第2話 ツィラ

(病に倒れたロムンを救うため、彼女は”下”の世界に向かう。しかし・・・・・・)

 ツィラが苦手とするのは”上”と”下”とを行き来する間だけ。
実際に、リフトが停止すると彼女の動悸はぴたりと治まった。
ひとつの安心。
だが彼女が心に残す不安は、簡単には拭えないものだ。
「急がなきゃ、おじいちゃんが・・・・・・!」
勝手知ったる”下”の大通りをツィラは走った。
何人かが振り返って彼女を見たが、今は気にしていられない。
舗装された通路は大半を雪原で生活する彼女にとっては歩きにくい道だ。
平坦すぎて足のどころに力をかければいいのかが分からない。
ツィラは2度転んだ。
近くを歩いていた女性が手を差し伸べたが、彼女は自分で立ち上がり礼を言ってからまた走った。
トッドの話では赤い看板が上がっているハズだ。
店の名前を聞いておけばよかった、とツィラは悔やんだ。
誰かに尋ねて案内してもらうこともできたのに。
が、その後悔はすぐにしなくてもすんだ。
数十メートル先にたしかに赤い看板が掲げられている。
「あった!!」
目的の場所を見つけると足取りも少しは軽くなる。
ツィラは転ばないように注意しながら、大通りを駆け抜けた。
儲かっているのか、その店は他の建物にくらべて小奇麗で豪華さを放っている。
本来、薬などあまり売れないほうがいいのだが、なにしろアンヴァークラウンとは劣悪な環境の星だ。
薬剤の恩恵にあずかる者が多いのも頷ける。
「すみませんっ!」
ドアを勢いよく開けて飛び込む。
苦い薬品の刺激臭がツィラに軽いめまいを起こさせた。
薄暗い店内にはいくつもの棚があり、小瓶に注がれた薬品がずらりと並んでいる。
「はい、いらっしゃい。うん・・・・・・?」
奥から出てきた中年の男は景気よく挨拶した後、ツィラを見て訝った。
「見かけない娘だね。おつかいかな?」
子供がひとりで来るようなところではない。
しかし幼い顔の中に鬼気迫るものを感じた男は、カウンターを回りこんで出てきた。
「あの、あの・・・・・・これを分けてもらえませんか?」
ツィラは背伸びしながらメモを渡した。
男はそれを手に取り、書かれた文字を目で追っていく。
見た瞬間、男が眉を吊り上げたのを見て、ツィラは思わず後ずさった。
何となく、何となくだがこの男は協力的ではないのでは?
そんな不安が襲った。
実際、この男が放っている雰囲気は殺気立っている。
「ひとつ訊こう。このメモを書いてきみに渡したのは誰かな?」
「ええっと、トッド先生です。”上”でお医者さんをされている・・・・・・」
「ふむ、やはりそうか――」
メモを何度も読み返し、男はしきりにうなる。
「・・・・・・あいつもずいぶんと成長したもんだな」
呟いてから男は店の奥に消えた。
「あ、あの・・・・・・!!」
呼びかけたところに、男が小瓶を持って戻ってくる。
店頭には並んでいないものだ。
「この薬材からすると、ヘイム症候群だな。お嬢ちゃん、ちょっと量が多くなるが持てるかい?」
男は足元からさらに瓶と薬草をいくつか取り出す。
女の子が持つには相当な量である。
「はい、大丈夫です。あのでもお金は・・・・・・?」
「構わんよ。”上”の住人にはタダで提供することにしているんだ」
「・・・・・・・・・・・?」
「さあ、急ぎなさい。その病は1分1秒が勝負だ。早く持って行ってあげなさい」
「はい! ありがとうございます!」
律儀なツィラはどうしても代金のことが気になったが、今はロムンのことが心配だ。
容態が良くなったら改めてお礼に来よう、と彼女は思った。
「お嬢ちゃん」
男が思い出したように声をかけた。
「父は元気だとトッドに伝えてくれないか?」
「えっ!?」
意外な言葉にツィラは思わず足を止めた。
が、彼はそれ以上は何も言わずに小さな背中をそっと押した。
「行きなさい」
「あ、はい!」
ツィラは振り返って深々とお辞儀をすると、くるりと踵を返して大通りの向こうに消えた。
その様を眺めていた男は、ため息をひとつつく。
先ほどメモで見た文字を思い返す。
「そうか・・・あいつがな・・・・・・」
感慨に耽っていた男だが、やがて客が来たためその思考を強制的に停止させた。

 

 ツィラが戻ってきたのは家を出てから、ちょうど1時間後のことである。
家ではトッドが懸命にロムンの延命に力を注いでいる。
「おお、戻ってきたか! 薬材はもらえたかい!?」
「はい、ここにあります」
大きく膨らんだ袋を置いて、ツィラはトッドにしがみついた。
「お願いします! おじいちゃんを助けてください!」
若き医者は懇願する少女の肩をそっと掴み、
「大丈夫だ。僕に任せなさい」
恐いほど冷静に言う。
ここで取り乱しても何もならない。
トッドの落ち着きぶりは、徐々にツィラにも伝播する。
今は彼だけが頼りなのだ。
ツィラは強く頷くと、ロムンに向き直った。
横ではいよいよトッドが調合を始めた。
”下”でのみ手に入る薬草や薬材は、専門的な知識の持ち主しか扱えない。
ほんのわずかに分量を間違えるだけで毒にも成り得る。
ツィラはロムンの手を握った。
冷たい感覚が伝わってくる。
この冷たさは外気温の低さからくるものではない、と彼女は直感した。
「先生!」
「静かに」
見るとトッドは見慣れない器具をいくつも並べて、調剤を進めている。
精密さを要求される調剤には騒音も振動も邪魔ということか。
ツィラはトッドの邪魔にならないように、心の中でわめいた。
泣いて叫んでロムンの容態が良くなるわけではない。
が、治療の全てをトッドに任せ、自分が何もできないことがもどかしかった。
「大丈夫だ、大丈夫だよ」
調合はかなり大掛かりな作業となっている。
タイミングも重要だから、トッドはほとんど目を離さずに器具を凝視する。
(おじいちゃん・・・・・・)
ツィラはプラーナに祈りを捧げた。
どうか無事であるように。
いつものロムンに戻りますようにと祈りをこめた。
「・・・・・・きみ!」
ずいぶんと熱心に祈っていたからか、トッドの呼び声に彼女はしばらく気付かなかった。
「あ、はい!?」
慌てて顔をあげる。
「調合が終わったよ。成分が変わらないうちにこれをロムンさんに――」
ツィラの脇をすり抜け、トッドは調合薬をロムンの咽喉に流し込んだ。
薄緑色の液体が、ゆっくりとロムンの体内に浸透していく。
「ひとまずはこれで大丈夫だろう」
というトッドの言葉に、ツィラは少しだけ安堵する。
「先生、ありがとうございました」
と彼女は頭を下げるが、トッドはまだ険しい表情で、
「油断はできないよ。これを」
彼は特殊な繊維でくるんだ錠剤をツィラに手渡した。
「朝と夜、必ず食後に飲ませるように」
「はい。あの、もし食欲がなかったら・・・・・・?」
「パンのひとかけらでもいい、何か食べさせるんだ。どんな病気も栄養を摂るのが一番だからね」
「分かりました」
返事をしてから、ツィラはロムンを見る。
心なしか、表情も落ち着いているように見えた。
「10日分を渡しておく。もし何かあったらすぐに僕を呼びなさい」
その後、服用や病状の詳しい説明をした後、トッドは吹雪の外へと出て行った。

 

 その日からツィラの献身的な看病が始まった。
ロムンの体調は落ち着いてはいるが、ほとんど死に近いところで留まっているようなものだ。
まだ自力で起き上がり、食事もできるだけマシかもしれない。
「おじいちゃん?」
一日に何度。
何度こうして様子を見に来ているだろう。
「ああ、大丈夫だ。心配ない」
思いのほか、ロムンの顔には余裕があった。
「そう、よかった・・・・・・」
ツィラは胸をなでおろした。
ほんの少し、隣の部屋に行っている間もロムンのことが気がかりで仕方が無い。
何かあったらすぐに呼べ、とトッドは言っていたが。
もし本当に何かあったとき、ツィラはその言葉通りにトッドを訪ねることができるだろうか。
彼女は考えてみた。
たぶんできない。
ロムンと離れるのが不安だから。
トッドを呼びに行っている間に、もし容態が急変したら・・・・・・。
そう思うと片時も離れることができないのだ。
「ツィラ、すまないな」
「そんな事言わないでよ」
「じゃが・・・・・・」
「おじいちゃんが元気でいてくれたら私、何もいらないんだからね」
本心だった。
ロムンと恙なく生きていけるのなら、何も望まない。
今は薬に頼っているが、いずれこれも必要なくなると。
以前のように楽しく、明るく生きていけると。
彼女は信じていた。
そのための辛抱の時期だと言い聞かせていた。
「ツィラ〜〜!!」
入り口から少女の声が聞こえてきた。
「あ、フェルだ。おじいちゃん、ちょっと行ってくるね」
くるりとターンすると、ツィラは駆け出した。

「あ、ツィラ」
元気よく飛び出してきたツィラに微笑みかけたのは、フェルノーラだ。
「寒かったでしょ、ごめんね。中に入って」
ツィラに誘われて、フェルノーラは遠慮がちに家に入る。
「お邪魔します」
律儀な彼女はこういう挨拶を欠かさない。
フェルノーラは抱えてきた大きな麻袋を足元に置く。
コートについた雪を払う。
「そこ座って。いまお茶淹れるから」
ツィラは手際よくフェルノーラ好みのお茶を淹れて差し出した。
「ありがとう。いただきます」
木製の湯のみにそっと手をそえ、少女は一口ふくむ。
熱いくらいだが、”上”の人間にとってはこれがありがたい。
体が温まったところで、フェルノーラは麻袋をテーブルの上に置き直した。
中から取り出したのは、冷凍された食肉だ。
「はい、これが今日の分ね」
あらかじめ切り分けておいた塊を丁寧に並べていく。
「ありがとう。ごめんね、いつも・・・・・・」
「ううん、気にしないで」
申し訳なさそうに言うツィラに、フェルノーラは微笑みかけた。
ロムンが倒れてからというもの、ツィラは看病ばかりでほとんど外に出なかった。
ペールドット鉱石の採掘もしていないし、定期的に割り当てられる食肉の配給所にも行っていない。
事情を知ったフェルノーラはツィラの代わりに食肉を受け取りに行くようになった。
受け取りは世帯の代表者からの委任状があれば、別の者が手続きしても問題はない。
ただこれではツィラの世帯とフェルノーラの世帯の分があるから、彼女は2回に分けて受け取りに行っている。
こうしてツィラに代わり、彼女が割り当てられた食肉を持ってきてくれるのだ。
「早くおじいさんに元気になってもらわないとね」
フェルノーラのこの屈託のない笑みが、ツィラには辛かった。
自分の代わりに食肉を持ってきてくれる。
それだけでも申し訳ないのに。
その量は明らかにツィラの世帯には見合っていない。
通常は180程度の分量が、フェルノーラが差し出す食肉は少なくとも220を超えている。
十中八九、フェルノーラが自分の当たり分を追加しているのだとツィラは悟っている。
「・・・・・・・・・・・・」
もちろん、フェルノーラはその事には一切触れない。
ごく自然に、不自然な量の食肉を置いていくのだ。
「ありがとう・・・フェル・・・・・・」
これしか言えない自分がもどかしかった。
感謝を表すにはこの言葉は陳腐すぎる。
ありがたいと思っているなら、言葉ではなく行動で示すべきなのだと。
ツィラはそう思っているが、今の自分には何もできない。
ロムンの看病で大変だからと言い訳をして、結局はフェルノーラの好意に甘えているだけ。
どれだけ感謝をしても足りない。
「ツィラ」
フェルノーラはゆっくりと立ち上がると、背後からそっとツィラを抱いた。
「・・・フェル・・・・・・?」
呆然としたまま、ツィラは振り向こうともしない。
この瞬間の温かさを感じていたかった。
「私ができるのはこれくらいしかないから――」
耳元でそっとフェルノーラが囁く。
「ツィラにもおじいさんにも元気になってもらいたいよ。でも私にできるのは・・・・・・」
「そんなことない」
ツィラは弱弱しく意志のこもった声で言った。
「フェルがいなかったらわたし・・・・・・どうなってたか分からない・・・・・・」
嘘ではない。
フェルノーラの支えがあったからこそ、自分は今もこうして意識を保っていられるのだ。
自棄にならなかったのも彼女のおかげだ。
ツィラはロムンと2人暮らしだ。
ロムンの身に何かあった場合、彼女は独りになる。
この極寒の世界で。
幼い少女がたった独りで。
生きていけるハズがない。
「ツィラ、お願いがあるの」
「なに?」
「私にできることがあったら何でも言って。遠慮しないで」
「うん・・・・・・」
「約束だよ?」
「・・・・・・うん」
改めて言われることではない。
フェルノーラは、感謝し足りないほど色々とやってくれる。
彼女はそう言うが、これ以上迷惑をかけたくないとツィラは思っている。
しばらくしてフェルノーラはツィラから離れた。
「そろそろ帰るね。家の手伝いがあるから」
「あ、うん。ごめんね、大したもてなしできなくて」
「いいのよ。お茶、美味しかったわ」
空になった麻袋を抱え、フェルノーラは踵を返した。
その途中で、
「ツィラ――」
と呼びかけたが、
「分かってる」
少女は即答した。
その口調に力強さを感じたフェルノーラは、ようやく安心したようにツィラの家を出た。

 

「お友だちはもう帰ったのかい?」
「うん、食糧を届けてくれたんだ」
「そうだったか。あの子にも手間をかけさせてしまったな・・・・・・」
「うん・・・・・・」
夜。
体調のよいロムンは、円テーブルについてツィラの作った料理を味わっていた。
「うむ、ツィラの作ってくれる食事はいつ食べても美味しいな」
ロムンは笑った。
久しぶりに見た笑みだった。
ツィラも嬉しくなる。
「おかわりたくさんあるよ」
病気に打ち勝つには栄養を摂るのが一番だ、とトッドも言っていた。
ロムンの調子はここのところ良い。
もらった薬の効果を最大限に引き上げるためにも、たくさん食べてほしい。
ツィラの当然の、ささやかな願いである。
「すまないな、ツィラ」
彼は空になった器に視線を落として言った。
「えっ・・・・・・?」
あまりに小さく、弱弱しいその一言をツィラは聞き逃してしまった。
ロムンはうむ、とひと息つくと、
「プラーナにはさまざまな力がある」
脈絡もなく語りだした。
「おじいちゃん・・・・・・?」
どうも様子がおかしい。
ツィラは訝ったが、当のロムンは彼女の懸念など関係なしに言葉を続けていく。
「物を引き寄せたり、遠くを視たり。プラーナがわしらにもたらす力は無限といっていい」
「・・・・・・」
「ツィラは加工チームを希望していたな。もちろんそのためにもプラーナは役に立つ」
「・・・・・・・・・・・・」
「――この歳になるとな、プラーナは最後の力を授けてくれるんじゃよ」
「・・・・・・!?」
胸騒ぎがした。
”最後”という一言が幼い少女の心に重くのしかかる。
まさか?
後に続く最悪の展開をツィラは振り払う。
が、ロムンの口から発せられたのは、
「自分の死期が分かるんじゃよ」
振り払ったばかりの最悪の展開だった。
「おじいちゃんッ!!」
「黙って聞きなさい」
諭す口調は、老いた人物に特有の威圧感を帯びている。
「わしの病は治らん。尽くしてくれるツィラや友だち、あの医師には申し訳ないと思っておるが・・・・・・。
分かるんじゃよ。不思議なものだがな・・・・・・」
「――プラーナが・・・教えてくれてるってこと・・・・・・?」
ロムンは頷いた。
「ウソだよ・・・そんなの・・・・・・」
ツィラはかぶりを振る。
認めたくない。認められない。
「まだまだ難しいかもしれんな。わしもこの歳になるまで分からなかったことじゃからな」
死期が分かる、と言うわりにこの落ち着きよう。
幼いツィラには、ロムンがまだ冗談を言っていると思えた。
思い込んでいたのかも知れない。
危篤状態から回復し、歩くことも食べることもできるのに。
なぜこんな話をするのか。
「ツィラ」
ロムンは深いためいきをついた後、こう言った。
「10日後だ」

 

 ツィラにとっては地獄の9日間だった。
1日1日が、それこそ死に向かっているような絶望感。
元気なロムンを見るたびに身を切られるような想いに駆られた。
ロムンは生きている。
そのことは素直に喜ぶべきだ。
しかし手放しで喜べないだけの恐怖がツィラにつきまとう。
あの時、ロムンが言った、”10日後だ”という言葉。
だいたいの意味は彼女にも分かっていた。
突然の宣告を――。
理解こそしたが受け入れることはできなかった。
悶々としたまま時間だけが過ぎた。
看病をしている時も、眠りにつく時も、朝目覚める時も。
ロムンを失うことへの恐怖に襲われていた。
「・・・・・・・・・・・・」
2日前から、ロムンは何も食べず何も飲まず、ベッドに臥せったままだ。
意識だけはしっかり保っているようで、ツィラとの会話はできた。
だが彼女が食事や水を運んでも、決してそれに口をつけようとはしなかった。
そして今日。
「――ツィラ」
陽が昇り、数時間が経った時、ベッドから呼ぶ声にツィラは走った。
以前に感じた胸騒ぎがさらに強く、さらに不吉なものとなって戻ってくる。
「どうしたの?」
本当は訊くのも恐い。
ロムンが今度は何を言い出すのか。
それに対する恐れの方が好奇心を遥かに超越しているのだ。
「医者を連れてきてくれないか? それとお前の友だちの――」
「フェルのこと?」
「そうだ。その子も連れてきてくれないか」
ツィラはすぐには退室しなかった。
ないとは思うが、呼びに行っている間にロムンが――。
そう考えると足がすくむ。
「・・・・・・分かった、行ってくる。すぐに戻ってくるからね?」
考えた末、ツィラは言いつけを聞くことにした。
それがロムンの望んでいることなら、拒むことが逆に不孝だ。

 

 30分後。
言われたとおり、ツィラはトッドとフェルノーラを伴って戻ってきた。
「ツィラ・・・・・・」
フェルノーラは不安げに友だちの顔を見た。
泣いた跡があった。
彼女はこれから起こることを知ってしまったのだろう。
傍ではトッドが錠剤を取り出したが、ロムンがもはや必要ないと言ったので懐にしまった。
「忙しいところを呼び出して申し訳ない。少しだけ付き合ってもらいたい」
ロムンの声は妙に澄んでいた。
生にすがりたいのではなく、死を受け入れているのだとトッドは感じた。
「ロムンさん、あなた・・・・・」
「考えているとおりじゃ。わしはじきに死ぬ」
あっさりと言った。
ツィラもフェルノーラも動揺を隠せない。
「では、僕たちを呼んだのは?」
この問いにロムンは、寂しそうな顔をして、
「ツィラはまだ幼い。わしの死にたった独りで直面させるのも酷というもの――」
よどみなく答えた。
「わしの我儘(わがまま)を許してくれ」
口調があまりにもしっかりしすぎて逆に恐い。
フェルノーラはそっとツィラの手をとった。
だがツィラはそれを振り払うようにロムンにしがみついた。
「おじいちゃん・・・・・・なんで! ・・・・・・なんでよ・・・・・・!!」
彼女は幼い。
死の意味は分かっていても、それを受け入れるほどには成熟していない。
「人には寿命がある。わしの場合、それが今日だったというだけじゃ」
「どうして・・・・・・!」
ロムンより永く生きている者などどこにでもいる。
なぜ今日なのか。
なぜ彼なのか。
「ツィラ、よく聞きなさい」
しがみつく彼女の問いかけを無視し、ロムンは語りかけた。
残された時間は少ない。
生きているうちに、言うべきをことを言っておかなければならない。
ロムンにはわずかの焦りがあった。
「お前の母親は、お前が生まれてすぐにわしに預けた。その事は以前に話したな?」
「うん・・・・・・」
「母親に逢いたいか?」
「えっ・・・・・・?」
ツィラは戸惑った。
少なくとも母親がいることは告げられていたが、逢うことを熱望するほどではなかった。
顔を知らない母よりも、ロムンこそ親だと思っているからだ。
「・・・分からない。逢えたらいいなとは思うけど・・・・・・」
ツィラは思っていることをそのまま口に出した。
母親に逢いたがることが、ロムンを裏切るような気がした。
「そうか――」
と言ったきり、ロムンはしばし口をつぐんだ。
言うべきか、迷っている風だった。
やがて彼は再び口を開く。
「今まで黙っていたが、お前には兄がいる」
「・・・・・・!?」
「5歳上の兄だ。一度だけ見たが、利発そうな子だった」
それを聞いていたトッドは、居たたまれなくなった。
”上”の過酷な環境では、2人以上の子を育てるのは難しい。
よほど裕福な家庭でない限り、1人育てることすら命がけだ。
(彼女の親はおそらく、長男を養うだけで精一杯だったのだろう。それで・・・・・・)
それでツィラをロムンに預けた。
トッドは母親の心情を汲んだ。
身を切られるような想いだっただろう。
兄も妹も可愛い自分の子に変わりはない。
そのどちらかを手放す決断をした母を――。
トッドはなじる気にはなれなかった。
またフェルノーラも似たような気持ちだった。
母親がいない苦しみはもとより、母親に手放されたツィラの心情など到底理解できるものではない。
言葉に言い表せない壮絶さ、悲惨さが容赦なく襲ってくる。
「お前も大きくなった。これからは兄を頼るといい」
そうか。トッドにはロムンの意図が読めた。
概ねは彼が言ったとおりだ。
手のかからなくなった今のツィラなら、実の母も兄も受け入れてくれると踏んだのだ。
彼女はまだ幼く、独りで生きるには辛すぎる。
自分とこのフェルノーラという少女を連れてきたのは、その際の後見人を任せるためだろう。
「あの、ロムンさん」
トッドが割り込んだ。
「その彼女のお兄さんとお母さんはどこに?」
訊いておかなければならない。
わざわざ預けたのだから、近いところにはいないだろう。
「すまん・・・・・・すまんが・・・・・・」
言いよどむそれが答えになっていた。
「わしにも分からんのだ」
ロムンの話では、ツィラを産んだ時、母は住居から遠く離れたところにいたらしい。
分娩間もなく、彼女は唯一母親らしいことをした後、ロムンに娘を預けた。
母は逃げるように帰ったという。
「”ツィラ”という名前だけを与えて、ですか・・・・・・」
ということは母が明かしていなければ、長男も自分に妹がいることを知らないハズだ。
(それを僕に捜せということか)
気が遠くなりそうな話だ。
何の手がかりもない状態で、この雪原の中をどうやって捜せばいいのか。
難しすぎる課題だ。
が、そうしなければツィラは――。
「勝手な申し出だとは思う。じゃが、ツィラの・・・身寄りを・・・・・・」
捜してほしい、とまでは言い切らなかった。
トッドは十分に理解している。
はじめ、トッドはあえて言葉を切ったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「おじいちゃん!!」
ツィラがすがりつく。
そこで分かった。
いよいよ別れの時が来たのだ。
苦しそうな様子はなかった。
彼は死期を悟った瞬間から、この日、この時のための準備を進めていたのだろう。
眠るように安らかに逝けるように。
「フェルノーラちゃんだったな? ・・・・・・ツィラと仲良くしてくれてありがとうな」
ロムンはもう顔を動かすことも視線を向けることもしない。
天井を見たまま、そばにいるフェルノーラに語りかける。
「そんなっ、私は・・・・・・」
「こうなる前から分かっておったよ。きみは日頃からわしらを気にかけてくれていたな」
ほとんどはツィラの報告によって知ったことだ。
食肉を分け与えてくれたことも、水やその他日常品を届けてくれたりしたことも知っている。
「きみには感謝してもしたりないな・・・・・・。本当にありがとう」
その声はささやきよりも小さく、耳をそばだてなければ聞き取れないほどに弱弱しい。
「きみには・・・いや、きみたちにはもう迷惑をかけたくない・・・・・・」
「おじいさん! 何を言ってるんですか!」
そこでフェルノーラは自分が泣いていることに初めて気がついた。
彼女はロムンとはほとんど面識がない。
容態はツィラを通して聞いただけで、対面したのはせいぜい1度か2度だ。
彼女は泣いていた。
それがツィラの悲しみをさらに増長させると分かっていても、溢れる涙は止まらなかった。
ツィラを通してロムンに対しても親近感を持ったのかも知れない。
「ツィラ――」
この名前を呼ぶのもこれで最後だ、とロムンは覚悟してその名を口にする。
「お前はまっすぐに育ってくれた。この先、何があろうと・・・・・・」
「言わないでよっ!」
ツィラは嘆願した。
ロムンが何かを喋るたびに寿命が縮んでいるような気がしてならなかった。
「お前は独りじゃない。この世界にお前を必要としている者がいるハズだ・・・・・・その者に・・・・・・」
計算違いだった。
最後を言い切る前に、ロムンは息絶えた。
「・・・・・・・・・・・ああっ・・・・・・・・・・・・!!」
受け容れたくなかった。
こんな現実が来るハズがないと。
ツィラは否定し続けた。
「ああああああああああッッッッッ!!」
しかし真実は彼女の願望を粉々に打ち砕く。
トッドが死亡時間を確認し、静かに告げた。
「・・・・・・・・・・・・」
ロムンの死と、涙するツィラからフェルノーラは目をそむけた。
直視しなければならない現実なのに、幼い彼女にはそれができない。
残されたトッドは医者としては有能だが、こんな時にどう声かけすべきかは分からなかった。
瀕死の者をとうとう救えなかったばかりか、目の前で死なれてしまったつらさ。
程度も種類も違うが、3人が抱く悲しみは人生の中で最も辛辣なものだった。

 

「おじいちゃん・・・・・・」
豪雪の中、ツィラは地面に向かって何度もそう呼んだ。
この土の下にはロムンの亡骸が横たわっている。
「私・・・どうしたらいいの・・・・・・?」
黙祷を捧げていたトッドとフェルノーラを帰し、彼女は独り絶望に打ちひしがれていた。
自分には兄がいるという。
当然、自分を産んだ母親もいる。
身寄りを頼れ、とロムンは言った。
なのに、そう言ったロムンはもういない。
血の繋がりはあっても、今まで顔も名前も知らなかった者など他人同然だ。
それらに頼れ、とはあまりにも残酷ではないか。
「分からないよ・・・・・・」
明日からトッドが身寄りを探してくれると言っていたが、当のツィラにはその気は全くなかった。
今後、どうすべきかは彼女にも考えがつかない。
ただ・・・・・・。
ロムンを失った悲しみだけが支配している。
ツィラにとって先のことなどどうでもよかった。
これからどう生きようかなど考える必要がなかった。
深い悲しみに包まれている彼女には――。
絶望とほんのわずかに湧いた疑問。
”なぜロムンは死ななければならなかったのか?”
今さら思っても仕方のないことだが、それでもそう思わずにはいられない。
死なずにすむ方法があったのではないか。
「・・・おじいちゃん・・・・・・・・・・・・・」
ゆっくりと彼女は立ち上がる。
彼女自身もほとんど死んだような目で。
フラフラとした足取りで家に戻る。
このまま眠ってしまいたい。
そうすればロムンに逢えるような気がする。
その夜、ツィラはベッドに倒れこむと落涙しながら眠りに落ちた。

 

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