悪魔の招待状 ―― 3日目(2) ――

 

 午後5時44分。
談話室に向かう途中、こなたたちは見た。
正面玄関のすぐ横の壁――つまり階段を降りかけた彼女たちがまず視界に収める位置――に赤い線が走っている。
「さっきはなかったのに……」
ぽつり、とこなたが呟いた。
みさおが取り乱した時、真っ先に線の数を確かめに来たこなたは、間違いなく4本を数えていた。
となると犯人は全員が物置部屋にいた時にこの仕掛けを施したことになる。
「思ったんだけどさ」
みさおが口を開いた。
「殺すたびにここに印を残すんだろ? だったらずっとここにいればいいんじゃないか?」
「危ないと思います。犯人が何をするか――」
想像もつかない、とゆたかは言った。
ついに5人目の犠牲者が出た以上、もはや犯人はどこにいるのか、は問題ではなくなっている。
どこにでもいる、と思ったほうがよい。
「見たいんだ。犯人がどんな奴なのか」
しかし怯えるゆたかとは対照的に、みさおは拳を握り締めて天井を見上げた。
映るのは3本の赤い線。
ほぼ平行に引かれたそれらは、獰猛な野獣が鋭い爪で引っ掻いた跡のようにも見える。
”犯人が見たい”
そう言いきったみさおは、自分が助かることよりもあやのの仇打ちを念頭に置いているようだ。
最悪、刺し違えてでも復讐に走りかねない彼女に、
「危ないことはやめたほうが――」
こなたは弱々しい口調で諭した。
みさおは忠告を無視した。
「遅かったじゃない」
廊下に近いソファに座っていたかがみは、こなたたちの姿を認めるとゆっくりと立ち上がった。
「何してたの?」
かがみが挑むように訊いた。
だが答えたくないのか、みさおは倒れ込むようにソファに腰をおろした。
「何してたのよ?」
もう一度問う。
が、やはり彼女は答えようとしない。
「峰岸さんの弔いだよ」
こなたが代わりに答えた。
それ以上の説明はない。
単なる知人ならまだしも、幼い頃から一緒だった無二の親友を喪った人間なら、その死を目の当たりにしてとるべき行動は限られる。
無粋な質問を繰り返したかがみに、こなたは少しだけ苛立った。
「ふぅん……」
みさおの心情を慮って慰めの言葉ひとつでもかけてやるべき局面で、かがみは興味なさそうにそう呟く。
こなたは何か言おうと口を開きかけたが、ゆたかが蒼い顔をして座っているのに気付き、華奢な肩にそっと手をまわした。
「あともう少し……」
時計を見てつかさが言った。
18時間ほど生き延びれば迎えが来る。
かがみがつかさの手をギュッと握った。
一部からツンデレと称される彼女はツンどころか、敵愾心に満ちた目で3人を見ている。
談話室を取り巻く空気は妙だった。
彼女たちは明確に線引きをしていたわけではないが、明らかに2つのグループに分かれていたのだ。
こなた、ゆたか、みさおの3人と、かがみ、つかさの2人。
肩を寄せ合いまだ見ぬ殺戮者に備えるべき局面で、両グループは向かい合わせにソファに座っている。
そうしたのはかがみだった。
憔悴しきったみさおを気遣うようにこなた、ゆたかが彼女を真ん中に座らせた。
一方でかがみは常に視界に3人を捉えるようにしている。
つかさは姉への依存を強めてその手をしっかりと握りしめている。
20分が経った。
時刻は午後6時17分。
窓から差し込む陽光は徐々に輝きを失い、館内を照らすのは頼りない照明だけである。
「あの、お腹空きませんか……?」
眠そうな声でゆたかが言った。
もちろん全員が空腹を感じているが、人間は一食くらい抜いても死ぬことはない。
一時的とはいえ部屋を移動するくらいなら、空腹を我慢して夜が明けるのを待つ方が賢明ともいえる。
「そう、ね。まだ半日以上あるし、少しでもいいから食べておいたほうがいいかも」
かがみが少し考えてから言った。
彼女はつかさの手を引いて立ち上がり、小走りに厨房に向かおうとする。
「え? ちょっと待ってよ! みんなで動かないと危ないよ!」
こなたが慌てて立ち上がった。
かがみはその言葉に肩越しに振り返る。
「なにも心配ないわ」
一瞬だけ不気味な笑みを浮かべた彼女はすぐに真顔に戻ると、やはり足早に談話室を出て行った。
「2人じゃ危ないよ!」
キッカケを作ってしまった事に負い目を感じたらしいゆたかが、こなたの手を引っ張る。
「う、うん! みさきちも――」
うな垂れたみさおは自発的に動く気配を見せない。
こなたは強引に彼女の腕を掴んで立ち上がらせた。
ゆたかが後ろに回ってみさおの背中を支える。





少し遅れて厨房にやって来た3人は、つかさが冷蔵庫を漁っているのに気が付いた。
「使えそうな材料がほとんどないの」
庫内には肉類がかなりの量確保されていたが、彼女たちが欲しがっているのは食べ応えのある食材ではない。
定番となってしまった野菜サラダやスープ、それにパン程度でなければ食べる気にはなれない。
少し離れたところでかがみが戸棚に手を入れて何かをやっている。
「お姉ちゃん、何かあった?」
「缶詰……フルーツの缶詰くらいしかないわ」
憮然とした口調で言い、彼女は右手にいくつか持っていた缶詰を調理台に並べた。
「これとパンでいいんじゃない? 取り合わせがどうとか言ってらんないよ」
昼食をコロネ1個で済ませられるこなたは、品書きや分量には拘らないようである。
特に異論が出なかったため、5人はそのまま――かがみとつかさを最後尾にして――食堂に移動する。
ここでも彼女たちのポジションは変わらなかった。
まるで面談のように2人と3人が大きなテーブルに対峙する恰好で席につく。
こなたはパンを小さくちぎって齧り、すぐに皿の上に戻した。
かがみとつかさはパンには手をつけず、シロップに漬されたパイナップルを少しだけ食す。
「日下部先輩も少し食べたほうが……」
ゆたかがパンを半分に割って差し出した。
「いらない」
ほとんど聞き取れない声でみさおが拒む。
「でも……」
「いらねえっつってんだろ!」
突然の怒声にゆたかがびくりと体を震わせた。
「ご、ごめんなさい……」
親に叱責された時のようにゆたかは縮こまった。
「みさきち、今のは――」
「――ごめん……怒鳴ったりして悪かった」
こなたに窘められそうになったみさおはばつ悪そうに俯いた。
彼女は目の前のパンを鷲掴みにすると、ほんの数センチほどを噛み切った。
棘のあるやりとりを、かがみは冷やかに眺めていた。
「ふん」
小さく鼻を鳴らし、残り少なくなった缶詰を片づける。
かがみはまるで口とそれ以外の顔の部分が別々になったかのように、噛み応えのないフルーツを機械的に咀嚼し、
目だけは油断なく正面の3人を見据えている。
「茶番だわ」
かがみが呟いた。
「かがみ、いま何か言った?」
「別に……」
素っ気なく返すかがみは刺し貫くような目でこなたを見た。
彼女はその視線に堪らずよそを向く。
すると忘れかけていた告発文が目に留まり、こなたは軽い吐き気を覚えた。
ゆたかは俯き、時おり怯えたようにちらちらとみさおの顔を見ている。
彼女はそんなゆたかの視線に気付いていないのか、半分以上残ったパンを虚ろな目で眺めている。
「…………」
テーブルを挟んでこなたとかがみは何度か視線を交えた。
その度に目を逸らすのはいつもこなたのほうで、かがみはやはり監視するような見方を崩さない。
不気味な静寂の中に咀嚼音が響く。
結局、20分ほどかけた晩餐では会話らしい会話は殆ど交わされなかった。
みさおが無言で席を立ち、緩慢な動きで食堂を出て行った。
こなたとゆたかがその後を追う。
残された2人はすぐに談話室には向かわず、全員分の食器をひとかためにして厨房に運んだ。


 午後6時58分。
食器を洗い終えて談話室にやって来た柊姉妹は、こなたたちから遠いソファに腰をおろした。
誰も何も言わなかった。
ただ時計が規則正しく時を刻む音だけを聞いていた。
「もうちょっとの辛抱だね……」
こなたは呟いたが、ゆたかが小さく頷くだけで他の者からの反応はない。
元より返事を期待していなかった彼女は落ち着きなく手を開いたり閉じたりしている。
そんな一挙一動をかがみは凝視している。
「あ、あの柊先輩……どうかされたんですか……?」
泣きそうな顔のゆたかは、自分たちを射竦めるように見ているかがみに敢えて声をかけた。
しかし彼女はその問いかけを無視し、ちらりと時計を見やった。
午後6時30分。
どこからかノイズのような音が聞こえてきた。
こなたたちは慌てて辺りを見渡す。
初日の夜と同じように、耳障りな雑音はどこから発せられているのかは分からない。

 

『罪人たちよ……』

 

あの嗄れた声だった。
聞く者全てに恐怖を植え付けようとする低く、くぐもった声だ。

 

『汝の穢れた道を示せ。
泉こなた……日下部みさお……小早川ゆたか……柊かがみ……柊つかさ……。
我は天に成り代わり裁きを下すものである』

 

その声はひどくゆっくりと、こなたたちの脳に浸透させるかのようにハッキリと発音していた。
どさりと音がし、4人が音のしたほうを見るとゆたかが気を失って倒れていた。
「ゆーちゃんッッ!!」
こなたがゆたかを抱き起こす。
それを見ていたみさおが彼女の体を持ち上げ、空いているソファに横たえた。
「大丈夫……たぶん、どこも打ってない」
こなたが息を吐いた。
「誰なんだよ! 隠れてないで出てこい!!」
みさおが廊下の奥に向かって叫んだ。
血気に逸ってどこへともなく走り出しかねない様子に、こなたはみさおの腕をそっと掴んだ。
「もう演技はたくさんよ、白々しい」
かがみが立ち上がって言った。
「お、お姉ちゃんっ!!」
頬を伝う汗を拭いもしないで、つかさがかがみの手を取った。
彼女はそれを乱暴に振り払う。
「どういう……こと……?」
こなたが掠れた声で訊いた。
「全部分かってんのよ! 何もかもね!」
目をつり上げたかがみは振りほどいたばかりの妹の手をしっかりと握り直し、摺り足で壁際に移動した。
「ずいぶん手の込んだことやるじゃない」
つかさを庇うように一歩前に出、みさおを睥睨する。
睨まれた彼女はしばらくして漸く先ほどの発言が自分に向けられたものだと気付いた。
「日下部、あんたなんだろ? 全部あんたなんだろ?」
「やめてよ、お姉ちゃん!」
「つかさは黙ってて!」
みさおは事態が呑み込めず視線を彷徨わせている。
「かがみ……なに言ってるの?」
憐れむような目を向けるこなた。
「あんたしか考えられないのよ。私、この島に来てからずっと見てたから間違いないわ」
何が”間違いない”のか、かがみは確信したように何度も頷いた。
「パトリシアさんを殺せるのも、田村さんや岩崎さんを殺せるのも、みゆきを殺せるのもあんただけなのよ!」
最後はヒステリックに叫ぶ。
こなたは何か言いかけた口を閉じ、悔しそうに唇を噛んだ。
「なにワケの分からないこと言ってんだよ? 私が人殺しだって言いたいのか?」
嫌疑をかけられたみさおは驚くほど静かな口調で問うた。
普段とのギャップにかがみは一瞬たじろいだが、すぐに先ほどの攻勢を取り戻し、
「そうよ」
威圧されてたまるものかとハッキリと通る声で答えた。
「それなら柊だってアメリカちゃんを殺せたハズだろ。あいつのことは全員が犯人じゃないって言い切れないだろ?」
「………………」
「妹も――チビッ子だってそうだ」
「私じゃないよ!」
反射的にこなたが反駁する。
「分かってるって」
かがみは舌打ちしてみさおを睨みつけた。
「そう……ね。確かにそうだわ。誰でもパトリシアさんを殺せたわね」
「言わなくても分かることだろ。ヘンな言いがかりつけんなよ」
こなたが小さく頷いた。
しかしかがみは腰に手を当てて強気の姿勢を崩さない。
「でも田村さんの場合はどうなのよ? 前にも言ったけどAグループにしかできないのよ?」
口調こそ好戦的だが、かがみはじりじりと退き、こなたたちとの距離を分からない程度に空けた。
「あの時、私たちは館の周辺を調べてた。あんたたち、約束の時間にもなってないのにすぐ戻ってきたわよね?」
どうだ、と言わんばかりに彼女は首を反らせた。
「あれはどう説明すんのよ?」
「………………」
「あれは……あやのが……」
予定にない行動の理由はあやのが見つけたという隠し通路をいち早く確かめたかったからだが、
そのことが今、かがみに追及の種を与える結果となってしまった。
「みゆきと岩崎さんを気絶させて、その隙に田村さんを殺した――そうよね?」
かがみは常に断定口調だった。
もしかしたら違うかもしれない、自分の推理には誤りがあるかもしれない、とは微塵も考えていないようだ。
「かがみ」
こなたが低い声で名を呼んだ。
「みなみちゃんの件はどうなるの? 私もみさきちもずっと談話室にいたんだよ?」
「そんなもの口裏を合わせれば済むことよ」
「な――――!?」
「私は何も日下部だけが犯人だって言った覚えはないわよ? 日下部にできるのは全員を殺すことなんだから。
人殺しは1人かもしれないけど、犯人は複数なのよ。そうでしょ――こなた?」
威圧的なかがみの視線にこなたは身震いした。
数瞬遅れて言葉の意味を理解した彼女は取り繕うような笑みを浮かべた。
「ちょ……どういう意味なのさ?」
「分かってるくせに」
「………………」
「あんたさ、昨日もそうだったけどさっきからやたらと日下部のこと庇ってるわよね? なんで?」
「”なんで”って決まってるじゃん! みさきちはそんなことしないからだよ!」
「ふぅん……こなたぁ、ずいぶん日下部のことよく知ってるみたいね?」
「何が言いたいの?」
「そんなに仲良かったっけ?」
「………………」
かがみは今度は一歩前に進み出た。
「お姉ちゃん、ヘンなこと言うのやめてよ! ケンカは駄目だよ!」
それまで黙って見ていたつかさは、両者の発言が止まった隙を見計らって口を挟んだ。
「ケンカ? ケンカなら仲直りすれば済むけど殺されたら終わりなのよ!?」
つかさに対しては怒鳴ったことのないかがみは、ここばかりはと勢い込んだ。
彼女はすぐにこなたたちに向きなおり、
「グループに分かれた時も、昨日の夜も、昼間に海を見に行くって出かけた時も……あんたたちはずっと一緒だったわ」
再び推理を披露し始めた。
「昨夜、交代で見張りをやるつもりだったって話じゃない。最初が日下部で次がこなた? ふん、ここでも一緒よね。
まあ、今となったらそもそも見張りの件自体が本当かどうか怪しいところだけど?
あんたたちはね、いつも2人で行動してるのよ。気持ち悪いくらいにね」
「………………」
「みゆきを殴り倒すなりしてどこかに運び出すのも2人ならできるでしょ? 誰も気づかなかったって――。
そりゃそうよね。そっちで口裏合わせられたらそれを信じるしかないからね」
かがみは攻撃の手を緩めない。
「そんなの柊の想像でしかないだろ? 私とチビッ子が一緒に行動してたからって疑う理由になるかよ。
だったらそっちだって、ずっと妹と一緒にいただろ。それはどうすんだ?」
「当たり前じゃない、双子なんだから。一緒にいて当然でしょ? あんたたちは他人同士なのに一緒に行動してるのが不可解なのよ」
「別に誰と行動したって関係ねえよ。だいたい単独行動するべきじゃないって柊も賛成したじゃんか」
「だから私はつかさの傍にいたのよ。誰が犯人かも分からないのに離れ離れになるのは怖いからね」
「ちょっと待ってよ。それじゃかがみは最初から私たちの誰かが人殺しだって思ってたの?」
こなたが僅かに声を荒らげた。
かがみは少しだけ考えてから、
「――途中からね」
こなたの言をほんの少し訂正して頷いた。
「じゃあ告発文は? あんな難しい文章、みさきちに書けると思う?」
「チビッ子……もしかしなくてもバカにしてるよな……?」
みさおは一瞬だけ鋭い目つきでこなたを見たが、切り口はどうあれ自分を庇っての発言だと気付いた彼女は、
敢えてその点は追及しなかった。
「日下部には無理でもあんたならできるんじゃない?」
かがみは今度はこなたを標的に選んだ。
「”憂鬱”とかずいぶん難しい漢字書いてたじゃないの。あの文章だってどうせアニメか何かの引用なんだろ?」
彼女は自分の推理に絶対の自信を持っているようで、2人がどんなにその推理の穴を衝こうとも、
半ば自分自身を納得させるように後付けを行っていく。
初めこそ姉の暴言ぶりを諌めようとしていたつかさだったが、彼女が言葉に言葉を重ねていくのを見ているうち、
遂に仲裁する素振りすら見せなくなり、疑うような目でこなたたちを見るようになる。
「マジでそういう風に考えてんのかよ?」
というみさおの問いに、
「そうとしか考えられないわよ。それだと辻褄が合うんだから」
かがみは躊躇うことなく頷いた。
こなたはソファの背に手をついて小さくため息をついた。
しばらくそうしてから彼女はゆっくりと顔を上げ、敵意を向けているかがみを正面から見据える。
「かがみ……大事なこと忘れてるよ」
「なにがよ?」
持論に欠点があると言われたようで、かがみは俄かに厳しい顔つきになる。
彼女にとってつかさやこなたに異を唱えられるのは耐えがたい屈辱である。
「峰岸さんのこと――」
こなたはちらっとみさおを見てから言った。
みさおの心情を慮ったこなたは、敢えてその先は言わなかった。
英邁な彼女なら最後まで聞かずとも、
”みさおがあやのを手にかけるわけがない”
と読み取れるハズである。
「…………………」
表情を曇らせたのはかがみではなくみさおのほうだった。
重苦しい沈黙が場を支配する。
つかさは不安げに姉とこなたを交互に見た。
その姉は愛しい妹の手をさらに強く握った。
「どうだか……」
たっぷり30秒は間を空けた後、かがみはこの沈黙こそが最大限の効果を発揮すると確信したように言った。
彼女にもはや迷いはない。
この才媛はこなたやみさおからのあらゆる反駁を予想し、それを覆した上でのさらなる追及を用意しているようだった。
「トイレに行った時、峰岸といたのは日下部――あんただけよ。それくらい憶えてるわよね?
油断している峰岸を殺して物置に運んでから、戻ってきて気絶したフリ――くらいできるでしょ?」
淡々と述べるかがみに、こなたは唇を噛んだ。
「みさきちがそんな事するわけないじゃん! もっと落ち着いて考えてよ!」
「私は冷静よ。つかさもね」
「なんで峰岸さんを殺す必要があるのさ!? みさきちに……みさきちにそんなことする理由ないでしょ!!」
こなたは自分のことのように顔を真っ赤にして怒鳴った。
しかしその反応が却ってかがみに付け入る隙を与える。
「そうやって必死になって庇うのもまた怪しいわよ、こなた?」
否定するならみさお自身がすべきだ、と言わんばかりに挑戦的な態度に出る。
それに、と彼女は続けた。
「日下部が峰岸を殺すハズがない――そう言いたいんでしょ? でもね……。
悪いけどそう言い切れる根拠なんかどこにもないのよ」
「なんだと……?」
みさおがピクリと眉をつりあげた。
彼女はかがみにも負けないほど鋭い目つきで睥睨した。
「むしろ峰岸を殺すことで、さっきこなたが言ったみたいに自分が犯人じゃないってアピールもできるんだから」
「かがみ……どういうつもりなの? みさきちが……みさきちじゃなくても私たちの誰かが人を殺したりすると思ってんの?
誰がそんな――どんな理由があってそんなことすると思う!?」
「思う思わないは関係ないわ。現に何人も殺されてるのよ? 人殺しの考えてることなんて理解できないし、したくもない。
私は冷静に見て日下部が犯人で、あんたが共謀してるとしか考えられないって言ってんのよ」
「いい加減にしてよ! ……つかさは? つかさもそんな風に思ってるの?」
こなたは縋るような目でつかさを見た。
かがみの後ろに隠れていた彼女はびくりと体を震わせ、怯えたような目でこなたを見返している。
苛烈な追及を姉に任せた妹はその問いには答えなかった。
「認めなさいよ。あんたたちがやったんだろ?」
つかさを守るようにかがみが身を乗り出した。
「みさきちが峰岸さんをあんな風にするハズないでしょ? 冷静に考えてよ」
対するこなたはあくまでみさおの庇護に徹する。
「あんたたち3人はグルだったのよ。グループ分けもうまくそうなるように誘導したんでしょ?
3人でパトリシアさんを殺して、田村さんを殺して、岩崎さんとみゆきの死体を隠したのよ。
最後に峰岸を殺したのは――はじめからそのつもりだったんじゃないの、日下部?」
みさおは拳を握り締めた。
「そんな事する理由がある!? 2人が仲良いの、かがみだって知ってるでしょっ!?」
「どうかしらね」
感情的なこなたに比し、かがみは冷静になる場面と声を荒らげる場面とを巧みに使い分けているようである。 
「幼馴染みってだけでしょ? 表面上は仲良しを装ってたけど、本当はお兄さんを奪られて悔しかったんじゃないの?」
「…………ッ!!」
「女の嫉妬は怖いって言うしね」
その言葉が引き金となった。
それまで屈辱に耐えていたみさおは、弾かれたように地を蹴ってかがみに飛びかかった。
「もう我慢できねえっ!!」
憎悪を剥きだしにして迫るみさおに、かがみは反射的につかさを突き飛ばして構えた。
風を切るような音がし、赤が飛び散り、みさおが後ずさる。
「来るな!!」
つかさの真正面に立ったかがみは――。
左手に果物ナイフを持っていた。
その先端が僅かに濡れている。
「そうやって頭に血が昇って殺したんでしょ? 今度は!? 今度は私たちを殺すのか!?」
みさおは驚愕の表情でかがみを見た。
押さえた手頸から赤い液体が一筋流れ落ちた。
「みさきちっ!?」
こなたが慌てて駆け寄ったが、みさおは乱暴に振り払った。
「厨房から持って来てよかったわ。どう? これならあんたたちも下手に手出しできないだろ?」
呼吸を整えながらかがみが言う。
「………………」
「………………」
「――見損なったぜ、柊」
みさおは自分の手が赤く染まっているのを認め、
「お前がそんな奴だとは思わなかった……!!」
冷やかな視線を叩きつけると談話室を出て行った。
「ほら見なさいよ! 自分は殺されないからそうやって独りで行動できるんでしょ!? この人殺し! あんたが――」
「かがみっ!!」
呆気にとられたようにかがみはこなたを見下ろした。
「私も……見損なったよ。あんなこと言うなんて」
「それはこっちの台詞よ。来るなら来なさいよ! もう隠れてこそこそする必要ないだろ!?」
「………………!!」
こなたは真っ赤になった眼でかがみを睨みつけると、みさおの後を追った。

 

 

 ホールの階段を駆け上がったこなたは、東側の廊下にみさおの影を見つけた。
「ちょっと待って!」
その声を無視するようにみさおは自分の部屋のドアを開け、中に入ろうとする。
「待ってよ!」
閉じかけたドアの隙間に身を滑り込ませ、すぐに施錠する。
みさおは何も言わずにベッドに腰をおろした。
何者をも寄せ付けない空気が今の彼女を取り巻いている。
こなたはドアに背を預け、憔悴しきっているみさおを見た。
近づき難い雰囲気が漂う。
「…………」
こなたは困ったように視線を彷徨わせていたが、みさおの手頸の出血に気付くと慌てて駆け寄った。
ポケットからハンカチを取り出し、包帯代わりに強く巻きつける。
みさおが一瞬だけ顔を歪めた。
「とりあえずこれで止まると思うけど」
みさおが得意の運動能力で咄嗟に避けたために、かがみが振り上げたナイフの刃先は僅かにしか触れなかったようである。
おかげで傷は浅くて済んだが裂傷の範囲が広く、水色のハンカチはすぐに赤に染まった。
キャビネット上の置時計が微かな音を立てて時を刻む。
狂いなく動く3本の針は午後7時33分を示していた。
「チビッ子……」
静寂の中、みさおが不意に口を開いた。
こなたはゆっくりと顔をあげた。
「さっきは……ありがとな。柊の奴に言ってくれて」
快活な彼女からは考えられないほどの弱々しい口調だった。
あやのを喪った今のみさおからは覇気は全く感じられない。
「黙ってられなくてさ。峰岸さんがその……あんな……ことになってみさきちも辛いのに……」
「…………」
「私だって辛いよ、もちろん。だけどかがみがまさかあんなこと言うなんて――」
こなたは慎重に言葉を選んだ。
語彙に乏しい彼女は平易な表現でしか気持ちを表せない。
しかしこの状況では稚拙な物言いでも構わなかった。
精神を寸襤褸にされているみさおは、もはや一言一句に過敏になるべき段階を超えてしまっている。
「なんて言ったらいいんだよ――」
「え…………?」
「兄貴に……兄貴に顔向けできねえよ……!!」
嗚咽混じりにみさおが呟いた。
「みさきち……」
彼女は涙してはいなかった。
かがみに冷たくあしらわれてあやのに泣きつく時の彼女は涙目になっていたが、
真に悲しい時には身体は落涙することを赦さない。
ここが。この館全体が殺人事件の現場であり、自分がその中にいるからだ。
精神面を発達させてきた人間にも、食う食われるの時代を生き抜いてきた動物本来の性質は残っている。
特に生命の危機に直面した時にはそれが最大限に発揮され、理性や観念を超越した行動を可能にするのである。
即ち涙を流さない――流せない――のは身を守るための重要な手段。
涙によって視界が遮られ、外敵からの不意打ちを受けるのを避けるためだ。
加えて情動によって一時的に意識を喪失し、警戒が疎かになるのを防ぐ意味もある。
彼女には後者の効果は表れなかったが、しかし生を捨てたわけではない。
「罪、か……」
みさおは目を細めて言った。
「そうかもしんねえな。あの告発……そのとおりだよな……」
その呟きにこなたは驚いたように彼女の顔を見た。
「みさきち」
妙にしっかりした口調で呼びかける。
「その……本当なの? 嫉妬してたっていうのは……」
先ほどのみさおの呟きはこの意味以外に捉えようがない。
この問いかけはあまりに無神経ではあるが、今のみさおは怒ることすら忘れてしまっている。
「分からない。あやのも兄貴も好きだから2人が結ばれるんなら祝って当然――ってのはあるんだ」
でも、とみさおは続ける。
「嫉妬……か……小さい頃からずっと兄貴と一緒だったから、奪られるって感じはあったかもしんねえな。
別に兄貴を恋愛対象とか見てるわけじゃないけど、いつかあやのを恋敵みたいに見ちまったことが――」
そこで言葉を切る。
もちろんその後には”あった”と続くハズだが、みさおにそこまで言い切る度胸もなければ、こなたにその先を訊ねる無神経さもない。
「あの告発を聞いたときはショックだったぜ。あん時は私も認めたくないって頭で否定してたけどさ……。
後で考えたらそうなんだよ。誰が書いたか知らないけどさ……そのとおりなんだよ……!!」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「じゃあみさきちも当たってたんだね……」
寂しそうにこなたが言う。
「そういやチビッ子のお母さん、亡くなったんだよな?」
言ってからみさおがばつ悪そうに俯いた。
「うん……」
「悪りぃ……」
「いいよ、気にしてない」
「………………」
「あれ、誰が書いたのかな?」
「誰って……私たちのこと知ってる奴だろ?」
「それが誰かってことだよ」
こなたは少しだけ強い口調で返した。
「私のことも、みさきちのことも事実を書いてた……」
「私は認めたくねえけどな」
「なにを?」
「書いてあるのが”事実”だってこと」
「でも実際――」
「あやのが兄貴以外と交わってたなんて思いたくねえよ!!」
みさおが拳をベッドに叩きつけた。
「あやのが……あやのがそんな事するわけない…………」
怒りと悲しみが綯い交ぜになった顔で彼女は壁の一転を凝視した。
こなたはどうしていいか分からず落ち着きなく視線を揺らす。
その時、インターフォンが鳴った。
「…………ッッ!?」
突然の音に2人は思わず抱き合う。
数秒おいてもう一度、さらに一度、二度と間隔をおいて呼び出し音が鳴り響く。
「な、なんだ!? なんだ!?」
みさおがぱっと立ち上がった。
「警察か!?」
「通報もしてないのに来るわけないじゃん!」
「じゃあ誰なんだよ!! いったい誰が――!!」
みさおは口を噤んだ。
互いに顔を見合わせ、互いの見解が一致していることを確かめあう。
「犯人だ」
「きっと罠だよ」
言葉こそ噛み合わなかったが、意味するところは寸分の狂いもない。
これまで暗殺者として振る舞ってきた殺人鬼が、ついにアプローチをかけてきたのだ。
「行くの?」
と問うあたり、こなたはこの後の行動をみさおに任せるつもりのようだ。
再び呼び出し音が鳴る。
みさおはすぐには返事をしなかったが、
「今なら捕まえられるかもしれない。誘いに乗ったフリして逆にやってやる」
自らを鼓舞するように宣言した。
その答えを予想していたらしいこなたは複雑な表情を浮かべた後、頷く代わりにベッド上にあったモップの柄を握りしめた。
「……頼りにしてるぜ」
自身も武器を構え、みさおがゆっくりとドアを開けた。
既に陽は沈み、廊下は数メートル先が闇で覆われるほど薄暗くなっている。
この館の照明は元々強いほうではなかったが、今は惨殺現場の渦中ということもあり暗闇はその濃度を増しているように感じられた。
一歩進むごとに床が軋む。
「チビッ子って格闘技やってたんだってな?」
上ずった声でみさおが言った。
「お父さんに言われて嫌々やってただけだよ……」
「でも有段者なんだろ? だったらチビッ子が先頭を歩いたほうがいいな」
「いやいや昔の話だし! 今も現役で体鍛えてるみさきちのほうが絶対頼りになるって!」
遠慮深い2人は互いに先頭を譲り合った。
結局折り合わず、不平等がないように横に並ぶことになる。
エントランスの階段にさしかかったところで再びインターフォンが鳴った。
自分たちの足音以外何も聞こえない闇の中、不気味に響く呼び出し音に2人は震え上がった。
「チビッ子……ビビりすぎだぜ?」
「み、みさきちこそ……」
肩を密着させて一段一段、確かめるように降りる。
足音をさせないように降りているハズなのに、床は2人分の重みに小さく悲鳴をあげた。
「…………」
扉の前に立つ。
互いに視線を交わし軽く頷く。
みさおがバッティングの要領でモップの柄を水平に構えた。
こなたが扉を開け、犯人が襲い掛かってきたところを殴打する手筈になっていた。
「……開けるよ?」
「おう」
ごくりと唾を飲み込む音がホールに響く。
こなたはノブに手をかけ、肩越しに振り返る。
みさおが頷いた。
ほんお数瞬の間を開け、こなたは勢いよく扉を開けた。
「うりゃああぁぁぁっっ!!」
外界の薄闇が覗いた瞬間、みさおが渾身の力で武器を振り切った。
「あ……あれ……?」
しかし完全に犯人の虚を衝いたと思われた攻撃は空を切り、彼女はふらつく足に力を込めて踏みとどまる。
誰もいなかった。
殺人鬼が襲いかかってくるものと思っていた2人は呆気にとられて開かれた扉を見つめていた。
「どこかに隠れてるんだ」
2人は死角から狙われないように数歩下がった。
数分、息を殺して待つが変化はなく、風の音しか聞こえない。
「ちょっと見てみる。ついて来てくれ」
言うなりみさおがモップの柄を振りかぶって外に飛び出した。
こなたも慌ててその後に続く。
見通しのよい館外には犯人の姿はなかった。
が、インターフォンを鳴らしていた人物はそこにいた。
扉のすぐ横。
血塗れになってうつ伏せに倒れていたのは――ゆたかだった。
「ウソ…………?」
彼女は左手を伸ばして何かに縋りつくような格好で倒れていた。
「ゆーちゃん……なんで…………」
刃物で一突きにされたらしいゆたかは、背中を黒く染めている。
彼女を刺したハズの凶器はどこにも見当たらない。
「――チビッ子」
みさおが目配せした。
こなたは力なく頷くと、ゆたかの亡骸を抱えて引き摺るようにホールへ運んだ。
その間、みさおは武器を構えて辺りを警戒した。





玄関扉を施錠したのを確かめ、みさおが息を吐く。
こなたはソファに横たえたゆたかの頭を撫でていた。
ホール右側の壁には真新しい赤色の線が1本加わっている。
「さっきのベルはおチビちゃんだったのか……」
外の様子を窺っていたみさおは、インターフォンの押しボタンに血が付いていたのを見ていた。
この事からゆたかが何らかの理由で館の外に出て犯人に襲われた後、助けを求めるためにベルを鳴らしたと考えられる。
しかしこの考えを前提にするなら、そもそも彼女が外にいた理由を説明しなければならない。
「もっと早く扉を開けてたら……ゆーちゃん、助かったのかな……」
こなたがぼそりと呟く。
「分からない……」
みさおはかぶりを振った。
「私のせいだ! 私がゆーちゃんを置き去りにしたから……! だからこんな……こんな…………!!」
こなたは肩を震わせてソファにしがみ付いた。
その様をみさおは黙って見守り続けた。
「ごめんね、ゆーちゃん……ごめんね……ごめ……ん…………」
別のソファにかけてあったシーツを引っ張り、みさおがゆたかの上にそっと被せた。
もともと血色の良くなかった彼女の顔は、大量の出血の後で透き通るような白色に変わっていた。
後ろから刺されたため、顔にはまったく損傷を負っていないのがせめてもの救いだった。
「私のせいで……」
こなたは何度も何度も自分を責めた。
「違う、私のせいだ……私が飛び出したからチビッ子が追いかけてきて、それで…………!」
かがみに斬られた時、冷静さを完全に失っていたみさおは、自分の軽率さがこの事態を招いたのだと悔いた。
「チビッ子……」
親しい者を喪った悲しみを知っているみさおは、こなたの横に跪いてそっとその肩に手を回した。
怒りに狂ったみさおと違い、こなたはいくらか冷静であったようだ。
子供のように嗚咽まじりの泣き声をあげ続けた彼女は、やがてすっくと立ち上がった。
これまでの犠牲者と違い、仰向けに寝かされたゆたかには外傷が見えない。
彼女はただ深い眠りに――寝息も聞こえないような――ついているだけで、ある時ひょっこり目を覚ますのではないか?
そう思わせるほど綺麗な死に顔だった。
「ごめんね、ゆーちゃん……」
何度目かの謝罪の後、こなたは陽炎のようにゆらりと立ち上がった。
「ごめん、もう大丈夫だから」
ふらつく身を支えたみさおに礼を言ってから、彼女はぐっと拳を握りしめる。
「どうする? 部屋に戻るか? もうちょっとここにいるか?」
囁くようにみさおが問う。
「ううん、いいよ。うん、部屋に戻ろう……」
こなたは涙を拭って答えた。
悲嘆に暮れるのは人間として当然の行動だが、それをするのは今でなくともよい。
死んでしまえば弔いもできなくなるし、今度は自分の死を悼む人がいるかどうかも分からない。
2人は念のためにこなたの部屋に籠もることにした。
「ゆーちゃん…………」
ベッドに身を預けたこなたは再びその名を呟いた。
慟哭するでもなく、喚き散らすでもなく、彼女は極めて冷静だった。
「おチビちゃん、柊たちと一緒じゃなかったのか……?」
何気なく呟いたみさおに、こなたは弾かれたように顔をあげた。
「かがみだ…………!!」
「…………?」
「かがみだよ! かがみとつかさなんだよ!!」
「お、おい、落ち着けって! そんな連呼しなくても聞いてるよ」
立ち上がったこなたは悔しそうに体を震わせていた。
彼女は全てを悟ったような顔でみさおを見つめている。
かがみとのいざこざの後、2人が部屋に引き揚げていた30分ほどの間にゆたかは殺害されている。
彼女を置き去りにして怒ったみさおを追いかけたのは明らかにこなたのミスだが、あの場では気を失ったゆたかの傍に、
かがみとつかさがいたハズである。
そこから導き出される結論はあまりに簡明だ。
「ゆーちゃんを殺したのは……あの2人なんだよ……!!」
「まさか…………?」
みさおは苦笑いを浮かべた。
ここでこなたの推察を一蹴することもできたが、彼女の真剣な口調がそれを許さなかった。
「だって背中を刺されてたんだよ? かがみが持ってたナイフに決まってるじゃん!」
「そうかもしんねえけど、柊とは限らないだろ? ナイフなんて厨房に何本もあるし」
それに、とみさおはすぐに付け足した。
「あの2人に眼鏡ちゃんや絵描きちゃんを殺せないだろ?」
「それは…………」
みさおにしては珍しく的確で素早い切り返しだった。
だがみゆきやひよりを殺さなかったからといって、ゆたかを殺さなかったことにはならない。
「でもそれだけじゃないんだ」
こなたはすぐに口を開いた。
「思い出したんだ。今日の夕方……さっきまで忘れてたけど、思い出したんだよ」
「な、なにをだよ……?」
この先、まだ何を言うのか。
みさおは少しだけ身構えた。
こなたはそこで一度気分を落ちつけようと一呼吸おく。
「みさきち、冷静になって聞いてよ?」
「いや、むしろチビッ子のほうが冷静になれよ」
「…………」
「…………」
2人が同時に息を止め、妙な沈黙が室内を支配した。
「みさきちと峰岸さんがトイレに立った後……私たち4人で談話室にいたけど……」
「あ、ああ……」
「しばらくしてかがみとつかさが出て行ったんだ。つかさが携帯を試すとか言って」
「…………ッ!?」
「そのあと10分くらいで戻ってきたけど……」
こなたはそこで言葉を切る。
仮定から始まったこなたの回顧は俄かには信じ難い恐ろしい結論を導き出そうとしている。
「つまり……」
みさおはからからに乾いた舌を何とか動かした。
「私を気絶させたのは柊たちだってことか……?」
「それだけじゃなくて――峰岸さんも……」
「まさか…………」
これはあくまで可能性の話であって事実かどうかは定かではない。
当初、誰もが思っていたように自分たちの知らない殺人鬼がいつの間にかこの島に潜んでおり、
まるで妖怪の類のごとく館の内外を飛び回り、無垢な少女たちを血で染め上げたのかもしれないのだ。
しかし直後に発したこなたのひと言が、彼女たちが半ば願望していた”外部犯”の線を完全に打ち消した。
「みさきちも確かめたでしょ? どこにも船はなかったんだよ? もう私たちしかいないんだよ!?」
「………………」
みさおは小さくかぶりを振った。
「じゃあなんで都合よく携帯を試したりすると思う? なんで……なんでゆーちゃんが1人で殺されてたと思う?
みさきちや私をやたら怪しんでいたのはなんでなのさ? 2人がいつも一緒にいた理由はどう説明するのさ!?」
責めるように矢継ぎ早に質問をぶつける。
みさおはそのどれにも答えられない。
「2日目の朝、通報するって話になった時につかさだけが携帯を試してなかったんだ。部屋に置いてたらしいから。
だから試してみるって! それは分かるよ。でもなんであのタイミングなの? なんでみさきちたちが席をはずしてた時に!?」 
「まさか……そんなことは……ない……」
青白い顔でみさおがかぶりを振った。
ただ曖昧に最悪の可能性を否定するしかできない。
「昨日の夜もかがみとつかさだけ別行動だったでしょ? 自分の部屋で寝るって」
「そうだったな……」
「考えたくないけど……でもそうとしか考えられないよ。2人一緒ならいろんなことが――」
どこかでガラスの割れる音がした。
「い、今のは…………!?」
たった一度の破裂音の後、館内は再び静寂に包まれた。
2人は互いに顔を見合わせる。
ドアを閉め切った室内にいては、音からどこのガラスが割れたのかは判別できない。
「…………」
「…………」
こなたたちは耳を欹(そばだ)てた。
何者かが廊下を走ってくる音が聞こえた。
みさおはドアから少しだけ離れて身構える。
「こなた! 日下部! ゆたかちゃん!! 誰か……誰か……!!」
かがみの声だ。
「お願い、誰でもいいから中に入れて!! つかさが!!」
ドアを順番に叩いて回り、ノブをがちゃがちゃと回す音が少し遅れて響いてくる。
悲痛な声はだんだんと大きくなってくる。
「柊…………!!」
みさおは呪縛から解き放たれたようにノブに手をを伸ばした。
それをこなたが慌てて止める。
「みさきちっ!!」
廊下にいるかがみに聞こえないよう、こなたは小さく叫んだ。
「まだ分からないの!? 罠だよ! かがみの罠なんだよ!!」
「だ、だけどさ……」
「よく考えてよ! もう私たちしかいないんだよ!? かがみに――かがみたちに決まってるじゃん!!」
生死の境にあって、こなたの説得は必死だった。
もちろん可能性として大いに考えられる展開である。
切羽詰まった自分を演じ、欺いて部屋の中に転がり込み2人を殺す算段。
こなたとみさおなら、たとえかがみが本性を露わにしても押さえられるかもしれない。
しかし相手は何人もの人間を残酷な方法で害してきた殺人鬼だ。
それに不意を衝かれれば彼女たちの身体能力も役には立たない。
「誰でもいいから!! 中に入れて!! お願い!! 誰かッ!!」
かがみの声はどんどん大きくなり、恐ろしい速さでこの部屋に迫ろうとしている。
「…………ッ!!」
2人の目の前でノブが揺れた。
続いて激しくドアを叩く音。
「いるんでしょ!? こなた! 日下部! ゆたかちゃん!! お願いよ!! 中に……!!」
怒声、ノックの音、ノブを回す音……それらが不完全に混じり合って不協和音を奏でる。
ドア越しの鬼気迫る雰囲気は、彼女が残りの獲物を急いで殺したがっているようにも感じられる。
「………………」
こなたもみさおも、とうとうドアを開けることはなかった。
「どこよ!! 開けてよ!! お願い!!」
かがみは悲痛な叫び声をあげながら、隣のドアを激しく叩いた。
しかしもちろんどこの部屋も開くことはない。
「誰かッッ!!」
声はだんだんと小さくなっていく。
「いや……いやあああぁぁぁぁ――――ッッ!!」
廊下の奥で断末魔の号(さけ)びが轟いた。
続いて人が倒れる音、何者かが走り去る音がし、最後にどこかのドアが勢いよく閉じられる音がした。
そして静寂。
ドアに張り付いて息を呑むこなたには、もはやあれこれと思考する余裕はない。
働くのはせいぜい保守の思考。
疑心暗鬼は己の身を守るための妄想である。
「柊が…………!!」
再びノブに手をかけたみさおの腕にこなたはしがみつく。
「今のもきっと演技だよ! 襲われたフリして私たちが出て来るのをつかさと一緒に待ってるんだ!」
「さっきのは演技なんかじゃない! 人殺しが近くにいるんだッ!!」
しがみつくこなたを振りほどき、みさおがノブをしっかり掴んだ。
「なんで!? 言ったじゃん! もう私たち以外、誰もいないって!」
「だけどさ!」
「みさきちも分かってるんでしょ? 船がないって分かった時から。それに――」
こなたはみさおの腕を掴む手に力を込めた。
「それに……なんだよ?」
「もし本当にかがみじゃなかったとしても……もう手遅れだよ……」
途端、みさおの顔つきが変わった。
信じられないものを見るような目つきでこなたを睨んでいる。
「見捨てるってことか?」
「そ、そうじゃないよ! わざわざ危険を冒す必要はないって言ってるんだよ!」
「それで犯人に逃げられたらどうすんだよ!!」
埒が明かないと言わんばかりにみさおは勢いよくドアを開けた。
「お前はどうか知らねえけど、私はあやのの仇を討ちたいんだよッ!」
荒っぽい口調でそう言い残し、彼女は部屋を飛び出した。
「ま、待ってよ……!!」
呼び止めを無視してみさおは廊下の奥へ消えた。
本来ならここですぐに後を追うべきなのだが、恐怖感に苛まれたこなたは部屋を出ることができない。
竦む足は言うことを聞かず、むしろ室内で保守に徹しろと訴えているようだ。
「………………」
半開きのドアを呆然と眺めながら、こなたは磔刑に処されたようにそこから動けなかった。

 

 

 電圧が落ちているのか、それとも彼女の精神がそのように見させているのか。
東棟2階の廊下はずいぶんと薄暗い。
目を凝らしても突き当たりまで見えないくらいだ。
「ひいらぎ…………?」
壁伝いにゆっくりと歩くみさおは、殆ど聞こえない声で呼んだ。
かがみが犯人でない場合、大声で名を呼べばどこかに潜んでいる犯人に聞かれてしまうかもしれない。
極限の恐怖の中でも、保身に繋がる思考だけはある程度できていた。
「どこだ……ひいらぎ……」
直前の様子からかがみはホール側にはいないと踏んだ彼女は、足音を立てないように廊下を歩く。
呼吸音すら聞こえないように気を遣いながら…………。
(そういえば妹はどうなったんだ?)
暗闇に目を凝らしながら、みさおは考えた。
つかさが襲われ、残ったかがみが助けを求めるフリをしてこなたとみさおを殺そうとしていたのなら、
当然ながらつかさは生きているということになる。
標的はもはや2人だけだがどちらも体力に自信のある者であり、おまけに体を密着させんばかりに警戒している。
よほど巧みに不意を衝かない限りは殺害は不可能だ。
となると協力者――つかさの手を借りる必要があるが、かがみが部屋に潜り込んだ時に彼女もその場に居合わせなければ、
殺人は成立し得ない。
(でもチビッ子の言うように生きてるのはもう――)
自分を含め4人しかいない、と彼女は考え直す。
(たとえ相手が柊だったとしても…………)
みさおはモップの柄を強く握りしめた。
彼女の中では死の恐怖よりも、幼馴染みを奪われたことに対する憎悪の念のほうが遥かに強い。
滑稽なほど慎重な歩みがぴたりと止まった。
突き当たりに近い部屋の前に誰かが倒れている。
みさおは呼吸をするのも忘れて弧を描くようにその影に近づく。
「ひいらぎ…………!?」
見間違えるハズのない、かがみの姿がそこにあった。
喉が大きく切り裂かれ、ぱっくり開いたもうひとつの口から鮮血が溢れている。
「そんな…………!!」
ふらつく足取りで傍まで寄ったみさおは見た。
噴き出した血液が壁と床を黒く染めている。
さらさらだったツインテールは文字どおり”血糊”でべっとりと絡み合っていた。
「あ、あ、あ…………っ!!」
かがみの亡骸を無意識のうちにあやのと重ねてしまった彼女は思わず後ずさった。
一目見て死んでいると分かる。
両眼はカッと見開かれ、まるでみさおに怯えているようにも見える。
(やっぱり柊じゃなかったんだ…………!!)
じわりと厭な汗が全身から噴き出しているのを彼女は感じた。
かがみが犯人でないなら先ほどの悲鳴は演技ではなくなるし、つかさが共犯であるという線も消える。
この島にはやはり得体の知れない殺人鬼が潜んでいて、狂気の中にも冷静さが些か残っているために巧みに隙を見つけて標的を殺す――。
船が見当たらなかったのは秘密の隠し場所があるからか、そうでなければずっと前から住みついていたのではないか。
高良家の別荘といっても日々管理しているわけではないだろう。
所有者に無断で上がり込んだ頭のおかしな人間がいても不思議ではない。
(そうとしか考えられねえ!!)
みさおはそっとかがみの亡骸から離れた。
その所作によって床が僅かに軋み、空気が動いて鉄の臭いが容赦なく鼻腔を衝いた。
(チビッ子のところに戻るか……でも妹も…………!?)
背後に気配を感じて振り向いたみさおは腹部に焼けつくような痛みを覚えた。
灼熱が全身を駆け抜け、その場に崩れ落ちる。
自慢の反射神経も正常な精神を保っていない今では働いてはくれなかった。
しかし痛みにもがいている暇はない。
激痛よりも、熱さよりも、もっといえば死に対する恐怖よりも。
これだけの殺人を犯した怨敵の顔を見たい、という欲求が勝っていた。
あやのの仇を討つという目的も果たさなければならない。
殆ど抜け切った力をかき集め、みさおは上体を起こして目の前の人物を捉えた。
暗がりの中にぼんやりと浮かび上がるのは――。
「なん、で…………?」
頭上から何かが振り下ろされ、彼女の視界は暗転した。

 

 

 

「………………!!」
廊下の向こうで誰かが倒れた音を聞いたこなたは我に返り、開かれたままのドアをゆっくりと閉めた。
しっかりと鍵をかけ、その場にうずくまる。
「もう……イヤだ……イヤだよ……!!」
こなたは耳を覆った。
数秒前――。
ほんの数秒前に聞こえた音は、”みさおが倒れた音”ではない。
正確には”みさおが死んだ音”なのだ。
悲鳴も上げずに。
(悲鳴…………?)
彼女は怪訝な顔をした。
かがみは狂ったようにドアを叩いて回り、最期は悲鳴をあげた。
しかしみさおは違う。
殺人鬼がすぐ近くをうろついているというのに、あやのの仇を討ちたいという思いだけで単独行動に出た。
それは本当なのだろうか。
「まさか…………?」
静まり返った部屋の中、こなたは恐ろしい想像をした。
犯人はみさおなのではないか。
例えば何か重い物を適当な袋に入れ、ある程度の高さから落とせば人が倒れたような音は演出できる。
(そんな手の込んだことをしなくても普通に倒れれば……)
先ほどの音はそれで説明がつく。
しかしかがみはどうか。
彼女が悲鳴をあげた理由は何なのか。
(共犯…………!!)
こなたの考えはこうである。
かがみとみさおは共犯だった。
生き残った者に疑いをかけられないために、互いに何度も言い争いをしている風を装って容疑からはずれる。
あやのを殺したのはやはりみさおで、彼女はトイレの前で気絶したフリをしていた。
最も新しい殺人――ゆたかの件を考えればつかさも共犯だった可能性が極めて高い。
つまりこの3人はグルだったということになる。
昨夜、柊姉妹が別の部屋で寝たのも別々に行動するため。
(そうかもしれない……)
何かにつけ別行動する柊姉妹や、襟元に血がついていたみさおは怪しすぎる。
しかし怪しすぎるために却って疑われにくい――という人の心理を逆手にとっているとも考えられるのだ。
「………………」
ドアの向こうに犯人の息遣いが聞こえてきそうで、こなたは無意識にベッドに腰をおろしていた。
(外で待ってるんだ……かがみたち……私が出てきたところを殺そうとしてるんだ…………)
こなたは身震いした。
(峰岸さんはどうだったんだろう? やっぱり共犯だった……でも何かで仲間割れして……)
柊姉妹が共犯であるなら様々なことができるが、そこにみさおとあやのが加わればもはや不可能はない。
4人で口裏を合わせることも、誰にも気づかれずに標的を抹殺していくことも。
あやのの死は4人の歩調が乱れた結果か、あるいは疑いを持たれないための犠牲と考えられなくもない。
「いや、それは違う……!!」
こなたはかぶりを振った。
この4人が共謀しているハズがない。
もしそうなら少し前、談話室でゆたかが気を失った時にこなたを襲えたハズだ。
(それにさっきだってみさきちには私を殺す機会が十分あった……!!)
いくらこなたが格闘技経験者で運動能力が高いとはいえ、みさおは現役の陸上部員で今も体を鍛えている。
そのうえ体格にも大きな差がある。
彼女が躊躇いもなく人を殺せる性格なら、こなたはとっくに冷たい骸になっていたハズだ。
(それとも不意を衝かないと殺せないって考えたから……?)
それなら談話室で3対1の状況にありながら今も生きていることが説明できない。
「分からない……分からないよ…………」
そう呟きながら、友人を疑っていることをこなたは自覚していた。
誰かが言ったようにパティが死んだふりをして館内をうろついているのかもしれない。
彼女も思ったようにかがみとつかさが共犯なのかもしれない。
あるいはそこにみさおとあやのが加わっていたのかもしれない。
こなたの知る彼女たちは誰もが人を殺せるような性格だとは思えなかった。
しかし現実にこれだけの殺人が起き、確たる証拠がないとはいえ疑わしい人物もいる。
「いやだ! いやだいやだいやだ!!」
駄々をこねる子供のようにこなたは激しく頭を振った。
この陰惨な現実から抜け出したい。逃れたい。
もはや何も考えられなくなった彼女は、しかしどうにか冷静になれと自分に言い聞かせる。
滑稽なほど大げさに深呼吸を繰り返し……。

ドアに背を向けてゆっくりと立ち上がったこなたは――。

 

 

 

 

1 このまま夜が明けるのを待つことにした

 

 

2 かがみとみさおの様子を確かめることにした

 

 

 

 

 

 

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