第1話 イエレド

(落盤事故により剣を持つことができなくなった剣豪イエレド。鬱屈とした日々を送っていた彼に転機が訪れる)

 この屈強な男は最も剣技に長けた1人として鎮座していた。
イエレド・ヴォークレッド。
”下”の界隈でこの名を知らない者はまずいない。
3歳の頃、父に厳しい剣術の稽古をつけられた彼は、いつしか人生そのものが剣の道となっていた。
木剣から真剣まで、ありとあらゆる剣とそれに伴なう剣技の腕を磨き続けて20余年。
間もなく30歳となるイエレドは、中央区のダリオン剣術道場の師範だった。
門下生22名を抱える道場には、アンヴァークラウンの慢性的な資源不足から修練に充分な環境は整えられていない。
粗末な道場と、代替品のない木剣。
恵まれているとはいえない。
が、それゆえに門下生たちはこの道場にとりまく空気、時間を尊重し実戦的な技術はもとより、精神面でも大きく成長していく。
イエレドは今はか弱い彼らが、日々成長していく様を見るのが楽しみだった。
剣技を学べば、直接的な強さだけでなく精神的にも強くなる。
見えなかったものが見えるようになり、聞こえなかった音が聞こえるようになる。
それは模擬戦の相手のささいな目線の動きだったり、わずかに空気を振動させる息づかいだったり――。
そよ風にもならないほどの空気の微妙な流れや、両親や兄弟あるいは親しい者の心の機微など。
小さすぎる事柄に気付くことができる。
五感を最大限に鍛えられるのだ。
彼は嬉しかった。
彼らが鍛錬の中で己を磨き、またひとつ力をつけたことを実感して見せる笑顔が。
修練を重ねるごとに獲得する力に歓喜する彼らの仕草が。
イエレドは好きだった。
門下生たちは今はまだ幼く、そして弱い。
しかしいつか、この中から自分を打ち倒せるほどの強者が現れる。
そう想うと、イエレドは心の底から喜びを感じることができた。

・・・・・・あの時までは――。

 

「素振り練習、終わりました」
壁にもたれていたイエレドの元へ、長髪の少年が走りよって言った。
それまで目を閉じていたイエレドは、その声にゆっくりを目を開けて、
「ああ・・・・・・そうか・・・・・・」
と、少年も見ずに言った。
「あの、師範代・・・・・・」
少年はおずおずと声をかける。
「前面と後面を使っての模擬戦を行ってもよろしいでしょうか?」
「うん、ああ・・・そうしてくれ・・・・・・」
イエレドは素っ気ない。
今も少年の頭越しに中空を眺めながら、光の無い瞳で受け答えするのみだった。
彼は後ろ手に壁を押した反動で姿勢を正すと、とぼとぼと歩き出した。
「あ、あの、どちらへ・・・・・・?」
少年が呼び止めようと上げた手を下ろした。
「外の空気に当たってくる。模擬戦、ケガをしないようにしっかり指導してくれ」
「わ、分かりました!」
少年はイエレドの後ろ姿に恭しく礼をすると、踵を返して門下生たちの元へ走った。
一方で、道場をふらふらと出たイエレドは、外にある高木を半分に切っただけのイスに腰かけた。
渇いた土の床がどこまでも広がる。
中央区にありながら、道場の近くは閑散としている。
半径500メートル内には民家などの建造物はない。
したがって敷地からは、比較的遠くまで眺めることができる。
とはいえ見えるものは近くには土の地面と天井、遠くにはくすんだ灰色の建造物だけだ。
ここで青空と燦々と降り注ぐ陽光でも見ることができれば、イエレドの心も少しは晴れたかもしれない。

 

 ――1ヶ月前。
大規模な地震が起こった。
アンヴァークラウンでは地震は滅多に起こらないため、民はこの天災に対して充分な知識を持たなかった。
典型的な横揺れの地震。
震源地は隣の西第一区だったが、その揺れは瞬く間に伝播し、甚大な被害をもたらした。
この時、イエレドたちは道場で模擬戦を行っている最中だった。
とっさに危険を感じた彼は門下生たちにただちに道場を出て、外の広場に出るよう指示した。
粗末な道場は倒壊の恐れがある。
外に出れば落盤の可能性があるが、他に倒れてくるものがない以上は室内よりは安全だと判断したのだ。
日頃の鍛錬のおかげで、門下生たちはすぐに指示に従い道場を走り出た。
揺れはなおも激しさを増す。
ひときわ強い横揺れに、建物が悲鳴をあげる。
その時、逃げ遅れた者がいた。
先ほどの強い振動に足をとられ、しかも運の悪いことに足首を痛めてしまったらしい。
「おい、大丈夫かっ!?」
それに気付いたイエレドはすぐに踵を返して建物の中へ。
「師範ッ!」
背後で門下生の呼び声が聞こえる。
「構わん、お前たちは広場に行け! オレもすぐに追いつく!!」
彼は背中で返事をすると、うずくまる弟子の元へ駆け寄った。
「師範、すみません・・・・・・」
「足をひねったな。立てるか?」
イエレドがそう訊いた時、突然天井が割れた。
耐震強度を超えた揺れに、建物の限界がきたのだ。
天井が一文字に裂け、同時に無数の岩石がそこから落ちてきた。
イエレドは反射的に覆いかぶさるようにして、弟子をそれらから守ろうとした。
「ぐぐっ・・・・・・!!」
激痛が走った。
丸みを帯びた岩と、鋭く尖った岩石が容赦なく降り注ぐ。
「・・・・・・ッ!!」
彼は耐えた。
今にして思えば、彼が愛用していた鋼の剣をもってすれば、鋭い太刀筋のもと岩石を両断できたかもしれない。
しかしそうする余裕はないし、この体勢では動くこともできない。
十数秒の後、揺れはおさまった。
全てを呑み込みそうな禍々しい地響きも、平衡感覚をことごとく奪う振動もウソのように退いている。
「・・・はん・・・・・・師範・・・・・・」
上とも下ともつかない方向から聞こえる自分を呼ぶ声に、イエレドはゆっくりと目を開けた。
たったひとつだけ残った人工灯が、道場だった建物の様相を薄暗い視界の中に映した。
地獄、という意味の言葉はムドラの言語には存在しないが、イエレドはそれに近い意味の言葉を呟いた。
ほとんど黒に近いこげ茶色の岩が、世界を破壊したかと思わせる凄惨な風景。
ここが道場だったと誰も信じないほどに、2人の視界にある世界は壊れていた。
「どうやら・・・・・・おさまったようだな」
イエレドは長く息を吐く。
「余震が来る前に出よう。立てる――」
言って体を起こそうとした彼は、すぐに異変に気付いた。
(どういうことだ?)
右手に力が入らない。
弟子を抱きかかえる格好で庇った彼は、うつ伏せの状態で弟子の上にいる。
その姿勢から右手をついて動こうとしたが・・・・・・。
できなかった。
指も手も腕も肩さえも動かない。
「・・・・・・どうしました?」
下では弟子が不安そうに見上げている。
「いや、何でもない・・・・・・」
イエレドは強がりを言い、今度は左手を支えに立ち上がろうとした。
こちらは大丈夫なようだ。
転げるようにその場を離れたイエレドは先に身を起こす。
続いて弟子も咳き込みながら起き上がった。
(・・・・・・・・・・・・)
右腕の感覚がない。
痛みどころか違和感すらなかった。
まるで右腕が初めから無かったみたいだ。
「師範、顔色が・・・・・・?」
弟子が不安げに覗き込む。
「心配ない。大丈夫だ」
イエレドはぎこちない笑みを向けると、後ろを弟子がついて来るのを確かめながら外に向かう。
瓦礫が道を寸断している。
おまけに光はほとんど届かないから、注意を払わなければ転倒する危険がある。
しかし、かといって慎重になるあまり避難が遅れれば、先ほどのような惨事に再び巻き込まれかねない。
2人は周囲に気を配りながら、早足で道場を抜け出た。
広がる光景は陰惨としか言いようがない。
元より冷たさしか感じない”下”の世界が、完全に外界から遮断されたような錯覚。
太陽代わりだった明りも失われ、生き延びた人々から生きる気力を奪ってしまうほどの凄惨さだ。
均(なら)された地面は奇妙な隆起の傷痕を残している。
振り返ってみれば道場はわずかに壁を残して全壊。
目を凝らして天井を見やると無数に亀裂が入っており、少しの衝撃で崩れ落ちそうだ。
(どこにいても危ない)
イエレドは思った。
下も上も横も、文字通り八方を岩盤に囲まれているここでは逃げ場がない。
丈夫な建物を探すか、周囲に建造物のない広場に留まるか。
「ご無事でなによりです、師範!」
薄暗い視界の中、門下生たちが走りよってくるのを感じた。
「お前たち・・・・・・全員、無事だな?」
イエレドは右腕の異変を忘れて、再会を喜んだ。
「はい。ケガをした者がおりますが、みな揃っております」
若き門下生たちは、災害時には見違えるほどたくましく見える。
「よかった・・・・・・と、安心もしていられんな。ここは安全とはいえない」
「僕もそう思います。どこかに避難しましょう」
「そうだな。とりあえず”上”に行こう。あそこから少なくとも落盤は防げる」
イエレドが歩き出そうとした時、別の門下生がそれを止めた。
「多分リフトも壊れているでしょう。もし行ったとしても僕たちみたいに逃げようとした人で殺到しているかと」
「人混みに押しつぶされてはかえって危険です」
他の弟子も同調する。
「ならどうすればいいか・・・・・・」
イエレドは門下生たちの顔を順番に見やった。
が、光の無い今では個々人の顔は見分けがつかない。
声とその方向から識別するしかない。
「しばらくはここにいたほうが安全なのでは?」
という声があがる。
「周囲には倒れてくるものもありませんし、ケガをした者の治療も必要です」
との勧めに誰もが納得し、彼らは数日を道場付近で過ごすことにした。
食糧と水の蓄えはある。

2日目には政府の救助隊が到着し、大事をとって軽傷を負った弟子は病院に搬送されることになった。
この時、イエレドも付き添いと称して病院へ。
念のためにと受けた検査の結果に、彼は絶望する。
「筋が断裂しています」
黒縁の眼鏡をかけた女性医師が淡々と事実を告げた。
「・・・・・断裂?」
イエレドは復唱した。
「はい。右肩から肘にかけて。それに手首の腱も痛めています」
「そんなハズは・・・・・・。先生、見てください。傷もなければ痛みもない。何かの間違いです!」
「ヴォークレッドさん、ここは病院です。お静かに」
「・・・・・・申し訳ない」
イエレドは左手で拳を作ると、自分の足を何度も叩いた。
「落下した岩によるものでしょう。丸みがあれば外傷なくして内部を損傷させることがありますから」
「し、しかし! 痛みはないんですよ? いや、痛むどころか感覚が・・・・・・」
「同時に神経をやられていますね。痛覚も失っていますから、痛さなどを感じることはありません」
さらっと述べる医師に、イエレドは怒りよりも恐怖を感じた。
凍てつく大河に突き落とされた気分だ。
しかもそこから這い上がろうともがく自分を、氷よりも冷たい女声が頭から押さえつけようとする。
イエレドは問うことにした。
「先生、これは・・・・・・治るんでしょうか・・・・・・?」
恐ろしい質問だ。
答え次第では、彼は本当にどこまでも落ちてしまう。
医師はぴったり5秒だけ間を空け、
「残念ながら完治は不可能です。右腕の自由は戻りません」
と、努めて冷静に言った。
この時、イエレドの中を恐ろしい結末が駆け巡った。
まだ人生の折り返しにも到達していないというのに、彼はもう精神の半分以上を死の世界に埋没させた。
「治療をすれば感覚は戻るかもしれません」
医師は付け足したが、この言葉すらイエレドにとっては辛辣なものだった。
役に立たない腕に感覚だけ戻っても何もならない。
「辛いようですが・・・・・・現在の医学では・・・・・・」
言葉に反して医師は毅然とした態度で言う。
「治らない・・・・・・だと・・・・・・?」
彼はかろうじてそれだけを口にした。
剣技とともに生きてきた彼にとって、右腕は命の半分。
いや、人生の全てともいえた。
会得した剣技の型の中には片手だけで操れるものもある。
しかしそれは健常な両腕のうえに会得した宝だ。
片手しか使えないから片手の剣技――と簡単に割り切れるものではない。
「なんてことだ・・・・・・」
イエレドは生きながらにして死んだ。
まだ使ったことのない刀剣が無数にある。
会得していない技がまだまだある。
自分の知らない剣技にまだ出会っていない。
強さの限界に達していない。
彼は未来のほとんどを断たれた。
あの弟子たちをどうすればいいのだろう?
この先、満足に指導できるとはとても思えない。
優秀な者ばかりだ。
イエレドが心血を注いで導けばいずれは彼に匹敵するか、あるいは凌駕するほどの剣技を習得できる。
だがもはや不可能だ。
放心した彼の耳に医師の言葉は届かなかった。

 

 黒と茶で塗り固められた空を見ながら、彼は不意に我に返った。
思い出したくもない過去を思い出し、肉体と精神が一時的に切り離されていたようだ。
ここから見える景色は変わらない。
陰鬱で、陽気な人間さえも塞ぎ込むほどの冷たい風景。
地震の後と前で変化したところといえば、あのむき出しの岩肌が少し北に傾いたくらいだ。
初めてここを訪れた者は、まさか大規模な地震で倒壊したとは思わないだろう。
「師範・・・・・・」
弟子のひとりが稽古を中断してやって来たようだ。
「どうした?」
イエレドは律儀にも彼の目を直視して訊いた。
澄んだ眼をしている。
光の射さない暗黒の地下で、この若き弟子は高みを目指しているのか。
「あの・・・師範・・・・・・」
言いにくそうにする弟子に向かって彼は、
「俺はもう師範ではない。師範は彼だ。俺の事はせめて師範代と呼んでくれ」
道場の奥を指して言った。
あの事故の後、イエレドは師範という立場を最も呑み込みの早い弟子に継がせた。
指導にあたっての根幹は彼がやるが、直接的な指示や指導はその弟子がおこなう。
「僕に剣技を教えてください」
弟子はこう言う。
この頼みが彼にとってどれほど残酷であるのか、少年はいまひとつ分かっていない。
「俺にはできない」
彼は素気なく返した。
初めから全てを諦めていたわけではない。
右手の自由を失って後、残された道である片手のみを使った剣技を磨こうとした。
これを昇華させ、両手持ちの相手と互角に渡り合えるなら剣術として十分に通用すると。
希望を持っていた。
ところが待ち構えていたのは展望ではなく、辛辣な現実だった。
健常な者が片手を使うのとは違い、彼の場合は体の微妙なバランスがとれなかった。
剣術としての体ではなかった。
瞬間、彼が過酷な訓練の中で築き上げた財産が崩壊するのを感じた。
(おかしな話だ。ただ右腕が動かなくなっただけで剣の道を断たれるなんてな)
自分を嘲った。
剣の道はあらゆるところに通じる?
剣技を学べば、直接的な強さだけでなく精神的にも強くなる?
見えなかったものが見えるようになり、聞こえなかった音が聞こえるようになる?
五感を最大限に鍛えられる?
誰がそんなことを言った?
――彼自身だ。
稽古に臨む弟子たちに、彼が最も初めに言った言葉がこれらだ。
聞こえのいい言葉を並べ立てて、しかし実際はどうだ?
予想できなかったとはいえ、地震から弟子を守ったものの自分の財産である体を守れなかったではないか。
それはこの先、愛する弟子たちを守れないということ。
たった一度、弟子を救っただけでその後はもう何もしてやれない。
知識は残っているが、技術は瓦礫の中に埋もれてしまったのだ。
無力だったのか、精進が足りなかったのか。
それともただ不運だったのか、今となっては分からない。
(なぜだ・・・・・・?)
なぜ自分が、と思う。
自分には夢と目的があった。
それをたった一度の天災が奪った。
崩落から自身を守りきれなかった者に、剣術の道を極める資格がないとでも言うのだろうか。
(・・・・・・・・・・・・)
あの時、負傷した弟子を放っておいたら・・・・・・?
救出が間に合わなかったと後でこじつけ、さっさと逃げ去っていたら・・・・・・?
こんな怪我を負わなくて済んだに違いない。
そうしていれば健全な両腕をもって剣技に没頭できたハズだ。
今も懸命に稽古に励む弟子たちを直接指導できたハズだ。
(駄目だ、それは駄目なんだ)
イエレドは邪念を振り払った。
あそこで彼を見殺しにしていたら、きっと後悔を背負ったまま師範として居続けることになっただろう。
たったひとりの弟子も守れないのに、剣術の師を名乗る資格などそれこそない。
「俺はもう師範ではないのだ」
心配そうに見つめる弟子に向かって、彼は諦めの言葉を吐いた。
「あの時からな――」
道場に戻るように指示された弟子は、ぺこりと頭を下げると足早に去っていった。
「・・・・・・・・・・・・」
その後ろ姿をじっと見つめていたイエレドは、新たに師範となった少年に後を任せて街に出た。

 

 冷たい風が容赦なくなぶる。
巨大な密室である”下”の世界に、風は吹かない。
しかし確実にどこかから冷たい空気が流れ込んできている。
「・・・・・・・・・・・・」
イエレドは多くに失望したが、死のうとまでは思っていなかった。
剣術に全てを賭けてきたその人生がとても儚く、無残にも散ろうとしているのに。
彼は生きることを選んだ。
惨めである。
死なないだけで、ただ生きているだけである。
意味のない1秒を刻み続けている人生に、彼は少しだけ疲れた。
が、疲れても彼の行くところはいつも同じ。
週に一度、欠かすことなく通っている病院だ。
わずかでもいい。改善の兆しが見られれば・・・・・・。
イエレドは一縷の望みにすがるために、決まった時間に主治医を訪ねた。
「ヴォークレッドさん、まことに申し上げにくいことですが」
言葉のわりに淀みなく医師は言う。
「やはり回復の見込みは・・・・・・」
ない、という最後のセリフは敢えて切った。
「なぜだ! ・・・・・・なぜなのです?」
失望と絶望に苛まれたイエレドに、医学がどうこう言っても伝わらない。
理性を保っていない彼が冷静にその言葉を受け止めることはできないだろう。
「しかし悪化しているわけでもありません。その状態で維持できているのは、あなたの生命力が強い証拠ですよ」
「治らなければ意味がない。先生、何とか・・・・・・何とかなりませんか?」
イエレドはすがるような目で意志を仰ぎ見た。
これがかつて剣豪と恐れられた剣士の顔か?
救いを求める憐れな弱者。
剣を持てなくなった剣士は、虚脱感と恐怖感と失望感とに襲われる。
それを救済できるのは未来ある弟子でも、ライバルでもない。
目の前にいる医師だけなのだ。
すさんでしまったイエレドの心は、この医師が自分の右腕を治す技術を持っていて、実は隠しているのではないかと思っている。
もちろん事実はそうではなく、”上”にも”下”にもそのような技術はない。
医師は小さく息を吐き、
「感覚だけなら戻ります。しかし以前のように自在に動かすことは――」
「では少しなら動くのか!?」
「わずかに動く程度です。かつてのあなたのようには・・・・・・」
一縷の望みは脆くも崩れ去った。
数分の診断で、現状を維持していることは分かったが回復しているわけではない。
感覚のない右腕に痛みを抱えたまま、イエレドは道場に戻った。
敷地内に足を踏み入れた途端、弟子たちが揃って頭を下げた。
「お帰りなさい」
日頃、堅苦しい精神論を滾々と語ってきたイエレドの教育が、今の礼儀正しい弟子たちを作り上げている。
「お疲れ様です、師範代」
中でも特に快活な青年が、深々とお辞儀をする。
「俺の留守中、何か変わったことはなかったか?」
「いえ、特にありません」
「そうか、それはよかった」
見ると、青年の顔色は優れない。
その理由をイエレドは知っている。
彼は今や、弟子から”師範”と呼ばれることが苦痛になっている。
が、これは立場を逆にすれば弟子たちも同じで、彼らはイエレドを”師範代”と呼ばなければならないことが苦痛なのだ。
彼らにとって師匠はイエレドひとり。
まだまだ多くを学びたかったのに、それは叶わぬ夢となった。
イエレドを”師範代”と呼ぶことで、その現実を認めてしまう。
それが苦痛だった。
「お前もずいぶんと強くなったな」
少しは師匠らしいことを言おうと、イエレドが青年の頭を軽く撫でた。
「ここに来た時は続くかどうか不安だったが、お前はもう心も体も立派な剣士だ」
お世辞ではない。
イエレドはこの青年の日頃の姿勢をよく知っている。
鍛錬とは何か、剣の道とは何かをよく心得ている。
模擬戦を見ても、青年の剣捌きはじつに鮮やかだった。
「師範代のおかげです」
青年は”代”の部分だけ語気を弱めた。
「いや、俺は何もしていない。お前が強くなったのは、もともとお前が強かったからだ」
即座に否定するイエレド。
先ほど自分が言った言葉と少し噛み合わないところがあったが、青年は特に気にならなかった。
「じつは僕・・・・・・」
感傷的になった青年は心情を吐露しはじめた。
「師範代といつか模擬戦をして一本獲るのが夢だったんです」
青年の瞳は濡れていた。
「・・・・・・・・・・・・」
イエレドはわずかに視線をそらした。
(小さな夢だな)
彼は思った。
(つまり俺を超越するということだろうが・・・・・・今のお前でもすでに俺より上のハズだ)
と思ったが、彼はあえて口にしなかった。
そう言うことで青年のひたむきさを妨げるような気がしたからだ。
「それなのに――」
時間が止まった気がした。
青年は目にうっすらと涙を浮かべている。
「泣くな」
イエレドが冷たく諭した。
「泣くんじゃない」
二言目は慈愛に満ちていた。
「お前は強いとさっき言ったハズだぞ。俺もお前と剣を交えることができなくなったのは残念だが、そこまで悲観することはないんだ」
「はい・・・・・・」
「想像もつかないだろうが、この世界はずっと広い。俺よりも優れた剣士がいるハズだ」
「はい」
「いいか、俺を目標にするな。お前はもっと高みに立てる。こんな狭い世界で自分の未来を決めるな」
半分は自分に言っていた。
青年を励ますつもりが、いつの間にか自暴自棄になっていた自分を励ましていた。
ここまで大口を叩いたからには、片腕の自由を失ったといつまでも悲観できない。
そうとも。自分はまだ生きている。
生きている限り、何かができるハズだ。





現実はやはり残酷だった。
人間の体には限界がある。
イエレドはその限界をどうにかして超越しようとしたが、片腕の彼にそれは不可能だった。
剣を振る時、やはり重心が安定しない。
鋭い太刀筋がごっこ遊びのチャンバラに成り果てた時、一度は再起を図ろうとした精神もどこかに飛んでしまった。
やはり無理なのだ。
五体満足でなければ真の剣技の道を歩むことはできないのだ。
「ちくしょう・・・・・・!」
吐き捨てたこの言葉さえ力なく、虚しく思えてくる。
徒労に終わる剣術の鍛錬の後、さらに厭な時間がやってくる。
(ああ、またこの時がきたか)
今日は定期健診の日だ。
どうせ事務的な口調で医師から変化のないことを告げられるのだろうが、なぜか彼は通院を欠かしたことはなかった。
今度こそ。
今度こそ改善の兆しがみられると。
そう医師に言って欲しかったのだ。
(・・・・・・・・・・・・)
が、その想いとは裏腹に足取りは重かった。
イエレドの名で開いた道場では、師範と呼ばれるようになった優秀な弟子の元、今も稽古が続けられている。
では師範だったイエレドはどうしたかといえば、頻繁に道場を留守にするようになった。
惨めな姿で剣術の腕を磨いているところを弟子に見られたくなかった彼は、道場のはずれでひそかに鍛練していたのだ。
留守の理由はもうひとつ。週に一度通っている病院だ。
道場を空ける時間が長くなるにつれ、イエレドは自分の居場所を失ったような気分になった。
(あそこはもう、俺のいる所ではないのかもしれないな)
沈む思考のまま、彼は診察室へ。
もう何度も合わせた顔がそこにある。
「先生・・・・・・」
医師が振り向き、口を開くより先にイエレドが切りだした。
「もう疲れました」
本心であった。
ほとんど全てを失った剣士に、もはや生きる術など残されていない。
ただ生きているだけの生の、どこに快楽を求めればいいのか分からない。
医師はそんな彼の目をじっと見つめて、
「もう一度、剣を振るえる方法があるとしたら・・・・・・ヴォークレッドさん、あなたはそれを受けますか?」
言った。
「・・・・・・・・・・・・!!」
数秒、ほんの数秒彼は考え、椅子をはねのけて立ち上がった。
「あるのか!? できるのか!!」
医師に掴みかからん勢いで彼は問うた。
「・・・・・・すみません」
ここが病院であると思い出し、イエレドは再び席についた。
「私としてはあまりお勧めはできません。あなたの望む”回復”とは少し意味が異なってきますので・・・・・・」
「どんな方法でもいい。教えてください」
イエレドが長い間待ち望んでいた言葉だ。
この医師はサジを投げたわけではなかった。
光明も見えてきた。
これほど嬉しいことはない。
「義手を・・・・・・取り付けます」
医師は静かに言う。
義手や義足の技術はすでにアンヴァークラウンにはある。
ただしそれらは失った四肢の外見を復活させるだけで、元のように動くものではない。
(義手だと? それではただの飾りではないか!)
動かない腕がもう1本増えるだけである。
「違います」
医師が否定した。
おおかた旧来の義手を思い浮かべているのだろうと踏んだ医師は、ひとまずイエレドを落ち着かせる。
「両肩に新金属性の義手を埋め込みます。これは旧来のものと異なり、自分の腕のように――」
「動くのか!?」
「――自分の腕のように動かすことはできます」
興奮しきっていたイエレドは、医師の微妙な言葉遣いに気付かなかった。
「できる・・・・・・できるんですか!?」
イエレドは詰め寄った。
これ以上にない朗報だ。
だが医師は喜んでいる風ではない。
「あくまで理論上は、です。この義手をつけるのはヴォークレッドさん、あなたが初めてなのです」
事務的な医師の口調は、はやるイエレドの心を多少落ち着かせた。
「新金属を用いた義肢の研究開発はもう何年も前から行われていますが、実用化には課題が多かったのです」
「はあ・・・・・・?」
「ですがある女性科学者のおかげで研究が進み、実用に耐えられるメカニズムが構築されまして――」
「はい・・・・・・」
「つまりその、テストを兼ねてヴォークレッドさんに義手をつけてもらいたいとー―」
さすがに”テスト”という単語を出したあたりから、医師の歯切れが悪くなった。
簡単に言えば実験体だ。
うまく動くかどうかの保障は、理論の上にしかない。
だがそれでも――。
利用される形ではあっても。
イエレドにとっては十分に魅力的な申し出だった。
「俺は腕が戻るし、研究も進む。先生、ぜひお願いします」
即答だった。
考える必要などない。
一縷の望みがあるならそれに賭けたい。
もう一度、剣を振りたい。
その可能性が目の前にあるのだ。
たった一言、それにイエスと答えるだけでよい。
とても簡単なことだ。

 

 この日だけは世界が違って見えた。
薄暗い土壁も、太陽のように明るく見えた。
まるで世界の全てがたった1人の自分を祝福してくれているようだ。

”手術は明日の朝に行います。大掛かりなものとなりますので、体調だけは万全にしておいてください”

あの後、医師はそう付け加えた。
体調だけは?
万全に?
イエレドは鼻で笑った。
輝かしい明日を目前にして、なぜ体を心配する必要があるのか。
治らない腕を引きずる毎日こそが、自分をボロボロにしていたというのに。
「あ、師範代! おかえりなさい!」
道場に戻るやいなや、弟子たちが満面の笑みで迎える。
「ああ、誰もケガはしてないな?」
出先から戻ったイエレドは、必ずこれを訊くことにしている。
順番に弟子の顔を見やる。
・・・・・・全員、揃っているようだ。
「あの――」
その中で声をあげる者が1人。
「師範代、どうかなさいましたか?」
不安げに覗き込む。
「何かあったのでは?」
という弟子の不安げな問いに、イエレドは笑って見せた。
「実はな、お前たちに大事な話があるんだ。悪い話じゃないぞ」
悪い話ではない、彼の顔を見れば誰にも分かったことだ。
「――手術を受けることにした」
彼は本旨を先に述べた。
弟子たちは互いに顔を見合わせ、それの意図するところを理解した。
「では師範代の腕は・・・・・・」
「治る、というわけではない。義手をつけるだけだ」
「義手・・・ですか?」
弟子たちの顔が曇った。
義手がただの飾りで、腕の代わりをしないことは誰もがわかっている。
この反応は予想していたのでイエレドは含みを持たせた笑みで、
「お前たちの思ってるのとは違うぞ」
と付け加えておいた。

 

 彼にとって、最も長い一日が過ぎた。
新たに装着する義手にういては、訝る弟子たちに再三説明してきた。
既存の義肢とは性質が異なること。
うまくいけばそれこそ文字通り、自分の腕のように動かせると。
今までのように剣を振るうことができるとも。
この報告を聞いて喜ばない者はいない。
手術が成功したら・・・・・・。
彼が自在に腕を動かすことができるようになれば。
そうなれば彼は”師範代”ではなくなる。
剣豪イエレドが復活するのだ。
明るい未来を夢想したイエレドは、はやる気持ちを抑えて病院に向かった。
今日まで生きてきた努力が報われるのだ。
顔見知りになった医師たちに会釈をし、診察室へ。
「お早いですね」
医師は相変わらず冷淡な口ぶりである。
「今日だけは寝坊するわけにはいきませんから」
「体調はいかがです?」
「こんな嬉しい日に体を壊すわけがありません」
「――ヴォークレッドさん。昨日も申し上げましたが、必ずとは・・・・・・」
「分かっています。が、私は治る・・・いや、成功すると信じていますから」
希望に燃える彼の瞳には、剣士だった頃と同じ光が宿っている。
「・・・・・・分かりました。では簡単な検査をした後、手術を始めます。こちらへ――」
医師はゆっくりと立ち上がり、別室へと彼を案内した。
いよいよ始まるのだ。
彼の。
第二の人生が今――。

 

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