第2話 シェイド

(書物に著されたムドラの真実。陰惨な過去を知った彼は復讐の炎を滾らせる)

 一冊の書物の中には、彼が想像もしえない世界が広がっていた。
ムドラに関する起源。過去。経緯。変遷。
その全てがたった一冊に集約されていた。
ページ数にすると300足らず。
薄くほんのわずか力を入れても破れてしまいそうな紙なので、ページ数に見合う厚みはない。
読みながら彼は、なぜ当時の彼らが複雑すぎる言語を持っていたのかを理解した。
この時代からすでに資源は不足していたのだ。
文字を書く道具も満足に揃わず、情報を他人に、あるいは後世に伝える術が限られていた。
だから彼らはわざと難解な文法を用い、似ていてしかも微妙に意味の異なる単語をいくつも生み出した。
それは情報を正しく伝えるため。
読み手の解釈によって違う意味にとられないよう、複雑だが読み取り方がひとつしかない言語。
誰がこの書物を読んでも全く同一に翻訳できるようになっている。
「・・・・・・・・・・・・」
著者は分からない。
そんなものを書くスペースがあるなら、もっと重大な情報を詰め込むために使っただろう。
(いつか遠い未来の僕たちが読むために・・・・・・これは書かれたのか・・・・・・)
そうとしか考えられなかった。
でなければ歴史を著す意味がない。
シェイドは震える手でページをめくった。





ムドラは元々、アンヴァークラウンではなく別の惑星に住んでいた。
科学よりも自然を愛し、自然と調和することを美徳として生きる平和主義の種族だった。
ある時、近隣の惑星に住む魔導師と抗争がおこった。
ふたつの惑星が再接近軌道に入り、両方の国境宙域が重なったことが原因だった。
さらに時間が経てば、国境は完全に互いの領宙を飲み込むかたちとなる。
ムドラも魔導師も重なった部分の制空権を主張した。
交渉はもつれにもつれ、しびれを切らした国境付近の駐在官同士が撃ち合うという事件が発生する。
両勢はこれを宣戦布告とみなし、全面的な戦争が始まる。
数で圧倒する魔導師に対し、ムドラは苦しい戦いを強いられた。
戦術兵器の使用に関する取り決めはなかったため、魔導師勢は最新の科学兵器で侵攻を開始する。
ムドラが力の根源とするプラーナも、押し寄せてくる敵を食い止めることはできなかった。
愛する自然が蹂躙されていくのを見て、ムドラは憤った。
もともと好戦的な種族ではなかったが、敵に対しては毅然と立ち向かう勇気も持っている。
勝算のない戦争に、彼らは果敢に挑んだ。
自分たちの星を守り、家族を守り、生活を守るためだ。
しかし戦力差は歴然だった。
最初の抗争から2年。
高名なムドラの僧たちがプラーナの秘術を用いて、生物を兵器として操った。
原始的な生物から高等なものまで、実験は幾多に及んだ。
その中で兵器として最も完成していたのは巨大な4本のハサミを持つサソリだった。
この兵器は主戦場において多大な成果をあげたようだ。
迫り来る魔導師をハサミが一閃して蹴散らした。
しかし記述にあるサソリの活躍はここまで。
顛末は明らかになっていないが、この後の文章を読めばこの兵器が敗れ去ったことは容易に想像がつく。
さらに2年。
敗戦が色濃くなった時、ムドラの大部分が星を捨てて外宇宙に移動を始めた。
暴虐な魔導師はムドラの民を見ると兵士であるないに関係なく蹂躙していたという。
一部の勇敢な民のみが残り、母星を守るために戦ったという。
星はその1年後に魔導師に制圧された。
一方で逃げ出した民は、敵から逃れるために辺境の惑星に身を潜めた。
それがアンヴァークラウンである。
極寒の地にまでまさか魔導師は攻めてこないだろうとの読みどおり、彼らはそこで息を潜めることができた。
だが平和な暮らしを永く営んできた彼らにとって、この過酷な世界は底なしの沼。
慣れない生活に多くの者が命を落とした。
逃亡の際に持ち込んだ食料や資源などで生活するしか方法は無かった。
やがてムドラそのものが衰弱していく。
飢えと寒さに襲われた彼らは地中を深くくり抜いて”下”の世界を作った。
”下”ができたことで、それまで住んでいた地表を”上”とし、ムドラは互いに補い合う別の種族として生きる道を選んだ。
”上”には飢えと寒さがあり、”下”には暗闇と閉塞があった。
どちらも優劣をつけがたいほどの劣悪な環境だった。
しかし生き延びる可能性が高いのは間違いなく”下”だった。
少なくとも寒さで死ぬことはない。
深く掘り進んだことで地熱を得られたから、その点では快適だった。
だが、この中途半端な快適さは民からわずかの緊張感と信念を奪わせた。
失ったものはプラーナだった。
何とか生きていける、その油断が彼らからプラーナを奪った。
代わりに”上”の民は常に死と隣り合わせの中、プラーナはより鋭く研ぎ澄まされていく。
食糧である獣を狩るために、光源であるペールドット鉱石を見つけ出すために。
彼らは過酷な世界を懸命に生きる道を選んだ。





読み終えたシェイドは、書物を閉じる瞬間に世界が暗転したような錯覚に陥った。
虚偽が書かれているとは思えなかった。
ここに記されているのは全て、紛れも無い真実だ。
彼らの無念が一文字一文字に注ぎ込まれているような気がした。
数分の後、シェイドが抱いた感情は怒り。
それはただちに憎悪に変わり、彼の中に巨大な雷(いかずち)を生む。
怒ることはあっても、誰かを憎むことなど一度もなかった彼が――。
文字でしか知らない魔導師という存在全てを――。
激しく憎んでいた。
自分たちの置かれている、この過酷な状況は。
全て魔導師たちによってもたらされたものだったのだ。
「・・・・・・こんなことが・・・・・・」
星を捨てて逃げた祖先を軽蔑はしなかった。
それどころか、よく逃げ出してくれたと思った。
そうしなければ今の自分は存在しない。
宇宙をさまよい、ここに流れ着いた彼らのうち、その誰かが自分の遠い遠い親なのだ。
「こんなことが・・・・・・」
その戦争さえなければ――。
もっと言えば、魔導師さえいなければ――。
ムドラの民は飢えと寒さに苦しまずに住んだのだ。
(アンヴァークラウンにいる全ての人たちの苦痛は・・・・・・こいつらが・・・・・・!!)
そうだ。
そうとも。
自分たちが味わっている苦痛は、太古の魔導師に強いられたもの。
連中は今もきっと生きている。
ムドラの故郷を奪い取り、勢力を拡大してこの世界に蔓延っているに違いない。
シェイドは憎んだ。
体内を閃電が駆け巡った。
頭頂から指先まで、憎悪を食った閃電が、彼の体をまんべんなく焼き尽くした。

「奴らが憎いッッ!!」

プラーナが彼を飲み込んだ。
心地よい風が体内を吹き荒れた。
(奴らから全てを奪ってやる!)
彼は憎んだ。
(僕たちと同じ苦痛を味わわせてやるッ!)
彼は憤った。
(奴らを滅ぼすッッ!)
彼は恨んだ。
地が震えた気がした。
この感情は――。
彼がはじめて抱く負の感情は、彼がたった今打ち出した目的を達するまで決して消えることはない。
「シェイド、いないの?」
「・・・・・・!?」
母親の声だ。
買い付けから戻ってきたらしい。
シェイドは慌てて書物をキャビネットの下に押し込んだ。
「あ、母さん、お帰り。早かったね」
彼は一瞬で表情を変え、”セタスアリーの息子”の顔で迎え入れた。
「”下”はまた物価が上がったわね。これだけしか買えなかったわ」
セタスアリーが麻袋を見せた。
「仕方ないよ。どこも大変そうだから」
そう言うシェイドは世の中のことをよく知らない。
野菜類の買い付けはセタスアリーが行くから、彼自身はほとんど”下”に行くことはなかった。
「さて、と・・・・・・僕はちょっと外に出てくるよ」
シェイドは自分でも驚くくらい低い声で言った。
「あら? ソーマ君と約束でもしてるの?」
「ん? いいや、してないけど」
「そう・・・・・・」
セタスアリーはなぜか悲しげな目を彼に向けて、
「気をつけていってらっしゃい」
と静かに見送った。

 

 約束していない、というのは本当だった。
もうひとつ言うなら、外に出る理由もなかった。
ただ――。
この昂ぶった感情を吐き出す場所が欲しかった。
母親の手前、柔和に接したが彼の中で目覚めた激しい憎悪は一刻も早く外に出たがっている。
シェイドは蟻の巣のような岸壁から遠く離れた岩場に来た。
今日は気候が安定している。
ひらひらと雪が降っているが、震えがくるほどの寒さはない。
丘陵地を登った先に、直径10メートルほどの大岩がある。
長い年月をかけて地中から少しずつせり出して来たものらしい。
彼は無表情のまま大岩の前に立った。
「僕は・・・・・・」
そう、彼は――。
「奴らを滅ぼすッ!!」
叫ぶと同時にシェイドは右手をまっすぐに突き出した。
五指からアメジスト色の閃電が走った。
寒冷の大気を食い破るように伸びた稲妻は、眼前の大岩を粉々に打ち砕いた。
飛散したつぶてがシェイドの頬をかすめた。
わずかに出血した。
「・・・・・・・・・・・・」
彼は踵を返し、来た道をたどり始めた。
これだけの力があれば、本来チームを組んで狩っているヌも、彼ひとりで収獲できるに違いない。
しかし彼はそんなことに力を使わない。
もっと崇高な理念のため。
彼が抱く憎悪はますます強くなった。

 

 戻ってきたシェイドを迎えたのは、セタスアリーが作った温かいスープだった。
「どこ行ってたの?」
当然のごとく、彼女は問うてくる。
「プラーナの練習だよ。試してみたいのがあって」
と答える彼の口調は、もはやセタスアリーの知っているそれではなかった。
「ねえ、シェイド」
スープを流し込む息子に、彼女はおずおずと尋ねる。
「最近、ソーマ君とは遊んでないの?」
「えっ?」
友人の名を出されたシェイドは、驚いたように母親を見た。
ずいぶんと懐かしく感じた。
ソーマという名前。
最後のその単語を聞き、その人物と顔を合わせたのはいつだったろうか。
「母さん、急にどうしたの?」
シェイドは困惑する。
「ちょっと気になっただけよ。あなたが急に遠くに行ってしまったような気がしてね」
「あはは、どうしたのさ。今日の母さん、ちょっとヘンだよ」
シェイドは笑って見せたが、セタスアリーは真剣だった。
しかしその表情もすぐに戻り、
「そ、そうね! 母さん、どうかしてたわ」
と取り繕う。
しかし・・・・・・。
今、こうしてスープを口に運ぶ息子の仕草。
目つき、声、口調――。
そのどれもが彼女の知っている息子のものとは微妙に違っていた。
変化を読み取れるということは、ごく短期間で彼が変わってしまったということ。
それはソーマと遊んでいないことが原因ではないだろうか。
セタスアリーはそう考えていた。
この考えは半分正解で半分誤りだ。
目の前の息子はおいしそうにスープを飲んでいる。

 

 この日から明らかに彼は変わった。
セタスアリーがいる時は外でプラーナの腕を磨き、いない時はあの書物を繰り返し読んだ。
すでに諳(そら)んじる事ができるほど読んだ。
読むたびに彼の中で憎悪という魔物が肥大化していった。
肥大化した魔物はプラーナに形を変えて世界に放出される。
彼のプラーナは洗練されていた。
恐ろしいまでに完成された力。
滅ぼすべき魔導師を滅ぼすためだけに磨き上げられた超常的な能力。
この少年の放つ閃電は、何物も食い止めることができない。
もはや彼にすら止められないのだ。
すでに限界に達している力を、彼はさらに高みへと押し上げるべく修練に励んだ。
ある日――。
いつものようにプラーナの練習を終えて帰宅したシェイドを、セタスアリーが血相を変えて迎えた。
「ああ、帰ってきたのね!」
「どうしたの?」
彼は母親の前でだけは、”いつもの息子”を演じ続けた。
「大変なのよ!」
それは分かっている。
慌てふためく様子を見れば、何事かが起こっていると誰にでも想像がつく。
「ソーマ君が行方不明なの!」
「ええっ!?」
大仰に驚いたが、シェイドはその数秒の間にソーマが誰だったかを思い起こした。
ソーマ・・・・・・そうだ。彼だ。
よく洞窟探検をした。
あの、ソーマだ。
「なんで? どこで行方不明に?」
「分からないわ。昨夜遅くに家を出たきりだって――」
セタスアリーはおろおろとするばかりだった。
「シェイド、あなた何か知らない?」
「いや・・・・・・」
知っているハズがない。
もう彼とは何週間も会っていないのだ。
今となってはその声も思い出せるかどうか定かではない。
「捜索チームが編成されて今も探してるハズだけど・・・・・・」
くり抜かれた窓から外を見る。
かなり吹雪いている。
これ以上天候が悪くなれば捜索は一時中断となるかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・!!」
瞬間、シェイドは雷に打たれたような衝撃を覚えた。
彼が常に磨き上げてきたプラーナを自分自身が浴びているような強烈な痛み。
「ちょっと行ってくる!」
彼は言うよりも早く駆け出した。
「あ、シェイド!? どこいくの!?」
彼は走った。
「今出るのは危険よ!!」
母親の制止を振り切り、彼は走った。





走り続けた。
吹雪の中をとにかく駆けた。
「はぁ・・・はぁ・・・・・・」
寒さが刃となって彼を貫いていく。
彼は走るのをやめなかった。
忘れていた。
ずっと忘れていた。
復讐心だけに彩られ、彼は多くのことをずっと忘れてしまっていた。
「ソーマ・・・・・・!!」
どこをどう走ったのかは分からない。
途中で足がもつれて転んだ気がするが、彼はどうにかここにたどり着いた。
あの洞窟だ。
奥に光る宝がどうしても手に入らない、と嘆いていたことを思い出す。
何のてがかりもなかった。
ただ、ここだと感じた。
ソーマがいるとすれば・・・・・・。
ペールドット鉱石を持って来なかったことをシェイドは悔やまなかった。
洞窟内には光が差し込まないが、今の彼には光源がある。
彼は身をかがめながら、右手に発生させたプラーナの塊を手近な壁に放り投げた。
アメジスト色の光球は壁に吸い込まれるように付着すると、そのまま辺りを照らし続けた。
闇の中を進む折、彼はしばしばこれを繰り返した。
振り返るといくつもの光源が洞窟内をまんべんなく照らしていた。
寒さも暑さも感じない。
ただ黙々と進んでいく。
そして見た。
目の前の瓦礫。
部分的に崩落したその隙間に、見覚えのある姿。
「ソーマ・・・・・・!」
大声を上げようとして彼は慌てて口をつぐんだ。
その振動でさらに崩落が進むと思ったからだ。
彼は一瞬で気を落ち着け、ソーマの元へ急いだ。
鋼鉄並みの堅さと重さがありそうな瓦礫がソーマを押しつぶそうとしている。
シェイドは右手を軽く振って瓦礫を持ち上げ、虚空に広がる空洞に向けてそれをゆっくりと飛ばした。
2度、3度。
ソーマに乗りかかっていた瓦礫を取り除く。
「ソーマ・・・・・・」
今にも泣きそうな顔でシェイドは名を呼んだ。
もうすでに――。
よぎる最悪の展開を彼は振り払った。
「・・・・・・シェイド」
「・・・・・・!!」
聞こえた。
今たしかに聞こえた。
「ソーマ! 良かった・・・・・・」
額から流れる血をシェイドはそっと拭ってやった。
無事だったんだ。
シェイドは喜んだ。
だが喜ぶべき状態ではなかった。
風穴から空気がわずかに抜けるような、ヒューヒューという音が静かに響く。
「・・・・・・バカやっちまった・・・・・・・」
ソーマは焦点の定まらない目でシェイドを見た。
その声はもうほとんど声ではない。
「ソーマ・・・・・なんでこんな・・・・・・・・・・・・」
言いながらシェイドは彼に降り積もっている塵埃(じんあい)をひとつひとつ丁寧に取り払う。
自分よりもずいぶん体格のいい幼馴染は、
「最近、お前と・・・・・・顔合わせ・・・・・・なかっただろ・・・・・・」
今にも力尽きそうな弱々しい声で、
「おれ、さ・・・・・・なんか悪いことしたのかと・・・思って・・・・・・」
たった1人の友だちに、
「だからこれ・・・・・・お前に・・・仲・・・・・・」
行動の理由を述べた。
「ソーマ・・・・・・!!」
シェイドは泣いた。
衰弱している。
このままでは――。
「・・・やっと手に入・・・このザマだぜ・・・・・・お前にやる、よ・・・・・・」
もうほとんど聞き取れなかった。
ソーマは最後の力を振り絞り、手にしたそれをシェイドに押し付けた。
「・・・・・・・・・・・・」
こんなもののために。
この暗い洞窟の中で。
「ほんとにバカだよ・・・ソーマ・・・・・・」
シェイドは涙を拭うことも忘れて友立ちの名を呼んだ。
返事は返ってこなかった。
もう一度呼んだ。
返事は返ってこなかった。
「うわあああああああッッ・・・・・・!!」
彼は慟哭した。
これは――自分が引き起こしたこと。
自分の責任だ。
怖くなった。
悲しくなった。
悔しくなった。
シェイドはソーマから受け取ったそれを握り締めたまま、アメジスト色の光の中を走った。
呼吸するのも忘れて、肺が破れそうになるほど彼は走った。
洞窟を抜け、南へと。
捜索チームの本部がこの先の岩場にある。
彼はそこへと真っ直ぐに走り、くり抜かれた穴をさらに奥に進んだ。
ほのかな明かりの中、装備をした男たちが数名いた。
「なんだ! どうした!?」
青白い顔の少年が飛び込んできたことで、男たちは慌てて立ち上がった。
シェイドはその勢いのまま、眼前の男にしがみつく。
「ソーマ・・・・・・ソーマがッ!!」
彼はうわ言のように繰り返した。
「ソーマの居場所が分かったのか?」
男はシェイドの肩をつかんだ。
「北の洞窟! 丘を登ったところに!! 早くしないとソーマが・・・・・・!」
「分かった! きみ、案内してくれ!」
シェイドの様子にただならぬものを感じた捜索チームは、顔を見合わせるとすぐに立ち上がった。
昨夜から出されている捜索依頼、今はこの少年が唯一の手がかりなのだ。
シェイドは確かに動転していた。
だがそれと同じくらい、男たちも動転していた。
だから彼が右手に見慣れない物をしっかりと握っていることに誰も気付かなかった。
本人すらも無意識に。
その無意識のまま、シェイドは飛び出した。
すぐ後を男たちが追う。
1秒すら無駄にできない。
たった1秒が、ソーマの命をただちに奪い去ってしまうかもしれないのだ。
男たちも懸命に走った。
救助すべきはムドラの民。
未来ある若人を助ける義務が彼らにはあった。
吹雪はなおいっそう激しさを増していた。
まるで彼らの到達を妨げているようだ。
彼らは走った。
捜索チームの装備は重量があるため、次第に前を行くシェイドとの距離が広がっていく。
男たちは懸命に走った。
洞窟が見えた。
内部はシェイドが放ったプラーナがまだ照らしている。
「こっちです! 早くッ!!」
そう叫ぶ彼の顔は蒼白だった。
すでに正常な思考ができない状態だ。
考えることはひとつ。
ソーマを助けること。
彼が蔑ろにしてきた彼を――。
「ソーマ!!」
飛び込むようにシェイドは駆け、血にまみれた友を抱えた。
「捜索隊を連れて来たんだ。ソーマ・・・・・・」
狭所をかいくぐって捜索チームがなだれこんでくる。
「おい、こっちだ!」
「きみ、少し離れていなさい!」
仄暗い洞窟の中、救助活動が始まった。

 

 

 

 セタスアリーがいつものスープを出してきた。
シェイドはそれを放心状態のまま受け取る。
彼の目に映っているのは湯気を立てるスープでも、土色のテーブルでもない。
数時間前の光景だ。
「あなたのせいじゃないわ」
母親はそう言うのが精一杯だった。
陳腐な慰めだった。
その言葉すら耳に届いていない今、息子を本当の意味で慰めることはできないのかもしれない。
セタスアリーは水を一口飲んだ。
静寂の中、彼女は少し前の出来事を思い返した。
シェイドが捜索チームを連れて洞窟に戻った時、すでにソーマは息絶えていた。
多量の出血と、落下した岩盤によって肺を損傷したことが死因となったらしい。
医療チームからその事実を聞かされたシェイドは、あやうく気絶してしまうところだった。
ソーマの死。
彼にとっては親しい者の死は受け入れがたい現実。
耐え難い苦痛だった。
略式の葬儀を行った後、亡骸は土に埋められた。
「母さん・・・・・・」
光の宿らない目でシェイドは母を見た。
「――プラーナは何のためにあるんだい?」
「・・・・・・?」
「プラーナは・・・・・・?」
「生きるためにあるのよ」
セタスアリーは自信を持って言った。
「私たちムドラが生きていくために必要な力なのよ。”下”の人たちは忘れかけているかもしれないけれど。
でもムドラの民である以上、誰もが持っていなくては――」
「ウソだ」
シェイドは冷たく切り捨てた。
「生きていくためだって? だったらどうして・・・・・・ソーマは死んだっていうんだよ・・・・・・」
「それは・・・・・・」
「ソーマにだってプラーナはあった。もちろん僕にだって。でも、ソーマを救えなかった・・・・・・!」
「・・・・・・・・・・・・」
「プラーナが生きるために必要ならどうしてソーマは死んだんだよっ!!」
セタスアリーは答えられなかった。
まさかソーマにそれが足りなかったから、とは口が裂けても言えない。
「奴らが憎いよ、母さん」
シェイドの瞳に希望とは違う光が宿っているのを、セタスアリーはたしかに見た。
「ソーマを殺した奴らが憎い」
「シェイド? 奴らって誰なの?」
息子のただならない様子に、セタスアリーは惑った。
この言い方ではソーマは事故ではなく、誰かに殺されたことになる。
「どういうことなの!?」
彼女が声をあらげた時、シェイドはゆっくりと立ち上がり、
「疲れたよ。ごめん、今日はもう寝るね」
抑揚のない声でそれだけ言い残し、シェイドは自室へと消える。
「ちょっと待っ――」
呼び止めようとしたが、彼女は言葉を切った。
実際、シェイドは疲れているのだ。
あんな事があった後だから、錯乱状態に陥っているのかもしれないと。
精神が落ち着くまで休ませるべきだと、優しい母親はそう自分に言い聞かせた。





セタスアリーの想いとは裏腹に、今のシェイドは自分でも驚くほど落ち着いていた。
今はもうソーマの死について認識しているし受け入れてもいる。
それが現実なのだと彼は何度も何度も頭に叩き込んでいた。
「プラーナ・・・・・・」
彼は書物の記述を思い出した。
ムドラの民がもとより持っていた力。
母はそれを生きるための力だと言った。
間違いではない。
たしかに生きるために必須ではある。
が、死者を生き返らせる術ではないのだ。
この力は――。
今を生きている者がさらに生きられるように。
生の継続のためであり、死の巻き戻しはできない。
冷静になった彼が抱く感情は怒り、憎しみ。
今の自分たちを作り上げたのは魔導師。
彼らがかつてムドラを蹂躙しなければ、ソーマはあんな冷たい洞窟で死にはしなかった。
「なにもかも奴らがー―」
シェイドは憎悪を子守唄にして眠りについた。
今日ばかりは早めに寝ておく必要があるのだ。

 

 翌日、シェイドはいつもより1時間ほど早く起きた。
部屋を出たところで顔を合わせたセタスアリーはひどく驚いていた様子だったが、
「もう大丈夫だから心配しないで」
という息子の言葉と口調に、彼女は安堵のため息を漏らす。
その息子が麻袋を持っているのに気付いた彼女は、
「あら、どこかに出かけるの?」
答えが分かっている質問をする。
「うん、ちょっと気分転換にね。鬱々してても駄目だからね」
明るく答える。
昨夜とはあまりにも違いすぎる様子にセタスアリーは訝ったが、
「気をつけていってらっしゃい」
さほど気にも留めずに送り出した。
「うん、じゃあ行ってきます」
彼は悠然と洞穴を抜け出る。
「おはようさん。出かけるのか?」
近くの住人が声をかけてきた。
「ええ、ちょっと気晴らしに」
シェイドは社交辞令で返す。
住人はウンウンと頷いた後に声をひそめて、
「あんな事があったばかりで言うのもなんだが、気を落とすんじゃないぞ。俺たちだってつらい。
できることなら代わってやりたいくらいだよ」
そっと耳打ちした。
「あのやんちゃ坊主もお前さんには笑っていてほしいと思ってるハズさ」
「はい、ありがとうございます・・・・・・」
他人の気休めは何の慰めにもならない。
彼は適当に相槌を打ってやりすごすと、雪原を南に下って壁のように聳(そび)え立つ洞窟前に来た。
これは住居用の洞窟ではない。
中央に大きく開いた空洞と、八方に伸びる道。
この道はそれぞれ別の出口に繋がっている。
どの方角からでも入れるように掘り進めたものであろう。
重要なのは空洞の中央部。
シェイドが壁面の赤いボタンを押すと、ガコンという音とともに銀色の箱が姿を現す。
口を開く冷たい金属の箱に、彼はためらうことなく進んでいく。
今度は箱の内側からボタンを押す。
先ほどと同じように大きな音がして、口をゆっくりと閉じていく。
同時に照明がほのかに内部を照らす。
”上”と”下”とをつなぐリフトだ。
これが動く瞬間と止まる瞬間の、ちょっとした無重力感がシェイドは好きだった。
そのふたつの一瞬の時だけ、自分が別世界にいるような感覚を楽しめるからだ。
が、今はそんな精神的余裕はない。
1分、2分・・・・・・。
リフトは滑るように下っていく。
5分が経過したところでリフトは停止した。
開いた口から抜け出したシェイドは、久しぶりに見る”下”の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
”上”では感じることのできない土や植物の匂いがまじっている。
「・・・・・・・・・・・・」
彼は無言のまま歩を進める。
原始的な”上”とは違い、”下”の世界はしっかりと町という基盤を築いている。
悪天候とは無縁のためか、道も舗装されているし、光源も確保されている。
住む分にははるかに快適であろう。
(”上”に比べればマシだろうけど、誰だって満足はしてないハズだ・・・・・・)
シェイドは思った。
ここだって光が差さなければ肉もない。
家にいても外に出ても閉塞感に苛まれる。
つまり両者の生活にはそれぞれの不満があるのだ。
その不満が誰によってもたらされたものなのか。
シェイドはそれをムドラの民に滔々と語るのだ。

 

  戻る  SSページへ  進む