麾く煉獄

(逃れられない、否定もできない昔と今とが杏子を責め苛む。再び罪咎と向き合おうとした彼女の前に現れたのは……)

 男はこの世の厄災を全て包み込み万人の救済を希う柔和な笑顔を、古代遺跡の壁に刻まれた悪鬼のような形相に変えた。
『人の心を惑わす魔女め!』
人生の中でたった一度さえ使わなかった言葉を、彼は愛しかったはずの娘を罵倒するために容赦なく放つ。
『お前なんか私の娘じゃない!』
少女には広すぎた室内に男の荒っぽい声が渦を巻いた。
この一言は彼にしてはまだ優しいほうだった。
眼前にいるのは娘どころか、もはやヒトですらなかったかも知れないのだ。
「どうしてそんなこと言うの? 私はパパのために……」
苛烈な男に比し、健気な少女は必死に背伸びをして声を届けようとする。
幼齢にはあまりに過酷な魔女との戦いによって、彼女の愛らしい瞳はいくらかツリ目がちになり鋭さが生まれていたが、
法衣を解けば信心深い快活な少女――佐倉杏子に戻る。
『パパなんて呼ぶな! 汚らわしい!』
縋る娘を蔑するように彼は氷よりも冷たい視線を叩きつけた。
『お前はなんということをしてくれたんだ。どうして悪魔に魂を売ってしまったんだ』
怒りと悲しみに打ち震える男は手元にあったグラスを壁に投げつけた。
繊細な破裂音がして、少女は身を固くした。
「やめてよ! 私、パパのために頑張って戦ったよ? 恐かったけど悪い奴をいっぱいやっつけたんだよ?」
少女は懇願するように男を見上げた。
魔法少女であることを知られてはいけないルールはない。
わざわざ他人に話すようなことではないが、運悪く魔女の結界に迷い込んだ一般人が果敢に戦う魔法少女を目撃する例はいくらでもある。
彼女は努めて正体を隠そうとは思わなかった。
疾しいことは何ひとつとしてないのだ。
むしろ愛する父に同じく、人々の幸せのために魔を斬り払ってきた。
それは堂々と誇ってよいハズだ。
「だから、わたし――」
事実が発覚した時、少女は悪戯がバレたように照れ笑いを浮かべた。
彼女が今よりももっと幼い頃。
父は説教に忙しく、母は所用で妹を連れて出かけ、ひとり家で留守番をしていたことがあった。
寂しさを紛らすように彼女は母の真似事をしてみた。
物置から踏み台を引っ張り出し、洗濯機を覗きこむと衣類が堆くなっていた。
日頃、妹の面倒をみていた彼女はその傍らで家事に勤しむ母をよく見ていた。
ただ留守番をしているだけでなく、家族の役に立ちたい。
その一心で小さな体を駆使して洗濯物を干し終えた頃、妹とともに母が帰宅した。
”きょうこちゃん、ひとりでできたの!? よくがんばったわね!”
その時の。
満面の笑みを浮かべた母が、優しく頭を撫でてくれた感触を彼女は忘れない。
善いことをすれば、それは認めてもらえるのだ。
どんな些細なことでも。
ちょっとした手伝いだったが、それでも喜んでくれる人がいるのだ。
だから正体を知られた時、少女はきっと褒めてもらえると思った。
頭を撫でてもらえると思っていた。

”忙しいお父さんに代わって悪い奴を退治してくれたのか。ありがとう、杏子はほんとにいい娘だね”

そういう類の言葉を少女は期待してしまっていた。
大きな間違いだったのだ。
何もかも呪うような悪魔の顔をした父を、いつもと変わらない愛らしい瞳が捉えた。
『そんな目で見るな!』
彼は既に余所を向いていた。
『今度は私を誑かそうというのか?』
「ち、違うよ! 違うの! 私はパパに前みたいに笑ってほしくて――」
『ああ、そうか! お前は私を油断させて魂を抜き取ろうというのだな!!』
「やめてよっ!」
一度、魔女と定めた相手が何を言っても彼は聞き入れない。
少女の全ての言葉、全ての行動が自分が理想とする世界の妨げになると思っている。
『離れていった信者が急に戻ってきた! そんなわけがないんだ。お前は人に甘い夢を見せて生気を吸い取る夢魔の類に違いないッ!』
男は娘の全てを疑った。
彼は裏切られたのだ。
虚ろな目の人形相手に教えを説いていた自分に気付いた瞬間から、彼にはもう長女はいなかったのだ。
「うーん…………」
木製のドアが開いて小さな女の子が入ってきた。
「どうしたの? もうお外真っ暗だよぉ」
ウサギのぬいぐるみを抱えたその子は眠そうな目を擦りながら2人を交互に見やった。
『ああ、ごめんよ。起こしてしまったね』
彼は一瞬のうちに表情を綻ばせると、“たったひとりの可愛い娘”の頭をぽんぽんと撫でた。
この行為には愛情を示す以外に、神秘的な力を全身にふりかけて悪意から身を守るという特別な意味がある。
もちろんそれは目に見えないが、彼の掌から伝わる熱は幼女の頭から爪先にかけてを覆った。
「お姉ちゃん、泣いてるの……?」
女の子は姉の異変に気付くと首を傾げた。
彼女は凛々しくて優しい姉が大好きだった。
昼間には遊んでくれ、お腹が空けば簡単な料理を作ってくれ、夜には絵本を読んでくれる。
1日の大半を一緒に過ごす姉のことが、彼女は大好きだった。
幼いながらに自分の面倒を見てくれていると分かっていた女の子は、
いつも世話をしてくれる姉が悲しそうなのを見て不安げな顔をした。
少女は何か答えようとしたが、
『そいつに近づくなっ!』
それより先に父が怒声を上げて注意を自分に向けた。
この男にはこれまで憎悪や怒りといった感情は存在しなかった。
凶悪な事件を見聞きする度に、その犠牲となった遺族の心情を察して涙し、
また加害者に対しても凶行に及ばざるを得なかった背景をあれこれと推察しては胸を痛めた。
恨むことも、憎むことも、ほんの僅かの苛立ちを覚えることさえもなかった彼は――。
数十年分のそれらの感情を一気に溢れさせた。
『さあ、もう寝なさい! お父さんが絵本を読んであげよう』
彼は女の子の手を引いて部屋を出て行こうとする。
「ま、待って――!」
少女は慌ててその後を追おうとした。
『魔女め! 早々とこの家から出ていけっ!』
今にも泣き出しそうなかつての娘を血走った眼で睨みつけ、彼は乱暴にドアを閉めた。
途端、部屋の明かりが消え、少女は真っ暗闇に取り残された。
「待ってよ! ねえ、パパ! パパッ!」

 





 

「――パパッ!」
飛び起きた杏子は激しい痛みに胸を押さえた。
空になった肺に酸素を取り込もうとするが、喉の奥の異物感がそれを邪魔する。
ぽたり、と手の甲が濡れ、彼女は自分が涙を流していることに気付いた。
体が熱い。
全身を焼かれたように体が熱かった。
「…………ッ!?」
不意に背中に何かが押しつけられ、彼女はびくりと体を震わせた。
「……大丈夫?」
さやかは息の乱れている杏子の背を軽くさすった。
「あ、ああ…………」
まだ意識がハッキリしていない彼女は曖昧に頷く。
「ずいぶん魘されてたけど……」
「え……? ああ、悪いね、起こしちまったみたいで」
「いや起きてたから別にいいけど。それよりあんた……」
さやかは視線を逸らした。
「寝言で何度もお父さんを呼んでたみたいだけど、もしかして――」
無粋な問いだという自覚はあったが、
(普段はたしか”親父”って呼んでたよね?)
そこに引っかかりを感じたさやかは訊かずにはいられなかった。
聞いたところで意味はない。
悪夢に苛まれずに済む方法を知っているならまだしも、彼女には自分が負った外傷を癒やす以外の手立てはない。
「たまにあの時の夢を見るんだ…………」
あの時。
それだけでさやかはある程度分かった。
彼女が打ち明けてくれた過去の中、父親の存在は極めて大きかった。
考えるまでもなく今の佐倉杏子を作ったのは彼の言動だ。
庇護し、慈しみ、涸れるまで娘に愛を注ぐハズの肉親に魔女と罵られ、果てには見せつけるように彼女を残しての心中。
(なのに杏子はお父さんを一度も責めてない……)
天涯孤独に自分を追いやった父を恨むどころか、それを自業自得と割り切って受け容れる。
これは諦めとは少し違う。
理解と納得の均衡点だ。
自分には到底真似のできない器用な生き方を選ばざるを得なかった彼女に、さやかは尊敬とも憐憫ともいいがたい複雑な想いを抱いた。
「しばらく見てなかったんだけどね……」
杏子は額の汗を拭った。
声にはまったく力が無い。
「ちょっと待ってて」
と言い置いてさやかは足音をたてないように部屋を出た。
夢の中で彼女は“パパ”と呼んでいた。
その呼称が抱かせるイメージは純朴さや愛らしさだ。
父をそう呼んでいた時期があったのだ。
(………………)
初めてこの家に招き入れた時、彼女は普段の言動からは想像もつかないほど丁寧な言葉遣いで優雅に振る舞った。
照れ隠しにかそれを演技だと杏子は言い張ったが、さやかはその時の彼女こそが本来の姿なのだと気付いた。
演技をしているのはむしろ“今”なのだ。
強くなることしか生き延びる術がなくなった少女は、喪失への恐れから馴れ合いを嫌い、弱肉強食の摂理を思い知らされたばかりに好戦的な性格を形成し、弱みを晒さないように乱暴な口調を心がけた。
だが後天的な外殻は先天的な優しさを完全に蓋うことはできなかった。
日頃のちょっとした所作にも、彼女の真の人格が現れる。
言動に注意を払えば――佐倉杏子に関する一切を表面的に捉えただけで満足しなければ――すぐにでも分かることだ。
人生において何ら影響を及ぼさない仔猫に栄養を分け与えるのも、それらのほんの一部に過ぎない。
何不自由なく暮らしてきた新たな魔法少女との戦いにわざわざ手心を加え、命にも等しいグリーフシード――特に彼女にとっては換金価値のある貴重なもの――を
惜しむことなく与えたのも、隠しきれなかった情の為せる業だ。
自分勝手に生き、擅(ほしいまま)に振る舞い、気分次第で略奪や破壊を繰り返し、挙句に躊躇いなく他者を殺めるような人間であれば同情の余地はない。
だが彼女は違う。
表面上は悪辣に見せても、杏子自身は取るに足りない小さな命すら無意味に奪うことはできはしないだろう。
なぜならその生き方を死の直前まで貫き通してきたのは彼女が今も愛する父だからだ。
人間の心がどのようなものであるかを知っている杏子は――。
仮面の向こうに眩いほど神々しい慈愛を秘める彼女は――。
救われるべきだ、とさやかは思った。
(杏子…………)
冷蔵庫の扉を閉めたさやかは、息苦しさを覚えた。





「はい」
コップに半分ほど注いだ麦茶を差し出す。
「あ、ありがとな」
それを受け取った杏子は一気に飲み干した。
喉を通った冷気が一瞬だけ体温を下げ、彼女の気分をいくらか落ち着けた。
次第に呼吸が整っていくのを見て、さやかは安堵のため息をついた。
「もうずっと前のことなのにさ、ハッキリ覚えてるんだよ。親父のこと――」
“こと”と言ったのか“ことば”と言ったのかさやかには聞き取れなかった。
「割り切ってるつもりだけど、こう何度も夢に出られるとね…………」
杏子は自分を嘲るように笑った。
この少女を襲った不幸は一度きりではなかった。
彼女はもう数え切れないくらい家族を喪い続けていた。
繰り返す夢の中、杏子は同じ言葉を何度も叩きつけられ、肉親の死を何度も見せつけられた。
本人の意思に関係なく現れる悪夢が、消し去りたくてもできない悲惨な過去を記憶の底に深く刻みつける。
忘れるな。
けして忘れるな。
その業を背負い、消えない罪を贖いながら終生苦しめ。
何者かがそう囁いているような気がして、杏子は頭を押さえた。
それを横目に見ながらさやかは自身のふがいなさを呪った。
自分は彼女に何もしてやれない。
凄絶な経験もなく、父母も健在の幸せを生きてきた彼女は、杏子の苦悩を理解することも、それに共感し同情することも烏滸(おこ)がましく忌むべき行為だと思った。
結局、同じ境遇にある者同士しか互いを慰め合うことはできないのだ。
そこに考え至ったさやかは、いつの間にか杏子の肩を抱いていた。
言葉はいらなかった。
どうせ何を言っても白々しく、どんな気の利いた台詞も虚しく空気に溶けてなくなってしまうことをさやかは知っている。
無言のままに。
無言のままにさやかは自らの体温を分け与えた。
いつかまどかにしたように。
さやかができる殆ど唯一の癒しだった。
それがどれほどの効果を持つかも考えないで。
最初だけ窮屈に感じた杏子は肌を通して体内を巡る温かさに身を預けていた。
数分――。
睡魔が舞い戻り、2人はいつもの位置にいた。
今は杏子の精神も安定しつつある。
「電気、点けたままにしておくから」
煌々と部屋を照らす白い光を細目で眺めながらさやかが言った。
「悪いな、何から何まで……」
夜の暗闇が恐くなった杏子は、さやかの気遣いに心底から感謝した。

 

 不幸をまき散らす魔女は時も場所も選ばない。
陽が傾き始めた頃、黒い気配は蠢動を始めた。
魔法少女の出番だ。
この正義の心に篤い少女は親友に短く別れを告げると、純白の外套を棚引かせて結界に飛び込んだ。
突然の来訪者を使い魔たちが荒々しく出迎える。
南国の猛禽類を思わせる極彩色の羽ばたきが少女の視界を覆った。
さやかは構えた剣でそれらを素早く斬り裂き、遙か前方の魔女を見据える。
彼女の戦闘スタイルは確立されつつあった。
剣による斬撃は思い通りに得物を操れる利点があるが、敵に接近する必要があり容易く相手の反撃を許してしまう危うさを孕む。
このリスクの大きい武器を最も効果的に活用するには、相手より先に動けばよい。
そうするだけで備えの万全でない敵に大きな打撃を与えられるし、したがって身の安全も保たれる。
この第一手にミスがあった場合は、対峙した敵に切り込むことになる。
ただし真っ直ぐに向かって行ってはならない。
足場等があればそれを、なければ不規則に飛ぶなどして動きに変化をつけ、相手を翻弄するのが先決だ。
これらは全て杏子が教えたことだった。
彼女にも動線が限られる槍を武器に苦戦を強いられた過去がある。
多くの場数を踏んできた杏子の場合は身のこなしだけでなく、武器そのものを柔軟性のある多節槍へと進化させて対応した。
結界を隠れ家にするように魔女は狡猾で用心深い。
自分を滅ぼそうとする外敵がいつも決まった戦い方をすれば、すぐにその癖を見抜いて反撃に転じる。
さやかはその助言のとおりに戦い、押し寄せる使い魔を悉く葬り去った。
閃電のように飛び回る魔法少女に異形の怪物は狼狽した。
その隙を逃がさず彼女は地を蹴って飛び上がると、逆手に持ち直した大剣を外科医のような正確さで魔女の頭蓋に突き立てた。
不愉快な金切り声をあげて巨体が沈む。
閃光があたりを包んだ後、結界は消え、グリーフシードだけが残った。
しかしソウルジェムはまだ魔の気配を感じ取っている。
(他にも魔女がいる……?)
勝利の余韻に浸る暇も戦いの疲れを感じる暇もないまま、さやかはこの町の誰かのために魔の気をたどった。





あり得ないことが起こっていた。
繰り広げられていたのは魔法少女と魔女の戦い。
追う者と追われる者の戦いだ。
だが今、両者の立場は逆転していた。
甲冑に身を包んだ魔女が唸り声とともに鋭い爪を振りおろす。
少女は左側に飛んでそれを躱そうとした。
だが魔女は彼女が逃げる先に向けてもう片方の腕を伸ばした。
歴戦の魔法少女は判断を誤った。
彼女は1秒後に敵の攻撃が来る位置に1秒後に移動した。
過ちに気づいた時には既に禍々しい魔手が眼前に迫っていた。
少女はとっさに目を閉じた。
だが覚悟していた痛みも衝撃もない。
一陣の風を感じて少女がゆっくりと目を開けると、銀色の軌跡が真っ直ぐに伸びた魔女の腕を斬り落としていた。
「なにやってんのよ!」
広がる白の中からさやかが言った。
彼女の厳しい教導役を務めてきた魔法少女は、これまで独りで戦い抜いてきたとは思えないほど無様な姿を晒している。
「ちょっと遊んでやっただけさ――」
滑稽な強がりだった。
どこか幼さを感じさせる意匠の真紅の法衣は、幾度の攻撃を受けてかあちこちが裂けていた。
露になった肌にじわりと血が滲む。
(………………?)
不気味な咆哮にさやかは振り向いた。
杏子なら瞬きを3度する前に倒せるほどの脆弱な魔女だ。
片腕を失ったそれが痛みを訴えるように声を上げ続けている。
仕返しとばかりに魔女は巨体を聳立(しょうりつ)させてさやかを押し潰そうとした。
しかしこの動きは遅すぎた。
さやかは素早く体を捌くと剣を振った。
鋭い切っ先が赤黒い腹を引き裂き、返す刃が奇妙な音を発し続ける喉を掻き斬った。
この結界の主はもはや無力だ。
たった一匹の使い魔さえ操る力もなく、不幸の源は断末魔の叫び声をあげずに消滅するだろう。
それが分かっているさやかは警戒心を解き、傷だらけの魔法少女の元へ駆け寄った。
この勝ち気な少女は槍を杖代わりにして立ち上がった。
行動に支障はなさそうだが、体には無数の傷が痛々しく刻まれている。
「なにやってんのよ?」
彼女はもう一度言った。
「あんな奴、あんただったら――」
「分かってるよ」
杏子は不貞腐れるように返した。
この劣勢は自業自得と割り切ることはできない。
彼女が望んだことでもなければ、行動の結果として納得できるものでもなかった。
「まだ動かない方がいいって」
さやかの手前、気丈に振る舞おうとしているのか杏子は早々とこの場を立ち去ろうとした。
「大したことねえよ……こんなの――」
口ではそう言うが、そもそも彼女がたった1体の魔女相手に遅れをとること自体がおかしい、とさやかは思った。
人々に絶望を植え付け死に至らしめる連中は、狡猾そうに見えて実は不意を衝くような真似はしない。
結界に身を潜めて無力な人間を狙うだけで、自ら魔法少女を相手に戦いを挑むことはしないのだ。
つまり杏子が傷を負ったのは、全て彼女のミスが原因だ。
何を間違ったか、何を躊躇ったか、この優秀な魔法少女は敗北が死に直結する戦いに勝つことができなかったのだ。
「………………」
キュゥべえと契約を取り交わした者は、常人にはない力を得る。
これは戦いの時にだけ機能するものではなく、法衣を脱ぎ去り”普通の少女”として活動する時にも効果を発揮する。
杏子は複数のグリーフシードを確保しているお陰で魔力の消費を気にする必要はなかった。
今のように少し時間をかければ多少の傷は癒える。
彼女の目はどこか遠くを見ていた。
魔女がいた場所。
結界。
それよりずっと向こう。
「どうしたっていうのよ?」
さやかは不安げに杏子を見つめたが、2人の視線が交わることはなかった。
「ああ、いや……別に――」
憔悴した様子の彼女はまともに目を合わせようとしない。
(………………)
難しいことを考えるのが苦手なさやかは、少ない手がかりから杏子の異変の原因を探ろうとした。
推量の材料はいくつかあるが、問題は彼女がそれを正しく思い出せないことだ。
限られた情報から物事の核心に迫るためには、前提を曖昧にしてはならない。
ここをなおざりにしてしまうと正しい結論は導き出せなくなる。
(そういえば…………)
記憶の中にさやかは引っ掛かる点を見つけた。
――夢だ。
杏子が見たという夢。
思い出したくないハズの陰惨な過去だ。
それが良くない方向に作用しているのではないか、とさやかは思った。
もしそうだとすれば――。
(いま訊くのはやめておこう)
デリケートな問題だ。
彼女の過去は彼女にしか分からない。
訳知り顔で力になろうとしても、助けになるどころか却って彼女を苦しめる結果になるかもしれない。
そう考えるとさやかは慎重にならざるを得なかった。





視線の意味に杏子は気付いている。
数日前にさやかが失恋した時にその傷を癒すために音楽を奏でてやったが、
ヘンに義理固い彼女がそれに恩を感じてか何かと力になりたがっているのを杏子は感じ取っていた。
(私に気を回す余裕なんてないだろ?)
さやかは見た目に反して繊細だ。
特に恋愛沙汰が絡むと絵に描いたようにしおらしくなる。
こいつはまだ完全に立ち直ったわけじゃない、と。
杏子には分かっていた。
それでも自分を気遣う素振りを見せるのは、傷ついた心を誤魔化すため。
自分より傷ついている誰かを慰撫することで安心したいからだ。
あるいはやはり意地っ張りな一面が出て、借りを作りたくないと思っているのかもしれない。
(どうでもいいか……)
推測は意味を持たない。
彼女はさやかの性格をある程度掴んでいるし、どのような可能性があったとしてもそれがマイナスに作用しないことは分かっている。
今の彼女にはこの愚直な新米の心情を推し量るよりも、はるかに大事なことがある。

――魔女。

この言葉が杏子に重く圧しかかっていた。
結界の中に身を隠し、人々の心に絶望の種を蒔いては彼らに死を齎す。
そういう悪意が具体的な形を持つこと自体が異常だったが、魔法少女にはそれらをハッキリと視認することができる。
それだけではない。
本来、触ることすらできない呪いをその手で摧(くだ)くこともできるのだ。
特別な力を与えられた――場合によっては押しつけられた――魔法少女には。
時に見たくないモノが見え、聞きたくない音が聞こえてしまう。
杏子が疑問に思うのは奇跡という甜言で少女の夢を叶え、それと引き換えに戦うべき相手を示すのに、
なぜ”魔女”という言葉が使われるのか、ということだった。
他にも表現のしようはあったハズだ。
怪物でもよいし、化け物でもよい。
モンスターやクリーチャーと称しても問題はなさそうだ。
大釜で怪しげな薬を精製し、呪(まじな)いを行い、儀式をし、箒に跨って夜闇を飛ぶ。
多くの人間はその名からこのようなイメージを抱く。
しかしそこに”異形の……”と思わせる要素はない。
影より黒い法衣を纏った鷲鼻の老女は、腰が曲がっているだけのただの人間だ。
目を背けたくなるような容姿ではない。
(なんでだ…………?)
あの婉曲な言い回しを好む物知りな白い生物が、この世界で語られる魔女について知らないハズがない。
見た目の印象から最も遠い名称で呼ばれる理由が杏子には分からない。
(魔女――)
彼女はこの言葉が嫌いだった。
明らかに悪者という響きがあるし、歴史を正しく知らない人間なら得体の痴れない駆逐するべき敵、と認識してもおかしくはない。
それを正義感から退治している間はよかった。
父の教えと魔法少女としての活動が世界を表と裏から救うのだと思えば、過酷な戦いにも充実感を得られる。
その意味ではむしろハッキリと悪の存在と思えるような名称であったほうが都合がよい。
しかしこの呼び名はいずれ自分を苦しめるためだけの忌まわしい言葉に成り果てる。
父の放った決別の言葉がそれだ。
あの日以来、杏子の魔女に対する観念は少し変わった。
単純に悪と割り切ることができなくなったのだ。
あの異形の怪物にも自我があって、意思を持ち、何らかの思考をしてそれを元に行動しているのではないかと彼女は考えた。
結界に身を隠すのは魔法少女を恐れてのことで、それはつまり感情があるからではないか。
人を死に至らしめるのも、そうすることに快感を得ているか、あるいはただ衝動に駆られているからなのではないか。
杏子はもう、あの不気味な生物に純粋な敵意を持つことはできない。
なぜなら彼女自身も”魔女”だからだ。
今も尊敬してやまない父がそう言うのなら、やはり自分は”魔女”なのかもしれない、と杏子は思う。
彼はいつだって正しかったハズだ。
常に間違っていたのは彼の言葉に耳を傾けない信者たちと、安易に奇跡に縋った自分だ。
「………………」
彼女は思い至る。
自分こそが間違い続けている。
彼女がこれまで屠ってきた相手は、実は自分だったのかもしれない、と。
そうでなければあの柔和な父が、何の脈絡も知識もなく”魔女”という言葉を選ぶハズがない。
彼はきっと知っていたのだ。
この世界に存在する”存在すべきでない両者”を、彼は知っていたのだ。
魔法少女と魔女。
世の殆ど全ての人間には、どちらも同じに見える。
結局はあり得ないモノ、存在し得ないモノ、認知できないモノという点では差異はない。
特に信仰によって世界を救おうとする彼にとっては、どちらも”人の心を惑わす邪悪な存在”には違いなかった。
(そういうことか…………)
もうとっくに分かっているハズの現実を、杏子はまた理解した。

 

 機転を利かせるのは難しい。
互いの接触する時間が大きく異なる3人を集めるには、それぞれの趣味嗜好を考慮して場所と時間を指定しなければならない。
幸いにも彼女たちは人には言えない大きな秘密を共有していたおかげで、会を設けること自体にはさほどの問題はなかった。
「で、何にする?」
メニュー表をテーブルに広げて場を仕切るのはさやかだ。
「きのこ雑炊、かな。こっちのふんわりオムライスも気になるけど……」
ページを繰りながらあれこれと悩むまどかには、さやかのように一団をまとめることはできない。
純朴な少女はむしろ周りに流されるくらいのほうが心地よく感じるものである。
「両方頼めばいいじゃん」
対照的に行動力と決断力を併せ持つこの少女は、迷うまどかに最も簡単な答えを突きつける。
どちらかを捨てるのではなく、どちらも選ぶ。
強くあろうとし続けてきた彼女らしい論だった。
「あんたと違ってまどかは小食なの。で、杏子はどれにする?」
「私はこれだな。あとこっちのソースがかかったやつと、それから……」
「ちょっと待った! それ全部食べる気?」
「当たり前だろ?」
杏子の健啖ぶりを知っているさやかも、さすがにファミレスでの大量注文には苦言を呈した。
青春盛りの少女3人。
そのテーブルに大食漢も逃げ出すほどの皿が並ぶのを、さやかはかろうじて回避する。
「じゃあこれでいいよ」
渋々彼女が選んだのはチキンドリアだ。
妥当なところだが、さやかは彼女がやたらとデザートを品定めしていたのに気付いていた。
「決まりね」
それぞれ適度に空腹を満たす料理を注文する。
「なんか新鮮だね、こういうの」
まどかがにこやかな笑顔で言った。
このメンバーが揃うのは3度目だが、そこに至るまでは殺伐とした対立の構図が続いていた。
互いに譲れない主義主張をぶつけるさやかと杏子に穏健派のまどか。
彼女がいなければ両者が一定の理解をし合うことはできなかっただろう。
「あんたのおかげさ」
この点は杏子もさやかも感謝している。
一見すると攻撃的な2人だが、他者への歩み寄りや理解、共感ができない人間ではない。
ちょっとしたキッカケがあれば構築した印象を取り壊し、殺意を抱いた怨敵にすら手を差し伸べられるだけの度量がある。
「魔法少女同士が戦うのって違うと思ったから」
敵の敵は味方だ、という考えがまどかにはあるようだ。
少なくとも巴マミを魔法少女と認識している彼女は、”魔法少女=巴マミ”という図式を成立させ、多少の性格の違いはあっても
魔法少女はみな彼女のように正義を標榜して戦うものだと思っている。
「でもホントに良かったよ。2人が戦うところなんて見たくなかったから」
まどかは親友のさやかはもちろん、今は佐倉杏子の良いところについても多くを知っている。
もうこの2人が戦うことはない。
互いに武器を手にする時があれば、それは協力して魔女を倒す時だ。
まどかはそう考えていた。
「ま、実利を考えりゃメリットなんてないんだよね。無駄に魔力を消耗するだけだしさ」
杏子は無意識に、ほむらに言われたのと全く同じ言葉を発していた。
「そう? あんたの場合はあったんじゃないの?」
さやかは真面目な顔で、
「他の魔法少女のグリーフシードを奪うとか――」
敢えて意地悪なことを言った。
こうした軽口は蟠(わだかま)りが解けた者同士なら、互いをより深く知り合うための潤滑油になる。
「律義に使い魔相手にしてるあんたが余分なグリーフシードを持ってるとは思えないね」
この程度の揶揄は想定していたか、杏子は即座に切り返した。
「む…………」
返答に困る様を楽しむつもりだったさやかは、あっさりとやりこめられて口を尖らせた。
「でも杏子ちゃんもそう、なんだよね?」
素直になれない人間がそうなるべき部分を指摘された時、どう反応するかを知っているまどかは遠慮がちに言った。
杏子もまた、さやかと同じように”律義”であることを彼女は知っている。
「私は別に――」
と急に余所を向く杏子が可愛く、まどかはつい微笑してしまう。
(そんなに悪ぶらなくてもいいのにな……)
純朴な少女はさやかとの長い付き合いのおかげで、人の心根を覗き見る能力に長けている。
加えて警戒心を抱かせない彼女の素朴さが、相手に気の緩みを生じさせ思わぬ言葉を引き出すこともある。
「おまたせいたしました」
ウェイターがやって来た。
オムライスにチキンドリア、カルボナーラと並べられた料理は色とりどりだ。
「いただきまーす」
ふんわりと軟らかい卵にスプーンの先をあてがったまどかは、向かいに座っている杏子が両手を組み
何事かを呟いているのに気付いた。
普段の生活で宗教など全く意識しない彼女には、杏子が何をしているのかはすぐには理解できなかった。
(食前のお祈り……?)
視線をずらす。
さやかはフォークには一切触れず、杏子の祈りが終わるのを黙って待っていた。
それを見たまどかは慌ててスプーンを置いた。





「別に待ってなくてもいいのに」
ドリアの熱さに梃子摺りながら杏子が言った。
「う〜ん……でもお祈りの邪魔しちゃ悪いと思って」
杏子が食前の祈りを捧げているのを見て、まどかは途端に自分がひどく無作法なことをしていると恥入った。
「習慣みたいなもんさ。気にしなくていいよ」
彼女の内に潜む優しさに気付いていたまどかだが、こうして食事をするだけでも垣間見える新たな一面があり、
彼女はこの席を設けたさやかに感謝した。

”たまには3人で何か食べに行こう”

さやかの突然の誘いに2人はあっさりと乗った。
もともと習い事などしていないまどかには授業が終われば十分過ぎる時間がある。
杏子も今となっては学校に通う必要もなく、都合がつきやすい。
和気藹々と食事を楽しむ2人を見て、さやかは安堵した。
親睦を深めるという意図がなかったわけではない。
まどかと杏子の接点はそう多くはない。
両者を繋いでいるさやかが積極的に機会を作らなければ、道で偶然すれ違う場合を除いてこうして顔を合わせることはまずなかっただろう。
対立していた2人を和解させたまどかを、今度はさやかが彼女と引き合わせる結果になったが、これは単なる偶然だと彼女は思っている。
2人の相性は良いらしい。
性格は殆ど正反対だが、彼女たちはうまく馴染んでいる。
勝ち気な姉と内向的な妹を思わせる構図は、さやかの心を大いに安心させた。
この会の真の狙いは杏子の気分を晴らすことにある。
彼女の様子がおかしい理由をさやかは分かっているつもりだが、気の利いた慰めの方法を彼女は持っていなかった。
過去の惨劇を夢に見たことが尾を引いているなら、気を紛らすことは難しい。
それに近い経験をし、そしてそれを克服した者でなければ最も効果的な慰撫はできない。
その事を恭介を通じて思い知らされた彼女は、やり方を変えることにした。
自分にできないなら、誰か別の人間の力を借りればいい。
真っ先に思い当たったのがまどかだ。
この純粋さがそのまま人の姿をしたような少女には、さやかには無い要素がいくつもあった。
人当たりの良さ、柔和な顔つき、控えめな口調。
それら全てが相対する者の警戒心を解きほぐし、心を和らげてくれる。
打算や駆け引きとは無縁の彼女を利用するかたちとなったことにさやかは後ろめたさを感じるが、こうでもしなければ杏子の力にはなれない。
癒しの祈りを契約にしておきながら実際には自分が負った傷しか治せないことを、さやかは牴牾(もどか)しく思った。
「――好き嫌いなんてないね。私は何でも食べるよ」
「そう、なんだ。ちょっと羨ましいな……私、辛いのがちょっと苦手で――」
「その気になりゃなんだって食えるさ。無理して食べる必要はないんだよ」
「うん」
2人は知り合って長いこと経った親しい者同士のように、自然に会話をしている。
魔法少女とそうでない者。
両者の住む世界は異なるし、今日まで辿ってきた道も互いに全く違うが、やりとりの中に妙な調和を感じさせるのは杏子もまどかも友好的である証拠だ。
彼女たちはもう美樹さやかを介さなくとも気の置けない間柄になりつつある。
あの翳りのある表情が一変し、まどか相手に笑みを返す杏子を見てさやかは少しだけ救われた気になった。
(ありがと、まどか…………)
自分にできないことを容易くやってのけた親友に、さやかは心から感謝した。
親睦会を建て前にした以上、ここで交流を終えるわけにはいかない。
レストランを出た3人は食後の運動と称して近くのゲームセンターに向かった。
もちろん誘ったのはさやかである。
ここはやや騒音が過ぎるが、賑やかな場所で時間を忘れるくらいに楽しめばいくらか気は紛れるハズだ。
むしろ五月蝿いほうがあれこれと思い悩まなくて済む。
まずは小手調べにとクレーンゲームに挑む。
何かと契約を迫る白い生物を彷彿させるぬいぐるみが隙間なく詰め込まれている。
「あ、これこれ! キューちゃん。いま流行ってるんだよ」
可愛いもの好きのまどかはケースの中を見るなり硬貨を投じた。
操作に従ってアームが降り、2本の爪がぬいぐるみの耳を挟んだ。
「お、やったじゃん!」
爪は上手い具合に本体をしっかりと固定している。
「あ〜あ…………」
だが残念なことに引き揚げる際に他のぬいぐるみに阻まれ、愛らしいマスコットは頭半分ほどせり上がった状態で静止した。
「もうちょっとだったのにね」
「杏子ちゃんもやってみてよ」
お金を入れ、まどかが場所を空けた。
その所作があまりに自然なせいで杏子は目を瞬かせたが、
「こういうの苦手なんだよね――」
なぜか彼女を喜ばせたいという気になり、真剣な顔つきでアームを見据えた。
必要なのは集中力だ。
ボタンから手を離すタイミングが一瞬でもずれれば、2本の爪は求めるものを掴まない。
「あの青い帽子を被ってるやつだな?」
杏子はまどかが欲しがっているぬいぐるみを確認すると、慎重に操作を進めた。
やや古いタイプのこの筐体には押すべきボタンはふたつだけ。
運が絡む要素はない。
「………………」
「………………」
狙いは確かだった。
しかし操作に精密さが足りなかったのか、一度は頭部を挟んだ爪はそれを引き揚げる段になってあっさりとぬいぐるみを手放した。
「あっ! なんだよ、チクショウ」
何も持たないアームが穴の上で両手を広げる。
落ちてくるのは一種の虚しさだけだ。
「はい、どいてどいて。ここはさやか様に任せなさい」
見ていられないとばかりに、得意気な顔でさやかが割り込んだ。
「こーいうのはね、コツがあるんだよ」
ガラス板に顔を近づけ、さやかは人差指と中指でボタンを強く押す。
アームがちょうど真正面に来た時、
「こぉこだぁ〜っ!!」
さやかは不必要に派手なアクションでボタンから手を離した。
頓狂な声に近くにいた数人が何事かと振り向く。
開かれた爪は音もなく降下を始め……。
顔を出していたぬいぐるみの頭を突き刺し、無数の同類の海に埋没させてしまった。
「ひどいよ、さやかちゃん。こんなのってないよ……」
押し込まれたそれはどうやっても取り出せそうにない。
「あ、あははは……おっかしいなぁ〜〜……」
涙目のまどかにさやかは大仰に笑って返す。
しかしその手は既に財布に伸びており、大量の100円玉を掴んでいる。
「ふふん、さっきのは単なるウォーミングアップだよ。今からさやか様がガンガン取りまくっちゃいますからね!」
操作盤の上に硬貨を積み上げ、さやかはぬいぐるみの山と睨み合った。
この小さすぎる戦いはものの数分で終わった。
ぬいぐるみの山を取り崩すより先に、硬貨の山が忽ち丘となり、最後には平地に成り果てる。
幾度となく振り下ろされた爪は見当違いの隙間を目がけ、持ち上げられたアームは虚無を掴んだ。
「――で、さやか様がなんだって?」
杏子がわざとらしく欠伸をしながら言った。
ぬいぐるみの位置は全く変わっていない。
まどかも既に諦めているのか、途中からはただ微苦笑しているだけだった。
「そういえば今日は調子が悪いんだった」
2千円近く無駄にした時、彼女は漸く我に返った。
時間を忘れるまで杏子を楽しませようとしながら、実際にはさやか自身がたった1個のぬいぐるみのために没頭してしまう様は滑稽だったが、
結果的にこの失態も場の空気を和ませるのに一役買っていた。
「さ、気を取り直して次、行ってみよう!」
さやか主導の寄り道はまだ続く。
こういった類のゲームを苦手としているまどかも、2人が作り出す空気に押されてアクションやシューティングといったジャンルに挑む。
さやかと杏子は体感型のゲームに興じる。
座って画面を凝視するよりも、体を使ってプレイするほうが性に合うらしい。
「杏子ちゃん、すご〜い!!」
まどかは思わず身を乗り出した。
一段高い仕切りの向こうで、杏子は軽やかにステップを踏んでいる。
その身のこなしがあまりに優雅で、まどかにはそこだけ重力が正しく働いていないように見えた。
ひと通り遊んだ後、たまたま空席だったダンスゲームを見つけたさやかが、
『どっちが高得点を出せるか勝負しない?』
と挑戦状を叩きつけたのが始まりだ。
何かと張り合いたがる彼女の挑発に乗るフリをし、杏子は余裕の笑みでそれを受けた。
ハンディキャップのつもりで簡単な曲を選択しかけた杏子に対し、
どうせなら一番難しい曲で勝負しよう、とさやかが言ったため終始激しいステップを強いられる戦いとなった。
だがゲーム開始からわずか10秒足らずで、彼女はその言葉を取り消したくなった。
モニターに次々に現れるマークは次に踏むべきパネルを示すが、高難度のモードではそれを見てから反応していては間に合わない。
マークを確認し、その色の意味を理解し、それに合わせて体を捌く。
逐一このプロセスを経ている限り得点はできないのだ。
さやかは目まぐるしく動くモニターに翻弄され、滑稽なダンスを披露した。
リズムはとっくに乱れ、忙しなく動く脚には精彩さの欠片もない。
かろうじてスコアは稼いでいるがそれは狙ったものではなく、指示にはるかに遅れて踏んだパネルが、次に踏むべきパネルだったからだ。
意地っ張りな少女が必死に展開に食らいついている、そのすぐ横で――。
杏子は力強く華麗なステップを踏んでいた。
彼女がちょっと脚を動かせば、そこはもう踏むべきパネルだ。
虹色に光る床の感知器だけが加点の対象となるにも関わらず、杏子は上半身をもダンスの一部に取り入れている。
勝負に限定していえば無駄な動き。単なるパフォーマンス。
だが彼女が四肢をひとつの全体として操れば、勝敗にこだわる対戦相手はもはや敵ではない。
杏子は既に完成されたダンスをただ踊るだけだ。
「はぁ……はぁ…………」
およそ90秒の演目が終了した頃には、さやかは前後すら分からなくなるほど疲弊していた。
彼女自身この種のゲームは何度か遊んだが、ここまで高難度のモードを選択したことはなかった。
アップテンポの曲とそれを凌ぐマークの応酬に振り回され、彼女は手すりに凭れかかった。
勝敗は誰の目にも明らかだった。
彼女がこれに勝つにはゲームの趣旨が”拙さ”を競うものでなければならない。
「よう、どうしたのさ? ずいぶん息が上がってるじゃんか?」
ダンスゲームのエッセンスを理解している杏子は、準備運動にもならない90秒間で呼吸を整えている。
見た目には激しい運動を要求されるが、”流れ”を掴んでいるプレイヤーなら体に負担は殆どない。
「う、うっさいわね! ……っと……ちょっと間違えただげよ! ごれがるが……そう、ホンバナなんだから…………!」
額に大粒の汗を浮かべての強がりは大音量の中に虚しく消えた。
「あ、点数が出るよ」
さやかの対抗意識を無にするようなまどかの声に、2人はモニターに向きなおる。
表示された両者のスコアには10倍以上の開きがあった。
「な、なんでぇ〜〜っ!?」
納得いかない、と言いたげにさやかは頓狂な声をあげた。
正しくパネルを踏み、コンボを繋げれば得点が倍加されることを彼女は忘れていた。
「私に勝とうなんて100年早いんだよ」
自分側のモニターにだけプレイヤー名入力欄が表示されているのを見た杏子は、慣れた手つきで名前を入力した。
”KYOKO”の文字が2位にランクインされた。
その上にも同じ名前が記されている。
「ちょっ!? なによ、杏子。あんた上級プレイヤーじゃん!?」
ランク表を見たさやかは猛抗議した。
1位、2位を杏子が、3位を全く別のプレイヤーが取っている。
しかしよく見ると2位と3位には大差がついており実質、杏子の独擅場となっている。
「ずるいわよ! そんなの勝てるわけないじゃない」
「だから100年早いって言ってんだよ」
「無効よ! 無効! この勝負ナシ!!」
「どっちがずるいんだよ……だいたい初級コースで”遊んでやる”つもりだったのに、バカみたいに難しい曲を選んだのはさやかだろ?」
「あ、あれは……! そのほうが盛り上がると思って……」
「とにかく勝負は勝負だ。私の勝ち、あんたの負け」
「くうぅ〜〜…………!!」
やたら悔しがるさやかを、微苦笑しながらまどかが宥めた。
この空気が彼女は好きだった。
いつもの3人ではこのような小競り合いは起こり得ない。
控えめなまどかと仁美、ひとり場を引っ張っていくさやかという組み合わせとなるとなまじ調和が取れている分、
そこに新鮮さはなくなってしまう。
比して杏子のような、さやかに近い性質の人物が混ざると雰囲気は一変する。
我の強い2人を前にまどかの個性は後退するが、代わりに間を取り持つという役割が生まれる。
実際、彼女は死闘を演じたさやかと杏子に、こうして同じゲームで遊ぶまでの仲になるキッカケを作った。
その後の進展は当人の歩み寄りによるものだとしても、まどかの働きかけがなければ2人は今も見解の相違から激しく対立していたかもしれない。
「………………」
杏子は肩越しに振り返り、もう一度モニターを見やった。
ランキングはまだ表示されている。
それが暗転し、画面が一瞬の黒に包まれた時――。
ごく最近の記憶が彼女の中に甦った。

『手遅れになる前に始末する。今なら間に合うから……』

あの時だ。
素性を全く明かさない魔法少女が、冷たい口調で放ったあの言葉が。
忘れ去っても構わない戯言が、今になって杏子の胸に突き刺さった。
あれから……。
彼女は暁美ほむらとは顔を合わせていない。
美樹さやかももちろん健在だ。
あれは陳腐な脅しだ。
”その気がない”人間ほど、あのような過激な表現を用いたがる。
気にすることはない。
気にする必要はない。
どうせ彼女には何もできやしない。
ワルプルギスの夜の到来を予知できながら、わざわざ共闘を持ちかけるような言動をする点を考えれば、さして脅威ではないと分かるハズだ。
(だよな…………)
しかし彼女には何かが引っ掛かっていた。
漠然とした不安だ。
何か良くないことが起こるのではないか、という漠然とした不安だ。
それをほむらが齎すのか、ほむらの言葉によってそう思わされているのかは彼女にも分からない。
ただ、動物的な勘が遠くない未来の危機を告げているようだった。

 

 生ある者にとって死は最大の苦痛であり、最大の救済でもある。
濁世のあらゆる煩わしさから解き放たれる肉体の死は、神の御元に近づくための第一歩だ。
魔女退治から戻ってきた少女は、父の書斎のドアが少しだけ開いているのに気付いた。
明かりが漏れている。
几帳面な父はこうしただらしなさを極端に嫌う潔癖さがあった。
常々、娘に、
『戸を開けたらきちんと閉めなさい。後ろ手にではなく丁寧に』
彼はこう教えていた。
ただ人の幸せを希(こいねが)うだけでなく、言葉も心も通い合わせることのできないモノに対しても敬意を払っていたようだ。
神はいつも私たちを見て下さっている。
清く正しく、誠実であれ。
勤勉で実直に日々を送っていれば必ず救いの手を差し伸べて下さる。
それが彼の口癖であり教義でもあった。
その教えが日頃の何気ない所作にも反映された結果が、つまり紳士淑女としての振る舞いを求めることに繋がった。
浅はかな考え方だ。
ドアを開けっ放しにしていれば神はそっぽを向くとでもいうのか。
礼儀正しくしていれば神に評価されるのか。
今の彼女ならさすがにこれはバカバカしいと一笑に付すことができる。
親が子を躾けるにあたって神の御威光(みいつ)を体よく借りたに過ぎない。
子ども騙しの常套手段だったが、当時の彼女はそれを信じ切っていた。
そのまま神を信じていたのではない。
神を信じていた父を信じていたのだ。
「パパ……?」
今となってはこう呼ぶのも躊躇われる。
大好きな父には顔を見れば魔女と罵られ、妹とはまともに話をする機会すら与えられない。
信者を取り戻し裕福になったハズなのに、彼はそれを齎してくれた娘に満足に食を用意することもしなかった。
魔女を餓死させる意図があったのかは分からない。
彼もまた酒を除いては奢侈に耽ることはなかった。
進んで栄養を摂らず、家族にもそうしない時点で、最悪の結末は既に出来上がっていたのだ。
「パパ…………?」
廊下から少女はもう一度だけ呼んだ。
ドアが開いていればノックもせずに入ってよい、とは教えられていない。
――返事は、ない。
小さな悖徳感(はいとくかん)を意識の外に追いやりながら、彼女は静かにそこに踏み込んだ。
湿った空気が肌にまとわりつく。
「………………」
有り様を見つめた少女は、何が起きたのかを理解するのに数秒を要した。
部屋の真ん中に父はいた。
この世の全てを見下ろし、区別なく救いの道を示す偉大な存在のように。
彼は数十センチの高さに立っていた。
足元には何もなかった。
重力を支配する神通力を得たわけではない。
この男はかつて多くの罪人がそうされたように吊るされていただけだった。
頚椎が脱臼し、キリンの如く伸びた首に掻きむしった痕はない。
「ねえ、パパ――?」
少女は意味のないことをした。
もうこの男は娘の顔を見ることはない。
口汚く罵ることもない。
自棄を起こして酒に溺れることもない。
彼は終わったのだ。
少女は床に散らばる細切れの白を見つけた。
父が命にも等しく大切に扱ってきた聖書や箴言集、あるいは熱心な信者からの救いを求める手紙や、
彼の説教に従い実際に悪夢から解放された人々からの感謝状が。
けして完成することのないジグソーパズルのピースとなって書斎いっぱいに広げられていた。
その中に――。
無数の紙片に隠れるように妹が蹲(うずくま)っていた。
望まない死を与えられたこの幼女は、荒れた部屋で醜い死に様を晒す父とは対照的に、生まれたままの美しい姿で眠っていた。
この世に別れを告げる前に彼はそれまで強く自戒していた戯れに及んだのか、
彼女が露にしている肌よりも白い液体が下半身のあたりを濁らせている。
杏子は咄嗟に自分の唇を指でなぞった。
潤いを無くしたそこは旱魃に見舞われた荒蕪地のように乾き、ささくれだった表皮が白い指を引っ掻いた。
魔女の仕業だ、と彼女は思った。
狡猾な連中はこの家に魔法少女が住んでいるのを知っていて、彼女が不在の隙を衝いたのだと。
しかしこれは心中だ。
父親の狂っていく様を見てきた杏子は、彼が妹を害し、自身もその後を追ったのだと知った。
だからこれは魔女の仕業だが魔女がやったのではないと分かっていた。
少女はもう一度、唇に触れた。
やはり乾いている。
彼女は安堵した。
口付けをしたのは自分ではないと理解できたからだ。
まだ見ぬ別の魔女が家族を死に至らしめたのだ!
杏子はそう思い込むことにした。
「………………」
分かっているのだ。
全ては自分が引き起こしたのだ。
契約を交わした時点で自分は魔法少女ではなく魔女になったのだと。
ずっと前から倒すべき敵に成り果てていたのだと。
それに誰よりも早く気付いたのが父だったのだ。
彼は魔女に殺される前に自ら命を絶ったのだ。
「どうして……?」
何を間違ったのか、は少女には分からない。
「ねえ……どうして、なの…………?」
悪意など微塵もなかった。
むしろ彼女は自己の犠牲を厭わず最も尊い善意を行動で示しただけだった。
誰もを幸せにしたかっただけなのだ。
飢えに苦しむ家族を救い、彼の教え――唯一無二の、世界を幸せで満たすための導き――
に全ての敬虔な信者が耳を傾けるように願ったに過ぎない。
いくらかは自分のためでもあったが、彼女がこれから強いられる過酷な戦いを考えればあまりに些細な贅沢だった。
しかしこの贅沢がマズかったのかもしれない。
何もかも手に入れたがった所為で、結局は欲しいモノどころか、彼女が元々持っていたモノすら失う羽目に陥ったのだ。
「なんで、こんな――」
少女の悲痛な叫びに答える者はいない。
手を引いてくれる者も、道を示してくれる者も。
もう彼女には何も無かった。
「チクショウッッ!!」
この時、少女は初めて神を憎み、恨んだ。
宣教を続けてきた父に何の見返りも与えず、自分からは全てを取り上げ、後に何も残してくれなかった神を。
彼女は激しく憎悪した。
それまで世界に不幸を振りまく魔女にさえ抱かなかった負の感情を。
天上で不敵な笑みを浮かべているであろう存在にあらん限りぶつけた。
佐倉杏子の中の神はこの瞬間、死んだ。
あるのは冷たい現実だけだ。
目に見えないモノも、耳に聴こえないモノも、手に触れられないモノも。
この世には存在しない。
在りもしないものを夢想し、信じ、縋ることを彼女はやめた。
「バカヤロウ…………ッッ!!」
罵りは自分に対してのもの。
愚かだったのだ。
少女はとても愚かだったのだ。
こうなる前に神などいないと、父に教えてやるべきだったのだ。
理想を語るだけでは何も変わらないと、諭してやるべきだったのだ。
(………………)
だがそれはできないし、できなかった。
彼女は一度として父を疑ったことはない。
間違っているとも思ったことはない。
尊敬する父は常に正しかったハズだ。
彼が信奉する神を殺したのは――。
彼女自身かもしれなかった。

 





 

「クソ…………ッ!!」
寝覚めの悪い夢に、杏子は小声で怒りをたたきつけた。
暗闇の壁掛け時計に目を凝らすと午前2時。
(またか…………)
決まってこの時間だった。
見る夢の内容にはいくつかの違いこそあるが、彼女はいつもこの時間帯に目を覚ます。
喉に痛みを感じた杏子はそっと触れた。
わずかに熱を帯びている。
寝ている間に掻きむしったらしい。
内と外からの不快感に舌打ちし、彼女はそっとベッドから這い出た。
背を向けているさやかを起こさないように注意を払って部屋を出る。
この家の間取りにも馴染み、闇に目が慣れてきたこともあって、杏子は難なくキッチンに辿り着く。
家人に断りもなく物に触るのは気が引けたが、喉の辺りを今も蠢く異物感を取り除くには一杯の水がどうしても必要だった。
生温い液体が嚥下によって体内に流れ落ちると、痛みはいくらか治まった。
だが今は宝石に姿を変えた魂は苦痛を訴え続けている。
殆どあらゆることを成し遂げられる魔法の力も、無意識状態で否応なく見せ付けられる悪夢に対してだけは何の効果も及ぼさないらしい。
記憶は――。
意図的に忘れることはできない。
忘れるためには思い出す作業が必要だが、これをしてしまうと消し去りたい過去が新たな記憶として上塗りされてしまう。
彼女はそれを誰よりもよく知っていたからこそ、”忘れる”のではなく”受け流す”方法をとってきた。
気持ちの切り替えには艱難を伴うものの、無理に忘れようと努めるに比べればいくらか気は楽だし、
その後は少々の理不尽を躱せるだけの柔軟性も身に付く。
それが最も効率的で合理的なやり方だと。
杏子はずっとそう思っていた。
それがいつからか崩れ始めた。
確固たる信念が砂粒ほどの小さな存在に突かれ、その傷口が時間を追って広がっていくのを彼女は感じていた。
このところ立て続けに見せられる悪夢は、杏子から鋭敏さと力強さを奪っていった。
(なんでだ…………?)
独りになってからの彼女は強かった。
魔女を相手に戦う姿は凛々しかったし、辛辣な現実を生き抜く知恵と頭の回転の早さも抽(ぬき)んでたものがあった。
一度は全てを受け容れ、割り切ったおかげであの日の光景が眠っている間に襲ってくることもなかった。
「なんでだ……?」
夢だ。
しばらく見ていなかった夢が、毎日のようにやって来る。
彼女の生き方、考え方を否定するように。
それは決して何も言わない。
ただいくつかの全く同一の光景を見せるだけだった。
「………………」
喉の痛みを感じなくなった杏子は部屋に戻ることにした。
自分の家だと思って寛いでくれればいい。
さやかの母はそう言い、実際そうして欲しそうだったが、やはり他人の家に上がり込んでいる身としては
家人に内緒でキッチンに長居するのは気が引けた。
(………………?)
彼女は足を止めた。
何も見えない廊下を一条の光が横切っている。

 

 眠りが浅かったわけではない。
昼は学生として、夜は魔法少女として戦う美樹さやかには、いつも充分な睡眠が必要なハズだった。
だがそれでも寝付けないのは――。
「クソ…………ッ!!」
背中越しに杏子の声が聞こえた。
いつもの時間だ、とさやかは思った。
眠れないのは彼女も同じなのだ。
ベッドに潜り込んでしばらくすると、杏子は決まって父を呼び続ける。

”パパ…………”

起きている時には決して聞くことのできない、弱々しく悲しげな囁きだ。
その声は徐々に大きくなり、最後には叫び声となって彼女を覚醒させる。
「………………」
ベッドが僅かに軋み、続いて足音。
これもいつもどおりだ。
杏子はさやかが眠っていると思っている。
それを分かっているさやかは寝ているフリをする。
(杏子――)
少女は小さく息を吐いた。
相手が魔女なら戦いに加勢すればよい。
相手が人間なら間に割って入ればよい。
病気が原因なら医者に診せればいいし、怪我なら簡単な処置くらい施してやれる。
しかしそうではないのだ。
杏子を苦しめる相手が目に見えず、触れることさえ敵わない悪夢となれば、さやかにはどうしてやることもできない。
それでも何とか力になりたいと思う彼女は、周囲を和ませるまどかと彼女を引き合わせ、せめて昼間くらいは苦痛から解放されるようにと団欒の場を設けた。
その時の杏子はとても楽しそうだった。
さやかと1対1ではヘンに張り合ってしまうところがあるが、緊張も警戒も必要ないまどかが間に入ることで空気は温かいものに変わる。
彼女はそれを楽しんでいたハズだった。
誰かと食事をすることも、誰かと連れ立って遊ぶことも、彼女はずっとできなかったのだ。
年頃の女の子なら送って当然の日常が、杏子にはなかったのだ。
それを今からでも作ってやりたいと思うさやかに、いくらかの同情がなかったわけではない。
自分より不幸な人間に手を差し伸べることで、気持ち良さや優越感をほんの僅かでも味わっていることは否定できない。
杏子を半ば強引に寝泊りさせている以上、彼女に対する責任を負わなければならないという義務感も多少はある。
だが、それらは極めて些細な、無視できる程度の人間の醜さだ。
美樹さやかの本心はそうした道徳的あるいは倫理的に説明ができるような安直なものではない。
妙な息苦しさを感じた彼女は見えない力に引っ張られるように体を起こし、部屋の照明を点けた。
瞬間、視界を覆う強い刺激に目を瞬かせる。
夜は昼になった。
こうすれば闇は寄って来ない。
天井から降り注ぐ光さえ遮らなければ、ここはいつまでも昼だ。
暗がりにいるだけで人は恐怖を抱く。
普段頼っている視力が使い物にならない分、残った感覚がありもしないバケモノを創り出すことだってある。
「悪い……また起こしちまったか?」
部屋に入るなり杏子は消え入りそうな声で言った。
弱々しいその声を聞きたくなかったさやかは、
「起きてたよ」
咄嗟にそう返すことで彼女の気持ちを少しでも楽にしようとする。
「それより私こそごめん。気がつかなくて」
習慣で就寝時に消灯してしまったことを彼女は詫びた。
「いいって。そこまでしてもらっちゃ悪いし」
そう言う杏子はさやかの生活スタイルを乱すことはもちろん、光熱費に関しても気にかけている。
彼女には何もない。
保護者を喪い、住む場所もない彼女には、この居候の対価を支払うことができなかった。
贅沢どころか人並みの生活すら諦めてきた杏子にとって、この心地の良い一時は忘れていた幸せをいっぱいに感じさせる半面、
その幸せを享受していることに対する罪悪感をも味わわせる。
希望と絶望は差し引きゼロである。
彼女がこの考え方を捨てない限り、いま彼女が感じている幸せに相当する不幸がどこかにあるハズなのだ。
「でもそれだとあんたが寝られないでしょ?」
暗闇が杏子に悪夢を見せているのだ、とさやかは踏んでいた。
実際、それは間違いではない。
「………………」
杏子はそれを否定しない。
何を話すにも長考を要さず――しかし発せられる言葉はいつも熟慮した末と思わせるほど的確――反射的に発言する彼女が、
さやかの直截的すぎる問いには沈黙しか返せなかった。
いつからか――。
杏子は眠るのが恐くなった。
一日の疲れを癒やすハズの睡眠は安眠から不眠に転じ、本人の意思に関係なく悪夢を見せつけてくる。
もはや周囲を取り巻くのが光か闇かなどは関係なく、ほんの一瞬の微睡(まどろ)みの中にさえ入り込んでくる陰惨な過去は、
気丈に振る舞おうとする少女から一切の安穏を奪い尽くそうと目論む。
この恐怖から逃れるためには意識をしっかりと保つこと。
眠りさえしなければ夢魔はやって来ない。
これがあの、脅威に対する唯一の防備だ。
「あんた、もうずっと寝てないんじゃないの?」
考えずとも分かることだった。
彼女は毎日のように魘されている。
何度も何度も父を呼び続る。
歔欷(きょき)の声が今は亡き彼への叫び声に変わるのを、さやかは何度も背中越しに聞いていた。
どれほど強靭な肉体を持っていようと。
どれほど豪胆な精神を構築しようと。
抗えないものがある。
杏子はそれに立ち向かおうとしているのではない。
理不尽な責めに対抗しようとしているわけではない。
彼女は――。
一度は自分なりに折り合いをつけたハズの過去から、逃げようとしていた。
(やっぱり…………)
杏子が返事をしないことでさやかの疑念は確信に変わる。
「杏子――」
今の彼女がしてやれるのは、
「明日、どっか行こっか?」
この程度の、
「駅をちょっと行ったところに新しくスイーツショップができたんだって。あんた好みのがあるかもよ?」
使い古された気遣いしかない。
「だからまたまどかも誘ってさ――」
魔法少女としては未熟で失恋という、当人には耐え難い苦痛だが生死を左右するほどでもない経験しかない彼女にとっては、これでも精一杯の慰撫だった。
相変わらずの手段だったが、親友の力を借りてでも杏子を元気づけたいと思うさやかに対し、
「ああ……悪い。私はいいや――あんたたちだけで行ってきなよ」
彼女は心底から申し訳なさそうに返した。
「そ、そっか…………」
翳りのある表情で断られると、さやかにはもうそれ以上なにも言えなくなる。
この少女はいつもあと一歩が足りない。
マミが命を落としたのも、彼女がキュゥべえとの契約を逡巡したところに一因がある。
恭介への愛情の伝え方も仁美のそれに比べれば些かの見劣りがあった。
活発で能動的なハズの美樹さやかは、その生来の持ち味を最も活かすべきところをいつも見誤るのである。
この時も――。
何か考え悩んでいる様子の杏子の意思を尊重などせず、ただ自分の思うとおりに彼女を振り回していればよかったのだ。
遊びに、食事に、盛り場に。
どこでもよい。
とにかく強引に連れ回していればよかった。
深い考えなしに、半ば本能の赴くままにまどかを巻き込み、杏子に思い悩む暇さえ与えないほどに場を掻き乱せば、
それだけで防げる悲劇があったのだ。
だが、それが――。
彼女は全く分かっていなかった。
一押しを躊躇うタイミングを間違えたさやかは、
「ま、しょうがないか。都合がついたらまた教えてよ。私もまどかも何時でも空いてるから」
無理に笑顔を作って取り繕う。
もちろん彼女には杏子の言葉を真に受けて、まどかと2人で寄り道に興じるつもりはない。
今、それをすれば杏子を置き去りにしたような気分になる。
「ああ、そうするよ」
そう答える杏子の瞳にさやかの姿は映っていなかった。
「きょう――」
「なんかヘンに目が冴えちまった。ちょっと風に当たってくる」
さやかがまた何か言おうとしたのを察知した杏子はやや早口でそれを遮った。
「私に合わせなくていいからさ」
彼女はぎこちない手つきで部屋の照明を消すと、音を立てないように窓を開けた。
「え、ちょっと…………!?」
さやかの制止を振り切り、杏子は窓の外に身を躍らせた。
冷たい風が下から吹きつけ、彼女はようやく目を覚ました。
(すぐに戻って来るって)
部屋の主にテレパシーで伝え、杏子の体は夜闇に溶けた。





いつから何が変わってしまったのか。
彼女は時間があればそれを考えるが、答えは一向に出てこない。
静寂の中にいても、喧騒のただ中に放り込まれても。
見えない何かが結論を出すのを妨げる。
「………………」
彼女は高いところが好きだ。
見下すのではなく、見下ろすのが好きだった。
どうせ人は天には届かない。
成層圏を越えても、大気圏を突破しても、その次にあるのは無だ。
それを知っている彼女は高みを目指す愚かな真似はしない。
自分には自分の、適した高さを見つけているからだ。
歩道橋がそのひとつで、杏子はしばしば夜のこの場所にやって来る。
街路灯の明かりは眩しすぎず、行き交う車もまばらで五月蝿くもない。
周囲を遮るものがないお陰で風通しもよい。
時たま襲ってくる心寂しさにさえ目を瞑れば、心を落ち着けるには最適だ。
(………………)
つい最近までの自分とは違うと、彼女は分かっていた。
緊張感だ。
それを以前ほど感じなくなっている。
一日は誰にも等しく24時間が与えられているが、杏子はそのうちの1秒でさえ気を抜いたことはなかった。
庇護してくれる者のいない現実では甘さも油断も死に繋がる。
特に緊張感の欠如は生を最も脅かす要素だ。
「ワケ分かんねえ…………」
眠るのが恐かったのは昔も同じだった。
ただその理由は大きく異なっていて、以前は寝込みを襲われることへの警戒感が大半を占めていた。
野外で一晩を明かす時はもちろん、ホテルの一室に身を横たえている夜でさえ、権限を持った何者かがオートロックを解除して
忍びこんでくるおそれを否定できない。
周囲の全てが敵ではない。
しかし周囲に味方はひとりもいない。
この事実が佐倉杏子を常に鋭くしていたのだ。
悪夢を見る暇もないほどに――。
(悪い夢…………?)
この表現は彼女に疑問を抱かせる。
なぜ”悪い”夢と言い切れる?
もう逢えない父や妹との再会を果たせるのに?
魘される必要などないのに?
飛び起きた時の額の汗は、流れる場所を間違えた感動の涙かもしれないのに?
これを悪夢と呼ぶのなら、それは家族を遠ざけたがっている何よりの証拠になりはしないか。
杏子は何もかも考えるのをやめたくなった。
難しいことを考えるのが嫌いなのではない。
初めから答えが出ないと分かっている事柄に思考を巡らせるという無駄を省きたいだけだ。
(神様の怒りってやつに触れたのかもな…………)
彼女は無理やり納得しようとする。
教義にないことまで語りだした父は、本部からすれば罪人に見えなくもない。
となれば信仰の対象である神にとっても彼は異端であり、言うことを聞かない反逆者となる。
娘は――そんな父を助けてしまったのだ。
安易に奇跡に縋り、親しい者に頼みごとを引き受けさせるような口約束だけで。
現実には起こり得ない奇跡を起こし、世の中の法則を捻じ曲げたのだ。
神はその思いあがりに鉄鎚を下したのだ。
天地を創造し、この星に命の種をばら撒いた万物の母――あるいは父――に断りもなく、越権行為に及んでしまった少女に対して。
身の丈にあった幸不幸を大人しく受け容れていればよいものを、奇跡を願っただけでなく神秘的な力をも手にした彼女を神はお許しにならなかったのだ。
自分ひとりを残して家族に先立たれたのは――つまりは罰なのだ。
そう考えれば多少の諦めはつく。
天に届かない人間は神に太刀打ちできない。
全ては偉大な存在に委ねられているのだ。
「こんな時間まで魔女探しかしら?」
一瞬にして空気の流れが変わったのを感じた杏子は、その声を聞く前から彼女が後ろに立っていることに気付いていた。
「たまには正面から来たらどうなのさ?」
うんざりした様子で振り返る。
暁美ほむらは長髪を掻きあげる仕草で皮肉を躱(かわ)した。
(そんなに邪魔なら切るなり纏めるなりすればいいのに)
彼女の所作は時に人をイラつかせる。
この何もかもを見通したような目つきと、何もかもを知り尽くしたような口の利き方にそれが加わると、
特に複雑な事情を抱えている者にとっては憎悪の対象にすら成り得る。
「それは無理ね。あなたは私を前には立たせてくれないから。今だって――」
ほむらは無機質な声で言い、指差した。
その先を辿ると先ほどまで杏子が肘掛けていた欄干に行きつく。
「ふん…………」
いつか見せたように妙なワザを使って宙に浮かべばいい、と彼女は思ったが口にはしない。
「で、あんたは何やってるのさ? 明日も学校があるんだろ?」
「………………」
この少女はいつも相手の質問に答えない。
自分の言いたいことだけを言い、ロクに返事も待たずに消えていく。
杏子は彼女が嫌いだった。
何も語りたがらない秘密主義の一面は個人の人格として許容できる。
だがほむらは美樹さやかを敵視している。
ともすれば彼女を魔法の力で亡き者にしようとする節さえある。
ある意味では魔女よりもはるかに性質の悪い魔法少女に対しては、いくら警戒しても足りないほどだ。
「あんた、いったい何者だ?」
考え事もさせてくれない彼女に、杏子は鋭い視線を向けた。
わざわざ思考を中断させに来た相手だ。
疑問のひとつでも解消してくれなければ割に合わない。
「あなたと同じよ。ただの魔法少女」
間違いではないが回答としては不十分だ。
「だったらなんでワルプルギスの夜が来るって分かる?」
杏子はさらに踏み込んだ。
予知能力の類を持っているなら、共闘を持ちかけるという遠回りをしなくとも効率的な方法があるハズだ。
「それは言えないわ。でも本当よ」
言葉少ないほむらはたとえ確定的な近い将来であっても、相対する者にそれを信じさせる術を持たない。
深く、中身のない台詞ばかりが空転し、聞く者に疑念ばかりを抱かせる。
「信じろってほうが無理な話だろ? 手を組むってんならちょっとは手の内を見せてくれないとね」
杏子は会話を繋ぐためにそう言ったが実際のところ、この話題は全くどうでもよかった。
大型の魔女の襲来よりも、まずは自分の内にある感覚との対決のほうが先だ。
「今のあなたと組んでも多分……きっと勝てないわ」
この少女はまたしても相手の神経を逆撫でするような言葉を選ぶ。
見た目に反して冷静な杏子も、この時ばかりは危うく噛みつきそうになった。
「へえ……そりゃどういう意味さ?」
この魔法少女に気を許してはいけない。
彼女については何ひとつ分かっていないのだ。
杏子は慎重になるように自分に言い聞かせた。
「そのままの意味よ。佐倉杏子、あなたは――」
ほむらは目を細めた。
「弱くなったのではないかしら?」
射竦めるような視線を巧く逸らす余裕は、今の杏子にはない。
(そうなのね…………)
答えを待つ必要はない。
彼女は指摘されたとおり、弱体化していることをその振る舞いで証明している。
(原因はきっと――)
美樹さやかだ、とほむらは思った。
彼女が絡むと大抵の成り行きはほむらの思うとおりにならない。
故意かそうでないかに関係なく、あの愚直なルーキーはいつも彼女にとって目先の障害となる。
杏子も彼女に似て好戦的な面があるが、さやかに関してはそれに過度の猜疑心が加わる。
その疑念がより強くなった時、彼女は幼児のように癇癪を起こして自暴自棄になり、惨めな最期を迎えるのだ。
ほむらが何度も繰り返してきた時間の中、美樹さやかが”そうなる”展開が何度もあった。
魔女化そのものは問題ではない。
治癒能力だけが取り得の素人が脱落し、他の魔法少女のためにグリーフシードをひとつ残してくれる。
懸念すべきはその直後だ。
その末路に絶望した者が、正気であれば決してとらない行動に躊躇なく踏み切る。
その瞬間をほむらは恐れた。
誰もさやかの巻き添えに遭ってはならない。
魔法少女は孤独な存在だと皆が胆に銘じれば、彼女の消滅に心を揺り動かされることはないハズだ。
だから彼女は様々な手を打った。
まどかとキュゥべえを引き離しておき、同時にさやかと関わる者たちに対しても楔(くさび)を打っておいた。
全ては美樹さやかとの親密な関係を築かせないためだ。
彼女のことを任せてほしい、と杏子に繰り返し言ったのもその為だったが、努力は既に無駄に終わっていたようだ。
(でも意外だったわ――)
キュゥべえ以上に監視しておくべき対象は、ほむらが知る限りの最悪の事態を乗り越えていた。
さやかが魔女になるキッカケの殆どはあの若き天才ヴァイオリニストとの実らない恋だった。
男の子のような言動の割に恋愛には奥手の彼女は、才色兼備の仁美に敗れることが多かった。
その傷が魔法の力をもってしても癒せないことくらいは、多くを諦めているほむらにも分かっている。
つまり恭介と恋仲になれなかった時点で、美樹さやかはいずれ魔女になるハズだった。
しかし今回、その危険はなさそうである。
あの日、屋上での一幕を眺めていたほむらは引き金に掛けた指をそれ以上動かさないようにするのに必死だった。
銃口を誰に向けていたのかは本人も覚えていない。
さやかの恋路を邪魔する令嬢を撃てば2人は結ばれるかもしれない。
さやかの好意を拒む恭介を撃てば諦めもつくかもしれない。
そもそもさやかを撃ってしまえば憂いはなくなる。
……そのどれもが彼女にはできなかった。
冷に徹すると決めたほむらも、一握りの良心が邪魔をして非情な行動を取りきれない。
美樹さやかを手にかけるのは――”その直前”でも間に合う。
それに不用意に彼女を害すれば杏子との共闘関係も崩れるおそれがある。
考え直した暁美ほむらは静かに銃をおろした。
この時の判断は今のところ正しい。
彼女はまだ魔女になっていないし、その兆候も見られない。
その点では理想に近い展開に転じ始めた、と言えなくもなかった。
しかし、その代わり――。
「私が……弱くなったって?」
杏子の声は心なしか震えていた。
図星を衝かれた人間に特有の狼狽だ。
「あなたから以前のような鋭さが感じられないわ」
ほむらには彼女が契約したばかりの、戦う意味を正しく理解できていない魔法少女に見えた。
誰よりも時間に恵まれている彼女は、新たな懸念の種にため息をついた。
美樹さやかが健在でも、佐倉杏子に弱体化されては意味がない。
最悪の魔女を打ち倒すにはベテランの力が要る。
巴マミがいない現状、頼りになるのはやはりこの勝ち気な少女だけなのだ。
「………………」
杏子には何も言えなかった。
強さというものが何であるかを見失いつつある彼女にとって、ほむらの言葉はあまりに辛辣だ。
「ワルプルギスの夜は――」
少し考えてからほむらは言った。
「全てを破壊しようとするわ。この町も、ここに住む人たちもみんな……」
あなたにだって守りたいものくらいあるでしょう、という意味の視線を向ける。
「分かってるさ」
言葉の通じない魔女が特定の町だけを狙って破壊活動に出るとは思えない。
無差別の攻撃を繰り返せば被害は見滝原の周辺にも及ぶだろう。
そうなれば――。
彼女の最後の拠(よりどころ)である、あの廃れた教会も無事では済まなくなるだろう。
杏子が彼女の申し出を蹴らなかったのは、もちろんそれを守るためだ。
依存も信頼もない。
信用さえしていない。
家族を喪った直後は、自分以外の全てのモノが壊れてしまえばいいと思った彼女だったが、
良くも悪くも思い出の詰まった教会だけはどれほど老朽しようとも見た目に分かる形で残しておきたかった。
「話はそれだけか?」
暗に立ち去れ、という意味の言葉をぶつける。
「ええ…………」
ほむらは頷いた。
「心配しなくてもあんたが思うようなことにはならないさ。今までだってうまくやってきたんだ」
戦うことにかけては誰よりも強い。それ自体が彼女の大きな武器だ。
「………………」
しかしこの一言がほむらを些か不安にさせる。
どうにも運任せのようにも聞こえ、頼りになる仲間という印象を与えてくれない。
「あんたにひとつだけ言っておくことがある」
「なにかしら…………?」
杏子の目が突然鋭くなった。
この視線を向けられることに慣れていないほむらは、表情に僅かに変化を見せる。
「美樹さやかには手を出すな」
「………………」
この目だ。
この気迫だ。
ほむらが彼女に期待しているのは、今の佐倉杏子だ。
「――分かったわ」
ほむらは自分でも驚くほど通る声で即答していた。
「……イヤにあっさり引き下がるじゃんか?」
あれほどさやかを目の敵にしていた彼女が、まるでそうしようとしていたこと自体がウソであるかのように旗幟を翻したために、
杏子は却ってその言葉を信用できなくなった。
「今のところ脅威ではなくなったからよ。あなたにとっても、私にとっても」
その意味は杏子には分からない。
何をもってさやかを危険だと見なしていたのか、また何をもってその危険が去ったと判じたのか。
「――ってことは言い換えれば状況次第じゃ、またあいつを狙うってワケか?」
「残念だけれど、そうなるわ。もちそん、そうならないに越したことはないけれど」
相変わらず謎めいた部分が多かったが、その語り口からほむらが積極的にさやかを害そうとしているのではなく、
止むを得ずそのような手段に出ることも厭わないという姿勢であると悟った杏子は、
「あいつがどうなりゃ”そういう手に出る”んだ?」
切り口を変えることにした。
そこが彼女の知りたいところだ。
ほむらがさやかの何を危険と見ているのかは本人以外の誰にも分からない。
「それは――言えないわ」
ほむらは頭を振った。
言えるわけがないのだ。
こればかりは不屈の精神の持ち主にさえ明かすことはできない。
魔法少女にとって生涯を左右しかねない真実――多くの場合は、そこで生涯そのものを終えようとしたくなるほど残酷な事実――を知れば、
たとえ佐倉杏子と雖(いえど)も平静ではいられないだろう。
仮にその運命を受け容れたとしても、そうなった時点で彼女は別人だ。
あの巨大な魔女に対抗できる戦力にはなれない。
「またそれか――」
杏子はあてつけがましく息を吐いた。
「あんたはいつもそうだよな」
どう言われようとほむらの口から新たな情報が出てくることはない。
「………………」
「………………」
2人は暫く睨み合ったが、この小さな諍いすらも無駄だと言わんばかりに先に目を逸らしたのはほむらだった。
「あなたと敵対するつもりはないし、今のままなら美樹さやかにも手を出さない。約束するわ」
「何をもって信じろっていうのさ?」
素早すぎる杏子の切り返しに彼女は答えられない。
全てを知る者はそれらを知らない者に対しては何においても優越するが、たたひとつの致命的な欠点を持っている。
隠された真実と、起こり得る未来を正しく伝えるには発信者の熟慮と長考が必要だ。
飾ることなくそれを吐露しても、本当の信用を得るには時間がかかり過ぎる。
かといって遠回りをすれば疑念を抱かれる。
何もかも知っている暁美ほむらは、蓄えた知識が無駄になることを何よりも恐れた。
この秘密を誰かに教えたい。
知識を共有したい。
知恵を出し合いたい。
人間が生きていく上で避けられない欲求を満たしたくて、彼女は何度も苦悶した。
「行きなよ。もう私に用はないんだろ?」
ほむらにはいつも不意を打たれるのだ。
せめて別れのタイミングくらいは自分で決めたい。
杏子は背を向け、欄干に凭れかかった。
彼女と無駄な時間を過ごしている場合ではない。
「………………」
ほむらは無表情でその後ろ姿を見つめた後、来た時と同じように音もなく姿を消した。
(なにがしたいんだ、あいつは……?)
いつも勝手に現れては、幾通りもの解釈ができそうな意味深な台詞を吐いていく。
アフォリズムのようでもあり、ただの戯言のようでもあるそれらに、杏子はしばしば振り回された。
自己を強く持つと決めておきながら、空っぽの言葉をいちいち気に留めてしまうなど、彼女の美徳がそれを許さない。
だから彼女は考えないことにした。
ほむらとの付き合いは最悪の魔女を倒したと同時に解消される。
単なる知人以上の関係だが馴れ合いではない。
特に――。
他人との付き合いはこれくらいドライでなければならないのだ。
(――そうだよな)
杏子は思いなおした。
他人と深く関わるとロクなことがないのだ。

 

 明確な理由があったわけではない。
自分の為だけに魔法を使うと誓った少女は、しかしだからといって自分勝手に生きて誰かが傷つくのを見たくはなかった。
したがって彼女が決めた自由奔放な生き方は、故意に他人を傷つけないことを前提としている。
他者に善意を押しつけることも、悪意を叩きつけることもしない。
つまりできるだけ”ヒト”と関わらない道ばかりを選んできたハズだったのだ。
その彼女が巴マミのいない町を狙ったことが全ての始まりだった。
誰とも関わらずに生きるハズがたった一度、現実を何も分かっていない新たな魔法少女に接触したばかりに起こった数々の出来事。
それらに杏子は感謝していた。
運命は多くの場合は破滅や破綻を齎すが、時にはこうして出会いやささやかな幸せをも運んでくれるのだと。
今の彼女ならそう思えた。
しかし、同時に――。
やはりそう思ってはいけない、と警告する自分もいる。
「お母様、すみませんが少し外に出てきてもいいでしょうか?」
洗濯物を畳み終えた杏子は、後ろで何か作業をしている母に声をかけた。
「ええ、いいわよ。気にせずにいってらっしゃい」
「すみません」
「ところで杏子ちゃん……」
母は手を止めてゆっくりと振り返った。
「はい、なんでしょう?」
妙に改まった口調に彼女は少しだけ身構える。
さやかの母というだけあって彼女はおおらかに見えるが、時おり何かを悟ったような険しい表情になることがある。
手伝いをしながらその変化を何度か目撃している杏子は、いつ”家出娘”という設定がウソだと気付かれてもおかしくはないと思っていた。
娘を育てている母親として、同じ年頃の娘への観察眼は侮れないものだ。
「そろそろ、ね……その――」
いつもハキハキと喋る彼女が、珍しく言い淀んでいる。
(………………)
杏子は両手を握った。
じわりと汗が滲む。
「その、”お母様”っていうの……変えてくれたらな、って――」
「――はい?」
覚悟していた類の追及がなかったことで、彼女は不自然に高い声を出してしまった。
「呼ばれ方がイヤっていう意味じゃないのよ!? でも何だか他人行儀な感じが……あ、でも杏子がそのほうがいいっていうんなら――」
「あ、あの…………?」
杏子にはほむら以上にこの母の言い分が理解できなかった。
もちろんたどたどしい口調の中から単語を聞き出せば、彼女が言いたいことは分かる。
さやかに連れられてこの家に来た時、
『自分の家だと思ってゆっくりしていってね』
彼女はこう言って迎え入れた。
それを単なる社交辞令――真っ当な大人が見せる至極当然の所作――としてしか受け止めていなかった杏子は、
今日までの彼女の気遣いが有難いものであると思いながらも、素直に受け止めきれないでいた。
他人に優しくされることに慣れていなかった、というのがその最たる理由であるが彼女は気付かない。
父が健在だった頃、集まる信者はもちろん救いを求めていた。
傷病に悩む者も、身の不幸を嘆く者も、世知辛い現世に辟易する者も、区別なく父の教えにより救われたいと思っていた。
父は彼らを助けることに生き甲斐を感じていたし、当時の杏子もまた幼いながらにその手伝いをするのが当然だと考えていた。
彼女が生きてきた十数年の中で、誰かの支えになったことはあっても、誰かに支えられた記憶はひとつもなかった。
あれほど熱心に祈りを捧げ、父の言葉に感銘を受け、魂の穢れを取り除かれた信者たちも、本来の教義と父の説教との乖離に気付いた途端、
掌を返すように離れて行った。
感謝も述べず、食べ物のひとつもよこさずに。
(他人行儀って……そもそも他人じゃないか……)
彼女の考えが杏子には分からない。
呼称に拘泥(こだわ)ってまで互いの垣根を取り払ったところで、彼女に何のメリットがあるというのだろうか。
そもそも一度定着した呼び方を変えるのは、飄逸に生きる杏子にさえ容易ではない。
「あ、いえ、すみません……」
彼女はとりあえず謝っておいた。
こう呼んでほしい、と提示があれば彼女もすぐに対応できたハズだ。
「あ、私の方こそごめんなさいね! 今のは気にしないで」
母は大仰に笑うと不自然な動作で背を向けた。
(………………?)
突然の申し出と直後のぎこちない所作から、何かを試そうとしていたのではないかと杏子は思った。
もちろんそれが何かは分からないし、そもそも他意はなく単純に彼女のちょっとした願いかもしれない。
「杏子ちゃん」
「は、はい」
既に意識の逸れていた杏子は、その声に肩越しに振り返った。
「車に気をつけてね」
「はい――」
この女性の独特のペースが未だに掴めない。
杏子は会釈でそれに応えた。

 

 さやかの厚意を断ったのは馴れ合いを嫌っているからではない。
もしそうなら3人での食事会にも彼女は同席しなかっただろう。
スイーツショップへの誘いは杏子にとって魅力的な提案だ。
歯ごたえは物足りないが、あの舌に媚びるような甘さが彼女は好きだった。
「………………」
冷たい拒絶ではなかった。
これは彼女のプライドが起こさせた当然の行動だ。
誰かに頼ることも甘えることも許されなかった彼女はそれらができなくなったというよりは、
そうしてはならないと無意識下で思い込んでいる。
結果、理不尽な現実を生き延びる強かさを手に入れたが、その代わりに弱さの露呈を極端に恐れるようになってしまった。
さやかの親切心を拒んだのも、結局は自分の弱っている姿を晒したくなかったからだ。
気遣いをすんなりと受け容れてしまえば、自分が傷ついていると認めたことになる。
人は――。
人は独りでも生きていける。
親の庇護や愛情がなくとも生きていける。
美樹家の世話になっている時点で彼女はその生き方の半分以上を否定した形になっている。
だから半分未満の”佐倉杏子”がまだ残っている。
それまで失うのは――。
人に頼り、甘え、支えを得ることは”今の彼女”には難しすぎた。
やかましい電子音が聞こえ、杏子はそちらを見やった。
よく行くゲームセンターだ。
中を覗くと自分と同じくらいの齢の子が数名、ゲームに興じている。
勉学に励むべき彼らは堂々とサボって遊びに来ているのだ、と杏子にはすぐに分かった。
遠目からでも見える。
教育以外の義務を負わず、大義も使命もなくただ生きているだけの連中だ。
なぜ”教育を受けられる権利”にもっと有り難味を感じないのか。
彼女は無性に腹が立った。
学校に行くためのお金は誰が払っている?
いま着ている服はどうやって手に入れた?
筐体に消えていくそのお金は誰が稼いだものだ?
恵まれている人間は自分がそうであると気付かない。
どれほど渇望しても決して手に入らない小さな幸せをいくつも持っている者ほど、
己を満たされない、不幸な人間だと思いがちだ。
家族、友人、食べ物、家、服、お金。
そのどれもを失った杏子は永遠に幸せを感じることのできない彼らに混じる気にはなれず、足早にその場を去った。
こういう時、彼女が行くべき先は決まっている。
平静を保っていられる間は古傷を抉剔(けってき)して心を掻き乱すが、逆に精神の安定を求めている時にはそれに応えてくれる場所だ。
(なんだかな…………)
そこを目指している自分に杏子は違和感を覚える。
この世の中には一度でも手を離れれば、二度と取り戻すことができないものがいくらでもある。
それを心得ているハズが、今なおそれらを求めている自分がいる。
しかしこれは人間なら当然の矛盾なのだ。
いかに強靭な意志を持とうとも、そこには必ず一点の瑕疵がある。
移り気の人間にも貫ける信念がひとつはある。
様々な感情や想いが溶け合い、混じり合い、あるいは反発し合って漸く個が形成されると気付ければ、
人は抱える矛盾が実は矛盾ではないと悟ることができる。
この少女にはそこまでの達観はなかった。
自分はこうあるべき、との信念を強く持ちすぎてしまったために、それを曲げることを誤りと見做してしまう。
曖昧な気持ちのまま杏子は林道を歩いていた。
この日ばかりは教会への道標となる木々の隙間が、少しだけ寂しく感じられた。
(そういえば…………)
今日、さやかはいない。
おかしなことはない。
ここは杏子にとって過去を振り返る場所であって、あの快活な少女にはまるで縁のない聖地だ。
知り合って日も浅く、むしろ傍に彼女がいない状況のほうが自然であるにもかかわらず。
杏子はなぜか彼女の不在を寂しく感じた。
すぐ隣を、あるいは少し後ろをついて来る気配も足音もない。
この些細な変化が少女に大きな変化を齎していた。
もう孤独を心地よいと思うことはできない。
全てを自分のペースで片付けられるのを当たり前だと思うことはできない。
「………………」
杏子の心は落ち着かない。
それで良かったのだ。
この場では傷つき、窶した者ほどその恩恵を一身に享受できる。
形而上の祈りと呪いが形而下の存在に具体的に作用するのを彼女は知っている。
数日では内装は変わらない。
床のところどころの割れ目も、壁を走る亀裂も、散らばる木片のひとつひとつの位置すらも。
何も変わっていなかった。
妹の作った曲を聞かせるためにさやかを連れて来た時、ここが杏子にとってどれほど大切な場所かを知っている彼女は
歩みを邪魔する朽木のひとつにさえ注意を払ってくれたらしい。
心を空っぽにした杏子は教壇の前に跪拝した。
自分が今、ここにいることに感謝する。
末期の父は彼女を拒んだが、この空間は彼女を受け容れている。
落ち着きを無くしてしまった心を取り戻すには、充分すぎるほどの静謐がここにはある。
今なら――。
ここでなら――。
夢の正体と、その意図を掴めそうな気がするのだ。
「親父…………」
暫く見なかったそれに現れる父は、彼女が忘れもしない罵りの言葉を容赦なく叩きつけてきた。
分かっていることを。
胸中に刻み込まれて忘れ去ることのできない言葉を、彼は”これまでどおり”の方法で刷り込んでくる。
何かメッセージがあるのか、と杏子は思った。
繰り返し見させられるこれらの悪夢が、このタイミングで現れたことに何か意味があるのではないかと。
彼女は考える。
(私に何か言いたいことがあるのか……?)
あの時、彼は正気ではなかったし、妹は幼すぎて父が豹変した理由を理解できなかっただろう。
しかし人間は内と外とで全く異なる面を持つ生き物だ。
罵詈讒謗で娘を散々に苦しめたあの男も、内心では違うことを考えていたかもしれない。
モノを語るための口を死者は持たないが、既に肉体を離れた存在なら空気に溶け込み、
眠る少女の意識に”夢”というかたちで想いを伝えることは不可能ではないかもしれない。
(あいつの家で寝泊まりするようになってからだ…………!!)
落ち着きを取り戻し始めた杏子は、そこに思い至った。
ほむらが言ったように彼女が弱くなりかけた時。
張り詰めていた緊張感が薄れ、鋭さに翳りが見え始めた時。
誰かが作ってくれた料理を美味しいと感じた時。
柔らかく、温かい布団の中に安らぎを感じた時。
それらは全て、あるひとつの出来事をキッカケとしている。
(そういうことなのか……? なあ、親父――)
夢はやはりメッセージだったのだ。
父親からか、妹からか。
あるいは神のような存在からか。
それは分からない。
だが杏子は眠るたびに姿を見せる父親が自分に優しい言葉のひとつをかけるどころか、今なお口汚く罵り、時によってはあてつけがましく
一家心中の憂き目を再現する理由だけは理解した。
(私に……幸せになるな、ってことなんだろ……?)
美樹家に世話になっている彼女は、まだどこか居心地の悪さを感じながらも幸せを感じてはいた。
棘のように鋭く冷めていた心が温かくなっていく感覚を、彼女は確かに味わっていた。
夢は――。
その一時の平穏すら許さなかったのだ。
(考えてみりゃそうだよな……)
彼女には理解も納得もできた。
(みんなを騙して、親父を騙して――みんなを不幸にしておいて私だけこんな良い想いして許されるわけないよな……)
世の中を絶えず循環するお金と同じように、希望と絶望は必ず均衡する。
さやかとの出会いが杏子に安らぎを齎せば、それと同じだけの苦痛が悪夢によって生み出される。
理不尽な法則ではない。
これは彼女自身が言った不変の掟だ。
つまりこの少女はそれを受け容れなければならなかった。
(そうなんだろ――?)
信者を欺き、父親に一時の甘い夢を見せた罪は償わなければならない。
彼を発狂させ、無垢な妹ともども心中という最も残酷な手段を選ばせた咎は贖わなければならない。
(神様…………あんたもそうなのか――?)
彼女たちが信奉する神は最後まで救いの手は差し伸べてくれなかった。
杏子が今も苦しみ続けるのを、天上の何者かは黙視しているのだ。
(償いが、足りないか……)
刑期はまだ終わっていない。
充分な償いをしないまま、それから半ば逃れるように平穏に甘んじてしまった以上、その罪咎は果てしなく重い。
いま、こうして祈りを続けたところで何も変わらない。
だが彼女にはもう、それ以外の方法はなかった。
「相変わらず熱心だね」
強弱のない声が耳に直接届き、杏子は小さく息を吐いて立ち上がった。
「最近見なかったけど、どこに行ってたのさ?」
「僕にもいろいろとやることがあってね」
音もなく入って来た白いパートナーは無意味に尻尾を揺らしている。
「ふうん……」
愛らしい姿を認めた杏子は興味なさそうに大息した。
この生物がやることといえば穢れを吸ったグリーフシードの回収くらいだ。
「ところできみたちは何かあると、いつもそうやって在りもしないものに向かって頭を下げるんだね。
特にこの国ではあまりそういうものに固執していないみたいだけど?」
キュゥべえは宙返りを打って朽ち果てた長椅子に飛び乗った。
「普段は見向きもしないくせに、自分たちが勝手に区切りを付けた日にだけ挙って拝みに行くけど僕には理解できないよ。
彼らが崇める神というのは一斤のパンさえ買えないようなお金に気を良くして願い事を叶えるほど落魄れているのかい?」
今に始まったことではないが、キュゥべえの口調は時に聞く者をイラつかせる。
自分が知識と知恵の高みにあって、人間そのものを下等と見做している。
そんな気さえ起こさせる物言いに、
「神様ってのも”いろいろ”いるんだよ」
杏子はちょっとした皮肉で返してやった。
「で、きみはそれを信じているってわけかい? 一年に一度だけ畏まる人が大半なのに」
「人によるんだよ。私はたまたま”そういう家”の娘だった、ってだけさ――」
宗教観はそれぞれだ。
どのような宗派に属するのも、どのような神を崇めるのも自由だし、そもそも神などいないという考え方も間違いではない。
人は古来、そうして認知できない存在を作り上げて心の安定を図ってきたのだ。
吉事があれば神の御力によるものだと感謝し、凶事に見舞われればその怒りに触れたのだとして自分を納得させる。
愚かな人間は骰子(さいころ)の出目にさえ神秘性を見出すことができる。
「美樹さやかはどうなんだろうね」
彼女は完全に不意を衝かれた。
なぜその名前が出てくるのか、杏子が問おうとするより早く、
「彼女とはずいぶん親しくなったみたいじゃないか」
この不思議な生物は言葉を紡いだ。
「まあ、”いろいろ”あってね――」
明言を避けて発言を完結させる便利な言葉を遣わない手はない。
「良い傾向だと思うよ。きみたちが手を組めば効率よく魔女を狩ることができる。ただ――」
「なにさ?」
「その場合、グリーフシードの取り分で面倒事が起こるかもしれないけどね」
「………………」
「実際、何度か見たよ。狭い地域で魔法少女たちが共闘関係を結ぶと、どうしてもグリーフシードが足りなくなってくる。
初めのうちは互いに補い合い、助け合ってうまくやっていくけどね。いずれは残念な結果に終わってしまうんだ」
「それってつまり――そういうことなのか?」
「きみの考えているとおりだよ。どちらかがどちらかを殺した――」
キュゥべえは顔色も口調も変えない。
事実を淡々と、主観を交えずに語るのみだ。
「何度も見たって言ったけど止めなかったのかよ?」
「止めたところで何も変わらないよ。グリーフシードの数には限りがあるんだ。それに彼女たちの意思も尊重するべきだしね」
訊くまでもないことだった。
この生物は杏子とさやかの戦いにさえも口出ししなかった。
どちらかが倒れるか、和解するか、あるいは興ざめした杏子が引き揚げるか。
どのような結果になっても、その結果が出るまで一切の干渉はしなかっただろう。
それなりに付き合いの長い杏子にとっては、どこか非情なキュゥべえの反応に新鮮な驚きはない。
「僕には何かを強制することはできないからね」
そうだった、と彼女は思い返した。
得体の知れない生物とは意味のとおる言語でもって意思の疎通を図ることはできるが、
容姿が人間でないだけあって発する言葉にも人間味がなかった。
彼女に契約を持ちかけてきた時も、単なる提案であって積極的な意思は感じられなかったのだ。
有り得ない奇跡を起こせるキュゥべえなら、本人の同意も無しに強制的に魔法少女に仕立て上げ、
魔女と戦う過酷な運命を無理やりに背負わせることもできただろう。
そうしなかったのは彼なりの善意――とは杏子は思わなかった。
一切の感情を感じさせない口ぶりから、契約を交わした時点で目的の殆ど全てを達成して満足しているように思えるからだ。
魔法少女同士の諍いに関与しようとする素振りすら見せないのも、既に彼にとってそれが埒外の出来事であるからだと。
杏子は思った。
実際、この生物には感情などないのだろうと。
暇な時には話し相手くらいにはなるかもしれないが、それ以上を望むのは虚しいだけだ。
ここでの会話はもう無意味なのだ。
何を考えているのか想像もつかない生物が気まぐれで姿を見せた、というだけで言葉を交わす必要はない。
「悪いけどさ、今はあんたと話す気になれないんだよね。用がないんなら――」
「おっと、そうだった。今日は大事なことを言いに来たんだ」
白々しい、と彼女は思った。
キュゥべえはいつも飄々としていて捉えどころがない。
放っておけば聞きたくもない余計な話までし出すに違いない。
「大事な話? いったい何なのさ?」
それを早々と喋らせ、杏子はこの無表情な生き物を遠ざけようとした。
「きみの家族のことだよ」
キュゥべえは――。
この多くの魔法少女とそれぞれに繋がりを持つパートナーは、長すぎる前置きの後に恐ろしいほどさり気なく本題を差し挟む。
先を促した本人でさえ、あやうくキーワードを聞き流すところだった。
「なん――!?」
「きみの家族……つまり父親の話さ」
少し場所が悪かった。
真夜中の誰もいない歩道橋の上でなら、このちょっとした台詞にいちいち動揺することはなかっただろう。
だがここは教会だ。
空気を振動させるハズのないキュゥべえの声が、壁や天井に反響して四方から杏子の心に突き刺さる。
今さら、という想いが彼女にはあった。
夢にこそ現れるものの、父も妹もとうの昔の人間だ。
「今さら何の話だよ」
杏子は思っていたことをそのまま口にした。
良くも悪くも、過去は自分だけのものだ。
それを心境の変化から誰かに吐露することはあっても、頼みもしないのに蒸し返されるのは不愉快極まりない。
「もちろん今でも辛い想いをしているのは分かっているよ。きみにとっては一刻も早く忘れてしまいたい出来事だからね」
なら思い出させるな、と言いたいところを杏子は堪えた。
彼女はもう、この不気味な語り部を無視できなくなっている。
早々に追い払ってもよいハズだが、彼女の内心はこれが何を言い出すのかを知りたがっているようだった。
「聞くだけ聞いてやるよ」
強がりでも何でもない。
値打ちのある内容かどうかは、聞いてから決めればいい。
耳を傾けて良かったと思うのも、戯言だと笑い飛ばすのも、全てを知ってからだ。
「きみならそう言うと思ったよ」
キュゥべえはまた尻尾を揺らした。
今度はゆっくりと。
小さく楕円を描くように。

 

間もなく無表情の生物は開きもしない口を開く。

 

発声によらない声がこの白い体のどこかから滲み出す。

 

それは数年越しの真実を告げるのだ。

 

「杏子――」

 

抑揚のない声で。

 

「彼にきみが魔法少女であることを教えたのは――」

 

まるで悪びれる様子もなく。

 

「――僕なんだ」

 

実に淡々と、真実を語るのだ。

 

 

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