第12話 倫敦を駆ける

(日本で両者の対立が深まる中、芹香はひとり異国の地を訪れていた)

 肥沃な大地。気持ちいい風。美しき自然。
その全てが日本にないものだった。
暑すぎず寒すぎない気候は、誰にとっても心地のよいものだ。
港から歩くこと10分。
シティにたどり着いた。
日本のように四角く無骨なビルはない。どれもが芸術的な美しさを称えている。
もはや何王朝の建築様式か分からない建物も数多い。
だがそれがかえってこの街の美しさを引き立てていた。
長髪の女性は、歩きなれた道を優雅に歩く。東洋の女性というのは西欧人にはどのように映っているのだろうか。
すれ違う人の多くは振り向き、その後姿をながめる。
女性の美しさは後姿だけではない。気品漂う顔とその歩き方。上流階級を思わせるその仕草のひとつひとつが
オープンな西欧人にさえ新鮮に感じられた。
「Are you sightseeing ? 」
税関の役人のような男が彼女に尋ねる。
だが彼女はそっけなく首を横に振ると、広場へ向かった。
すぐに女性はタクシーに乗り込み、行き先を告げる。
運転手はよく聞き取れなかったようで、客席を振り返る。すると女性は口で伝えるのを諦め、メモ帳をちぎり、
行き先を書いた。

East End 』

それを見た運転手はひとつ頷くと、目的地へ向けて発車した。
はじめてタクシーに乗った。
女性はそんな些細なことがとてつもなく嬉しかった。
いつもは心配してくれるが時々疎ましい執事やシークレットサービスの屈強な男たちが周りを固めているからだ。
彼女の名は来栖川芹香。
先進国でその名を知らぬ者はいないと言われる、あの来栖川重工代表の娘である。
そんな来栖川令嬢はいま、ある目的のためにイギリス――ロンドンを訪れていた。

運転手に25ユーロを支払うと、芹香は広大な大地を望んだ。
遠距離で高くついてしまった交通費など、令嬢にはまったく無縁の心配である。
右手にある森とずっと向こうに見える山脈の形をみて、芹香はここが間違いなくイーストエンドであると感じた。
この森の中に彼らがいるはずだ。
芹香はゆっくりと歩き出した。
ロンドンの森は樹海と表現してもいいほど深く暗い。普通なら1人で歩こうなどとは思わないだろう。
昼間でも夜のような暗さを称える森は、それだけで侵入者を退散させる効果がある。小さな動物が草中を動く
だけでも、神経を研ぎ澄まされてしまった侵入者はその小さな物音に驚き、足をすくませるのである。
だが芹香は違った。
正確には芹香だけは、である。
この不気味な闇の森さえも空気の一部としか感じない彼女は、真に魔術の道を極めようとする唯一の女性だ。
中途半端な志では森に足を踏み入れることすら許されない。その点を見れば、芹香はむしろこの異空の森に
歓迎すらされているように見える。
行く手を阻む枝葉をかき分けるように進むと、遺跡のような石造りの建物が現れた。
本当に現れたように見えたのだ。
石造の建物は建っているというより、森に寄生しているように見える。外壁はツタがすっかり覆ってしまい、極端に
言えば森に喰われているともとれる。
芹香は吸い込まれるようにして、中へと入っていった。中は真っ暗だ。
だが芹香には中にあるもの、中にいるものが全て見えた。肉眼で見ているのではない。
東洋でいう”心眼”で見ているのである。それもハッキリと。
だから芹香は入口で辺りを見渡しだけで、すぐに建物を出た。ここには彼らはいないらしい。
いや、いなくなったらしいのだ。
かつて――2年前に芹香がここを訪れた時は、まだ10数名が残っていたハズだが・・・。

 その時、彼女はセバスチャンやガードらとはぐれてしまった。
ということは目を離してしまったセバスチャンたちの所為であることは明白だが、彼らはいっこくもはやく芹香を
探し出す必要があった。
ここは日本ではない。東洋の常識などわずかにしか通用しないロンドンなのである。
来栖川重工の娘。世間が芹香の顔を知っているなら、まず思いつくのは身代金だ。
すなわち、誘拐。こういう犯罪においては世界共通となっていた。
そんな具合で慌てふためく執事らをよそに、芹香はひとりフラフラと歩き始めた。
令嬢である彼女はそれ以前に16歳の女性である。思春期に特有の好奇心は彼女をただひたすら歩かせることに
予想以上の助力となっていた。
彼女が目前にしているのは森。そこだけ進化や文明から取り残されてしまったような深い深い森。
芹香が目指すのはその奥にある何かだった。
導かれている。神秘的なエネルギーを感じるようになったのは、たしかこの頃だったか。
勝手に動く足に抗おうともせず、芹香は見える風景を克明に記憶していった。
やがて現れたのは石造りの建物。調和を象徴しているかのような左右対称の建物。
魅入られるように芹香は足を踏み入れる。
「東洋人よ。何を目的にここへ来た?」
そんなはずはないのに、日本語で問いかける者がいた。
深緑のローブに身を包んだ老人。目は青く、間違いなくこの地域の人間だ。
口の動きは英語だった。間違いなく英語だった。だか、芹香の耳に届くのはどういう仕組みでそうなっているのか、
なぜか日本語の発音だった。
「・・・・・・」
芹香は小さく答えた。”わからない”と。
「前へ」
老人の言葉と同時に、芹香の足が勝手に前へ進む。言霊のような力が働いているようだ。
中央まで来ると、1人だけだと思っていたが、周りには数名の老人がいた。
やはり深緑のローブだ。
「彼女はドルイドの血を濃く引いています」
「親はドルイドか?」
「我々とは星が違うようです。彼女はミンスターの・・・」
芹香を囲んで、彼らがなにやら話し始めた。
当時の芹香には、これはただの威圧でしかない。
「少女よ」
声をかけてきたのは、さっきの老人だ。
「お前が力を必要とするならば、ドルイドが必ずお前にその法を教えるだろう。だが、お前が奢ってその力を必要
以上に使えば、お前の身はアルテリオスによって滅ぼされるだろう」
老人は静かにそう言うと、芹香の前から姿を消した。
慌てて辺りを見回すが、他の老人の姿もまた消えていた。
「忘れるな。お前はミンスターの・・・」
どこからか声が聞こえ、それからは何も起こらなかった。
「お嬢様ーー!!」
聞き覚えのある声に振り返ると、セバスチャンが走ってくるのが見えた。
「ご無事でなによりです。皆も心配しております。さあ、戻りましょう」
セバスチャンに手を引かれながら、彼女は異変に気付いた。
自分はさっきまで森の中にいたハズだが・・・。
なぜシティの中央にいるのだ? さっきの老人は・・・?
芹香の頭の中を混乱が駆け巡った。
「ドルイド? お嬢様は長旅でお疲れです。きっとそれは夢にございます」
セバスチャンはそう言って笑うだけだったが、芹香はあれが夢だなどとは思えなかった。

 2年前を全て思い出した芹香は、早足で森を抜けた。
ここにいないのなら、長居しても無駄である。いや、無駄ならまだいい方だろう。
この森に喰われてしまうかもしれない。
芹香は来た道をまっすぐに駆け抜けた。
そして今度は山の方向へ向かって歩き出した。
たしか近くに街があったハズだ。芹香はそこから鉄道を使ってミンスターまで行くつもりだ。
街はすぐに見つかった。人口わずか数千人の小さな街。
やはりすれ違う人がみな、芹香を振り返るが本人はそんな視線などまったく気にしない。
駅はすぐに見つかった。そしてミンスターまでの道順も。
 車両に揺られること、1時間。
技術の革新は長距離の移動を簡便にした。
ミンスターに到着した芹香は、ここでも無心で彼らを探した。
かつて彼女に意味ありげな言葉を残した、あのドルイドたちを。
どこまでも続くような平原を、芹香はゆっくりと、しかしどこか落ち着かない様子で歩いた。
ミンスターに来たのは初めてだ。
だが芹香にはミンスターの地理もドルイドの居場所も分かっていた。
頭の中に、すでに自分がドルイドたちと出会っているシーンが思い浮かぶのだ。そしてその場所は、ここからは
それほど離れてはいない。
「お前が来ることは分かっていた」
草原を駆け抜ける風が変わったのは、老人の声が聞こえる直前だった。
気がつくと芹香は、イーストシティで見たあの石造りの建物の前にいた。
違うのは、外壁にツタが絡みついていないこと。見ようによってはずいぶん新しい建物に見える。
「・・・・・・」
「躊躇うな」
入る事を躊躇した芹香に、老人の声が直接脳に聞こえてきた。
拒まれているわけではないらしい。芹香は建物の中へと入っていった。
目の前にはあの老人たちがいた。
深緑のローブは真紅に変わっている。
中は真っ暗だったが、芹香にはそこに何人がいるかも分かっていたし、床に描かれた魔法陣の模様すら鮮明に
感じられた。
「・・・・・・」
「ダートムアは我らの聖地だった。だが、人間の憎悪がそれを滅ぼしたのだ」
「だがそれは、我らにとって新たな道を示してくれた」
「我らはミンスターと一体になったのだ」
芹香を含め、その場にいる老人たちは精神面で会話をおこなった。
誰もまったく口を開いていない、異様な光景だった。
「今のお前は自分のための力を欲しているのではない。それは誰かのため。そうだな?」
コクン、と小さく頷く。
フォルネウスダンタリアン、そしてアロバスがお前に力を貸し与えるだろう」
「・・・・・・」
「だが、決して奢るな」
「・・・」
芹香が大きく頷くと、老人――ドルイドたちはあの時のようにフッといなくなった。
そして、次の瞬間には床の魔法陣も消え去っていた。
芹香はもう一度深く頭を下げると、早々に立ち去った。

 

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