第30話 芹香の試み

(葵を危険な目に遭わせてしまった。この悔恨の念が芹香にある決断を促すことになった)

 頭に響くのはあの声だけだった。
窓もドアも、部屋は完全に締め切っており、風の流れすら遮断している。
だから開いている本のページが誰の手も触れずにめくれるハズがないのだ。
机の上にある一冊の書物。
これは一般的に言われる書籍とは呼びようがなかった。
つまりは魔道書である。
外界とのつながりの一切を断った芹香はひとり、この魔道書を調べ上げていた。
見たこともない文字が列挙されていたが、彼女にはそれが解読できた。
あののんびりとした芹香が、魔道書を読むスピードだけは驚異的ともいえる速さを見せていた。
2、3秒目を通しただけで、すぐに次のページを開き、また1ページめくる。
それの繰り返しだった。

  我々の忠告を忘れてしまったか?

頭にあの声が響く。
芹香はふるふると首を横に振った。
そしてまたページをめくる。

  だがお前の内には今までになかった感情が生まれ始めておる

声の主はドルイドだった。
彼女に、全能の神を通して神通力を与えた偉大なる魔術者たち。
このあたりでは魔術者として有名な芹香も、彼らドルイドと比べればその差は歴然である。
彼女に神力は使えない。それが彼女の悩みであった。
悩みは焦燥へ、焦燥は憤りへ。
人として当然ともいえる感情の段階的移行に、来栖川の令嬢も逆らうことはできなかった。
ふと、ページをめくる芹香の手が止まった。

  やはりそこに行き着いたか しかし無駄なことだ お前に操れる存在ではない

芹香は声を無視した。
そして憤りは、興味や好奇心といったやや前向きなものへと変わっていった。
それらが成功への確信に移り変わるまで、そう時間はかからなかった。
タロット占いの結果によれば、浩之は間もなく帰ってくるハズだ。
1人の新たな仲間を伴ない、戻ってくることも大アルカナが教えてくれた。
それが誰なのか、そんなことは彼女にはどうでもよかった。
とにかく、あの女の子の意志を伝え、それを浩之に納得させる。

  お前の奢りが必ずお前自身を滅ぼす この運命からは逃れられん

魔道書のあるページに釘付けだった芹香に、もはやドルイドたちの声は届かなかった。
浩之を納得させるには、これが不可欠なのだ。
芹香は彼が心の狭い分からず屋だとは、微塵も思っていない。
が、こうしなければならない理由があった。
書に記されたものを、準備しはじめる芹香。
高価な魔術道具も、複雑な儀式も一切不要だった。
ただ床に、ある模様を描くだけ。
部室の床をゆっくりゆっくりと指でなぞり終えた芹香は、静かに浩之の帰りを待った。

 風の流れに僅かな変化が起こった。
彼が帰ってきたのだ。
芹香は待ち続けた。
まず校門をくぐり、玄関を通って・・・何をしているのだろうか。
あかりの所に行ってしまったのか、それとも志保の所か。
いつまで経っても浩之が部室に入ってくる様子がない。
待っているだけではダメだと、芹香は初めて分かった。
そして入ってきた時と同様に、きわめて遅い動作で浩之の元へと急ぐ。
「あ、先輩」
芹香の姿を見た浩之は小走りで寄ってきた。
「紹介するよ、新しく仲間になったキディ」
見慣れないロボットが彼の隣りにいた。
「KAD−01、キディです。はじめまして」
ぺこり。
キディが頭を下げると、ロボット相手だというのに律義に挨拶を返す芹香。
「・・・・・・」
「え? お伝えしたいことがございますって?」
こくり。
控えめに芹香が頷く。
「・・・・・・」
「部室に? いいけど、ここじゃダメなのか?」
「・・・・・・・・・」
「う〜ん・・・何か事情がありそうだし・・・。分かった。マルチ、キディにいろいろ教えてやってくれ。ちょっと先輩と
話があるからさ」
「分かりました。キディさん、こっちです。行きましょう」
マルチはキディの手をとって。廊下の向こうへと消えた。
マルチたちの姿が見えなくなったのを確認すると、浩之は芹香に誘われるままに部室――オカルト研究所へと
足を踏み入れた。
一歩踏み込んだ瞬間、そこがいつもの部室とは違うことを、浩之は漠然と感じた。
空気というか雰囲気というか、とにかく“久しぶりに来たから感じた”ような違和感ではなかった。
「で・・・話ってなに?」
後ろでそっとドアを閉めた芹香に向かって、ちょっと疑念をまじえた浩之の問い。
「・・・・・・」
「大事な話? うん、聞くよ。約束する」
実は・・・、と芹香が話し始めた。
ほとんどの人間が聞き取れないような声だったが、浩之は一言一句逃さずに耳をかたむけた。
「・・・・・・。そっか・・・・・・葵ちゃんがな・・・」
「・・・」
「でも、”裏切ったわけじゃない”って葵ちゃんが言ってたんだろ? なら・・・俺にはどうすることもできねえよ」
「・・・・・・」
「本当にそれでいいのかって? 俺のやり方が葵ちゃんに合わなかっただけだよ。それに・・・」
「・・・?」
「そう思うなら、先輩だってその時止めたハズだろ?」
「・・・・・・」
「レミィだってそうだったよ。どうも俺にはついてこられないらしい。それに引き止めたって、始めからそういう奴を
仲間にしていても、まとまるわけがないよ」
「・・・・・・」
「いいんだよ。別に葵ちゃんが悪いわけじゃないしさ。だからって、俺が間違ってるとも思わないけどな」
部室を取り巻く空気が、また少し変わった。
「・・・・・・」
「残念な知らせ? 何?」
「・・・・・・」
「ええっ? できなくなった? 1回限りだったとか?」
「・・・・・・」
「”戦いの先を見ることができなくなってしまいました。神の力も及ばない不穏な空気が流れています”って・・・」
こくん。
「不穏な空気って・・・。俺は勝つつもりでいるけど、そうじゃないっていうのか?」
浩之の口調がやや激しいものにかわる。
芹香を責めるつもりはなかったが、今ここには芹香しかいないのだ。
「・・・・・・」
「そうか・・・。それじゃ仕方ないよな」
「・・・」
「先輩が謝ることないって。神様にもできないこと、先輩ができなくて当然だよ」
「・・・・・・・・・」
「え? 秘策があるって?」
浩之が興味を示したのを確かめた芹香は、さっきの魔道書を浩之に見せた。
「このページ・・・? 俺には何書いてるのかサッパリだけど・・・」
「・・・・・・」
「上手くいけば、強力な味方をつけることができるかも知れませんって?」
「・・・」
「え? どれ?」
芹香がページをひとつめくり、指差した。
そこには、ところどころかすれてしまったインクで、奇妙な形の”何か”が描かれてあった。
見るからに禍々しく、不気味で、不吉な印象を受ける、古いイラストだった。
尻尾を生やした人の絵だった。
顔はヤギなのだが、その角は実物のそれと比べ、明らかに異なっていた。
長く、幾重にも巻かれた巨大な角が、この世と別の世界との一線を隔しているように見える。
体の後ろからたなびく尾は、先端で三叉にわかれていた。
「なんか・・・気持ち悪い絵だな・・・」
浩之は正直な感想を漏らした。
「ヤギみたいな顔してるし・・・」
「・・・・・・」
「ええ? これは悪魔だって?」
「・・・・・・」
「ガープ・・・?」
「・・・・・・」
「ロンドンを支配していた悪魔の神だって!?」
こくん。
「せんぱい・・・この悪魔が味方につくってこと?」
「・・・」
「うまく行けば、か・・・」
成功してほしいような失敗してほしいような。
浩之の心中はやや複雑だった。
悪魔に関する知識など微塵もなかったが、彼の想像する悪魔は命の契約だった。
お前を勝たせてやるから、かわりに魂を捧げろ、などと言われては元も子もない。
「・・・・・・」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! そんなのムリだって!}
浩之の不吉は別の形で的中した。
「こんなのに勝てるわけねえよ!」
神と同等かそれ以上の力を有する悪魔の王。
芹香はその悪魔の神とも呼べる、ガープの力を借りようとしていた。
しかし、タダで人間の都合どおり行くほど、悪魔の心は広くはない。
悪魔との契約なしに、その力を借りるにはひとつだけ条件があった。
『その悪魔と闘い、勝利すること』
さらにその中にももうひとつの条件があった。
『対立する2人が悪魔に勝利すること』
これは有史から決められていることだった。
つまり、三つ巴の戦いである。
絶対の危機的状況の中、力を欲し、かつ憎むべき相手への憎悪の増幅。
これが悪魔にとって何よりの甘き美酒なのだ。
そして見事自分を打ち倒し、かつ憎悪の矛先を向けたもう1人の人間を出し抜いた時、悪魔はその人間に対して
敬意を表し、神力を貸し与える。
「せ、先輩、やっぱりやめようぜ・・・。それにほら、”対立する2人”だっていねえし・・・。ってまさか・・・・・・?」
浩之の不安はまたも的中した。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
芹香の言葉に、浩之は反論する気も失せた。
対立するのは、紛れもなく浩之と芹香だった。
彼女にここまでの積極性を見出すのは、浩之にとってかなり意外なことだったが、どうせならもっと別の形でその
積極性を押し出してほしかったに違いない。
「・・・・・・」
「振動棒ねえ・・・。そりゃ先輩の魔法はスゴイと思うし、それは俺も実感したよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・たしかにそうだな。先輩の言う通りだよ」
「・・・」
「分かった。俺は先輩を信じるよ。だけど、対立する2人ってことは、お互い憎んでないとダメなんだろ?」
「・・・・・・・・・」
「その点は心配いりません。表面上の憎みあいだけで悪魔の目はごまかせますから、って?」
そういうものなのだろうか。
「つまり、適当にケンカみたいにしてればいいってことか? でもバレねえかな」
ふるふる。
今のは芹香が首を横に振ったときのものだ。
「悪魔は僅かな憎悪でも感じるから、縁起だけでもそれを見出します、か」
こくん。
「・・・・・・」
「そして隙を見て、悪魔に打ち勝つ? 悪魔を倒した方に力が与えられるから、どっちが勝っても同じこと?」
「・・・・・・」
「ふうん・・・。でもよ、俺は振動棒があるからいいとして、先輩はどうするんだ? まさか悪魔相手に丸腰って
わけにはいかないだろ」
「・・・・・・」
「魔法のステッキがある? なんかマンガかアニメみたいな話だけど・・・」
マンガかアニメみたいな話は、浩之の目の前で起こった。
突然、空中からステッキが現れ、それがひとりでに芹香の手に収まったのだ。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「それでは始めましょう? お、もうやるのか」
「・・・」
「思い立ったが吉日です、って先輩、古いこと言うんすね」
苦笑交じりで、しかし次の瞬間には浩之の目は真剣なものとなった。
芹香が詠唱をはじめたのだ。
まとっていたマントがふわりとなびく。
床には規則的な模様の光が浮かび上がる。
そして一瞬、全ての音が消えた。
部室が外とのつながりの一切を遮断したような、そんな違和感。
次に、光が消えた。
真の闇に包まれるオカルト研究部。
唯一の光源は床に浮かび上がった魔法陣だけとなった。
「な、なんだ・・・!?」
浩之が思わず後ずさる。
魔法陣の光がひときわ強く輝き、低いうなり声をあげた。
いや、正確には魔法陣のすぐ下。
これから地上――人間のいる世界へ出現しようとしている悪魔の、深く憎悪に満ちたうなり声だった。

 

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