悪魔の招待状 ―― 結末 ――

 

 何度も何度も施錠してあるのを確かめたこなたは、ベッドに仰向けに倒れた。
毒舌家だが友達想いの一面もある彼女だが、今はそうした性質は片鱗すら見えない。
望むのはただひとつ。
――生だ。
ゆたかを除けば集まったのは彼女にとっては親しくても他人である。
日常からあまりにも乖離した現実を何度も見せつけられ、生物が持つごく基本的な本能――生存本能を呼び覚まされた恰好だ。
(かがみやつかさの事も気になるけど……)
気になるからといってみすみす部屋から飛び出せば、殺人鬼に命を差し出すようなものだ。
部屋に閉じこもり、しっかりと鍵をかけていれば犯人はドアからしか侵入できない。
これまでの犠牲者のように不意打ちを受けるリスクは回避できるのだ。
こなたはちらりと時計を見やった。
午後11時33分。
運命のゴールまであと半日に迫った。
彼女はふと考える。
犯人は明日の昼に迎えが来ることを知っているのだろうか。
もし知っているのなら、こなたにとってのゴールが12時間後であるのと同様、犯人にとっても殺しの機会は12時間しかないことになる。
となれば標的が船で逃げる前にかなり強引な手を使ってでもこなたを殺しに来る可能性は高い。
(だ、大丈夫だよね……鍵はかけてるし……それに……)
こなたはポケット越しに果物ナイフの感触を確かめた。
夕食の準備にと厨房に入った彼女は、密かに器具置き場から両手で覆えるサイズのナイフを1本、ポケットに忍ばせていた。
もちろん護身用だ。
今の今までこれを出さなかったのは、殺人犯の疑いをかけられるのを防ぐためだ。
いくら身を守るためだと主張しても、人を殺せる道具であるのには違いない。
「………………」
不気味なほどの静寂である。
緩急をつけた風が窓を遠慮がちに叩く以外には、物音ひとつしない。
来るなら来い。
こなたはドアを正面に見据えた。
相手が複数犯であっても、部屋に閉じこもっている限りは彼女に有利な点がある。
それは犯人がドアからしか入って来られないことだ。
最後の標的を囲い込もうにも、この狭い部屋の入り口で閊えてしまう。
その場しのぎとはいえ1対1の状況に持ち込めるのだ。
「…………」
彼女は恐怖に呑み込まれないように意識を強く持った。
どこかで小さな音がした。
重い物が倒れるような音だった。
神経を鋭敏にしている彼女はもちろんその音を聞き取っていた。
少なくとも廊下からではない。
それよりずっと遠くで、しかし確かに音はした。
(また罠…………?)
かがみの悲鳴、飛び出したみさおのように自分を誘い出す罠かもしれない。
今にして思えばインターフォンを押したのもゆたかではなく、犯人だったかもしれないのだ。
(そうだ……あの状態でゆーちゃんがボタンを押せるわけがないんだ。あれは、あれは……)
かがみだ、とこなたは反射的に確信した。
あの2人なら病弱なゆたかを殺害するのは容易い。
ましてや気を失っている相手となれば……つかさにもできただろう。
小刻みに左右に揺れるこなたの目は壁の時計を捉えた。
午前0時7分。
普段ならパソコンに向かってゲームに興じている時間帯だ。
しかし徹夜に慣れている彼女も、極度のストレスに晒され続ける状況では這い寄る睡魔に抗うことはできない。
「寝ちゃ駄目だ……寝たら……やられる……」
ほんの僅かでも油断すれば意識を失ってしまいそうになる。
こなたは病的なほどドアの鍵を何度も確かめた。
(犯人が分かってるんなら、こっちから乗り込んだほうが早いかも?)
だんだん自分がビクビクしていることが腹立たしくなり、彼女らしくない思考をし始める。
(私のほうから行ってやっつけちゃえば送迎船が来るまでゆっくり寝られるじゃん!)
もちろんあらゆる意味で余裕のない彼女にとって、”やっつける”とは犯人を殺すという意味である。
しかし果たして3人を相手に勝てるだろうか、という不安が付き纏う。
味方であれば心強いが、敵に回ると厄介なかがみとみさおがいる。
知人を躊躇いなく残虐な方法で殺す3人に比し、こちらは平凡な生活を送ってきた少女ひとりだ。
運動能力などまるで役に立たない。
体を動かすことが苦手なつかさにさえ、殺す側に回ることができるのだ。
有利不利を左右するのは数の問題だけではない。
部屋に閉じこもるこなたと違い、3人は館を自由に移動できるのだ。
例えば物置に刃物よりももっと殺傷能力の高い武器があったとしたら、彼女たちはそれを容易く手に入れることができる。
その気になればこのドアをぶち破ることだってできる。
(………………)
やはり分が悪い。
そう判断したこなたは全身に激しい疲労を覚え、ベッドに伏せった。
眠るつもりはない。
ただ少しだけ、ほんの少しだけ楽な姿勢で体を休めるだけだ。
そう何度も自分に言い聞かせていたこなただったが、柔らかい布団に体が沈みこむ心地よさにいつの間にか深い眠りについてしまった





 窓から差し込む陽光にこなたはゆっくりと顔を上げる。
やや曇ったガラスの向こうに淡い水色の空が見えた。
ベッドの上に座りなおした彼女は、3分の1ほどしか開いていない瞼をこすって時計を見た。
「ウソっ!?」
何度も目を瞬かせて2本の針が指し示す時刻を確認する。
午前8時13分。
何かの間違いかとポケットから携帯を取り出し、ディスプレイを開いた。
2分の誤差があったが、今が4日目の朝であることは間違いないらしかった。
「生きてる……生きてるっ!!」
飛び起きた彼女はベッドを跨いで窓の外を眺めた。
ここは天国ではない。
高良家の別荘が建っている島である。
その証拠に見覚えのある林が眼下に広がっている。
(かがみたちは私を殺せなかったんだ!!)
それを喜ぶべきかどうか、彼女は悩んだ。
脅威が去ったわけではない。
当然ながらこなたが生きているということは、犯人はまだ目的を達成していないということ。
五体満足で迎えの船に乗り込んだ時、彼女は初めて安堵のため息をつけるのである。
「………………?」
こなたは首を傾げた。
なぜ彼女たちは襲って来なかったのだろうという疑問が頭を擡(もた)げた。
少なくともみさおはこの部屋にこなたがいることを知っていたハズだし、向こうにすればもはや邪魔者はいない状況だ。
自分たちが人殺しであることを隠す必要もなく、この場合は堂々と最後の標的を抹殺に来てもおかしくない。
それをしなかった理由は何なのか、こなたは必死に考えようとした。
しかし4日目の朝まで自分が生きていることへの喜びが強く、深くものを考えることができない。
このまま部屋に閉じこもっていれば危険はないように思えるが、送迎船に乗るためにいずれは出なければならない。
彼女はそのタイミングを早めることにした。
今日の空にはほとんど雲がないため、室内は照明に頼らずとも明るい。
こなたはポケットからナイフを取り出し左手に構えた。
鍵を開け、音を立てないようにドアを押し開ける。
廊下はしんと静まり返っている。
生きているのはこの世界で自分ひとりなのではないかと思わせるくらいの静寂。
(………………)
不快な臭いが鼻を衝く。
ここに来て何度も嗅がされた血の臭いだ。
風の流れは殆どないのに、この不愉快な空気は廊下の奥から漂っているように感じられる。
「あッ…………!!」
無意識的に顔を背けたこなたは、廊下の向こうに倒れている人物を見て思わず声をあげた。
深夜と違って見通しのよい廊下は奥の奥まで見通せる。
四六時中ディスプレイに向かいながらもそこそこの視力を保っている彼女は、それが誰かすぐに分かった。
「かがみ…………」
それともうひとり。
「みさき……ち……?」
見間違うハズのない、見間違えようのない友人だった。
こなたの中で何かが音を立てて崩れた。
彼女の足は勝手に2人の方へと動いている。
一歩、一歩と慎重に。
もしかしたら彼女の脳はまだ疑念を払拭できていないのかもしれない。
死んだフリをしているのではないか。
近づいたところを2人がかりで押さえ込もうと待ち構えているのではないか。
どこかにつかさが潜んでいるのではないか。
あらゆる疑念がぐるぐると渦を巻き、こなたの頭は破裂しそうになった。
しかし歩みを止めないのはそれら疑念を拭い去るためかもしれない。
自分の目で確かめるために――。
こなたはナイフを突き出しながら、黒く変色したかがみのツインテールを指先でなぞった。
不愉快な感触が末端から中枢へと伝播する。
「………………!!」
数秒の後、彼女はようやく自覚した。
この2人が間違いなく死んでいる――殺されている――のを。
パティの一件のように生死が不明瞭なのではない。
直に触れ、死んでいるのを確かめたのだ。
「…………」
みさおは両手で腹部を押さえるようにして倒れていた。
彼女の手は赤とも黒ともつかない液体に濡れている。
「ひっ…………!!」
正面に回り込んだこなたは危うく尻もちをつきそうになった。
彼女を死に至らしめたのは腹部の刺し傷ではないようだ。
快活そうなショートカットの隙間から覗く黒い溝がある。
斬られたのか殴られたのか、みさおは額を割られていた。
「うっ…………」
強烈な吐き気を催し、こなたは踵を返して慌てて廊下の向こうへ走った。
かがみ・みさお共犯の説は消えた。
この説が真実なら衝撃の度合いは大きいものの、心のどこかでは割り切る準備をしていたこなたは、
2人の亡骸を見て考えを改めざるを得なくなった。
(じゃあ、つかさは本当に…………?)
かがみが悲鳴をあげて走り回っていた時、既につかさは絶命していたのではないか。
その推論の根拠となるのは、ここにある遺体のみだがそれでも充分過ぎた。
「つか、さ…………?」
好奇心ではない。
こなたはひとつの疑問に対する答えを得るため、足音を立てないようにかがみの部屋へ向かう。
ドアノブに手をかける。
少し力を加えただけで施錠されていないことはすぐに分かった。
隙間から不快な臭いが漂ってくる。
この時点で嗅覚は真実を嗅ぎ取ったが、生活の殆どを視覚に頼る生き物は念のためにドアをゆっくりと開いた。
「あ、ああ…………!!」
柊つかさがあった。
正面の壁にもたれ、手足をだらりと伸ばして座っていた。
傾げた首の辺りは赤黒く染まっており、そこからしたたり落ちた血液が粗相をしたように一帯を濡らしていた。
「ああ、つか……ああ…………ッッ!!」
彼女と目が合ったような錯覚に陥り、こなたは恐怖心からドアを叩きつけるように閉めた。
それからワケの分からない叫び声をあげ、左右の壁に体をぶつけながら廊下をひた走る。
ホールの階段を駆け下り、そのまま玄関扉に飛びつこうとしたこなたは、脇に転がっている人物を見て思わず足を止めた。
「どういう……こと…………?」
もはや彼女の呟きに答える者はいない。
階段と玄関扉の中間あたりにみゆきが倒れていた。
みさおと同じように腹部を黒く染めた彼女は、何かに驚いたように目をカッと見開いている。
「…………ッ!!」
吐きそうになるのを必死に抑える。
姿を消したハズのみゆきが、なぜこんな場所で死んでいるのか。
既に冷静さの欠片も残っていないこなたにはそうした疑問は浮かばない。
「………………?」
床には点々と血がついており、談話室の方にまで続いている。
みゆきが別の場所で刺され、ここまで逃げてきたが力尽きたのか。
それともこの血痕も犯人がこなたを撹乱させるために用意したものなのか。
「ゆーちゃん?」
不意にゆたかの事が気になり、こなたはみゆきの遺体を見ないようにして談話室に向かった。
もちろん彼女が息を引き取っているのはこなたも何度も確認している。
どんな奇跡が起ころうとも蘇りなどあり得ないことも分かっている。
みゆきのすぐ傍から続いている血の跡を辿るように、彼女はゆっくりゆっくりと歩む。
数いる他人の中で、唯一の身内の顔をもう一度見ておきたいと思ったのかもしれない。
そんな彼女が部屋に入って最初に見たのは、病弱な小早川ゆたかの姿ではなかった。
「みなみちゃん…………」
――岩崎みなみだった。
まるでゆたかに付き添うように、彼女はソファのすぐ前に倒れていた。
足下には血に塗れたナイフが2本転がっている。
仰向けに横たわるみなみの表情は安らかに逝ったように見えるが、こなたはそこに後悔の色を感じ取った。
これまでの遺体と違って苦悶の顔ではない。
しかし殺されたのであることは明白だ。
彼女もまた、腹部を刺されそこから夥しい量の血を噴き出していたからだ。
もはや涙すら涸れてしまったこなただが、その光景はぼんやりとしか捉えていない。
みゆきの遺体とみなみの遺体。
このふたつを繋ぐように続く血痕が何を意味しているのか。
すぐ傍に2本のナイフが落ちているのはなぜなのか。
今の彼女には思考できなかったし、そもそも思考しても無駄なのである。
(みなみちゃんも…………)
もう何もかも手遅れなのだ、とこなたは思った。
「分かった…………」
2人の後輩を呆然と見下ろしながら、彼女は呟いていた。
「分かったよ……」
もう一度。
彼女はそう口にするが、何が”分かった”のか自身もよく分かってはいない。
強いて挙げれば極度の疲労。
こなたは今、生き延びていることに喜びを感じてはいない。
むしろ苦痛。
自分たったひとりが生き延びてしまっている事への強い罪悪感。
多数の――今やもの言わぬ友人たちの犠牲の上に生きている後ろめたさ。
そして孤独感。
それら負の感情の起こりは既に襤褸切れの如くなる少女の精神をさらに無惨に引き裂くものであった。
「………………」
こなたは左手にしっかりとナイフを握りしめていることを思い出した。
一度も使われていないそれは、この館で幾度となく見た血塗れの刃と違って一点の曇りもない。
切っ先が窓から差し込む光を反射してギラリと輝く。
(やっぱりみんなの言うとおりだったんだ…………)
こなたは最期の光景を焼きつけようと、虚ろな瞳でぐるりと談話室を見まわした。
真犯人が無防備も同然の自分を殺そうとどこかから窺っているのかと思ったが、少なくとも彼女の視界には人影はなかった。
「なんでこんなことしたの……? ねえ……教えてよ。どんな理由があってこんなことしたのさ……?」
館は問いに静寂を返した。
「ゆーちゃんやみなみちゃんはともかく、かがみもつかさも……みさきちも峰岸さんも知り合ってそんなに経ってないでしょ?
なんでこんな酷いことができるの……?」
ぽたり、涙が零れる。
「パティ――パトリシアさん……」
彼女の脳裏に凶悪な殺人鬼の顔が浮かぶ。
第一の犠牲者であり、自分を除いて最後まで生き残っているであろう人物の顔が。
狂気に歪んだパトリシア・マーティンの残酷な一面が、こなたの記憶を塗り替えていく。
快活な少女から残忍な殺戮者へ。
「………………」
生と死の狭間に揺れ動くこなたは、この部屋のどこかにパティがいるような気がした。
気配を感じるのだ。
幾人分の返り血を浴びて身も心も真っ黒に染め上げたパトリシアの息遣いが聞こえるようだった。
しかし1分、2分と経つ時の中で彼女の聴覚を刺激するのは、時おり吹く強い風が窓ガラスを叩く音だけだった。
こなたは手にしたナイフの刃先を自分の喉に向けた。
彼女には戦う力など微塵も残されていない。
1対1の争いではもはやこなたに勝算はない。
残忍性、攻撃性――あらゆる面が狂気の殺人鬼に比して劣りすぎている。
悉く潰えたのは抗う気持ちだけではない。
生きる気力すら今は萎えてしまっていた。
あと数時間で迎えが来る、と分かっていても桟橋に向かう気にはなれなかった。
「………………」
パトリシア・マーティン。
わざわざ海を越えてやって来た彼女がこのような凶行に及んだ理由は何か。
こなたはもはやそんな推理はしない。
彼女にできるのはもう後悔くらいしかないのだ。
してもし足りない後悔である。
かがみを疑い、つかさを怪しみ、みさお、あやのを一度でも犯人と決めつけてしまったことを彼女はひどく悔いた。
あの時。
かがみが悲鳴を上げた時にすぐに飛び出していれば彼女を救えたかもしれない。
パティを止められたかもしれない。
「そう、だ…………」
みさおが飛び出した時、自分も一緒に行動していれば彼女の死を防げたのだ。
時間を遡ることなどできないが、もしできるならこなたは数時間前に戻りたいと思った。
少なくとも2人を救うことはできたのに、それをしなかった自分は2人を殺したようなものだ、と。
こなたは自らを罵った。
もっと早くパティの死の偽装を見破っていれば、もっと沢山の人を救えたハズだ。
みゆきも、ゆたかも、みなみも、ひよりも。
彼女の知っている彼女たちはもういない。
残忍な少女が奪い去ってしまったのだ。
狡猾にも第一の犠牲者を装って――。
弔いの意味でパティと対決するという選択肢もあるにはあった。
が、彼女の精神はそこへは永遠に辿り着かない。
欲しいのは安らぎ。
犯人を憎むよりも、8人の死者に近づきたいという想いが今、こなたにこうした行動を起こさせているのだ。
「………………」
眼下の刃先がぶるぶると震えている。
こなたはナイフを両手でしっかりと押さえ、天井を仰いだ。
それから静かに目を閉じ、深呼吸をひとつして――。
手にしたそれを力いっぱい喉に押し込んだ。
力の加減を誤って狙いが僅かに逸れ、刃は喉のやや右側を食い破った。
ごぼごぼと溢れ出す熱く滾る赤い液体に、彼女は激痛の中に安息を見た。
すぐに全身から力が抜け、小さな体躯は手から離れたナイフとほぼ同時に地に伏した。
(いま……行くから……ね…………)
うつ伏せに倒れたこなたは無意識的に顔を上げた。
(………………ッッ!?)
あっ、と声を上げようとしたが溢れ出る夥しい量の血液が声を奪った。
血と涙とでぼやける視界の中、彼女は確かに見た。
ソファの真下に、まるで隠すように横たえられたパティの亡骸を――。
しかしそれが何を意味するのかを考える間もなく、こなたの意識は忽ち遠退いていった――。

 

 

 

 

   

 

 

 

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