第2話 イエレド
(機能を失った腕の再生――それを誰よりも望んでいたイエレド。しかし現実は時に残酷な牙を向く)
イエレドにとって最も喜ばしい瞬間が訪れた。
欲しいものが手に入るのだ。
物欲としてではない。
彼が元々”持っていた”ものだ。
それを取り戻すに過ぎない。
しかし失っていた時間とそれによる衝撃があまりにも大きすぎたせいで、彼にはそれが新しいもののように思えた。
厳密には新しいものと言ってしまってもいいかもしれない。
あるべき部分にあるそれは、人工物だ。
新金属を用いて生み出される義肢。
この話を持ちかけられたイエレドは、後になって再生は不可能だと宣告されたも同然だと気付いた。
生身の腕はもう戻らない。
骨と血と筋肉によって形成される彼の一部は、本体に繋がってはいるが機能はしていない。
義手とはどのようなものだろう?
彼は考えた。
知識の中にある義手はマネキンのようなものだった。
ほとんど本人のそれと同一でありながら、見かけを繕うためだけの飾り。
(しかし・・・・・・)
義手は本来、四肢の一部が完全に滅失したその空虚に取り付けるものだと聞く。
(俺には動かないとはいえ、まだ腕があるが・・・・・・?)
疑問だった。
まさか右腕を切除してそこに義手を埋め込むわけではあるまい。
(どうするのだ・・・・・・?)
なぜか不安になった。
が、こうなることを望み選択したのは、まぎれもなく彼自身だ。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
だから医師のこの言葉も有り難くいただくべきなのだ。
「先生、よろしくお願いします」
剣の道を歩んできたイエレドは、改まった場面では常に慇懃だ。
自分には到底できないことを。
自分が欲しがっていたものをくれるのだ。
どれだけ敬意を表しても足りない。
「おまかせ下さい。尽力します。しかしヴォークレッドさん、事前にお話したように――」
「分かっています。失敗しても成功しても自分の選んだ道です。後悔はしません」
そうとも。
この時を一番待ち望んでいたのは自分ではないか。
恐れも不安も不要な感情だ。
抱くべきは希望。
ネガティヴな思考は失敗を招く。
これは剣の道でも同じことだ。
弟子たちが駆け寄ってくる。
修練中だった彼らは木刀を捨て、師範代を取り囲む。
「師範代ッッ!!」
弟子はそう呼ぶ。
しかしこの呼び方も、これが最後になる。
手術が無事に成功し、自在の義手を手に入れれば以前のように剣を振るうことができる。
剣豪イエレドの復活ともに道場は再び彼を中心に栄える。
その腕に憧れた若き剣士たちが集い、次代の担い手となる。
――ハズだった。
輝かしい未来はイエレドが最も鮮明に描いていたハズだった。
どん底に落ちた者は、更なる絶望に苛まれるか、非常識な夢想に蝕まれるかしかない。
イエレドは後者だった。
夢を見た後は見る前よりも悲惨な現実が待ち受けている。
「・・・・・・師範代?」
様子がおかしいことに気付いた弟子たちが訝しげに彼を見た。
見られた彼は、見て欲しくないといった様子で目をそむけた。
その仕草に弟子がさらに懸念を強くする。
彼らの前にいる彼は、この日を境に”彼”ではなくなった。
厳密には数時間前から。
「すまない」
イエレドはたった一言、それだけ吐くと道場の奥に消えた。
待ちわびていた弟子たちは、凍りついた雰囲気のせいで誰も後を追わなかった。
「一体、何が・・・・・・」
弟子たちは顔を見合わせた。
イエレドの見せた表情。
失望と絶望に染まっていた、あの暗い顔。
それを見れば少なくとも良くない事が起こったと想像はできる。
今日は彼にとっても、また彼らにとっても喜ばしい一日になったハズだ。
一度は叩き落された地獄から這い上がり、明るい未来へと昇る瞬間の連続だったハズだ。
だがそれが――。
少なくとも瓦解してしまったと分かる。
どのような理由によるものか。
そこまでは本人の口から聞かなければ分からない。
「何かあったのだろう。もしかして手術が・・・・・・?」
理由として思い当たるのはそれしかない。
手術は失敗した。
イエレドはそのショックで落ち込んでいる。
視線を交わしてのやりとりで、弟子たちは皆そう思った。
しかし想像する失敗と、実際の失敗の内容は大きく異なっていた。
5時間前。
手術台に横たわるイエレドは動悸を抑えられなかった。
気分を落ち着けようにもできない。
期待と不安が精神をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
「ご気分はいかがです?」
分かっているようなことを医師は尋ねる。
「よく分かりません。が、少し興奮しているようです」
「だと思いました。が、不安がることはありません。痛みもありませんから」
広い処置室には主治医を含め、数名の執刀医と研究者いる。
体を切り裂き、筋や血管を触るのが医師の仕事。
開発されたばかりの義肢を整備し、体に取り付けるのが研究者の仕事だ。
両者は様々な角度からイエレドを俯瞰する。
これが落ち着かないのだ。
「・・・・・・・・・・・・」
不意に意識が遠のくのを彼は感じた。
麻酔が効いてきたらしい。
いくら鍛えてはいても、内側から浸透してくる薬物の効能には抗えない。
天井が、覗き込む医師たちがぼやけて見える。
強烈な睡魔が押し寄せてくる。
このまま眠り、次に目を覚ました時には全てが終わっている。
感激の瞬間を味わえないのは残念だが、手術の恐怖を体験しなくて済むのは麻酔のおかげだ。
「――拍数、血圧とも正常です。では皆さん、お願いします」
医師の声はもうイエレドには届いていない。
後は彼の知らない内に事が進む。
2時間前。
簡素なベッドの上で目を覚ました彼は、状況を把握するのに5分を要した。
ベッドもだが、室内の様相もかなり質素だ。
ここの施設は手術室の設備にばかり投資して、患者用のスペースには金をかけていないようだ。
そのためか空気も淀んでいる。
患者にはベッドさえあればいいだろう、と思われているのかもしれない。
実際、それでよかった。
ここはイエレドが目を覚ますためだけの場所。
それ以外には何の意味も持たない。
時おり吹き込んでくる冷たい風が、イエレドの思考を鮮明にしていく。
気付いた。
自分がここにいる理由。
起きるまでにあった出来事。
「お目覚めですか?」
誰かが入ってきた。
意識がハッキリしてきたイエレドには、その声の主が誰かすぐに分かった。
「ご気分はいかがです?」
眠る前に聞いた言葉を彼はもう一度聞いた。
「よく・・・・・・分かりません」
そして自分も同じ言葉を返した。
事実だ。
状況の把握はできているが、気分はどうも優れない。
「お変わりはありませんか? どこか痛むとか・・・・・・」
医師が問う。
が、イエレドはそれすら分からなかった。
痛みどころか感覚もあまりない。
「分かりません」
これもまた正直な返事だ。
暑いのか寒いのか、その感覚さえなかった。
「まだ薬が抜けきっていないのかもしれませんね。じきに感覚を取り戻すでしょう」
医師の声は淡々としすぎて怖い。
イエレド相手にというより、ほとんど独り言に近かった。
怖さに彼は声の主を見る。
(・・・・・・・・・・・・・)
恐怖は正しかった。
やはり医師の視線は自分には注がれていない。
イエレドの向こうの壁に対して話しかけているようだ。
「もう少しお休みになったほうがいいでしょう。しばらくしたらまた参りますので」
「あ、先生っ」
返事も待たずに医師は去った。
イエレドはもう一度呼びかけようとしたができなかった。
全身から力が抜け切ったように、彼はそのまま眠りについた。
1時間前。
「何故こんな・・・・・・」
イエレドは言葉を探したが、今の感情を的確に表現する言葉が見つからない。
「こんなことに・・・・・・?」
彼の目は怒りと失望と絶望とがうまく溶け込んだ鋭い光を放っていた。
これが剣の場であるなら、対峙した相手はこの視線だけで怯んでいただろう。
だが医師は動じない。
「最善だと判断したからです」
開き直りのようにも聞こえる答えは、イエレドを激昂させるに十分な威力を持つ。
「なんだと・・・・・・!」
立ち上がっていた。
「これが最善だと? あんたはそう言うのか!」
「落ち着いてください、ここは病院です」
そう言う医師は逆に落ち着きすぎだ。
イエレドは何か言いたげに唇を動かしたが、そこから発音することはなかった。
代わりに大袈裟に音を立てて座る。
「あなたの右腕は現代の医学では治せない――いえ、この先も治る見込みはほとんどありません」
「・・・・・・・・・・・・」
「しかしあなたは健全に動く腕を必要とされていた。そこで今回の手術を決定しました」
「それが――」
「それです」
医師はイエレド――正確には彼の肩――を指差した。
黄金に輝く義手が彼の双肩から生えている。
腕というよりも、昆虫か海辺の甲殻類のアシに近い。
先端には指のようなものが付いている。
それが5本ではなく3本であるところがまた、生身の腕とは程遠い、
「筋肉の微細動、脳からの電気信号に対するレスポンスは現時点で最も速い技術を使っています。
ほとんどタイムラグを感じることなく動かせる義手ですから、違和感は――」
「そうじゃない!」
自分はこんなにも感情を抑えるのが下手だったのか。
イエレドは怒鳴ってすぐにそう思った。
「なんでこんな・・・・・・オレはなんでこんな姿になってるんだ?」
幾分落ち着きを取り戻してからそう言う。
小さな抵抗だ。
とても非力な。
「なぜこんな要らないモノがついてるんだ」
医師は答えない。
彼は続ける。
「オレは義手をつけてくれと言ったんだ。これは何なんだ? この不気味な――」
「義手をつける。確かに私はそう言いました」
医師は蛇のように鋭い眼でイエレドを視界に捉えた。
「”義手をつけた”のです。これが最善の選択だと――」
イエレドは戦慄した。
同時に、自分が最大の失敗をしてしまったことに気付いた。
「先生」
「はい」
「お聞きしますが」
「どうぞ」
「義手をつける、とはどういう意味ですか?」
「医療の技術を以って四肢の外観を復元させることです」
「ではオレのこれは?」
「今回は外観ではなく、両腕の機能を復元させることをコンセプトにしています。ですから外観は・・・・・・」
「そっちではなく、こっちです。オレの元々の右腕」
「その右腕の機能を補う意味で義肢をつけたのです」
・・・・・・・・・・・・。
イエレドは全てを理解した。
「この腕が動くわけではないんですね?」
「はい。義肢は治療とは意味合いが異なります」
彼はあやうく気を失うところだった。
剣士として最も欠けてはならない部分。
注意力。
それが彼には欠けていたのだ。
右腕の自由を失った時、同時にその注意力も失っていたのだ。
堕ちた暗闇から這い出すべく、彼はほとんど諦めたような口調で問うた。
「オレの右腕を切除して義手をつける、という意味ではなかったんですね?」
この問いに医師は驚き、続いて訝るように彼を見た。
「・・・違いますが・・・・・・」
最大の失敗は取り返しのつかない悲劇を生んだ。
この過ちを端的に表すのであれば、日頃誰もが使っているフレーズで事足りる。
”勘違い”
たった一言で、イエレドが今置かれている状況は全て説明できる。
全ては勘違いだったのだ。
義手の話を持ちかけられた時、彼は大仰に喜んだ。
役に立たない腕を切除し、技術の粋を結集した動く作り物の腕が手に入ると。
そう思っていた。
しかし結果は違った。
医師は生身の腕には触らず、両肩に新たな腕を2本付け足した。
イエレドと医師。
2人にとっての義手は、その言葉が意味する部分が大きく異なっていた。
”両肩に新金属性の義手を埋め込みます”
医師は確かにそう言った。
この時、イエレドは手術の内容や予想される結果についてもっとよく聞いておくべきだった。
この時、医師は手術の内容や予想される結果についてもっとよく説明しておくべきだった。
もう遅い。
遅すぎた。
この冷たい金属のプレートはすでに自分の体の一部になっている。
生き続ける限り、これと共に歩まなければならないのだ。
「仕方が無い」
「はい?」
イエレドの呟きは、医師の耳に届く前に空気に溶けて消えた。
「オレはもう帰ります。費用は後日、お支払いしますから」
彼はフラフラと立ち上がる。
「いえ、それは・・・・・・検査のためにしばらく入院していただかないと」
「大丈夫です。経過を見るのであればまた通院しますから、その時にお願いします。今は――」
一刻も早く帰りたい。
彼はそう言い残して病院を後にした。
最も望んでいたハズだった。
これ以上ない幸福を得られるハズだった。
彼が手に入れたのは思いもしない科学の粋。
見解の相違が生んでしまった哀れな機械。
個室に戻ったイエレドはそっと肩に触れた。
冷たい。
念じてみる。
脳波の働きによるものらしい。
2本の腕は耳障りな音を立てて展開した。
黄金に輝く節足が聳え立ち、居もしない相手を威嚇するように垂れ下がった。
先端は鋭く尖った指がしっかりついている。
少し練習すればこの指でものを掴むこともできそうだ。
「・・・・・・うむ・・・」
結局、彼は4本の腕を持つことになった。
マガイモノの2本と、生身の腕、そして同じく生身だがまともに動かせない腕。
剣術に長ける彼は、当然ながら体を動かすことが得意だ。
従ってこの忌むべき副腕を自在に動かせるようになるにも、そう時間はかからない。
数分試してみただけで、かなり細かい動作もできるようになった。
(隠し続けるわけにはいかんな。となれば早いうちに・・・・・・)
感触を十分に確かめた彼は部屋を出、広間へと向かった。
剣戟の響きがなかったから、広間に着く前にそこがどのような様子だったか彼には分かっていた。
異様ともいえる雰囲気。
弟子たちが一列に並び、イエレドが出てくるのをずっと待っていたようだ。
不安げに見つめる彼らの顔を順に見て、
「すまなかった」
彼はまずそう申し述べた。
「俺自身、まだ迷っているのだが、案じてくれるお前たちに隠し事はできない」
イエレドは両肩を覆っていた布を取り去った。
「これが今の俺だ」
弟子たちの反応は予想していたとおりだった。
禍々しく不気味な義肢を見て、彼らは目を疑った。
あれは間違いなくイエレドの肩から生えている。
「師範代・・・それは・・・・・・?」
「義手だ。俺の意思で動く」
そう延べ、彼は恥を覚悟で全てを語った。
なぜこのような姿になってしまったのか。
医師との間で交わされたやりとり。
ここまでの心境の変化。
愛する弟子たちにウソをつきたくはなかった。
彼らならきっと受け容れてくれるだろうと。
これまで指導してきたからこそ、そう信じることができた。
しかし――。
ここでもまた、現実の厳しさが牙を剥き、イエレドの内臓を容赦なく抉った。
理解する者はいなかった。
受け容れてくれる者もいなかった。
彼らは互いに顔を見合わせ、眉をひそめ、汚いものを見るような目でイエレドを蔑視した。
少なくとも同じ人間を見る目ではない。
「・・・・・・・・・・・・」
誰も何も言わない。
それがイエレドにはショックだった。
今さら、”他人を見た目で判断するな”と言ったところで、何の意味も成さない。
むしろ惨めになるだけだ。
(やはり・・・・・・そうだろうな・・・こんな姿に理解を示せというほうが無理か・・・・・・)
イエレドはひどく落魄した。
妥当な反応ではあった。
自分ですら厭うこの姿、誰が共感してくれようか。
結局、剣の道に戻ることはおろか、弟子たちの心まで自分から離れていってしまった。
「・・・・・・・・・・・・」
とうとう目を合わせることさえしなくなった弟子たちに、
「少し外を歩いてくる。お前たち、稽古をするなら怪我をしないようにな」
そう言うのが精一杯だった。
叫びたかった。
今度こそ本当に全てを失った悲しみと怒りを、この鬱勃とした地下世界に轟かせたかった。
だがそれはできない。
それをしてしまえば、彼は自暴自棄になってどんな行動をとるか分からない。
最悪の場合は自ら命を絶つかもしれない。
彼にはまだほんのわずかな平常心があった。
この最悪の状況を冷静に見つめる自分が、自分の中のどこかにあった。
外に出た。
茶と黒以外には何もない世界だ。
この世界が今だけは彼に安らぎを与えてくれる。
いっそこのまま――。
このまま土に埋もれてしまおうか。
イエレドは本気でそう考えたが、数秒後に思い直した。
まだだ、まだなのだ。
まだ何か・・・・・・何かあるハズなのだ。
生きていなければならない理由がどこかに。
何かは分からない。
何かではなく、自分を必要とする誰かがいるのかもしれない。
どちらでもかまわない。
理由がある限り、自分はまだ死なない。
イエレドは忌々しい両腕を格納し、布で覆うと街に出た。