罪咎深き聖なる女
(さやかの厚意に杏子は忘れかけていた安息の日々を得る。しかし彼女を取り巻く状況はそれを許そうとはしない・・・・・・)
鹿目まどかは終始にこやかな笑顔を絶やさなかった。
この少女は表情が豊かで思っていることがすぐに顔に出る。
といって喜怒哀楽が激しいわけではない。
「じゃあ……もう戦うことはないんだよね?」
問いかけというより確認するようにまどか。
無二の親友は少し考えるように唸ってから、
「――と思うけど」
曖昧に答えた。
良い方向に進んではいるが、問題が全て解決したわけではない。
互いに契約に至る経緯を知り合ったというだけで、主義主張が一致しているわけではないからだ。
「でも今はさやかちゃんの家にいるんでしょ?」
だったら敵じゃないよ、と彼女らしい言葉で締めくくる。
勧めに従い杏子との一応の和解が成ったことを、さやかはすぐにまどかに知らせた。
敵愾心を一度抑えて冷静になり、彼女に歩み寄ることができたのは争いを好まないまどかのお陰だ。
不安がっていた親友を安心させる意味も込めて、杏子を家出娘として預かっている事実も話す。
しかしさやかは彼女の陰惨な過去と、もうひとつの重大な点だけは伏せた。
「同じ魔法少女なんだもん。話せばきっと分かり合えると思う」
対話に勝る平和への道はない、とまどかは信じているようだ。
その通りならそもそも魔法少女が魔女と戦う必要もなくなるが、やや夢見がちな少女はそこまで考え至らない。
「まあ、ね」
杏子の生い立ちを知っているさやかは、それが簡単ではないと分かっている。
永い人生のほんの一部しか生きてはいないが、それでも生まれてから今日までの時間が等しく流れているのだ。
その間に培った倫理観や旗幟はそう簡単に変えられるものではない。
”話し合えば必ず理解し合える、というまどかの姿勢”にも同じことが言えるハズだ。
「あいつにも色々あるみたいだし、とりあえずケンカにならないようにするよ」
さやかはまどか向けの柔らかい表現を使った。
戦いや殺し合いといった物騒な単語は彼女には似合わない。
少なくとも今すぐ杏子と敵対するような事態にはならない。
知らずさやかも微笑していた。
杏子の手際の良さに彼女は感心した。
何か手伝わせてほしいと申し出る彼女に、母は夕食を一緒に作らないかと持ちかけた。
料理は女性の嗜みという、やや古い思想を持っているらしい母は家出をせざるを得なかった少女に、
少しでも楽しい時間を過ごしてもらいたいと思っていた。
杏子がしきりに役に立ちたがっているのは、この家に居場所を作りたがっているからではないか、と彼女は思った。
親に庇護される子どもにとっての家出は、自ら居場所を捨てて退路を断っているのに等しい。
つまりこの少女は新しい居場所――たとえ一時的とはいえ――を探していたのだと彼女は解釈している。
それをたまたまさやかが見つけて連れて来た……。
娘の意思を尊重する意味でも、この活発そうに見えて淑女の振る舞いをする少女を守る意味でも、
母はできる限りのことを杏子にしてあげたいと考えている。
「杏子ちゃん、お料理上手ね」
包丁を殆ど動かさずにジャガイモの皮を剥いていく器用さに、母は呟くように言った。
慣れない褒め言葉に杏子は反応に戸惑う。
そもそも他人との関わりを絶って久しい彼女は、有象無象の罵詈讒謗は耳にしても、
特定の個人から称賛されるようなことはなかった。
早く何か返事をしなくては、と焦っていたため、
「昔はよく手伝っていましたから」
と彼女はここで些細なミスを犯してしまう。
厳格な家の娘をごく自然に演じられるようになってきた杏子は、こういうところで気の緩みが生じてしまう。
しかし幸いなことに彼女は一言一句まで拾っていなかったのか、
「ほんと、さやかも見習ってほしいわ。手伝いなんて全然しないんだから」
快活な娘に苦言を呈する悩める母親ぶりを披露した。
その口調がおかしく、杏子は思わず苦笑した。
美樹さやかにはこうして軽口を叩きながらも我が子を案じ、導いてくれる父母がいる。
それがいかに幸せなことか、杏子には痛いほど分かる。
本当に尊い存在は空気のようなものだから、失ってから初めてその価値に気付く。
親の子に対する愛情も、子の親への信頼も等しく尊いのだ。
(たまには親孝行しろって言ってやらねえとな)
美樹家の親子関係は良好のようだが、時には目に見える形での孝心も必要だ。
石に布団は着せられない。
親が健在であるうちはその幸せをさやかに噛み締めてほしい、と杏子は思った。
「大丈夫? 顔色が悪いようだけれど?」
考え事をしていたせいか、母はすぐに杏子の様子がおかしいことに気付く。
「あ、いえ、大丈夫です。すみません」
「そう……? 何かあったらすぐに言ってね」
「はい」
物憂げな表情も演技に一役買ってくれるが、その度に心配されてはかなわない。
杏子は自然な振る舞いを心掛けた。
家族に先立たれるまでは、彼女自身が言ったように家事の多くを引き受けていた。
妹がいたのだ。
聖職者の血を受け継いだ、いずれは聖女となるハズだった妹が彼女にはいた。
どちらかといえば不器用で人見知りをするタイプで、芯の強い姉とは多くの点で対照的だった。
だが同じ父親を持つだけに幼いながらも信仰心が篤く、物心ついた頃から父を真似て礼拝のポーズをとるなど
早くから杏子に近い思想を育んでいた。
彼女は忙しい父に代わって母親同然に面倒をみてきた。
掃除も洗濯も料理もこなしたし、時間が合えば幼稚園の送り迎えも引き受けた。
疲労を感じたことはない。
妹の世話をしている間、父は説教に集中できる。
つまりそれだけ人を救い、信者を導き、また救いの道を指し示す時間が与えられる。
そう考えれば自分も間接的にとはいえ、父の手伝いができているのだという充足感が得られる。
家族の死後、杏子は家事だけでなく”家そのもの”を捨てた。
自分にはもう必要のないものだったのだ。
手の込んだ料理は主に誰かを喜ばせるためのもの。
食べるのが自分だけなら既製品を口に入れても、ただ生きるためだけの一工程と捉えれば差異はない。
どんな恰好をしても咎められることはないし、誰に迷惑をかけるわけでもない。
佐倉杏子はこうして多くのものを失い、あるいは自ら捨てて生きる道を選んだがただひとつ、
食べ物への強い執着心だけは捨て切れなかった。
衣も住も人間の欲望が生んだ贅沢の呼称だ。
他の動物を見ればバカみたいに着飾ったりしないし、採光や間取りを考えた家を求めもしない。
常に必要以上のものを求めるのは人間だけだ。
しかし食だけは違う。
酸素のような例外を除けばそれ以外のあらゆるものが消え失せても生物は生きてはいけるが、
食べる物が無くなれば死を待つしかなくなる。
その歳にしてはあまりに酷過ぎる経験をしても彼女が今日まで生きてこられたのは、
食べ物に払うべき敬意を一日たりとも忘れなかったことが大きい。
だからこそ彼女は今、こうしてひとつひとつの食材を殊更に丁寧に扱う。
可食部と廃棄部とを細かく選り分け、僅かの無駄もないように慎重に刃を滑らせるのだ。
その繊細な所作が娘とは一線を画しているだけに、母は不覚にも彼女に見惚れてしまう。
『躾の厳しい家の子』
彼女は今でもその偽りの設定を信じきっているが、この場合の躾とは礼儀や言葉遣いのことではなく、
何かもっと別の意味を持っているのではないか、と彼女は思った。
この街にはなぜか魔女も使い魔も多い。
かつては巴マミがそれらを発見次第退治していたが、発生と消滅のペースに均衡がとれていない。
杏子は彼女の離脱を知って後釜に座ろうとしたが、たとえマミが存命していたとしても獲物には困らなかっただろう。
ましてグリーフシードの奪い合いになるハズがない。
ここには魔法少女にとって充分すぎるほどの敵がいるのだ。
「だいぶサマになってきたじゃんか」
結界が解かれたのを確認し、杏子が槍を収めて言った。
現れた魔女はさほど脅威ではなかったようで、彼女は息ひとつ切らせていない。
「あんたのお陰でね……」
対してさやかは余裕の笑みを浮かべてはいるものの呼吸は荒く、額にうっすらと汗をかいている。
こいつの意地を張る性格はどうにもならないのか、と杏子は思った。
「あんたの得物は直線的だし、リーチも短い。真っ直ぐ突っ込んで行くのは動きを読まれるからやめたほうがいい」
杏子は毎回のようにさやかの魔女退治に付き合った。
性質の分からない魔女はいくらでもいるが、殆どは魔法少女にとって油断さえしなければ倒せない相手ではない。
歴戦の魔法少女は自分より遥かに劣るとはいっても、さやかの強さを直接刃を交えて知っており、
彼女なら並みの魔女に遅れはとらないだろうと判断している。
それでもこうして律儀に同行しているのは、彼女がまだ戦いの呼吸に慣れていないからだ。
巴マミでさえ敗死した事実を考えれば、契約して間もない美樹さやかが単身で魔女退治に当たった場合、
彼女が信奉していた魔法少女と同じ末路を辿る可能性は否定できない。
杏子は魔女退治を通してさやかに戦い方を教えることにした。
剣など使ったことのない彼女だが、その特性は傍で見ていればある程度は分かる。
「じゃあ相手の後ろに回ればいいってこと?」
さやかは自分から教えを乞うことはしないが、彼女の助言にはきちんと耳を傾けるべきだと心得ている。
「時と場合によりけりってことさ」
幾度の戦いを経ている杏子は、不幸を撒き散らすだけのあの異形の怪物の中にも頭のきれる魔女がいて、
こちらの手を先読みして的確な行動をとることを知っている。
彼女が槍という単純な武器を多くの局面に柔軟に対応できる多節槍としても用いるのは、
一筋縄ではいかない敵とも多く交戦してきたからだ。
「それと剣を投げる時はもっと相手の動きを見てからだ。闇雲に投げたって当たらねえよ」
これに関してはさやかも危うく反論しかけた。
杏子の言っていることは尤もで、実際彼女は結界内を飛び回る使い魔に投擲した剣を一度も命中させていない。
「難しいこと言ってくれるじゃない」
簡単にできれば苦労はしない、と言いたそうにさやかは口を尖らせた。
こういう反応が来るだろうと予想していた杏子は、
「そのうちできるようになるさ」
抑揚もつけずに切り返した。
身を護る法衣を解いた2人は、人混みに紛れて夜景の中を歩いた。
このまま帰宅しても良かったがなぜか冷たい空気に心地よさを感じ、どちらからともなく公園に向かうことになる。
放任主義なのか娘を信じきっているのか、さやかの母は彼女が夜間に外出することを咎めない。
おかげで好きな時に魔女退治に出掛けることができるのだが、文字通りの死闘になることを考えれば、
正義の味方を標榜しているハズのさやかにも逡巡したくなる瞬間がある。
その背中を強引に――時に優しく――押してくれるのが杏子だった。
杏子に関しては何もかも受け容れたわけではないため、同じ屋根の下で寝食を共にはしていても、
まだどこか敵――あるいはライバル――として見ているさやかがいる。
その杏子に弱いところは見せられないという、生来の負けず嫌いな性格が刺激されるお陰で、
彼女は魔法少女として戦うことができた。
都会の喧騒から逃れるように佇むこの公園には、比較的新しいベンチと老朽化した遊具以外に目ぼしいものはない。
本来なら昼夜を問わず老若男女の憩いの場となるハズが、街の喧(かまびす)しさから離れていることに加え、
夕闇の薄暗さが寂寥感を弥増す所為で好んで近づく人は少ない。
半分は現実とは違う世界に生きる2人には、世間から隔離されたような雰囲気の漂う公園のほうが居心地がいい。
(ここか…………)
さやかは小さく息を吐いた。
杏子と戦った場所だった。
彼女の挑発に乗ってしまったのがそもそもの間違いだったが、まるで手も足も出なかった惨めな戦いの記憶が、
さやかの心をざわつかせる。
ほむらの仲裁が無かったあの戦いは、彼女にとっては生死の境といえなくもない。
気を挫くためでなく杏子が本当に殺しにかかっていたなら、さやかはとっくに脱落していただろう。
(………………)
皮肉なことに腰をおろした先もまた、彼女が横たえられたベンチだった。
涼しい顔で背もたれに体を預けながら、杏子はポケットから取り出したスナック菓子を齧っている。
繊細さと大らかさを併せ持つこの少女は、そろそろ異性の目を気にしだす年頃にさしかかっているにもかかわらず、
妙に男性的で一歩間違えば下品と蔑まれそうな恰好をする。
豪快に無遠慮に菓子を頬張る様を、さやかはジト目で眺めていた。
「食うかい?」
その視線の意味を勘違いしたらしい杏子が、乱暴に開封した内袋をさやかに差し出した。
咄嗟に断ろうとしたさやかだったが、彼女が破り捨てた切れ端をポケットに押し込むのを見て、
「じゃあ1個だけ」
おそるおそる手を伸ばして摘み取る。
動物の絵の焼印が捺されたビスケットだ。
平らなそれには裏側にひかえめな甘さのチョコレートが塗られている。
まさか杏子から食べ物を受け取る時が来るなど考えもしなかった彼女は、すぐには口に入れずに物珍しそうに菓子を眺めた。
「こういうの嫌いなのか?」
訝るように杏子に訊ねられ、
「あ、ううん、別に……お菓子けっこう食べるし」
さやかは慌ててそれを口に放り込んだ。
ミルクの味が強い生地とほのかに苦いチョコが口内で溶け合い、ひとつになる。
この調和が数回の咀嚼と嚥下を経ると、満足感のすぐ後に物足りなさを感じさせる。
杏子はその様子を微笑ましげに見つめていた。
さやかは決して気付かないが、彼女が食べ物を誰かに分け与えるのは親しみの表れだ。
飢えに苦しんだ経験のある人間は、その苦痛を忘れられないあまりに口にできる物を独占しようとする。
食欲が生の根幹であるからだ。
それでも彼女が独り占めしないのは、無意識に他人にも生きて欲しいと願っているからだ。
生きる為の糧を分与する。
これが実は極めて尊い行為であることに、杏子もさやかも気付く事はない。
「そういえば、あんたさ」
「ん?」
「それもそうだけど、普段からいろいろ食べてるよね?」
「ああ」
何かと口にしているのは自覚している彼女だが、それが貧困を味わった反動だとは思いたくなかった。
食べたいから食べる。
佐倉杏子は自己の欲望に忠実に生きると決めたハズなのだ。
「どうやって手に入れてるの?」
「………………!?」
この時のさやかの口調は聞く者を打ち震えさせる冷たさがあった。
もちろん彼女に糾弾の意図は微塵もないが、穏やかな答えは返ってこないだろうと踏んでいるために、
どうしても咎めるような調子になってしまう。
気圧されたように杏子は口を結んだ。
饒舌な彼女の沈黙に、
「言えないってことは……あんた、まさか…………」
いよいよ疑惑が確信に変わりかけ、さやかは額に汗を浮かべた。
育んできた倫理観が警告を発している。
「勝手な想像すんなっての。盗んだりなんてしてねえよ」
隣であれこれと反応するさやかに、杏子は呆れ顔で返した。
「これだってちゃんとお金だして買ってる」
そう言って空になった箱を揺する。
「じゃあお店で払ったお金はどうしたの?」
ここで止めればよいのに、さやかは追及の手を緩めない。
まるで自白を迫るように真剣な眼差しで彼女を見つめる。
視線を逸らすのを待っているのか、と思った杏子は敢えて真正面から見返した。
(だいたい考えてることは分かるけどね)
食べ物を盗んでいない代わりに、その食べ物を買うお金をどこかから盗んでいると決め付けているのだろう。
この思い込みの激しい愚直な少女に、
「あんたの思ってるようなことはしてねえって」
彼女はため息まじりにこう突き返す。
もし窃盗などの悪事に手を染めていたなら、杏子はとっくにさやかの家を飛び出していただろう。
少女とその父母の優しさに甘えるためには、後ろ暗い過去があってはならない。
「………………」
「じゃあそのお金はどこから出てくるのか、って訊きたそうな顔だな」
「うん」
美樹さやかは佐倉杏子について多くを知りたがっているようだ。
自室に寝泊りさせているからには、得体の知れない部分は可能な限り排除したい。
信頼という言葉は行き過ぎるが、せめて互いに信用くらいはしたいと彼女は考えている。
一家心中の憂き目に遭った凄惨な過去すら吐露した杏子が、普段から食べている物の入手経路ごときを今さら隠すハズがない。
その意味ではさやかは既に彼女を信じていた。
「ちゃんと説明しないとしつこそうだしな、あんた。いいよ、教えてやるよ」
杏子は駄々をこねる子どもをあやすような口調で言った。
「別に悪いことしてるわけじゃない」
「だといいけど」
「あんたはさ、魔法少女っていうとみんながみんな、魔女と戦ってると思うかい?」
説明が始まるハズが突然に質問を投げかけられ、さやかは咄嗟に答えることができなかった。
「当たり前でしょ。それが私たちの使命なんだから」
使命という恰好の良い響きがさやかは好きだった。
どこか押し付けられたような印象を受ける言葉だが、ここに人助けや正義の味方というキーワードが結びつくと
俄然やる気が出てくるのは彼女がそういう存在に憧れているからだ。
「ところがそうじゃない奴もいるのさ」
「あんたみたいに?」
さやかがしたり顔で言う。
「私は”魔女”退治はしてるっつーの」
杏子は不貞腐れたように言った。
「魔法少女の中にはね、たまに弱い奴がいるんだ。せいぜい使い魔を追っ払えるレベルのあんたみたいな奴がさ」
「な…………ッ!」
あっさりと言い返され、さやかは口ごもった。
少し前ならこれを単純に挑発と受け止め、生来の負けず嫌いな性質が出てくるところだ。
「そういう奴はまともに魔女と渡り合えない。だから手下だけを相手にする――と、どうなると思う?」
「……グリーフシードが手に入らなくなる?」
「正解。で、グリーフシードが無いといずれは魔法が使えなくなる」
杏子はそこで言葉を切った。
あまり語りたくない資金源について、打ち明けることに些か逡巡しているらしい。
「それで……?」
急かすようにさやか。
「私はね、そいつらにグリーフシードを売ってるのさ。力の弱い魔法少女ってのは、どういうワケか裕福な奴が多くてさ。
ソウルジェムの穢れはお金じゃどうにもならないからね。買いたいって注文がくるわけだ」
「それって……」
「市場なんてないから相場もない。ちょっとくらいふっかけても大体は言い値で買ってくれるんだ」
「………………」
グリーフシードを売る。
魔女退治の見返りともいえるこれを売却するのは、魔法少女として正しいのかとさやかは考えた。
規律などない。
巴マミのように他人のために戦うのも、杏子が言うように自分のためだけに魔法を使うのも個人の自由だ。
実際、キュゥべえも奇跡を齎した後は、その行動について咎めるような発言を一切していない。
極端にいえば魔法少女として”何もしなくても”罰則はない、ということになる。
勝手に使命感に突き動かされて人知れず戦い続けるよりは、人智を超越した奇跡だけを手に入れて
素知らぬ振りを決め込む方がよほど賢明な生き方である。
(人助け…………)
さやかは今でも巴マミを信奉している。
彼女自身はもちろん、その生き様――掲げていた理念――にも尊崇の念を抱いている。
だから当初は他人を犠牲にするという佐倉杏子を嫌い、憎んでいたハズだ。
(杏子も…………?)
手に入れたグリーフシードをたとえ対価を得るとはいえ、手放すのはもったいない。
話を聞いた直後のさやかはそう思っていた。
ルールに反しているとさえ感じていた。
だがその感じ方が誤りであることに気付く。
やはり佐倉杏子は利己主義者ではなかったのだ。
真に己の利益のみを追い求める人間なら、契約して奇跡を手に入れた時点で満足して終わっているハズだ。
魔法少女に魔女やその手下を倒さなければならない決まりはない。
キュゥべえがそうして欲しいと頼むこんでいるだけで、その約束を反故にしたところで叶った奇跡が
取り消されることもなければ、魔法の力を剥奪されることもない。
強制されていない戦いを挑んでいるのは、常に魔法少女のほうなのだ。
杏子は自分のためだけに魔法を使うと言い放っておきながら、魔女を狩り続けている。
グリーフシードを落とさないからという理由で使い魔が人間を襲って魔女になるまで待つ、という姿勢は
独善的な正義感の強い美樹さやかにはやはり受け容れられない。
しかしだからといって杏子が自分以外の全てを犠牲にしているかと問われれば、それは違うと彼女は答えることができる。
杏子は結果的に魔女と戦う力のない魔法少女の手助けをしている。
魔女を退治しているのだから、その魔女に殺されていたかもしれない人間を救っていることにもなる。
(無償の人助けなんてない、って言ってたっけ……)
有償でグリーフシードを譲り渡すという行為は、彼女が善意に見返りを求めているに過ぎない。
(ってことは…………)
彼女には生きる為に必要なものがある。
だから戦えない魔法少女の代わりに戦い、その対価を得ているのだ。
(見返りがあれば人を助けるってこと……)
そこまで考え至った時、さやかは残酷な思い込みをしていた自分に気付いた。
幸せな人間が陥りがちな驕りと、幸せであるが故に曇った視野が杏子に対する理解を浅くしていたのだ。
「教会が潰れちまったからさ。とにかくお金がいるんだよ」
さやかが結論を出すのを待っていたように、杏子は絶妙なタイミングで切り出した。
ごく一般の家庭に生まれ育った少女なら、住む場所にも食べるものにも困らない。
お金、という概念に縛られる理由も無い。
欲しいものはよほど高望みしない限りは手に入るし、それでもお金が欲しければお小遣いという名目で獲得できる。
この時に得られるお金は生きていくために使うのではなく、たいていは趣味や娯楽など、乱暴な言い方をすれば
必ずしも必要とはいえないものに消費される。
本やCD、カラオケなどの遊興。
生死の境を生きる者にとって、これらは悉く贅沢だ。
『中途半端な気持ちでさ、趣味の延長みたいに魔女少女やられるのってムカつくんだよね』
杏子の言葉がさやかの胸に深く突き刺さる。
(生きるために……杏子は魔法少女をやってるんだ……)
彼女が魔女を倒せなくなった時、それが死に繋がるのだとさやかは理解した。
あの禍々しい気を放つ魔女に敗れれば、マミのように死ぬ。
といって戦いを止めればグリーフシードが手に入らず、お金に交換することもできなくなって死ぬ。
生きるには――杏子は戦い続けなければならないのだ。
(こういうことだったんだ……!)
佐倉杏子は犯罪には手を染めないと言った。
超常的な力を使えば簡単にできることがある。
店から食べ物を盗むのも、証拠を残さずに銀行に押し入ることも可能だろう。
また彼女が言う裕福な魔法少女を始末して、その財産を手に入れることは魔女を退治するよりも容易い。
しかし杏子はそれをしなかった。
どこか人道的で非効率的な手段で資金を集め、それによって彼女は今日まで生き延びているのだ。
魔女を倒さなくても、魔法少女として戦わなくても安穏に生きていける自分とは違う!
そこまで考えると、さやかは自分がいかに軽率で愚かであるかを痛感させられる。
「ま、需要と供給ってやつさ。あんたも学校で――習わないか……」
杏子は自嘲気味に笑った。
この少女が斜に構えたような言動に終始しているのは、何もかも諦めているからなのか、それとも何もかも諦めていないからなのか。
さやかには分からない。
「あんたが使い魔を放置しろって言ってたのも……?」
「私の取り分が減るからさ。魔女になるまで待ってから狩ればグリーフシードを落とす。買い手はいくらでもいるからね」
分からないことばかりのさやかだったが、その言葉にウソがあることだけは瞬間的に理解できた。
「本当に?」
「何がさ?」
「取り分が減るからっていう理由。なんか違うこと考えてる気がするんだけど?」
「………………」
杏子と付き合ううちに、彼女の洞察力は鋭くなっていった。
どこまでが冗談でどこからが本気なのか掴み難い杏子という少女は、さやかにとって初めて接するタイプだ。
それだけに彼女を知りたいという好奇心が働き、それが観察眼を研ぎ澄ませる。
「あんたって結構疑り深いんだな」
杏子は笑った。
「あんたが素直に答えてくれれば疑わなくてすむんだけどね」
さやかも笑った。
「まあ、いいか。あんまり無理に聞き出すのも可哀想だし」
何かと張り合いたがる彼女は、少しでも杏子に対して優位に立とうとする。
この場は”あんたの言葉がウソであることは分かっているが、敢えて追及しないであげる”という貸しを作る恰好にしておく。
「それだと私がウソついてるみたいじゃねーか」
珍しく杏子が頬を赤らめて反駁した。
その反応にさやかは内心で勝利の栄光に酔いしれ、
「そうは言ってないけど〜?」
揶揄うようにおどけてみせる。
このとぼけた仕草は、
”杏子が犯罪に手を染めていなかったことに安堵し、同時に気高く生き続ける彼女を尊敬している”
さやかの心根を隠すには十分だった。
常に冷静沈着。
いついかなる時も機械のように冷淡に振る舞い続けるこの少女にも、稀にその仮面を剥ぎ取りたくなる瞬間がある。
残酷な現実にはもう慣れた。
思い通りにいかない展開も飽きるほど見てきた。
今さら彼女が心を乱すに値するほどの衝撃的な事実はない。
これ以上ないほどの過酷な状況を何度も何度も通り過ぎ、その度に苦痛への耐性をつけてきたのだ。
しかし彼女にも我慢できない時がある。
これまでの頑張りを無にするどころか、それを裏目に出させるような誤謬は正さなければならない。
暁美ほむら。
この少女は最善の手をとり続けてきた。
他人と同じ時間を歩みながら誰よりも有効に時間を使うことのできる彼女には、
行動を起こす前からそれが意味のあるものか否かを判断できた。
完璧なのだ。
世界を最も望むべき結果に導く力――チャンス――が彼女にはあった。
二人零和有限確定完全情報ゲームをやれば、ほむらは苦も無くプレイヤーの頂点に立てるだろう。
だが万能に等しいこの力も、自分以外の人間には十分に効果を発揮しない。
個々人が意思を持って動く限り、その思考や行動を予測するのは困難だ。
同一の状況に同一人物を立たせてみても、目の前にたったひとつの小石が落ちているだけで行動は変わる。
最善の手を尽くしているのは彼女だけで、彼女を取り巻く者たちは悉く理想と最もかけ離れた行動をとろうとする。
「あなたはこういうのが好きなのね」
私はこういうのが嫌いだ、という言葉を全く逆の表現に置換して伝える。
金属の板に乗って画面に現れる矢印に合わせてステップを踏む。
この単純な作業の何が楽しいのか、ほむらには分からない。
無機質な道標を頼りに規則性のないダンスを披露する滑稽なプレイヤーが、
獲得したところで何の価値も持たない称号やスコアを競い合っている様は憐れだ。
こんなゲームに時間やお金を費やしたところで得られるものは何もないのだ。
「ちょっとした暇つぶしさ」
高得点を叩き出した杏子はスコアランキング画面を見て満足げな笑みを浮かべた。
”KYOKO”の文字が2位に大差をつけてトップに躍り出た。
よほどのプレイヤーでなければこれを塗り替えるのは難しいだろう。
「で、今日は何の用? 作戦会議でもやるつもりかい?」
ほむらは既にワルプルギスの夜討伐の件を持ちかけている。
その際に杏子は、2人なら倒せるかもしれない、と発言したのみだったが、
幾度の時間軸で彼女を見ているほむらはそれが共闘の意思表示であると確信した。
「それはまた今度。もっと大事な話よ」
暁美ほむらは無駄話を嫌う。
有り余る時間を惜しむように必要な単語を必要なだけ並べ、短く簡潔にメッセージを送ってくる。
(………………)
ランキングに悦に入っていた杏子の顔つきが変わった。
ほむらはいつも強弱をつけずに話すが、先ほどの口調には心に突き刺さるような冷たさがあった。
「美樹さやかを私に任せてほしい」
またその話か、と杏子は思った。
何に対しても無関心な風貌のくせに、やたらと干渉したがる。
未熟な魔法少女に執心して何の得があるのか、と彼女は訝ったが、自分も大差がないことに気付きすぐに疑念を振り払う。
「前にも言ってたけど、任せるってどういう意味さ?」
魔女と渡り合えるように鍛えるのか、それとも戦いの厳しさを教えるのか。
”任せる”という言葉が多くの意味を持つことに杏子は注意を払っていた。
「あなたはこれまで独りで戦ってきたハズよ。今さら誰かに心を許すのは柄ではないと思うけど?」
無表情の彼女が言うと、いちいち挑発めいた印象を与えてしまう。
「何者だ? あんた」
イレギュラーといえばどのような不思議も合点がいく。
強大な魔女を手も触れずに倒しても、グリーフシードの予備を持たずに魔力を際限なく放出しても、
”イレギュラーだから”の一言を添えれば一応の説明がついたことにはなる。
だがこの少女はさやかにしか語っていない過去を知っているらしい。
ワルプルギスの夜襲来の時期を予言したことといい、杏子にとって彼女は全てが謎の存在だ。
「美樹さやかのことは私が対処する。あなたは今までのあなたに戻ってくれればそれでいいわ」
ほむらは他人の言葉に耳を貸さない。
用がある時にだけ現れ、自分が言いたいことだけ言って去っていく。
「対処……? それってどういう意味なんだよ。あいつに何かあるっていうのか?」
杏子は彼女が少し前からやたらと美樹さやかの名を出すことに疑問を抱いていた。
魔法少女としての経験をそこそこに積んでいる者たちからすれば、彼女はとるに足らない存在だ。
戦いにおいて未熟、献身に見返りを求めない魔法少女としては致命的な性質。
放っておいても脅威にはならない。
ただいずれ魔女になる手下まで摘み取ってしまう、グリーフシードを欲しがる競合者にとっては些か商売敵になる程度だ。
「彼女は危険よ。だから私に任せて欲しいと言っているの。私は……あなたを助けたいだけよ」
信じて欲しい、という意味の視線を向けるほむらに杏子は舌打ちした。
「何が危険だってのさ? まさか私が遅れを取るとか思ってるんじゃないよね?」
杏子はゲーム台から降りた。
やって来た2人の男が入れ替わるようにプレイを始める。
「場所変えようか」
杏子は振り返ることもしないで筐体の間を縫って歩く。
ここは騒音が過ぎる。
凛として儚げなほむらの言葉を聞き漏らしてしまうかもしれない。
テレパシーを使えば会話に支障はなくなるが、杏子はそれをしようとはしない。
声は――この暁美ほむらの口から直接聞きたい。
そう思った彼女は勝手知ったるビルの階段を登り、錆だらけの鉄扉を抉じ開けた。
頭上に広がる青空は美しいが、水平に見える景色は猥雑で景色と呼べるほどのものではない。
ゲームセンターを階下に持つこのビルがもう少し高ければ、また違った風景が拝めただろう。
「で、”美樹さやか”がどうしたって?」
皮肉を込めてフルネームで指す。
「………………」
なぜこうも思い通りにいかないのか。
ほむらはため息をついた。
誰も彼も勝手に動きたがる。
何も考えず、何も考えようとせずに自分の言葉に従ってさえくれれば彼女の理想とする未来が築けるハズなのだ。
さやかが契約してしまった事実は今さら覆しようがない。
彼女にできるのは傷がこれ以上広がらないように手を打つこと。
この時間軸での最善手はもはや取れなくなったが、立て直しはまだ可能だ。
「言い方を変えるわ。美樹さやかは私にとっても脅威になるの。私には分かる。だから――」
彼女は敢えて数秒の間をおき、
「手遅れになる前に始末する。今なら間に合うから……」
やはり冷たい口調で言った。
さやかが魔女になる瞬間をほむらは幾度となく見ている。
情の移った杏子がつまらない真似をして命を落としてしまえば、ワルプルギスの夜に対抗する戦力を失う。
それを防ぐには再び杏子を孤高の魔法少女に戻し、魔女になる前にさやかを消し去るしかない。
これはまどかを悲しませないためでもある。
誰の目にも触れないところでさやかを殺し、その亡骸をうまく処理できればまどかはきっと、
遺体が見つからないことから彼女の死をマミの末路と同じように考えるだろう。
親友の死に彼女は心を痛めるだろうが、直接悲惨な光景を目の当たりにしていない分だけ苦痛は和らぐハズだ。
だがこの目論見は既に手遅れと言えなくもない。
”始末”という言葉を聞き取った杏子は、自身が動こうと思いもしないうちに真紅のソウルジェムから槍を引き出し、
感情も表情も垣間見せない暁美ほむらの喉元にその穂先を宛がっていた。
「どういう意味だ?」
この質問も3度目だ。
ほむらは毎回明確には答えないが、問いを繰り返す毎に言葉の持つ意味の範囲は狭まってくる。
反射的に背を反らせた彼女は、瞳にほんの少しだけ驚愕の色を宿した。
「私こそ訊きたいわ。これは……何のつもり……?」
彼女は珍しく焦っていた。
感情を表に出すことを忌むべき行為と決め、その信念に従って今日まで振る舞ってきたほむらには、
佐倉杏子があり得ない行動をとっているこの瞬間は理解し難い。
「訊いてるのはこっちだ。さやかをどうするつもりなんだ?」
返答――この場合は返答の仕方――によっては突きつけられた刃が恐ろしい速度でさらに伸び、
絹のように白い肌をそれを向けている少女の瞳と同じ色に染め上げてしまうかもしれない。
(佐倉杏子……あなたは…………)
愚か者だ、とほむらは心の中で罵った。
彼女には杏子の考えがある程度分かっている。
どのような施しを受けたか、杏子はさやかに負い目のようなものを感じている。
敵でもなければ味方でもない微妙な関係から、その均衡がほむらにとって思わしくない方向に傾きかけているのを彼女は悟った。
「その通りの意味よ。美樹さやかの脅威からあなたと私を守るためには、早いうちにそれを取り除いておく必要があるわ」
杏子の激昂を覚悟でほむらは言った。
人間の情というものがいかに脆く、危険を孕んでいるかをさやかの最期を何度も見ているほむらはよく心得ている。
想いはしばしば人を強くするというが、それは稀なケースで大抵は悲劇的な結末しか生み出さない。
眼前のこの勝ち気な少女もそれは同じだ。
凄惨な過去を乗り越えて絶望せずに生き抜いてきた彼女は、さやかとの接触を繰り返した所為で鋭さに翳りを見せ始めている。
この状況は誰にとっても好ましくはない。
今に彼女は電光石火の体捌きも精彩さに欠けるほどの惨めな戦いしかできなくなるだろう。
「………………」
杏子は小さく息を吐くと槍を引いた。
「あんたにはあんたの考え方があるんだろ。それまで否定するつもりはないさ。けどな……」
「………………?」
「あんたがさやかを殺そうってんなら――」
彼女は静かに一歩踏み出した。
「――その前に私があんたをぶっ潰す」
「………………ッ!!」
彼女が叩きつけた眼光はほむらを竦み上がらせた。
これまで見たどんな凶悪な魔女よりも恐ろしい気迫が、この好戦的な少女の全身から放たれているようだった。
飄逸に生き、戦いすらも暇つぶしの一種と捉えている節さえある杏子が。
敵愾心とも殺意とも違う感情を視線に乗せ、暁美ほむらを掴んで離さない。
「あんた、前に言ってたよな。魔法少女同士が戦っても意味はないって」
「え、ええ……」
「私が意味のないことをするかどうかは――あんた次第だ」
杏子は敢えて明言を避けた。
見た目から判断できるとおりほむらは賢しい。
この程度の表現でも意図するところは通じるだろう。
「どうしてそこまで美樹さやかを……?」
ほむらの声は震えている。
佐倉杏子という少女は年齢の割には達観していて、他人との馴れ合いを嫌う性格のハズだ。
孤高という表現が似合う彼女が、誰かを庇護するなどあり得ない。
「借りができたからさ」
迷う様子もなくそう答える彼女が、ほむらにはますます分からない。
(あなたはそんな義理堅い性格ではないわ……)
彼女がワルプルギスの夜討伐に力を貸してくれそうなのは、ほむらが過度に仲間意識を持たせなかったからだ。
利害が一致したための一時的な共闘、という間柄なら杏子は話に乗ってきてくれる。
ほむらは彼女の性質を概ね理解していたつもりだったが、この時間軸ではそれは外れてしまったらしい。
「バカバカしいわ。何があったか知らないけれど、いちいち恩義を感じていては魔法少女は務まらないわよ」
早々と忘れてしまえ、という意味の言葉をほむらは重ねた。
だが彼女が心変わりを願えば願うほど、
「私の勝手だろ」
杏子は頑なにそうすることを拒もうとする。
「情に流されないで」
「流されてなんかいねえよ」
「だったら……」
「これは私の問題さ」
「………………」
2人は激しく睨み合ったが、先に視線を逸らしたのはほむらの方だった。
杏子は彼女の脇をすり抜けて鉄扉に手をかけた。
「何を焦ってるのか知らねえけどさ。あんたももうちょっと冷静になりなよ」
彼女は最後にそう言い残して階段を降りていった。
生温いビル風がほむらを嬲る。
(冷静に…………?)
その言葉をそのまま返してやりたかったほむらだが、いま彼女との仲を拗らすのは得策ではない。
「どうしてこんなことに……!」
今すぐにでも”全てを無かったこと”にしたい、と彼女は思った。
美樹さやかと佐倉杏子が絡み出すと、待ち受けているのはまどかを救えない悲劇的な結末しかない。
この時点で敗色が濃厚になってきているが、それでも挽回する手立てはないかと彼女は思考を巡らす。
杏子の力は必要だ。
ほむらの言葉をそっくり引用して言い返したように、彼女は戦いにおける強さだけでなく計算高さと知恵も持ち合わせている。
その多才ぶりは最後の夜を迎えるにあたって無くてはならない戦力となる。
しかしどうしてもさやかが邪魔になってくる。
出会い方がマズかったために、ほむらとさやかの仲は険悪だ。
仮にさやかが生き延びたとしても協力は得られない。
そうなるとやはり当初の予定通りに始末するしかないのだが、
「………………!!」
ほむらは自分が大きな過ちを犯したことに気付く。
(私は美樹さやかを殺せない……!)
ここに至るまでの手順に誤りがあったのだ。
少し考えれば分かることだった。
彼女は未来を変えようと働きかける際、しばしば警告という手段を用いる。
まだキュゥべえの存在も知らないうちから、その口車に乗るなとまどかに発したのもそのひとつだ。
誰もが抱きがちな魔法少女のメルヘンチックなイメージを生々しい表現でぶち壊し、
安易に契約しないようにさやかに釘も刺してきた。
それが期待するほどの効果を発揮しないと分かっているにも関わらず、彼女は同じ手を使い続ける。
今回はそれが裏目に出る。
彼女は杏子に、さやかを始末するつもりだと宣言してしまった。
となればどのような方法を取ろうと、美樹さやかが不審な死を遂げれば杏子は必ずほむらを疑うだろう。
確たる証拠がなくとも――あるいは確たる証拠がないからこそ――ほむらを仕掛け人と決め付けるだろう。
その後の杏子の行動は予想できない。
運命の出会いを果たした男女の如く強い情念を抱いていれば、亡きさやかの後を追うかもしれない。
仮に彼女の死に折り合いをつけたとしても、もはやほむらとの共闘関係は築けない。
(魔女になるのを何としても防ぐしかない? それとも……)
さやかがマミと同じ死に方をするよう誘導する、という方法もある。
彼女が死んでも、その死因が杏子の納得できるものであればまだ望みはある。
(………………)
いくつかのパターンを考えるも、そのどれもが事態を好転させ得る材料としては決め手に欠ける。
まどかやキュゥべえに加え、杏子とさやかも監視の対象にしなければならない状況を自ら作り出してしまったことに、
今さらながら気付いたほむらは天を仰いで長大息した。
高得点を叩き出した欣喜はどこかへ吹き飛んでしまった。
ゲームの続きをする気の失せた杏子は退屈そうに街を歩く。
(あいつはいったい何を考えてやがるんだ?)
彼女の心は落ち着かない。
意味深な発言をぶつけられたところで、動揺するなど彼女の美学がそれを許さないハズだ。
しかし相手がほむらであること、その彼女が自分の過去を知っていそうな口ぶりであったことなどが、
平静になろうとするのを妨げている。
(この町には魔法少女が多い。あいつも競争相手を減らそうとしてるのか?)
魔女とグリーフシードの関係が分かっている魔法少女たちは個々のテリトリーを持ち、
それを互いに侵さないよう暗黙のルールを敷いている。
狭い地域に魔法少女が集まれば獲物の取り合いとなる。
獲物の取り合いは即ちグリーフシードの取り合いであるから、魔法少女同士の衝突は避けられない。
そうならないように彼女たちは魔女に対しては躊躇いなく戦いを挑む一方、
同業者間では白地(あからさま)に対立することを忌むべき行為として慎んでいる。
(………………)
彼女は自分がこの町に来た時を思い出した。
有能な魔法少女の死は杏子には大きな衝撃だった。
キュゥべえからその事実を聞いた時、彼女がまず思ったのは縄張りを拡充することではなく、
巴マミが不在のこの町を誰が守るのだろうか、ということだった。
一般人には魔女はおろかその手下にさえ対抗できる力はない。
結界の中で蠢く異形の者たちは時間をかけて数を増やし、この町を覆ってしまうだろう。
それをどうにかしてやろう、という気持ちは当初の彼女には殆どなかった。
彼女が欲しいのは平和ではなく換金価値のあるグリーフシードだ。
それを容易く獲得できるなら、このチャンスを逃す手は無い。
自分は自分が欲しいモノのために戦う。
それが結果的にこの町の平和にも繋がる。
こう考えれば自分が貫き続けてきた信念には反しない!
そうやって半ば無理やり自身に言い聞かせ、彼女はこの町にやって来た。
「杏子ちゃん?」
不意に後ろから名前を呼ばれ、彼女はゆっくりと振り返った。
このどこか間の抜けたような声には聞き覚えがある。
「やっぱり杏子ちゃんだ」
馴れ馴れしい呼び方だが悪い気はしない。
互いに名前を知り合って以来、会うのはこれが初めてだが不思議と垣根を感じないのは、
この少女特有の人当たりの良さによるものだろう、と杏子は思った。
「まどか、だったよな?」
その柔和さにつられるように彼女も笑顔で答えてやる。
何事も平和的に解決したがっているように見える彼女に、警戒心を抱く必要も身構える必要もない。
「うん、あ、憶えててくれたんだ」
「あんたもだろ?」
先ほどの一件もあり、ほむらとは対照的に裏表のなさそうなまどかに杏子は好感を持った。
「あの、改めてちゃんとお礼言わなきゃと思って……」
「お礼?」
「うん、さやかちゃんと仲直りしてくれたこと」
魔女退治だけでなく毎日を生きることそのものが戦いともいえる杏子にとって、
この少女の屈託のない笑みは緊張を弛緩させるには十分すぎるものだった。
「仲直り、ってのはちょっと違うかもしれないね」
「…………? そうなの?」
「一時休戦ってとこ。お互い相容れない部分もあるしね」
「そう、なんだ……」
にこやかだったまどかの顔が曇り、杏子は苦笑した。
「そんな顔すんなって。前みたいなことには多分ならないからさ」
彼女は”魔法少女同士の衝突”に遠まわしな表現を用いた。
まどかには戦いという言葉は似合わない。
杏子はさやかとこの少女がどういう間柄にあるかを知っている。
契約していないであろうことも、さやかを常に気にかけていることも分かっている。
同時に性格もある程度掴んだ杏子は、柔らかい口調で乱暴な言葉を遣わないよう心掛けた。
ボーイッシュで物怖じしないさやかや、冷静だが非情とも思えるほむらに対してはさほど言葉に気を遣う必要はない。
だがいま目の前にいるこの娘は、強い調子で迫ればすぐに萎縮してしまいそうな儚さがある。
「よかった……」
目に見える敵意が感じられなかったことで、まどかはひとまず胸を撫で下ろす。
「あんたのお陰さ」
やたらと心配したがる少女を安心させたくなり、杏子は優しい調子で言った。
「あんたがあいつに言ったんだろ? 私と話をしろって」
その辺りの詳しい経緯は杏子には分からないが、まどかを見ていれば大体の察しはつく。
敵と見ればまず斬りかかるさやかとは違い、こちらはまず対話から解決の糸口を見つけようとするハズだ。
「うん、あのままじゃ良くないと思って」
魔法少女同士は本来は味方のハズだ、とまどかは力強く言った。
「そのお陰であいつとはある程度の和解ができたんだ。あんたには感謝してるよ」
「杏子ちゃん……」
事態が好ましい方向に転んでいるのを彼女の言葉から感じ取ったまどかは破顔した。
彼女には攻撃的なツリ目も口調も、初めて会った時に比べて”丸くなっているように”見えた。
少なくとも険悪なムードにはならない。
まして殺し合いなどという物騒な沙汰が起こらない、というだけでまどかの心は満たされている。
「――って言っても突っかかってたのは私の方だけどさ」
自嘲気味に笑う杏子に、まどかは怪訝そうな顔をした。
好戦的に見えてこの少女は、時々憂いを帯びた表情を見せる。
直情的に見えてこの少女は、時々意味深な発言をする。
だからこそ話し合いによる解決が望めるとまどかは思っていたのだが、この期に及んでなお
そうした一面を見せる杏子に彼女は重大な何事かを抱えているのだと悟った。
「あ、あのね、杏子ちゃん」
今日は偶然に道で出会ったが、彼女と話す機会はそう多くない。
まどかは今のうちに伝えるべきことを言葉にしようと思った。
「さやかちゃんはね、思い込みが激しくて意地っ張りで……けっこうすぐ他人とケンカしちゃったりするんだけど……。
でもすごく良い子なの! 優しくて勇気があって……誰かが困ってたら一番に――」
「分かってるよ」
杏子は自分でも驚くほど優しい声でそれを遮っていた。
「え…………?」
まどかは目を白黒させた。
「だいたい分かってるんだよ。あいつがそういうタイプだってのはさ」
「そ、そう……なの……?」
反駁されるものと思っていたまどかは、その言葉に呆気にとられた。
どうも自分の中の佐倉杏子とは少し違う気がする。
彼女は目の前の少女がどのような人物であるかを、白紙に戻してもう一度よく見るべきだと思った。
「さやかちゃん、この町を守りたいだけなの。正義の味方になるって……それで……」
まどかは伏し目がちに杏子を見た。
「だから、その……魔女だけじゃなくて使い魔も退治してくれると――」
語尾は弱々しく殆ど聞き取れなかったが、杏子は彼女の言わんとするところを理解した。
平和や協調を好む鹿目まどからしい言だ。
要はさやか同様、杏子にも正義の使者として魔女やその手下と戦って欲しいという懇願だ。
そうすれば蟠りも解け、共闘関係も築ける。まどかが願ったように仲直りが叶うのだ。
その意見は決して間違ってはいないが、契約すらしていない部外者の口から出たものとなると、
至極真っ当な内容であっても底の浅い理想論に成り果てる。
しかし彼女の性格をきちんと理解できている杏子は、それを理想に傾斜した意見と切り捨てたりはしない。
「普通はそう考えるよな」
杏子はため息まじりに言った。
「たしかにあの時、使い魔は放っておけって言ったけどさ。あれはあくまであいつに対して言ったものなんだよ」
「…………?」
まどかは首を傾げた。
ほむらほどではないが、杏子も時に一度聞いただけではその意味を理解できない発言をする。
「どういうこと?」
「あいつは魔法少女になったばかりのヒヨッ子だ。戦い方だってまるでなっちゃいない。
実際、あの時もザコ相手に当たりもしねえのに派手な技使ってたしね」
まどかは曖昧に頷いた。
言っていることは分かる。
さやかを簡単に降した結果からして、この佐倉杏子という少女が相当な場数を踏んでいることは容易に想像がつく。
「そんな奴が律儀に使い魔を相手にしてりゃすぐに魔法が使えなくなっちまう。あいつらはグリーフシードを持ってないからね」
「杏子ちゃん……?」
「だからバカな真似はやめろって教えてやろうとしたんだよ。肝心の魔女との戦いで力が使えなくちゃ意味が無いだろ?」
まどかの視線が小刻みに左右に揺れた。
言い分はよく分かるが、それ以上に分からない部分がある。
「戦い慣れしてない奴はグリーフシードを落とす魔女だけを狙ってりゃいいのさ」
そう言い切る彼女にまどかは戸惑いを隠せない。
第一の印象とまるで違う。
公園での一件で既に杏子の持つ優しさには気付いていたつもりだったが、
紡がれる言葉の連続がまどかの彼女に対する想いを大きく変えた。
(杏子ちゃんってやっぱり……!)
抱いた疑念が希望的観測に変わり、間もなく確信に転じるのを彼女は感じた。
「でもそれじゃ使い魔をやっつけられないよ」
まどかは描いた杏子像が現実と一致するかを確認するように、無意識にそう投げかけていた。
「連中は私が引き受けるさ」
それに対し彼女は真顔で応えた。
(………………)
まどかの中で全てが一本の線として繋がった。
佐倉杏子がどのような人物であるのか、拙いながらも推理と想像を重ねた結果がここにある。
「そのこと、さやかちゃんにも言ってあげて」
もし杏子が初めて戦ったあの時、今と全く同じことを語っていればあのような衝突は避けられたかもしれない。
さやかが彼女の言動を悪意や挑発として受け止めずに済んだかもしれない。
いくつかの見解の相違についても平和的に話し合いで解決できていたかもしれない。
やはりまどかの中では佐倉杏子と美樹さやかは似ていた。
優しく勇気があるハズなのに、他人とケンカをしてしまうのは――。
彼女の眩しいくらいの優しさがあまりに遠回りすぎて相手に正しく伝わらないからだ、とまどかは思った。
好戦的な性格と乱暴な物言いが邪魔をしているだけで、その優しさはどれもが注意深くさえなれば
誰の目にも見えるものだったのだ。
「言ったってムダさ。あいつはそれで納得するような奴じゃない」
杏子はかぶりを振った。
諦めているような口調は理解の裏返し。
つまり彼女はそこまで美樹さやかの性質を理解しているということになる。
「どうしてそこまで…………?」
まどかが何気なく呟いた疑問には、本人も気付いていない様々な想いが混じっていた。
「何となく放っておけねえから、って感じかな」
杏子はその中の最も表面的な問いに答えることにした。
「この町に来る前にキュゥべえからいろいろ聞いててさ。新任の魔法少女がどんな奴かって」
決してリサーチのつもりではない、と彼女は付け加えた。
「だからどういう経緯で契約したかも知ってたんだ」
上条恭介――。
杏子はこの名前に興味を持たない。
将来を有望視されている若きヴァイオリニストという触れ込みは、羨望の的であると同時に
その評判を鼻にかける嫌味な好青年というイメージを抱かせる。
彼女がキュゥべえから得た情報は、この不遇の少年に想いを抱く少女が彼の怪我を治すことと引き換えに、
巴マミの後任として魔法少女になった、というものだった。
「あいつと契約する奴はみんな、自分のために奇跡を使うんだ。大金持ちになりたいとか、モデルになりたいとか」
努力をすれば叶いそうな夢、努力をしても叶わないであろう夢。
目的に到達する道程は人それぞれに異なるが、共通しているのはその対象が自分自身に固定されている事だ。
誰かを大金持ちにしたい、誰かをモデルにしてやりたい。
そうした究極の自己犠牲の精神は全てに恵まれているか、無欲な人間でなければ育たない。
「杏子ちゃんも……そうなの……?」
言い終わる前にまどかは質問したことを悔いた。
人には人の、送ってきた人生がある。
デリケートな問題に無粋な訊ね方をしてしまった彼女は慌ててそれを撤回しようとしたが、
杏子がふと見せた物憂げな表情に魅せられ言葉を失ってしまった。
「さあ、ね」
それに対してこの少女は不機嫌になるでもなく、どうにでも解釈できる返し方をした。
その口調の不自然さがまどかに懐疑の念を抱かせる。
彼女は他人の心の機微によく気がつく。
細部に至るまで頭が回るというわけではなく、生まれ持って備わっている直感のようなものだ。
その稟性が佐倉杏子は利己的ではないと告げている。
”何となく放っておけないから”
自己の利益に忠実な者ならたとえウソでもこのような発言をするハズがない。
何かとさやかを気にかけている言動も相俟って、まどかにとって彼女は今や掴みどころのない強い味方になりつつある。
「杏子ちゃんは違うんだね……?」
知らず彼女はそう呟いていた。
違う、とはもちろん契約時に願った奇跡の種類だ。
「………………」
不安げに、しかし確信を抱いているような眼差しに杏子はふいっと他所を向いた。
「あいつを見てると昔の自分を見ているような気がするんだよ」
「…………?」
もはや疑問に思う必要は無い。
持って回った言い方だが、それだけでまどかにはある程度が分かってきた。
彼女への理解は憶測の範疇を出ないが、これまでの触れ合いから足りない部分を補うことは可能だ。
「それでちょっとムカついてたってのもあるけどね」
遠い過去を思い出すように、杏子は目を細くして笑った。
「あの、ごめんね、杏子ちゃん」
「……? なんで謝るのさ?」
小さな体をさらに小さくしたまどかに、彼女は呆れた口調で問うた。
「わたし、杏子ちゃんのコト何も知らないのに勝手なことばかり言って……」
この少女は芯は強い癖にいつも卑屈に見える。
自己をはっきりと主張したかと思えば、次の瞬間には気圧されたように体を縮こまらせる。
杏子にとっては心安らぐと同時に調子を狂わされる、扱いの難しい相手だ。
「いいんじゃねえの、それで」
「えっ……?」
「人間ってのは往々にして自分勝手なモンさ。もちろん私もね」
飄々としている彼女が言うと後味の悪い自虐には聞こえない。
佐倉杏子は人間という生き物がどういうものであるのか、世間はどういうものであるのかを彼女なりに定義している。
その括りが狭いものではなく柔軟性を伴った広義の解釈を基としているため、自分を卑下しがちなまどかに対しても、
特に熟考せずともこのような返しが自然にできる。
「そう、なのかな……」
「あんまり難しく考える必要はねえよ。別に悪いことじゃないんだ。あんたはあんたのままでいればいいさ」
いちいち投げかけられた言葉を真摯に受け止め、それを十分に理解できるまで咀嚼するまどかを見て、
杏子は彼女を親友に持つさやかを羨ましく思った。
「食うかい?」
生き方の違いが理解の遅速を生み出すことを心得ている杏子は、ひとまず彼女の思考を止めてやることにした。
いま考えて分かることではない。
人間が自分勝手かどうかは、実際に自分勝手な人間に触れなければ理解できないだろう。
「あ、ありがとう」
差し出されたチョコレートをまどかはおずおずと受け取った。
(魔法少女になったワケでもないのに、こういうことに片足突っ込んでるのってどうなんだろうな……)
ふと杏子は思った。
世の中には知らない方が良いことが沢山ある。
もう少し絞り込むなら知ってはならないことだ。
例えば敬虔な信者に独自の説法をしたばかりに家族を困窮させた父親が、
その苦境を打破するために娘が奇跡を起こした事実などは決して知ってはならないことだった。
(………………)
魔女の口づけによって命を絶ちかけた人間を、杏子は何度も見てきた。
彼らはお節介な魔法少女の活躍によって危殆から逃れたが、揃ってその時の記憶を失う。
つまり一般人には魔女や魔法少女の存在は認知できないのだ。
結界というものがあるように、両者の住む世界は厳格に区別されている。
その境にあって不安定な足場に踏み留まっているのが鹿目まどかだ。
彼女は今、どちらの世界の住人でもない。
本来なら知る必要のないことを彼女は知ってしまっているのだ。
(大丈夫なのか……?)
その中途半端な立場が、何か良くない結果を引き起こすのではないか。
杏子はなぜかその点が気になった。
「どうしたの……?」
難しい顔をする杏子に、まどかは訝るように問う。
「ああ、いや、別に……」
杏子が抱いた漠然とした不安は、本人にもその正体が分からぬうちに濃霧の向こうに消えた。
重ねた夕餉は、佐倉杏子が美樹家の一員であることに何の疑いも抱かせない。
父母の前では借りてきた猫のように大人しかった彼女も、共に同じ時間を過ごすうちに次第に垣根が取り払われ、
作ったものではなく自然と笑みを浮かべるようになった。
「杏子ちゃんは好き嫌いがないんだね」
黒豆を摘みながら父が感心したように言う。
「なんでも食べてくれて私も嬉しいわ」
それに追従するように樺太柳葉魚を食べ終えた母も言葉を添える。
厳格な家の出と聞かされていた杏子が意外にも気さくに接してくれることに緊張が解けたのか、
初日こそ豪勢だった夕食もわずか2日で見栄を張る前の無難な品書きに戻った。
さやかとしてはこの急激な凋落ぶりは喜ばしいものだった。
まだ完全に打ち解けたわけではない杏子が隣席に座っていることに加え、食べ慣れず作法にも気を遣わざるを得ない
食事は肩が凝るばかりで味を楽しむ余裕がない。
何より母も父も、杏子に対して白地(あからさま)に線を引かなくなったのはさやかにとっても有難い変化だった。
「どれもとても美味しいですから」
もはや演じる必要はなかった。
誰かと同じ場所で同じものを食する。
その幸せを存分に享受できる喜びを、彼女はただ素直に言葉にしただけだ。
(………………)
しかしこの感覚は杏子に無上の幸福感を齎すばかりではなかった。
この世の全ては均衡がとれている。
育った樹木が切り取られ、どことも知らない家屋の一部になり、あるいは燃料にされ、あるいは使い捨てられる紙の一部になるように。
あらゆるものはそれが人間の目に見えるか見えないかに関係なく、姿形を変えて世界を巡っている。
無限のものはない。何もかもが有限なのだ。
温かい味噌汁が喉を潤すたびに抱く罪悪感がある。
刻まれた山菜が自分の体の一部となるたびに広がる痛みがある。
「おかわりいっぱいあるから遠慮なく言ってね」
母は満面の笑みを浮かべて言う。
この女性は赤の他人が家に上がりこんでも厭な顔ひとつしない。
娘の顔を立てているのもあるかもしれないが、彼女は杏子に対して過度の気遣いをすることもなければ、
見返りを求めるような無粋な真似もしない。
居候の期限さえ設けようとはせず、設定上あるべき杏子宅に連絡をしようともしない。
その理由を彼女は、
『杏子ちゃんにもいろいろと事情があるでしょう。私たちからお家に連絡する事は絶対にないから安心してね』
と説明した。
杏子には分からなかった。
自分にとって都合の良いものは無条件に受け容れ、厄介事と分かると掌を返すように冷徹になる。
彼女の周りにはそんな人間しかいなかった。
知っている中で唯一そうでなかったのは、今は亡き父くらいだ。
さやかも彼女の両親も、杏子にはどこか神々しく見えた。
無償の人助けなどこの世には存在しない。
彼女は今でもそう思っているが、世の中――意外にも自分のすぐ近く――には例外もあるのかもしれない、とも考えはじめた。
同時に向けられる優しさが杏子にとっては温かくもあり、痛くもあった。
相手の都合も考えず身勝手な祈りを捧げたせいで家族を狂わせ、その罪もロクに償えずに自業自得だと開き直り、
今もこうして生きている自分には、誰かに優しく接してもらえる資格などない。
(それに…………)
彼女は必要のない戦いを誘い、さやかを2度も傷つけた。
もし母がその事実を知れば、杏子を強く憎むだろう。
思いつく限りの罵詈讒謗を並べ立て、ただちに追い出すに違いない。
かつて自分の父が悪鬼の形相で叩きつけた言葉――”人の心を惑わす魔女め”――が聞こえ、彼女は身震いした。
(卑怯だよな、私って……)
己の不幸のみをさやかに語り、己の蛮行を彼女の母に打ち明けないで家に上がりこむのは、つまり騙しているのと同義だ。
母の慈悲に甘えているのではなく、彼女の優しさを利用しているのだと杏子は思い至る。
(あんたの大事な娘に怪我をさせたのは私なんだよ?)
こうして夕餉に与っている瞬間すら、彼女にとっては望外の幸福だ。
そう考えると、自分はここにいるべきではない。
散々に罪を重ねてきた自分が、今また罪を重ねながらなお暖かい場所で享楽に耽っている。
そこに思い至った杏子は、美樹家に馴染むことがそもそも間違いなのではないかと考え始める。
”他人の幸せを願うのは、それ自体が自分の満足につながるから”
この考え方は今も変わってはいない。
しかし持論に強いこだわりを抱こうとすると、まずさやかや彼女の両親を思い浮かべてしまい早くも論理に破綻をきたす。
彼女たちが自分を庇護することに何かメリットがあるだろうか。
特にさやかは自分を強く憎んでいたハズだ。
魔法少女同士の命の奪い合いともいえる戦いを繰り広げた相手を、そう易々と信用できるハズがない。
寝込みを襲われる危険に目を瞑ってまで、同じ部屋で一夜を明かせるハズがない。
彼女には美樹さやかが分からなかった。
見返りを求めない、無償の愛があることを自分を通じて証明したかったのか。
杏子には分からない。
ただひとつハッキリしたのは、自分が救いや庇護を欲しがっていた、という事実だ。
夕暮れの教会で過去を倩(つらつら)と語ったのも、さやかに他者を思い遣る愚かさを教えたかったのではなく、
それを打ち明けることで寧ろ自分自身に変化が起こるのを期待していたのだと気付く。
(私は幸せになっちゃいけないんだ……!)
単なる自虐ではない。
彼女が自分勝手に祈ったことによる代償は、彼女以外の人間がこの世からの消滅という形で支払ってしまった。
孤独はその副作用であって結果でしかない。
父を狂わせたのも、家族を死に追いやったのも自分だ!
幾百、幾千の信者の心を操り、敬虔な祈りを捧げにやって来た彼らの神聖な行いを愚弄したのも自分だ!
(私は罪を重ねすぎた…………)
だから誰にも干渉せず、誰にも干渉されずに生きていこうと決めたハズだ。
それをたったひとりの少女に揺さぶられ厚意に甘んじてしまったのは、まだその覚悟が足りなかったからだ、と杏子は思った。
難しいことを考えていたせいで、彼女は皿の底が見えていることに漸く気付いた。
「はい、ごちそうさまでした」
父が満足そうに腹をさすった。
「ちょっと足りなかったかしら?」
杏子の表情が僅かに硬くなっている理由を勘違いした母は申し訳無さそうに言う。
「とんでもないです! 私ももうお腹がいっぱいで……」
いっぱいなのは腹ではなく胸であるが、杏子はそうした心情の変化をなるべく顔に出さないように努めてきた。
それでもこうして何事か勘付かれてしまうのは、彼女から鋭利さがいくらか抜け落ちてしまっているからかもしれない。
これ以上、何も悟られないように杏子は両手を組んで静かに目を閉じた。
「この食事の恵みに感謝します。慈しみを忘れず体と心の糧となり――」
彼女は神に祈ったのではない。
この世界を取り巻く自然に祈ったのだ。
(熱心な娘だよなあ)
自分の周りにはいないタイプに、父はただただ感動した。
母はその祈りの邪魔にならないよう、微細な音すら立てないように気を配った。
その傍ら――。
「………………」
家出娘の顔に差した翳りを、さやかは見逃さなかった。
・
・
・
・
・
桃色の生地に黄土色の鐘が刺繍された寝巻きは、いつの間にか杏子のものになっていた。
母が買ってきたものだがサイズを間違え、娘の体よりひと回り大きなそれはさやかには着心地が良くない。
もう少しすれば丁度よい体格になるからとクローゼットの奥にしまいこんでいたこれは、杏子の体格にはよく馴染むようだ。
「あのシャンプー、いい匂いがするんだな」
髪を撫でながら杏子が言う。
彼女の長髪は美樹さやかが欲しくても手に入らないものだ。
凛々しく、しなやかで、艶めかしく、優雅で、したがって美しいシルエット。
現代ではおよそスタイルの一部以外に意味を持たない髪は、軽く掻き揚げるだけで仄かなローズの馨りを運ぶ。
「うん、私のお気に入りなんだ」
想いを寄せる幼馴染みに少しでも自分に興味を持って欲しい。
さやかは年頃の少女が気を遣っている事柄をあれこれと調べた。
殆どは雑誌から得た知識だが、その中にシャンプーやリンスに対するこだわりは女子ばかりでなく、
意外なことに男子も持っているという記事があった。
容姿などの外見に関係なく、一定の効果を得られる馨りの力は強い。
まどかや仁美に比べて女の子っぽさ――もちろんさやかが考える女性らしさ――の足りない自分が、
異性を惹きつける要素を獲得できるとすれば、商品に頼った心理学的な効果くらいしかない。
その効き目は十分なハズだ。
何故なら――。
「………………」
あの転校生のような所作を見せる杏子とそれによって流れてきた馨りに、本来なら仕掛け人となるべきさやかが
激しい動悸に襲われているからだ。
「ん? どうしたんだ?」
小刻みに揺れる視線の意味に気付いているのかいないのか、杏子は間延びした声で問うた。
「い、いや、別に……」
さやかは慌てて背中を向けた。
(なんでこんな奴にドキドキしてんのよ……!!)
抱きかけた感情を必死に否定する。
ここにいるのは恭介ではない。
もし鼓動が早鐘を打つのであれば、それは恋慕ではなく憧憬によるものだ。
さやかはそう自分に言い聞かせ、おもむろに振り向く。
(………………?)
違和感があった。
空気が重い。
この狭い空間には殺し合いをする相手はいない。
目の前にいるのは佐倉杏子という少女だ。
しかし彼女が発する気のようなものは、優しくてまだどこか刃のような鋭さがある。
何かがおかしい、とさやかは以前から感じ取っていた。
得体の知れない恐怖に似た感覚は、決まって杏子といる時に襲ってくる。
「あんたさ――」
さやかが言いかけた時、彼女は既にベッドに上がっていた。
「あんたにはいろいろ世話になったな」
頭の後ろで手を組み、ぼんやりと天井を見つめながら杏子が呟く。
「な、なによ急に……らしくないじゃない」
他人に弱みを見せることを嫌う風の杏子が、柄にもない発言をしたことでさやかの心が些か揺れる。
「別に…………」
やはり杏子の顔は暗い。
「――って、ちょっと……!?」
その憂いを帯びた表情を浮かべるのは早すぎた。
就寝の直前なら見られずに済んだ物憂げな顔も、蛍光灯から煌々と降り注ぐ白い輪の中では
意識しなくとも視界に飛び込んでくる。
”世話になった”
この微妙な言い回しに遅れて気付いたさやかは、思わず声を張り上げていた。
「なに言い出すのよ?」
平和の中に生きてきた美樹さやかも、時には杏子に負けないくらいの鋭い視線を向けることができる。
だがこれは過酷な現実を生き抜いてきた彼女に対しては何ら意味を成さない。
威圧にもならなければ脅威にもならない睥睨は、杏子の口を重くするだけの効果しか齎さなかった。
「ねえ、杏子」
仕方なく手段を変えることにする。
名前で呼ぶ理由は、自分にとって相手が独立した特別な存在であると認識させることにある。
二人称代名詞は無数にあるが、そのどれもが相手を一個人として尊重しない。
卑俗な呼び方は垣根を作るだけだ。
「なんか難しいこと考えてるんじゃないの?」
反対側からベッドに上がりこんださやかは、彼女に倣って天井を見上げた。
「何も考えちゃいねえよ」
「またそうやってウソつく」
「ウソなんか――!」
「じゃあなんでそんな顔してんのよ?」
さやかは視線を動かさずに言った。
「………………」
美樹さやかは愚直で愚昧で己の信念に忠実な、ただの人間としても魔法少女としても不器用な娘だ。
杏子はそう思っていたが、この見方は誤りだったようだ。
「なに悩んでるのよ?」
さやかは言葉を変えて真意を探り出そうとする。
こういう時の彼女の声質は、聞く者を包み込むような柔らかさがある。
実際、それに当てられて杏子も危うく想いを口にしそうになる。
「あんた、さ――」
呼称はもう元に戻っていた。
「今さら私に隠し事なんてするつもりじゃないわよね?」
追及の意味も込めたこの問いは、冷静にものを見る者からすれば滑稽極まりない。
「分かるのよ。あんたが何か考えてるの」
しかしその内容までは分からない。
だから教えて欲しい、とさやかは迫った。
「前から様子がおかしかったから」
言ってからさやかはその言葉こそがおかしいと気付く。
杏子と知り合って経た時間は、彼女が生きてきた中の僅かにも満たない。
変化に気付けるほどの付き合いは重ねていないハズだ。
「あんたってやっぱり疑り深い奴なんだな」
諦めたように杏子が長大息した。
肯定も否定もしない卑怯な返し方に、さやかは自分の考えが間違いでないと確信した。
「あんたの親御さんが作ってくれた料理、すごく旨かったよ」
「…………?」
「それにこうやって柔らかいベッドで安心して寝られるのも――私にとっちゃ贅沢な話さ」
突然に語りだす杏子に、さやかは神経を鋭敏にした。
殆ど独白に近い呟きには、いつも杏子の心情が見え隠れする。
さやかはそれを聞き漏らすまいと身を乗り出した。
「前に言っただろ? 私がやったこと」
「うん……」
「勝手な祈りのせいで親父が狂っちまって……私を残して心中して……それだけじゃねえ。
今にして思えば信者たちまで騙してたことになるんだ。何の罪もない信者たちをさ……」
宗教に関してはさやかの理解の及ぶところではない。
大抵のものに満たされていた彼女にはこれまで信仰の対象となるものはなかったし、
恭介の手に奇跡を願った時も漠然とした神仏の類に形だけ縋ったに過ぎない。
「何もかも私の所為だって分かってるんだ。家族に先立たれたのもその報いだと思えば割り切れるし」
諦念の情が伝わってくるその口調が、さやかの耳を通して痛みを伝えてくる。
(何が”割り切れる”よ! 強がってるのが嫌っていうくらいに分かるのよ!)
ウソを吐くなと罵りたかったさやかは、出かかった言葉を押し留めた。
「私が殺したようなもんなんだよ。親父も、お袋も、妹も。私が魔法少女だって知られてなければ……。
そうじゃない! そもそもあいつと契約しなけりゃ少なくともあんな事にはならなかったハズなんだ」
物事に対する解釈の仕方は星の数ほどある。
杏子はその中で最も自分を責める考え方に拘泥ってしまっている。
何かと自業自得と言いたがる彼女が、このような結論を出すのは当然だった。
「私があんな奇跡を願った所為で家族を殺しちまったんだ。信者たちを裏切っちまったんだ。
なのに、さ。私はこうやって他人に甘えて生きてるんだ……。おかしい話なんだよ、こんなのは――」
「あんた…………」
この思考の構造はさやかにも共感できた。
自分より不幸な者を見ると、幸せを感じる事に後ろめたさを覚えてしまう。
満腹になる度に、世界のどこかでは戦争の惨禍に巻き込まれ、飢えと戦っている子どもがいるという事実に苛まれる。
音楽を聴く度に、聴覚を失った人々がいるという事実が心を掻き乱す。
映画を観る度に、盲目となった人々が光を求めているという事実に心を痛める。
これらは恵まれている者だけに受けることを許された贅沢な苦痛だ。
「罪を犯した人間ってのはね、その罪の度合いに応じて報いを受けなくちゃならねえんだ」
さやかは曖昧に頷いた。
彼女はごく一般的な地獄という概念をイメージしたが、杏子が語るそれはもっと限定的な、深い意味を持つ単語だ。
しかし特定の宗教観を持たないさやかにはこれを咀嚼する必要はない。
希望と絶望、幸と不幸が差し引きゼロであるという杏子からのメッセージをしっかりと覚えているなら、
ハデスやゲヘナについての知識の習得は今さら不要だ。
「だから、さ。私は幸せになっちゃいけないんだよ。家族を殺して信者を騙して、その償いも何ひとつしてできてない。
そんな奴が……生きてるだけでも奇跡なんだ。本当は……死んででも償わなくちゃならねえのに、さ……」
杏子には似合わない悲痛な声が、静かな部屋をぐるぐると巡った。
彼女はウソつきだ。
全てを自業自得と諦めているなら、なぜこんな話を自分にするのか。
割り切って生きているというのなら、なぜそんなに哀しそうな顔をするのか。
さやかは杏子が可哀想になった。
同時に彼女が呟いた、”世話になった”の意味がようやく分かってくる。
このまま自分が何も言わず、ただ聞き役に徹していたら……。
彼女は何らかの理由をつけてこの家を出て行ってしまうに違いない!
利己的に生きているように見せて、誰よりも自己の責任に重みを感じているこの少女には――。
御威光(みいつ)に縋る信者のように、その自責を逸らすための支えが必要だ。
「私は――」
さやかは言った。
「あんたは幸せになるべきだと思う」
真っ向からの反論だ。
彼女は神父にはなれない。
教典に触れたこともなければ、一度として信仰した記憶もない彼女には神の教えを広げることはおろか、
たったひとりの生き方を導くための気の利いた言葉も思い浮かばない。
だからこうして乏しい語彙から、支えになれるだけの語句を引っ張り出す。
「っていうか、これ以上不幸になるべきじゃない」
杏子は驚いたようにさやかを見た。
その所作に手応えを感じた彼女は、
「出て行くつもりだったんでしょ?」
遂にストレートに疑問をぶつける。
「あんたに――あんたたちにこれ以上、手間かけさせるわけにはいかねえよ」
杏子もそれに真っ直ぐに答えた。
「私はもう十分すぎるくらいにしてもらった。もったいないくらいにね」
「なんで? なんでそう思うのよ? もったいないとか十分だとか、そんなものじゃないでしょ?」
「私は――」
彼女はほんの数日前まで矜持としていた潔さを取り戻した。
「あんたを2度も傷つけた。それだけでも重過ぎる罪なんだよ」
さやかは眉を顰めた。
これは思い出したくもない、苦々しい敗北の記憶だ。
キュゥべえはその原因を経験の差と説明したが、彼女はそれに納得したわけではない。
負けても仕方がない、という生温い励ましを”勝ち目がない”という言葉に置き換えてしまい、
さやかは心中が穏やかではなかった。
彼女にとって魔法少女同士の戦いに於ける敗北は、即ち主義の敗北だ。
綺麗ごとを並び立てることができたとしても、結局は勝者があらゆる権利を獲得できる世界では、
持論を正しいと証明するためには戦いに勝つしかない。
その意味での悔しさは、さやかは今も抱いている。
「もっと重い罪はね、それをあんたの親御さんに黙ってることさ」
罪咎はそれを告白するだけで軽くなるが、逆に黙っていれば重くなる。
「自分の娘を2度も殺そうとした奴を住まわせてるんだ……分かるだろ?
私はこの家にいるべきじゃない。いる資格さえないんだよ…………」
「分からないわよ、そんなの」
滾る双眸が杏子を捉えた。
「あんたを連れて来たのは私の勝手。だから出て行きたいって言うんなら私は止めない。でもね――」
直情的なさやかにしては珍しく、効果的なタイミングで言葉を切った。
「そんな理由で出て行くのは許さないから」
この少女は我が強いうえに思い込みが激しい。
その性格のお陰で言いたいことを言う時には、相手の心情などお構い無しに押さえつけるような口調になる。
「あんたに負けたのは……今でも癪だけどさ。でも私は恨んだりしてないよ」
「――なんでだよ?」
「…………」
「あんたもまどかって奴も、なんでそうなんだよ……?」
人間は害を加えられた時、害を加えた者を憎悪する。
そのくせ人間は時に施しを受けた相手にその恩を仇で返すことがある。
杏子には彼女たちの心根は理解し難い。
向けられた善意にもまだどこか企みがあるのではないかと邪推してしまう自分が、彼女は堪らなく厭だった。
「あんたが悪い奴じゃないから」
さやかは答えになっていない答え方をした。
「なんだよそれ……?」
「口で”殺す”なんて言ってる奴ほど、本当はそうしないからね」
杏子は聞こえないように舌打ちした。
「あんたはいつだって私を殺せる。でもそうしない。だからあんたは悪い奴じゃないってことよ」
「意味分かんねえよ、そんなの。っていうか答えになってねえ」
杏子は面白くなかった。
会話の主導権を握られているようでスッキリしない。
「あんたは無理し過ぎなのよ」
この何気ない一言は杏子の心を深く抉る。
世の流れや摂理に身を任せて生きようとしている少女を、さやかは部分的にだが否定したのだ。
「いろいろ考えてたんだ」
「なにをだよ?」
「あんたが言ってたこと」
「…………?」
間の取り方、言葉の投げかけ方などがほむらに似ている。
杏子は心がざわついているのを感じたが、暫らくは彼女の作る流れに乗ることにした。
「あんたさ、開き直って好き勝手やればいいって言ったよね。自分のためだけに生きればいいって」
「あ、ああ…………」
彼女は英邁だ。
たとえいくらか感情が昂ぶっていたとしても、その時に自身が何を発言したかをしっかりと覚えている。
「最初は利己的な奴だって思ってた」
杏子は深く息を吸い込んだ。
”利己主義”
このワードは彼女にとって特別な意味を持つ。
本来ならこれは最も忌むべき考え方であったハズだ。
彼女が父親の掲げた思想を否定していない限り、利己的に生きるのは彼女自身の信念に反する。
さやかは杏子自身よりも先にその矛盾に気付いていた。
過去を語るこの少女が、亡き父親を一度として批判しなかったこと。
愛する父に魔女と罵られてもなお、恨み言のひとつも漏らさなかったこと。
その理由を解き明かそうとするのは、難解な事柄を考えるのが苦手なさやかには険しい道程だった。
佐倉杏子という人物は過酷な人生を歩んできた分、恐ろしいほどに達観している。
付け焼刃の理論では陳腐な理想論と成り果て、彼女に巧みに躱す余地を残してしまう。
「でも違うんだって……ほんとはそうじゃないんだって分かったんだ」
知った風な口を利かれると、つい反発したくなる。
杏子は出掛かった言葉を呑みこんだ。
「好き勝手に生きるっていうのは自分のためじゃなくて、ほんとは他人のためなんでしょ?」
さやかも杏子も言葉遊びを嗜むような性格ではない。
できるなら直截簡明な表現で虚飾を排した言い回しを用いたいさやかだったが、
荒んだ彼女の心を一度裸出させ、それを包容するにはいくらか婉曲な言い方をせざるを得ない。
「他人の為に祈ったことが仇になったから、あんたはそうやって突っ張って生きようとしてるだけ。
あんたが自分勝手にやりたがってるのは、他人を不幸にしないためでしょ? 自分のためじゃなくて」
彼女の口調は凛としていて、すぐ傍で聞く者の心を強く揺さぶる。
「杏子……あんたは――」
「………………」
「自分さえ良ければいいなんて考えてないし、他人がどうなっても構わないなんて考え方もしてない。
もう誰も不幸にしたくなくて……それで仕方なく”そういう生き方”をしてるんじゃないの?」
新鮮味に欠ける推察だった。
これに近い考えを彼女は一度教会で披露しているし、この考え方にある程度の自信を持っているからこそ、
家に招き入れることもできた。
さやかにとってはただの確認作業以上の意味はないハズだが、このタイミングで杏子を動揺させることには大きな意義がある。
杏子はこれには答えない。
図星を突かれた腹立たしさはないが、かといって素直に認めてしまうと同情を誘う恰好になってしまう。
「あんたが出て行ったら私は不幸になる」
さやかは抑揚をつけずに言った。
「私だけじゃない。お母さんもお父さんも、あんたのコト気に入ってる」
照明が肉眼では確認できないほどの速さで2度瞬いた。
「そんなワケの分からない理由で出て行かれたらスッキリしないよ」
「なんであんたは――」
「幸せになるべきじゃない、とか言うから」
「………………」
杏子は仰向けのまま、視線だけをさやかに向けた。
「希望と絶望は差し引きゼロ。だったら幸せと不幸も同じだよね?」
「――そうだろうな」
無視し続けることに気が引けたのか、彼女はずいぶんと間を置いて同意する。
「あんたはどう? 今日までの自分は幸せだったと思う?」
突然、さやかの口調が変わった。
突き放したような冷たさも追及するような厳しさもない。
質問の内容が彼女の考える核心に迫ったものとなり、包み込むような声色が杏子に率直な返答を促す。
「幸せだったとは思えねえな」
杏子は期待に応えた。
その回答にさやかは安堵した。
何かと突っ張りたがる杏子は、こういう質問にさえ斜に構えた答え方をしかねない。
「だったらこれから幸せになるべきだよ」
「………………!?」
「あんたはもう十分苦しい想いしてる。食べる物も無いくらいに困って、魔法少女になって……。
魔女と戦わなくちゃならないのに、今度はそれが仇になって家族に死なれてさ…………。
そんなにつらい想いしてるのに。そんなあんたがなんで幸せになっちゃいけないのよ?」
視界がぼやけたが、さやかはそれは疲れているからだと思った。
「親がいて家があって、食べる物もあって……何不自由なく暮らしてる人間もいるのに。
あんたばっかり不幸を背負い込んでる。だったら後は幸せになることを考えるのが当然でしょ?」
杏子は拳を握り締めた。
耳に心地の良い言葉が並んだが、彼女はまだそれを受け容れられるだけの甘え方を知らない。
愚かなまでに自己の責任の重みを抱え込もうとするこの少女は、
「あんたの言うことは分かる。そういう考え方があることも理解できる。でもさ――」
今にも泣きそうな顔で、
「私はまだ何の償いもできてないんだ。そんな奴が人並みに幸せを求めちゃいけないのさ」
信念に忠実であろうとし続けた。
「いい加減、自分を責めるのやめなさいよ!」
上体を起こしたさやかはキッと杏子を睨みつけた。
「誰だって幸せになる権利はあるでしょ? あんたは自分の所為で他の人が不幸になったって言うけど、
一番不幸なのはあんた自身じゃないの! あんたはどれだけ苦しめば済むのよ!?」
「………………」
世の条理を全て悟ったような顔をしているこの少女は、自分よりずっと幸せで微温湯に浸っていた蒙昧な彼女に
投げつけられた言葉に対して答える術を持ち合わせていない。
何か言おうとしてもカラカラに渇いた喉が、正しく発音することを許さなかった。
「償わなくちゃならないっていうのは分かる。でも幸せになるかどうかとは別の問題じゃない」
我の強い美樹さやかが、自分の考えが間違っていると思う事は少ない。
彼女なりに築いてきた死生観や倫理観を土台に、持論を確固たるものに強化して言葉を並べ立てる様は、
人生をつまらないものと一度は片付けた少女にとっては滑稽で新鮮だった。
世の中のことを何も知らないお嬢様の綺麗ごとだ、と切り捨てることもできる。
幸せバカで平和ボケの、高みから見下ろした部外者の言葉だ、と突き返してやることもできる。
しかし杏子にはそれはできなかった。
彼女が驚くほどに真摯だったからだ。
この難しいことを考えるのが苦手そうな少女が、特定の宗教観に囚われずに罪咎や幸不幸とは何かを説く姿勢は、
杏子の胸を痛いくらいに打った。
「あんたはいつになったら幸せになれるのよ……!」
さやかは泣いていた。
感受性の豊かな者は事あるごとに涙を流したがるが、彼女はそうした人間の性質とは関係のないところで落涙している。
(なんで、こいつ…………私のことで泣いてるのか……?)
自分勝手な人間は他人のために泣くことは決してない。
杏子はあの日から泣く事をやめたが、人が流す涙の意味については誰よりもよく知っている。
眼球の保護以外の目的で瞳を潤す時、昂ぶった感情がどこに向かっているのかは、永く他人との接触を拒んできた
彼女にさえ手に取るように理解できた。
「さやか…………」
呼びかけた彼女は自身の瞳もまた濡れているのに気付き、慌てて指先で拭った。
”誰にでも等しく幸せになる権利がある”
さやかが放ったこの言葉を思い出した杏子は一瞬、目の前が暗くなったように感じた。
これは父の教えだ。
新聞で凄惨な事件や事故の記事を読むたび、律儀に涙していた父。
その彼が繰り返し信者に訴えかけていたのがこの言葉だ。
「………………」
杏子は誰かに甘えることを知らない。
今や揺るぎつつある強い信念が、まだ彼女に弱みを見せさせようとしない。
(幸せ…………?)
己の中で完結している幸不幸のルールが、そのうちの半分しか知らないハズのさやかによって覆されようとしている。
彼女は胸に小さな痛みを覚えたが、同時にその変化に心地よさも感じ始めていた。
・
・
・
・
・
何を幸福とし、何を不幸とするかはそれを受け止める人によって異なる。
またその度合いや感じ方も同様だ。
2人の少女はこの点について多くの相違した見解を持っている。
しかし互いに流した涙が、言葉では説明できない次元で共通の認識を持っていることを証明した。
「あんたってほんとお節介な奴だな」
礼を述べる代わりに杏子は憎まれ口を叩いてやる。
「それはあんたもでしょ?」
さやかが口を尖らせて反発した。
「黙っててくれって言われてたけど……まどかに聞いたよ。あんたが使い魔を無視しろって言った理由」
これに関して杏子は特に驚きはしない。
鹿目まどかの性格をある程度理解していれば、彼女が親友――と死闘を繰り広げた少女との和解――のために
得た情報を伝えるであろうことは予想がつく。
口が軽いとは杏子は思わない。
まどかもまたお節介だったのだ。
「納得できないんだろ? なんとなく分かるさ。始めて見た時からそういうタイプだと思ってたしね」
自己犠牲の精神は本来尊いものだが、これには常に危うさが伴なう。
無尽蔵の財産や無限の力を持っているなら容易く成し遂げられるが、そうでなければそれらはいずれ枯渇する。
誰かのために戦い続けた挙句、最も弱い敵すら倒せなくなってしまえば、彼女が掲げた崇高な理念は断たれてしまうだろう。
それを遠回りな方法で諭した杏子だったが、その時点での彼女にはそこまでする義理はなかったハズだ。
「やっぱりまだ納得はできない……けど、意味は分かるよ」
正義を貫くには身の丈にあった方法でなければならない。
巴マミを”完璧な正義の使者”として信奉し、彼女を理想の魔法少女としてその影を追い続けるさやかには、
敢えて敵を放置するという選択はとり難い。
理想を追い求めるのに理性が邪魔になるのなら、彼女はそれを投げ捨ててしまいかねない。
「あのまま私が思うように戦ってたら、魔女も使い魔も倒せなくなるってことでしょ?」
「倒せなくなるどころか、連中にあっさりやられてるだろうね」
杏子は”死”という言葉の使用を避けた。
「それってヘンじゃない? 私が自滅するまで待ってたほうがあんたにとっては得なのに」
さやかは意地悪な質問をぶつけてみる。
これに対してどんな顔をしてどう答えるのか、彼女は密かに楽しみにしていたが、
「単なるお節介さ」
返ってきたのは愛想もない一言だった。
(………………)
こう切り捨てられては会話は続かない。
自分も杏子も素直でないと分かっているさやかは、
「お腹空かない?」
数秒の奇妙な沈黙に耐えかねてこう切り出した。
これまでの流れを無視した発言に目を白黒させた杏子は、
「何かあるのか?」
首肯する代わりに疑問調で答えを返す。
「ちょっと待ってて」
ベッドを降りたさやかは音を立てないようにして部屋を出て行った。
ほどなくして胸に紙袋を抱えて戻ってくる。
「食うかい?」
と冗談っぽく言ってさやかが取り出したのは真っ赤に熟れた林檎だった。
「あ、ああ……悪いな……」
座りなおした杏子は差し出された林檎を呆気に取られたように見つめていた。
「帰りに買ったんだ。あんた、林檎好きそうだし」
暫くしてそれを受け取った杏子は、彼女にしては小さすぎる一口を咀嚼した。
砂糖のような甘さの後に、僅かな酸味が口内いっぱいに広がる。
「美味いじゃん、これ」
同じ物でも自分で手に入れたものより、誰かから貰ったものの方が美味しく感じる。
杏子は今日この時、果実を食べられることに感謝した。
「この林檎はね――信頼の証なんだ」
さやかも紙袋から林檎を取り出し、そっと歯を宛がった。
普段は切って皿に盛りつけてから食すだけに、そのままの形で口に運ぶのは彼女にとっては新鮮だった。
「信頼の証……?」
「そう、信頼の証である真実の赤林檎」
さやかは紅潮した頬を見られまいと俯き加減に言った。
(…………? ただの林檎だろ?)
確かにこれまで食してきたものとは違う特別な味はしたが、杏子には彼女の言葉の意味が理解できなかった。
買ってきた――つまりどこにでも売っているような品物に特異性はないハズだ。
(それとも品種か何かか? そんな銘柄聞いたことないけど)
そこまで考えた時、彼女は目の前の少女がなぜ俯いているのかを漸く悟った。
熟れた林檎の赤は、つまり自分たちの体内を循環する血液。
信頼や真実という言葉を、最も言いそうにない彼女が口にした理由。
「さやか…………」
それを考えると杏子はまた自分がひどく重い罪を背負っているのだと自覚してしまう。
「なんであんたはそこまで――」
私に気を遣うのか、と杏子は問うた。
「前にも言ったでしょ。放っておけないって」
この少女はその理由についてこれ以上の言葉を用いない。
巴マミの後ろ姿を追い求めているように、彼女の根底にあるのは庇護心と正義感だ。
罪を憎み、悪を許さず、善を勧める。
美樹さやかは誰もが抱きがちな模範的な正義の味方になりたいと願っている。
そこに多少――あるいは相応――の見返りがあれば尚良い。
もちろん彼女自身は理想の自分になるにあたって、報酬も対価も求めようとはしない。
高すぎる理想だったと自覚するまでは、タダ働きの魔法少女に生き甲斐を見出すだろう。
この”生き甲斐”そのものが見返りといえるかもしれない。
「私はね、マミさんを尊敬してるんだ」
さすがに言葉足らずと思ったのか、さやかは内心を曝け出した。
「一生懸命な人だった。魔女や使い魔と戦って誰かを守る姿はカッコ良かったよ」
彼女は優しく、時に厳しく、勇敢だった。
唯一の欠点を除けば多くの少女から憧憬の念を以って迎えられるに相応しい人物だ。
「マミさんみたいになりたいって思ったんだ。誰かの役に立ちたい、誰かを助けたいって――」
「あんたはもうそれをやったじゃないか。あのボウ――恭介って奴を救ったじゃんか」
「恭介だけを助けたいってワケじゃない」
巴マミの正義は特定の一個人を対象にしているわけではない。
不特定多数の――町でたった一度すれ違った程度の人間にさえ救済の手を差し伸べられるのが、さやかの中の巴マミだ。
「巴マミ、ねえ……」
杏子の中にも彼女の記憶はある。
優雅で洗練された戦い方は見た目の美しさだけでなく、効率も重視された見事なものだった。
さやかのように律儀に使い魔を退治しながら永く持ちこたえていたのは、彼女の生存本能が魔力の浪費を抑え、
常にたった1個のグリーフシードに縋る戦い方にこだわったからだ。
つまりマミにはさやかに似ているが、後先を考える計算力があった。
その彼女ですら魔女の一撃に生涯を閉じたのだ。
(こいつにはマミみたいになってほしくない)
いつからか杏子はそう思うようになっていたが、もちろん彼女は決してそれを口にはしない。
「恩着せがましく聞こえたらごめん」
さやかはそう前置きし、
「私はあんたを助けたい。それが迷惑だっていうんなら……私には何もできないけど……」
拒まれることも覚悟していると付け足した。
そもそも明らかに救いを求めているとは言い難い彼女に対して”助けたい”と思うことすら烏滸がましい。
人生の荒波――その身に受けるには酷過ぎるほどの――にも負けない杏子からすれば、
同情ともとれるこの申し出は考えるまでもなく拒絶して構わないものだった。
あまりに直截的な言葉に杏子はすぐに答えることができない。
ずいぶん永い時間が流れた後、
「……迷惑だなんて思うわけないだろ」
彼女は呟くように言った。
「むしろ迷惑かけてんのは私のほうなんだ。こんな無様な姿まで晒しちまってさぁ……」
さやかと出会ってから、彼女の涙の堰にはいくつもの綻びができてしまったらしい。
半分ほど齧った林檎にぽたりぽたりと滴が零れた。
(……ったく、誰だよ……”どんなことがあっても護ってやる”なんて言ったのは――)
自分が泣いていると認めたくない所為で、彼女は滂沱として溢れる涙を拭うことができない。
誰にも頼らずに生きてみせる!
あの日、そう心に誓ったハズの杏子は愚かだと見下げていた少女のやや強引な優しさに触れ、
固く貫こうとしていた生き様が揺らぐのを感じた。
愚かであるわけがないのだ。
美樹さやかが見せる全ては、即ちかつての自分。
正義や愛や勇気を至上のものと確信し、魔を祓い、聖戦を幾度となく繰り広げてきたのは覆しようのない事実だ。
その美しすぎる過去を佐倉杏子は捨てたわけではない。
ただあまりにも永く忘れていたために、そうした道を自分が歩んでいたことに自信が持てなくなっただけだ。
「杏子――」
この少女はどれほど困窮しても、決して誰かに助けを求めることはしないだろうと、さやかは分かっていた。
何をして欲しいか、何を求めているのか。
これらの問いには答えないだろう。
彼女はきっと自分の力では手に入れられないモノは欲しがらないに違いない。
これは”意地っ張り”とは違うと、さやかにも理解できた。
他人に頼りたくないのではない。他人に甘えたくないのではない。
「私は迷惑だとか思ってないから。それなら初めから連れて来たりしないし……」
まどかとの付き合いから多くを学んできたさやかには確信があった。
この少女は他人に頼れないのだ。
他人に甘えることを知らないのだ。
自分と同じように何でも独りで抱え込んでしまう。
自分と違うのはそれをきちんと処理できてしまうところだ。
美樹さやかはまどかに対する庇護心から、常に強くあろうとする。
だがいつも肝心なところで挫け、あと一歩踏み出す勇気を持てない。
杏子はそうではない。
特定の庇護の対象を喪った彼女は、あらゆる権利と義務を自己の中で完結させている。
挫け、勇気を持てない瞬間があるとすれば、それはこの少女にとっての死期だ。
つまり生きている限り、彼女には心に揺れが起こることは永遠にありえないハズだったのだ。
「あんただったら――」
「…………?」
「あんただったら親父の話を聞いてくれたかもな……」
杏子は殆んど唇を動かさずに言った。
手には食べかけの林檎がある。
水分を多く含んだそれは白い光を反射してキラキラと輝いた。
「私は宗教のこととかよく分からないから……」
期待に添えそうにない、とさやかは伏目がちに答えた。
「そんな難しい話じゃない。親父が言ってたのは当たり前のことばっかりだったよ」
彼女は一瞬だけ寂しげな表情を浮かべた。
「あんたならきっと共感できる話さ――」
彼女の父が繰り返し説いたのは”善の奨励”だ。
人は助け合い、支え合い、愛し合うべきだ。
いたってシンプルなメッセージは杏子が言うように、正しくて当たり前の言葉だ。
難しいことではない。
もしこれを難しいと感じるならば、つまり人々にはそれらが足りないということになる。
(あんたがやろうとしてるのはさ――親父が言ってたことと同じなんだよ……)
さやかは手に入れた奇跡で愛する者を救った。
魔法の力で他人を助けたいと言った。
誰もが彼女のように志し、実際に行動を起こせば世界は救われていたかもしれないのだ。
自分と似たような理由――奇跡を他人のために用いた――で魔法少女となった者が、
父と同じ理想を掲げ、それを全うしようとしていることに杏子は皮肉めいたものを感じた。
もっと早く彼女と出会っていれば……。
彼女と父を引き合わせていれば……。
あの凄惨な光景を目の当りにせずに済んだかもしれない。
詮無い仮想だが、それを思い浮かべる杏子にとっては恐らく最も救われる未来だったハズだ。
(そういうことか…………)
うっすらと頬を紅潮させているさやかを見て、杏子は彼女に父の姿を重ねていることに気がついた。
なぜかこの愚直な正義の味方に突っかかっていたのは昔の自分のように見えた所為もあったが、
それ以上にその真摯さが今も尊敬している父の背中を思わせたからだ。
「………………」
どうせならこいつが周囲の被害を顧みない好戦的で野蛮な魔法少女だったらよかったのに、と杏子は思った。
そうすれば乾ききった世界の、どこにでもいる魔法少女のひとりとして片づけられたのだ。
むしろ互いに割り切った部分を持っていることから、深くなり過ぎない付き合いができたかもしれない。
(あんたがそんなだから……放っておけねえんだよ……!)
美樹さやかの後ろに父の姿を認めた時、彼女はその末路までもを想起してしまった。
高すぎる理想を掲げた挙句、自身の責任の及ばないところで目紛るしく展開する辛辣な現実の数々に打ち拉がれ、
遂には惨めで憐れな最期を迎えたその姿は、どれほど忘れようとしても記憶の底に膠着(こびりつ)いて離れない。
杏子は彼の理念は今でも尊いものとしているが、せめてほんの一握りでも悪辣な心を持っていれば、
理想と現実の乖離にあそこまで思い悩まずに済んだのではないかと考えている。
(さやか…………)
この少女は生き方に不器用なところまでそっくりだ。
冀う世界を作るために剣を用いるか、言葉を用いるかの違いはあっても、進もうとする道には僅かの違いもない。
「あんたは何も気にしなくていいと思う。もし償いがどうこうって言うんなら、そうやって悩んでる事自体が償いになってるんじゃない?」
平凡な家庭に生まれ育ち、多くのものに恵まれた環境で生きてきたさやかには、”奇跡”の尊さはその経験から理解できても、
”罪や罰”の重みは言葉の響きからイメージできる程度にしか捉えられない。
「せめてあんたくらい幸せにならなくてどうするのよ」
もちろん、ずっとそうだった彼女には”幸せ”の意味も十分に咀嚼できているとは思えない。
凄惨な過去を持つ少女に対しては憚りたくなるほどの軽い慰めも、亡き父を想わせる少女から発せられたものとなると、
杏子はこれまでのように気丈に振る舞うのが難しくなってくる。
「我慢できないんだ、そういうの。あんたは一度だって誰かを不幸にしたいと思ったわけじゃないんでしょ?
魔法少女になったのだって、自分が楽になりたいって気持ちがあったとはいえ、元々は家族を救いたかったからでしょ?
なのになんであんただけ……あんただけいつまでも幸せになれないのよ…………」
杏子本人の言動と、まどかから聞き取った情報だけが推測の拠だったが、さやかには分かっていた。
この世を拗ねたような少女はこれまで進んで他者を陥れたり、その命を奪ったりしたことはないのだと。
身勝手な祈りの所為で誰もが不幸になった過去から、彼女はたしかにかつての自分を置き去りにした。
しかしだからといって悪に堕ちたわけではない。
今でも父の教えに従い善の道を歩みたがっているのに、それを邪魔するもうひとつの理性が覆い隠しているのだ。
この理性の帳(とばり)が何をキッカケにか時折りはためき、佐倉杏子の本来の慈悲深さが露になる瞬間がある。
さやかは幸運にもその瞬間に何度か立ち会うことができた。
教会に迷い込んだ小さな命に栄養を分け与えたことがあった。
巴マミの死に怯え、魔女との戦いを躊躇うさやかに勇気を与えたことがあった。
未熟な魔法少女に戦い方を教え、彼女が標榜する正義の道を進むための力を与えたことがあった。
その真なる姿を知っているからこそ、さやかは杏子に優しくなれた。
「あんたが出て行こうとしてた理由……分かるよ。うん、たぶん分かる」
口調とは裏腹に凛とした表情のさやかは、自身の考えに確信を持っているように何度か頷いた。
しかしそれが何であるかを彼女は言葉にしない。
わざわざ声に出して思考を伝えることが、それを聞く者に苦痛を味わわせる場合があるのを彼女は知っている。
だがこの心理的な謎解きに対する答えを、
「怖いんだよ……」
杏子はあっさりと明らかにした。
「情けない話さ。同じ魔法少女といったって、あんたは所詮は他人だ。なのに……重ねちまうんだよ……」
”父と”ではない。
正確には”父の死と”だ。
生い立ちから食べ物以外への執着を捨てるよう努めてきた彼女だったが、ここに来て再び喪失への恐怖を感じ始めている。
(やっぱり…………)
一見逞しそうな彼女が不意に見せる儚げな表情や慈悲深さに触れる度、さやかの中の佐倉杏子は並みはずれた精神力と幼児性を持ち、
孤高を貫きながら孤独に苛まれる少女として形作られていく。
他人を不幸にしないために他人との距離を置こうとする彼女が、美樹家を出たがるのは当然だった。
「私はこれまでうまくやって来られたし、魔女や使い魔にやられたりしないよ」
根拠の無い自信が湧きあがってくる。
親友であるまどかや仁美を救った実績が、彼女の気をいくらか大きくしていた。
「お母さんもお父さんも私が守る。それにあんただって――」
ウソでもよい。
虚しくてもよい。
何をしていても、何もしなくても同じように時間が流れるなら、せめて目先のことくらいは前向きに考えたほうがよいに決まっている。
これが美樹さやかの強みだ。
「その、なんて言うかさ……」
林檎よりも顔を赤くした杏子は、普段の饒舌さからは想像もつかないほどたどたどしい口調で、
「……ありがと、な」
謝意を述べた。
「な、なによ……あんたらしくないじゃない……」
言われた側は耳まで真っ赤にしている。
「い、いいじゃんかよ別に」
杏子の語勢はもう元に戻っている。
どこか居心地が悪く、しかし心が温かくなるこの空気も悪くない、と2人は同時に思った。
佐倉杏子はまだ多少の負い目を感じている。
これはただ美樹家に滞在していることに対してではなく、2度も戦って傷つけたことについての、
『あんたとの件は親には内緒にしておく』
というさやかの言葉に対して抱いている罪悪感だ。
これを受けてしまえば彼女は常に父母を騙し続けることになる。
その点について杏子が思い悩んでいると気付いたさやかは、
『私の代わりに家の手伝いでもしてくれればいい』
という提案をした。
杏子の言うところの償いに当たるもので、これなら必要以上に自責することもないだろうとの考えによるものだ。
その意図がどこまで通じたかは彼女の反応からは分からなかったが、少なくとも家を出て行くことは思い留まったらしい。
おかげでさやかは何の憂いもなく登校することができた。
「おはよう」
傍らには親友のまどか。
杏子との蟠りが徐々に解け始めているからか、彼女は朝から太陽のような笑顔を浮かべている。
「おはよう」
さやかも笑顔で答える。
契約した者とそうでない者。
日常と非日常とが曖昧に重なり合った2人だが、そこに大きな隔たりはない。
目先の問題に解決の兆しが見えたことで、さやかは久しぶりに清々しい気分で朝の陽を浴びる。
(あ…………)
だが学校に向かう生徒たちの波の中に、友人と親しげに話す恭介を見た彼女は、胸にチクリと痛みを覚えた。
松葉杖をつきながら歩く彼は、粗野っぽい男子に囲まれて笑顔を浮かべている。
歩行にはまだ困難があるが、それもじきに克服するだろう。
不治と言われていたのは足ではなく、彼の宝とも言うべき手だけだ。
なぜ退院したことを教えてくれなかったのか。
さやかはその理由を何度か考えた。
長い入院生活で一度は将来の夢を断たれて絶望した彼なら、あらゆる苦痛からの解放に欣喜したハズだ。
諦めていたヴァイオリンを再び弾くことができる!
居ても立ってもいられず、家に篭もって快気祝いの主役でありながら独演会を催していたのかもしれない。
将来を有望視された彼なら、一般的な義理立てよりもそちらを優先しても仕方がない。
彼女はそう思い込むことで疑問を無理やり解決させようとした。
(さやかちゃん…………)
遠目に少年を見つめる親友を、まどかは不安げに見上げていた。
「おはようございます」
不意に上品な声が聞こえ、2人はゆっくりと振り返った。
「おはよう」
淑女と呼ぶに相応しい少女が、にこやかな笑顔を浮かべている。
ここまで走って来たらしい彼女は肩を小刻みに上下させた。
ややウェーブのかかった長髪の僅かに乱れる様と相俟って、息を切らせているだけでも表現し難い美しさを漂わせている。
「今朝は大変でしたわ。あやうく遅刻しそうになりまして――」
この嫋やかな少女は相対する者の緊張を弛緩させる仕草をとった後、先行く生徒たちの後ろ姿を見て表情を変えた。
「上条君、退院なさったのですね…………」
草木のささめきに混じったその声を、さやかはしっかり聞いていた。
・
・
・
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心がざわついているという自覚は彼女にはあった。
どこにいても、何をしていても落ち着かない自分はこういう性格だからと言い聞かせるのだが、
次から次に這い寄って来る不気味な気配を消すことができない。
(………………?)
今朝からしばしば仁美と目が合う。
授業中、休み時間に関係なく彼女が何か言いたげであることは、さやかには分かっていた。
彼女は外見から想像できるとおり何事にも控えめだ。
掛け持ちしている稽古事も、鍛錬や精進というよりは大和撫子ぶりに磨きをかけるためのもので、
清楚で可憐な佇まいには多くの男子が振り返るだろう。
さやかは投げかけられる視線に悉く気付かない振りをした。
予感がしたのだ。
とても悪い予感だ。
親友である仁美を避けるのは間違った対応だと分かっていても、意識しないところで体が勝手にそうしてしまう。
皮肉なことに彼女から目を背けようとすると、そちらには恭介の姿がある。
談笑している彼を見るのは、今のさやかには心苦しい。
あの物静かな美男子にはお得意のヴァイオリンの音色によってそれを聴く多くの者を幸せにする力があるが、
彼に淡い恋心を抱いている少女に対しては漠然とした不安しか与えない。
「さやかちゃんも行ってきなよ。まだ声かけてないんでしょ?」
彼女の視線に気付いたまどかが”気を利かせて”言った。
背中を押す、というほどのものではない。
ちょっとしたキッカケを作るつもりだった。
「私は、いいよ……」
しかしさやかは物憂げな表情でそれを拒んだ。
「そっか……」
まどかはそれ以上は何も言わず、さやかに倣って楽しそうな恭介を見た。
ボーイッシュな親友が色恋沙汰には意外なほど奥手であることを知っているまどかは、
こういう微妙な距離感も大切なのだと思った。
もちろん好き合っている者同士が結ばれるのは最も望ましい結末だ。
(でも大事なのはさやかちゃんの気持ちだもんね)
という考え方ができるまどかは、ここばかりはお節介を焼くことをしない。
「鹿目さ〜ん!!」
廊下の向こうから同じクラスの女子が小走りでやって来た。
「船本さんが気分が悪いって。貧血か何かだと思うけど保健室に連れて行きたいんだ。ついて来てくれる?」
「分かった。すぐに行くよ!」
自分が何の取り得もない無力な人間だと思い込んでいるまどかは、それでも誰かの役に立ちたいという想いを捨てられず、
進んで保健係を務めるようになった。
人のために働いている、と一番実感できる貴重な仕事だ。
「ごめん、さやかちゃん。行ってくるね」
従ってこの少女が最も活き活きとするのは、クラスメートを保健室に連れて行くまでの間だ。
「あ、う、うん…………」
自分のすぐ横で起きた出来事もまともに認知できなかったさやかは、親友の通る声に曖昧に頷いた。
彼女の頭の中は別のことでいっぱいだ。
校医はおろか世界に名を轟かせる名医でさえ、彼女の病は治せない。
「さやかさん」
まどかの姿が見えなくなるのを待って、仁美が声をかけた。
「な、なに……?」
必要はないというのにさやかは自然と身構えてしまう。
このおっとりとした風貌の、物腰柔らかい少女に対しては抱くべき警戒心などないというのに、
その優雅さが却って彼女から平常心を奪う。
「大切なお話がありますの。よろしければ放課後、時間をいただけませんか?」
仁美はにこりともせずに言った。