第1話 ツィラ

(アンヴァークラウンに住む少女ツィラ。つましく生きる彼女に迫る不幸が、やがて心に深い影を落とす)

 この8歳の少女は毎日を懸命に生きてきた。
飢えと寒さが常につきまとう極寒の地で。
彼女は持ち前の明るさと前向きな考え方で、冷たい白銀の世界にわずかな光を灯す。
赤い髪にフリルのついた民族衣装を着こんだ彼女は、村の皆からはツィラと呼ばれていた。
しかしそう呼ばれているからといって、彼女の名前が”ツィラ”とは限らない。
彼女は生まれて間もなく、母親の親戚に預けられた。
育てられない事情があったのか、それとも育児を放棄したのか。
それは彼女自身には分からないし、大人は誰もそれについて教えてはくれない。
ツィラという名は、彼女を引き取ったロムン老爺がつけたものだ。
母親との続柄は明らかではないが、全くの他人ではないらしい。
このロムン、ツィラを我が娘のように寵愛した。
どこに行く時も同行させたし、食べ物が少ない時は彼女に優先して与えた。
また、将来困らないようにと文字を教え、料理を教え、その他自分が持っている知識を余すことなく伝授した。
そういう環境で育てられたからか、ツィラは温和で他人の痛みを理解できる優しい女の子に育った。
彼女の人格を決定付けたのは2年前。
ロムンがついに、
『お前はわしの遠い親戚に預けられたが、決して母親を恨んではいかん』
と言ったことが大いに影響した。
それまで彼女は自分が預けられた、ということは全く知らなかった。
そもそも人間が女性の体から生まれてくることも知らなかったし、通常の家庭では両親という対の保護者がいることも知らなかった。
親子の概念を教えられた彼女は、不意に父母に逢いたいと願う事はあったが、その事実によって荒れることはなかった。
彼女にはロムンという親がいる。
幼い頃から今まで育ててくれた親だ。
母と父、そしてロムン。
彼女にとって親となる人物は3人いた。

 

「おじいちゃん、できたよ!」
湯気のたち昇る大きめのスープ皿を抱えながら、ツィラは寝室にいるロムンに声をかけた。
居間と寝室と台所を仕切るのは、わずかに色が変わった土しかない。
アリの巣のように繋がった部屋のひとつで、ツィラは今日の夕食の準備をしていた。
夕食といっても質素なものだ。
”下”で買ってきた蔬菜(そさい)と穀物。
それを香草と混ぜて煮込んだだけの味気のないスープ。
「ああ、すまんな。今行く」
そう言って寝室から出てきたロムンは、曲がっている腰を伸ばしながらテーブルへ向かう。
彼はすでに70歳を越えており、また肺にも疾患があるため、その足取りは実にゆっくりとしたものだった。
「おじいちゃん、ゆっくりでいいよ。あ、それも私がやるから!」
桶から水を汲もうとしたロムンを、ツィラが制する。
何度も謝りながら、ロムンは手すりを頼りに席についた。
「今日はスープだよ」
調理から盛り付けまで、ツィラは手際よくこなした。
水をコップに汲み、木棚からスプーンを取り出して彼女も席につく。
「おうおう、美味しそうな香りじゃな」
「”美味しそう”じゃなくって、”美味しい”んだよ?」
ツィラは笑った。
”いただきます”をしてから、2人は音を立てないようにスープをすすった。
トロトロに溶けた野菜が、咀嚼させるヒマも与えず喉の奥に流れ込んでいく。
「・・・・・・どう?」
3口目で手を止めたツィラが不安げに覗き込む。
「うむ、うまい。いや、美味しいと言ったほうがよかったかな?」
ロムンは大仰に笑った。
高評価にツィラも嬉しくなったのか、
「おかわりあるよ」
と、早くも席を立とうとする。
「まあまあ待ちなさい。こういうのは時間をかけて味わうものじゃ」
濃くない味付けとスープ特有の柔らかさは、弱った胃にはそれほど負担にならない。
詳しく知らないまでも、ロムンの体のあちこちが弱まっていることをツィラは感じていた。
小さな変化に敏感であれば可能なことだ。
少し前までは座った状態から立ち上がるのに、支えは必要なかった。
だが今は杖か、壁面の支えを使わなければ立ち上がるのは困難だ。
また以前は”下”に買い物に行けたロムンだが、最近は家を出たあたりですでに息が上がってしまう。
そのため、半年ほど前からツィラが家事全般、ほとんどの仕事をこなすようになった。
照明用のペールドット鉱石を採りに行くこともあれば、ロムンの代わりに食糧の買い付けに出向くこともある。
今夜のスープも、ロムンの体調を案じてのツィラの判断だ。
「すまないな。お前にばかり頼ってしまって・・・・・・」
そう言うロムンからは昔の覇気は微塵も感じられない。
「ううん、いいの。私だっていつまでも甘えてばかりいられないよ」
ツィラは花が咲いたような笑顔で軽く返す。
が、本音を言えば、ロムンにはそういう台詞は言って欲しくなかった。
彼の衰弱ぶりは常に傍にいるツィラからすれば、見たくないマイナスに向かう変化だ。
彼女がもっと幼い頃は、洞窟の奥を走り回ったこともあるのに・・・・・・。
今は起き上がるのにも難儀するほどだ。
「でも残念だな〜〜。お肉があればもっと美味しくなるのに・・・・・・」
唐突にツィラが話題を変えた。
「そういえば狩猟チームが、ヌの数が減っているとか言っておったな」
「ヌって、あの大きな動物のことだよね?」
「うむ・・・・・・そういえばツィラはまだ生きているヌを見たことがなかったな」
アンヴァークラウン地上の狩猟チームは15歳以上の男女で構成される。
このチームが狩ったヌなどの獣を、また別の専門チームがさばいて各世帯へ分配される。
分配される量は各世帯の住人の数と、その年齢で決まる。
狩猟チームやさばくチームの世帯が特に多く分配される事はない。
働きに関係なく平等なのだ。
今、ツィラは自分とロムンとの生活を維持するだけで精一杯だ。
しかし彼女も15歳になればいずれかのチームに所属するなど、何らかの形で村に貢献しなければならない。
持ちつ持たれつ、の関係がこの村を支える大きな柱となっている。
「ところで、ツィラ。この前の話、考えてみたか?」
最後の1滴を飲み下し、ロムンが真顔で尋ねた。
「どのチームに入るかって話?」
「そうじゃ」
少し考えてからツィラは、
「私、プラーナって苦手だから食糧を加工するチームがいいかな・・・・・・。料理みたいなものでしょ?」
両手で調理する仕草をして言った。
「まあ、似たようなものじゃが、家でやるのとは違って楽なものではないぞ」
ロムンは苦笑した。
彼自身、現役時代には狩猟チームで活躍していた。
プラーナの能力は平均的だったが、経験に裏打ちされた勘の鋭さが、チームの運営に大きく貢献していた。
ツィラを引き取る5年ほど前に退役しているため、彼女はロムンの奮闘振りを知らない。
「まだまだ先のことじゃからな、よく考えるがよい」
そう言いつつ、ロムンは食肉を加工するツィラを想像した。
日頃、料理をしているツィラが自分よりはるかに大きな肉をさばく。
思い描くと滑稽だが、案外彼女にはその方面が向いているかもしれない。
「でもね、採掘チームにも興味があるんだ」
空想上のツィラは、彼女の一言で霧散した。
「うん? 採掘じゃと?」
「そう。私ってペールドットを見つけるのが得意なんだよ」
たしかに彼女にはその才能もある。
ペールドット鉱石は半永久的に光を放つが、やはり無限ではない。
アンヴァークラウンのように太陽の光がほとんど射さない世界では、絶えず照明を確保する必要がある。
その意味では頻繁とはいかないまでも、一定量のペールドット鉱石は蓄えておかなければならない。
これを採掘するのもツィラの役目だったが、彼女には目的のものを見つける能力が秀でているらしい。
ちなみに採掘した鉱石を加工するチームもあるが、ツィラはこれには興味がないようだ。
この後、2人はちょっとした世間話をして就寝した。
ツィラの将来は今はまだ考える必要はない。
彼女は8歳。
本格的に働き始めるのは7年も先だ。

 

「じゃ、行ってくるね」
ツィラが寝室に向けて短い言葉を投げかけた。
この日も彼女にはやるべき事が山積している。
朝には加工チームから食肉の分配を受けるために中央広場へ。
広場は家を出て数キロ先にあるため、充分な防寒をしなければ道程で力尽きる羽目になる。
昼には近くの洞窟へペールドット鉱石を採掘しに行く。
その後、”下”の町で野菜類の調達。
かなりの労働だ。
しかし彼女はそれを辛いと思ったことはない。
外出時の寒さには慣れないが、それさえ克服してしまえば何ということはない。
が、ロムンの代わりにこれら全てをこなさなければならないという義務感はあった。
そうしなければ生きていけないし、自分もロムンも守れない。
時々、近所の親しい人が様子を見に来てくれるが、できればそれには頼らず生活したいという思いがツィラにはある。
これは1人で何でもできるところを周囲に認めさせたいという、背伸びをした考え方による。
彼女はまだ幼いが、精神的にはすでに家主だと思っており、そう思うことがまた彼女の精神を幼くもしてしまっている。
この世界に生きる人々にはそれぞれの役割があり、補い合うことで生活を維持しているが、彼女はそれら全てをこなしたいという願いがある。
この考え方、決して傲慢さから生まれたものではない。
ロムンには身寄りとなる者は自分しかいない。
従って彼を支え、助けるのも自分ひとりしかいない事になる。
今やツィラにとって自分の全てはロムンにあるといっていい。
もしある日、突然に両親を名乗る人物がやって来たら・・・・・・。
ツィラはこれまでに2度ほどそういう想像をしたことがあるが、いずれも良くない結果で想像を閉じている。
「うぅ〜〜っ・・・・・・寒いなあ、もう・・・・・・」
住居となる洞穴を出た瞬間、冷たく刺すような風がツィラを容赦なく叩いた。
おまけに昨夜から降っている雪が、歩きなれた道にゆるやかな凹凸を作っている。
寒さにはそれほど強くないツィラは、やはり戸外に出て活動する狩猟チームは向いていないなと思った。
「おはよう。今日は早いわね」
一歩一歩確認するように歩くツィラに、後ろから声をかけてきたのはフェルノーラという少女だ。
「あ、おはよう。うん、今日はちょっと忙しいから」
フェルノーラの長い髪が風にたなびいた。
が、この環境ではそれを美しいとも綺麗とも思えない。
彼女の美しいハズの黒髪は雪にまみれて、また低温に長い間晒されために痛んでおり、中途半端な優雅さしかない。
「おじいさんの具合、どうなの?」
「あんまり良くない・・・・・・かな。元気は元気なんだけど・・・・・・」
「うん」
「最近は言うことが変わってきたっていうか・・・・・・」
ツィラの表情が暗くなっていく。
それに伴なってフェルノーラの不安も大きくなり、彼女に声をかけることを躊躇ってしまう。
「前はもっと明るかったのに、私が言って欲しくないことばかり言うんだ」
「そ、そう・・・・・・・・・・・・」
それが具体的に何か、フェルノーラは訊かなかった。
聞いたところで自分ごときが、どれだけ力になれるか分からない。
いたずらに傷口を広げるようなことを彼女はしたくなかった。
と、ここまで考えてみて、そもそもロムンの容態を訊くべきではなかったという自責に至る。
「あ、ごめん! 暗い話になっちゃって・・・・・・!」
ツィラは力なく笑った。
「ううん、私こそ・・・・・・ごめんね」
フェルノーラもそう言うしかない。
彼女はツィラがロムンに預けられた娘だと知っている。
これはツィラ自身が話したことだ。
何故わざわざ他人に知られたくないことを進んで話すのだろう、とフェルノーラは訝った。
優しい人間ばかりではない。
生まれ育ちの違いをネタに虐める者も当然ながらいる。
フェルノーラという少女がその虐める側の人間ではないにしても、それを打ち明けることがツィラにプラスになるとは思えない。
しかし告白した後、なぜ話したのかというフェルノーラの問いにツィラは真顔で、
「フェルノーラとは何でも話せる仲になりたいから・・・・・・だから隠し事はしたくないの」
と答えたことから、フェルノーラのツィラ観は大きく変わった。
自分にはとてもできない。
相手がどう出るか分からないのに、迂闊に秘密を吐露することなど到底できない。
ツィラは・・・・・・この少女は自分を信頼してくれているんだ。
そう想うとフェルノーラはいくつもの感情がわっと溢れ出て、彼女を抱きしめた。
両親がいない――しかも生死も定かではない――辛さは自分には分からない。
自分には両親が健在しているからだ。
しかし――。
分かりたいとは思った。
その瞬間まで、さほど親しくなかった2人の心は急速に接近した。
「いつも思うけど、広場がもうちょっと近かったらな、って考えたことない?」
フェルノーラが話題を変えた。
「あ、それある! 寒い日なんかは特にね〜」
そう言うツィラは今も寒そうに体を縮こまらせている。
「家まで持ってきてくれればいいのに・・・・・・」
とフェルノーラがぼやいている間に、2人は目的の広場に着いていた。
この日のここは、朝から夕まで殷賑ぶりが顕著だ。
加工チームがさばいた食肉を円テーブルにどんと並べ、各世帯からやって来た代表者がそれを受け取る。
ただそれだけのために用意された場所なのだが、人々にとっては貴重な憩いの場ともなっている。
今もざっと見る限り、業者・客併せて200人ほどがひしめいている。
「私たちは5番のテーブルね」
割り当て表を見たフェルノーラがツィラの手を引いて人混みの中に潜っていく。
ツィラに出逢って彼女は変わった。
それまでは家の手伝いなどしなかった彼女が、進んで仕事を引き受けるようになったのだ。
食肉の分配を受けるのも母がやっていたことだが、フェルノーラが担当すると言い出した。
それ以外にも”下”への買い付けに同行するなど、その変化は劇的だった。
「フェルノーラ・エストマです。はい。えっと3人です。私と・・・・・・父と母の・・・・・・
受付では代表者氏名とその家族構成を照合し、それから分配を受けることになっている。
先に並んでいたフェルノーラが、すぐ後ろにいるツィラに聞こえないように家族構成を伝えた。
ツィラの秘密を知って以後、フェルノーラは彼女の前で両親に関わる話はしないことに決めていた。
もちろん、”父母”などの直接的な単語を口にすることすら憚っている。
「エストマ家の方ですね・・・・・・確認できました。ではこれが1週間分の割り当てです」
受付の柔和な女性が手持ちの資料との照合を終え、”25”と彫られた動物の骨をフェルノーラに渡す。
「ツィラ・ノートンです。私と祖父の・・・・・・ええ、2人です。はい」
続いてツィラも照合を済ませ、同様に数字の刻まれた骨を受け取る。
この後、円テーブルに行き、担当者に先ほど受け取った骨と割り当てられた食肉を交換すれば仕事は終わりだ。
人混みをかき分けて5番のテーブルにやって来た2人は、担当者を見つけると骨を手渡した。
「エストマ家が350。ノートン家が185だな。よし」
担当者は無造作に置かれた食肉を素早く切り分け、2人に持たせた。
各世帯の後についた数値は分配する食肉の重さだ。
「あのっ!」
フェルノーラが進み出て言う。
「すみませんが、この100の分、お手数ですが半分に切り分けてもらえませんか?」
「ああ、いいぜ。こっちのお客さんのを済ませてからな」
5人ほど待っていた代表者にそれぞれの必要量を切り分けると、担当者はフェルノーラから食肉の一塊を受け取り、それを半分にした。
「はいよ、これでいいかい?」
「はい、ありがとうございました」
フェルノーラは丁寧にお辞儀をすると、少し離れた所で待っていたツィラの元へ急ぐ。
「お待たせ」
言いながらフェルノーラは先ほど切ってもらった食肉の半分をツィラの持っている麻袋に押し込んだ。
「え、ちょっと・・・・・・!?」
突然のことに慌てるツィラ。
「いいからっ!」
断ろうとしたツィラを制し、彼女はぱちんとウインクしてみせた。
「おじいさんに栄養つけてもらわなきゃね」
という言葉にツィラはようやく彼女の真意を理解した。
「ありがとう、フェル・・・・・・」
ツィラはじわっと潤んだ瞳を見せまいと俯いた。
「でも・・・・・・お父さんやお母さんに怒られない?」
というツィラの問いに、
「平気よ。だってそれ、私の分だから」
フェルノーラは笑って答えた。
「え? それじゃ・・・・・・」
「いいんだってば。私って少食だし」
ツィラは落涙した。
彼女の行為を断るか受け容れるかで揺れている自分が恥ずかしかった。
フェルノーラは自分の取り分を諦めてまで気遣ってくれる。
しかも自分に気兼ねさせまいと、少食だなんて明らかなウソまでついている。
「ね? 気にしないで持って帰ってよ」
「フェル――」
「私も荷物が軽くて楽になったよ♪」
フェルノーラは普段のツィラよりも明るく笑った。
「ありがとう・・・・・・フェル・・・・・・ありがとう・・・・・・」
ツィラの流した涙は、幸いなことに激しく降る雪のためにフェルノーラからは見えなかった。
天を仰いだ彼女は好意をありがたく受けることにした。

 

 フェルノーラと別れたツィラは一度家に戻ると、すぐに必要な道具を取り揃えて村はずれの洞窟に向かった。
照明用のベールドット鉱石の採掘のためだ。
この鉱石は少量でも強い光を放つため、実は光の届かない洞窟の奥部では簡単に見つけることができる。
ただし岩盤に張り付くように埋もれているため、採掘には最適な道具とそこそこの力が要る。
ツィラは休む間もなくペールドット鉱石を採取していく。
洞窟内部は一本道になっており、迷うことはない。
入り口付近のものはツィラを含めて村の人間が採り尽くしているため、中部まで潜らなければ手に入らない。
(寒い・・・・・・)
ツィラは身を震わせた。
外風が吹き込まないため内部は暖かいハズなのだが、どういうわけか気温が低い。
(そういえば・・・・・・?)
不意にツィラは村の観測チームが話していたことを思い出した。
ここ数年、平均気温が目に見えて低下しているというのだ。
アンヴァークラウンには四季はない。
それでも”年度”という考え方はあるから、観測チームは一定の区切りを設けて気候のデータを収集・分析している。
長年の積み重ねで判明した事実が前述の、
『平均気温の低下』
である。
極寒の地にあっては1℃や2℃の温度低下は環境にさほど影響は与えない。
一時はこの気候の変化がヌの減少につながったという意見が出されたが、これは乱獲を認めたくない人間のエゴだ。
有識者が議論を重ねた結果、やはりヌは乱獲が原因で個体数を減らしたという結論に落ち着いた。
ところが、肝心の気温の変化については説明がついていない。
アンヴァークラウンの公転周期が変わったとか、軌道がずれ始めたという声もあるが憶測の域を出ない。
(厚手の服を着ておいてよかったよ)
ツィラは思った。
幸い、奥に進むとペールドットが光とともに放つわずかな熱のおかげで少しだけ暖かかった。
「あ、あったあった!」
道なりに進んだところに青白く光る壁が続いている。
この辺りは未採掘らしく、天井、壁といたるところにペールドットが埋蔵されているようだ。
ツィラは手の届く範囲の光る壁を掘り当てる。
先端がドリル状の携帯用掘削機を使って、まず大まかに円を描くように削る。
ある程度露出してきたところでまた別の道具に持ち替えて塊を削り取る。
「ふぅ〜〜・・・・・・」
2時間ほどこの作業を続けたところで、彼女はようやく一息ついた。
すでに足元には袋いっぱいのペールドットが山積している。
あとはこれを光を通しにくい特殊な袋に詰めれば、ここでの仕事は終わりだ。
ツィラは持ってきた袋に転がるペールドットを詰め込んだ。
鉱石そのものは軽いが、なにしろ量が多い。
彼女は袋の口を紐で縛ると、それを肩からかついだ。
ずしりと重い。
(ちょっと採りすぎたかな?)
などと考えながら肩には鉱石の詰まった袋、片手には採掘道具を持って洞窟を出る。
帰りは行きほど寒さを感じなかった。
先ほどまでかなりの重労働をしたせいもあるが、空を見上げるとわずかに太陽の光が雲の切れ間から差し込んでいる。
「ヘンな天気・・・・・・」
アンヴァークラウンでは一日中豪雪か、一日中曇りかのどちらかしかない。
ここまで1日のうちに、しかも短時間で天候が大きく変わることは稀だ。
しかしここでツィラが考えても物事は何も進みはしない。
彼女がこれについて考え、行動を起こそうとするなら7年後に観測チームに加わる他ない。
帰路はたしかに寒さを感じないだけマシだったが、持っている荷物の重さのせいで実は過酷なことに変わりはなかった。
平坦な道を選んではいるが、それでも地面のちょっとした凹凸に足をとられそうになる。

 

 ツィラは行きの2倍の時間をかけて帰宅した。
「・・・・・・ふぅ、ただいま」
彼女がこれを言うのは今日で2度目だ。
さすがに疲れが出てきたのか、袋を玄関口に投げ出すように置いて、自身もその場に座り込む。
数分、呼吸を整える。
(え・・・・・・・・・?)
ツィラはようやく気付いた。
”おかえり”がない。
家はそう広くないから、どの部屋にいてもツィラが戻ってきたことは分かるハズだ。
「寝てるのかな・・・・・・?」
と呟いてみたが、どうも嫌な予感がする。
しびれを感じる足を鞭打って立ち上がった彼女は、まず居間に入ってみた。
――いない。
ここではない。
(やっぱり寝てるだけ?)
もしそうなら起こすのは気の毒だ。
ツィラは物音を立てないように、そっと寝室を覗いた。
――いた。
簡素なベッドの上にロムンが寝息を立てている。
「なんだ、寝てたんだ・・・・・・」
ツィラはくすっと笑った。
(・・・・・・・・・・・・っ!?)
しかし未だ嫌な予感が晴れないことに、彼女自身が気付いた。
「おじいちゃん・・・・・・?」
呼びながら、そっとその額に手を乗せる。
予感は的中した。
平熱をはるかに超える熱さが掌全体から伝わってくる。
「おじいちゃんっ!!」
ツィラは叫んだ。
ロムンの寝息は安らかさを通り越して弱々しささえ感じる。
「うそ・・・・・・どうして!? 朝は何ともなかったのに!?」
こんなことは初めてだ。
「・・・・・・・・・!!」
彼女は無意識のうちに汲んだ水で布を濡らし、それをロムンの額にそっと乗せていた。
気が動転していても最低限、何をすべきかは体が勝手に判断してくれたらしい。
「おじいちゃん! ねえ、おじいちゃん!!」
ツィラはもう一度呼んだ。
しかし小さく呼吸を続けるだけのロムンが、それに答えることも指一本動かすこともなかった。
もたもたしてはいられない。
ツィラは防寒具を着るのも忘れて外に飛び出した。
疲労は溜まっていたが、ロムンの容態を一番に気にしている彼女には疲れを感じている暇はない。
ゆるやかな斜面を登りきったところに、やはり岩をくり抜いたような家がある。
できることならここの世話にはなりたくなかったツィラは一瞬だけ逡巡した後、勢いよく飛び込んだ。
「先生っ!!」
彼女らしからぬ強引で乱暴な呼びつけ方で、彼女が最も必要としている人物に声をかけた。
「誰だ、大声を出して・・・・・・今日は休診だって外に・・・・・・」
面倒くさそうに応対したのは若い男だった。
ブカブカのつなぎを着ているこの男こそ、ツィラが求めている人物。
ただ明らかに寝起きと分かる顔には、いささかの不安があったが、今はなりふり構ってはいられない。
「大変なんです! おじいちゃんが・・・・・・おじいちゃんがっ!!」
ツィラはうわ言のようにそれを繰り返した。
必死に訴える少女を見て、男はようやく目を覚ましたように、
「きみはノートン家の娘だったか? おじいさん・・・・・・ロムンさんがどうかしたのか?」
ツィラに目線を合わせて問うた。
「急に熱を出して・・・・・・朝は何ともなかったんです! それがさっき見たら・・・・・・っ!」
「落ち着きなさい。いいから落ち着いて。深呼吸しよう・・・・・・さあ」
男はツィラの両肩をつかむと、ゆっくりと深呼吸させた。
数秒ほど繰り返し、ようやく彼女が平静を取り戻したと判断すると、男はさっきしかけた質問をした。
「ロムンさんが熱を出して倒れたんだね? それも突然に?」
「はい」
「吐いたり、めまいがしたりということは?」
「分かりません。そこまでは見てませんでした。慌ててここに来たので・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
ツィラはうなだれた。
「動転するのが普通だ。でもよく知らせてくれた。ちょっと待ってなさい」
男は奥の部屋から小瓶を3つほど取って懐にしまうと、ツィラを伴なって外に出た。
「きみは先に戻って、ロムンさんにお水を飲ませてあげなさい。冷水よりぬるま湯のほうがいい。私もすぐに行く」
「分かりました!」
言うが早いか、ツィラは斜面を大急ぎで下った。
男は懐に小瓶の感触を確かめながら、早足でツィラの後を追う。
折り悪く、太陽を覆った灰色の雲が大量の雪を降らせていた。
トッドというこの男は、村一番の医者だった。
この若さで村一番なのは彼が勉強熱心だったから・・・・・・ではなく、単純に他に医者がいなかったためだ。
トッドの父も医者だったが、彼は儲からない地上を捨てて”下”で診療をおこなっている。
父のこの行為に村民は怒り、その矛先は当時幼かったトッドにも向けられた。
この時、彼をかばった者のひとりがロムンだった。
ロムンたちは、”子供には何の罪もない”と最後まで言い続け、トッドを大人の批難の目から隠してきた。
恩義を感じたトッドは、報いるには医者になるしかないと思い立ち、父が残した医学資料を頼りに勉強した。
ほとんどが見よう見まねでしかなかったため、技術や知識の習得にはかなりの時間を要した。
トッドは医者としての父を今でも尊敬しているが、人間としては蔑(なみ)している。
彼が常々、心に留めているのは、
”決して村民を裏切らない”
ことだけだ。





「おじいちゃん、大丈夫ですよね? 助かりますよね!?」
一度は落ち着きを取り戻したツィラだったが、ロムンの容態にほとんど変化が無いことに気を揉んでいた。
ロムンの脈拍や体温を測ったり、呼気を調べたりと忙しいトッドは、やがて手を止めると難しい顔をした。
「さっき飲ませた薬で1時間もすれば熱は下がると思うが・・・・・・これは・・・・・・」
ツィラは幼いながらも、トッドの表情から助かる見込みが薄いことを悟った。
「どうなんですか、先生・・・・・・?」
トッドは彼女の問いには答えず、ロムンの顔をじっと見ていた。
「念のために聞くが、おじいさんがこうなる前に何か兆候・・・・・・いつもと違うことはなかったかい?」
「・・・・・・えぇ〜っと・・・・・・」
ツィラは考えた。
ロムンが衰えつつあることは分かっていたが、その変化は緩やかで昨日、今日で判別できるものではなかった。
「例えば急に無口になったとか、食べる量が少なくなった、あるいは多くなったとか。何でもいいんだ」
「そういうのは無かったと思います・・・・・・」
「ない・・・そうか・・・・・・」
トッドが口の中で何かをつぶやきかけた時、あっ、とツィラが顔をあげた。
「最近じゃないんですけど、弱気になることが多くなった気がします」
「弱気、とは?」
「・・・・・・その、もうすぐ死んでしまうような・・・諦めているような・・・・・・うまく言えないんですけど」
「・・・・・・・・・・・・」
トッドは眠り続けるロムンを見て、何事かを呟いた。
しばらくして顔を上げた彼は、
「危険かもしれない」
と言った。
身寄りがこの少女しかいない以上、直接的に死につながる言葉は避けたほうがよい。
トッドは敢えて伏せたが、ロムンに死期が迫っていることを知っていた。
この死期は厳密な意味での天寿ではない。
先進的な医療技術と知識があれば延ばせる寿命だ。
「危険って?」
ツィラは目の前が真っ暗になるのを感じた。
しかし今のところ、医者の話を聞けるのは自分だけだと奮い立たせ、トッドの言葉を待つ。
「ヘイム症候群。たしかそういう病名だったと思うが・・・・・・」
先ほどからトッドはいちいち奥歯に物のはさまったような言い方をする。
それがツィラには苛立たしかった。
「特殊な病で完治は難しい。有効な薬もまだ見つかってないんだ」
「そんな――」
「手はある。ツィラ君、きみは”下”に行ったことはあるかい?」
「え? あ、はい、あります。よく買いつけに行きますけど・・・・・・?」
トッドはあごに手を当てて小さく唸ると、
「なら大通りにも詳しいな?」
と、小さな声で訊いた。
「はい」
ツィラもつられて小さく頷く。
不意にトッドが立ち上がった。
「ツィラ君」
「は、はい!?」
トッドの語気が今までにない激しいものだったため、ツィラは思わず身を固くした。
「すまないが、今から”下”に行ってきてくれないか? 薬の材料が”下”でしか揃わないものばかりなんだ」
そう言うトッドの顔には柔和さも温厚さもなく、どこか冷たい印象を与える鋭さのみ表面化していた。
ツィラは彼の口調と表情にゾッとしたが、事態が事態だけに、
「はい!」
とすくみ上がって答えるしかない。
「あの・・・・・・先生は?」
「調剤の準備がいる。いいかい? 大通りの中ほどに赤い看板を掲げた薬店があるから、これをもらって来てほしいんだ」
トッドは懐から木を薄く裂いた即席の紙を取り出すと、墨筆で薬材の名前を書き連ねた。
ツィラはそれを困惑した表情で受け取る。
「あ、あの・・・でも私、お金持ってないんですけど――」
「主に僕の名前を告げれば分けてもらえるハズだ。時間がない。さあ――」
トッドはなかば強引にツィラの手を引くと、雪原の中に飛び出した。
降雪は先ほどよりも激しくなっている。
「じゃあ、頼んだよ。薬材のどれひとつ欠けても薬は作れない。くれぐれも漏れのないように」
「はい。分かりま――」
ツィラの返事も待たずに、トッドは豪雪の中を家に向かって走り去っていった。
彼女は受け取った紙を覗き見た。
専門用語のため、半分も理解できない。
しかし理解できないくらいで丁度いい。
ツィラはそれを濡れないように服の奥に隠すと、トッドとは反対の方向に駆けた。
家から少し離れたところに、壁のように聳立(しょうりつ)する洞窟がある。
巨大さからして岩肌を露出させた高層ビルと置き換えてもいい。
小さな山ほどもあるここには、東西に複数の穴が開いている。
空洞化した内部でそれら全てがつながり、さながらコンサートホールのような様相を呈している。
ツィラは前かがみになって洞窟に入ると、正面にある壁面のスイッチを押した。
地に響く轟音とともに全面の岩壁がゆっくりと左右に開く。
現れたのはこの荒涼とした世界には似つかわしくない空間。
20メートル四方のリフトだ。
鈍い銀色の冷たい金属が箱となって、少女の前に口を開けていた。
ツィラは足早にその中に入ると、入り口の赤いボタンを押す。
先ほどと同じように音を立てて扉が閉じられた。
同時に天井、壁に埋め込まれた照明がほのかにリフト内を照らす。
直後、ガクンと大きく揺れてリフトは真っ直ぐに落ちていく。
この時の奇妙な浮遊感がツィラは嫌いだった。
過去に一度だけリフトが故障したことがあり、運悪く1人で乗っていたツィラは2時間ちかく閉じ込められる羽目になったのだ。
それがトラウマとなってか、”上”と”下”を行き来する瞬間は大きく息を吸い込み、ぎゅっと目をつむることにしている。
数分して、正面上方に取り付けられた階層表示窓が”下”に到着したことを告げた。
「おじいちゃん、すぐ帰るからね」
彼女は呟き、薄暗い”下”の世界へと踏み込んだ。

 

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