泡沫の音色と夢幻の調べ

(仁美からの宣戦布告にさやかの心は揺れる。本当の気持ちとは何なのか? 自覚できない恭介への想いに気付かせたのは……)

いつものファストフード店は冷戦の舞台となりつつあった。
新商品のポスターも、キャンペーンの告知もどこか禍々しく感じられる。
愛らしいイメージキャラクターがこれから繰り広げられる静かな争いを見届けるように、2枚のトレイの同じ場所に陣取った。
「話って……?」
気品の漂う令嬢と改めて対面すると、気の置けない間柄にあるさやかも緊張せざるを得ない。
まどかに似て集団の一歩退いたところに居たがるこの少女が、珍しく話し合いを持ちかけてきたのだ。
よほど深刻な話題であることは容易に想像がつく。
「恋の相談――ですわ」
この時、さやかは初めて直感というものが侮れない感覚だと知った。
志筑仁美の様子は、”相談に乗ってもらう者”のそれではない。
既に何事かを決心し、後はそれを言葉にするだけの人間が見せる、妙に自信に満ち溢れた表情をしている。
「私ね、前からさやかさんやまどかさんに秘密にしてきたことがあるんです」
「な、なに……?」
たったこれだけを発音するのにも、カラカラに渇いた喉が邪魔をする。
予感だ。
とても悪い予感が。
愈々現実になるかもしれない。
それが分かっていても彼女には今すぐこの店を飛び出すことも、席を立つこともできない。
適当に話題を逸らせて仁美の言葉を遮ることもできはしない。
窓際に掛けられた時計の秒針が正確に5回動いた時、
「ずっと前から……私……上条恭介君のこと、お慕いしてましたの」
少女はついにその名前を口にした。
瞬間、さやかは激しい動悸に襲われた。
異形の化け物と戦う力を得た彼女でも、親しい友人が恋愛話を持ちかけた時には既に鼓動は早鐘を打っていた。
――上条恭介。
このたったひとりを指し示す名が仁美の口から発せられ、さやかは視線を彷徨わせた。
「へ、へえ……そうなんだ…………」
彼女は歪な作り笑いを浮かべた。
落ち着け。冷静になれ。狼狽(うろた)えるな。
そう言い聞かせるも、凛として力強さのある仁美の双眸に掴まれたさやかは動揺を隠しきれない。
「恭介の奴もす、隅に置けないなあ!」
裏返る声が騒々しい店内を虚しく駆け巡った。
愚直な少女は滑稽な所作だけで心根の殆んどを語る。
いかに本心を隠そうとしても、彼女が見せるあらゆる反応が愚鈍な人間にも真意を見破らせようとする。
(やっぱり、さやかさんも…………)
恋愛はゲームではない。
従って当事者間で成立するルールなどはないし、着手も自由だ。
先手後手の区別がない情の絡み合いでは、宣戦布告はそれをした者にとって不利に働くのが常だ。
その程度の弁えがありながら、仁美は敢えてさやかをこの場に呼び出した。
彼女が言う”大切な話”のためだ。
この一工程には勇気も度胸も必要なかった。
志筑仁美は佇まいから容易に想像がつくように慇懃且つ真摯だ。
籌(はかりごと)を厭い、詐謀を憎む彼女のとる手段はいつも正々堂々としていて清々しい。
「私、上条君にこの気持ちを伝えようと思っています」
奸計は用いない。
回りくどい表現も必要ない。
彼女はただ、
「もうウソは吐きたくありませんの。ええ、私は自分の気持ちに正直になりたいんです」
この言葉のとおりにありたいだけだ。
「いやあ、恭介も幸せ者だよね! 誰もが羨む仁美からコクられちゃうんだから――!」
茶化すことで揺さぶられた心を落ち着けようとするさやかだが、その手は賢しい少女には通用しない。
滑稽な取り繕いはどちらにとっても虚しさを与えるのみだ。
「ですからさやかさんも……あなた自身の本当の気持ちと向き合ってください」
やはり仁美は笑顔ひとつ浮かべない。
儚げなハズの少女からは、すぐにでも独り立ちできそうなほどの意志の強さが感じられる。
話し合いは――。
たいていの場合、持ちかけた側がイニシアティヴを握る。
心を決めて準備してきた仁美と、何ら情報を持たずに同席したさやかとでは差がありすぎた。
真っ向からぶつかることを潔しとするこの令嬢も、不意打ち気味に席を設けた時点で既に大きなアドヴァンテージを得ていることには気付いていない。
「わたしの……本当の気持ち……?」
静かに情熱の炎を滾らせる仁美の双眸には、美樹さやかの全てを見通しているかのような鋭さがある。
「そうです。さやかさんの、上条君に対する気持ちです」
「恭介…………」
これまであまり意識することのなかった恭介への想いが、仁美の言葉に押されて前に出てくる。
彼女はその社交性から男女に交友関係が広い。
異性を意識しだす年頃といっても、クラスの男子とはまどかや仁美同様に会話ができるし、軽いボディタッチにも躊躇はない。
まだまだ遊びたい盛りの活発な少女、という印象を内外に振りまく彼女には恋愛沙汰は早いと言えなくもない。
しかしこの才女が指摘したように、本当の気持ちは誤魔化しきれない。
仁美が恭介への告白を考えていると口にした瞬間、さやかの胸に針で刺されたような痛みが走ったのだ。
もちろん彼女はそれを自覚している。
敢えて考えないようにしていたが、恭介を特別な異性と捉えていたことをここに来て仁美が引きずり出した恰好だ。
「わ、私は別に…………」
「ウソです」
「………………」
「さやかさんの気持ちは、きっと私が考えているとおりだと思いますわ」
ここまで言い切られると反論の余地はない。
根拠のない当て推量ならまだしも、さやかは子供じみた反応から”本当の気持ち”を曝け出してしまっている。
この場をやり過ごす術はない。
「お2人は幼馴染みなのでしょう?」
「うん、まあ、幼馴染みっていうか……腐れ縁ってやつかな?」
この期に及んでなお恭介を恋愛対象と認めたがらないさやかに、仁美は少しだけ苛立ちを覚えた。
わざわざ呼び出したのは、彼女につまらないウソを吐かせるためではない。
「私は抜け駆けするような真似はしたくありませんの」
臆病な少女が自分の気持ちを偽る様は見ていて苦痛だ。
仁美は彼女に似合わない多少強引な方法で話を進めようとした。
「上条君を見てきた時間はさやかさんのほうがずっと長いハズですわ。
ですから――彼に想いを告げるのもあなたが先であるべきです」
「先に、って……?」
「ええ、それが当然だと思いますわ」
これは譲歩ではない。
仁美にとってさやかは大切な友人だが、そこに恭介が絡むと両者は一転して敵対関係になる。
彼女は恭介と恋仲になり、さやかを蔑ろにしたいわけではない。
想いを告げるにあたって彼女と対等の立場に立ち、どちらが彼と結ばれても痼が残らないようにという仁美なりの配慮だ。
この令嬢にとっての理想の人間関係とは突き詰めれば”和”だ。
異性との付き合いが、それまでの同性との付き合いに劇的な変化を齎すべきではないと彼女は考えている。
従ってたとえ自分が敗れ、さやかと恭介が結ばれる結果になったとしても、彼女はさやかを恨まない。
友人の幸せを願いながら恭介への想いに区切りをつけ、その後は何事もなかったように振る舞うだろう。
「明後日の放課後、上条君に告白します」
その意味では器用であり度量の広い才媛と言えなくもないが、彼女の短所はそれを他者に押し付けてしまうところだ。
「ですからそれまでに……さやかさんも決めて下さい。私はその時まで上条君には一切声をかけませんし、目を合わせることもしません」
言うべきことを言った少女は、満足げな笑みを浮かべることもしないで真っ直ぐにさやかを見つめる。
その視線が恐ろしく、彼女は反射的に目を逸らした。

 

 数分間――あるいは数十分間――の記憶が彼女にはなかった。
気が付くと少女は家の前に立っていた。
何事かを考えていたハズだが何ひとつ答えは出ず、足だけが勝手に動いて彼女をここに運んだのだ。
強靭で繊細な精神は思いもよらない一撃に悲鳴を上げていたが、親を心配させまいとするひと欠片の理性が彼女に笑顔を作らせた。
「おかえり。晩ご飯、もうちょっと待っててね」
目の前にいるのはいつもどおりの母親だ。
血の繋がりのない同居人を抱えている緊張感は、今ではすっかり消え失せている。
「ただいま……あれ、杏子は?」
「ちょっとお買い物頼んでるのよ」
母は調味料を切らせてしまったことを遠回しに白状した。
「ふうん…………」
徒歩10分もかからない距離にスーパーがある。
店舗の規模は小さいが、珍しいものを求めない限りはたいていの食料品が揃えられる。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「ひょっとして、お釣りで好きなモノ買っていいとか言わなかった?」
「……ええ、言ったわよ。お駄賃代わりに」
首を傾げながら答える母を見て、さやかはあの健啖家が頼まれたモノが何か分からなくなるくらいに菓子類を袋いっぱいに詰めて帰って来る様を想像した。
「着替えてくるね」
と言って彼女が自室に入った時、玄関トアが静かに開く。
ガサガサとビニール袋が擦れ合う音が壁越しに聞こえ、さやかはあっさりと予想が当たったことに拍子抜けした。





「ちょうど袋詰めセールをやっていたので……」
そう言って照れくさそうに笑う杏子の仕草は、演技なのか自然に出たものなのかは分からない。
両手に抱えるほどの袋に、今時の子どもでも喜びそうにない駄菓子が押し込まれていた。
杏子は圧力で中身が変形するのも厭わず、スナック菓子ばかりを選ったらしい。
「いいのよいいのよ。お遣いお願いしたんだから、それくらい」
テーブルに広げられたそれらを見て母は微笑した。
立ち居振る舞いが優雅でちょっとした仕草や言葉遣いが洗練されていても、この少女は年頃の娘らしい好みを隠さない。
躾の厳しい両親はこの娘に好きなお菓子も買わせてあげないのか、と母は心底から彼女を気の毒に思った。
この少女の奥ゆかしさは、自由に使えるハズの”お釣り”に殆ど手をつけていないところにある。
わざわざ捨て値同然の在庫処分にだけ飛びつき、定番の棚から商品を選び出さなかったのは生来の謙虚さの為せる業だったかもしれない。
(そんなに遠慮しなくてもいいのに……)
母はこう思うのだが、その想いが伝播して却って彼女に気を遣わせてしまっているのではないかと自分を責める。
空気で膨らませた子ども騙しの駄菓子で満足させたくはない。
自身も自覚できないほどの包容力が少女に対する庇護心を刺激した。
「さて、それじゃあ早速作りましょうか」
袋から必要な調味料を取り出し、母はキッチンに消えた。
「あ、今日は私も手伝うよ」
その後を慌ててさやかが追う。
「あら? 珍しいじゃない」
普段は家の手伝いを殆どしない娘に、母は含みのある笑顔を向けた。
「たまにはね」
内心を悟られたくない彼女は目も合わさずに答えた。
もちろんお小遣い目当ての親孝行ではない。
杏子に触発されたわけでもない。
彼女はただ、気を紛らせるキッカケが欲しかっただけだ。
頭を使い、体を動かすことなら何でもいいのだ。
少なくとも作業に没頭している間は恭介への曖昧な想いも、仁美に対する複雑な想いも忘れることができる。
「………………」
テーブルにばら撒いた菓子類を片づける振りをしながら、杏子は翳りのあるさやかの横顔を目で追っていた。

 

 この町には魔女退治を”日課”にできるほど魔女や使い魔が多くいる。
使命感に燃える魔法少女もただグリーフシードを欲する者も、そのお陰で獲物には困らない。
絶好の狩り場は多くの利益を齎す反面、熟考を要する少女にその暇を与えてくれない。
巴マミの後ろ姿を追い続けるさやかは食後の空いた時間に気持ちの整理をしようとしたが、
彼女の”魂”が倒すべき敵の所在を知らせたせいで、個人的な問題よりも町の平和を優先してしまった。
空が燃えるような赤から青に、そして黒に沈み込む瞬間、魔の気配は濃く強くなる。
純白のマントを翻す少女は正義の使者だ。
銀の光が一閃し、不幸を振りまく小人を叩き斬る。
さらに返す刃が中空を漂う使い魔を薙ぎ払った。
しかしその動きは鈍く、精彩さに欠ける。
「おい!」
無計画な斬撃から逃れた使い魔たちを杏子が律儀に葬る。
こちらの体捌きは洗練されている。
蛇のようにしなる槍は意味もなく暴れているように見えるが、その穂先は唸り声をあげる度に魔を切り払っていく。
効率を重要視する彼女は決して無駄な戦い――つまり戦い方――をしない。
一挙手一投足、全ての行動に意味があると主張するように彼女は華麗なステップを踏み続けた。
優秀な魔法少女が手下を引き受けてくれたおかげで、さやかは誰にも邪魔されずに魔女と対峙することができた。
巨大な節足動物の姿をしたこの魔女に彼女は真っ直ぐに挑んだ。
地を蹴り、風より速く駆けたさやかが大剣を振りかぶる。
前脚を擦り合わせ体を小刻みに震わせる魔女は、万華鏡のような眼で迫り来る少女を捉えた。
「やああぁぁぁっっっ!」
見事な太刀筋だった。
遮るものの何もない間合いで彼女が振り下ろした剣は、焦げ茶色の外骨格を真っ二つに叩き割った。
悲鳴をあげる間さえ与えられず、結界の主はもがきながら黒い霧を発散させる。
その隙間から落ちたグリーフシードがこの魔女の終末の証となった。
「ふう…………」
それを拾い上げたさやかは、
「この間は私が貰ったから」
と言って杏子に渡そうとした。
「いや、あんたが使ったほうがいい」
彼女はぶっきらぼうに拒んだ。
視線はグリーフシードではなく、それを持つ少女に向いている。
「さやか」
妙にハッキリと名を呼ばれ、さやかは訝しげに顔をあげた。
――その瞬間だった。
「………………ッッ!?」
視界に飛び込んだ光の点が真っ直ぐに伸びた。
それが彼女の得物だとさやかが気付く前に穂先は喉元に突きつけられていた。
「ちょ、ちょっと!? 何のつもりなのよ!?」
いつかの光景が甦り、彼女は目を瞬かせた。
敵意は――ない。
歴戦の魔法少女は鋭い眼光を向けているが、この槍を使って自分をどうにかしようという意思はないのだとさやかは悟った。
「やっぱりね……」
理解し難い展開に狼狽するさやかに、杏子はやや蔑むようにため息をついた。
「いつものあんただったら、もうちょっとマシな反応したハズさ」
背を反らすこともしないで呆然と立ち尽くすさやかを見て、杏子は呆れた口調で言う。
「なにかあるんだろ?」
佐倉杏子の観察力や洞察力は同年代の少女に比べて鋭敏だ。
早くから庇護者を亡くし、独りで生きる道を歩まざるを得なかった彼女は他に頼りになる者を探すよりも、
自身を強くすることを一番に考えた。
自分を庇護するのは自分だ、と納得させられるだけの感覚を養う。
それができれば並みの魔女に遅れはとらないし、魔法と無縁の世界でも生き延びることができる。
多くのものに恵まれ、相手の心理を読みとる力に欠け、また自分の心情を悟られまいとする防備も敷かない美樹さやかの情動くらいは手に取るように分かるハズだ。
「………………」
変化をあっさりと見破られたさやかは、抱える問題のデリケートさからいつものように強い調子で反駁できなかった。
(深刻そうだな。あのボウヤのことか?)
またしても”いつもと違う反応”をした彼女に、杏子は得意の洞察力をほんの少しだけ働かせた。





直情的な美樹さやかにもお人好しの両親を欺く程度の演技はできる。
魔女退治を散歩や食後の運動と偽るだけでよかったのだ。
彼女の母はおおらかな性格で、娘の”日課”に口を出さない。
驚くほどあっさりと杏子を受け容れ、その出自や家庭環境を調べ上げることもしない。
誰にも言えない秘密を抱えるさやかにとっても杏子にとっても、彼女の寛大さはありがたいものだった。
「………………」
結局、何ひとつ考えがまとまらないままにさやかは就寝する羽目になった。
魔女との戦いの後には町の平和を守った充足感と軽い倦怠感が得られる。
どちらも気分を浮き沈みさせるもので、今のさやかにとっては思考を放棄させる方向にしか作用しない。
「で、何があったのさ?」
ベッドの端からの背中越しの問いかけは、杏子の優しさの一種だ。
問い質すような高圧的な調子ではなく、甘く艶っぽい響きを持たせた声は聞く者の警戒心を解きほぐすには充分な力を持つ。
「まあ、いろいろね…………」
多少の負い目もあってか、さやかは白地(あからさま)にその厚意を拒絶しない。
だが全てを吐露するだけの思い切りはまだなかった。
「いろいろ、ねえ…………」
その受け答えだけで杏子にはある程度の予想はできた。
難しい推理は要らなかった。
もし相手が神出鬼没の暁美ほむらなら、長髪を掻きあげる以外に人間らしい反応を示さない彼女から何かを読みとることはほぼ不可能だ。
判断に使う材料が何もなく、却って憶測の幅が広がり過ぎてしまい、根拠のない当て推量から誇大な妄想に成り下がってしまう。
その点、美樹さやかに複雑さは殆どない。
魔法少女になった理由も、その後に魔女と戦い続ける理由も分かりやすい。
「ほんとは”ひとつ”なんじゃねえの?」
今度は挑発っぽく。
自分は何でも見通している、と言いたげな口調で。
実際、見通しているのだ。
自分と違い、純粋で純朴でバカ正直な彼女を、心のどこかで羨ましがっている杏子が見抜けないハズがない。
「そう、かもね」
さやかは明答を避けたが、この手はもう通用しない。
「あのボウヤ……恭介って奴のことなんだろ?」
年頃の娘なら恋愛沙汰に思い悩むのは極めて自然なことだ。
振り返った時に青春として思い出に刻み込まれる異性との関係は、思春期における宝のようなものだ。
「――話してみなよ。聞くくらいならできるからさ」
ベッドが僅かに軋み、杏子の声が近くなったのをさやかは感じた。
「………………」
無視することもできたが、さやかは敢えて彼女と同じ恰好をとった。
2人揃って天井を見上げる。
視界に入るのは薄ぼんやりとした一面の白だけだ。
「あんたの言うとおりよ」
彼女は少しだけ悔しそうに言う。
「……恭介のこと」
ああ、やっぱりそうか、とは杏子は思わない。
あの才気煥発な少年が絡んでいることはとっくに分かっていた。
だが彼女が分かるのはそこまでだ。
実際にさやかの異変と彼がどう繋がるのかは本人から聞き出すしかない。
「友だちがさ……恭介のこと好きなんだって」
「…………?」
そう聞いて杏子の頭に思い浮かんだのは鹿目まどかだった。
抜けているように見えて他人の機微に敏感そうなあの娘なら、そういう想いのひとつやふたつ抱くかもしれないと杏子は思ったが、
(あいつはさやかが契約した理由を知ってるんじゃないのか?)
すぐに疑問が湧き上がる。
自身は魔法少女にはなっていないが、既に”この世界”にいくらか踏みこんでいる彼女がそれを知らないワケがない。
「友だちってまどかのことじゃないよ」
杏子の心を読んだようにさやかが補足した。
「中学から知り合った子でさ、一言で言うとお嬢様って感じかな。髪が長くて上品で、習い事もいろいろやってるんだ」
「ふーん…………」
その説明だけで杏子にはどのような人物かはだいたい想像がついた。
絵に描いたような令嬢――つまりは自分とは全く正反対の人間だ。
「それに頭も良いし……」
次々にその人物の長所を挙げていくさやかに、杏子は違和感を持った。
彼女はさやかにとり恋敵のハズだ。
上条恭介を奪われるかもしれない相手にもかかわらず、さやかはその恋敵を悪く言うどころか、ともすれば自分を卑下するかのような持ち上げ方をする。
(そういう言い方するってことはお金持ちの嫌味なお嬢様ってワケじゃなさそうだな)
杏子は少しだけ安心した。
悪辣な人間は飽きるほど見てきたし、そうした連中との距離の取り方も杏子は学んでいるが、さやかはそうではない。
潤沢な資産を武器に知恵を働かせるお嬢様が相手だとしたら、彼女にはまず勝ち目はないだろう。
「その子がさ――」
ため息をひとつつき、さやかは今日起きた出来事を拙い表現で仔細に語った。





「なるほどねえ…………」
大体の状況を掴んだ杏子は内容どうこうよりも、さやかが打ち明けてくれたことを嬉しく思った。
拒否権はあったとはいえ半ば強引に寝泊りする場所を提供されたが、杏子がそれを窮屈に思ったことはない。
むしろ自分にはそれだけの待遇を受ける資格はないと考えていただけに、どうしても恩や負い目を感じてしまう。
さやかが何か問題を抱えているらしいと悟った時、彼女がたとえ微力でも力になりたいと考えたのはちょっとした恩返しの意味がある。
「まさか仁美が――」
あの真摯な眼差しを思い出したさやかは息苦しさを覚えた。
「………………」
苦悶する彼女とは対照的に杏子は、さやかはもちろん、話に出てきた志筑仁美にも好感を持った。
さやかはやはり恋敵を悪し様に言わなかった。
彼女を知らない杏子にどのような人物かを説明する時、さやかは見かけのイメージと内面をおおまかに話した。
その中に仁美を貶めるような発言は一度としてなかった。
「私は潔い奴だと思うけどね」
杏子は”2人に対して”言った。
「だってさ、あんたに黙って早々と告白することもできたわけだろ? それをしないで堂々と宣言するってのは大したものさ。
まあ、だからってさすがに明後日ってのは急過ぎる話か…………」
そう言ってから杏子は、仁美という少女は表向きは正々堂々とぶつかるように見せかけて実は意外に強かなのかもしれないと思った。
約束を2日後に設定したのも、さやかに熟考する暇を与えないためとも解釈できる。
「そいつがどんな奴か知らないけど、あんたに似てるところがあるかもな」
「私に…………?」
「バカ正直ってことさ」
ともすれば侮辱にも受け取れる言葉だったが、さやかは悪い気はしなかった。
彼女にその意図がないことが分かっているからだ。
「で、あんたはどうするつもりなのさ?」
それに即答できるなら彼女はとっくに思考の迷路から抜け出しているハズだが、杏子は敢えてその質問をぶつけてみた。
明言を避けたとしてもその反応で何かが掴めるかもしれない。
「どうするって……」
恋愛に関して言えば美樹さやかは、まどかや仁美よりもある意味”女の子らしい”かもしれない。
好き、という感覚は漠然と理解できているが、それを自分に当てはめることができないでいる。
「黙ってるのか、そうじゃなきゃ――」
想いを告げるか、という言葉を杏子は呑み込んだ。
「せっかく先を譲ってもらってるんだ。あんたには選ぶ権利があるだろ」
「………………」
そう簡単な問題でないことは杏子には分かっていた。
とてもデリケートな問題だ。
力と知識と知恵、それに勇気や度胸も総動員して当たるべき難所だ。
「分からないよ、そんなの……どうしたらいいかなんて…………」
いつも気を張って弱みなど全く見せようとしない――少なくとも杏子の前では――彼女が、珍しく今にも落涙しそうな表情なのを見て、
杏子はどうすればいいのか分からなくなった。
自分のように何事に対してもある程度の折り合いをつけられる性格なら、ここまで深刻にはならない。
好きなら好きと言えばいいし、そうでないなら黙っていればいい。
身も蓋もない言い方をすればそれが結論だが、ここに辿り着くまでの遅疑逡巡の度合いは人によってまちまちだ。
「あんたはキュゥべえと契約する時に何を願ったんだ?」
このままでは進展はない、と悟った杏子はすぐに切り口を変えた。
「そんなの知ってるでしょ? 恭介の――」
「怪我を治す、だろ? それはあくまで結果さ。大事なのは過程なんだよ」
「過程…………?」
「”続き”って言った方がいいかもな。あんたはあいつの手を治して、それからどうしたかったんだ?
恩人としてあいつに感謝されたかったのか? あいつのヴァイオリンが聴きたかったのか? それともただの善意か?」
矢継ぎ早の質問はさやかの心を些か掻き乱した。
この問いはマミがしたものに似ている。
原因と結果と、それを繋ぐ過程と。
さらにその続きまでを括って漸くひとつの”奇跡”が完成することに彼女は気付いていなかった。
「私は――」
「あんたは多分、あいつのことが好きなんだ。好きでもない奴に一度きりの奇跡なんて使えねえからな。まずはそこに気付きなって」
背中を押すつもりは杏子にはなかった。
自分が責任を負えないことを嗾(けしか)けるほど、彼女は無責任な人間ではない。
「好きっていうか……幼馴染みってだけで、そういうのとは違うと思う…………」
煮え切らない態度のさやかを見て、仁美に対しても同じ言葉でやり過ごそうとしたのだろうと杏子は思った。
「――それが本心だってんなら、仁美って奴に譲りゃいいさ。あんたが告白する意味はないんだからな」
「それは…………」
「じゃあさ、ちょっと想像してみなよ。2人が付き合ってるとこ」
本当の気持ちと向き合えと言った仁美に対し、杏子はまず彼女に本当の気持ちを気付かせるべきだと思った。
土台がなければ家は建たない。
前提を持たない思考は出口のない迷宮を当てもなく歩き続けるのと同じだ。
数秒――杏子にとっては数分――が経った。
「どうだい?」
何も言葉を発しないさやかに、彼女は答えを促す。
「なんていうか……胸が苦しいって感じ」
「………………」
「うまく言えないけど、つらい……かな。なんかザワザワするみたい」
「つまり嫌だってことか?」
「そう――うん、そうだと思う。恭介と仁美が楽しそうにしてるのなんて見たくないし、考えたくもない」
さやかの口は本人の意思を無視して勝手に動いていた。
恨みごとではない。
憎悪でもない。
ただ彼女の欲求が意味のある言葉として発せられていた。
「それがあんたの本当の気持ちなんだよ」
杏子は手のかかる妹を宥めるように柔らかい調子で言った。
どれほどの理想を掲げても、彼女がそうであったように人間は自分を優先する部分を持っている。
(あのボウヤのことを考えると居ても立ってもいられないだろ? それがあんたの求めてる見返りなんだよ)
杏子には分かっているのだ。
神と呼ばれる名医にも治せない幼馴染みの手を、怪我をしたことさえ疑わせるほどに完治させる奇跡を願った者がそれだけで満足できるハズがない。
得難い幸せを容易く得てしまった以上、人はさらなる幸せを追い求める。
(あんたの願いはボウヤの手を治すこと”だけじゃなかった”ってことさ)
そうした人間が誰しも通る道を先に歩んで失敗した彼女は、さやかの苦悩に共感できた。
「それに素直になれってことだ。自分を抑えたって良いことなんてひとつもないんだよ…………」
諭すような口調は半分は自分に向けてのものだった。
この言葉は彼女が放つからこそ重みを持つ。
「うん…………」
さやかは天井を見上げたまま声にならない声を漏らす。
「………………」
彼女はまだ自分がどうしたいかを明確に答えていない。
(――ったく、世話の焼ける奴だな)
この恋愛に臆病な少女には、時には使い古された挑発が必要らしい。
「あんたはせっかくの奇跡をあいつの怪我を治すことに使ったじゃんか。魔女と戦う運命背負ってまでそれを叶えたんだろ?
それだけ思い切ったことできるくせに、今さら告白のひとつやふたつでビビってんじゃねえよ」
「なっ――!? ビビってなんかないわよ!!」
杏子の思惑どおり、さやかは顔を赤くして反駁した。
彼女はこういう性格だ。
挑発すれば必ず乗ってくる。
気持ちを偽る事も隠す事もせずストレートに、思いの丈をぶつけてくる。
無意識の反射の中にこそ真意が出てくることを杏子はよく心得ていた。
「じゃあできるってんだな?」
「当たり前でしょっ!?」
言いながらさやかは後悔していたが、時は既に遅い。
後先考えずに口走る悪い癖を彼女は恨んだ。
(今くらいの勢いがあるほうがいいだろうさ)
子どものような反応を見せるさやかを、杏子は内心では心配していた。
聞くところによれば仁美は恋敵としては相性が悪い。
臆することなく宣戦布告してきた度胸と、短すぎる期限を設ける強かさがある。
(それに…………)
タイミングにも杏子は引っ掛かりを感じた。
恭介の手に奇跡が起こり、彼がようやく希望を見出した瞬間を見計らっての告白だ。
それを待ってから動き出した仁美を彼女は少しだけ卑怯だと思った。
もちろん事情を知らないあの令嬢には何の罪もない。
さやかが一度きりの奇跡を使ったと知れば仁美も遠慮をしたかもしれないが、彼女にとってこの対立は平等の上に成り立っている。
(こいつはそういうのは苦手みたいだからな…………)
もしさやかに恩人として振る舞えるくらいの豪胆さ――あるいは図々しさ――があれば、仁美が入り込む余地もないくらいに
恭介との逢瀬を重ねて愛を注いでいただろう。
しかし彼女はこの方面には消極的だ。
一日中追いかけ回していた彼に会いもせず、塀越しにヴァイオリンの音色を聴くだけで立ち去ろうしていた彼女は、
今回のような棘のある展開がなければ自分の気持ちに気付くことすらなかったに違いない。
「恭介はね――」
いくらか気分を落ち着けたさやかは訥々と語り始めた。
「昔からすっごくヴァイオリンが上手かったんだ。幼稚園くらいの時からかな。専属の家庭教師がついてて……」
「英才教育ってやつか?」
「そう。それで2年生の時に市のコンクールで金賞貰ったりしてたんだ」
上条恭介を語る時、さやかの口調は甘く艶めかしいものに変わる。
彼と生きてきた数年を振り返った彼女は、記憶の大部分を占める若き天才ヴァイオリニストを愛でた。
「ほんとに凄いんだ」
自分と違って才気に溢れ、物心ついた頃から大人を魅了する音色を奏でていた幼馴染みへの嫉妬の情は無くはない。
その才能のほんの一握りでもあれば、彼女は今よりもずっと自信家でいられただろう。
愛の告白でさえ容易く成し遂げられたハズだ。
「ちょっと疑問なんだけどさ」
悦に入っている様子のさやかに、杏子は間の抜けた声で言った。
「あんたはそいつが弾くヴァイオリンが好きなのか? それともヴァイオリンを弾いてるそいつが好きなのか?」
もはや”好き”か”好きでないか”は問題ではなくなっている。
彼女が問うているのはその次のステップについてだ。
「………………」
さやかはそれに即答できない。
質問の意味を咀嚼し、それを理解したうえで自分の気持ちに気付くのに彼女は厖大な時間を要した。
「そこをハッキリさせたほうがいい」
杏子は小さく息を吐いて言った。
「似てるようだけど全然違うからね。ちゃんと考えないとロクな結果にならないよ?」
彼女の助言は答えを与えるものではない。
当人の意思を無視して自分が思う正解だけを教えるやり方は、彼女の望むところではない。
佐倉杏子はどのような事態であっても、どのような事情があっても自分の意見を無理やり押し付けることをしない。
ただ彼女には過酷な半生によって培った価値観や主義があり、必要と感じた時にだけそれを説く。
かつて父がそうしたように。
「うん…………」
さやかは曖昧に頷いた。
その反応からいまひとつ意味を理解していないのだと杏子は悟った。
(最終的に決めるのはあんただからね)
彼女は相手が誰であっても、”私の言うとおりにしろ”とは言わない。
あくまでひとつの選択肢、ひとつの可能性を提示し、”そうすればいい”とほんの少しの思考の材料を与えるに留める。
これは無責任からくる保守的な姿勢ではない。
他人と深く関わることを避けてきた彼女が、それでも根の優しさを捨てきれないがためのギリギリの妥協点のようなものだ。
拒絶と関与の均衡が深入りし過ぎないアドヴァイスという形で実現するのである。
「あんたってさ――」
思わせぶりで、何もかも分かりきったようなことを言う杏子に、
「誰かをさ、す、好きになったりしたことってある……?」
さやかは彼女にもそうした経験があるのか興味を持った。
だがこの質問はまずかった。
杏子は少しだけ考える素振りを見せた後、
「恋愛とかそういうことしてる余裕はなかったからね……」
聞きとれないほどの小さな声でそう返すのみだった。
「ご、ごめん…………!!」
さやかは己の軽率さをすぐに謝った。
杏子が自分とは全く違う人生を歩んでいることを、彼女は時々忘れそうになる。
「ま、強いて言えば親父と妹ってとこかな」
「え…………?」
「好きな人だよ」
もちろんこの答えはさやかが期待したものとは違う。
しかし妙に真摯な口調で言った杏子に、さやかは恋愛絡みの苦悩はそれをすることを許された者だけのある種の贅沢なのだと思った。
「人間ってのはね、いつなにをやっても結局は後悔するんだよ。あの時こうすればよかったとか、ああしなけりゃよかった、とかさ。
だからさ、どうせ後悔するんだったら自分が納得できる方法をとればいいんだよ」
杏子は妙に弾んだ声で言った。
「短いけどあんたにはまだ考える時間があるんだ。ギリギリまで悩めばいいよ」
佐倉杏子は矛盾するふたつの想いを抱えていた。
さやかだ。
愚かにも魔法少女となってしまった彼女に、自分がしたくでもできなかった――しようと思う暇すらなかった――恋をしてほしいという願い。
世間から外れて生きる杏子にも、恋愛が思春期の少女にとってどれほど重要で代え難い思い出になるかは分かっていた。
同時につまらない恋心など捨て去ってしまえとも思う。
巴マミがそうであったように、魔女やその手下と戦う魔法少女はいつ命を落とすか分からない。
死闘を演じ続けなければならない自分たちが恋人を作ったところで、それは己を弱くする足枷にしかならない。
契約を交わした時点で彼女たちはもう、”普通の女の子”として生きることができなくなっているのだ。
「あんたってなんでそうやっていろいろ知ってるの?」
さやかは前々から抱いていた疑問を口にした。
年齢はそう変わらないハズだ。
住んでいた場所も教会が隣町にあることから、そこまで離れていないと分かる。
しかし2人を隔てる壁は途方もなく高く、厚いとさやかは感じた。
達観という言葉では片付かないほど、佐倉杏子は聡明だ。
意味深な台詞ばかり吐く暁美ほむらに似ているが彼女の場合、幾分ストレートな物言いには時に挑発的で反発したくなる部分はあるものの、
さやかにとっては耳を傾けるべき肯綮に中った意見が多い。
「さあ、ね」
生き方が違うのだから、形成された人格や獲得した知識と知恵も違う。
そこにいちいち疑問を持っても意味はない。
「私のことより今はあんただろ? 自分がどうしたいのかハッキリさせちまいなよ」
杏子はそれ以上は何も言おうとしなかった。
元々、この話題には聞き役として臨んだハズだった。
当事者でない人間には深く関わる資格はない。
さやかが今後どうするべきかは、さやかが決めるのだ。
もし彼女が迷うようなことがあれば、その時に手を貸せばいい。
杏子はずっと昔に妹にしてきたように、さやかに対しても”当時の姉”として振る舞うことにした。
「うん、考えてみるよ…………」
確かな道を示されたわけではない。
杏子の助言は導きではなく道標だった。
スタートラインにすら立てていなかったさやかに、彼女は優しく時に厳しい言葉で仁美と対等に渡り合えるだけの
”幼馴染みに恋する少女”だと気付かせた。
それだけで充分だった。
告白の場に立ち会ってエールを送ってくれるわけではない。
密かに恭介に接触し、さやかの愛を受け止めろと根回ししてくれるわけでもない。
しかしさやかは万倍の力と勇気を得たような気がした。

 

 志筑仁美はウソを吐かない。
どこにも証拠の残っていない自身の言葉を、彼女はしっかりと守っていた。
この令嬢は不自然にならないように視界から上条恭介を消した。
若き天才ヴァイオリニストという看板は上流階級に属する者にとっては魅力的だ。
恭介を見てしまえば。
恭介と目が合ってしまえば。
自分を抑えられなくなるかもしれない。
口約束をあっさりと反故にして、人気のない体育館裏に彼を呼び出し、想いを告げるより先に彼の唇を奪ってしまうかもしれない。
彼女にとってこの少年は特別だった。
怠惰な日々を貪る同級生の中で、彼だけは緝(ひかりかがや)いていた。
あの柔和な顔つき。
物腰の柔らかさと洗練された所作。
何より高級な趣味を趣味で終わらせず、聴く者の胸を打つ音色を奏でる上条恭介が――。
仁美は好きだった。
彼と2人きりの時間を過ごすことができれば、どれほどの幸せを得られるのだろう。
広く浅く、下手を打てばどれもが無駄になりそうな習い事の日々の中。
ただひとつの分野を追求する英邁な少年と逢瀬を重ねることができれば、このいつ終わるとも知れない無聊な生活も華やぐに違いないと。
彼女は思っていた。
些かの独占欲が悪辣な鎌首を擡げたが、淑女の理性がそれを押し留めた。
約束は約束なのだ。
大切な親友を欺いてまで恭介と恋仲になるつもりはない。
「仁美」
休み時間の喧騒は美樹さやかの呼びかけで聞こえなくなった。
「なんでしょう……?」
振り向いた彼女は近くにまどかがいないのを確認して安堵した。
今回ばかりはあのお人好しに関わられると、何かと面倒になりそうである。
「わたし、決めたから」
遠まわしな物言いを嫌うさやからしい宣言だった。
「そう、ですか…………」
何を決めたのかは訊くまでもなかった。
なぜなら彼女はこの後すぐに、
「恭介に私の想いを伝えるよ」
こう言ったからだ。
眼差しは真剣そのもの。
彼女は仁美の挑戦を真正面から受けたのだ。
「分かりました」
仁美は一瞬だけ宣戦布告したことを後悔した。
しかしこれは互いにとって正当な手段であり、フェアな戦いだ。
心に醜い部分を持つ者が恭介とつり合うハズがない。
そう考えれば恋敵に告白のチャンスを譲る結果となった自分の行動も無駄ではなかった、と仁美は思った。
(貴女が羨ましいですわ…………)
恭介との出会いが遅すぎたことを仁美は恨んだ。
さやか同様、幼馴染みとして今日まで歩んでいれば対等の立場に立てた。
その差は決して埋まらない。
条理を覆す存在があって、例えば時間を遡る力でも与えられれば彼女は躊躇いなくそれを用いただろう。
「では私は明日を待つ必要はありませんわね」
仁美は皮肉めいた笑みを浮かべた。
勝負はもう着いたのだ。
目の前の少女は良い意味でも悪い意味でも真っ直ぐだ。
今日、彼女は告白するだろう。
そして意中の男子と愛を育むだろう。
「さやかさん、上条君と――」
「ちょっと待って」
「………………」
「仁美も一緒だから」
「はい…………?」
見当違いの言葉に仁美は首を傾げた。
「だからきょ、恭介に告白するのは2人同時でってこと!」
さやかは小さく怒鳴った。
「あの、仰る意味がよく……私も、というのは?」
「仁美だって恭介のコト、好きなんでしょ?」
恋愛に奥手なハズの彼女は、誰が聞き耳を立てているかも分からない状況にもかかわらず、
こうしたデリケートな問題について通る声で言ってしまった。
幸い、騒がしい教室内では2人の会話に注意を払う生徒はいなかったようだ。
「だから私が先に、とかじゃなくて今日の放課後、同時に告白するんだよ。これならフェアでしょ?」
公平であるとさやかは強調した。
「でもそれでは…………」
先を譲った意味がない、と言いかけて仁美は口を噤んだ。
誰あろうさやかの意思なのだ。
今さら幼馴染みだからという理由で優先権を押し付けても、彼女は納得しないだろう。
「いいんだって。どっちが結ばれても恨みっこなし。それでいいよね?」
これには彼女のちょっとした仕返しが含まれていた。
2日後までに答えを出せと言ってきた仁美に対し、さやかは揃って告白する代わりにその期限を短縮した。
さやかが”たったの2日しか考える時間が与えられなかった”ように、仁美には考える時間すら与えられなかった。
ここまでして初めて公平といえるのだ。
既に結論が出ているのであれば後は行動するしかない。
さやかにも仁美にも、もう時間は必要ないハズなのだ。
「さやかさんがそれでよろしいのでしたら……分かりました、お受けします」
彼女は”自分がした挑戦”を受けた。
勝ち目がないと分かっている戦いに臆することもなく。
仁美はせめて潔さと行動力でだけでも、さやかに負けたくないと思った。
「じゃあ決まりだね。放課後――」
「ええ」
2人は互いに見つめ合ったが、そこに敵対心は微塵もなかった。





恐ろしく永い時間が過ぎた。
勉強嫌いのさやかは元より仁美でさえ、この数時間の授業内容は全く頭に入って来なかった。
彼女たちにとって校内での順位をつけるためだけの学習は重要ではなかった。
教科書を熟読すれば済むレベルの問題を、わざわざ教師の肉声と板書から学ぶ必要はない。
知識の習得よりも遥かに大切なことがある。
見聞きさえすれば誰でも獲得できるものにさほどの価値はない。
2人にとっては今、この瞬間こそが。
何物にも代え難い財産になるのだ。
それが人生の糧になってくれるのか、それとも失意の種になってしまうのかはまだ分からない。
「……大事な話ってなんだい?」
屋上に呼び出された彼は自分を射竦めるような視線に居心地の悪さを感じた。
一刻も早く家に帰り、少しでも早くヴァイオリンに触れたかった恭介が突然の誘いを断らなかったのは、
声をかけてきたのがよく知っている相手だったからだ。
美樹さやかと志筑仁美は彼を屋上に連れて行く時でさえ公平さを保った。
「お時間をとらせてしまって申し訳ないのですけれど……」
「どうしても言いたいことがあってさ」
下手に出て淑女らしく振る舞う仁美と、やや強引な印象を与えるさやか。
この2人は多くの点で異なっている。
共通しているのは互いが親しい仲にあることくらいで、これは第三者から見ての個性とは成り得ない。
つまり今、異性に興味を持ち始める年頃の少年に愛の告白をすれば、彼の理想を構成する部分をどちらかに見出すことができる。
この少年が少女のどのような個性に惹かれるのかは彼自身にしか分からない。
明らかなのはその要素を相手より多く持つ者がこの戦いに勝利できる、ということだ。
彼が物腰優雅な才媛に興味を持っているなら仁美が択ばれ、気兼ねなく付き合える活発な少女を好むならさやかが択ばれる。
全てを決めるのはこの少年だ。
ここまでの舞台を用意した2人にできるのは、もはや想いを伝えることのみである。
「えっと……どういうことかな?」
状況が呑み込めない恭介はさやかに視線を送った。
その反応に彼女は自分に気があるのではないかと勘違いしたが、仁美は説明を求めるのに話しやすい方を選んだに過ぎないと見抜いた。
とはいえ一見するとさやかに有利な空気を認めたくない彼女は、
「とても大切なお話がありますの」
彼の好奇心を煽るような答え方をした。
「大切な話?」
「ええ、とても」
このシチュエーションから予想される展開はたったのひとつしかないハズだが、長く入院生活を続けてきた恭介にはまるで先が読めなかった。
彼の関心は青春の1ページを飾るかもしれない恋愛よりも、自分とともに歩んできたヴァイオリンにある。
「あの、さ……恭介……」
既に頬を紅潮させている美樹さやかは別人だ。
「うまく言えないんだけどさ――」
この期に及んで言うべきことに躊躇いがちになり、頭の中で練習を繰り返してきた告白も喉の渇きのせいでしどろもどろになる。
「ずっと…………」
「うん?」
彼はまだ気付かない。
「恭介のことが――」
「………………?」
彼は何かに気付いた。
「――好きだったんだ」
さやかはその一言だけはハッキリと述べた。
予定とはずいぶん違っていた。
小学校時代の印象深い思い出話から入り、発表会には欠かさず足を運んでいたこと、誰もが羨む才能への礼讃、
そして幼馴染みとして気の置けない間柄から彼に抱く想いの変遷などが語られるハズだった。
だが回りくどい方法を苦手とするさやかは結局、いつもとは違う様子を見せながらも、いつもどおりの手法で愛を表現した。
「実は私もですの」
ここからは仁美の番だ。
「ずっと前からお慕いしていました。できれば末永くお付き合いをしたいと思っていましたの。その……ただのクラスメートではなく――」
こちらはさやかに比べていくらか度胸が据わっていたが、やはり想い人を前にすると緊張を抑えられないのか、
「できれば……男女としてのこ、交際をお願いしたいと…………」
平素の優雅な振る舞いもすっかり鳴りを潜めた。
想像もしなかった展開に、渦の中心に立たされた恭介はすぐにはそれを理解できなかった。
異性との交誼など自分にとっては縁のないもの、と捉えていたのかもしれない。
日頃から見舞いに来ていたさやかはともかく、これまでまともに会話もしなかった仁美が珍しく声をかけてきたと思えば、口から出たのが愛の告白では
さすがの彼も心落ち着かない。
「あ、ああ、うん…………いや、急な話で……」
恭介の話し相手は美しい音を響かせてくれるヴァイオリンだった。
これは彼がそれを愛していたからではあるが、同時に彼を慕う殆どの人間がヴァイオリンを通して彼に語りかけるからでもあった。
上条恭介は”稀代のヴァイオリニスト”の代名詞でしかなかった。
したがって生身の人間から自分を特定の一個人として見てもらうことに、彼は慣れていなかったのだ。
「恭介――」
「上条君――」
呼び方は違っても、意味するところは同じ。
小さな愛の物語の主役となったことを漸く理解した恭介は考えた。
いい加減な答えは出せない。
返事を先延ばしにすることも、無視することさえもできない。
彼は愛されているからだ。
「私と……その、付き合ってくれたら……なんて――」
さやかは耳まで真っ赤にして言った。
”付き合い”はしてきたハズだ。
幼馴染みとして、クラスメートとして、2人はずっと付き合ってきたハズだ。
しかし彼女が望むのはその次のステップ。
つまりこれは美樹さやかにとっての大いなる儀式である。
本当の気持ちと向き合い、それを告げ、自分がしたいこと、してほしいことを言葉にして伝える。
彼女が今までずっとできなかった熟慮と躊躇を伴う勇気ある行動だ。
成就するか否かで彼にとっても、彼女にとってもその後の多くが変わるだろう。
それが分かっている恭介はすぐには答えられない。
”答え”はもう出ていた。
告白される前から彼の答えは決まっていた。
この少年に足りなかったのは時間だ。
愛の言葉を咀嚼する時間ではなく、それに最も誠意ある表現で答える方法を模索する時間が。
彼には足りなかった。
「さやか――」
音楽に力を傾注してきた恭介には、時間の他に語彙も少しばかり足りなかった。
彼がその名を呼ぶのを躊躇っていたのは、気の利いた言葉を探すためだ。
「ありがとう」
結局、上手い表現が思いつかなかった彼は感謝を先に述べることにした。
「こんな僕を好きになってくれて……」
爽やかな印象を与える好青年は、表情にほんの少し翳が差しても放課後の屋上に美しく映える。
(恭介…………?)
彼の目元が西日を浴びて光ったのをさやかは見た。
重力によって落下するにはまだ小さいそれが、彼の双眸を潤していた。
「………………」
両者を見やった仁美は小さく息を吐いた。
とっくに覚悟はしていたから特段の悔しさはない。
こうなることも聡明な彼女なら予想できていたし、それを受け容れる心の準備もできていた。
恭介と男女としての付き合いをしたい。
仁美はたしかにそう願っていたが、彼と結ばれることでさやかを苦しませたくないとも思っていた。
つまるところ志筑仁美にとっては、結果がどちらに転んでも幸せと不幸せを同時に味わう羽目になる。
(こうなるべきなのですわ…………)
恭介とさやかが強い絆で結びつく瞬間を彼女は祝福しようとした。
しかしその時に、
(さやかさんが上条君を好きでなければよかったのに……)
ほんの一瞬だけ、人間らしい感情が覗いてしまう。
それなら何の問題もなかったのだ。
彼女はめでたく彼と結ばれ、さやかに負い目を感じる必要もなかった。
だが常にそうならないのが現実だ。
ありえない可能性を夢見ても意味がない。
仁美はこれから起こる全ての出来事を見届けることにした。
「さやかの気持ち、すごく嬉しいよ」
恭介は天を仰いだ。
空は青と赤が境目なく混ざり合っている。
が、よくよく目を凝らしてみるとあらゆる方角から迫った赤が青を呑み込んでいた。
「だけど……ごめん…………」
痛みを伴う声が風に乗った。
「――さやかとは付き合えない」
受苦と享楽は表裏一体。
幸福に溺れる者はあっさりと不幸に転落する。
「気持ちは本当に嬉しいんだ。僕にはもったいくらいだから……」
彼はまるで自分が恋に敗れた少女のように苦悶に顔を歪めていた。
惚れられた側の強みを活かすこともしないで、彼はただ幼馴染みが漸く向き合えた気持ちに添えないことを申し訳なく思っていた。
「でも、ごめん……さやか……。僕にとってさやかは一番の親友だよ。それはこれからもずっと変わらないから――」
彼は泣いていた。
その涙の意味するところが何かを考える余裕もなく、
「あ、あははっ! そ、そうだよねぇ! うん! そりゃそうだ!!」
さやかは涙を見せまいとよそを向いた。
「ごめんね、ヘンなこと言っちゃって! やっぱり柄じゃないよね、こういうの。だって恭介と私は…………」
「………………」
「わたしは…………」
「さやか…………」
「ただの、幼馴染み――だから…………」
これで縁が切れるわけではない。
多少は気まずくなるかもしれないが、彼女が望めばいつだって彼の演奏を聴くことができる。
同じ学校、同じ教室で顔を合わせることもできる。
「本当にごめん……さやか……」
「あ、謝んないでよ! そんなの……ッ!! 余計につらくなるじゃん…………」
さやかは泣かなかった。
ここで涙を流したところで恭介が考えを改めることはない。
感情の昂りを彼女は目を逸らすことで発散しようとした。
(さやかさん…………)
仁美には見たくない光景だった。
ひとつのチャンスが巡って来た僥倖に彼女は感謝するべきだったが、生来の優しさが喜ぶことを躊躇わせた。
「………………」
さやかを悲しませる恭介にほんの僅かの憤りを感じた仁美は、それがそもそもの目的と矛盾する想いであることに気付かない。
成り行きを見守るハズが、いつしかその成り行きの主役になっている自分に彼女は心苦しさを覚えた。
恭介は目の前だ。
「………………」
「………………」
2人は互いに見つめ合った。
「志筑さん――僕は……」
今は聞きたくない少年の声は、空虚になったさやかの耳にも届いていた。
「きみと――」
その瞬間、少女の体に閃電が走った。

 

 この2日あまりの激動がさやかに過大な疲労を与えた。
今は何もしたくない、何も考えたくないと。
彼女は”そう考えながら”黄昏を歩いた。
道行く人は様々だ。
会社帰りの男は皺の目立つスーツ姿で俯き加減で帰路につく。
大学生と思しき男女は人目も憚らずにべったりと寄り添いながら繁華街に消えた。
雑踏の間を子どもたちがサッカーボールを抱えて走り抜けていく。
このそれぞれに人生があり、今日があった。
また少女が知らないところでは想像もつかないほど過酷な運命を背負っている者もあれば、
生まれが良かったばかりに何の苦労もせずに日々を貪る放蕩者もいる。
悲劇であろうと喜劇であろうと、人は誰しもが自分の人生の主人公だ。
美樹さやかももちろんその一人である。
彼女は彼女の人生の主人公であり、恭介や仁美の人生の脇役だった。
ドラマを盛り上げ、舞台に彩りと乙張(めりはり)を与えるだけの小道具はけっして脚光を浴びることはない。
それを理解するのは極めて簡単だが、納得するのは何よりも難い。
「………………」
彼女の心は引き裂かれるような痛みを感じていたハズだが、不思議とそれを煩わしく思うことはない。
むしろ振り切った苦痛がいつの間にか昂揚感と爽快感を齎していた。
ここまでの僅かな時間が少女の精神に変化を与えたようだった。
それを証拠に今の彼女は、家族にいらぬ心配をかけないように笑顔を作る練習をしている。
自然体でいいのだ。
何事もなかったように振る舞う。
それだけでよかった。
彼女を産み育ててきた母なら、娘の異変にはすぐに気付くだろう。
しかしそれは問題ではない。
母が”娘が異変を隠そうとしている”ことを悟ればそれでよい。
彼女は愛しい娘と違って詮索はしない。
積極的に働きかけることもしない。
ただ彼女は彼女を見守り続けるだけである。
「ただいま!」
美樹さやかは自分でも驚くくらいに声を張り上げていた。





見滝原町の平和を守る正義の味方にも休息が必要だ。
魔女との過酷な戦いを生き延びるには心身ともに健全でなければならない。
今宵のさやかにはそのどちらも欠けていると感じた杏子は、彼女を置いてひとり夜の町に飛び出した。
未熟な後輩を指導しながらでもできる魔女退治は簡単な仕事だ。
自分の生死がかかっている戦いではあるが、過度の慢心にさえ注意していれば問題はない。
実際、彼女は美樹家を出てから10分足らずで戻って来た。
「早かったじゃない。大丈夫だった?」
ベッドに腰掛けたままさやかが問うた。
倒すべき敵の気配を感じておきながら駆けつけることができなかった彼女は軽い罪悪感に囚われた。
「あんたに心配されるほど落魄れちゃいねえっての。ただの使い魔だったからね。すぐに片付けたさ」
準備運動にもならない戦いを終え、杏子はにこりともせずに答えた。
「悪いね……私が行かなきゃいけないのに……」
さやかは目を逸らせて呟いた。
「今のあんたじゃハッキリ言って足手まといにしかならねえよ」
杏子は真っすぐにさやかを見据えて吐いた。
こういう性格の相手は白地(あからさま)な挑発を用いてプライドを傷つけてやれば、落ち込んでいることも忘れ感情をむき出しにして噛みついてくる。
杏子はそうした効果を狙ってお得意の方法をとったが、さやかからの反応はなかった。
「………………」
その様子から今日、何が起こったかを完全に理解した杏子は無言のまま彼女のすぐ横に腰をおろした。
静寂は心に安定を与えるが、この時の静謐さは重圧や圧迫となって襲ってくる。
ずっと独りで生きてきた杏子にとって音のない世界は慣れたものであるが、”誰か”といる時の静けさには居心地の悪さを感じる。
だからといって不必要に言葉をかけたりはしない。
既に分かっていることをわざわざ訊き出すほど彼女は無遠慮ではない。
そもそも訊く必要はなかった。
妙に律義なこの少女は、
「あんたのことだから気付いてると思うけど……恭介に告白したんだ……」
尋ねられてもいないのにこうして自分から白状してくれるからだ。
「そっか…………」
杏子はそれにわざと興味なさそうに相槌を打った。
先を促さなくても彼女は語るだろう。
今日に至る背景は昨夜のうちに杏子に話してある。
それがどうなったかを打ち明けるのは彼女の、杏子に対する責任感の表れだ。
「仁美と一緒にね、放課後に――屋上で…………」
「同時に?」
「そう」
フェアで黒白がハッキリつく方法をとったのだ、と杏子は思った。
これなら結果はすぐに分かるし双方、小細工を挟(さしはさ)む余地もない。
先に告白し断られた方は恋敵の横で惨めな想いをするが、後腐れのない分かりやすい対決だ。
「私が先に言ったんだ」
仁美に対し常に後手に回っていたさやかは、最後の最後で先手をとったようだ。
しかし事を為すに順序が全く関係ない場合もある。

”その先は言わなくていい”

杏子はそう言いかけたがそれより先に、
「ダメだった。私とは付き合えないって」
彼女は分かりきっている結末を口にした。
「………………」
杏子は何も言えなかった。
楽観視していたわけではないが、さやかが素直に想いを告げればあの俊傑とはうまくいくだろうと思っていたのだ。
大富豪になることだって誰もが羨むスーパーモデルになることだってできたチャンスを、彼女は彼のために使ったのだ。
2人の歩んできた道を杏子は知らないが、さやかがそれだけの犠牲を厭わない間柄であったことは想像がつく。
「そりゃ……残念だったね…………」
結局、この程度のことしか言えない自分に杏子は無性に腹が立った。
もちろん彼女には恋愛の経験はない。
恋心としての”好き”がどういうものかは分からないし当然、失恋の痛みも知らない。
同じ道を先に辿っていたならもう少し気の利いた慰めの言葉も思いついたかもしれない。
何の役にも立てないことを杏子は牴牾(もどか)しく思った。
魔女を貫く刃も使い魔を縛る多節槍もここでは塵埃に等しい。
「やっぱり男ってのは金持ちとかお嬢様みたいな奴のほうがいいのかねえ……」
どうにかさやかの気を紛らせる方法はないかと彼女は探った。
(こいつの前で恭介や仁美って奴を悪し様に言いたくはないけど……)
ヘタな慰めは傷を癒すどころかさらに相手を苦しめる。
狐と葡萄ではないが恭介を取るに足らない男、仁美を地位を鼻にかける厭な女と評しておけばいくらか気が楽になるかもしれないと。
そう考えた杏子は話題を恋敵に逸らそうとしたが、
「ああ、いや、そうじゃなくてね……」
さやかが微苦笑しながら遮るように言った。
「――仁美もダメだったんだ」
「………………?」
「フラれたんだ、私たち」
恋の敗北を彼女は精一杯の笑顔で告げた。
「どっちもってことかよ? じゃあ他に好きな奴がいるってことか?」
この可能性は考えていなかった杏子は殊更に驚いた。
2人以上の女に告白された男は必ずどちらかを選ぶものと彼女は考えていた。
実際、さやかでさえ断られた瞬間、恭介は仁美に好意を抱いているのだと思っていた。
しかし現実はそうではなかったのだ。
「ちょっと違うかな。あいつが好きなのは――」
さやかは静かに目を閉じた。

 



 

「志筑さん――僕はきみとも付き合えない……」
いくらかの後ろめたさを感じながら望む未来を描いていた仁美は、完全な不意打ちに目を瞬かせた。
「え、あの……え…………?」
油断があった。
さやかの敗北を目に焼きつけた彼女は、消去法で自分が選ばれるのだと思い込んでいた。
この状況から考えられる恭介の反応はたった一通りしかなかったハズなのだ。
「気持ちは本当に嬉しいんだ。勉強ができるわけでもないスポーツが得意なわけでもない僕に……。そう思ってもらえるだけで嬉しいよ」
非凡な才能の持ち主は実に謙虚だった。
行き過ぎた謙遜はともすれば嫌味に取られかねない危うさを秘めているが、彼の場合は真摯にこの問題と向き合って答えを出したようだ。
そこに卑屈に振る舞って同情を買おうという意図はない。
この純朴な少年にはそこまでの知恵を働かせることはできない。
「どなたか好意を寄せていらっしゃる人がいるのですか?」
言ってから仁美は、なんと愚かな質問をしてしまったのだろうと思った。
それを知ったところで何もならない。
さやかに対してさえ真っ向からの勝負を挑んだ彼女が、新たな恋敵から恭介を争奪しようと思えるハズがない。
「そうじゃないんだ」
少年はちらっとさやかを見やった。
「僕には――ごめん、ヴァイオリンが一番なんだ」
恭介を恭介たらしめるキーワードに、さやかはぴくりと体を震わせた。
「ずっと動かない手が……先生にも治らないから諦めろって言われてた手が治ったんだ。
奇跡が起こったんだよ。やっとヴァイオリンが弾けるんだって。それがすごく嬉しくて――」
「………………」
「気が付いたら一日中弾いてた。その時、分かったんだ。僕にはこれしかないんだって。これがあるんだって」
彼の瞳は美しく輝いていた。
「自分でもバカだって思うんだ。こんなに真剣に考えてくれてる娘から告白されてるのに……ちゃんと答えられなくて。
2人の気持ちは本当に嬉しいよ。本当にありがとう……でも、ごめん…………」
「上条君…………」
「僕にはヴァイオリンが一番なんだ。他のことなんて考えられないんだ。だから――」
冷たい拒絶ではなかった。
この少年には美しい音色を響かせるパートナーが既にいた。
もちろん異性との交際に全く興味がないわけではない。
だが今の彼にはひとりの少女を愛することはできない。
付き合いを長く深くしたところで、恭介の心を常に射止め続けるのはさやかでも仁美でもないのだ。
それが分かっているからこそ彼は2人の意思には副えない。
重ねる逢瀬の中で相手を蔑ろにしてしまうかもしれない。
ヴァイオリンか恋人のどちらかを選べと言われれば、彼は逡巡しながらも前者に手を伸ばしてしまうかもしれない。
そんな人間は誰かに好意を抱かれることすらあってはならないと。
彼は自分を責めながら上条恭介という人間を理解した。
「僕が誰かと付き合――」
「もういいよ」
さやかは優しい口調で遮った。
「いいんだよ、恭介……」
これ以上、彼を苦しめたくはない。
好意を受け取れない理由を語れば語るほど、少年の心は罪悪感に押し潰されそうになる。
「上条君の気持ち、とてもよく分かりました。私はあなたの邪魔はしませんわ」
「じゃ、邪魔だなんて! 僕はただ――」
「ええ、分かっています。いつか上条君の演奏を聴かせてくださいな。さやかさんと一緒に――」
仁美は令嬢らしいにこやなか笑顔を浮かべた。
「恭介、ハードル上げられちゃったね。こりゃ相当特訓しないと私も仁美も満足させられないよ?
私はともかく仁美はクラシックにうるさいからね。生半可な演奏じゃ途中で帰っちゃうかもよ」
さやかは笑っていた。
無理に作ったものではない。
彼女は自然に笑っていた。
そうなのだ。
恭介の手は彼女が戦いの運命を受け容れてまで与えたもの。
これくらいの軽口を叩いて、最上級の演奏会を開いてもらっても足りないくらいだ。
「ううん、すごいプレッシャーだね……」
彼はコンクールに出場する時の何倍もの重圧を感じた。
「でも、うん、約束するよ。2人に僕の最高の演奏を聴いてほしい。それが――」
自分にできる唯一のことだ、と彼は言った。
さやかも。
仁美も。
想い人の音楽に対する並々ならない情熱と、それに負けないくらいの優しさに触れて胸が熱くなるのを感じた。
(恭介――)
(上条君――)
2人は実らなかった恋に少しだけ感謝した。

 



 

これはひとりの少女にとって人生のほんの一部分でしかない。
誰かを好きになり、想いを告げ、成就せずに儚い思い出となる。
希有な経験ではない。
似たような感情を抱き、似たような行動をとり、似たような結果を迎える者はいくらでもいる。
「なるほど、ね……」
全てを知った杏子は安堵から大息した。
ハッピーエンドではなかった。
美樹さやかにとっての幸せは恭介と結ばれることであるから、この戦いは敗北ではなく引き分けに終わったと解釈できる。
「結局あのボウヤは音楽に惚れてたってことか」
幼い頃、モノではなくまずヒトを愛せと教えられていた杏子には、恭介の感覚は理解しにくい。
モノには心が宿っていないと考えているからだ。
いくら愛を注いでもそれが返ってくることはない。
「ま、分からなくもねえけどさ――」
しかし杏子は彼の感覚を理解しようとした。
頭から撥ね退けるべき思想ではない。
愛は最も尊くて最も危険なものであると彼女は分かっている。
命も感情も宿らないモノに対して恭介が愛を注いでいるのなら、それは見返りを求めない無償の愛だ。
彼女の父が、彼女自身がかつて追い求めていたものだ。
「音楽ってのは不思議なものだからね。憂鬱な気分が吹き飛ぶこともあるし、逆に虚しくなることもある」
言葉と音は似ているが違う。
この点はさやかも心得ている。
恭介が選んだのは言葉ではなく、音だったのだ。
「昨日、さ……」
さやかはぎこちない笑みを浮かべて言った。
「あんたに言われたこと、ずっと考えてたんだ」
「…………?」
「恭介が弾くヴァイオリンが好きなのか、ヴァイオリンを弾いてる恭介が好きなのかどっちかって。あんた、そう言ったでしょ?」
「ああ…………」
「わたし、そんなの考えたこともなかった。好きって気持ちもよく分からないままだったから、私は本当はどう思ってるんだろうって――」
憂いを帯びた表情に杏子は胸が熱くなるのを感じた。
すぐ横に座っているのは間違いなく恋する乙女だった。
凛としていて芯の強さを窺わせる美樹さやかの姿はなかった。
「で、どっちだったんだ?」
「どっちも。恭介のことも好きだし、あいつのヴァイオリンも好きだし」
「そっか…………」
「でも他にもあったんだ」
さやかはそこで言葉を切った。
これから語るのは誰にも打ち明けたことのない本心だ。
彼女自身ですらずっと忘れていた本当の気持ちだ。
「私はね、ただあいつの演奏が聴きたかっただけじゃない。あのヴァイオリンを――もっともっと大勢の人に聴いて欲しかったんだ……」
さやかは瞳を潤ませた。
(そういうことか…………)
杏子には漸く分かった。
この健気に背伸びをし続ける少女が、何を想い、何を願って魔法少女になったのか。
彼女はやっと理解した。
自分が好きなもの、良いと思うものを独り占めせずに不特定の他者に分け与える。
その行為がどれほど素晴らしいかはどんな言語でも正しく言い表せない。
尊さは感覚でしか理解できないのだ。
(こいつにとっちゃこういう結果のほうが良かったのかもな)
美樹さやかの利他的な面――と、そうあろうと努める姿勢――を何度も見てきた杏子は、
彼女にとって望まざる失恋が実は最も良い形の終焉ではないかと思った。

”恭介のヴァイオリンをもっともっと大勢の人に聴いて欲しい”

そう願って奇跡を叶えたのなら、彼を恋慕の茨で独占する行為は慎むべきだった。
恭介自身が言ったように恋愛と音楽の間で揺れ、どちらも選べない窮地に陥ってしまえば、彼の奏でる美しいメロディーはただの雑音に成り果て、
やがてさやかひとりを幸せにすることもできなくなるだろう。
彼女が”聴いて欲しかった”と願う音色が永遠に失われてしまうかもしれないのだ。
「………………」
上条恭介は音楽を愛し、音楽とともにある限り、誰とも愛を育まないだろう。
もし彼が多くの人間がするように誰かを愛しく思うのなら、それは彼がヴァイオリンを半ば捨てた時だ。
欲しいモノが何もかも手に入らないのが現実なのだ。
杏子は一度は理解していたハズの不変の理を改めて理解した。
強く求めるものほど手元から遠ざかっていく。
かといって求めなければそれに近づくことすらできない。
「杏子のおかげでそれを思い出せたよ」
美樹さやかは愚かな人間だった。
自己を犠牲にして他者を救った彼女は、一度はそれに対する見返りを求めかけた。
与えた恩に見合うだけの報酬を欲しがった。
彼女が今も尊敬してやまない巴マミはそうではなかったハズだ。
これは過ちだった。
正義感と使命感に突き動かされる少女にとっての間違った道だった。
しかしこの転落の道は引き返すことが可能だった。
自分の立ち位置すら曖昧な暗闇を何の手がかりもなしに落ちていくところを、
何気無い一言で引っ張り上げたのは杏子だった。
「ま、あんたはよくやったよ。後悔してないんだろ?」
「うん、全然。これで……良かったと思ってる……」
彼女はウソを吐くのが下手だ。
どれほど強がっても心が見せる反応は隠せない。
完全には捨て切れなかった恋心が決して満たされないと分かった時、彼女の瞳は美しく濡れていた。
杏子は微苦笑するとさやかの涙を指先でそっと拭った。
「ったく、そんな顔してんじゃねーよ」
揶揄うような気遣うような口調でそう言った後、彼女はさやかの肩に手を回した。
「ん…………ッッ!?」
一瞬の出来事だった。
さやかの柔らかな唇が強引に、しかし優しく塞がれた。
何が起こったのかも、何をされているのかも彼女はすぐには分からなかった。
明らかなのは口唇に温かい何かが押し当てられていることと、肩を抱く拘束が極めて緩いこと――。
(きょう、こ…………?)
やや息苦しさを覚えた彼女は、最も敏感になっている部分から全身に伝わる感触に状況を理解した。
だが何故、杏子がこうしているのかは理解できなかった。
「………………」
知る必要はなかった。
突然の甘美は美樹さやかの脳を痺れさせ、間もなくつまらない疑問も浮かばないほどに籠絡してくれる。
口付けは温かかった。
抱擁は優しかった。
佐倉杏子という人間からは想像もつかないほど慈愛に満ちた接触が、恋に敗れた少女の痛みを忘れさせた。
いつの間にかさやかもそれを求めていた。
気まぐれな接吻を、同じくきまぐれでやめさせないために。
彼女は少しだけ震える手で杏子の背中を抱いた。
2人の距離は先程よりもずっと近くなった。
互いの体温を感じられるほどに体を密着させ、それでも足りないとばかりにさやかは身を乗り出す。
「…………?」
杏子はほんの少し背を反らせた。
落涙しながら自分を求めてくるさやかを見て、彼女は”さやかが恭介に抱く想い”がどのようなものかを感じ取った。
盲目になるほどの恋慕の情は湧かない。
彼女は今もしっかりと自分を保っているし、自分が何をしているのか、何をされているのかも分かっている。
だがこの時、杏子はさやかに特別な想いを抱いていることに気付いた。
不器用で何をやらせても上手くいかない癖に、正義感だけは人一倍強くて――。
目に見えない存在に熱心に祈りを捧げ、この世界にはきっと遍く慈愛の光が降り注ぐと信じて疑わなかった――。
少し人見知りをする傾向があり、いつも自分の陰に隠れて時おり怯えたように見上げる――。
そんな愛しい人物がいつかまでは杏子のすぐ傍にいたのだ。
美樹さやかは彼女によく似ていた。
今は二度と戻っては来られない世界に旅立ってしまった妹に。
よく似ていた。





「くぅ…………」
今になって羞恥心に襲われ、さやかは不貞腐れたようにそっぽを向いた。
(なんでこんな奴に…………!)
彼女は冷静であるうちはすぐに感情を昂ぶらせ、冷静でなくなる。
杏子に強引に唇を奪われ、それに抗うどころか自分から求めてしまったことに不思議と後悔はなかった。
それは杏子も同じだった。
珍しく涙を流す彼女を見て普段、人前では泣くどころか涙ぐむことさえ憚って強がってきたのだと思うと、
杏子はせめてこの時、この場所でくらいは弱さを曝け出させてやろうという気になった。
自分以外には誰もいないのだ。
彼女が自分に対して少しでも心を許しているのなら、溜め込んでいた感情を躊躇いながら一気に吐き出すに違いないと。
考えるまでもないことだった。
さやかはもう、ずっと前から杏子に気を許していたハズなのだ。
「はぁ…………」
火照った体に早く元の体温を取り戻せと念じながら、杏子は深いため息をついた。
(なんであんなコトしちまったんだろうな…………)
傷心のさやかを見ていられないから何とか気を逸らせたい。
彼女はたしかにそう思っていたが、その手段までを考えていたわけではない。
体が勝手に。
本人の意思を無視して唇を重ねさせていたのだった。
「なんであんなコトしたのよ…………」
杏子自身が知りたいことをさやかが問うた。
もちろんそれに答えることはできない。
「さあ、ね――」
「さあ、って……」
彼女を亡き妹に重ねてしまった、と弁解したところで何の意味もない。
生者の影に死者を見つめるのは親しい者を喪った人間がとりそうな軽率な行動だが、杏子はそうした意味のない夢を抱いて現実から
目を逸らす生き方を嫌ってきたハズだった。
「ビックリするじゃんか。急にあんなコトされたら……!」
急でなければいいのか、というつまらない揚げ足取りはしない。
杏子はただ、
「ああ、悪かった」
自分の行為について認めるのみだった。
「謝らないでよ…………」
さやかはただ理由を求めただけだった。
謝罪の言葉が欲しかったわけではないし、後ろめたさを感じて欲しいわけでもなかった。
彼女が最も欲しがっているものは、いつも手に入らない。
結局、杏子は沈黙を返すのみで問いには答えなかった。
「………………」
規則正しい秒針の音が静寂の中を何度も行ったり来たりする。
それがもう何十回繰り返されたか分からなくなった時、さやかはその沈黙こそが答えなのだと悟った。
言葉にも文字にも音にも絵にも表せないのが、この世に生ける全ての生物の心だ。
彼女は問いに対する答えを無言で受け取った。
「さやか」
意味のない呼びかけがたしかに聞こえた。
「あんた、明後日は学校休みなんだろ?」
「うん――」
仁美が明日まで待つ、と言ったのはその翌日が休日だからだ。
結果がどうなっても両者の関係が気まずくなるのは避けられない。
そこに配慮して敢えて互いが顔を合わせない時間を設けたのだ。
「だったらさ、ちょっと時間作ってくれない?」
この少女は乱暴な口調で強引に誘うこともあれば、下手に出て伺いを立てるように同行を求めることもある。
杏子らしくない、と思ったさやかは一瞬の躊躇のあと、
「いいよ」
消え入りそうな声でそれに応えた。

 

 ねずみ色の雲が覆っていた午前は時間とともに様相を変え、昼過ぎには青々とした空を地上に見せた。
林道を行く2人の少女は横に並んで教会に続く道を歩いていた。
「………………」
さやかはここに不思議な懐かしさを感じた。
来たのは一度だけ。
その時はまだ杏子を敵と見なしており警戒心が解けていなかった精神状態から、
この風景はそれほど強く印象には残っていないハズだった。
時間を作ってくれと言った杏子は、彼女をあの廃れた教会に連れて行くつもりだったようだ。
今になって何の用があるのか、とさやかは訝ったがわざわざそれを訊ねる気も起こらず、
普段よりもいくらか覚束ない足どりで緩やかな斜面を登っていく。
杏子は彼女に歩調を合わせた。
こういう時には強引さを見せるのは逆効果だと考えた彼女は、常に真横にさやかを感じながら歩いた。
日を追うごとにこの神聖な建造物は汚れ朽ちていく。
入り口を塞ぐように生えた雑草は丈を伸ばし、壁を走る罅は枯れ枝のような手をあちこちに広げていた。
だがこれが本来持っていた荘厳さまでは失われていない。
見窄らしい教会の輪郭は神の加護を受けているのか淡く光っているように見える。
門扉の前に立ち、杏子は一瞬だけ動きを止めた。
敬虔な信者の祈りがまだ燻っているように感じられ、彼女はここに足を踏み入れる時には決まって心を空っぽにする。
欲も邪念も雑念も、何もかも捨て去って初めて教会に入ることを許される。
これは杏子が勝手に思い込んでいるルールだ。
したがってそれをさやかに押し付けることはしない。
2人は軋る床に気を遣いながら歩を進めた。
教壇の前まで来た時、杏子は緩慢な動作で跪き両手を組んだ。
その作法を知らないさやかは、しかしそれが彼女の祈りであることに気付くと静かに目を閉じた。
伝統的な日本の神にさえ普段は敬意を払わないさやかは、ここで杏子の真似事をしてポーズをとったところで、
心の篭もっていないアクションにしかならず、彼女が今も信奉する神に対する冒涜になるのではないかと思った。
「そのへんに座ってなよ」
祈りを終えた杏子は教壇に向かって一礼した。
「…………?」
彼女が指し示したのは半ば原形を失いつつある会衆席長椅子だ。
朽木でできたそれは塵埃を被って元々の色合いさえ分からない。
汚れを払ったさやかは言われるままにその真ん中に腰をおろした。
「――何なの?」
ここに来る意味がさやかには分からない。
何か他人に聞かれてまずい話なら部屋なり公園なりに場所を移せばいいし、それでも問題があるならテレパシーを使えばいい。
杏子にとってもつらい思い出があるハズのこの場所を、なぜわざわざ選んだのか。
彼女には理解できなかった。
「まあいいからさ」
訝るさやかを無視して杏子は歩き出す。
そのすぐ先にあるものを認めたさやかは目を瞬かせた。
――オルガンだ。
西洋の礼拝堂にあるような巨大なものではない。
といって小学校に必ずあるそれとも違う。
無骨な木製のフレームには独特の意匠があり、よくよく見てみると幾何学的な模様が刻まれている。
「あんた…………?」
さやかが何か問いかける前に、杏子はオルガンの前に座っていた。
鍵盤のひとつを押してみる。
濁った音が鳴った。
永く温度や湿度の変化を繰り返したことで、これを納めている建物と同じように傷みが進んでいるようだ。
調律の仕方を知らない杏子は鍵盤を順番に叩き、これから演奏する曲目に適した音だけを拾った。
(このあたりだな)
高音の歪みが著しいと分かった彼女は、深呼吸をして盤上に手を置く。
まず左手がゆっくりと動き、演奏の始まりを厳かに告げた。
くぐもってはいるが美しい音色は教会内に遍く響き、聴く者の心から邪を取り祓う。
この曲目には緩急がない。
ほとんど変わらないテンポで紡がれる音には境目がなく、時の流れを忘れさせる不思議な力があった。
「………………」
さやかは自然と目を閉じてそれに聴き入っていた。
視覚は必要なかった。
時たまにズレる音は全く気にならない。
歌詞のない子守唄のような、優しく温かく、包みこむような空気の振動だけが彼女の心を満たしていく。
(何の曲なのかな…………?)
恭介と接点を持ちたいという想いからクラシック音楽を嗜んできたさやかだが、この曲には聴き覚えがなかった。
バッハでもない、ブクステフーデでもない、スウェーリンクの曲調とも違う。
全く聴いたことのない曲だった。
(なんでだろう…………?)
しかしさやかは懐かしいと感じた。
記憶にはないハズなのに、ずっと昔に毎日のように聴いていたような気がしていた。
7秒置きに調子のハズれた音がする度に、彼女の中に浮かぶ疑問は薄れていく。
心が――。
少女の心が答えの出ない疑問よりも、彼女の演奏を聴きたがっているのだ。
さやかはそっと目を開けた。
頭上のステンドグラスは午後の陽ざしを浴びて神々しく輝いていた。
この輝きは生きている。
鍵盤がひとつ押される度に。
濁った音が宙を舞う度に。
澄んだ音が天高く昇る度に。
薄汚れた天使たちは慈しみの微笑を浮かべ、さやかと杏子を照らしてくれる。
「………………!!」
眩しさに視線を前に向けたさやかは、危うく感嘆の息を漏らしそうになった。
彼女の位置からは演奏に集中する杏子の横顔が見える。
しかしそれは佐倉杏子ではなかった。
あの射竦めるような目つきも、好戦的で勝ち気な表情も、理不尽な現実を相手に立ち回る逞しさも――。
今の彼女には全くなかった。
そこにいるのは少女の姿をした聖女だった。
滑らかな運指が繊細で嫋(たお)やかな調べを奏でる。
ぎこちなさはない。
違和感もない。
初めからこのオルガンが彼女のためだけに作られたように、音を与える彼女たちは一体となっていた。
壁に、床に、天井にぶつかった音色がまた中空でぶつかり合って巨大な渦を作る。
オルガンではない――。
この教会そのものが、この日、この時の演奏のためだけに建てられたのだ。
(ウソ…………!?)
杏子を注意深く見たさやかは驚いた。
彼女は目を閉じている。
楽譜もなく、鍵盤も見ず、杏子は音を繋げている。
その様があまりに自然で、さやかには鍵盤の方から彼女の指に近づいているように見えた。
(そういえば…………)
さやかは小さい頃、母に聞かされたことを思い出した。
天国だ。
人は善い事をたくさんしてから死ねば天国に行ける。
そこには自分が欲しいものが何でもあって、色とりどりの花が枯れることなく咲き続け、いつまでも青い空を鳥たちが飛び回っている。
神様に近い場所では綺麗な音楽が奏でられ、それを聴くと幸せな気持ちになれるのだという。
子ども向けの、幼稚で陳腐な躾だった。
これを真に受けさせれば善行を勧め悪行を慎む人間が勝手にできあがる。
神や天国という存在の証明のしようのない概念を信じ込ませることで、常に形而上の監視の目があると半ば脅迫のように刷り込ませ、
大人――つまりは親――にとって良い子に育てるのである。
もちろん母にそうした意図は全くなかった。
愛しい我が娘を脅して縛りつける方法は、真に子を愛する親なら決してとらない最も卑劣な導き方だ。
彼女はただ物語のひとつとしてそれを教えただけだった。
寝る前に読み聞かせる童話と同じレベルの空想だった。
さやかは幼い頃の記憶として曖昧なまま意識の奥にこれを押し込めていたが、教会中に響く音色に漸く母の空想を思い出した。
もし天国があって神がいて、魂というものがあってそれが死後、本当にそこに昇るのだとしたら――。
いま奏でられているような、聴く者を幸せな気持ちにさせる音楽が流れているのかもしれない。
さやかは思った。
音楽は尊く、気高く、したがって美しい。
彼女はそれを恭介を通じて知った。
美樹さやかは上条恭介と出会ったのではない。
音楽と出逢ったのだった。
自然的に、あるいは人工的に作られた音の組み合わせは無限大だ。
その中から偶然に産まれた旋律はどれほど時が経とうとも色褪せることのない奇跡であり財産だった。
それを心得ているからこそ、彼女には彼女の演奏がとても神々しく思えた。
人と人との関係がそうであるように、人と音楽との縁も一度きりかもしれない。
佐倉杏子が奏でる、天国の存在を信じたくなるほど澄んでいて濁っている調べはもう二度と聴けないかもしれない。
そこに考え至ると、さやかはもう何も考えなくなっていた。
感じるだけで良かったのだ。
この演奏会の意図も疑問に思う必要はない。
「………………」
さやかは美しいメロディーに耳を奪われ、それを奏で続ける杏子にいつまでも見惚れていた。





拍手を送る気にはなれなかった。
誰でも思いつくようなありきたりな方法で感謝を伝えたくはなかったのだ。
心からの”ありがとう”はどんな行動によっても表現できない。
驚きも、感激も、感動もそれを言葉にした途端にまやかしに成り果てる。
この数分間に神聖な楽器から流れ出た全ての音を、胸中深くに刻み込めばそれでよかった。
だからさやかは何もしないし、何も言わない。
言葉すら出なかったのだ。
「ちょっと音が残念だったね」
曲の素晴らしさの半分も表現できなかった、と杏子は溜息まじりに言った。
「ううん、そんなことないよ」
さやかは彼女が言い終わる前にそれを否定した。
審査員を前にしてのコンクールではない。
いくら楽器が老朽しても胸を打つ音色には変わりはなかった。
「さっきのって何ていう曲なの?」
問うてからさやかは自身の無知と無能を思い知らされた。
杏子が知っているであろう曲名を知らず、彼女のように音楽ひとつ奏でることもできない。
今になって彼女は自分は恭介とは到底つり合わない人間なのだと思った。
「名前なんてねえよ」
言葉はいつものように荒っぽく、
「――多分ね」
彼女は遠くを見て言った。
さやかは練習曲の類かと考えた。
「あれはね、妹が作った曲なんだ……」
役目を終えたオルガンを見据えて杏子が呟くように言った。
「ちょっと変わっててさ。家族の誰も教えたわけじゃないのに毎日のようにオルガンを触ってたんだよね。
最初は適当に鍵盤叩いてるだけで親父によく叱られてたんだけどさ――」
「………………」
「いつの間にか同じメロディーばかり弾くようになってたんだ。っていっても小さかったからまともに指が運べないんだよ。
だから届かないところは私が間に入って演奏してた。喜んでたよ。”できたできた!”ってね」
杏子は傷だらけのオルガンを優しく撫でた。
「そのうち妹がどんな曲を弾きたがってるのか分かるようになってさ。ここはこの音でいいのかとか、
このテンポでいいのかとか、ひとつひとつ訊きながら――そうやってできたのがさっきの曲さ」
語る少女の目はステンドグラスのずっと向こうを見ていた。
差し込む光は先ほどより幾分弱くなっている。
「だから――」
「だから楽譜も何もない。採譜なんてできねえし」
杏子はさやかが知りたがっていることを先回りして答えた。
「弾いたのは久しぶりだけど、ちゃんと覚えてるもんなんだな」
さやかは彼女が何も見ずに弾きこなしていた理由を理解した。
杏子が言うように体は全てを覚えているのだ。
妹とのやりとりを想像した彼女は、あの曲が完成するまでどれほど演奏を繰り返したのだろうと思った。
同時に自分がとてつもない幸運に恵まれていたことを知る。
佐倉杏子がいなければあの荘厳で美しい旋律とは出逢えなかっただろう。
「えっと、その……ごめん…………」
「いいんだよ。私が勝手に連れてきて勝手に弾いただけなんだし」
その理由を彼女は語らない。
ただの気まぐれと片づけることもできたし、深い意味があると捉えることもできた。
一度はその意図を知りたがったさやかだが、洗滌(せんでき)された心は問わずともその答えを得ていた。
言葉に因らない杏子の慈愛だったのだ。
音楽によって苦しみを得たのなら、それを癒すのもまた音楽でなければならなかった。
恭介の心を奪った音の波が、今度はさやかの心を奪ったのだ。
誰も知らない曲を自分だけが聴けたという希有な体験は、押された鍵盤に応じた音を返すオルガンとそれを手足のように操る杏子が見せた美しい夢だった。
たった一度になるかもしれない癒しだったのだ。
「杏子――」
残響が清らかな風を運び続けている中で、さやかはあまり言葉を発したくはなかった。
矮小でとるに足りない自分の声が、音によって形成された神聖な場を穢すことを恐れてのことだった。
「ありがと……こんなに綺麗な曲を弾いてくれて――」
結局、彼女はそれを言葉にした。
それ以外の言葉を知らなかったのだ。
こうする他なかったのだ。
さやかにも音楽について鑑賞ではなく別の嗜みと心得があったなら、もっと別の方法でこれに応えていただろう。
杏子のためだけに曲を作るか、杏子のためだけに演奏をしていたに違いない。
そのどちらもできないことを彼女は牴牾(もどか)しく感じた。
しかし心からの感謝はそれを口にした時、言葉も声も美しく響く。
「綺麗かどうかは分からないけど、あんたが満足したのならそれで充分だ」
杏子はさやかの心に何らかの良い結果を齎してくれたオルガンと、それに命を吹き込んだ妹の曲に感謝した。
「ちょっとは気分が晴れたかい?」
彼女は八重歯を覗かせて笑った。
「ちょっとどころか……感動したよ。あんたがあんなにオルガン弾くの上手いなんて思わなかった」
意外性という意味ではこれほど効果的な手法はない。
ジャンクフードや菓子ばかりを貪っている一見すると野性的な少女は、日頃の乱暴な言葉遣いもあって
繊細さを微塵も感じさせない。
しかし彼女を見てそう思うのは、彼女を観測する者がある陥穽に落ちてしまうからだ。
美樹さやかも一度はそれに嵌った。
先入観だ。
人はこれの虜になると抜け出すのが極めて難しくなる。
その人物あるいは事物に対する最初の印象は本人が自覚できないほど強烈なものとなり、その時点で満足してしまう人間は
再考することをしない。
よほど衝撃的な事実を知るか、記憶を喪失でもしない限りはこの評価が転じることはない。
その点、さやかは恵まれていた。
彼女には先入観を根底から覆すキッカケを与えてくれた鹿目まどかがいた。
あのどこか抜けていて芯の強い親友がいなければ、杏子が隠し通してきた陰惨な過去と、
それによって封じられてきた清廉さや慈悲深さにさやかが気付くことはなかっただろう。
「そりゃ良かった」
杏子はわざとらしく背を伸ばした。
「あんたのしけた面、見てられなかったからさ」
この繊細な荒療治は杏子にとって大きな賭けだった。
音楽療法の心得のない彼女にはこれが文字どおり”奏功”するかどうかは分からない。
下手を打てば空気の振動が恭介を想起させ、さらに傷を広げる悪果を招く恐れすらあった。
しかし敢えてこの手法を選んだのは、その方法しか思いつかなかったからだ。
選択の幅が無かったわけではない。
妹が作った曲を思い出した時、さやかの枯れかけた心に慈雨を降らせるのはあの旋律しかないと杏子は思った。
「悪いね、手間かけさせちゃって――」
さやかの瞳は濡れていたが、これは悲しみの涙ではない。
初めて恭介のヴァイオリンに触れた時と同じ感動が、彼女の心を揺さぶったのだ。
「ふん、いつまでも泣いてんじゃねーよ」
照れ隠しに背を向けた杏子は内心では彼女に感謝していた。
美樹さやかと関わる時、そこには恭介という存在とヴァイオリン――つまり音楽――がある。
彼女が彼との色恋沙汰で揺れていたおかげで、杏子は忘れていたつもりになっていた音楽を思い出した。
音符すら見たことのない、今も変わらず愛しい妹が作り出した曲を。
2人は既にいかなる方法を用いても意思を通い合わせることはできなくなったが、彼女の音楽はまだ生きている。
それを知るたったひとりの少女が演奏している間だけ、妹との邂逅を許されるのだ。
(あんたは自分に惚れてくれる女を振ってまでヴァイオリンを選んだんだ。絶対に挫折なんかするなよ)
杏子は若き天才を羨ましく思い、憎くも思った。
中空を漂っていた音の残りはいつの間にか壁に、床に、天井に吸い込まれて消えていた。
同時にさやかを苦しめていた悲しみもいくらか消えたのを確信し、杏子は再び教壇の前に跪いて祈りを捧げた。
「そういえばあの仔猫、今日はいないね」
うら寂しい教会には2人の少女しかいない。
すぐ近くに林があるにもかかわらず、鳥の囀りさえ聞こえない。
「せっかくそれ、用意してたのに」
さやかは杏子が大事そうに抱えている袋を指差した。
その中身が何であるかを彼女は知っている。
熟れた林檎とミルク、それにアルミ製の小さなトレイだ。
家を出る際にこれらを丁寧に袋に収める彼女を見た時から、さやかはここに来ることが分かっていた。
「ま、いいさ。どっかで寝てるんだろ」
そう言う杏子は少しだけ寂しそうだった。
「………………」
何ということはない仕草だ。
人間には喜怒哀楽がある。
それを表現する能力に多少の差異があるとはいえ、人がその時々の感情に合った反応を示すのは当然だ。
しかし、この時の――。
佐倉杏子が見せた一瞬の”哀”が、さやかの胸をざわつかせた。
何かがある、と。
理由は分からなかった。
理屈ではなく、彼女の心がそう感じたのだ。
「さて、用も済んだし帰るか」
心底からさやかを思い遣っての癒しを”用”として片付けた杏子は、彼女に似てどこか素直になりきれない部分がある。
「う、うん…………」
さやかは曖昧に頷いた。
この神聖な場では彼女は自由を持たない。
教会の扉をくぐるのも、また逆にここを立ち去るのも必ず杏子の主導を必要とした。
彼女よりも先に考え、行動することが躊躇われたのだ。





来た道を引き返す時、さやかの心は軽く、少し重かった。
恭介への未練は完全に断ち切れたわけではないが、今の彼女には失恋の痛みを後に快い思い出にするだけの心のゆとりがある。
「実はさ――」
林檎を齧りながら杏子が言った。
「妹が作った曲、もう1曲あったんだ」
さやかは訝るように彼女の横顔を見た。
今の声は沈んでいた。
「そう、なんだ…………」
小さく相槌を打ったさやかはその妹に会いたくなった。
あの荘厳で美しすぎる楽曲を創り出した少女に、彼女は会いたくなった。
不完全なオルガンにさえ聴く者に無上の感動を与えさせた旋律を、もうひとつ産み出した才能にさやかは少しだけ嫉妬する。
しかし彼女の小さな妬みはもっと大きな敬意に一瞬で葬り去られた。
「――聴きたい」
「え…………?」
さやかの呟きは木の葉の揺れる音に掻き消えた。
「もうひとつの曲も聴きたい」
彼女はもう一度言った。
今度は通る声で。
すぐ横を歩く少女にハッキリと聞こえる声で。
「ああ…………」
杏子は気まずそうに視線を逸らした。
「未完成なんだよ――」
その理由はさやかにはすぐに分かった。
”間に合わなかった”のだ。
彼女の中ではとっくに出来ていたハズの楽曲は、それを慈悲深い姉が形にする前に永遠に失われてしまったのだ。
決して完成を見ない旋律は――。
もうどこにもない、とさやかは思い込んでいた。
「よく口遊んでたからなんとなくは覚えてるんだけどさ。細かい部分は忘れちまったんだ」
「そう…………」
さやかには何も言えなかった。
もし特別な力があって2人の記憶が共有できるなら、彼女は杏子が忘れてしまった音を必死になって思い出そうとするだろう。
曖昧で些細な引っ掛かりにさえ注意を払いながら、失った音を取り戻そうとするだろう。
しかしそれはできない。
美樹さやかは佐倉杏子ではないからだ。
「私にも教えてよ」
だから彼女はこう言った。
「憶えてるところまででいいから、私にも教えて」
「別に構わないけど…………?」
杏子は首を傾げた。
”聴きたい”ではなく”教えて”という微妙な言い回しの違いに彼女は気付いた。
彼女が見るところのさやかは、こうした言葉のひとつひとつにまで気を遣うタイプではない。
「もしかしたら私にも手伝えるかもしれないでしょ?」
「………………?」
「曲、作るの――」
さやかにそういった才能はない。
彼女がこれまでしてきたのは”聴くこと”であって、能動的に音楽に向き合ったことはなかった。
簡単な楽器すら満足に扱えないし、楽譜を読み取ることもできない。
その彼女に手伝いたいと言わしめたのは、少し前に杏子が見せた憂いを帯びた表情だ。
「………………」
曲を作った妹は既におらず、それを最も近い場所で聴いていた自分ですら記憶も曖昧だというのに、
さやかに続きを作ることなどできるハズがない。
杏子はそう思ったが彼女の真摯な眼差しにあてられ、
「じゃあ今度弾いてやるよ」
自覚なしにこう答えていた。
「でもあんまり期待するなよ。殆どうろ覚えなんだから――」
「それでもいいよ。あんたさえよければ…………」
言ってからさやかは気付かれないように杏子の顔を見た。
翳りは消えている。
傍にいるのはいつもの佐倉杏子だった。
さやかは安堵した。
間違いだったのだ。
単なる勘違いだったのだ。
ステンドグラスを通して差し込んだ光が宙を舞う塵埃に反射して、杏子の頬に深い影を落としたのだと。
それを彼女自身の表情と勘違いしてしまったのだと。
さやかは思いなおした。
直感は時に人の判断を誤らせる。
思い込みが思考を放棄させる。
受け取った林檎を杏子に倣って齧りながら、さやかは直感を捨てた。
彼女はその直感を信じるべきだった。

 

 何に対しても強い興味を示さない風を装いながら、杏子はさやかを注意深く見つめた。
音楽療法の力は未知数だ。
永続的に効果が発現する場合もあれば、ある時を境に全く意味を成さなくなる場合もある。
特に昼間は普通の中学生として振る舞うさやかは、学校内で嫌でも恭介や仁美と顔を合わせることになる。
その毎日が彼女にとって苦痛になりはしないかと、杏子は気を揉まされた。
実際、想定したような事態にはならなかった。
正々堂々、正面からぶつかって敗れたさやかは仁美と傷を舐め合いながら日々をやり過ごすことはなく、
これまでどおりの美樹さやかとして生きていた。

――どんな結果になっても親しい友人としての付き合いを続けたい。

仁美はそれを実行していた。
気まずさはない。
授業が終わればこれまでのようにまどかを交えて寄り道もするし、買い食いもする。
お気に入りのレコードショップへ立ち寄るにはこれまで以上の躊躇いがあったが、
その気持ちはさやかも同じなのだと考えると不思議な一体感が生まれてくる。
ともに戦い、ともに敗れた仲間のようなものだった。
想い人に揃って振られた2人の少女。
同じ経験をした者同士はそれが傷になるどころか、却って互いを結びつける絆となってより親しくなる。
その点ではさやかにとっても、仁美にとっても望ましい結果といえた。
少なくともこの一件は遺恨にはならない。
自分の気持ちと向き合い、偽りのない心を伝え、たとえ失恋という結末を迎えたとしても、そこに後悔などあるハズがないのだ。
せいぜい一過性の悔しさを味わうだけで、その後には開きなおりにも近い爽快感を得られる。

 

杏子は胸を撫で下ろした。
もう心配はいらない。
魔女退治に同行した時、彼女は迫り来る使い魔を無視してさやかの戦い方を見ていた。
立ち回りは見事だった。
アドヴァイスを聞き入れたのか、さやかは無謀な戦いを挑まなくなった。
直線的な動きを避け、敵の背後に回りこんで剣を振りかぶる。
鋭い太刀筋が魔女の首から腰にかけてを斬り裂いた。
主を守ろうと手下が飛び出す。
さやかはそれらがどう行動するのかを読み取ると、大量に発生させた剣を投擲した。
この飛び道具は狙撃銃にも劣らない精度で魔女の子どもたちを貫いていく。
無駄のない模範的な動きは魔法少女として及第点だった。
既に消滅に向かっている魔女は黒い血液の海でもがいている。
再び銀色が一閃すると、結界の主は断末魔の叫びをあげて飛散した。
見返りを求めない魔法少女にも、どうしても得たい報酬がある。
彼女が得意気に掲げているグリーフシードだ。
こればかりは手に入れないわけにはいかない。
「あげるよ、このあいだのお礼にもならないけど」
控えめで豪奢な演奏会の対価は、魔法少女なら誰もが欲しがる魔力の源だ。
「じゃあ遠慮なくもらっておくよ」
先ほどの戦いぶりからさやかの消耗は軽いと見た杏子は、素直に厚意を受け取ることにした。
「戦い方、ちょっとは上手くなったじゃんか」
パートナーになったわけではない。
これまで独りで戦い、生きてきた杏子に今さら仲間がいなければならないほどの脆弱な部分はなかったハズだった。
しかし彼女はこの微妙な距離感が嫌いではなかった。
魔女と戦うさやかは短い時間で腕を上げ、少なくとも杏子の足を引っ張らない程度に強くなった。
数に限りのあるグリーフシードの前では、魔法少女同士は敵対することが多い。
杏子はみすみすその競争相手を育てている。
彼女がいつか現れるかもしれない強大な魔女を相手に遅れをとらないように。
戦うことの意味と覚悟を教えるために。
敵の前では一切の甘さを排除するように。
このお節介焼きな先輩は、彼女が今日までに学んだことの多くをさやかに教えた。
「あんたのおかげでね」
勇猛果敢で向こう見ずな後輩はほんの少しだけ頬を赤くしている。
これで良かったのだ。
強ければ負けないし、賢ければ死にはしない。
日に日に力をつけるさやかに、杏子はどこか頼もしさを感じていた。





清々しい夜だ。
「今日は楽勝だったね」
早くも有頂天になるさやかに、
「調子に乗るなっつーの。そうやって油断してるとあっさりやられちまうもんなんだよ」
杏子は微苦笑して言った。
巴マミ敗北の理由は彼女が慢心したからだ、と杏子は考えている。
適度な緊張感を持っていなければ、見下していた相手にもあっさりと戦況をひっくり返される恐れがある。
それを心得ている彼女でさえ例外ではない。
「今ならどんな魔女にも負ける気がしないけどね」
ぼんやりと天井を見上げてさやかが呟く。
「そう思ってるうちはまだまだヒヨッコってことさ」
「な――っ!?」
さやかは反射的に反駁しようとしたが言葉が出て来ない。
意地っ張りな性格は次第に後退を始め、
「まあ、否定はしないけど……」
思いもよらない言葉を彼女に言わせた。
「悔しかったらもっと強くなればいいさ。あんたには守りたいものがいっぱいあるんだろ?」
それが何か、は言うまでもなかった。
美樹さやかは近しい者を力の及ぶ限り戦って守ろうとするだろう。
「まあ、ね――」
妙に艶っぽい声色で相づちを打つ。
(その中にあんたも入ってるんだけどね…………)
漠然とした不安が彼女に”杏子を守りたい”という想いをより強く抱かせた。

少女の心はいくらか満たされていた。

一度は受け容れた孤独を忘れる準備もできつつある。

馴れ合いは好きではなくなっていたが、誰かと組んで魔女を倒すのも悪くはなかった。

お人好しの親切心に甘えてこうしてひとつのベッドで眠るのも、今となっては心地が良い。

ある種の安心を得ることができるからだ。

柔らかく、暖かい布団の中で――。

杏子はこの夜、夢を見た――。

 

 

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