薄暮の赤と黎明の青

(他人のために戦う少女と、自分のために戦う少女。2人の魔法少女は激しくぶつかり合う)

 

 悔しい、という想いが先に立った。
不甲斐なさを嘆くより、無力さを呪うより先に、彼女は後ろ向きな気持ちを外にぶつけようとする。
プライドの高さがそうさせたが、彼女自身はそれには気付けない。
(あんな奴に…………!)
巴マミの生き方に尊崇の念を抱く彼女にとっては屈辱的な敗北だった。
治らないと言われていた恭介の腕が完治し、そのうえ誰かを守る魔法の力を得たことは美樹さやかにはこの上ない僥倖だった。
想い人を苦痛から解放し、自分は世のため人のために戦うことができる。
そうした幸せを一遍に齎してくれたキュゥべえにさやかは心から感謝している。
何もかもが上手くいく!
マミの死を目の当たりにして一時は逡巡したものの、彼女は望むものを全て手に入れたハズだった。
決心がもう少し早くついていたら偉大な先輩を救えたかもしれない。
その意味での後悔は今でも持ち続けている。
しかし、だからこそ彼女の遺志を継いで町を守ろうという意欲も生まれてくる。
自分を犠牲に誰かのために戦ったマミに少しでも近づきたい、追いつきたいという強い憧憬の念がさやかに力を与えてくれた。
その想いを挫こうとする者が現れた。
巴マミと対極の性質を持つ魔法少女が――。
「ねえ、さやかちゃん……」
横を歩くまどかがおずおずと声をかけた。
「やっぱりよくないよ、こんなの。だって魔法少女は魔女と戦うんでしょ? だったらこの間の――」
あの子とは仲間のハズだ、と彼女は言う。
「あんな奴と手を組むなんてできない。グリーフシード欲しさに他人を見殺しにするような奴なんだよ?」
「だ、だけど……このままじゃまたあの子と会ったら戦うことになるんだよ? 同じ魔法少女なのに……」
「誰かを危険に晒すなら、相手が魔女でも魔法少女でも私は戦うよ」
さやかは通る声で言った。
こう宣言することで自身への鼓舞になるし、なにより巴マミと意識を共有できているという安心感が生まれる。
「………………」
まどかはそれ以上は何も言わず、視線を逸らすことでさやかの心変わりを期待した。
だが彼女が信念を曲げることはなかった。



(恭介…………)
冷たい風に嬲られたさやかは軽い眩暈を起こしかけた。
リハビリを続けて順調に快方に向かっていると聞いていた想い人は、さやかの願ったとおり五体満足で退院できた。
その事実はさやかの心を幸福で満たすハズだった。
また彼の弾くヴァイオリンが聴ける。笑顔を取り戻した彼と話すことができる。彼が元気な姿を見ることができる。
自分以外の誰かが幸せになることが、美樹さやかにとっても幸せとなるハズだったのだ。
だから彼女はこの高い塀の向こうから聴こえる優しい音色に、幸福感を得られると思っていた。
確かに願いは成就した。
だが何かが足りなかった。
現実が理想から外れかけているのを、さやかは漠然と感じていた。
「退院したなら教えてくれてもよかったのに……」
無意識の呟きが風に流されて消える。
見返りを求めていたわけでもないし、反応を期待していたわけでもない。
ただ魔法少女である以前にひとりの中学生である彼女は、人間なら当然の思考をしてしまいそうになる。
「会いもしないで帰るのかよ?」
背後から不吉な声がし、さやかはゆっくりと振り返った。
姿を見なくとも分かる。
この攻撃的な口調。相手を嘲弄するような声色。
「あんた…………!!」
自分と恭介のテリトリーに土足で踏み込まれたように思え、さやかは敵愾心を含んだ視線を杏子に叩きつけた。
「怖い顔だねえ。そんなに怒っちゃ美人が台無しだぜ?」
銀紙を乱暴に破り取り、少女は板チョコを噛み割った。
「そこのボウヤなんだろ? あんたが契約した理由ってのは」
「………………」
「バカだね、あんたも。せっかくのチャンスをくだらない事に使いやがって」
「何を願おうと私の勝手でしょ。あんたにとやかく謂われる筋合いはないわ」
さやかは精一杯声を低くして威嚇する。
挑発に乗るな、と言い聞かせてもつい熱くなってしまう自分を彼女は止められない。
「で、その勝手な願いってのが、”好きな男の子のケガを治したい”ってわけか」
「……だったら何?」
「甘過ぎるんだよ、あんたは!」
杏子の怒声にさやかは不覚にもたじろいでしまった。
「先輩として教えてやるよ。奇跡や魔法ってのはな、自分のために使うもんだ。他の誰かのために使うんじゃない」
次の瞬間には彼女はもう、いつもの彼女に戻っていた。
好戦的な目がさやかを抑え込もうとしている。
「私はそうは思わない」
背後に恭介の存在を感じながら、さやかはハッキリと言った。
「奇跡も魔法も人のためにあると思う。目の前で誰かが困ってたら、助けを求めてたら手を差し伸べるのが人間でしょ!?」
「………………」
「魔女と戦うのが魔法少女の使命なんだったら、それは魔女に襲われる人を救うってことでしょ?」
稚拙だった。
感情が先行してしまい、彼女は自分の考えを正しく発することができない。
「ウザいんだよね、そういうのって」
激昂するさやかを嘲笑し、杏子は残りのチョコを口に放り込んだ。
「っていうか、あんたさ。それ自体が自分のためだって気付いてねーよな」
「どういう意味よ?」
「あんただって結局は自分のために魔法使ってるってことさ」
包み紙を乱暴に丸め、ポケットにしまい込む。
そのちょっとした動作さえ荒々しく見え、さやかは無意識に視線を逸らしていた。
「私は大切な人を守るために魔法少女になるって決めた。もし誰かを傷つけようとするなら私は戦うよ。相手が魔女でも魔法少女でも、ね」
今の彼女にできる精一杯の抵抗だった。
目の前にいるのが経験を積んだ好戦的な魔法少女であっても、彼女は決して怯まない。
その程度で挫かれる意思なら、彼女は今も契約せずにマミの死の記憶に震えていたハズだ。
「それはつまり私を倒すってことかい?」
杏子が目を細めて笑った。
「あんたは使い魔を見つけても人を見殺しにして魔女になるまで待つ、って言ったよね?」
正義の光が宿った瞳が杏子を捉える。
「あの時、あんたが邪魔しなければあの使い魔を倒せたハズなんだ。だから――」
一歩、静かに一歩踏み出したさやかに、
「上等じゃん。ああ、でもここはマズイか……」
小さく息を吐き杏子は眼前の屋敷を見上げる。
「流れ弾でも当たってまたボウヤの手が使い物にならなくなったら笑えねーしな」
「………………ッ!」
挑発的な笑みに、さやかは辛うじて抑えてきた感情が表に出てくるのを感じる。
「お前だけは絶対に許さないッ!!」
怒りに震えるさやかを無視し、杏子は通りを東に向かった。





剣と槍のせめぎ合いは終始杏子に有利だった。
戦いは大抵の場合は身のこなし、経験、用いる武器の熟練具合が勝っている者が勝者となる。
さやかはそのどれもが杏子に劣っていた。
魔法少女になって間もない彼女には、邪を斬り払う大剣も手に余る。
技術の伴わないさやかの剣撃は刃の斬れ味を十分に活かせず、力まかせに振り下ろすか薙ぎ払うかの二択しかない。
人気のない廃れた公園での一幕は、誰にも知られることなく冷たく鋭く展開していく。
「ごっこ遊びで魔法少女やってんじゃねえよ!」
ダンスゲームのように軽やかなステップで剣先を躱す杏子は、さやかの手を完全に見切っている。
「あんたみたいに何不自由なく暮らしてきた奴が、くだらねえ正義感振りかざしてるの見てるとムカつくんだよ!」
中空を舞う大蛇がさやかの退路を塞いだ。
「くだらなくない! 私は恭介……みんなのために戦うって決めたんだ! 平気で人を見殺しにするあんたなんかに分からないわよ!」
拙い剣術で抗うさやかは意志の強さと気迫で圧倒しようと踏み込む。
しかし得物の相性が悪い。
縦横無尽に駆け回る棍を槍状に戻した杏子は、迂闊に間合いに飛び込もうとするさやかを牽制した。
「それが甘いっつってんだよ!」
「………………ッ!!」
咄嗟の身の返しでさやかは刺突を回避する。
だが戦いにおける技術は両者に大きな開きがある。
「くっ…………」
脇腹に走る僅かな痛み。
少し遅れてしたたる血液にさやかは半歩退いてしまう。
だが漲る闘志は双眸にまだ煌々と宿っている。
「ふん……バカは死ななきゃ治らねえってワケか」
杏子が槍を構えなおした時、
「さやかちゃんッッ!!」
命懸けであり、遊びでもある戦いの場に見知った顔が飛び込んでくる。
「まどか、なんでここに?」
杏子から視線を外さないようにし、さやかが肩越しに問う。
「キュゥべえに聞いたの。さやかちゃんが危ないって」
自分の身を案じて来てくれたまどかを、この時さやかは一瞬だけ疎ましく思った。

”さやかちゃんが危ない”

初めから勝ち目がないと言われているように聞こえ、さやかはまどかを無視して目の前の敵を睥睨する。
「こんなコトやめようよ! 仲間なんだよ!? 戦うなんておかしいよ!!」
「まどかは下がってて。これは私の戦いなんだから」
「で、でも…………」
身を呈してまで争いを止める勇気はまどかにはない。
いざとなれば契約して――とも考える彼女だが、その決断をできるだけ先延ばしにしたいという人間らしい狡さもある。
しかし目の前で――明らかに不利であるにもかかわらず――戦っているのは誰あろう、親友のさやかだ。
それを見捨てられるほどまどかは冷淡ではない。
「やっぱり駄目だよっ!」
些かの逡巡の後、まどかは意を決して飛び込もうとした。
(あのバカ…………)
杏子が小さく舌打ちすると、まどかの進路を阻むように格子状の結界が出現した。
地面から伸びるそれは忽ち壁のように堆くなり、瞬く間に戦場を蓋うドームとなる。
「さやかちゃんッ!!」
不毛な戦いを止められるのは自分だけだ。
彼女はそう思ったが、もはや危険を顧みず割り込むこともできない。
この一連のやりとりはさやかにとって好都合だった。
まどかの闖入が時間稼ぎとなり、彼女はその間に傷を癒すことができる。
しっかりと剣を構え杏子を見据える。
思い込みが激しく、意地を張る傾向がある。
まどかがそう評したように、今のさやかは理性が抜け落ちていて冷静な思考ができない状態にあった。
「あんたみたいな奴がいるから…………!!」
どこか引っ掛かりを感じた彼女は、しかし立ち止まってその正体を突き止めることはしない。
頭で考えるよりも先に体が動き、気がつくとさやかは大剣を振りかぶっていた。
杏子はそれを真正面から受け止める。
力はあるが押し戻すには至らない。
歴戦の魔法少女は軸をずらし、直情的なさやかの一撃を振り払った。
バランスを崩してさやかが蹌踉(よろ)めく。
杏子が宙返りを打って背後に回りこんだ。
「あ……っ!!」
慌てて振り向いた時には彼女の脚に真新しい傷ができていた。
痛みはなかった。
反応が素早かったからか、杏子が何かを間違えたからなのかは分からない。
「あんたなんかに…………!!」
憎悪を乗せた睥睨に、杏子は何度目か分からないため息をつく。
「ほんとバカだよ、あんたは――」
一瞬。
ほんの一瞬だけ彼女は憐れみの表情を浮かべ――。
――最後の攻撃に出た。
槍に命を与えた杏子は得物を直線的な武器から、愚者を縛り戦意を削ぐための多節槍へと変化させた。
蛇のように中空を舞ったそれは狙ったようにさやかの四肢を絡めとる。
(またこの技……!!)
目にも留まらない速さで拘束された彼女の体は宙に浮き――。
まどかから最も遠い結界に叩きつけられた。
「………………」
打ち所が悪かったのかさやかが再び立ち上がることはなく、彼女の身を護る法衣は光の粒子となって消えた。
「さやかちゃんっ!!」
ほぼ同時に結界が消滅し、まどかは転びそうになりながら彼女の元に駆け出す。
杏子自身が遮っていたため、さやかが昏倒する瞬間をまどかは見ていない。
しかし変身の解けた親友が気を失っている事実から、戦いがどう決着したかは明らかだった。
「さやかちゃん、しっかりして!!」
まどかが涙目で肩を揺する。
もはや戦う必要はないと判断した杏子は変身を解き、ゆっくりと2人の元に歩み寄る。
落ち着きのある足音にまどかは振り返った。
攻撃的な印象を与える目つきに射竦められたような錯覚に襲われ、まどかは怯えを含んだ表情で見上げる。
彼女はその視線を無視してさやかを横抱きにすると、離れにあるベンチに横たえた。
「あ、あの…………」
その様子を見ながらまどかが囁くように声をかける。
「えっと……ありがとう……?」
「なんであんたが礼を言うのさ?」
杏子が訝しげに問う。
殺気立った雰囲気はもうない。
「あんたの立場だったら私を恨んだりするのが普通だろ?」
「そう、なのかな……でもさやかちゃんのこと…………」
殺さずにいてくれたから、という物騒な一言をまどかは呑み込んだ。
初戦をケンカではなく殺し合いだったとさやかに言われてから、彼女は次に2人がぶつかった時こそ、
本当に杏子がさやかを殺してしまうのではないかと恐れた。
「ヘンな奴だな、あんた」
自然、杏子は笑みを漏らす。
「あの……同じ魔法少女なんでしょ? どうして味方同士で戦うの……?」
杏子への恐怖心が一気に和らいだことで、まどかは漸くこの点に触れることができた。
叶えたい願いもなく、マミの死に様にすっかり怯えて契約を先延ばしにしてきた彼女には、
自分にはこうして魔法少女同士の争いに口を挟む権利などないことは分かっている。
だが当事者ではないが、他人事でもないこの状況にはどうしても納得がいかなかった。
「魔女退治っていうのはね、生半可な気持ちじゃできねえものなんだ」
杏子は背を向けて天を仰いだ。
月の明かりが寂れた公園を淡く照らしている。
「あんたもこういうことに首突っ込んでんだ。契約のこととかは大体知ってるんだろ?」
「うん…………」
「何でも願い事をひとつ叶えてやる。その代わり魔女と戦わなきゃならない。そう言われたらあんたはどうする?」
「私は…………」
その決断ができないから彼女は今もこうして悩み続けている。
親友のさやかが渦中に飛び込んでいるのを知ってなお、その手伝いができないでいる。
「早い話がそうまでして叶えたい願いがあるかってことさ」
ゆっくりと流れてきた黒雲が月の半分を覆った。
「こいつ……さやかにもそういう願いがあって契約したんだろうけどさ。根本的に間違ってるんだ」
「……間違ってる?」
「こいつはね、他人のためにその奇跡を使いやがった。誰かを幸せにして、リスクを背負い込んじまってるんだ」
「私はそれでもいいと思う。それがさやかちゃんがしたい事なんだもん」
まどかは語気を強めて言った。
言外には”さやかの行動が正しいか否かはあなたが決めることではない”という意味を持たせているのだが、
真っ向から対立することを嫌う彼女は杏子がその意図を汲み取ってくれることを期待した。
「たしかにあんたの言うとおりだ。本人の意思は尊重するべきだもんな」
「………………」
「でもそれで救われるかどうかは別の話なんだよ」
意味深な発言にまどかは首を傾げた。
この一見がさつな少女は受ける印象からはあまりにもかけ離れた言動をとる。
「どういう、こと?」
「だからさ、他人の幸せを願うような甘い奴は――」
黒雲が月を完全に覆った。
「それが裏目に出た時の痛みに耐えられねえってことだよ」
こうなるとまどかにはますます分からなくなってくる。
見た限りでは同い年かせいぜい1歳上程度だが、恐ろしく達観しているように思え、
まどかは彼女の言葉の端々にまで気をつけるべきではないかと思った。
「そういうもんなんだよ」
杏子はそれ以上は語ろうとはせず、代わりに視線を落として気を失ったままのさやかを見た。
「相当力を使わせちまったらしいね」
「え…………?」
杏子の視線をたどったまどかは、さやかの脚に傷跡を認めた。
うっすらと流れかけた血は一筋になる前に凝固が始まっている。
「どうせ使い魔ばっかり追いかけて満足に集めてないんだろ?」
杏子は懐からグリーフシードを1個取り出し、まどかに押し付けるようにして渡した。
「目覚ましたら使ってやんな、2回分くらいにはなるだろうさ」
「え、えっと、あの…………」
展開にまどかの思考が追いつかない。
敵対的な存在だと思われた少女は、魔法少女なら決して手放さないであろうシードをあっさりと譲り渡し、闇の向こうに消えようとした。
「待って!」
その背中に向かってまどかは呼びかけた。
今なら。
この今ならできそうなことがある。
「わたし、鹿目まどか。あの、もしよかったら――」
やや内向的な彼女にはとても勇気の要る行動だった。
この状況で互いの名前を知り合うとはつまり付き合いを深くしたいか、怨敵として名を刻ませるかのどちらかの意味しか持たない。
「佐倉杏子」
少女は背越しに望みに答えて姿を消した。
残されたまどかは心の中でもう一度小さく礼を述べ、横たわるさやかの髪をかきあげた。

”どうして魔法少女同士で戦うのか?”

結局その問いに対する明確な回答は得られなかった。
(杏子ちゃん…………)
しかし彼女が見せた優しさや表現を択んでいたような口ぶりから、糸口が掴めそうだとまどかは思った。
遠回しに何かを伝えたかったのではないか?
何らかの事情でそれを直截簡明にできないのではないか?
そうでなければ倒した相手の身を案じるような言動ができるハズがない。
(乱暴な感じだけど本当はもしかしたら…………)
佐倉杏子とさやかは似ているのかも知れないと、まどかは思った。




 この得体の知れない少女はいつも音もなくやって来る。
初めから周囲の空気に溶け込んでいるかのように、背後をとっては相手の虚を衝こうとするのである。
「さっきのは何?」
声量は小さいがほむらの声はしっかりと届く。
「別になんでもいいだろ」
不意打ち気味の問いかけに杏子はぶっきらぼうに答えた。
「美樹さやかのことは私に任せて、と言ったハズよ」
「あんたのやり方じゃぬるいんだよ。っていうか――」
スナック菓子を食べる手を止め、杏子は肩越しに振り向いた。
「任せるって言ったって、あんたはどうするつもりなのさ? あいつに魔女を狩らせないようにでもするのか?」
この問いにほむらは即答できない。
既にいくつもの悲劇的な結末に出会わしている彼女には、杏子の理解を得られるような方策はない。
さやかが契約し杏子と接触してしまった以上、魔女化を食い止めるしかない。
しかしその精神はどの時間軸でも決まって脆弱で、彼女が生きている限り魔女化を防ぐ方法はなさそうである。
従ってほむらの言う”任せてほしい”とは、究極的には美樹さやかを葬り去るのと同義だ。
「魔法少女同士が戦っても得られるものは何もないのよ? ただ魔力を消費するだけ……分かるでしょう?」
質問に答える代わりに杏子の愚行を戒める。
「分かってるんだよ、そんなことは」
「じゃあどうして――」
「ムカつくんだよ、あいつ見てると」
突慳貪に返す杏子を見て、ほむらは早くも間違いを犯したのかと思った。
魔法少女として最も強く、適性もあると見ていただけに感情的なその発言にほむらは失意の念を強くする。
(そんなくだらない理由で……)
貴重な戦力を損耗させたくない、と彼女は思った。
「だったらどうして早々と止めを刺さなかったの? 情けをかける理由は何……?」
ひと思いに殺せ、と言っているように聞こえ、今度は杏子が答えに詰まる。
「彼女と戦うことにメリットはないわ。時が来ればこの街はあなたのものになる。それまでは――」
無意味な諍いを起こすな、と言い残してほむらは消えた。
「好き勝手言いやがって…………」
胸の内に渦巻いたもやもやを打ち消すように、杏子はスナック菓子を乱暴に噛み砕いた。




 美樹さやかの心中は複雑だった。
元々難しい事柄を順序立てて考えるのが苦手な彼女には、昨日の出来事は疲れ切った頭と体をさらに疲れさせるには十分すぎるものだった。
彼女が意識を取り戻した時、そこにはまどかがいた。
親友を案じる優しい少女の顔色が不安から安堵へと変わる一瞬を、さやかはぼんやりとした視界の中に捉えていた。
「さやかちゃん、これ……」
少しして体を起こした時、まどかがグリーフシードを見せた。
「なんでまどかが――」
ようやくハッキリしてきた頭が、その場に存在するハズのないグリーフシードの入手経路を推測する。
これを手にできるのは魔法少女だけ。
となると何かと絡んでくるほむらが、どういった風の吹き回しかまどかに託したのだろう。
さやかはそう結論付けたが、
「違うよ。杏子ちゃんが置いて行ってくれたの。さやかちゃんが目を覚ましたら使えって」
稚拙な推理はあっさりと打ち破られた。
「あいつが…………?」
途端に険しくなるさやかの表情に、まどかは少しだけ怯えたように頷いた。
なぜ、という率直な疑問が湧く。
しかしまどかが言うように意地っ張りで頑固な彼女はその疑問について熟考するより先に、
殆ど反射的に不可解な厚意を拒絶しようとする。
借りを作りたくない、という思いがあった。
「使った方がいいよ。でないと魔法の力が――」
魔法少女となったさやかに驚異的な回復力が備わっているのを、まどかは知っている。
その彼女が小さな切り傷すら治癒できていないという事は、つまりそれだけ魔力を消費してしまっている証だ。
「………………」
さやかは黒く濁り始めているソウルジェムを憎々しげに見つめた。
これが輝きを失った時、何が起こるかを彼女は知らない。
ただ魔女を狩るためには濁りを取り除き、万全の態勢でなければならないのは確かだ。
マミの遺志を継ぐとは、つまり苦しむ誰かのために働くこと。
杏子を敵視しているからといってこれを拒めば、望む戦いには臨めなくなる。
「…………ッ!」
プライドを捨てたわけではない。
あくまで利害のみに絞り、どちらを選択するのが合理的かを考えた結果、やむなくこのグリーフシードを使うのだ。
さやかは何度もそう自分に言って聞かせ、まどかの勧めに従った。
「それと、ね――」
澄み切ったソウルジェムを見て安心したまどかは、再び表情をかたくして切り出した。
「あの子……杏子ちゃんともきちんと話をしたほうがいいと思うの」
さやかの体がビクリと震えた。
(話をしろって? あいつと何を話せっていうのさ?)
契約した者とそうでない者、即ちまどかと自分との距離が急激に広がったのを彼女は感じた。
戦いの厳しさを知らない人間は、日和見をしていればいいのに時々こうやって容喙してくる。
親友のまどかの言だからと耳を貸す努力をしてきたさやかも、こればかりは、
「まどかは甘いよ。あいつは平気で人を見殺しにするような奴だよ? 野放しにしておくわけにはいかないじゃない」
やや辛辣な調子で釘を刺さないわけにはいかなかった。
しかしまどかは引き下がらない。
「違う……と思う。よく分からないけど、悪い子じゃないよ、きっと」
曖昧な受け答えの割に、口調には彼女の芯の強さが宿る。
「悪い奴に決まってる。だいたい話し合いにすらならな――」
言いかけてさやかは口ごもった。
昨日の戦いの中、彼女が感じた引っ掛かりが何なのか見えてきた気がしたのだ。
(そういえば…………)
話し合いにすらならない、と言おうとした彼女は、冷静になった今ではそれが誤りであると気付く。
(挑みかかってたのは私のほうだった……)
路地裏で遭遇した時も、恭介の自宅前で挑発された時も、戦いをしかけていたのはさやかだった。
魔法少女を敵と見て排除しにかかるなら、会話をする暇も与えず不意を打って殺せばいい。
あるいは会話を引き延ばし、相手が油断した隙を衝けばいい。
杏子はそのどちらもしなかった。
不意打ちをしかけなかった点を考えれば、彼女は恒に正面から接触してくる潔さがあるといえる。
相手の神経を逆撫でして挑発することはあっても、決して”自分から”攻撃をしかけてくることはなかった。
「………………」
殺し合いだと思っていたのは自分だけだったのかもしれない、とさやかは考え始めた。
(正直、癪だけど――)
挑発にさえ乗らなければ、自分がもう少し平静を保てれば衝突は避けられるかもしれない。
「分かった……分かったよ。次に会ったらね」
まどかの手前もあり、彼女はほんの少しだけ態度を軟化させることにした。
途端に親友は表情を綻ばせる。
ちょっとした諍いも穏便に済ませたがる彼女だ。
平和的な解決の兆しが見え、まどかは嬉しそうに何度も頷いた。





「――って言ったのはいいけど……」
実際、烈しく憎んだ相手と仲なおり……という気にはなれない。
そもそも最初の出会いからして良い印象を持てなかった相手だ。
主義も主張も真っ向から対立している。
マミの生き方を尊崇するさやかにとって、自己の利益のために他者の犠牲を待つ杏子のやり方は到底受け容れられるものではない。
(………………)
まどかと別れ、ひとり街を歩く彼女はぼんやりと遠くの空を見上げた。
濁ったような水色の空だ。
せめて澄み渡った美しい風景でも観られれば気持ちも多少は落ち着いたかもしれないが、
さやかの頭の中は今もぐちゃぐちゃで何ひとつ整理ができていない。
そこへさらに心を掻き乱す存在が飛び込んできた。
雑踏の向こうを歩いている少女だ。
中学生にしてはどこか煽情的な風貌の彼女が、何かを食べながら通りを進む。
その後ろ姿に向かってさやかは呼びかけた。
空気を振動させない、テレパシーの類だ。
(あんたか…………)
目の前の少女は振り向きもせず、同じ手段で言葉を返してくる。
(ちょっと話があるんだけど)
さやかは高圧的な調子を心がける。
ここで気を赦してはダメだ、杏子に舐められてはダメだ、という意識が彼女の感覚を鋭敏にする。
(あれだけ痛めつけてやったっていうのに、どういう風の吹き回しなのさ?)
杏子は横断歩道の手前で立ち止まった。
(…………うるさい)
赤く灯った信号に杏子は小さく舌打ちする。
さやかが横に並んだ。
「まどかが――」
「…………?」
「あんたと話をしろって」
杏子は手にした紙袋から林檎を取りだした。
同時に信号が青に変わる。
「ああ、あの子か」
烈しい戦いに友人が倒れたというのに、その相手を恨むでもなく自己紹介までしだしたまどかを思い出し、杏子は苦笑した。
「それで? 話した後は昨日の続きでもやろうってのかい?」
後ろの男に急かされる前に杏子は歩きだしていた。
すぐ横にさやかがいるのにも構わず、彼女は自分のペースで舗装された道を踏んでいく。
「あんたとは戦わない」
この程度の挑発にはもう乗らない。
経験や得物の特性等からして杏子には勝てない。
さやかが慎重になっているのはそういう点も少なからず頭をよぎっているからであるが、彼女自身は決してそれを認めようとはしない。
優しいまどかのために敢えて剣を引いているのだ、と彼女は自分に言い聞かせた。
「ふうん……」
昨日まで殺気立っていたさやかの変化に、杏子は特段の反応は示さない。
話があると言っているのに、彼女は歩みを止める様子はない。
さやかは仕方なしに横に並ぶ。
彼女は杏子が抱えている紙袋を見た。
いつも何かを食べている少女のこと、特に気にするようなところでも無かったが、さやかは何故かそれが気になった。
林檎が入っているだけの袋にしては少し大きすぎる気がする。
「どこに行くつもりなの?」
抑えるよう努めても口調には棘が出てしまう。
顔すら見たくない相手にわざわざこちらから対話を持ちかけているのに、
それを半ば無視する恰好であしらわれたとなると心中は穏やかではない。
「ちょっと用があってさ。悪いけどあんたとの話はまた今度だ」
冷淡に答える杏子にさやかはムッとしたが、
「じゃあ私もついて行く」
次の瞬間にはなぜか彼女はそう口にしていた。
「なんであんたが……」
杏子の歩調が僅かに乱れた。
なんとなく、と素っ気無く返したさやかはそれ以上は何も言わず、杏子の少し後ろを歩いた。
この機を逃せばもう対話はない、と彼女は思った。
昨日の今日というタイミングもある。
それにまどかの推しも重なって、自分の意地を張る癖を自覚しているさやかは、
今が一番杏子と会話をするのにちょうど良い精神状態なのだと考えている。
2人の歩みは時に速く時に遅くなり、いつの間にか都市部を抜けて林間を縫っていた。
なだらかな斜面を登る途中、杏子が小さく息を吐く。
(………………?)
その様子にさやかが視線を上げると廃れた教会があった。
陽を浴びた教会は一目して今は使われていないと分かる。
周囲に無秩序に生えている雑草。割れた窓ガラス。散らばる木片。
それに加えてカビっぽい湿った空気を感じ、さやかは眉をひそめた。
「用ってここなの?」
さやかの問いに沈黙を返し、杏子は扉を乱暴に開けた。
教会としての体をかろうじて成している内装は、お世辞にも荘厳であるとは言い難い。
外観から予想できる通り、内部は荒れに荒れていた。
「ちょっと…………」
杏子は何かに憑依されたように極めて緩慢な動作で教壇の前に立った。
罅の入ったステンドグラスをぼんやりと眺めた後、彼女はその場に跪き祈りを捧げた。
「………………」
文句のひとつでも言ってやろうかとさやかは思ったが、場の空気に言葉を発することにすら躊躇いを感じ、
祈りを捧げる杏子の背中を見つめていた。
「ここはね、私の親父の教会だった――」
ゆっくりと立ち上がった少女は、これまで見せたどの瞬間よりも穏やかな表情で経緯を語り始めた。
住んでいた場所、家族、魔法少女になった理由と、その後にやって来た陰惨な現実。
杏子は主観を交えながら、一切の虚飾を排除して過去を振り返った。
その間、さやかは一言も発することができなかった。
相槌を打つのも忘れ、彼女は彼女の辛辣な半生を複雑な想いで聴いていた。
「なんで……なんでそんな話を私に――?」
魔法は自分のためだけに使うべきだ、と杏子がいつかと同じ台詞を吐いた時、さやかは無意識に疑問を投げかけていた。
勝手について来た以上、この流れに反駁する資格は彼女にはない。
「さあ、なんでだろうな」
杏子はふいっと目を逸らした。
その仕草がとても不自然に思え、さやかは軽く拳を握る。
「あんたも私も同じ魔法少女だ。契約した時の願いも――誰かのために使ったっていう意味じゃ同じさ」
(………………!!)
不意に見せた杏子の横顔に、さやかは昨日までの鋭利さがないことに気がついた。
「言っただろ? 奇跡とか魔法なんてのはさ、他人のために使ったってロクなことにならないんだよ」
「私は……私はそうは思わない」
残酷すぎる身の上話を聞いたさやかには、杏子の持論を否定することに些かの逡巡があった。
しかし同情するからといって自分の意見まで曲げる必要はない。
恭介を救うために、恭介の夢を守るために魔法少女の道を選んだ。
その選択をさやかは否定したくはなかった。
「誰にもできないことができる力があるなら……それを使って誰かを助けたり守ったりするのは当たり前だよ」
――毅然と。
さやかにしては驚くほど冷静に自分の意見を述べることができた。
「誰かを幸せにしたい――そう思うのが普通なんだよ。だからあんただって魔法少女になったんでしょ?」
「………………ッ!」
杏子は血走った目でさやかを睨みつけると、胸倉を掴んで壁に押しあてた。
「綺麗ごと言ってんじゃねえよ! 誰かのため、誰かのためって……結局自分のためじゃねえか!!」
咽喉を押えられたことで一瞬呼吸が止まり、さやかは苦痛に表情を歪ませた。
「なに、言ってるのよ……私はあんたたちとは違う。自分のために魔法を使ったりなんてしない。
大切な人を、誰かを守るために戦うんだ。自分のためなんかじゃない!」
「それが自分のためだって言ってるんだよ!」
「どういう――」
「………………」
「………………」
我の強い2人は互いに睥睨し合った。
暫しの沈黙の後、先に目を逸らしたのは杏子のほうだった。
胸倉を掴んでいた手を離すと、彼女はさやかに背を向けた。
「他人を幸せにしたいっていうのはさ――結局、それを見て自分が幸せになりたいだけなんだ」
「…………? 同じことでしょ?」
「違う。全然違う」
「誰かが幸せだったら自分も嬉しい。そりゃ、あんたの昔の事を考えたらそうは言えないかもしれないけど……」
対立している、という意識はさやかにはなかった。
ただ奇跡や魔法の使い方、その意味の理解のしかたが大きく違うのだと認識できている。
以前のように真っ向からぶつかろうという気は起こらない。
対極的な考え方の杏子に反発するというよりは、むしろそれを受け流して持論の入り込む余地を模索する恰好だ。
「誰かを幸せにしたついでに自分も幸せになるのと、自分が幸せになりたいから誰かを幸せにするのとじゃ、全然違うんだよ」
割れたステンドグラスに反射した陽光が、杏子の長髪を半分だけ照らした。
しかし残念ながら中空を舞う塵埃がそれらをいくらか遮り、美しく輝くハズだった彼女の髪はくすんだ光を返すのみだ。
「私はね、たしかに親父の手伝いがしたかったさ。今でも親父の教えは間違いじゃないって思ってる。
でもさ、実際はそれって自分のためなんだよ。信者がいなくなって破門されて……食い物にも事欠く有様さ。
何も口にできない日が何日も続いてさ。思ったんだよ。こんなつらいのは嫌だって。楽になりたいって」
「………………」
「だからキュゥべえに頼んだんだよ。親父の夢を叶えてやってくれって――私を楽にしてくれって、な」
「あんた…………」
「大勢の人が親父の教えを聞いてくれる。親父は満足そうだったよ……それを見て、私も……嬉しかった」
杏子はゆっくりと顔を上げた。
正面には濁ったステンドグラスが聳えている。
戯れる天使を模したそれは、翼の部分が欠けていた。
「罰が下ったんだよ。安易な気持ちで奇跡なんて使っちまったから、全部こうなったんだ」
「それは…………」
「こんな人生なんだ、もう誰かのために何かをしようなんて思わない。どうせやったって返ってくるのはロクでもない結果さ」
「だからって……」
「あんたは他人のために使い魔も退治するつもりらしいけど、その誰かがあんたに助けてくれって言ったか?
なかには死にたいって思ってる奴もいるかもしれない。間違ってそんな奴を助けたりしてみろ……分かるだろ?」
美樹さやかには、こう言い張る佐倉杏子がよく分からない。
秘かに想いを寄せる幼馴染みがつい最近まで夢を絶たれていたことを除けば、彼女は彼女に比べて実に恵まれていた。
住む場所にも食べるものにも困らない。
綺麗な制服を来て学校に行き、気の置けない友人と愉しい時間を過ごすことができる。
それをさやかは幸せだと感じたことはなかったが、不幸だと感じることもなかった。
「じゃああんたは正義も人助けも必要ないって思ってるわけ? 見返りがないと人を助けられないって思ってるわけ?」
さやかの声は少しだけ震えていた。
杏子はそれにはすぐに答えず、小さく息を吐く。
「”無償”の人助けなんてねえよ。さっきも言っただろ、希望と絶望は差し引きゼロだって。善意とか正義だって対価を得てるんだよ」
「どういう……こと……?」
「人を助ける、っていうのはね、つまり”助けてやってる”っていう気持ち良さが欲しいからやるんだ。無償の人助けなんかあるもんか」
「………………!?」
「街頭で募金箱にお金を入れる奴だって無償でそうしてるわけじゃない。
10円なら10円分、100円なら100円分の善人になれるっていう”気持ちよさ”を買ってるんだよ」
憐れだ、さやかは一瞬だけ思った。
ここまで諦観せざるを得なかったその人生に対しても、彼女は憐れんだ。
もっと違う環境で生まれ育っていれば、正義や善意をもっと素直に考えられたかもしれない。
同じ魔法少女のマミと共感できたかもしれない。
そう思うとさやかの胸は痛くなった。
「あんただってそうさ。あのボウヤのためにたった一度の奇跡を使ったのは尊いかもしれないけど、その後はどうなるんだ?
たとえばさ……事故や病気で死んでしまったらどうする? 生きててもあんたと結ばれるとは限らない。他の誰かと付き合って、
それで結婚するかもしれない。それでもあんたは後悔しないか? 奇跡の無駄遣いだって悔やんだりしないのか?」
「私は後悔はしてないし、きっと……ううん、絶対にしないよ。そうするって決めたのは自分だから」
ほんの少し。
ほんの少しだけ揺らぎかけたが、さやかはまだこの信念に忠実だった。
彼女だけでなく、今は故人となったマミの遺志もそこには含まれている。
「他人の幸せを願うような甘い奴は、それが裏目に出た時の痛みには耐えられねえんだよ」
杏子はまどかに対して言ったのと全く言葉を呟いた。
さやかはそれには聞こえないフリをし、教会の中をゆっくりと歩いて回った。
荒れ果ててはいるがこの建造物独特の雰囲気もあってか、心はずっと落ち着いている。
特に和解もしておらず頭ではまだ敵だと認識している杏子に、今のさやかは無意識に背を向けることができている。
「あんたも自分のことだけ考えて生きればいい。たった一度の奇蹟のために一生魔女と戦い続けるなんて釣り合わねえじゃんか。
どうせこの世には夢も希望もないんだ。だったら開き直って好き勝手やればいい。そのほうが遥かに楽だしさ」
彼女のこれは押し付けではない。
殆んど独り言に近い呟きは、多くの意味で先輩から後輩に向けた助言だった。
さやかには反駁する力はなかった。
そもそも生きてきた場所が違いすぎるのだ。
ここで互いに持論をぶつけ合っても、決して折り合いはつかない。
魔法少女となったキッカケは似通ってはいても、それ以外の部分では対極といっていい。
だからどちらかが歩み寄らなければ妥協点は見つからないのだが、それぞれに狭い視野を持っている2人にとって、
自分の見解を一度否定して相手の考えを咀嚼するという作業は困難を極める。
「あのさ……」
さやかが何か言いかけた時、教壇の裏で物音がした。
「お、今日も来てたか」
一転して杏子の表情が綻ぶ。
(…………?)
声色の変わりようにさやかが振り返ると、杏子は教壇の辺りでしゃがみこんでいた。
彼女の足元でもぞもぞと動く小さな塊。
囁くような声で鳴いたのは仔猫だった。
どこに隠れていたのか、白いハズの被毛はところどころ汚れをかぶって黒くなっている。
短い手足を懸命に動かしながら、仔猫は背伸びをするようにして額を杏子の膝あたりに何度も押しつけている。
「分かったよ。いま用意するからちょっと待ってな」
杏子は紙袋の中から、牛乳パックとアルミ製の小さなトレイを取りだし教壇の上に置いた。
両手に収まる程度のトレイに牛乳を半分ほど淹れる。
その間、仔猫は嬉しそうに杏子の足元を行ったり来たりしている。
「………………?」
さやかはそのまま飲ませるものと思ったが、杏子はすぐにはトレイを置かず、今度は紙袋から林檎を取りだした。
真っ赤に熟れた林檎だ。
それをひと齧りした杏子は時間をかけて咀嚼し、牛乳で満たしたトレイにそっと吐き出した。
「なにを……?」
とさやかが訊こうとしたが、声が出せない。
咀嚼しては吐き出し、を幾度か繰り返した杏子は人差し指の先で牛乳をかきまぜる。
「ほら」
杏子が浅黄色のミルクを床に置く。
仔猫は暫く首を傾げて杏子を見上げていたが、彼女が指でトレイをとんとんと叩くと嬉しそうにそれを飲み始めた。
その様子を見ていたさやかは、きゅっと胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
仔猫は嬉しそうに杏子が作った飲み物を飲んでいる。
「………………」
それを見ている杏子はもっと嬉しそうだった。
過酷な運命を辿った鋭い目つきも、さやかに助言をくれた時の諦念を宿した眼光もなかった。
彼女はただ、小さな命が懸命に生きているのを見守っている。
俯き加減のその双眸に、さやかは吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。
「ウソつき」
だから彼女はこう言った。
咄嗟に出た言葉が、仔猫に向けられていた杏子の意識を現実に引き戻した。
「あんた、ウソついてる」
「何の話さ?」
徐に立ち上がった杏子は意味深な言葉を投げかけられ、少しだけ不機嫌そうな顔になった。
「あんた……さっき言ってたよね。自分のことだけ考えて生きればいい、開き直って好き勝手やればいいって」
「あ、ああ…………」
「それってウソ。あんた、全然違うこと言ってる」
さやかは視線を下に向けた。
その先を辿った杏子の瞳に半分ほどミルクを飲み終えた仔猫の姿が映る。
「自分のことだけ考えて生きてるのに、なんでその子にミルクをあげたの?」
「それはたまたま――」
「わざわざこの子のために持ってきたんでしょ? ミルクもその容れ物も」
「………………」
「容れ物を持ち歩いてるのは、ここに置きっぱなしにしたら汚れるし菌もつくからじゃないの?」
さやかの声は凛としていてよく通っていた。
老朽化した教会の壁に跳ね返った音が、広い講堂をぐるりと駆け巡って杏子の耳を叩く。
「この子、すごく小さいし」
視野が狭く固定観念に囚われるとそこから中々抜け出せない。
美樹さやかという少女も、この年頃の娘が陥りやすい傾向に沿っている。
一度抱いてしまった印象を拭うのは難しい。
彼女はその先入観の殻を少しずつ破っていった。
杏子の優しさに気付いてしまったのだ。
この好戦的な少女が無垢な生命に施した慈悲に。
手に抱えた袋にミルクを入れていた事実。
衛生を考えてトレイを持ち歩いている事実。
わざわざ林檎を咀嚼したのも、仔猫が消化しやすいように配慮してのことだと。
彼女の持つ優しさは、そのどれもが注意深くさえなれば誰の目にも見えるものだった。
さやかは杏子のそれに気付いたと同時に、それに今まで気付けなかった自分の狭さにも気付く。
「たまたまだって言ってるだろ」
心の内を見透かされたような気がして、杏子は少しだけ語気を強めた。
「じゃあなんで私にあんな話したわけ? ここまでついて来たのは私の勝手だけどさ。
自分のことだけ考えて生きてるハズなのに、なんで私を心配するようなこと言うの?」
「別に心配してるわけじゃないさ」
そう答える杏子の仕草はどこかぎこちない。
その反応を見てさやかの疑念は確信に変わった。
「あんたは――」
こういう時のさやかは行動的だ。
まどかと違って物事を穏便に済ませたいという考えがない分、場が険悪になろうと自分の思っていることはハッキリと言葉にする。
「口では乱暴なことを言ってても……悔しいけど、認めたくないけど――すごく優しい奴なんだと思う」
「………………ッッ!?」
杏子の体がびくりと震えた。
「あんたはきっと”自分さえ良ければいい”とかそういうタイプじゃない。そんな気がする」
さやかの目が初めて杏子をしっかりと捉えた。
敵愾心以外で彼女の目を見ることがなかったさやかは今、それとは異なるもっと温かい気持ちで杏子を見つめている。
「ふん、知ったふうなこと言うじゃんか」
杏子はよそを向いて吐き捨てるように言った。
それが滑稽な狼狽ぶりを隠すための所作で、既に十分すぎるほどにさやかの指摘へ肯定してしまっていることに彼女は気付かない。
「そんなもん、とっくの昔に捨てたっつーの」
「じゃあ”昔はそうだった”んだね?」
「………………」
美樹さやかにしては珍しく持って回った言い方をする。
彼女の発する言葉のひとつひとつが、熱を帯びた針のように杏子の胸を鋭く突き刺す。
「………………」
問いに杏子は答えない。
息苦しさを感じた少女は、空っぽになった器を舐め続ける仔猫に視線を落とした。
「でも”今も”そうなんじゃない?」
恐ろしいほど低い声だ。
しかし当たりは柔らかく、杏子は追及されているというより包みこまれるような温かさを感じた。
「あんたに何が分かるっていうんだよ」
口をついて出たのは小さな抵抗。
「あんたは今だって昔の自分を持ってる」
さやかはそれを無視して、さらに深く踏み込んでいく。
「だからまどかを守ってくれたんでしょ?」
「……………!!」
杏子は体中が熱くなるのを感じた。
落ち着けと言い聞かせても、内側からくる震えが止まらない。
体内を凄まじい速さで閃電が駆け抜け、反駁することすら躊躇わせる。
「後で気が付いたんだ、あんたがやったこと」
「何の話だよ?」
「私たちの戦いにまどかが巻き込まれないように――」
結界を張ったのだ、とさやかは詰めた。
「つまらねえ邪魔が入らないようにしただけだ。別にあの子のためじゃない」
杏子は咄嗟にそう切り返したが、用意していない言葉は歯切れが悪い。
「私、バカだからさ。すぐに頭に血が昇って周りが見えなくなることがあるんだよね。
まどかはそれも私の良い所だって言ってくれるけど……でもあの時はそれじゃダメだった。
もしかしたら私のせいでまどかがケガをしてたかもしれない。私は魔法で傷を治せるけど、あの子のケガまでは治せない。
今になって気付いたよ。けっこう危ないことしてたんだって」
器を舐めることに飽きたのか、仔猫は毛繕いを始めた。
「あんたのお陰でまどかがケガをしなくて済んだ。そのことは――ちゃんとお礼を言うべきだと思う」
さやかの口調には緩急も強弱もなかった。
ただ滔々と、冷静でいられる間に自分の考えを包み隠さず述べる。
本来、彼女にとって困難なハズのこの作業も、今だけは何の苦もなく行えた。
”ありがとう”の一言はとうとう出さなかったが、さやかは目を伏せることで言葉に代えた。
「なんで……そうなるんだよ」
杏子は絞り出すように言った。
「私が来なけりゃそもそもあいつが巻き込まれることもなかったんだ。あんたに礼を言われる筋合いはないよ」
「そう言うってことは、やっぱりまどかを巻き込みたくなかったんだね」
「………………」
巧く誘導されたように感じ、杏子は舌打ちした。
「たしかにそうだよ。あんたが来なかったら私もあの使い魔を倒せてたし、まどかがケガをする心配だってなかった。
でも……あんたがあの子を守ってくれたのは事実だから――それはお礼を言っておくよ」
「………………」
杏子はさやかの真意を測りかねた。
直情的かつ短絡的。挑発に簡単に乗ってしまうような少女のハズが、今は水のように捉えどころのない発言を繰り返している。
理解しがたい理論が同じく好戦的な少女を苛む。
「あんたがやって来た理由って何なの?」
今ならどんな質問にも答えてくれそうだ、と思ったさやかは不意に話題を変えた。
内容はなんでもよかった。
とにかくこの佐倉杏子という人間を知りたい、という想いがある。
「使い魔は放置して魔女になるまで待て、って言うわりにはまどかを庇ったり…………。
昨日だって私を殺せたハズなのに、そうしなかった。グリーフシードをあの子に預けたのも分からない」

”分からない”

さやかの杏子に対する捉え方はこの一言に尽きる。
全く分からないのだ。
暁美ほむらも意味深な発言を繰り返しその行動にも謎が多いが、彼女とは決定的な違いがある。
「マミが死んだって聞いたからさ。あんな絶好の狩場、みすみすルーキーにくれてやるのは惜しいからね」
回答を先延ばしにすれば探りを入れられるかもしれない。
そう考えた杏子はすぐに答えた。
特に秘密にするような話でもない。
縄張りを狙っていることがさやかに知られたところで、彼女にとってはほんの少し面倒が増えるだけだ。
「じゃあなんで私を殺さなかったの?」
さやかもまた、間髪を入れずに追及する。
「私は相手が魔女でも使い魔でも戦う。ならあんたにとって私は邪魔者でしょ?」
「………………」
美樹さやかの言葉には難解な言い回しもなければ、婉曲な表現もない。
直截簡明なメッセージが、杏子の心を揺さぶる。
「今ここで殺したっていいハズなの――」
言いかけた時、杏子は地を蹴った。
「く…………ッ!!」
鋭い目を向けてさやかの襟を掴みあげる。
「だったら――だったらそうしてやろうか? もともとあの町は私のものにするつもりだったからね。
あんたが邪魔するってんならさっさと潰しておいたほうがいいか――」
初めて逢った時の。
言葉通り利己的で周囲の被害を省みず、自分の途を歩み続けると言ったあの時の。
路地裏で戦った時の杏子にそっくりだった。
冷たく、殺気さえ感じさせる声。
何かを壊し、誰かを見殺しにすることにも躊躇いを抱いていないような口調。
(………………)
だが、違う。
今は何もかもが違っていた。
「あんたは……私を、殺せないよ……」
しなやかで傷だらけの手が、さやかの喉元に押し当てられた。
しかし傷みも苦しさもない。
杏子の所作は単なる威嚇で、彼女の呼吸を奪ったりはしない。
「だってあんた、父親のこと一度も否定してない」
「なに…………?」
「今もあんたのおじさんは正しいって思ってるんでしょ? さっき言ってたじゃない」
「………………」
「あんたは奇跡を他人を救うために使った。結果的に自分のためでもあったかもしれないけど、でも家族を幸せにしたかったんでしょ?
そうして魔法少女になって……あんたは今も戦ってる」
杏子の手からふっと力が抜けた。
「ここに来た時、あんたが最初にしたのは祈りだった。それって今もお父さんを想い続けてるからでしょ?
あんたは自分勝手かもしれないけど、だからって何もかもムチャクチャにするような奴じゃない。たぶん――」
「………………」
「あんたのこと、何となく分かってきた気がする」
さやかはたった今まで僅かなりとも抱いていた杏子に対する警戒心を完全に解き放った。
敵愾心も憎悪もいらない。
彼女はもう、背を向けたとしても不意を衝くような人間ではないと分かったからだ。
巴マミを信奉するさやかにとって、利己的な杏子はまだまだ受け容れ難い存在ではある。
だが彼女が思っているほどの悪人ではなかった。
同情すべき経緯を聞いた以上、さやかはもう冷淡に杏子を敵視することはできない。
「なんでだ…………」
教壇にしがみつくようにして杏子が呟く。
「なんでだよ…………!」
怒りと憎しみが混じったような声がもう一度。
徐に顔を上げた杏子の瞳は、
(え…………!?)
――濡れていた。
滲んだ視界がさやかの全身をぼんやりと捉えた時、彼女は拳を教壇に叩きつけた。
突然の大きな物音に驚いた仔猫は椅子の後ろに隠れた。
「なんであんたみたいな奴が魔法少女なんてやってるんだよッ!!」
杏子は全身を震わせて号(さけ)んだ。
「食う物も寝る場所もあって……何不自由なく生きてる奴がなんで契約したんだよ!」
「ちょっ…………!」
「私は親父のために願ったんだ! 妹のために祈ったんだぞ! なのにみんないなくなった! 私だけ残してみんないなくなっちまった!」
涙が、床を濡らした。
「なのになんでだ!? なんでテメエだけ幸せそうなんだ! なんでテメエは何でもかんでも持ってるんだッ!」
「………………ッ!?」
杏子はさやかの両肩を挟むように掴んだ。
全く力の入っていなかったさやかの体が背後の壁に叩きつけられる。
「私には何もないんだぞ! なのに――あんたは……私が持ってないものを全部持ってるじゃねえかっ!」
椅子の陰で怯えている仔猫が尻尾を抱くように丸めた。
「まだ欲しいのかよ! まだ足りないのかよ!! 誰かの幸せのためだって!? ふざけるな!!」
「あんた…………」
さやかの目は杏子を捉えられない。
両肩に走る僅かな痛みが、熱となり電流となってさやかの心に飛び込んでくる。
「私には何もないんだ……もう、何も残ってないんだ…………」
たった一度。
陰惨な過去を受け容れ、自分なりに消化し、その上で覚悟を決めて残りの人生を生きる。
それをするためには数え切れない逡巡と、たった一度の決心が必要だ。
佐倉杏子はその幼齢には酷過ぎる経験を経て、何度も迷い、心を決めた。
人生とはそういうものだ。奇跡や魔法とはその程度のものだ。世の中はこうだ。
何とか折り合いをつけて自分を殺さず、むしろ自分を世の中に上手く溶け込ませて生きる道を彼女は選んだ。
決心は絶対だった。
信念はどんな金属よりも固く、強いハズだった。
しかし美樹さやかとの接触が、漸く完成しつつあった信条を根底から揺るがそうとしている。
憎悪を叩きつけるのにも疲れたのか、杏子はそれ以上呪詛の言葉を発することはなかった。





荘厳さを失っても、教会が放つ空気の重さは変わらなかった。
不愉快な埃の臭いも鼻腔を突き抜けた後には、かつて礼拝に訪れた敬虔な信者たちの祈りの残滓だと感じられる。
ここは教会だ。
見てくれは悪いが、神に縋り、思考を巡らし、生きてきた道を振り返る場所だ。
「――悪かったな」
杏子はさやかに背を向けて言った。
声はまだ少し震えている。
「………………」
自分の所為なのか、とさやかは思った。
間違ったことは言っていないハズだ。
杏子自身が捨て去ろうとしているのか、それとも意識しないようにしているのか、元来の優しさが見え隠れするのを、
さやかは自分の言葉で認識させたに過ぎない。
「あんたが憎かったんだ」
杏子は消え入りそうな声で呟いたが、さやかの耳にはしっかりと届いていた。
「自分はこんな辛い目に遭ってさ、親父たちに死なれてひとりで戦ってるっていうのに。
なんであいつはあんなに楽しそうに魔法少女やってるんだろって。なんで他人のためだなんて余裕かましてるんだろうって」
「………………」
「だからムカついてさ。何不自由なく生活できるくせに奇跡を手に入れてさ。しかもそれを他人に使いやがった。
無性に腹が立ったんだ。私はずっと命懸けだったのに、あいつはお遊びで魔法少女やってるって」
遊びのつもりなんかない、という反駁はさやかにはできなかった。
マミの死に直面し戦いの厳しさを分かっているつもりだったが、覚悟という意味に於いては遊びでないとは言い切れない。
「潰してやろうって思った。元々恵まれてるのに私と同じチャンスを手に入れた贅沢な奴をさ。
幸せそうな顔して生半可な気持ちで戦ってるのが気に入らなくて、思い知らせてやろうってね」
さやかの行動が気に障ったから潰しに来た。
表面だけ捉えれば勝手な話だ。
「あんたには帰る家があるし、食べるものにも困ってない。家族も友だちもいる。
それが――気に入らなかった……許せなかった…………!」
「………………」
「悪い――ただの八つ当たりだ」
杏子はまだ燻っているらしい感情の波を、林檎を乱暴に齧ることで抑えようとした。
「あんたはあんただもんな。幸せかそうじゃないかなんて誰かと比べるものじゃねえ。分かってたつもりだったんだけどな」
八つ当たり、と言ってしまえばそれまでの話だった。
不幸な人間が自分より幸せな者を妬み、怨み、攻撃する。
口では綺麗ごとを言えても、それがヒトの本質だ。
幸福に包まれた者がそれを不幸な他者にも分け与えれば世の中の均衡は良い方向で成り立つが、
残念なことに幸せな人間はさらに自分の幸せを求めがちだ。
さやかには杏子を責めることができなかった。
自分より不幸な人間の有り様を見てしか、自分の幸せを感じることができない蒙昧さを彼女は呪わしく思った。
(………………)
さやかの視界にまた動くものがあった。
先ほどまで隠れていた仔猫が杏子の足元に寄り添い、頬を擦りつけている。
「おっと、恐がらせちゃったか。悪かったな」
杏子は仔猫をひょいと抱き上げると、胸の辺りまで持ち上げて目線を合わせた。
仔猫はしばらく彼女の手を舐めていたが、やがて窮屈そうにもがくと教壇の上に飛び乗った。
この時の――。
小さな命を愛でる杏子の、聖母のような顔をさやかはじっと見つめていた。
「あんたは他人のために祈ったことを後悔しないって言ったな」
「うん…………」
「今でもそう言い切れるか? あのボウヤのために奇跡を使ったことを勿体ないって思わないか?」
「思わないよ、絶対に」
「………………」
「………………」
「――そっか、まあ頑張んな。あんたはあんたのやりたいようにやればいいさ。あんまり気負わないほうがいいと思うけどね」
不意に寂しげな表情を見せた杏子は、自分を見上げる仔猫の頭をぽんぽんと叩いた。
なぜそうしたのかは彼女自身にも分からない。
頭で考えるより先に行動することもある彼女だから、これもその延長といえなくもない。
しかしこの時、理性も倫理も感情も、何もかも抜きにした別の感覚がさやかを突き動かしていた。
「なっ――!?」
常に神経を尖らせ、常に一部の隙も見せないハズの杏子はこの不意打ちに全く反応できなかった。
「………………」
さやかは杏子の体を抱きしめていた。
逃がさないように。
抵抗できないように彼女の背中に回した両腕に力を込める。
「お、おい! 一体なにを――?」
振り解くのは容易い。
体格的にも体力的にも有利な杏子がちょっと力を入れれば、この抱擁は簡単に解くことができたハズだった。
だが彼女はそうしなかった。
なぜか落涙しているさやかを横目に見た時、杏子から鋭敏さはすっかり抜け落ちてしまったようだ。
「あんたのこと……誤解してた……」
耳元でさやかが囁く。
「自分勝手で平気で他人を見捨てるイヤな奴だと思ってた。グリーフシードのために他人を見殺しにする悪い魔法少女だと思ってた」
「………………」
「でも多分、ちがう。あんたはそんな奴じゃない」
さやかはさらに力を込めたが、それでも杏子は抵抗しようとはしなかった。
「これは何のつもりだ?」
強がっている、とさやかにはすぐに分かった。
言葉によるささやかな反駁だ。
杏子は抱擁から逃れようともしないで、直截的に疑問を口にする。
「見ていられないよ、あんたのこと」
「だから何のつもりだって訊いてんだよ」
見たくないなら背を向けるなり立ち去るなりすればいい、と杏子は思ったが言葉にはしない。
「あんた、まさか…………!」
途端に杏子の目つきが鋭くなる。
「同情のつもりか!? だったらごめんだ! さっさと離せよ!」
怒りが再燃したか荒々しい語調が戻ってきた。
だがさやかはそれでも抱擁を解こうとはしない。
杏子もまた彼女を無理やり引き離そうとはしなかった。
(なんだよ…………!!)
言葉とは裏腹に、彼女の体はさやかの体温を求めていた。
心地よさがあった。
遠い昔に母に抱かれた記憶。
ずっと前に悪戯をして父に叱られた後、泣きそうになったところを抱擁された記憶。
男の子に揶揄われていた妹を守った時、助けてくれたお礼にと抱きつかれた記憶。
それら懐かしい想い出が杏子の心を満たしていく。
もう長いこと人と触れ合った憶えのない彼女にとって、この窮屈な接触が心地よかった。
(なんで…………)
体が熱くなる。
抑えていた感情がまた表に出そうになる。
杏子はそれを必死に堪えたが、彼女の意思に反して涙は滂沱として流れ出す。
「うっ…………!!」
唇を強く噛んで涙を止めようとする。
いつからか彼女は涙を流せなくなっていた。
泣いたところで死んだ家族が戻って来るわけでもなければ、魔女が手心を加えてくれるわけでもない。
そもそも孤独と戦い続ける彼女の涙を見る者すらいないのだ。
泣くくらいなら。泣いている暇があるならその時間を使って空腹を満たしたほうがいい。
杏子はそうして自分を納得させたし、それを信条として生きてきたつもりだった。
しかしもはや限界が近い。
ぽたり、ぽたりと零れ落ちる涙に、さやかは杏子の心を覗き見た。
「強がってるのは分かってる」
分からないハズがない。
いま腕の中にいる佐倉杏子は自分と同じなのだ。
自分を偽ってでも強く見せようとし、弱音も吐かない愚痴もこぼさない。
気丈に振る舞うべきだという強迫観念の虜になって、そこから抜け出せなくなってしまう。
さやかにはそれが痛いほど分かるのだ。
「……なんでっ……あんたは……! 私、なんか――」
プライドも何もかも捨て、杏子は自分からさやかの抱擁を求めた。
「やめろよ……私にかまうなよ…………」
今ばかりは杏子が小さく見える。
「あんたは――独りじゃないっ!!」
さやかの視界には滲んだステンドグラスがあった。





 火照った体を冷ますように、杏子は大きく伸びをした。
さやかは今頃になって恥ずかしくなったのか、彼女に背を向けて紅潮した頬を両手で押さえている。
「何なんだよ、さっきのは――」
杏子が少し怒った調子で訊いた。
「別に……」
「別に、ってことはねーだろ。脅かしやがって」
照れ隠しに杏子は悪態をつく。
「――ごめん」
「いや、そう素直に謝られるとさ……その、悪かったよ――情けないところ見せちまって」
杏子の語勢は安定しない。
いつものようにがさつでどこか刺々しい印象を与える口調になるかと思えば、
心優しい姉が頼りなげな妹に接するような柔らかい調子にもなる。
「あんたさ、今はどこに住んでるの?」
ゆっくりと振り返ったさやかは、改めて荒廃した教会を見回した。
「………………」
杏子はそれには答えない。
無視している、というより言い淀んでいると察したさやかはポケットから携帯電話を取りだした。
前回のテストで平均点70点を取ったご褒美にと親に買ってもらったものだ。
慣れた手つきで自宅の番号を呼び出す。
「もしもし……あ、お母さん? うん、そう……うん……大丈夫だって! ちゃんとやるから。ほんとだって」
杏子の訝るような視線に気づき、さやかは少し体を傾けた。
「それでね、ちょっとお願いがあるんだけど……前借りじゃないって。ちょっと、うん……大事な話――」
さやかの声は段々と小さくなる。
「知り合いの娘をしばらく家に泊めたいんだけどダメかな?」
「な……ちょっ、おい!?」
その言葉をしっかりと拾っていた杏子はすぐさま会話を遮ろうとした。
「――ううん、女の子。家出っていうか……まあそんな感じ。ごめん、理由はちょっと…………。
食費とかは私のお小遣いから出すから――。え? ああ、家の手伝いもちゃんとするよ。うん、うん、分かってる」
さやかはそれを無視して勝手に話を進めていく。
「なに勝手に話進めてんだよ?」
なおもやかましく騒ぎ立てる杏子に背を向け、彼女はおおまかな事情を説明する。
といっても魔法少女や魔女についてを説明するわけにはいかないし、言ったところでまず信じてはもらえない。
さやかは必死に頭を捻って不自然にならないよう、杏子を躾の厳しい家から飛び出してきた少女という設定にした。
「そう……いいの? うん、ありがと」
さやかは理解のある母親に感謝すると通話を終えた。
「今のは何なのさ?」
携帯をポケットにしまうまで待っていた杏子の表情は複雑だ。
「聞いてたんでしょ? あんたを家に連れて行くのよ」
「勝手に決めるなっての。私はそんなこと一言も言ってないだろ」
「自分勝手に生きればいい、って言ったのはあんたでしょ?」
「………………」
さやかにしては巧い切り返しだった。
自分の発言をそっくりそのまま返され、杏子は口ごもってしまう。
「なに考えてんだよ、あんた」
「別になにも」
「分かってんのか? 私はあんたを殺そうとしたんだぞ? あんたの敵なんだぞ? そんな人間を家にあげるつもりなのかよ?」
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ不穏な空気が流れたのは”殺す”という物騒な言葉が出たからだ。
しかしそれを発した少女自身にはまるで険がなかった。
「分かってるよ、それがウソだってことくらい」
さやかは目を伏せた。
「そうやって人を遠ざけてきたあんただから――なおさら放っておけないのよ」
「わ、私はべつに……」
「同情なんかじゃないから」
「………………」
「私がしたいからしてるだけ」
冷たく言い放つさやかを見て、杏子は悔しそうに拳を握りしめた。
その仕草から彼女は拒まないだろうとさやかは確信した。
振り返ればこれまでは常に杏子が場の主導権を握っていた。
路地裏で初めて逢った時も、退院した恭介宅の前で張られていた時も。
彼女はいつも勝ち気で強気の姿勢を崩さなかった。
それが今、滑稽なほど狼狽したり涕泣(ていきゅう)したりと、ごく普通の少女が当たり前に見せる一面を晒している。
「名前、ちゃんと知らないから教えて。キョウコ……だったっけ?」
「え……? あ、ああ……」
二度も刃を交えておきながら、今さら名乗ることに杏子は違和感を覚えた。
「佐倉杏子だ。あんたは――さやかだったよな?」
まどかが何と呼んでいたかを思い出し、杏子はやや伏し目がちに問う。
「うん、美樹さやか」
対する彼女は正面から、真っすぐに杏子を見つめていた。



 林道を抜け、町に戻って来た頃には陽はすっかり沈んでいた。
薄暮の中を行く2人は殆ど無言だった。
後ろを歩いている杏子は落ち着きなく視線を彷徨わせ、その挙動は迷子を思わせる。
さやかは彼女がついて来ているかをいちいち確認せず、見飽きたマンションの前に立つ。
「あんた、さ――」
「ここが私の家。お母さんにはちゃんと許可貰ってるから」
杏子が何か言いかけたところに、さやかはわざと言葉を被せてそれを打ち消した。
タイミングを失った彼女は拗ねたようにそっぽを向いた。
(もうどうにでもなれ!)
今さら帰るとも言い出せず、杏子は結局さやかに引っ張られるようにしてエレベータに乗り込む。
「なあ……」
両肩にずしりと重みを感じながら、杏子は少女の背中に呼びかけた。
「なんでこんなことするんだよ?」
どうせ質問したところではぐらかされる。
分かってはいるのだが狭い空間での沈黙に耐え切れず、杏子はうっかりとそう口にしてしまった。
「別に……なんとなく、よ」
「………………」
やっぱり、と杏子は思った。
(こいつ、全く警戒してないのか?)
自分に背を向け、両手を下ろしているさやかに杏子こそ警戒心を持った。
知恵の回る者なら相手を油断させて隙を衝く、という手もあるだろう。
特に技量に劣り真っ向からの戦いでは勝ち目がない場合、そうした智謀に頼らざるを得ない。
(――考えすぎか)
美樹さやかをある程度見てきた杏子はその線を振り払った。
この少女は挑発に乗りやすいところから分かるように直情的な性格だ。
(………………)
他人との交わりを永いこと断っていた杏子は、そう簡単に他者を信じることができなくなっている。
かつて父の行き過ぎた真っ当な教えから目をそむけ、離れていった幾人もの他人がいる。
彼女は”自分”というものを強く持ちすぎ、誰かに甘えることを弱さだとした。
そもそも周囲に頼れる者などひとりもいなかったのだ。
依存や信頼をくだらない絵空事と考えてきた杏子には、だからこそ美樹さやかを測りかねた。
「ここだよ」
エレベータを降り、ドアを4枚過ぎたところに『美樹』の表札が掲げられている。
「ただいま」
「おかえり。遅かったから心配したのよ?」
エプロン姿の母は頬に手を当てて小さく息を吐いた。
娘とは対照的でウェーブのかかった長髪には大人の気品が漂い、清楚可憐という表現がしっくりくる。
「お母さん、この娘がさっき話した――」
「初めまして、お母様。佐倉杏子といいます」
杏子はゆっくりとした口調で名乗ると、模範的なお辞儀をした。
「え…………?」
さやかは目を白黒させた。
「この度はさやかさんにもお母様にもご迷惑をおかけして申し訳ありません。
ご厚意に甘えてしばらくお邪魔することになりました。よろしくお願いします」
再度、彼女は深く頭を下げる。
「ちょ、ちょっとちょっと…………!!」
慌てふためくさやかをよそに、母も緩慢な動作で会釈した。
「いいのよ、さやかのお友だちなら大歓迎だわ。大したおもてなしはできないけど、自分の家だと思ってゆっくりしていってね」
この女性は見た目の儚さとは裏腹に、ハキハキとした調子で迎え入れた。
「べ、別に友だちってワケじゃ……っていうかあんた――」
「すみません、お世話になります。あの、私にできることなら何でも致します。遠慮なく仰ってください」
杏子はなおもさやかを無視して挨拶を述べる。
「そんなに気を遣わなくていいのよ」
母は微苦笑した。
素性も知らない他人を家に置くことに、彼女は躊躇いを感じていないようだ。
このあたりのおおらかさはいくらか娘にも受け継がれているらしい。
「さあ、上がって。とりあえず着替えていらっしゃい。もうすぐご飯の用意ができるから」
母はそう言ってその場をさやかに任せ台所に消えた。
「おじゃまします」
と言ってまた会釈する杏子を、さやかはジト目で見ていた。





そこそこ広い家だが、部屋数には余裕はない。
さやかが着替える間、杏子は彼女の部屋で居づらそうに座って待っていた。
「何なのよ、さっきのは」
制服をハンガーに掛けながら、さやかが拗ねたような調子で問うた。
「さっきって?」
小卓に置いてあった飴を舐めながら杏子が訊き返した。
「”初めまして、お母様〜”って。全然似合わないわよ」
「悪かったな、似合わなくて」
杏子は口を尖らせた。
「あんたが躾の厳しい家とか勝手に作り話したから、それに合わせてやったんじゃねえか」
感謝しろ、と言わんばかりに彼女は語気を強めた。
先ほどの優雅さはどこへ消えたか、杏子は胡坐をかいて頬杖をついている。
「今のあんたをお母さんに見せてやりたいわ」
さやかが当てつけがましくため息をついた。
「それに――」
杏子は急に声のトーンを落として、
「私が非常識な振る舞いしたら、おばさんがあんたのコト悪く思うかもしれないだろ。
娘が行儀悪い奴と付き合ってるってなったら、おばさんも心配するだろうし、あんただっていろいろ言われるだろうしさ」
極めて神妙な表情でそう付け足す。
「…………ッ!!」
さやかはハッとなって杏子を見た。
至極真っ当な発言をした彼女は、今もだらしない姿勢は変わっていない。
「ったく、めんどくさいな。ヘンにキャラ作っちまったから、おばさんの前でボロ出さないようにしないとな」
「ご、ごめん…………」
頭で考えるより先に彼女は謝罪の言葉を口にしていた。
「いいよ、別に。苦じゃないし」
気遣うような、不貞腐れているような判断が難しい口調だ。
(ひょっとして……さっきのが本来のこいつだったりして……?)
さやかは思った。
弁えのある者ならその場、その状況に応じた話し方をすることくらいはできる。
しかしそれにはイメージトレーニングや慣れ、ある程度の経験が必要だ。
立ち居振る舞いや語彙は一朝一夕に身につくものではない。
自分ならあんなに丁寧な挨拶はできない。
さやかはそれを自覚している。
だから杏子の変わり身の早さには、むしろ憧憬に近い念を抱いていた。
(教会の娘だって言ってたっけ……)
彼女が抱く教会のイメージは、それを知らない多くの人が抱くものと大差はない。
神々しくて潔白。神の御遣にも等しく、洗練されていて気品に溢れて……。
つまりは”佐倉杏子”の対極の存在だ。
「あんたってさ、もしかして――」
意を決してさやかがその事を問おうとした時、
「ご飯できたからいらっしゃい!」
見計らったように母に呼ばれ、結局聞けず仕舞いとなってしまった。



 夕餉は一般家庭にしてはなかなかに豪華なものだった。
肉料理、サラダ、スープと栄養や彩りを考えて一通りの調理が揃っている。
(見栄張っちゃって……)
普段に比べて明らかに品数が多いのに気付き、さやかは苦笑した。
家出娘を連れてくる、と聞いた母は慌ててこの献立を捻り出したようだ。
さやかが咄嗟に口走った”躾の厳しい家庭”という設定が、彼女の負けず嫌いな一面を刺激したのかもしれない。
「杏子ちゃん、だったわよね。好き嫌いとかあったら遠慮なく残していいからね」
「残すなんてとんでもない! どれも美味しそうで……」
彼女は早速演技モードに入った。
頭がきれ、計算も速い杏子は粗漏なく上品に振る舞う。
「さ、冷めないうちに食べましょう」
真っ白な長テーブルを囲んでの和やかな晩餐が始まった。
「いただきます」
礼儀の一端として杏子は美樹家がひと口食べるのを待ってから箸をつけた。
「お口に合うかしら?」
杏子がなかなか食べようとしないので、母は不安げに問うた。
「はい、とても美味しいです!」
淑やかに笑んだ彼女は出された皿に万遍なく手を伸ばした。
それを見て母も安堵する。
「いやあ、それにしてもビックリしたよ。さやかが友だちを連れてきたって聞いたから、どんな娘かと思ってたんだが……」
少し前に帰宅した父は背広だけ脱ぎ、カッターシャツ姿で愛妻の料理を摘んでいく。
「こんなにしっかりした娘だったなんてなあ」
父は大仰に笑った。
食事の前、杏子は家に上がる時同様、極めて礼儀正しく父に挨拶した。
しばらく厄介になる旨を伝えただけだがその所作は洗練されていて、取引先との名刺交換よろしく父も随分改まった姿勢でその挨拶を受けた。
ただ優雅な振る舞いに比して服装は煽情的なもので、その不均衡さに彼も当初は扱い方に戸惑っていた。
”言葉遣いが丁寧なのにこんな恰好をしているのは親に反抗してのことだろう”
彼は彼なりにそう結論付け、杏子の生い立ちに関しては踏み込まないことにした。
「しっかりだなんて、そんな……」
謙遜する仕草もまた見事なもので、これなら”躾の厳しい家の娘”と聞いても誰も疑わないだろう。
「良かったらウチのさやかにもいろいろ教えてやってくれないかしら。この子ったらいつまで経っても腕白で」
冗談っぽく笑う母は内心、娘がどうやって杏子と知り合ったのかが気になっている。
見た目の派手さを抜きにすれば、まるで正反対のタイプだ。
さやかにとっては良い影響を与えるが、杏子にとっては娘のややだらしないところが悪影響になってしまうのではないかという懸念がある。
「私はこのままでいいの」
学ぶ気は全くない、とさやかはぴしゃりと言った。
愉しい時間はあっという間に過ぎていく。
事情が事情だけに、誰も杏子の経緯については触れなかった。
本来なら相手方に知らせて引き取りに来るよう交渉するか、期限を伝えて家に留めるというのが自然な流れだが、
そのあたり寛容な父も母も、そういう無粋な真似はしない。
わざわざ家出娘を連れてきたさやかの心情を慮った結果ともいえる。
こういう時は大人はあれこれと動かず、子どもたちのやりたいようにさせたほうがいい。
間違いを犯しかけたらその時だけさり気なく道を正してやればいい。
さやかの両親はその点を心得ていた。
「ごちそうさまでした」
テーブルにずらりと並んだ料理は明らかに人数分以上あったが、それらは綺麗に片付いていた。
「あんたよく食べるわね…………」
さやかが呆れ顔で言った。
「なに言ってるのよ。こんなにたくさん食べてくれて私も嬉しいわ」
出された料理は残さず食べる。
3人の箸が止まっても杏子だけは米の一粒も残すまいと食した。
健啖ぶりを披露した彼女は時おり気が緩みがちになり、危うく淑やかな聖女から野生的な少女に成り下がるところだった。
「………………」
ゆっくりと箸を置いた杏子は、手を膝に置いて空になった皿をじっと見つめていた。
「あ、もしかして足りなかった?」
その様子を欲求不満と受け取った母は慌てて訊ねたが、
「いえ、そうじゃないんです」
杏子は囁くように否定した。
(………………?)
不審に思ったさやかはそっと杏子の顔を覗きこんだ。
俯いた彼女の表情はよくは分からない。
「どうしたのよ?」
と、さやかが問うのと彼女の体が小刻みに震えだしたのはほぼ同時だった。
「本当に……美味しくて……美味しくて…………!!」
滴が太腿を濡らす。
多くの人間にとって家族揃って食事をする、という光景はごく当たり前のことだ。
団欒は日常の中に組み込まれているから鮮やかに映えることもなければ、それをいちいち幸せと感じることもない。
その当たり前の光景をずいぶん昔に失ってしまった杏子にとって、この晩餐は違う世界のことのように感じられた。
口にした料理のひとつひとつの味は、彼女が永く冀求していたものだ。
「あ、あらやだ! 涙が出るほど美味しかったかしら!? どう? 私の腕もなかなかのものでしょ?」
湿っぽくなった空気を変えるように母が努めて明るい口調で言った。
さやかの両親は佐倉杏子についてさほど深刻には考えていない。
娘の話にあるように、彼女の家は厳格だというだけで父母は健在。
もちろん住居はあるし食にも困っていないものと思っている。
だからこの時も2人は彼女の反応を大袈裟だ、というふうにしか捉えていない。
あるいは躾が行き届いているだけに招客として出された料理を残さず食べる事も、
その味を称賛する意味で涙するのも、教え込まれたマナーの一環かもしれないと考えている。
しかし彼女の生い立ちを自身の独白によって知ったさやかだけは、この涙の意味をもっと深く理解している。
彼女はいつも何かを食べていた。
その殆どは味の濃い菓子類で、人の手というより機械によって大量に作られた画一的な商品だ。
誰かが誰かのためだけに手を使って作った料理を、彼女はもう永いこと食べていないのだ。
母の味を忘れてしまうくらいに、たったひとりで戦い続ける道を歩まざるを得なかった杏子を見て―ー。
さやかは胸に激しい痛みを覚えた。
「すみません……こんなに美味しいご飯は初めてで……」
溢れる涙を拭おうともしないで杏子は違和感だらけの幸福にしばし溺れていた。





「悪いな、寝巻きまで借りちまって」
入浴を終えた杏子は髪を撫でながら言った。
体格がさやかに近かったため、多少窮屈ではあるが余っていた彼女の寝巻きを借りたのだ。
「いいよ、それくらい」
いちいち気にする事はない、とさやかは言った。
杏子に気を遣わせないようにと、彼女は必要以上にあれこれと手を焼いたりはしない。
できるだけ会話も簡潔に、恩着せがましくならないように注意する。
今の彼女にできるのはそれくらいだ。
「あんたにはいろいろ気を遣わせちまったな……」
「だから別にいいって――!?」
振り向いたさやかは言葉を失った。
目の前には脚を崩した杏子。
やや攻撃的で勝ち気な印象を与えるツリ目。
ちらりと覗く八重歯は何かを企んでいそうな妖艶な色を放っている。
下着同然の薄布の寝巻きから覗く、やや小麦色の脚線美がさやかの視線を釘付けにした。
引き締まった脚は筋肉の歪さを感じさせない。
それどころかシャープな流線型は、たとえ同性であっても見る者に憧憬の念を抱かせる。
「どした?」
「ううん、別に……」
紅潮した頬を見られまいと、さやかは咄嗟によそを向いた。
こんなことで動揺してはいられないのだ。
落ち着けと自分に言い聞かせ、顔から火照りが消えたのを確かめてからさやかは振り向く。
「なにしてるのよ?」
「寝床作ってんだよ」
さやかの気持ちなどお構い無しに、杏子は床に布団を広げ始めた。

『ごめんね、杏子ちゃん。空きがないからさやかの部屋で寝てくれるかしら?』

入浴前、母は2人にこう告げていた。
ひとつだけ空き部屋があるがそこは物置状態のため、必然的に杏子の寝る場所はさやかの部屋ということになる。
「そんなところで寝なくてもいいでしょ」
勝手なことを、と言いたそうにさやかは呆れた様子で呟く。
「私はどこででも寝られるからな」
「そうじゃなくて。ベッドを使えばいいじゃない」
そう言ってから彼女はその発言をすぐに撤回したくなった。
ベッドは大きめで、2人が入ってもさして狭くはならない。
「そこまで贅沢言えるかよ」
杏子は翳のある表情で言い返す。
(調子狂うからそんな顔しないでよ)
さやかは喉まで出掛かっている言葉を押さえ込む。
「あんたを床で寝かせたら、私がお母さんに怒られるのよ」
さやか母の杏子に対する評は高い。
少しでもぞんざいに扱えば我が子のことのように怒るだろう。
家出してきた娘とはいえ、他人を預かるには大きな責任が伴うのだ。
「あ、ああ、そうだな……うん……」
もっと冷淡な切り返しがくるものと予想していた杏子は、見当違いの返答に肩透かしを食らわされた。
常にその場を掌握する彼女も、さやかの部屋に転がり込む身となると借りてきた猫のように大人しい。
父母がいないためがさつな物言いに戻ってこそいるが、凛々しい佇まいは一転して儚げな少女そのものだった。





この違和感はどちらにとっても擽ったいものがある。
年頃の女の子は親しい者と”お泊まり会”と称して、これに似たような夜を迎える。
そこで繰り広げられるのは大抵が恋愛談義で、誰が好きだの誰々が相性がいいだのと言い合って盛り上がる。
しかしこちらは状況こそ似ているものの、通夜さながらの静寂しかない。
ベッドの両端で背を向け合って布団を被るさやかと杏子は、互いに息遣いを聞かれないように呼吸するのにさえ慎重になる。
その慎重さが互いに起きていることを知らせてしまい、沈黙のままに”先に寝たほうが負け”という妙な意地の張り合いが始まる。
1秒おきに響く音以外には何も聞こえない。
就寝用の薄橙色の明かりが室内を仄かに照らす。
壁にできた輪郭のない影を眺めながら、規則正しく上下する掛け布団に2人は互いの距離を感じ取る。
「いい親御さんだよな」
不意に杏子が呟いた。
「そう?」
「見ず知らずの奴を泊めようなんて普通思わねえって。なんとか理由つけて断るのがたいていさ」
ましてや素性が分からない上、家出してきた娘などと聞いては露骨に忌避する。
それが人間だ、と杏子は思っている。
「なあ……」
「…………?」
「なんで私を連れて来たんだ?」
「別に理由なんてないわよ」
「理由もなしに呼んだりしないだろ」
背中越しの杏子の声からは、孤独と戦ってきた故に培った強さや鋭さは感じられない。
むしろ孤独に負けかけた嫋やかな少女のすすり泣きに近い。
「私がそうしたいからしただけ」
「だからそれが何でかって――」
「放っておけなかったから」
さやかは布団を頭まで被った。
「同情か?」
「違う」
「じゃあ……」
「気になるのよ、あんたのコト」
それ以上の説明はさやかにはできない。
具体的にも抽象的にも、答えるには彼女の語彙は少なすぎる。
「………………」
「あんたに気にかけられるほど私は立派な人間じゃない」
「立派だなんてこれっぽっちも思ってないから」
「テメエ…………!」
2人は小さく笑った。
「あんたの話を聞いてなかったら、私はずっとあんたを憎んでたと思う」
「好かれる要素なんてないもんな」
「しょうがないでしょ、私はマミさんに……憧れて魔法少女になったっていうのもあるんだから」
「ああ…………」
巴マミの名前を出すと、さやかは決まって言葉に詰まる。
彼女の短い人生の中で自己を犠牲に他者を守ろうとする大先輩の勇姿は、大空に燦然と輝く日輪そのものだった。
「だからあんたは敵だった。悪い魔法少女だって思ってたよ」
「それは間違ってないさ。あんたは使い魔でも倒す、巴マミと同じさ。私は使い魔は魔女になるまで待つ。少なくともあんたにとっちゃ敵ってワケだ」
杏子は自嘲するように笑って言った。
こうして斜に構え、飄々と現実を渡り歩く少女は善悪よりもまず利害を考えて行動しようとする。
しかししばしば情が差し挟まれ、その優先順位はあっさりとひっくり返るのだ。
「味方じゃないだけで敵じゃない」
さやかは呟くように言ったが、この距離では声はしっかりと杏子に届いている。
(………………)
不思議だった。
視野の狭さから猜疑心が強い傾向にあるこの少女は、たとえいくらか蟠りが解けてもそう簡単に相手に心を許したりはしない。
まどかの言う”思い込みが激しくて誰とでも衝突してしまう”良くもあり悪くもある性質のせいで、彼女は周囲に敵を作りがちだ。
暁美ほむらや佐倉杏子などは、彼女にとって最も敵になりやすい要素をいくつも抱えている。
最悪な出会いが最悪の第一印象となって記憶に膠着(こびりつ)き、彼女自身も気付かないうちに拒絶の壁を作ってしまう。
その壁を作りだしたのは誰あろう冷徹無慈悲な人格を漂わせた杏子だったが、
皮肉なことにそれを打ち破ったのもまた、凄惨な過去を吐露することで弱みを晒した彼女本人だった。
「でもそれだけでここまでするか?」
ここまで、とはもちろん母に小さなウソを吐いてまで家にあげたことだ。
「私が契約した理由、知ってるよね?」
「あのボウヤだろ?」
「恭介」
「……きょうすけ、の怪我を治したかったんだろ?」
「そう。それで魔法少女になった。でも”恭介のためだけ”じゃない」
「大切な人を守るっていうあれかい?」
「うん…………」
杏子は深呼吸した。
質問の答えになっていない。
彼女はそう言おうとしたが、それより先に、
「家族もまどかも恭介も――私が守るんだって。私は魔法を他人の為に……誰かを守る為に使うんだって決めた」
さやかが緩急をつけずに言った。
「その中にあんたも入ってるってだけのこと」
やはり答えになっていない。
杏子は美樹さやかはこういう人間だ、と片付けた。
「散々あんたを痛めつけたのに?」
どうにも明確な回答は得られないらしいと分かり、切り口を変えて新たな質問をぶつけてみる。
そこに触れられると、さすがにすぐには返事はできない。
思い出せば腹立たしいし、憎くもなる。
しかし今、背中越しに息遣いが聞こえるほどの距離にいるのはその憎むべき相手だ。
「使い魔を逃がしたことは今も許せないけど、でもそれだけであんたを悪者って決め付ける気にはなれないよ」
「ふーん……」
「先に手を出したのは私の方だし――」
さやかが杏子に対して純然たる敵意を持てないのは、そこに負い目があるからだ。
ベテラン魔法少女の強襲ではない。
ともすれば思想の違いこそあれど、杏子はただ話し合いに来ただけだったかもしれない。
頭に血が昇って剣を振るってしまったさやかに非がないとは言えない。
「あの時は悪かったな」
薄闇の中、互いに顔が見えないからか杏子は驚くほど素直に謝罪の言葉を口にした。
「正直やりすぎた。あんたが遊び半分であいつと契約したものだと思ってたからさ。
まあ、ちょっと興味があったっていうのもあるけどね」
「………………」
「中途半端な気持ちでさ、趣味の延長みたいに魔女少女やられるのってムカつくんだよね。
魔女との戦いは命懸けなんだ。お遊びでやるもんじゃない。文字どおり戦いだからな」
そこまで言って杏子は微苦笑した。
「でもあんたは私に挑みかかってきた。私がどれだけ叩きのめしてもあんたは立ち上がってきた。逃げようとしなかった。
本当はさ、その時に分かってたんだ。こいつは信念を貫こうとしてるんだ、遊びで魔法少女やってるんじゃないんだってね」
言葉はやはりまだ少し粗暴だった。
だが彼女の語り口調は教会での一件と同じく、深く澄み渡るような静謐さがあった。
この優しい声がさやかの心を聖水で満たしていく。
「あの時は私も必死だったから」
信念がどうだとか、魔法少女としてどうあるべきかとかを考えている余裕はなかった。
「本当に悪かったよ」
杏子がもう一度言った瞬間、さやかの胸はまたちくりと痛んだ。
(………………)
体温が上がっているのを彼女は感じた。
胸の辺りを何かが走っているような感覚もある。
さやかはそれを気のせいだと思い込むことにした。
込み上げてくる感情があるのに、自身はそれを自覚しようとしない。
(さくらきょうこ…………)
その名前を頭の中で声に出して呼ぶと、途端に心臓は早鐘を打ち始める。
敵だった。
敵ではなく味方でもない存在だった。
憎むほどの相手ではなかった。
ただそれだけの他人なのに、恭介に抱いているのと似たような想いを彼女にも抱いている。
そのことをさやかは分かっていて気付かない振りをした。
まだ理性が勝っている。
意地っ張りで頑固な面が表に出てきている間は、この複雑な感情を誤魔化すことができる。
(なんでわたし……こいつのコト…………)
気になりだすと気になってしまう。
可哀想な境遇に同情し、それが別の情にすり替わったのかもしれない。
がさつで乱暴で好戦的な姿を、凛々しいと勘違いしてしまったのかもしれない。
何が要因であるかは誰にも分からない。
しかし美樹さやかの中で、佐倉杏子という自分にとっては対極で、よく似た性質の少女が特別な存在になりつつあった。
(い、一回だけ…………!!)
普段ならとっくに寝ている時間だというのに全身を駆け巡る血液に眠気を吹き飛ばされ、
こと恋愛が絡むと奥手になりがちな彼女はいくらか能動的にさせられた。
(一回だけ……)
さやかはわなわなと震える唇にそっと人差し指をあて、
「きょ、きょう……こ……」
勇気ある一歩を踏み出した。
「………………」
反応は、ない。
飄逸な彼女のこと、敢えて無視をしているのかもしれないと。
あるいはアプローチされるのが苦手なために返答に窮しているのではないかと。
10秒待っても、30秒経っても彼女は何も言ってこない。
「きょう――」
もう一度呼ぼうとした時、静寂の中に少女の控えめな寝息が聞こえ、さやかは咄嗟に口を噤んだ。
上下する掛け布団のリズムが変わっている。
ベッドの軋む音にさえ細心の注意を払い、さやかはゆっくりと上体を起こした。
そっと杏子の顔を覗き込む。
反対側を向き背中を丸めるようにして眠っている。
(こんな顔、するんだ……)
一日の疲れを癒す時、人は必ず無防備になる。
暗がりの中、さやかは彼女の”女の子のような”寝顔に見惚れた。
お泊まり会の時に見たまどかや仁美と同じ、どこにでもいるごく普通の少女の顔だった。
彼女が魔法少女となって人々に不幸を齎す魔女と戦っていることなど、きっと誰にも想像もつかないだろう。
日中、街に出れば何かを食べ歩き、ゲームセンターで遊びに興じるただの素行不良な少女。
彼女が狂った父親の一家心中で頼れる者を悉く喪い、過酷な人生を歩み続けているなど誰も想像できないだろう。
しかし今、この時だけは。
”佐倉杏子”は契約も魔法も魔女も、何もかも関係のない世界にいる少女だった。



 魔女は心そのものといってもいい。
普通の人間には知覚できず悪意や憎悪、諦念や殺意となって具体的な形をとらずに生き続けている。
様々に思いを巡らせる者なら、人間の心が魔女を生み出したという説にも頷くかもしれない。
これが立証されれば今から魔女退治に赴くこの少女はただちに標的を変えなければならなくなるが、
生来の思い込みの激しさがその結論を頑なに否定してくれるだろう。
「じゃあ行ってくるね」
さやかは無二の親友にそう言い残し、夕闇の街に溶けた。
”何の役にも立たないけど、行けるところまで連れて行って欲しい”
そう言って付き添おうとするまどかを彼女は拒んだ。
守るべき者の存在は直情的なさやかにとっては冷静さを取り戻す薬になる。
しかし彼女はまだ親友を守り通せるほど強くはない。
戦いの呼吸にも慣れておらず、正義感と使命感だけで剣を振るったところで魔女は退治できても、
親しい者を守れるかどうかは分からない。
さやかは悩んだ末、まどかを魔女から遠ざける道を選んだ。
不器用な彼女は戦いに集中するあまりに周囲が見えなくなり、自分の剣が間違ってまどかを傷つけてしまうおそれを排除したかった。
高層ビルの森を抜けたところに小さな公園がある。
昼間は子どもたちの遊び場として、夜は男女が愛を確かめ合う場として使われているここに。
魔女の気配があった。
独特の禍々しい空気が流れ出しているようで、さやかは足元が冷たくなるのを感じた。
この冷気は結界に飛び込む魔法少女の心を凍てつかせる。
敗北が死を意味する現実の恐怖を、戦う前から否が応でも自覚させられる。
「………………」
さやかは深呼吸をひとつして、静かに一歩踏み出した。
まどかを巻き込んでしまうかもしれない懸念は消えたが、今度は彼女が傍にいないことで孤独と不安を味わわされる。
疑うことを知らず純朴で、どこか控えめな彼女をさやかは頼もしいと思っていた。
”まどかは私が守る”
恰好の良いことを言いながら、実際はそのまどかに守られていたのだと思い知る。
マミの死を目の当たりにして以来、魔女への恐れが拭えないのだ。
冷気は足を伝って肩の辺りまでまで這い上がってきた。
体が小刻みに震える。
(ダメだ……! しっかりしないと…………)
そうは思っても体は前には進まない。
魔力の結晶ともいえる大剣は、魔を斬ることはできても身を守ってはくれない。
「よう」
背後から突然声をかけられ、さやかはぎこちない動作で振り向いた。
「こんなところで何してんのさ?」
スナック菓子を齧りながら杏子が悠然とした足どりでやって来る。
「見れば分かるでしょ」
いつもの如く素っ気無く返す。
そのさやかの視線が左右に揺れたのを彼女は見逃さなかった。
「分かんないね。ボーッと突っ立ってるだけじゃ」
杏子は厭らしく笑った。
「………………」
「――恐いのか?」
「だ、誰が……っ!!」
「意地張んなって。足、震えてるじゃんか」
あっさりと見破られ、さやかは反駁の機会を失う。
「こっちはまだ初心者だからね」
認めたくない彼女は代わりに別の表現に置き換えた。
あまりに稚拙な誤魔化し方だった。
だが今度は杏子は笑わない。
「じゃあ私がもらおうかね。昨夜は久しぶりにたっぷり寝たから、体動かしたいと思ってたんだよね」
杏子は槍を掲げて言った。
負けず嫌いなさやかは遅れをとるまいと、
「あいつは私が先に見つけたの」
剣の柄をしっかりと握り締めて言った。
譲る気はない、という意思表示は彼女らしく勇ましいものだったが、声にはやや躊躇いの響きがあった。
杏子は小さく息を吐いた。
「巴マミが死んだ時、あんた、そこにいたんだって?」
思い出したくない過去を掘り返され、さやかはビクリと肩を震わせた。
「それでトラウマになっちまった、ってワケか……」
その時の様子をキュゥべえから聞いていた杏子は、彼女を殺した魔女を見たくなった。
(それを見た後であのボウヤのために契約するんだから、あんたは大したものだよ)
矛盾、と言えなくもない。
魔女の手強さを知っておきながら魔法少女になり、今頃になって怯えだすなど滑稽という外はない。
しかし杏子はそれに対して覚悟が足りないからだ、とは思わなかった。
むしろ恐怖心よりも恭介を救いたいという想いの方が強かった、と考えた彼女は言葉にこそしないものの、
さやかの心意気には素直に尊敬の念を抱いた。
「ま、今日のところは引っ込んでなよ。私が手本見せてやるからさ」
衝撃的な敗北を目の当たりにして立ち上がれなくなったのなら、逆に自分が魔女を斬り伏せる様子を見せれば、
恐怖心を克服できるかもしれない。
「あんたに借りは作りたくない」
心に余裕がない所為で、さやかの口調はいつにも増して冷淡だ。
だが言葉とば裏腹に彼女は前に向かって歩き出そうとはしない。
「借りを返すのは私のほうなんだよ」
杏子はさやかの横に並んだ。
「あんなにぐっすり眠れたのは久しぶりさ」
「…………?」
彼女の呟きにさやかは怪訝な顔をする。
「親父たちが死んでから、熟睡したことなんて一度もなかった。寝るのが不安だったんだよな。
誰かが近くにいてくれりゃ安心できるんだけどさ。寝ても覚めてもひとりだったから……気が張っちまってさ」
杏子は自嘲気味に笑った。
「だから……ああいう柔らかい布団で、あったかい場所で寝るのってちょっとした憧れだったんだ」
「あんた…………」
頼れる者がいない状況では寝るのは不安だと彼女は言った。
昨日は熟睡できたとも彼女は言った。
つまり昨夜の杏子は緊張から完全に解き放たれ、言葉どおり安心して眠りにつくことができたのだ。
同時に彼女が自分に対して心を許していることに気付いた時、さやかは体が熱くなるのを感じた。
「貸しを作ったつもりなんてないよ。そんなの、あんたが気にすることじゃない」
こう言うのが精一杯だった。
これ以上言葉を重ねれば、昂ぶった感情が彼女に涙を流させるかもしれない。
「………………」
俯いた杏子は、さやかの震えがいくらか治まっているのに気付く。
2人の魔法少女が結界内に入ってずいぶん経つ。
鈍い魔女でもそろそろ異変に気付く頃だろう。
「あの魔女は私が倒すよ」
さやかは漸く踏み出すことができた。
大切な家族やまどかだけではない。
強くて凛々しくて、気丈に振る舞いながらもふとしたところで弱みを見せる――。
(………………)
祈りが仇となり家族を喪い、誰にも頼れずに生きてきた杏子も守りたい。
その想いがさやかにほんの少し勇気を与えた。
「無理するなっての。こういう時は先輩の言う事を素直に聞いてりゃいいのさ」
賢しい少女は見抜いている。
この意固地な後輩はまだ、一握りの勇気と信念だけを頼りに動かない体を必死に動かそうとしている。
「あ、あんただって」
拗ねたようにさやかが言う。
「あんただってもっと小さい時から独りで戦ってたんでしょ? 恐くなかったわけ?」
言ってからしまった、とさやかは思ったがもう遅い。
(………………)
今の発言でとうとう”恐がっていること”を認めてしまったが、不思議なことに一瞬の後悔があるだけだった。
「そりゃ最初は恐かったさ」
杏子はそれに驚くほど素直に答えた。
彼女自身、昔を語るのに強がる必要も虚飾で蓋う必要もない。
散々胸の内を曝け出しておいて、今さら見栄を張ることに意味はない。
「けどさ、恐がっても何も変わらないんだ。それで連中が手加減してくれるわけじゃない。
だったら踏ん切りつけるしかねえじゃん。やらなきゃこっちがやられるんだからな」
遠い昔を思い出したように杏子は目を細めて言った。
「私はそうせざるを得なかったってだけさ。でもあんたは違う。まだ戦うって意味をちゃんと分かってない」
「覚悟、みたいなもの? だからあんたはそんなに強くなったの?」
「さあ、ね。自覚できるモンじゃない。気がついたら勝手にそうなってるんだよ」
面倒くさそうに答える杏子はこの手の話題を避けたがった。
諄々(くどくど)と話しても不幸自慢にしか聞こえないし、プライドの高いさやかはそれを糧にするどころか、
何かと理由をつけて反発したがるだろう。
杏子の見る美樹さやかとはそういう人物だ。
「…………?」
さやかは剣を持ち直し、結界の奥を見据えた。
「あんたに遅れをとるわけにはいかないからね。私も覚悟決める」
ここに来てさやかは初めて笑った。
「ふん、新米のヒヨッ子が粋がってんじゃねーよ」
さやかが必死に背伸びをする妹のようにも見え、杏子は微苦笑した。
「私はね、受けた恩は石に刻むタイプなんだ」
そう言って杏子はさやかの手を握った。
「だから――どんなことがあってもあんたを護ってやる」
「だ、誰があんたなんかに……!」
握られた手が発熱しているのを感じ、さやかは顔を赤くして反駁した。
だがその手を離そうとはしない。
それどころか先ほどまで感じていた心細さがすっかり霧消していることに気付き、
さやかは内心では杏子に感謝していた。
もっともそれを素直に言葉にできない彼女は、
「ま、まあ……あんたがそうしたいって言うなら勝手にすればいいけど」
上ずった声でそう付け足すのみだ。
「相変わらず意地っ張りな奴だな、さやかは」
「さや……っ!?」
不意に名前で呼ばれ、彼女は耳まで赤くなった。
「な、馴れ馴れしく呼ばないでよ!」
照れ隠しに怒鳴ってやる。
その反応を面白がるように杏子は笑いながら、
「あんただって昨夜呼んでたじゃんか。杏子って」
したり顔で追い討ちをかけた。
「なっ――!?」
完全に杏子のペースだった。
「あ、あんた……あんた、起きてたの!?」
「いいウォーミングアップになっだだろ?」
「答えになってない!!」
さやかは繋がれていた手を乱暴に振りほどいた。
その様を見て杏子は聖母のような笑みを浮かべた。
「今のあんたならどんな魔女にだって負けやしないさ」
震えはすっかり治まっていた。
恐怖心も躊躇いも、もうなくなっている。
それに気付かされたさやかは少しだけプライドを後ろに押し戻し、
「ありがと……きょうこ――」
蚊の鳴くような声で呟く。
「ったく、私を守るなんて100年早いっつーんだよ」
それをしっかり聞き届けていた杏子は再びさやかの手をとった。
「私の方こそ……ありがとな、さやか」
杏子が言った時、結界の奥で魔女が咆哮した。

 

2人の魔法少女は魔女の作り出した異世界を飛び回った。

 

互いに先を争うように、互いを庇い合うように――。

 

真っ直ぐに伸びる光と、弧を描く軌跡が、結界と呼ばれる空間を赤と青で染め上げた。

 

全てが終わりステージの中央に立った2人は、しっかりと手を握り合っていた。

 

 

   

 

SSページへ  進む