悪魔の招待状 ―― 真相 ――

 

 半信半疑のこなたは深呼吸をひとつすると、ドアノブに手を添えた。
かがみとみさおが共犯である可能性は十分にある。
むしろ先ほどみさおが臆することなく部屋を飛び出せた理由も、それでしか説明がつけられないほどだ。
だがそうなるとこなたには別の疑問が残る。
彼女たちはなぜ自分を殺さなかったのか。
もはや神出鬼没の殺人鬼を演じる必要はなく、目の前で堂々と名乗ってから殺害しても問題はないハズだ。
共犯の場合、標的はもはや自分だけなのだから。
(そうだ……さっきだってみさきちと2人っきりでここにいたじゃん。簡単に私を殺せたハズだよ!)
妄想と確信の上塗りを繰り返し、こなたは持論を強化していく。
かがみが犯人の線はまだ拭えないが、少なくともみさおは共犯ではない。
そうなると気になるのはつかさの存在だ。
身内であるからには様々な秘密を共有していてもおかしくない。
かがみを殺人者と思うならつかさもそうだと考えるべきだ。
この推察が正しいなら、先ほどの物音は演技などではないのではないか。
少女は必死に思考を巡らす。
「………………」
音を立てないようにドアを開け、隙間から顔だけを出して様子を探る。
不快な臭いが風にのって鼻腔を衝いてきた。
この数日で何度も嗅いだ血の臭いだ。
こなたは3つの可能性を考えた。
ひとつはかがみの悲鳴が演技であり、飛び出したみさおを彼女が殺したという可能性。
もうひとつはまだ見ぬ殺人鬼が2人とも殺してしまった可能性。
そして最後のひとつは……。
かがみとみさおが共犯である可能性。
これらのどれが正解であっても、こなたが狙われるという事実は変わらない。
彼女に残っている一握りの理性は、2番目の可能性を信じていた。
こなたの頭の中からはパトリシアの存在がすっかり抜け落ちている。
冷静になれば彼女が犯人の線も残っているハズだが、残念ながら憔悴している頭ではそこまで考え至らない。
常に新しい出来事に思考を塗り替えられ、疑心がさらなる疑心を生んでしまう。
「………………」
現実は常に理想や夢を裏切り続ける。
壁にもたれるようにして廊下を歩くこなたは、倒れている人物を見て声を失った。
かがみだ。
喉を切り裂かれ、辺りに血をばら撒いた彼女は自らの血液が作り出す池の中で絶命していた。
「かがみ…………」
こなたを震え上がらせたのは彼女の亡骸だけではない。
そのすぐ傍――同じく残酷な方法で殺されたみさおの遺体がある。
額を叩き割られ、焦げ茶色の頭蓋が廊下の照明に当てられて僅かに覗いている。
腹部にも刺し傷がある彼女はかがみよりも大量の血液を流しており、辺りはここだけ内装を取り違えたように、
赤とも黒ともつかないカーペットを敷いている。
「うっ…………!!」
こなたは咄嗟に両手で口を覆った。
不快だった。
堪らなく不快だった。
何度見ても、何度嗅いでも決して慣れることのない死。
可能性がひとつ消え、新たな可能性が生まれる恐怖。
そして間もなく訪れる絶望。
あらゆる事象、あらゆる事実がこなたを追い詰める。
ここまで幾度となく死を目撃してきたが、この2人についてはこれまでとは決定的な違いがある。
パトリシアの一件から始まった惨劇は、そのどれもが与り知らない時、場所で行われた犯行だ。
極言すればこなたにはどうにもできないこと、さらに言えば不可避の事態であった。
眠っている間に、遠く離れた場所で、彼女には防ぐことのできなかった死だった。
だが、かがみとみさおは違う。
彼女たちはドア一枚を隔てた向こうで殺されたのだ。
(私が……もっと早く飛び出していれば…………!!)
少なくともこの場でみさお、かがみの2人を死から遠ざけることができたハズだと。
協力して犯人を撃退できたかもしれないと。
遅すぎる後悔をしたこなたは濁った涙を流した。
(私が殺した…………!!)
変え難い事実は生存者を犯人に仕立て上げる。
(2人を見殺しにした!!)
これはゲームではない。
気に食わなければセーブポイントに戻ることのできる虚構の世界とは違う。
「わたしが…………」
こなたはポケットをまさぐった。
小型だが人を死に至らしめるには十分な果物ナイフがある。
夕食の準備にと厨房に入った彼女は、密かに器具置き場から両手で覆えるサイズのナイフを1本、ポケットに忍ばせていた。
もちろん護身用として用意していた物だが、いざ犯人と対峙した際に武具として用いる以外に、これにはもうひとつの使い方がある。
生きている限り味わい続ける苦痛と恐怖を一作業で終わらせる方法がある。
「………………」
既に冷静さの欠片もなくなっている彼女は、曇りひとつない刃先を自分の喉に向けた。
運動能力が高く格闘技経験者であっても、人をこれほど残酷にしかも容易く殺める犯人に勝てるとは思えない。
かがみにしてもみさおにしても、凶悪な殺人鬼が跋扈していることに最大限の警戒をしていたハズだ。
そこに乗り込み、鮮やかな手口で殺しを行う犯人の精神は既に常人のそれを超越している。
こなたは視界の中心で小刻みに揺れる刃を認めた。
今の彼女が思うことはひとつ。
この悪夢から抜け出すことだけだ。
たとえこの後、運よく犯人を捕らえるなどできたとしても、殺された友人たちは戻ってこない。
彼女にとっての身内――ゆたかは死んだ。
(かがみも、つかさも、みゆきさんも…………)
もう誰もいないのだ。
厳密には”人殺し”がいるのだが、精神に異常をきたしているこなたはそれを数には入れていない。
このまま呆けたように二つの遺体を眺めていれば、やがて犯人は自分を殺してくれるだろう。
そうなれば――孤独の中で生き続けずに済む。
いつ殺されるか分からない恐怖から逃れ、友人たちの元へと旅立てる。
しかし彼女はそうはしなかった。
最後の最後でかがみとみさおを見殺しにしてしまったことへの自責の念も、この行為を後押しした。
そして言わばこれはここまで生き残った泉こなたにできる、犯人への最期の抵抗でもある。
一撮みの気概は極めて前向きで後ろ向きな決断を下させた。
「………………」
一息に刃を喉に突き刺す。
力加減を誤り、刃先は僅かに左に逸れたが狙う効果は充分に得られた。
激しい嘔吐感が彼女を襲ったが、直後に迫る激痛の前には些細な不快感である。
喉にできたばかりの空洞からは夥しい量の血液が溢れている。
この粘性の液体が赤く滾っていることがこなたが生きている証なのであるが、これがすっかり出尽くした頃には
彼女はとっくに冷たい骸に成り果ててしまう。
「………………」
泉こなたは満足げな顔で床に伏した。
殺される前に死ぬ。
こうすれば犯人は”永遠に”彼女を殺すことはできない。
まだ見ぬ殺人鬼への抗いであり、まだ見ぬ殺人鬼に最大の屈辱を味わわせることができるのである。
(ゆーちゃ…………)
視界を赤と黒とに覆われ、こなたは最期に愛しい従姉妹の顔を思い浮かべた。
だがそれもほんの一瞬のことである。
それから数秒と経たないうちに彼女の意識はぷつりと途絶えた。
あとには静寂だけが残った。

 

 

――午前○○時○○分。

静まり返った館。
生温い風と、どこにいても鼻腔を衝いてくる血の臭い。
それらが人に齎すのはこの上ない不快感。
あちらこちらに転がる遺体は見る者を震え上がらせ、正常な思考を悉く奪う。
迸(ほとばし)る血液は全て重力に従って下へと落ち、ゆっくりと床面に広がって張り付いている。
だがエントランスにあるそれだけは不自然に天井と壁に塗布されている。
死者の数を示すハズのこれは、猛獣が鋭い爪で引き裂いたような赤い線となってホールの中央に立つ者を囲い込んでいた。
「もう出てきてもいいですよ」
階段を降りきった少女は天井に向かって言った。
幾度となく浴びた返り血の所為で、何色の服を着ているのかは分からない。
「もう出てきてもいいですよ」
再度、今度は少しだけ声を張る。
しばらくすると1階の東棟に続く廊下から長身の少女がゆっくりと姿を現す。
「どちらにいらっしゃったのですか?」
振り返った女性が静かに問う。
「部屋に――パトリシアさんの部屋にいました」
初対面の相手に必ず冷たい印象を持たれてしまう少女は、物憂げな表情で簡潔に答える。
そうですか、と女性は頬に手を当てて相槌を打った。
「死体のあった部屋にそう何度もわざわざ入る人はいませんからね……よい隠れ場所だと思います」
この絶えず優雅で艶美な笑みを浮かべる女性――高良みゆきは満足げに、しかしどこか無聊そうな表情でホールを見回した。
彼女は満たされていない!
幼い頃から姉のように慕ってきた少女――岩崎みなみにはそれがよく分かるのだ。
「と言っても一度は踏み込んでいますけれどね」
みゆきはまた嗤った。
常人の思考をしているとは思えない彼女に、みなみはおずおずと声をかける。
「この天井の血はどうやって描いたんですか? とても届きそうにありませんが……?」
「届きますよ? 大きめの脚立を使えば」
「でもそんなものここにはありませんでした。出し入れするにしても誰にも見つからずにするのは不可能では?」
みゆきは小さく息を吐いた。
「赤い線を引いたのは2日目の早朝ですよ」
興味無さそうに彼女は答える。
「少し水分が多かったようで垂れてしまいましたが……でも2本目はうまくいきましたよ」
「それのことです」
言葉足らずのみなみは短い質問を繰り返してようやくまとまった文章を構成する。
「2本目を引くような時間はありませんでした」
つまらない問いだ、と言いたそうにみゆきは視線を逸らした。
「言ったじゃありませんか。それも2日目の早朝に引いたんですよ」
「でもパトリシアさんの……時は1本しかなかった……」
「そうですね。厳密にいえば3グループで行動する直前に発見されたわけですが……」
「どうやって……?」
「初めから2本ありましたが、皆さんにはそれが1本にしか見えなかっただけですよ」
みゆきは天井を指さした。
「炙り出しと同じ原理ですよ。時間が経って乾くとこうなるんです。配合を間違えて色が少し変わってしまいました」
完璧を求めるみゆきは2本の赤に違いが出てしまったことが許せないようだ。
「天井に線を引く……という行動には準備が必要ですからできるのはここまででした。
この仕掛けを施した時には既にパトリシアさんはこの世の人ではありませんでしたから、1本目に関してはいつ発見されてもよかったのです」
回顧するように目を閉じて語るみゆきは、淀みない口調の中でさりげなくパティを殺害した事を吐露した。
「ですが2本目はそうはいきません。放っておいては水分が飛んでしまい、誰も死んでいないのに赤い線が出るという矛盾が生じますから」
「あの……」
うっとりとした表情のみゆきに、みなみは鋭い目つきをさらに鋭くした。
「どうしてこんな仕掛けをする必要があるんですか?」
「うふふ、分かってらっしゃるのでしょう? 犠牲者と赤い線……ここに共通点を持たせるためです。
これが常に一致していれば、皆さんは次の犠牲者を見ずとも線の数だけで生死を判定してしまうのですよ」
「…………」
「さて、2本目に関してですがこれが乾ききる前に次の標的を探さなければなりませんでした。
……が、パトリシアさんの死で混乱して散り散りに動くと思っていたのですがなかなかそのチャンスは訪れません。
このままでは線が出てしまう。そこで考えました――あ、いえ、考えていました。
実を言いますと、みなみさんにある役を買ってもらうつもりだったんです。ええ、時期は少し延びましたが同じことです。
つまり何者かに殺され、遺体を隠されたフリ……です」
みなみは唇を噛んだ。
「3グループに分かれて捜索という話が出た時は笑いを堪えるのが大変でした。皆さんの方からわざわざチャンスを作って頂けたのですから。
3組の中で私が最も遠い位置を捜索するよう誘導するのは簡単でした。ここは高良家所有の島ですからね。
持ち主が地理に詳しいのは当然……幸い、みなみさんも同じグループに属したため田村さんを手に掛けるのは極めて容易い作業でした」
殺しを”作業”と言い捨てたみゆきは微塵も罪悪感を持っていないようだ。
嬉々として語る彼女を見て、みなみは今さらになって恐怖に打ち震えた。
「田村さんを早々に始末すれば時間を置いて表れる2本目の線に間に合います。海岸付近を捜索していた私たちが
予定の時間になっても戻ってこないとなれば全員で捜しに来ることは明らか。彼女たちが館を空けた頃に線が現れる……。
仮に線のほうが先に出て、その後に田村さんの遺体が発見されたとしても、彼女が殺された時間を正確に測ることは誰にもできませんから、
”2本目の線=田村さんの死”という関連性は崩れませんし、皆が勝手にそう思い込んだでしょう。
やや流れに任せた展開だったのは私の落ち度ですが巧くいきましたよ」
みゆきはぽんと手を打った。
「それにしてもあの時のみなみさんの演技は見事でした。あれがあったからこそ誰もが外部の者による犯行だと思い込んだのですから。
もっとも……この顔ぶれで最初から内部犯を疑う人など皆無でしょうけれど」
偶発による都合の良い展開が続いたことにみゆきは喜んでいるが、もしかしたらそれら偶然は全て彼女の計算通りだったのではないか。
みなみは拳を握りしめた。
実際、”折を見て廊下の奥に人影が走っていくのを目撃した風を装え”という指示は、この島に来る前からみゆきに出されていた。
招待客全員に第三者が潜んでいると思い込ませる必要があったからだ。
従ってみゆきが褒めたのは、みなみが咄嗟に演技をした機転ではなく、そもそも予定されていた演技が真に迫っていたというクオリティの高さに対してである。
「本当は田村さんは5番目くらいまで残しておくつもりだったんですよ」
この女性は艶っぽい笑みを浮かべながら恐るべき真実を次々に語る。
「どうして……?」
「その方が面白そうでしたから。彼女のように感情表現豊かな人は相次ぐ死者の出現にどのような反応を示すのかと想像しただけで――」
淑やかで控えめなみゆきも、この時ばかりは少年のように胸をときめかせた。
「あんなグループ割になったのは残念ですが仕方ありませんね」
しかし恍惚の表情は一転、憮然とした顔でみゆきは長大息した。
「……………」
先ほどから浮き沈みの激しい彼女を見て、みなみは冷静になるよう自分に言い聞かせた。
貴族のような佇まいの裏には、その外見からは想像もつかないほど悪辣な面が隠れていることを彼女はよく心得ているからだ。
「その後、私に姿を隠すように言ったのは……赤い線と結び付けるため?」
「もちろんですよ。パトリシアさんと田村さん。2人の死によって皆が線の意味を理解したと確信しましたから。
みなみさんの場合は念押しの意味も込めてです。こうすればもはや誰もこの件を疑わないでしょうし、みなみさんが殺された事にすれば、
その後の行動もとりやすくなります。何よりそれ以降、私が危険を冒して線を引かなくて済みますからね」
「………………」
みなみは臍を噛んだ。
今になって自分が取り返しのつかない数々の事をしてしまったのだと痛感する。
例えば存在しない犯人を目撃した風を装い、大声をあげてしまったこと。
集ったメンバーのほぼ全員が左利きであると知った上で、全てのカップの”彼女たちが口をつけるであろう部分”に睡眠薬を塗布したこと。
(もちろん、みゆきとみなみだけはわざわざ右手でカップを持っていた)
他にも数え上げればキリのない行動が、みゆきを満足させ、多くの者の命を奪った。
「泉さんだけは両手利きでしたが普段、左手をよく使うことは分かっていました。
ですから全てのカップの縁の半周に睡眠薬を塗るよう頼んだのです。しかし利き手でない方ではカップを持つのにも違和感がありますね。
分かっていた私もあやうく左手でココアを飲むところでしたよ……薬を塗っている側に口をつけたら彼女たちと同じくお昼近くまで眠ってしまうことになりますものね」
みなみの考えを読んだかのようにみゆきが言った。
「………………」
この女には隠し事はできないのか? 全てを見通しているのか?
みなみは体の震えを必死に抑えた。
(…………!!)
しかし彼女はそこであることに気付いた。
「違う……パトリシアさんは右利きだった。彼女にはこの仕掛けは使えないハズ……」
「ええ、たしかに」
そんな事は分かっている、という口調でみゆきが言を紡いだ。
「使えなくてもいいではありませんか。どうせ彼女が最初の標的なのですから」
「…………ッッ!!」
しまった、とみなみは思った。
彼女が気付く程度の事柄なら、才媛みゆきもとっくに気付いているハズなのだ。
さらに彼女が英邁かつ残忍であるがゆえ、その発見を利用し計画を実行している点を忘れてはならなかったのだ。
「パトリシアさんだけが右利きなのは分かっていました。ですから彼女を真っ先に殺害することに決めたのです。
彼女だけ睡眠薬を飲まず、そのために早朝から館をうろつかれては堪りませんもの」
みなみは何も言えなかった。
「薬の仕掛けは単純ながら2日目の夜にも効果がありましたよ。あの夜、交代で見張りをするような話をしていましたが、
さすがにあれだけ疲弊していた上に薬を飲まされては見張りどころではありませんね。もっとも泉さんにその気はなかったようですが」
静かに目を閉じ、その当時の状況を振り返るみゆきの脳裏には2日目の夜に辿った軌跡がはっきりと浮かんでいた。
ソファで熟睡している高良みゆきを演じた彼女は近くでゆたかの寝息を聞きながら、こなた、みさお、あやののやりとりに耳を傾けていた。
そんな事をしても意味はないというのに交代で見張りをするという案が持ち上がったのだ。
後にそれはあやのとみさおを気遣ってのこなたの提案であることが判明したが、分かったところでみゆきには何の関係もない。
しばらくしてみさおがこなたのソファに腰をおろした。
みゆきはそれを薄目を開けて見ていた。
待つこと1時間。
極度の疲労により談話室にいる全員が眠っているのを確かめたみゆきは、音を立てないように立ち上がる。
掛け布団をわざと乱して床に落とし、用意していた血糊をあちこちにばらまく。
外した眼鏡はハンカチに包んでから――音を立てないために――左側のレンズだけ割り、フレームを軽く捻ってソファの下に忍ばせた。
簡単なことだが、これだけで生存者は何者かの犯行だと決めつけてくれる。
人工の血糊には鉄粉を混ぜているから臭いも再現できている。
これまでの経験から彼女たちがこの失踪を疑問視することはないだろう。
「日下部さんの襟に血糊を付けようと思いついたのはまさにその時でした。
皆がどう反応するか興味が湧いたもので――いえ、正直に言えば疑心暗鬼に陥らせたかったのでしょうね」
みゆきはまるで自分の考えを他人事のように述べた。
そうそう、と彼女はわざとらしく声調を上げた。
「ところであの二人の遺体はどこに隠したのですか?」
みなみは即答を避けたが、特に隠す必要はない。
「言われていたように田村さんは1階の空き部屋に移しました。パトリシアさんも一度隣の空き部屋に運びましたが、
今は田村さんと一緒に談話室の……ソファの下に――」
最後の言葉を”います”か”あります”のどちらにすべきか彼女は悩んだが、結局語尾を曖昧にして片づけた。
「まあ皆に見つからなければどこでもよいわけですが……しかしなぜわざわざ今になって談話室に?」
「可哀想だから……せめてゆたかと一緒に……」
控えめな話し方に終始するみなみも、この台詞だけはハッキリと通る声で言った。
みゆきは訝ったが敢えて追及はしなかった。
「あの、隠し通路や隠し部屋には何か意味があったんですか?」
視線に気まずさを感じたみなみは慌てて話題を変えた。
今のみゆきは自分のほぼ完璧な計画の完遂ぶりに気を良くしている。
種明かしをさせるよう誘導すれば彼女は嬉々としてそれを語り出すハズだ。
「祖父は童心を捨てきれない人でして、館を設計する際に忍者屋敷のようにしたかったようです」
彼女の目論見は見事に奏功し、みゆきは途端に饒舌になった。
「私には意味のないものでしたが、暖炉の件に関しては皆さんが都合よく犯人の逃走経路と思い込んでくれましたね。
それにしても峰岸さんには驚きました。利発そうな人だとは思っていましたが、あの洞察力には肝を冷やしましたよ」
感心しているように見えるが、その心根は分からない。
「………………」
みゆきにとって暖炉の足場は本当に意味のないものだったとしても、誰かがそれを見つけることも織り込み済みだったのではないか。
みなみは思った。
高良みゆきも岩崎みなみも共に文武両道、極めて優秀であるが2人の思考回路には決定的な違いがある。
「パトリシアさんの……その、遺体を動かせと言ったのはなぜですか?」
疑問調ではあるが、みなみには大方の答えは分かっていた。
この質問は所詮は単なる通過点。
真の目的はみゆきを饒舌にさせ慢心させることにある。
「分かっていらっしゃるでしょう? 同一の事柄でも認識する順序によって受ける印象に大きな差異が生じることを」
タイミングも重要ですが、と彼女は小さく付け加え、
「遺体を隠すことは私たちにとって2つの大きなメリットを齎します。お分かりですね。
遺体が消えると彼女たちはまず犯人が何らかの理由で運び去ったと推理します。私たちを混乱させるためだとか、犯人像を勝手に作り上げて
辻褄を合わせようとしてしまうのです。現に田村さんの姿が消えた時、彼女たちはそう思ったでしょう。
しかし問題の殺人鬼がいつまで経っても現れなかったとしたらどうでしょう?
皆さんは次にパトリシアさんは本当に殺されたのか――と考えます。そうです。田村さんは誰が見ても明らかに殺されていると分かりましたが、
パトリシアさんに関しては”死んだフリをしている”という推察が成り立ち得る殺し方にしました。
そして実際に姿が消えていたとなれば……その推察はますます強固なものとなるわけですね。
つまりパトリシアさんに嫌疑がかけられるように誘導できるのですよ。こんな簡単な……トリックとも呼べない方法で」
みなみは最初の2人の犠牲者の顔を思い浮かべた。
パティは腹部を刺されただけだが、ひよりに関しては惨殺と言って差し支えない殺害方法だった。
前者は演技で通るかもしれないが、後者はとても生きている人間ができることではない。
しかし実際、パティもひよりもあの時、間違いなく死んでいたのだ。
「いまひとつの利点は――実は主にこちらの効果を狙ってのことですが。
死んだ人間が姿を消せばパトリシアさんのように、死んだフリをしてどこかに潜んでいるかも知れないと誰もが思うわけですが、
逆に生きている人間が忽然と姿を消すと彼女たちは殺されたのだと判断してくれるのです。
面白いでしょう? 順序が異なるだけで起こった事は同じだというのに、人間の判断力とは甚だアテにはならないものですね。
あ、今の”人間”に私とみなみさんは当てはまりませんよ、もちろん。私たちは下民とは違うのですから」
声を出さずにみゆきは笑った。
「でも無理がある、と思う。いくらパトリシアさんの件があったとしても、みゆきさんだって同様に疑われるかもしれない」
「流石はみなみさん。その通りですよ。ただ漫然と順序だけを入れ替えても他人の考えること。不確定要素が多すぎます。
私がいま言ったような効果は得られないかもしれません。ですから事前に手を打ったのです」
「………………?」
「まずみなみさんの失踪です。2本目の線の問題もあって、みなみさんには早くから姿を隠してもらうつもりでした。
正確に言えば――彼女たちがパトリシアさんに疑いを向ける前に、です。
こうしておかないと、みなみさんの失踪にまで疑問を抱かれかねませんから。そうなっては今後の動きが取り難くなります」
「………………」
「誰もがパトリシアさん生存説に意識が向いていて、みなみさんの安否にまで気が回っていませんでした。
ああ、いえ、小早川さんだけはみなみさんが無事であることを願っていたようですね」
ゆたかの名を出された瞬間、みなみはぴくりと身体を震わせた。
「さて、皆さんの意識を誘導するために私も幾度となくパトリシアさんが犯人ではないかと発言してきました。
ずばりとモノを言うかがみさん以上に。もちろんパトリシアさん生存説を植えつける意味でその種の発言を繰り返しましたが、
これにはもうひとつの意図があります。何だか分かりますか?」
みなみはかぶりを振った。
「その日の夜、私の姿が消えた事に関して彼女たちに、”高良みゆきはパトリシアに殺されどこかに運ばれたのでは?”と思い込ませるためです。
私が執拗にパトリシアさんが犯人であると発言した事で、彼女にとって私が都合の悪い人間だと刷り込ませる効果が生まれます。
推理モノでよくあるでしょう? 興味本位で事件を調べていた探偵でもない人物が、真相に近づき過ぎたために犯人に殺されるというあれです」
ふふふ、と彼女は厭らしく笑った。
「これらの布石によってほぼ意図通りの心理に追い込むことができました。
バイアスとは恐ろしいもので、一度こうだと思い込むとなかなかその呪縛から解き放たれることはありません。
しかもその後、たとえこじつけであってもある程度筋の通った後付けがあるとますますその先入観が強固なものとなります。
もはや彼女たちはギリギリまで”パトリシアさんが犯人”という観念から抜け出せなくなっていたのです。
冷静に考えれば他の可能性はいくらでもあるのですが、追い詰められた彼女たちは容易く結論を得られる仮説に靡きます。
そう思っていたほうが気が楽になるからでしょうね。知に劣る者があれこれ考えるのは疲れるでしょうから」
みゆきはこの世界に自分に匹敵する知力の持ち主など存在しないと思っている節があった。
もちろん彼女を手伝ってきたみなみに対してさえ、智謀に於いては遥かに劣ると思っている。
「それにしても――パトリシア犯人説は誰かが考えつくとは想定していましたが、最初に気付いたのが日下部さんだったのは極めて意外でしたね。
私の中ではかがみさんだったのですが……嬉しい番狂わせですね。学業成績と発想の度合いは必ずしも相関しない。実に興味深い話です」
”興味深い”という点だけは本意のようだ。
「さて、3日目です。私もみなみさんも既に死者扱いですから、彼女たちに目撃されない範囲で自由に行動できるようになりました。
ですが困ったことに生存者が6人に減ったばかりに彼女たちになかなか隙ができません。
唯一別行動していたかがみさんたちを狙うこともできたのですが、特にかがみさんはパトリシアさんだけでなく、
他の生存者も疑っている節があったので後々まで残すことにしたのです。仲違いを期待できますしね」
全ては自分の掌の上に起こる出来事だ。
この才気煥発なお嬢様は他人の心を弄び、他人が恐怖を感じる様に昂奮を覚える性質のようである。
「しかしチャンスが訪れました。2人一組で行動し始めたのです。こうなると手にかけるのはさほど難しくありません。
お手洗いに立った峰岸さんたちを窺っていると、離れ離れになる瞬間がありました。お誂え向きの展開です。
背後から薬を嗅がせて日下部さんを眠らせ、出てきた峰岸さんを殺害するのは造作もありませんでした」
あやのの遺体を隠し部屋に運んだのは発見を遅らせるためではなく、こなたたちに総出で館内を捜させ、
エントランスに5本目の線を引く時間を稼ぐためである。
「それから後は……みなみさんもご覧になったとおりです。この館にはあちこちに隠しカメラを設置していましたから。
ついに本格化した仲間割れにはゾクゾクしましたね」
みゆきは敢えてここで昂奮の度合いを示すのに安っぽい言葉を使った。
「談話室に忘れられた小早川さんを外に運び出して殺害し、わざとインターフォンを鳴らして発見させる……。
かくして飛びついてきたのはおバカコンビ……かがみさんたちは部屋で震えていましたよ。ええ、滑稽なほど。
2人が小早川さんに関わっている間に私はあらかじめ解錠しておいた東棟1階の部屋の窓から再び中に入り、暖炉を上ってかがみさんの部屋に向かいました」
ほとんど直立不動で聞き手に回るみなみは、残忍な女性の口からゆたかの名が飛び出すたびに体が熱くなるのを感じた。
激しい怒りと憎しみが彼女を取り巻くが、今しばらくは辛抱の時だと自分に言い聞かせる。
「当然、ドアは施錠されていましたが……ふふ、そんなものは無意味です。私は全ての部屋の鍵を持っているのですから。ところでこの後、私はどうしたと思いますか?」
みなみはもはや反応しない。
「淑女の振る舞いですよ。部屋の主に断りなく勝手に入室するのは失礼ですからね。ええ、そうです。ノックさせていただきました。
中で何やら話していたようですが大方、出るべきかどうかと話し合っていたのでしょうね。結局、決断したのはかがみさんでしょうか。
鍵が外される音がし、ドアがゆっくりゆっくりと開いていきます。その隙間からそっと顔を出したのは――かがみさんでした。
私は素早くドアの陰に隠れ、その頭めがけて振り下ろしました。はい、モップの柄です。皆さんも持っていましたよね。
狙いは正確だったので彼女はその場に倒れました。まだ死んではいません。ただ気絶しただけです」
紙芝居を読み聞かせるように、みゆきは淡々とその時の様子を語った。
辷(すべ)るような口調は抑揚もなければ緩急もついていない。
しかしその時の情景が、その場にいないハズのみなみにもありありと想像できた。
「あの状況ではノックの音に応じず閉じこもっているのが妥当だと思うのですが……恐怖も頂点に達したのかもしれませんね」
「………………」
「部屋に入りますと、つかささんが壁際で震えていました。ひどく怯えて――当然でしょうね。
私の顔を見てずいぶんと驚いていました。人間、本当に驚いた時には声が出ないものなんですね。初めて知りました。
しかし彼女も冷たい人です。私が生きていると分かったのにそれを喜ぶどころか、恐怖に顔を引き攣らせたのですから。
まったく失礼な話ですよ。淑女なら嫌悪をすぐに表情には出しません。彼女が下劣な証拠です。話を戻しましょう。
私は隠し持っていたナイフで頸を切り裂きました。実に呆気ないものです。もう少し抵抗するとかしぶとく生き延びるなどしてくれれば
もっと愉しめたとは思うのですが……相手がつかささんではそこまで望むのも無駄というものですね」
発言の内容を除けば、今のみゆきはまだ物腰優雅な令嬢で通る。
恍惚の表情は見る側の気の持ちようによっては憂いを帯びているようにもとれるのだ。
「かがみさんを残したのは正解でした。目を覚ました彼女が狂乱する様を私は一生忘れないでしょう」
明らかに人を殺めることに快感を覚えてしまったらしいみゆきに、みなみはまたしても恐れを抱いたが、今の彼女はただ怯えているだけではなかった。
みなみは視線だけを動かしてホールを見回した。
天井と壁に引かれた赤い線は5本しかない。
本来なら9本、あるいは10本となるハズであるが、高良みゆきという人物が見えてきたみなみには線が足りない理由が分かった。
いちいち引くのが面倒になった、というのもあるだろう。
あやの殺害以後、ホールで作業をする隙がなかったのもその理由のひとつだ。
しかし敢えて5本で留めた意図がある。
いま何人生きているかを分からなくし、彼女たちの恐怖心をさらに煽るためだ。
高良みゆきはどこまでも計算高い。
性質の悪いことに、彼女はその計算高さをこのような形で披露するのである。
「あの告発文は――?」
みなみは彼女をさらに慢心させるために水を向けた。
「大半は創作ですよ。多少の事実を知っていればいくらでも尤もらしくこじつけることはできますから。
頭から撥ね退ける人もいれば、でっち上げだというのに無理やり自分に当てはめて気に病んだりと……とかく多様な反応でした。
しかし峰岸さんの件に関しては驚きましたね。適当に書いたつもりがまさか強姦に遭っていたとは。
本来、そういうのは姦通とは言いませんが……ふふ、意図せず関連性を持つに至ったのは日頃の行いが良いからでしょうか」
激昂したり狼狽したりするあやのの顔を思い浮かべ、彼女は悦に入った。
みなみはそんな彼女を油断なく窺った。
ここに来て喜怒哀楽の激しさを見せる高良みゆきは、先ほどまで笑んでいたというのに途端に落魄した様子で俯いた。
「下民とは孤独に苛まれると自ら命を絶つ生物だったのですね…………」
という嘆きに近い呟きを聞き、英邁なみなみは何を言わんとしているのかをただちに理解した。
憮然としているのは楽しみのひとつを失ったからだ。
人を殺めるという行為を忌み嫌うどころか、娯楽として捉えているみゆきは嘆息した。
「過程はどうあれ泉さんが死んだのは良しとしますが……どうせなら自分の手で――とは思いませんか?」
みなみはかぶりを振った。
みゆきは不思議そうに首を傾げた。
「田村さんを処理した時に何も感じませんでしたか? 世の中の穢れをひとつ取り除いた達成感は?」
「思わない……」
呟きながら彼女は自分の両手を見つめた。
今も手に残る生々しい感触。
おそらく永遠に消えないであろう感覚。
ひより殺害に限ってはみなみも直接関与してしまった。
捜索の折、2人に挟まれるようにして林を歩いていた彼女を、みゆきがナイフで刺し貫いたのだ。
まさかこの聖人君子が鬼謀妙計を用いて残虐な方法で人を殺めるなどとは露ほども思わなかっただろう。
完全に油断していたひよりは、背中から押し込まれる凶刃によって命を落とした。
だがみゆきはただ殺害するだけではなく、見せしめの如く大木に磔にすると言いだしたのだ。
(いま考えれば……あんな目に遭わせたのもパトリシアさんにより疑いをかけるため?)
その作業を手伝わされたのだ。
みなみがなかば抱きかかえるようにひよりの体を木に押しつけ、みゆきが少し下がった位置から槍を突き出す。
瞬間、密着した肌に突き抜ける閃電。
ひよりの体を通して熱さと傷みが伝わったような錯覚に陥った。
巨木が堅かったために、残酷な処刑は全部で3度行われた。
その度にみなみは最大の苦痛を味わわされた。
直接手を下したわけではない。
みゆきに刺し貫かれた時点でひよりは既に絶命していたため、彼女のやったことは言葉どおり”屍に鞭を打った”だけである。
しかしだからといって耐えがたい苦痛には違いない。
ゆたかほど親しくはなかったが、こんな自分に最初こそ遠慮がちだったものの、友達として垣根なく接してくれたひよりに対する――。
重大な裏切りである。
岩崎みなみが殺人に直接関与したのはこの一度きりだ。
その後はみゆきから全ての部屋のスペアキーを受け取り、空き部屋を転々としていた。
隙を見て館を出、ひよりの遺体を動かした時にはひどい悔恨の念に囚われた。
「みゆきさん…………」
もともと無口な彼女は、普段よりもずっと小さな声で名を呼んだ。
一切の音が掻き消えているホールにいては、ほとんど蚊の鳴くような声でも確かにみゆきの耳に届く。
「なんでしょう?」
温かいが冷たい視線がみなみを真正面から捉えた。
「どうして……どうしてこんなことを…………?」
するにはあまりに遅すぎる質問だった。
今になってその答えを得たところが何かが変わるわけではない。
せいぜい内容によってはみゆきの情状酌量に一役買う程度である。
「みなみさんはご自身をどう捉えていますか?」
「…………?」
「私は即答できます。誇り高き高良家の長女――端的に言い表せばこうなるでしょう」
当たり前のことを当たり前のように言うみゆきに、彼女は眉を顰めた。
「私も、みなみさん、あなたも貴族なんです。制度としては潰えましたが、私たちが受け継いでいる血までは潰えていません。
高良家も岩崎家も名門中の名門! その誇りは決して忘れてはならないのですっ!」
突然、みゆきは口調を激しくしてまくし立てた。
「私たちは薄汚れた下民たちとは違います。格が違うのですよ! いいですか!? 本来なら彼女たちのような下賤な人々が
私たちに近づくことすら許されないのですよ! まして対等な関係を築いて言葉を交わすなど――!!」
汚らわしくて堪らない、と彼女は狂ったように叫んだ。
「貴族……?」
「ええ、そうです! 貴族! 素晴らしい響きだと思いませんか? 選ばれた私たちにこそ相応しい――」
ぞくり、と背筋を這い上がる冷たい感触にみなみは打ち震えた。
しかし彼女はまだ問いには答えていない。
たった1人の聞き手のために振るわれた熱弁は、自らの誉れ高さを一方的に押しつけるだけの陳腐な主張でしかない。
狂気じみた表情の高良みゆきは、
「みなみさん……私がお貸しした本――『人類皆平等』をお読みになった後、こう仰いましたよね。
”納得できない、人間は不平等だ”と。それを聞いて私がどれほど嬉しかったか分かりますか?
やはりあなたも高貴な身であると改めて思いました。そして……その誇りを忘れず持ち続けていらっしゃることに感激しました!!」
「あ、あれは…………」
もはや真意を打ち明ける状況ではなかった。
岩崎みなみが不平等だと感じたのは、血族にまつわるような重大なものではない。
極めて個人的な、人によっては笑い飛ばせるレベルの事柄である。
しかしみゆきは口数少ないみなみが発した読了後の感想をひどく誤解し、それが直接の引き金ではなかったにしてもこれだけの事件を起こしている。
「私を誘ったのも……それが理由ですか? たったそれだけで!?」
「十分ではありませんか」
みゆきは笑った。
「人間はみな平等だ。人はしばしばそう言いますね。平等であることを是としたいのでしょう。
しかし多くの方は勘違いをしています。真の平等とはなんでしょう?」
「………………」
「私には単なる僻みにしか聞こえません。格差、貧富、出自……己が立場を測る基準などいくらでもありますが、つまるところ
それらが彼らの定めた水準を下回る人々の――単なる愚痴に過ぎないのですよ」
「でも……! だからって人を殺す理由にはならないと思う」
至極真っ当なみなみの反駁にみゆきは嘆息を返した。
尊貴な家柄であるという驕りが彼女の精神を正常なまま歪めてしまっている。
「では排除という言葉に置き換えてはどうでしょうか?」
「なに…………?」
「思い描いてみてください。たとえば学年単位でちょっとしたテストが行われたとしましょう。なんでもいいですよ。数学でも世界史でも。
そして平均点がトップのクラスにはご褒美が出るとします。当然、各クラスでばらつきが出ますね。秀才もいればバカもいますから」
艶美な笑みを浮かべるみゆきは、ついストレートに”バカ”という表現をしてしまう。
「さて、あるクラスに100点をとった生徒が半分いて、もう半分の生徒が0点だったらどうなるでしょう? 平均は50点です。
お分かりですか。優秀な生徒が奮闘したにも関わらず鈍才に足を引っ張られたおかげで成果は半減します。
かたや0点の生徒たちは何の結果も残さないで平均点50のクラスに属することができるのです。こんな理不尽が許されるでしょうか?
秀才は報われずバカは何の咎も受けないのですよ?」
「………………」
「ではどうすればよいか? 簡単です。役立たずを排除すればいいんです。1人残らず。そうすればこのクラスには秀才だけが残り、
先ほどの例でいえば平均点は100となります。めでたくご褒美を手に入れることができますね」
こういう時のみゆきは万人の警戒心を解きほぐすような笑顔で話すが、その裏では常に悪辣な爪を研いでいる。
恐ろしいのは彼女自身がその考えを悪だと思っていない点だ。
「こういうのを平等というのです。公平と言ってもいいでしょう。秀才と愚物とを平均化して平等というのであれば、上の人間は常に損をし、
下の人間は常に得をすることになります。それこそ不平等ではありませんか。そうです。棲み分ければよいのです。
しかし世の中はそうはいきません。ええ、それはみなみさんもよくお分かりだと思います」
みなみは唇を噛んだ。
分からないのではない。
分かりたくないのだ。
「泉さんや日下部さんのように社会に何の貢献もできない魯鈍の癖に分際を弁えず、資源を浪費する喧(かまびす)しい輩が多すぎます。
パトリシアさんや田村さんのように無価値でくだらない趣味に没頭し、周囲を顧みない癌などどこにでもいます。
つかささんや小早川さんのように他者に甘え、寄生し、挙句に宿主を駄目にしてしまう愚者のなんと多いことか……。
これらは社会の荷物――ゴミです。誰かが排除しなければならないのですよ」
あまりに勝手すぎる論理にみなみは憤りを抑えきれなくなってきた。
「そんなの理由にならないっ! 人を殺していい理由になってないっ!!」
喉に焼けつくような痛みを感じながら、みなみは声を限りに叫んだ。
「なるのですよ、みなみさん。あなたにお手伝い頂いたのも、あなたが私と同じ高貴な家の出だからなのです。
歴史を勉強しなくても分かることがあります。それは――私たち貴族にとって下民の命は消費するものだということです。
彼ら、彼女らに権利はありません。由緒ある血筋であり、教養があり、賢しい私たちの前では。
全ては私たちのような選ばれた階級の思うまま。この社会を、世界を正しく発展させられるのは優秀な私たちだけなのです。
生殺与奪他、一切は私たちが決めます。いえ、決めるべきなのですよ、みなみさん」
「ちがう…………」
「愚物には自ら考える脳がありません。無い頭で考えても辿り着く結論はロクなものではありません。
私たちのような選ばれた人間が、その優秀な頭脳をもって彼らを導いてあげなければならないのですよ」
「ちがう…………」
「もし彼女たちが社会にとって有益ならこんなことはしません。ですが、私には何の役にも立たないと分かりました。ですから排除したのです。
唯一まともそうな峰岸さんとかがみさんも……所詮は癌の温床。つかささんや日下部さんを庇護して元凶を育てるのに貢献してしまいました。
結局、この世に存在することが許される下民など一握り……いえ、一撮みいるかいないかといったところでしょう」
「違うッ!!」
普段大人しい少女の怒声には、彼女をよく知っている者を些か震え上がらせる効果がある。
再三の反駁を受け、そのうえ怒気を孕む岩崎みなみの睚眥(がいさい)にみゆきは不覚にも後ずさった。
が、怯えた様子の反応もそこまで。
たとえ相手が同格の貴族であろうと、自分が劣勢であることを他人に悟られるのは彼女の美学がそれを許さない。
「みなみさん――あなた、下民に感化されて俗世の穢れに毒されたのではありませんか?」
「どうしてゆたかを……!! ゆたかだけは助けるって約束だったのに――!!」
「助けましたよ?」
「殺したくせにっ!!」
「よくお考えになってください。友人知人が相次いで排除されていくのを目撃した彼女は、きっと心に深い傷を負います。
ええ、決して癒えることのない痛みを精神に負ったまま……生きていくでしょう。耐えがたい苦痛だと思いますよ。
事あるごとにこの光景が蘇り、繊細な心を容赦なく抉剔(けってき)するに違いありません。
そんな彼女が幸せな人生を歩めるハズがありません。ですから苦痛の生を終わらせてあげたのです。彼女のために」
「勝手なことを……ッッ!!」
「そう仰るなら小早川さんさえ助かれば他はどうなってもいいというみなみさんも同じですよ?」
「くっ…………」
みなみは睥睨したが、悔し紛れの睨みはみゆきには通用しない。
「小早川さん……ええっと、ゆたかさんでしたか。発育不全とも思える体躯で病弱。
ふふ、一体なにが”ゆたか”なのでしょうね。彼女は授かる名前を間違えましたね。それとも名付け親が間違ったのでしょうか?」
「ゆたかを悪く言うのは許さない!」
岩崎みなみはついに敵意を露にした。
姉同然に慕っていたみゆきへの敵愾心を。
もはや隠す必要のなくなった感情を存分に叩きつける。
「………………」
しかしみゆきは動じない。
それどころか、
「死者には名誉も何もありませんから」
みなみが激怒する言葉を敢えて選んで切り返す。
「……………ッッ!!」
相手の心理を意のままに操るみゆきは、目の前の少女が一歩踏み込んできてもなお余裕の表情を崩さない。
「私に反抗するのですか? みなみさんのことは妹同然に扱ってきましたのに。その恩を忘れて……。
あんな自分一人では何もできないような娘のどこがいいというのです? 彼女に入れ込んで何のメリットがあるのです?」
「ゆたかは……私の初めての友だちだった。みんな私を避けるのに、ゆたかだけはそうしなかった!!」
「それはあなたが恩を売ったからですよ。返報性の心理というのをご存じでしょう? 小早川さんのそれは単なる”反応”です」
「違うッ!!」
「みなみさん、岩崎家は誇り高い貴族です。もともと対等の付き合いなどするべきではなかったのですよ」
「誇り高い貴族が人殺しをするんですかっ!?」
「………………」
みゆきは天井を仰いでため息をついた。
その隙を逃さず、みなみはさらに距離を詰める。
「残念ですよ、みなみさん。とても――あなたは穢れた空気に当たり過ぎたのです。誇りを失ったあなたは彼女たち同様ゴミでしかありません」
唇の端を僅かに歪め、彼女は懐から返り血を浴びすぎて真っ黒になったナイフを取り出した。
「このままですと自首を勧められそうですからね。不本意ですが……まあ、これもいいでしょう。
泉さんに自殺されて消化不良気味でしたので……”己が欲望のみで他者を脆弱にする第二の罪人”は私が責任を持って排除しましょう!」
言い終わるより先にみゆきは床を蹴って飛びかかった。
文武に優れた才女が盲目的な使命感と明確な殺意をもって迫る様は、対峙する者に生命の危険に対する本能的な防御反応を起こさせた。
虚を衝かれたみなみは反射的に後ろに回していた左手を突き出す。
2人の距離がゼロになった。
「………………」
「………………」
タン、と床を叩く音が響き渡り、辺りはすぐさま静けさを取り戻した。
あらゆるものの動きが止まる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ全てが静止した後、少女は思い出したように瞬きをした。
「何ですか……これは……?」
数歩下がったみゆきは自分の腹が赤く変色しているのに気付いた。
彼女は間違った。
これから殺そうとする相手に、それを告げるべきではなかったのだ。
彼女は忘れていた。
万が一にも生存者に目撃された時、速やかに殺害できるよう手ごろな武器を携行しておくよう、みなみに言い聞かせていたことを。
彼女は侮っていた。
みなみにはいざという局面では殺傷を躊躇しない果断さがあったのだ。
有能だが愚かな高良みゆきには、これらいくつかの失敗から学ぶ機会を与えられていない。
この少女の全ては間もなく、ここで終わるからだ。
(これは…………?)
全力でトラックを走りぬけた直後のような疲労感が襲ってくる。
熱い。苦しい。痛い。
不快感の全てをこの刹那で味わったみゆきは、次には地に伏していた。
「みなみさん…………」
彼女が見上げた先には、自分と同じように脇腹を血で染め上げた岩崎みなみがいる。
激痛は呼吸を妨げていた。
これまで感じていた痛み――彼女が陋劣と見做していた”友人ら”と付き合っている間に味わった吐き気を催すほどの苦しみ――が、
精神的なものから今度は肉体的なものに転じる。
「よく、も……わたしををを…………!!」
みゆきは床を掻き毟った。
彼女は死ぬわけにはいかなかった。
この世界の汚穢を悉く取り除き、教養があって知性的で、他に抽んでた才能ある者だけが生きることを許される社会。
その理想の実現のために、高良みゆきは生き続けなければならなかったのだ。
苦しそうに。悲しそうに。
自分を見下ろす少女に、呪詛の念を以って睥睨するみゆきは自らの血液の臭いを嗅ぎながら絶命した。
彼女が葬り去ってきた罪人たちと同じように。
「………………」
僅差で最後の勝利者となったみなみも、相打ちという結果になった以上。医者がいないこの島では間もなく他の者たちと同じところへ旅立つことになる。
左手にしっかりと握られたナイフはみゆきの血に濡れている。
みなみはしばらく高良みゆきの亡骸を見つめていたが、やがて自分が長くないことを悟ると床に転がる黒いナイフを拾い上げ、談話室に向かった。
踏み出すたびに振動が激痛を齎し、その歩みの後ろに赤黒い足跡を残す。
数十歩の距離を極めて遅い歩みで進み、たどり着いた先には透き通るような青白い顔の少女。
――ゆたかだ。
これまでの惨殺とは違い、仰向けに寝かされている彼女だけは生々しい傷が見えない。
しかし見えないだけであって、その背にはぽっかりと風穴が空けられている。
「…ゆた……か…………」
溢れ出る血液は彼女から体力と体温と生きる気力を容赦なく奪っていく。
友人の死に顔を見つめていた岩崎みなみは、その場にくず折れた。
「田村さん……パトリシアさん……」
両手に仄かに残る感覚に彼女は涙した。
「泉先輩……かがみ先輩……つか……さ……先輩……」
もはや発声するのにも激痛を伴う彼女は、しかしその痛みを懸命に堪えながら思い浮かぶ一人ひとりの名を呼ぶ。
この激痛は彼女自身の咎だ。
「くさかべ……せん……い……みね、ぎ……し……せんぱ……」
みなみの体はごろんと上を向いた。
(――もうしわけありませんでした…………)
どろりと傷口から血が流れ出るのを感じながら、彼女は心の中で何度も呟いた。
直接に手を下したのはみゆきだが、そうさせたのは自分かもしれない。
彼女は思った。

 

 

今回の小旅行計画にあたり、彼女がみゆきから言われたのは、
”掃除をしたいので手伝ってほしい”
という事だけだった。
言葉どおりに受けとれば友人を招くために館を掃除する、という意味になる。
しかし実際は違った。
連休前日にかかってきた電話で、みゆきは妙な指示を出してきたのだ。
”館に着いたら誰にも見られないように全てのコップの縁に用意していた水を塗ってください。塗る場所は取っ手を手前にして右半分だけです”
その理由は分からなかった。
指示通りに塗った水が睡眠薬であると聞かされた時には、既にパティはこの世の人ではなくなっていた。
この時、聡明なみなみは初めてみゆきの言う”掃除”の意味を理解したのだ。
だが気付くのが遅すぎた。
高良みゆきが容易く人を殺せるところを見せつけた上で彼女はこう言ったのだ。
”私の指示通りにお願いします。背けば小早川さんや他の人がどうなるか分かりませんよ?”
ゆたかだけでなく、”他の人”と付け加えたところがみゆきの巧みさだ。
これによってみなみは、言うことを聞いていればこれ以上の犠牲者は出ないと錯覚してしまったのだ。
この錯覚が第2の死者を生み出した。
続いて死んだふりをして身を隠せという指示にみなみが驚くほど素直に従えたのは、ゆたかを守りたいという想いもあったが、
これ以上、人の死を見たくなかったからという理由もあった。
しかしそう願うなら彼女は早々とみゆきによる犯行だと皆に明かすべきだった。
廊下の奥に人影を見たという演技の後だったとしても、真実を知っている彼女ならみゆきの正体について全員を納得させられたハズだ。
(できなかった…………)
高良みゆきは計算高く残忍だった。
真相を吐露すればどのような手を使うか分からない。
といってみなみに彼女を襲撃する勇気もなかった。
結局――。
人質を取られた恰好のみなみは自発的な行動をなにひとつとらず、ただ殺戮を眺めているだけだった。
もしゆたかがもっと早くに殺されていたなら、彼女も先ほどのように行動し、助かった命があっただろう。
(それも……見抜かれていたんだ……)
消えかけた意識の中、みなみは思考を巡らせた。
自分がゆたかに特別な感情を抱いていたことを、高良みゆきはずっと前から知っていたのではないか。
だからこそ指示を守ればゆたかだけは助ける、という条件を提示したのではないか。
そうだとすると同じ貴族の仲間と言いながら、ゆたかへの恋慕を利用してみなみを操っていたに過ぎない。
となればゆたかを殺せばみなみがどういう行動に出るか、を想像するのは極めて容易だ。
岩崎みなみを忠実なコマとして動かすため――少なくとも掃討があらかた終わるまで――敢えてゆたかを残していたのだ。
(みゆきさん……最初から私も…………?)
殺すつもりだったに違いない、と彼女は確信した。
いずれゆたかを殺すつもりだったのなら、みなみの逆上は避けられない。
最後まであの病弱な娘を残し、みなみを散々に利用した挙句に9人目の犠牲者を生みだす。
「………………」
彼女は。
高良みゆきはこう言っていたのだ。

”つかささんや小早川さんのように他者に甘え、寄生し、挙句に宿主を駄目にしてしまう愚者のなんと多いことか……。
これらは社会の荷物――ゴミです。誰かが排除しなければならないのですよ。
峰岸さんとかがみさんも……所詮は癌の温床。つかささんや日下部さんを庇護して元凶を育てるのに貢献してしまいました”

彼女は漸く気付く。
自分もまた、みゆきの言う”癌の温床”であったことに。
宿主を駄目にするゆたかと、そのゆたかを庇護するみなみは高慢な高良みゆきにとっては排除すべき対象だったのだ。
ついにその考えに至ったが、時はすでに遅い。

8人の犠牲者への自責の念と、1人の悪辣な女性への呪詛の念とに苛まれながら――。

最後の生存者は眠るように息を引き取った――。

 

 

   

 

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