんじゃなかったのかよ……」
「助けたい! でも杏子ちゃんを放っておけないよ!」
「大丈夫だって言ってんだろ……? 心配すんなって。ちょっと休んだら私も行くからさ」
「………………」
無理をしている、とまどかには一目で分かった。
呼吸の乱れが治まる気配はなく、紡がれる言葉にも勢いが感じられない。
あの凛とした少女の面影がどこにも求められないのだ。
「あ、そうだ。さやかを助けたらさ、何か食わせてくれよ」
「え…………?」
「何でもいいよ。うまいモノ用意して待っててくれ」
ソウルジェムが戻ったとはいえ、今の美樹さやかは抜け殻そのものだ。
杏子の力で腐敗を防いではきたが、その効果もとっくに切れてしまっている。
「さあ――」
2人してここにいる意味はない。
杏子はまどかの背中を押した。
だが彼女は動かない。
「早く行けっ!!」
本来の目的はさやかの救出だ、と言わんばかりに彼女は怒鳴った。
強引だがこうでもしなければこの柔和な少女は動きそうにない。
「……分かった」
まどかは漸く頷いた。
「さやかちゃんを助けたらすぐに戻って来るから! それまで待ってて!!」
「なに言ってんだよ。私も後から行くって言ってんだろ?」
杏子は苦笑した。
「あ……そ、そうだよね、うん……!!」
つられてまどかも苦笑した。
しかしその表情はぎこちない。
「すぐに戻って来るから!!」
彼女はもう一度そう言い、無機質な足場を大急ぎで駆け下りていく。
ホテルの場所は教えてある。
一途な彼女は何があっても脇目も振らずにそこを目指すだろう。
静寂の中に少女の足音が響く。
やがてその音も小さくなり、杏子はようやく何もない空間にひとり残された。
体重を支えられなくなった彼女はその場にくず折れた。
もはや強がる必要はない。
気丈に振る舞う理由もない。
薄闇の中で少女は赤から黒に変わりつつある血液を見つめた。
「あんたに謝らなくちゃいけねえな…………」
右手に力を込めて金属質の床を引っ掻く。
「神様……ありがと、な……あんたを信じてよかったよ…………」
うつ伏せに倒れこんだ杏子は、胸を圧迫しているせいで声を出す度に息苦しさを感じた。
だがこの苦しみが間もなく消え失せることを彼女は分かっていた。
「ついでにさ……これからもあいつを守ってやってくれ……なんて頼んじゃ駄目か…………?」
冷たい風が上空から吹き込んだ。
どこかに隙間ができているのか、吹き抜ける風が獣のような唸り声を運んでくる。
「なんて……そこまで欲張りじゃ、ねえよ……」
力はまだ残っている。
杏子は大きく息を吸い込んで上体を起こした。
骨の軋む音がして苦悶の表情を浮かべる。
(まだ……だ、あと……もう少しだけ…………!!)
感覚が無くなりつつある指を、彼女は必死に動かした。

 

 同じ時間を生き続ける少女には、新鮮な驚きはない。
自身の行動によって毎回何かが変わり続けるが、その変化はたいていの場合彼女が望まない結果を齎す。
今回もそうだった。
出だしからして躓きかけていた彼女は、逸れ始めていた軌道を修正することができずに今日を迎えてしまった。
充分な知識とそこから捻り出される知恵が最も効果的なタイミングで発揮されていれば避けられたかもしれないが、
残念なことに暁美ほむらは悉く”タイミング”に裏切られ続けている。
好戦的な魔法少女と、身の丈に合わない理想を掲げる魔法少女との衝突を止める時もそうだった。
彼女は”ずっと前から”それができたハズなのに、実際に仲裁に割り入ったのは間もなく勝敗が決する瞬間だった。
美樹さやかが魔女と化したのも、この少女に原因がないとは言えない。
異変に気付いておきながら漸く彼女が渦中に飛び込んだのは、既に異形の怪物へと変貌していたさやかと、
それを見て動揺する杏子が視線を交わさず対峙した後だった。
つまりほむらはいつも”事が終わった後か”、”終わる直前”になって行動を起こす。
遅すぎるのだ。
誰よりも時間に恵まれ、誰よりも時間に縛られる彼女は――。
その時間の使い方が全く分かっていなかった。
「………………ッッ!?」
黄昏を青い顔をして走り去るまどかを見かけた時、ほむらは自身の犯した間違いに気付いた。
すぐにその後を追うこともできたが、彼女は敢えてまどかに背を向けた。
どこに向かっているのかは凡その見当がついている。
あの無限の可能性を秘めた少女には常に契約を迫るキュゥべえの影が付き纏うが、今ばかりは心配しなくてもいいだろう。
ほむらは微風に揺れる髪をかき上げ、心寂しい街を急いだ。





ソウルジェムが魔女の気配を感じ取るように、彼女の直感がもうひとりの魔法少女の位置を教えた。
ところどころに骨組みを裸出させる無機質なビルだ。
そこに聖なる息吹の残滓を感じたほむらは躊躇いがちに階段を昇った。
空気は冷たい。
だが足元を撫でる冷気の中に、仄かな暖かさがある。
ここからは慎重さが必要だ。
どんな状況にも動じないための心の準備も要る。
階段の中ほどで止まった彼女は深呼吸をひとつしてから、残る数段にゆっくりと足を運んだ。
「………………!!」
なかば予想していた事態だけに、ほむらが最初に見せた反応は軽度の呼吸困難で済んだ。
足元にまだらに広がる錆が凝固した血液だと気付いたのは、彼女が血の臭いを嗅ぎ取った直後だ。
既に陽は沈みかけ、背後の鉄骨が作る影で一帯は夜のように暗かったが、その様子はハッキリと見て取れた。
「こんな……こんなことが…………」
度重なる陰惨な出来事に彼女は長く”動揺すること”を忘れていたが、この光景には過去のどの経験にもない虚しさがある。
佐倉杏子はここにいた。
壁にもたれて座っていた。
四肢をだらんと力なく伸ばしたまま。
丁寧に置かれた人形のように座る彼女は、ぴんと伸ばした背を壁にぴったりと張りつけていた。
それを邪魔するように項垂れた頭が重力を借りて前屈させようとしている。
「どうして…………?」
ほむらは唇を動かさずに呟いた。
「どうしてなの…………?」
力のない声は空気を殆ど振動させず、それを呟いた者の耳にだけ届く。
見慣れた――見飽きた――光景のハズだった。
魔法少女として生きる以上、一般人か同業者かに関係なく惨たらしい亡骸を踏み越えるのが常だった。
誰もが目を逸らしたくなる現場でさえも、死と隣り合わせの戦いを続ける彼女たちにとっては敷石にしかならない。
「どうしていつも…………」
佐倉杏子の最期を見るのはこれが初めてではない。
残酷な真実を知った巴マミが、自棄を起こして彼女を射殺したことがある。
胸部のソウルジェムを砕かれ、何が起こったのか理解する前に死んだのだ。
それに比べればこの時間軸での死に様は陰惨極まりない。
足場や壁に無秩序な模様を描く血痕。
滴り落ちてできた、小さな黒い水溜まりの上に座した少女。
「………………?」
ほむらは杏子の人差し指だけが真っ直ぐに伸びているのに気付いた。
その指し示す先に血で書かれた文字があった。

 

” わ た し は さ や か を ”

 

急いで書いたのか、それともたった一文字を書ききる力もなかったのか、ぐにゃりと曲がった歪なメッセージは
字と字が繋がっている。
「あなたは――」
ほむらはまた意味のないことをした。
生者の声に死者が耳を貸すハズがない。
そもそもこの世を去った人間には、声を聴くための耳もなければ答えるための口もない。
彼女は黒い短い文章を何度も目で追った。
このメッセージには続きがあるらしい。
”を”のすぐ右側に何かを書きかけた跡があるが、塗りつぶしたようになっていて判読できない。
雲が晴れ、一瞬だけ黄金の光が差し込んだ。
その時、足元にキラキラと輝く何かが鏤(ちりば)められているのにほむらは気付く。
赤だった。
床一面に広がるそれは赤だったのだ。
(そういうことなのね…………)
ほむらは泣きそうな顔で杏子を見た。
彼女には何もかもが分かった。
疾風のごとく雑踏を駆けていくまどかが、両手にしっかりと青色のソウルジェムを持っていたのを見た時、彼女は既に勘付いてはいたのだ。
この自分の信念に忠実な少女が、あり得ない奇跡を起こしたことを。
魔女からグリーフシードではなくソウルジェムを取り出したことを。
最後に愛と勇気が勝つストーリーの役者を見事に演じきった佐倉杏子が、名残惜しい最期を迎えたのを。
彼女は理解した。
杏子にはもう時間がなかった。
まどかを守るために力を使い果たし、間もなく美樹さやかと同じ道を辿るところだったのだ。
奇跡は最後に彼女に数秒の猶予を与えてくれた。
感覚の無くなった指が自らの血液をインクに、彼女が伝えたかった言葉を書かせた。
しかし運の悪いことにソウルジェムの濁りは夜よりも黒く淀んでいた。
(あなたなら、きっと最後まで生き延びてくれると思っていたのに……)
散らばる赤を見て、ほむらは思った。
自身に這い寄る”その瞬間”を悟った杏子は、文字に託すことをやめた。
生に対して欲張るのはもう終わりなのだ。
為すべきことを成した彼女は――自分を砕いた。
ほんのひと握りの、使い魔一匹も始末できない魔力で。
彼女は自分を砕いた。
(………………)
床に横たわって無様な姿を晒すのではなく、壁に凭れたまま絶命したのは彼女の最後の強がりだったのではないか。
ほむらは思った。
実際、佐倉杏子は強かった。
魔法少女としても、ひとりの人間としても。
戦えば必ず勝つし、不条理な世の中の渡り方も心得ている。
やや好戦的な面にさえ目を瞑れば、彼女ほど頼りになる者はいない。
それを奪ったさやかが――。
ほむらは憎かった。
杏子に対して特段の感情を持っているわけではない。
総てはまどかを助けるため。
契約を迫る魔の手から彼女を守り、杏子と条件付きの共闘関係を結んでワルプルギスの夜を打倒する。
ただそれだけのための、いわば一度きりのパートナーだ。
(あなたはいつも…………!!)
ほむらは気付いていない。
まどかに対して抱く気持ちを、杏子にもまた向けている自分に。
彼女は気付かない。
情はしばしば物事の進みを遅らせ、狂わせ、最も望まない結末に導く。
佐倉杏子の死を彼女は悼んだが、その想いもすぐに薄れ、間もなく消える。
これは死別ではないからだ。
この時間軸における失敗がもはや取り返しのつかないほどの深い傷を残したことに気付いた時から、
暁美ほむらはこの死による別れが全く悲しくなくなった。
やがて時期が来れば佐倉杏子は蘇る。
何もかも無かったことにして、彼女は彼女のまま再び姿を現す。
つまりほむらにとって誰かの死は、単なる別れ以上の意味を持たない。
首を齧り取られても、心臓を撃ち抜かれても。
そうして惨たらしい死に様を見せた彼女たちとはいつでも会える。
だから涙が流れるハズはない。
明日もまた会える人間との別れにいちいち落涙するほど、ほむらの感受性は豊かではない。
時を巻き戻せば全てが終わる。
時間に逆らった代償は、彼女の人間としての心の欠落だった。

 

 

 まだ夜が明けきらないうちに少女は家を出た。
物騒な世の中でも彼女の親は放任主義者――突き放しているわけではない――で、娘の外出にも注意は払うがそれを引き留めるようなことはしない。
尤も今回に限ってはこの少女は、たとえ親の猛反対があっても外出を断行しただろう。
それだけの理由があったのだ。
強制されたことではなく、彼女の意志がそうさせるのだ。
制服姿で薄暗い街中を歩く少女は、紙袋をしっかりと両手に抱える。
背中を叩く風は冷たく、薄い生地を突き抜けて少女の体温を奪おうとする。
しかしそれが自分の背中を押してくれる追い風のように感じられ、彼女は見えない何かに少しだけ感謝した。
近代的なビルの林から茶と緑が覆う林へと場所を移した時、空は次第に白みを帯び始めてきた。
タイミングに間違いはなかったのだ。
木々の間から差し込む光がなだらかな林道を照らし、自然の道標を作り出す。
少女にはそれは必要なかった。
ここは一度、たった一度だが通った道だ。
たとえ記憶から消え去っても、土を踏みしめた感覚は体全体が覚えている。
この坂を登りきった先に、忘れ去られた建物がある。
すっかり老朽化しているそれは、好奇心旺盛な地元の子どもたちには幽霊屋敷に喩えられるかもしれない。
だがかろうじて保たれている輪郭と割れ残ったガラスを見れば、想像力がそう逞しくない人間でも当時の華麗さや荘厳さ、
何より言葉にできない神聖さを見出すことは決して難しくはない。
木製の、蹴破られた扉には真新しい傷がついている。
少女はまだ神々しさをほんの僅か漂わせている教会の前で深呼吸した。
特定の信仰対象を持たない彼女は、この扉をくぐる際の作法を知らない。
知らなくても良かったのだ。
少女が祈りを捧げる相手は、多くの信者が心に想い描いている”神”ではない。
「………………」
床の軋る音が最初の境目だ。
木片に足を取られないよう、彼女は慎重に歩を進める。
この空間を取り巻く静謐と美には、足音どころか息遣いさえも憚りたくなる。
しかし少女は自分がここにいることを示すように、敢えて床を踏み鳴らした。
それに合わせて舞い上がる塵埃が渦を巻く。
割れたステンドグラスの隙間から差し込む朝日が中空を漂う塵を照らした。
カビっぽい湿った空気の中に、かつてここを訪れた者たちの敬虔な祈りの残り香を感じ、少女はそっと胸に手を当てた。
生きている!
規則的――時に不規則――な脈動が掌に伝わる。
彼女がそれを体温を通して理解した瞬間、あらゆる方向から飛び込んできた黎明の赤が教会の中を遍く照らした。
少女は導かれるようにして光の輪の中を進む。
彼女の足は教壇の前で止まった。
救いを求める人々に幸せに生きる道を教え説いた人物はもういない。
しかし彼の教え、理想、熱意は一度は間違いなく彼の娘に受け継がれていた。
伝わっていたのだ。
語る者が消え失せても、この教壇はそれを憶えている。
すぐ上で放たれた言葉の全てが無数の傷とともに刻み込まれている。
少女は抱えていた紙袋を教壇に置いた。
真っ赤に熟れた林檎がいくつも入った紙袋。
食す者の糧となり、生命を繋ぐハズだった禁断の果実だ。
少女はこれを受け取らなかったことをひどく後悔した。
生き続けるために必要な食べ物を拒むこと――それが即ち生の放棄であることに彼女はずっと気付けずにいた。
誰が彼女に生きていて欲しいと願っても、彼女がそれを受け止めなければ死んだのと同義なのだ。
彼女はそのまま数歩下がり、焦げ茶色の床に跪いた。
生が尊いものであるならば、そのすぐ隣にある死もまた同じように尊いハズだ。
「………………」
深呼吸をひとつし、少女は翼の折れた天使――ところどころが割れ欠けた豪華で見窄らしいステンドグラス――を仰いだ。
角張った顔がこちらを見下ろし、にこやかな笑顔を浮かべている。
少女は両手を組んで静かに目を閉じた。
さまざまな情景が瞼の裏を滑っていく。
彼女が見たもの、聞いたもの、触れたもの、感じたものが。
それらは時に鮮明で、時に曖昧だ。
はっきりと色のついた景色もあれば、薄霞の向こうにあるように輪郭さえ覚束ない風景もある。
だがそのどれもが彼女が確かに歩んできた道だった。
忘れようとしても忘れられない、記憶の底に膠着(こびりつ)く道程だ。
ぐるぐると動き回るそれらの中に、ひとりの少女がいた。
粗野で野蛮で、華奢だが逞しい少女だ。
乱暴な言葉遣いと好戦的な性格とが、周囲の彼女に対する評価を芳しくないものにしていた。
しかしたった一度でもその内面に触れることができれば、誰もが最初に抱いた印象を打ち壊したくなるだろう。
この少女は悪魔のような不敵な笑みの奥に、聖女の光を押し込めていたのだ。
あまりに巧みに真の姿を隠していたため、それが露になるのには気の遠くなるような時間が必要だった。
いま祈りを捧げるこの少女は彼女との遅すぎた出会いを恨み、
悪辣な仮面の裏にある天使の微笑みに最後の最後まで気付けなかった自分の愚かさに懺悔した。

 

自らの命を犠牲にしてまで自分を救ってくれた少女に――。

 

「きょうこ――」

 

美樹さやかは溢れる涙も拭わずにただただ祈り続けた。

 

 

   終

 

 

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