虹の橋

(生来の慈悲深さが少女と一頭の犬を引き合わせた。出会いと別れの13年が佐倉杏子の人生に与えた影響は……。)

 

よ、これからしばらく私が面倒見てやるからな。とりあえずヨロシク。
パピーウォーカーっつってさ、あんたが一人前になれるようにいろいろ世話してやるのさ。
そんな身構えんなって。
ああ、えっと……やっぱ名前がないと不便だよな。
うーん……。
そうだな、カッコいい名前がいいか?
いや、将来のことを考えれば可愛いほうがいいよな。
………………。
難しいな――。
ああ、ちょっと待てって。
いま考えてるところなんだからさ。
そうだな…………。
――メロゥ! 
よし、あんたの名前は今日からメロゥだ!
いい名前だろ?
あ、そうだ。
お近づきの印に……。
ほら、食うかい?
安心しな。
食べさせちゃいけないモノはひと通り調べてあるさ。
わんこ用のビスケットだ。
ああ、でも1日に3枚までだぞ?
半分に割ってやるから……って、ひと口かよ?
見かけによらず大食いなんだな。
気に入ったぜ。
メロゥ。
今日からヨロシクな。

 

おいおい、トイレはそこじゃないって言ったろ?
ちゃんとシート敷いてんだからさ、ここでしろっての。
そんな顔するなよ、別に怒ってるわけじゃないんだぞ?
メロゥだって部屋中汚したくないだろ?
一応はルールなんだから守ってくれよ。
私もとやかく言いたくはないけどさ。
うーん……まぁ、いいや。
これからちょっとずつ覚えていけばいいんだもんな。
…………ん?
だから怒ってないって。
こっち来いよ。
――あんた、柔らかいな。
この耳の付け根のところなんか特に……。
それに――温かい。
メロゥ。
私が一人前にしてやるからな。
まだまだ先は長いんだ。
お互いゆっくり行こうぜ。

 

フード、ちょっと固かったか?
ごめんな、加減がよく分からないんだ。
次からは気をつけるよ。
あ、おいおい……無理して食べなくていいんだぞ?
食べにくかったら残していいんだからな?
だから無理するなって――。
メロゥ、あんたさ。
ヘンな気を遣わなくていいんだぜ?
今は私があんたの親なんだからな。
今からそんなに遠慮しててどうすんだよ。
あんたたちはな。
盲導犬ってのは目の見えない人を助けてやるんだ。
家にいる時も出かける時もずっとな。
それってむちゃくちゃ気を遣うことだと思うんだよ。
だってそうだろ?
その人がいつ、どう動くかなんて分からねえんだ。
急にトイレに行きたくなることもあるだろうし、買い物に行きたいってこともあるだろ。
あんたはその度に動かなくちゃならないんだ。
自分がどうしたいか、とか関係なしにね。
だから今は私に思いっきり甘えなよ。
ワガママ言ってもいいんだぜ?
どうせ今しかできないんだ。
私をうんと困らせても構いやしないさ。
パピーウォーカーってのは、そういうのもひっくるめて面倒見るんだよ。
ああ、でも勘違いすんなよな。
私がそういう役をやってるから、ってワケじゃない。
そりゃあ、さ……。
最初はそうだったよ。
あんたを一人前の盲導犬にするために、パピーウォーカーとして務めを果たさなきゃって思ったよ。
でも、今は違う。
私とあんただ。
いいか?
私はあんたを”飼ってる”んじゃない。
飼うとか飼われるとか、そういうの嫌いなんだよね。
同じ命じゃん?
種類が違うだけで、同じ命だからな。
どっちが優れてるとか、そんなの無いんだよ。
だから本来なら私とあんたは対等さ。
でも、こういう制度があるから表向きはしつけ役ってことになってる。
それだけなんだよ。
だから今のうちに私に思いっきり甘えてくれよ。
いいだろ、メロゥ?

 

お手とかお座りとか、まあ一通りは大丈夫か。
私の言うこと、ちゃんと聞いてくれるもんな。
トイレの場所もあれからすぐに覚えてくれたしな。
あんたは優秀だよ、メロゥ。
ああ、おい! そんなに引っ張んなって!
ったく、褒めたそばからこれかよ?
そんなんじゃユーザーさんに迷惑かかっちまうぞ?
ほんとに大丈夫かよ……。
いいか、メロゥ?
急に走り出すのは絶対にダメだ。
あんたは目の不自由な人を誘導するんだぞ。
引っ張ったりしたら転んじまうかもしれないんだぞ?
そうじゃなくても何があるか分からねえ。
子どもが飛び出してくるかもしれないし、曲がり角から車が走ってくる危険もあるんだ。
メロゥは耳も鼻も利くだろうから、そういうのは真っ先に察知できるだろ?
危ないことはしない。
安全第一。
それがユーザーさんとあんたを守ることになるんだ。
約束だぞ?
う〜ん…………。
ほんとに分かってんのか?
とにかく気をつけてくれよ?
あんたたちは視力はあんまり良くないんだからな。





でももし、こいつが盲導犬として適合しなけりゃユーザーの元に行くこともないのか。
そしたらこのままずっと……。
ワザと躾けないってのはダメなのか?
何も無理に盲導犬にしなくてもいいよな?
メロゥだってもっと遊びたいだろうし。
海とか山とか、行きたいよな。
私だって――。
いっそ本当に…………。
いや、ダメだ!!
なにを考えてんだ!!
こいつは立派な盲導犬になるんだぞ。
困ってる人たちを助けるんだ。
私ができなかったコトを。
メロゥがやってくれるんだ。
世の中にはこいつを必要としてる人がいっぱいいるんだから……。
私が独り占めになんかできねえよな……。
ごめんな、メロゥ。

 

いよいよ明日でお別れだな。
1年なんて永いと思ってたけどさ。
過ぎてみりゃ、あっという間だったよな。
最初はどうなるものかと不安だったけど。
あんたはエライよ。ああ、優秀さ。
私の言うことはちゃんと聞いてくれるし、無駄吠えだってしない。
世話するハズの私のほうが面倒見てもらってた感じさ。
そういやさ、前に何かの本で読んだけど。
レトリバーって子守りも得意なんだってな?
赤ん坊が泣いてたら親を呼びに行ったり、添い寝したりしてやるんだろ?
メロゥもそうだったよな。
いつも私の傍で眠りたがっててさ。
寂しがり屋だなって思ってたけど。
本当は寂しかったのは私のほうだったんだよな。
あんたはそれを見通して――傍にいてくれたんだろ?
……ったく、情けないよな、ほんと。
簡単に騙されそうな顔して、あっさりと私のこと見抜くんだからさ。
敵わねえよ、メロゥには。
その円い瞳にどれだけ癒されたか分かるか?
フサフサの飾り毛がどれだけ気持ち良かったか。
できることならさ、あんたとずっと居たいよ。
いつまでもこの家でさ。
飯食って、散歩に行って……海や山にも行きたいよな。
でもな、メロゥ。
今日でおしまいなんだよ。
黙っててごめんな。
この時のこと、考えたくなくてあんたには言ってなかったんだ。
だって寂しくなるじゃんか。
あんたと居られるのもあと何日……って、数えながら生活しなくちゃならないんだぜ。
だから、黙ってて……ごめんな。
ん…………?
ひょっとして分かってるのか?
メロゥさ、たまに考え込むことがあるよな。
今みたいに首傾げてさ。
好奇心旺盛なヤツだもんな。
庭の土掘り返したのを叱った時も、そんな顔してたっけ。
なあ、メロゥ。
これからは私なんかじゃなくて、困ってる人を助けてやるんだぞ。
あはは、大丈夫だって!
心配すんな。
私が今日まで教えてきたことを実践すりゃ問題ないさ。
あんたは立派な盲導犬になるんだ。
この世の中に幸せを振りまく存在に、さ。
私がなりたくてもなれなかった存在にー―。
だから……さぁ…………。
そんな悲しそうな顔するなよ……。
あんたがそんなんじゃ…………。
ユーザーさんを助けてやれないぜ?
わっ、おい!
舐めるなって……!
バカ――泣いてなんかいねえよ……!
あんたの門出なんだ。
笑って――笑顔で送り出してやりたいんだよ。
分かるだろ?
よし!
最後にいつもの公園にでも行くか?
この時間だったら近所の子どもも来てるだろ。
一緒に遊ぼうぜ?

 

はい、特に問題はありません。
体重も維持してますし、ケガも特には……。
そうですね。
いえ、大丈夫です。
こちらこそ、本当にありがとうございました。
実りのある1年でした。
この機会を与えてくださったことに感謝します。
あ、あの、すみません。
最後に少しだけ――。
メロゥとお別れの挨拶をしたいので……。
ええ、少しでいいんです、お願いします。





メロゥ。
あんたと過ごした1年。
最初はどうなるものかってヒヤヒヤしたけど。
楽しかったよ。
嬉しそうにボール咥えて走ってくるところもさ。
美味そうにフード食ってる顔も。
私の手を舐めてくれる時の優しい目も。
一生、忘れないぜ。
あんたは今まで、ずっと私に優しくしてくれた。
どんなに叱っても寄ってきてくれた。
何も心配いらないさ。
あんたなら、立派な盲導犬になれる。
ユーザーさんの目にも耳にも足にもなってやれる。
私が保証するぜ。
メロゥ……。
私はあんたを信じる。
あんたはあんたを信じろ。
応援……してるからな……。
さて、別れの挨拶はこれくらいにしとくか。
寂しくなっちまうもんな。
最後は笑顔でお別れしようぜ!
メロゥ――。
元気でな!!

 

「そっか……あの子、行っちゃったんだ……」
「ああ、もともとそういう約束だしな」
「可愛い子だったよね。私なんかにも懐いてくれて」
「そういえばあんた、妙に扱いになれてたよな?」
「言ってなかったっけ? 私も前に飼ってたんだ」
「ふうん…………」
「ロッキーって言ってね。小さい頃からずっと一緒だったんだ」
「なるほどね、どおりで……ん、前に”飼ってた”って……?」
「うん、もう、いないんだ――」
「………………」
「寿命、でね」
「悪いな、そんなこと思い出させちまって」
「ううん、私が言い出したんだし……」
「なあ――」
「なに?」
「あんた、さっき”飼ってた”って言ったよな?」
「……うん? それが――?」
「私さ、それ、あんまり好きじゃねえんだよな」
「もしかして”飼う”っていう言い方が?」
「ああ」
「…………?」
「凄いんだよ、あいつら。私たちなんかより耳も鼻も利くし、頭もいい。
爪も牙もあるし、走るのだって速い。それに比べりゃ人間なんてちっぽけなもんだと思わないか?」
「たしかにね。盲導犬とか災害救助犬とか、セラピードッグとか……。
私たちにできないことがあの子たちにはできる。尊敬するよ」
「だろ? それなのに”飼う”なんておかしいと思わねえか? 人間はあいつらに助けてもらってるんだ。
メロゥだって――これからユーザーさんの手助けをしていくんだぜ……」
「杏子、あんた…………」
「親父の教えはね、なにも人間だけが幸せになればいいって考え方じゃなかったんだ。
ヒトも動物も、同じように平和で幸せに暮らせる世界……そういうのを夢見てたんだよ。
親父の言うことだからってワケじゃねえけど、私もそれには賛成だ。
人間が一番偉いわけじゃない。動物も植物もちゃんと命がある。ちゃんと自分で考えてる」
「実はさ――」
「なんだ?」
「私も本当は”飼う”って言葉、好きじゃないんだよね。理由はあんたと同じ。
ずっと一緒にいると家族そのものなんだよ。最初はしつけのために上下関係がいるかもしれないけどね。
でも最初だけ。可愛い弟みたいだし、カッコイイお兄さんみたいなものだったよ」
「じゃあ、なんでさっき――」
「みんなはそうじゃなかったから」
「どういうことさ?」
「世の中、私たちみたいな人ばっかりじゃないんだよ。犬は犬、猫は猫。あくまでペットとしか見ない人もいっぱいいる。
暑くても寒くても外の犬小屋で寝かせてる人だっている。放任主義だとか言って放り出してる人もね……」
「………………」
「ロッキーが亡くなった時にね、葬儀屋さんに頼んだんだ。市に頼めば引き取ってもらえるけど合同火葬――って知ってる?」
「いや、聞いたことない」
「他の子たちと一緒に焼却されるんだよ。だからお骨も返ってこない。どこか分からない場所に埋められておしまい。
そんなの嫌だったからさ、動物専門の葬儀屋さんに頼んで個別火葬にしてもらったんだ。
それなら最後まで見てあげられるから。あの子が空に昇っていくの、ちゃんと見届けられるから」
「さやか…………」
「私はそれが当たり前だと思ってたけど、周りの人はそうじゃなかった。たかが犬に立派な葬式なんてする必要ないとか、
いずれ土に還るんだから山にでも埋めればいいとか、そんな風に言うんだよ」
「そんなもんじゃねえだろ……!」
「私も最初はそんなの違うって思ってたけど……いつの間にかそれに流されちゃってた……」
「あんたは間違ってねえよ」
「はみ出すのが怖かったのかもね。人間と動物の間に勝手に境界線引いちゃってさ」
「………………」
「あの子のお骨は今でも家に置いてあるんだ。納骨したら離れ離れになっちゃう気がしてね」
「そっか…………なあ、さやか」
「…………?」
「今度さ、あんたの家、行ってもいいか? あんたのトコとは習慣も違うだろうけど、せめて手を合わせてやりたいんだ」
「う、うん…………」
「ああ、迷惑だってんなら別にいいんだ。離れてたって祈ることくらいはできるしな」
「いや、そうじゃなくて――」
「何かあるのか?」
「後ろめたいっていうか……あんたに来られると申し訳ないっていうか……」
「どうしたっていうのさ? 今さら私に負い目感じるようなことが――」
「杏子んトコの教えがどういうものかってのはある程度は聞いたけどさ。その……亡くなった命っていうか……。
うん、その、供養の仕方とか、そういう考え方ってあるの?」
「親父の教えだとこの世で生を終えた魂は、等しく神様の御許に旅立つんだ。
そこで穢れを浄化してもらって神様の一部になる。人も動物もそれは同じさ」
「そうじゃなくて、残された人がする供養は?」
「……それは、特には聞いてないね。思いっきり悲しむのも、笑顔で送り出してやるのも、それはそれぞれじゃないか?
その命を大事に想うってのが大切なんだよ。あっちの世界でも幸せに暮らせますように、ってね」
「………………」
「あんたもそうなんだろ? 納骨しねえってのは、つまり、えっと……ロッキーのことを想ってのことなんだからさ」
「私さ――」
「うん?」
「宗教のこととかよく分からなくて。うちはもともと無宗教だし、葬儀屋さんはお経をあげてくれたから仏教の類だと
思うんだけどね。それで供養の仕方も多分、ちゃんとした方法じゃないと思うんだけど――」
「………………?」
「あの子とずっと一緒にいたくて、さ……その、時々――今でも――」
「どうしたんだよ?」
「あの子の骨を……ね、その――体に入れてるんだ…………」
「それって…………?」
「はは、き、気持ち悪いよね! いくら好きだからってお骨食べるなんてさ! どうかしてるよ――」
「そんなことねえよ」
「…………?」
「それだって立派な供養じゃねえか。骨を食うってことは、ロッキーはあんたの体の一部になるんだ。
紛れもなく尊い行為だって言えるぜ。そこまでしてもらって、その子も本望だろうよ」
「気持ち悪いって思わないの……?」
「思うかよ。私たちなんて生きるために散々いろんなモノ食ってるんだぜ?」
「それとこれとは――」
「違わねえよ。結局、他の命を自分の中に入れて生きてるんだ。
それが生きるためか、それとも供養のためかってだけさ。本質は変わらねえよ。
あんたがそれを供養だと思ってやってるなら、それはそうなのさ」
「そう、なのかな…………」
「それとも何さ? あんたはその子のために間違ってるって思うことをやってるのかい?」
「………………」
「いちいち他人の目なんて気にしてんじゃねえよ」
「そう……うん、そうだね……」
「人間だけなんだよ、そんなことで悩むのは――」
「杏子…………?」

 

 

あんたのこと、1日だって忘れたことはなかったさ。
お帰り、メロゥ。
それと――お疲れさま。
今までよく頑張ってきたね。
これからは――もう、あんただけの人生だ。
もう誰に仕える必要もない。
あんたの思うように生きりゃいいんだよ?
今日からここがあんたの家だ。
何もかもそのままに置いてあるんだぜ。
あのオモチャ箱も、水飲みも。
床の爪跡だって残ってる。
待ってたんだよ、メロゥ……。
あんたが帰って来るのを、ずっとさ。
協会の人から聞いたよ。
大活躍だったそうじゃんか。
何の問題も起こさなかったし、ユーザーさんとのコミュニケーションもしっかりとれてたってさ。
私が見込んだだけのことはあるな!
はは、冗談だよ。
それがあんたの才能さ。
そうだ!
急だけどさ、久しぶりに散歩に行こうぜ。
ああ、”いつもの公園”さ。
すっかり様変わりしちまったけど、あの砂場だけはまだちゃんと残ってるんだぜ?
ほら、このリード。
覚えてるか?
メロゥ、これが一番のお気に入りだったよな。
これ見ただけで喜んでたもんな。
なあ、メロゥ……。
これからはずっと一緒だぜ?
いろんなトコ遊びに行こうな?
ウマイ物いっぱい食おうな?
あんたがやりたいこと、私が全部叶えてやるよ。
今までずっと頑張ってきたご褒美だ。
遠慮しないで何でもねだっていいんだぞ。
よし……っと。
じゃあ出かけるか。
ん…………?
落ち着かないか?
ああ、そっか。
リードじゃなくてハーネス付けられてたんだよな。
ま、ゆっくり慣らしていけばいいさ。
私を誘導する必要なんてないんだぞ?
あんたの好きなペースで歩きな。
そうそう、その調子でさ。
道、キレイになっただろ?
2年くらい前に工事してさ。
こんなパステルカラーの歩道になっちまった。
足の負担にならないってのはいいんだけどさ。
なんか、ちょっと寂しいよな。
あんたと歩いたのは――こんな道じゃなかったからな。

 

よ……っと……!
大丈夫か?
ああ、ゆっくりでいいよ。
私に合わせなくていいからさ。
そうそう、メロゥのためにカーペットを買ってきたんだ。
後で敷いてやるから待ってな。
ごめんな。
ずっとフローリングで。
もっと早く気付いてやればよかったよ。
股関節形成不全――レトリーバーに多いんだってな。
ごめんな……何も知らなくて……。
もっとよく勉強するよ。
今からじゃ遅すぎるかも知れないけど……。
あんたが少しでも快適に暮らせるように頑張るからさ。
とりあえず水飲みの位置も少し高くしておいたからな。
ああ、それと玄関の段差だな。
ちょうどいい足場が見つからないんだ。
もうちょっとだけ我慢してくれよ。
必ず見つけてやるからな。
あとは……。
うん、今はそれくらいか。
何かあったらすぐに言うんだぞ?
私にだけは遠慮しなくていいんだからな?

 

晴れてよかったな。
雨続きで退屈だったもんな。
今日はちょっとだけ遠出してみようか?
ここしばらく歩いてないから足腰のためにな。
無理はしなくていいんだぜ?
ただ、さ――。
腿の辺りの肉付きが気になってな。
そんなに細くなかっただろ?
時々、躓くみたいだし。
毎日、ちょっとずつでもいいから体動かそうか。
この近くは平坦な道が多いしな。
いつもより足伸ばして、いろんな人に遊んでもらおうぜ。
メロゥのこと、もっとみんなに知ってもらいたいもんな。
…………。
ほんっと、幸せそうな顔するよな、あんた。
その笑顔でどれだけの人が救われてきたんだろうな。
そうやって自然に笑うこと、私もすっかり忘れてたけど。
あんたが思い出させてくれたんだ。
だから、今度は私があんたの役に立つ番だ。
何の恩返しにもなりゃしねえけどさ。
せめて、それくらいは――。
…………ん?
珍しいな、来客なんて。
ちょっと待っててくれ。
ったく、これから散歩に行こうってのに、誰だよ。





メロゥ。
さやかが来てくれたぞ。
あんたと遊びたいってさ。
ああ、これ?
お気に入りのビスケットじゃねえか。
さやか、憶えててくれたんだな。
どうだ? 美味いか?
もっとあるぞ。
昔は1日3枚って決まってたけど、もう関係ないもんな。
好きなだけ食っちまえ。
メロゥが何か食ってる時の音が好きなんだよ。
今もそうだけど、すごくいい音させるだろ。
美味そうだな、って思ってさ。
この前もリンゴあげたら豪快にかぶりついてたよ。
そっか、ロッキーもそんな感じだったんだな。
…………え?
出かける前に地面の温度を調べてるかって?
いや、してないけど、どういうことだ?
………………ッ!?
全然気がつかなかったぜ……。
そう、だよな。
私たちと違って靴を履いてるわけじゃねえもんな。
ちょうど散歩に行くつもりだったんだ。
見てくるよ。
うん、大丈夫そうだな。
さやか……ありがとな……。
教えてくれなかったら火傷させちまうところだった。
メロゥも、ごめんな。
今度からもっとちゃんと気をつけるよ。

 

 

なあ、頼むからさ。
少しでいいから食ってくれよ。
ロイヤルカナンの高級品だぞ?
いや、別に値段がどうこうってワケじゃないさ。
でもあんたが大好きなフードだろ。
少しでいいんだよ。
……ほら、お湯で溶いてやったぞ。
これなら――口に入れられるだろ?
そうそう、その調子だ。
ゆっくりでいいよ。
食えるだけで。
もう、無理か。
今日は30粒か……。
よく頑張ったな、メロゥ。
ちょっとだけでも食ってりゃ、ちゃんと栄養は行き渡るんだ。
気にするなって。
ああ、でもこれだけは飲んでくれ。
緑イ貝っていうサプリだ。
獣医師さんにもらったんだよ。
今のメロゥにはこれが一番いいだろうって。
きっとこれ飲めば元気になるって。
そうしたらさ。
また一緒に公園行こうぜ。
近くの川で泳ぐのもいいな。
まだまだ遊び足りないもんな。
なあ、メロゥ。
だからさ……早く元気になってくれよ。
食べなきゃ元気になれないんだぜ?

 

低反発マット、買ってきたぜ。
これで床ずれもいくらかはマシになるだろ。
よっし……ちょっと右手に力入れてくれよ。
寝返り打たせるからな。
ああ、そのままでいいって!
そうそう、ゆっくり降ろすからな。
これで――メロゥ、ちょっといいか。
マットに皺ができてたんだ。
もう大丈夫だ。
部屋の温度はどうだ?
寒かったらもうちょっと強めにするぞ。
喉、渇かないか?
腹減ってないか?
欲しいものは何でも用意してやるよ。
なぁ、メロゥ…………?
私の声、聞こえてるか?
なんか最近、反応しない時があるけど、気のせいだよな?
目も……見えてるよな?
なあ、メロゥ。
なんでこうなっちまうんだろうな。
脚も胴もこんなに細くなっちまってさ。
あんなにフサフサだった毛も薄くなっちまってさ。
でも飾り毛はしっかり残ってるよな。
あんたのチャームポイントだもんな。
メロゥ…………。
がんばろうな…………。

 

 

なんでだよ……。
なんでなんだ!
メロゥ!
あんたは今まで頑張ってきたじゃんか。
目の見えない人のために、暑い日も寒い日も、自分を犠牲にして頑張ってきたじゃんか。
なのに……なんでだよッ!
なんでたった13年なんだよ!?
なんでそんなに短いんだ!!
あんたの人生は何だったんだ!?
半分以上も仕事を押し付けられて――人の役に立って……。
やっと解放されたってのに!!
やっと自分の好きなことができるようになったんだぞ!
なのに……たったこれだけかよ!!
メロゥは何のために生まれてきたんだよ!?
なあ……あんたは……あんたは幸せだったのか?
答えてくれよ……!
頼むよ…………。
いつもみたいに尻尾振ってくれよ……。
いつもみたいにさ、私の膝に顎を乗せてくれよ……。
メロゥ……なぁ……。
私の言うことが聞けねえのかよ……。
メロゥ――。

 





 

覚悟はできてます。
いろいろ考えましたけど……。
これがメロゥにとって一番良い選択だと思っています。
この子がどう考えているかは――分かってるつもりです。
もし私だったら、こうして欲しいって思うと思います。
はい、はい……。
すみません。
先生にこんなつらいことを頼んでしまって……。
でも、もうこの子の苦しむ姿を見たくないんです。
食べたい物も食べられない。
歩きたくても立ち上がることさえできない。
そんな姿を……見ていられないんです。
ですからお願いします。
最期は先生の手で……。
この子、先生にとてもよく懐いていましたから。
いつもそうでしたよね。
検査のために来てるっていうのにこいつ、まるで遊びに来たみたいにはしゃいでましたよね。
だから……先生に……お願いします……。
あの、先生?
本当に苦しくないんですよね?
眠るように逝くんですよね?
はい……そうですか……。
それを聞いて安心しました。
メロゥ……。
今まで本当にありがとうな。
苦しかっただろ?
痛かっただろ?
でももう大丈夫だよ。
お別れはつらいけどさ。
あんたはもう痛みも苦しみもない世界に行くんだ。
怖がる必要なんてねえよ。
それは……素晴らしいことなんだ。
なぁ……?
私の顔、見えてるか?
足腰はすっかり弱っちまったけど。
あんたの眼は今も綺麗だよな。
白内障なんてどこ吹く風って感じでさ。
なあ?
見えてるよな?
ごめんな。
ごめんな。
何もできなくて……。
ほんとにごめんな……!!
メロゥ……。





先生?
あの……。
わたし、ずっとこの子と目が合っているんですけど……?
メロゥは……?
………………ッッ!?
もう……とっくに心臓は止まっているって!?
でも今もずっと――。
じゃあ……じゃあ私の声は?
届いてたのか?
なぁ、私の声、聞こえてたのか?
メロゥ……?
そっか――。
もう逝ったんだよな……。
泣いてちゃダメだよな……。
笑って……。
笑って送り出してやらねえとな――。

今までありがとう。

ゆっくり休んでくれよ。

いつか私もあんたのところに行くから。

それまで友だちと遊んで待っててくれ。

約束、だぞ?

必ず行くからな。

メロゥ…………。

 

 

 

 

「悪いな、いろいろ付き合わせちまって」
「水くさいこと言ってんじゃないわよ。私のほうこそ……ごめん」
「なんであんたが謝るのさ?」
「メロゥちゃんの最期に立ち会えなくて……」
「そこまで頼めるかよ。お別れの日にあいつに会いに来てくれただけで充分さ」
「………………」
「あんた、私たちが病院に行く時、ずっと見送ってくれてただろ?」
「うん――」
「それだけでメロゥは幸せなのさ……」
「杏子……?」
「せめて、そう思わせてくれよ」
「――うん」
「それより、ありがとな。葬儀屋さん、紹介してくれて」
「あ、うん……ロッキーと同じ場所で、って思ったからさ」
「2人も向こうで遊んでるのかな」
「虹の橋のたもとでね」
「にじのはし……?」
「聞いたことない? この世と天国をつなぐ虹の橋があって、亡くなった動物たちはみんなそこに行くんだ。
齢をとった子は若返るし、病気や怪我の子もそこにいくと治るんだって」
「………………」
「その子たちは仲良く遊んでるんだけどね、みんなひとつだけ気になることがあるって」
「それは……?」
「――こっちの世界に残してきた私たち。また私たちと一緒に遊びたいけど、できないから……」
「待ってるってことか?」
「そう。それでね、遊んでる子たちの1匹が急に立ち止まって遠くを見つめるんだ。
時が来て、その子の飼い……その子にとって大切な人が来たのを見つけたから」
「再会――したわけだな? その後はどうなるんだ?」
「一緒に虹の橋を渡るんだよ。一緒に天国に行くためにずっと待ってたんだよ」
「………………」
「それが虹の橋?」
「うん、誰が言い出したのかはよく知らないけどね。私は信じてるんだ」
「じゃあロッキーもそこで待ってるんだな」
「きっとね。メロゥちゃんも――」
「………………」
「………………」
「不思議だよな――」
「ん?」
「巡り会わせっていうかさ、メロゥと出逢ったのは運命だったんじゃないかって思うんだよ。
振り返ってみりゃ偶然の連続だったかもしれないけどな。でもそうやって私たちは出逢ったんだ」
「偶然じゃないと思うよ、それは。あの子たちとの出会いはきっと運命だったんだよ」
「だよ、な…………」
「”この世の中では親友でさえ、あなたを裏切り、敵となることがある”」
「………………?」
「”愛情をかけて育てた我が子も、深い親の愛をすっかり忘れてしまうかもしれない”」
「さやか、なに言ってんだ?」
「”あなたが心から信頼している最も身近な愛する人も、その忠節を翻すかもしれない”」
「おい――」

 

この世の中では親友でさえ、あなたを裏切り、敵となることがある。

愛情をかけて育てた我が子も、深い親の愛をすっかり忘れてしまうかもしれない。

あなたが心から信頼している最も身近な愛する人も、その忠節を翻すかもしれない。

富はいつか失われるかもしれない。

最も必要とする時に、あなたの手にあるとは限らない。

名声はたったひとつの思慮に欠けた行為によって、瞬時に地に堕ちてしまうこともあるでしょう。

成功に輝いている時には跪いて敬ってくれた者が、失敗の暗雲があなたの頭上を曇らせた途端に豹変し、

悪意の石つぶてを投げつけるかもしれない。

こんな利己的な世の中で決して裏切らない恩知らずでも不誠実でもない、絶対不変の唯一の友はあなたの犬なのです。

あなたの犬は、富める時も貧しき時も健やかなる時も病める時も、常にあなたを助ける。

冷たい風が吹きつけ、雪が激しく降る時も、主人の傍ならば冷たい土の上で眠るだろう。

与えるべき食物が何一つなくても、手を差し伸べればキスしてくれ、

世間の荒波にもまれた傷や痛手を優しく舐めてくれるだろう。

犬は貧しい民の眠りを、まるで王子の眠りのごとく守ってくれる。

友が一人残らずあなたを見捨て立ち去っても、犬は見捨てはしない。

富を失い名誉が地に堕ちても、犬はあたかも日々天空を旅する太陽のごとく、変わることなくあなたを愛する。

たとえ運命の力で友も住む家もない地の果てへ追いやられても、

忠実な犬は共にあること以外何も望まず、あなたを危険から守り敵と戦う。

すべての終わりがきて、死があなたを抱き取り骸が冷たい土の下に葬られる時、

人々が立ち去った墓の傍らには、前脚の間に頭を垂れた気高い犬がいる。

その目は悲しみにくもりながらも、油断なく辺りを見回し、死者に対してさえも、忠実さと真実に満ちているのです。

 

「さやか、それは…………?」
「犬の聖歌。”犬”っていう言い方、嫌いなんだけどね」
「メロゥも……ずっと私の傍にいてくれたよ……」
「あの子たちはみんなそうだよ。私たちが何をしてるのかちゃんと見てる。いつもね」
「なのにそれを引き離したのは私なんだ――」
「違うんだよ、杏子。そうじゃない」
「………………」
「あんたはあの子のためを想って、ちゃんと考えてそういう選択をしたんだろ? だったらそれが正しいんだって思わないと」
「そう、だけどさ……」
「………………?」
「時々、考えちまうんだよ。メロゥはどうしたかったんだろう、ってね。
あいつはもしかしたら本当はもっと生きたかったのかもしれない。
体も殆ど動かねえし耳も遠くなっちまったけど、それでも生きていたかったのかもしれない」
「それは…………」
「あいつが苦しそうなのを見るのが嫌なのは……私なんだ。自分が見ていられないから、獣医師さんに――。
わたしが……あいつを殺したのも同然なんじゃないかって…………!!」
「長生きするのが必ずしも正しいとは限らないよ」
「でも、だからって生を終わらせるのは……」
「あんたのところではそうかもしれないけど――考えてみなさいよ。
メロゥちゃんがすごく苦しい想いして、痛い想いしてさ。でも言葉でそれをあんたに伝えることができない。
あんたはあの子が辛い想いしてるのに、それでももっと生きろっていうの?」
「………………」
「行きたいところにも行けない、聴きたい音も聴けない。なのにあんたはもっと長生きして苦しみ続けろっていうのかよ?」
「ふざけんじゃねえ! そんなワケないだろ!!」
「あんたはメロゥちゃんのために一番良いと思う方法をとった。安楽死は殺すのとは違うんだよ」
「そう、かもしれねえけどさ……わたし……親父の教えに背いちまった――」
「自分を責めるのは間違ってるよ。ああ、今のあんたにはまだ分からないと思うけど、いつか――」
「ああ…………」
「いつか受け容れられる日が来る。忘れるって意味じゃなくてね」
「あんたはどうなんだ……? ロッキーのこと」
「私は――ごめん、実はあんたと同じ。今でも後悔してる。もっと早く病気に気付いてあげればよかったって。
様子を見ている暇があったらすぐに病院に連れて行けばよかったって……」
「なんだよ、結局あんただって――」
「でも前よりは前向きに考えられるようになった。今まで自分がやってきたコト、どれも無駄じゃなかったって。
あの子のために精一杯のことをやれたって。だってさ、そう考えなきゃ――」
「………………?」
「あの子に失礼じゃん。後になって迷うようなことをしたのか! ……って怒られちゃう」
「はは、あいつらは怒ったりしねえよ。鼻にシワ寄せて歯を剥き出しにすることはあったけどな」
「ヒゲ引っ張ったりした時とかね」
「メロゥはしつこく手を触るとそういう顔してたな。私の手を噛みたくてもできねえから、ソファに噛みついてたよ」
「………………」
「………………」
「逢いたいよね」
「逢いたいよな」
「いつか逢えるよ」
「その、虹の橋ってところでか?」
「そう。でもいつかは今じゃない」
「だから私たちは生きてるわけか」
「私たちだっていずれ寿命を迎えるんだからさ。その時まで頑張って生きればいいんだよ。向こうで胸張ってあの子たちに逢えるようにね」
「そうだな…………」

 

そういうわけだからさ、メロゥ。

もうちょっとだけ待っててくれよ。

ほんとは。

ほんとはちょっとだけ、すぐにでもあんたのところに――って思ったけど。

その時が来るまでこっちで頑張ることにするよ。

さやかを残して逝くわけにもいかねえからな。

なあ、メロゥ。

そっちにロッキーって子はいるかい?

さやかのパートナーだった子さ。

あんたの大先輩……ああ、いや、そっちじゃ齢は関係なくなるのか。

とにかく見かけたら仲良くするんだぞ。

――って言うまでもないか。

あんたは誰とでもすぐ仲良くなれるもんな。

友だちいっぱい作って待っててくれよな。

私も、さやかも、いつかそっちに行くからさ。

そうしたらみんなで虹の橋を渡るんだ。

 

いつか――。

いつか、きっと――。

 

 

   終

 

 

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