第39話 芹香の憂鬱

(悪魔が命を奪いに来る。芹香はこの運命の死から逃れる方法を考えた)

 大変なことになった。
あの、普段から何を考えているのか何も考えていないのか分からない表情の、あの芹香に。
焦りの色が濃く浮かんできた。
ブラックミラーにはたしかにベールゼブブが写っていた。
そして自分を見て笑った。
その意味を知っているだけに、芹香の恐怖は拭えるものではなかった。
魔道書にはベールゼブブのような高等な部類が、何らかの形で人間の前に現れたとき、その人間の魂を一瞬に
して奪うと書かれてある。
一瞬ならもうすでに芹香はこの世から消滅しているハズだが、彼女はここにいる。
これは恐らく、「今から魂をもらいに行くから待っていろ」という意味のメッセージなのだろう。
”奪う”という作業が一瞬なだけで、何も現れてすぐに奪いにくるわけではないようだ。
だが、それは第三者だからこそ、そうやって冷静に考えられることである。
当の芹香にとっては今から生きた心地がしなかった。
その時があらかじめ分かっているなら覚悟もできようが、いつ奴がやって来るのかは誰にも分からないのだ。
それだけに恐怖が後から後から際限なく押し寄せてくる。
こんなこと、セバスチャンに相談もできない。
使用人だってアテにはならない。
ドルイドはもちろん助けてくれない。
そこまで考えて、彼女は自分が真の孤独に陥っていることに気付いた。
これから自分が悲運の死を遂げるという時に、相談するどころかその死因すら信じてもらえないのだ。
かといって今の彼女に、この窮地を好転させるほどの名案は思いつかない。
平素から無表情な芹香にも、生きたいという感情が強かった。
彼女はなんとか生きようと心に決めた。
どんな手を使ってでも生き延びようと。
これは彼女に限らず、人間なら・・・いや、この世に生を受けた者なら誰もがたどり着いて当然の思考だった。
身に迫る危険をいかにして回避するか。
今の芹香の頭はそのことで一杯だった。

 芹香は書斎から1冊の本を取り出した。
ホコリが被って表紙の文字はかすれ、もはやこれが何について記された書物かは判別できない。
さらに中のほうもところどころ文字が消えかかっており、独特の表現技法もあって、その内容を正確に読み取る
ことは非常に困難であった。
だが、この程度なら芹香にも何とか読むことができる。
これは“力があるか”ではなく、“知っているか”であるからだ。
すでに白紙に近い書物を数ページめくると、そこだけハッキリと不気味なイラストが占めていた。
巨大なハエの絵だった。
いや、ハエと表現するにはあまりにも異なりすぎる、知られているハエとは全く別物の”何か”だった。
胸は厚くふくれており、目はギラついていた。
全身は真っ黒な毛に覆われ、コウモリのような翼にはドクロを思わせる模様がある。
頭には2本の巨大なツノが生え、その額には地獄の業火の帯を巻いている。
ベールゼブブだった。
誰がそれを実際に見たのか、それとも語り継がれた想像に尾ヒレがついたのか、この絵のどの部分を見ても
不愉快に思わざるところはなかった。
それは今や、芹香も例外ではない。
いつかまでは、内向的な自分に絶大な力を貸し与え続けてきたこれらの悪魔たちも、もはや彼女の助けになどは
ならない。
立場は変わり、今度は自分の命を奪いにくる。
それにしても・・・・・・。
こんなバケモノに”体”を明け渡さねばならないとは。
芹香はこの魔道書に、何か許しを乞う術が書かれていることを期待していた。
だが、その期待は瞬殺された。
つまりは何も書かれていなかった。
なぜならそれはルールであり、そのルールは悪魔たちが決め、悪魔たちが監督するからだ。
悲劇の物語に登場する無力な女性に、このルールを破ることはできないし、ねじ曲げることもできない。
芹香はふと疑問を抱いた。
なぜベールゼブブだ?
ドルイドたちはこう言ったハズだ。
「お前はアルテリオスに滅ぼされる」
たしかにそう言ったではないか。
”私”を滅ぼすのはアルテリオスであり、決してベールゼブブではない。
遅まきながら、芹香はこの事実に気がつくことができた。
これなら、何とか命をつなぎ止める方法が見つかるかもしれない。
いいや、実際にはもう既に見つかっていた。
ただ、それを実行するにはそれ相応の覚悟が必要だった。
逆を言えば、覚悟の問題だけで済むということだ。
彼女はもう一度悩んだ。
成功するかしないかは運任せだが、やってみる価値はある。
芹香はカベにかかっている鏡を見た。
ブラックミラーではないので、そこに立っている本人が映っている。
「・・・・・・」
そこで芹香が何かつぶやいた。
その時の彼女の表情は、喜びと悲しみが混じった複雑な笑みだった。

 ドルイド教が衰退した現代でも、魔法陣などを用いての悪魔召喚は行なわれている。
その際には、魔術を基とする組織に身を置かず、個人での召喚が一般的となっている。
より成功率を高めるためには、満月の夜を選び、その光だけが注がれる場所に術者が溶け込むことである。
人工の光が一切入らない場所ならば、それだけで集中力が高まる。
ただし、術者の集中力は召喚中だけ保っていればいいという訳ではない。
悪魔は人間に代償を求める事で、術者の要求を聞き入れるが、これはきわめて稀な例である。
実際のところでは、悪魔はスキがあれば術者の魂を喰らおうとする。
悪魔はその気になれば人間の命を奪うことなど容易く行うことができ、たまたま人間がその脅威から逃れている
だけなのである。
召喚術が成功するか否かは、その準備作業の段階ですでに決まっている。
魔法陣を敷き、蝋燭の炎に己の意識を投影する時、言い知れぬ不安にかられることがある。
そこで恐れをなしてその場から逃げ出すようなことがあれば、その者はよくて精神破壊、最悪の場合には死をも
覚悟しなければならない。
運良く悪魔が召喚できたとしても、前述のように術者は常に生命の危機に曝される。
それらの障害をすべて乗り越えた時、はじめて悪魔が力を貸し与えるのである。
 一般に、悪魔は誰かを呪ったりとか殺したりとか、そういった類の力のみを使うと思われているが、実際には
さらに高度な力を有するものも多い。
たとえばソロモンの悪魔・アムドゥシアスは術者の思い通りに森の木を曲げることができるし、もとは天使だった
アガレスは地震を起こすことができる。
他にも他人の意識を思うままに操るなど、単純に誰かを陥れるだけではない。
ところが、悪魔を使って何かをしようとする人間のほとんどは、誰かの絶命を望んでいる。
それゆえに、悪魔は邪悪な殺戮者というイメージが固定されてしまった。
これは魔女が”ホウキに乗って空を飛ぶ老婆”というイメージが定着してしまったことに似ている。
悪魔は無限とも思える力を提供してくれる。
しかし、その代償として必ず命を要求される。
それは通常、20年後だと言われる。
術者が悪魔の力を借りて、望みが叶えられたそのちょうど20年後、悪魔は約束を果たす。
これはルールであり、避けられないものだと思われてきた。
だが、ある財閥家の少女がこれを破ろうとしている。

芹香はセバスチャンを呼び寄せた。
「お呼びでございますか、芹香お嬢様」
いつもそうだが、この執事はいつも姿勢が良い。
「・・・・・・・・・」
芹香が誰にも聞こえないような声でいったが、セバスチャンにはハッキリと聞き取れた。
「・・・綾香お嬢様でございますか? 少し前までここにおられましたが・・・・・・。いかがなさいました?」
「・・・・・・・・・・・・」
「はい、かしこまりました。至急、お呼び致します。どこにおられるかが分かりませんので、しばらく時間がかかって
しまいますが宜しいでしょうか?」
こくん。
「・・・・・・」
頷いた後、芹香は付け加えた。
「できるだけ早くですね。お任せください」
セバスチャンは心から喜んだ。
これまで危険に曝されていたのではと危惧していた芹香が、いつものように自分に頼みごとをしてくる。
初老にさしかかった彼にとって、小さいころから世話をしてきた芹香に頼りにされていると実感することは、
何にも代えがたい幸福だった。
どういう事情があって綾香を呼び出すのかは分からないが、だからこそ彼は幸せを噛みしめていた。
理由を知れば、彼は全てから耳を塞ぎ、芹香をつれてどこか遠くへ逃げようとするだろう。
彼女に危機が迫っていた。

 

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