第6話 夢幻への跳躍

(アースラに乗艦した少年は事の勢いから艦に留まることになった。)

 これじゃまるで捕縛者だ、と少年は思った。
アースラに乗艦した一同は医務室で手当てを受けた少年をともなって艦橋に向かっている。
彼を中心に前をクロノとアルフが、左右をなのは、フェイト、ユーノが取り囲むようにして続く。
協力を求めるのなら、もう少し違ったかたちでもいいのでは?
と彼は訝ったが、とりあえず窮地を助けてもらった負い目もあって、さすがに口にはしなかった。
「失礼します」
クロノが一礼して、艦橋に踏み込む。
必然的にその次を少年が追う格好となる。
「お疲れ様、苦戦したみたいだね」
まず声をかけてきたのはエイミィだった。
彼女にしてみればねぎらいのつもりだったが、クロノには軽い皮肉に聞こえた。
「おかえりなさい」
先ほどからしきりにモニターを見つめていたリンディがゆっくりと振り返る。
少年はフードを取り去り、リンディを俯き加減に見た。
短くまとめた銀髪が何とも言えない高級感をかもし出している。
前髪だけは長く垂らしているが、これは彼の性格がそうさせているのかもしれない。
少年と目があった。
蒼い瞳。まるで宝石のようだ。
「・・・・・・」
少年は軽く頭を下げ、じっと床に視線を落としている。
「ケガ、大したことなくて良かったわね」
リンディが腫れ物に触るように柔らかい口調で言った。
「はい、皆さんのおかげです。ありがとうございました」
「・・・・・・・・・」
少年の声はか細い。
「管理局として今後の捜査のために、あなたにいろいろ訊きたいの。まずは名前を教えてくれるかしら?」
彼は寡黙なようだ。待っていても自分から口を開こうとはしないだろう。
そう考えたリンディはやや強引に話を進めようとした。
が、ため息をついた彼から返ってきたのは意外な言葉だった。
「彼らに言われてここまで来ましたが・・・・・・急に帰りたくなりました」
「・・・・・・どういうことかしら?」
まるで噛み合わない返答に、リンディは首をかしげた。
「あなたは”客を求めるには礼をもってすべし”という言葉をご存じですか?」
アルフがそっと振り返り、ユーノたちに目配せした。
(意味、分かるかい?)
(さあ・・・・・・?)
後ろにいた3人はほぼ同時にかぶりを振った。
「客を迎えるにあたってまずは招いた側が誠意なり礼儀なりを見せろということですよ。つまり――」
彼はそこで一呼吸おき、
「つまり人に名前を訊ねるなら、まずご自身から名乗るくらいのことはすべきだということです」
さらっと言った。
「なっ! おい、お前――」
クロノが少年を責めたてようとしたが、リンディが静かにそれを制止した。
「やめなさい、クロノ。・・・・・・たしかに彼の言うとおりだわ」
リンディは冷水を浴びせられたような衝撃を覚え、艦長席から立ち上がった。
そしてもともと乱れていない服装を正し、
「ごめんなさい。私は時空管理局航行艦船アースラの艦長、リンディ・ハラオウン。
こっちは執務官のクロノ・ハラオウンよ」
まるで主賓を迎えるような慇懃さで言った。
「あなたのお名前を聞かせてもらえないかしら?」
すでに名乗っているというのに、リンディはあくまで少年の機嫌を損ねないように下手にでた。
「僕の名前は・・・・・・」
少年は内心、舌打ちした。
わざわざ嫌われる言動をとったというのに、リンディは自分の非を詫び、態度まで改めている。
彼の見当は完全にはずれてしまっている。
リンディの目は少年を真っ直ぐ見据えている。
(まいったな)
彼には名前がない。
厳密に言えば彼にはちゃんと名前があるハズだが、彼自身はそれを知らない。
(あまり目立ちたくはなかったのに)
どうにかこの状況から逃げ出す方法はないかと思案したが、彼にしては珍しく名案が浮かばない。
「名前は・・・・・・」
クロノやアルフもじっと自分を見ている。
「ブライト・・・・・・ブライト・D・ネビュラです」
言ってから少年は自分を笑った。
思いつきで言ったとはいえ、あまりにも安直すぎる。
ブライト? それでは”以前の彼の名前”の対義語ではないか。
期せずしてそんな関係を持たせてしまったネーミングセンスに、少年はもう笑うしかなかった。
「ブライト君ね。さっきはごめんなさい。協力をお願いしているのはこちらなのに、礼儀を欠いてしまって・・・・・・本当に恥ずかしいことだわ」
リンディは深々と頭を下げ、忸怩たる思いを態度で示した。
傲慢とはいかないまでも、提督として長かった彼女はたしかに礼儀という感覚に少し疎くなっていたのかもしれない。
それをこんな幼い子供に諭されたのだ。
恥じても恥じても足りないくらいだった。
「いえ、こちらこそ出すぎたことを言ってしまったと後悔しています。助けてもらっておきながら・・・・・・」
この事実は覆せない。
少年は彼らに窮地を救われたという、いわば借りができてしまっている。
その点ではこの場における主導権は管理局側にあるというのも言い過ぎではない。
「それで聞かせてもらえるかしら? 影に襲われた経緯について――」
「ええ――」
ブライトは頷いた。
こうなったら素直に受け答えし、ここからさっさと退散しよう。

 闇は闇を好む。
光から切り取られた暗い部分は闇の中を泳ぎまわり、仲間を探すことに必死だ。
ここに恒星があり、その周囲を無数の惑星が取り囲んでいる。
そのひとつ。
この名前も与えられていない惑星では、常に光の当たらない部分が全体の2分の1を占めている。
闇にとっては格好の棲みかだった。
「遅かったな、ソルシア。失敗したか?」
冷たい大地の一部分が盛り上がり、灰色のマントを羽織った男の姿になった。
ドレッドヘアを微風になびかせた彼は、目の前に現れた少女を値踏みするように見た。
「うるさい! ちょっと油断しただけだよ」
軽い皮肉を浴びせられ、ソルシアという名の少女がいきり立った。
「他人のこと言えないでしょ? アンタなんて何もしてないくせに・・・・・・」
「私はこうして待っているのが仕事だ。お前たちがもたらすべき良い報せをな」
男は首を左右に傾けて、
「だがその報せがない」
と言ってソルシアに冷たい視線を向けた。
「それならボクが持っている」
地面が割れ、そこから黒い水が涌いた。
「ヒューゴ・・・・・・勝手な行動は慎めと主に言われたのを忘れたか?」
柱状に伸びた水が一個の存在となり、残忍そうな少年の姿を作る。
このヒューゴという影はようやく自分の姿を決めたらしい。
黒いスーツに無地のネクタイ。彼は徹底して黒を好んだ。
「ああ、悪かったね。でもそのおかげで、きみが欲しがってるものを提供できるんだ。少しは――」
感謝しろ、とヒューゴが呟いた。
「悪い報せならお断りだぞ」
男は口を開きかけたヒューゴを一蹴した。
「まぁ、聞いて損はないぞ。悪い報せだけどね」
ヒューゴはまだ怒っているソルシアを手招きして近くに寄せ、改まった口調で言った。

「奴は生きている――!」

現実ばなれした報告と、現実味を帯びた口調に男もソルシアも反応に困った。
ソルシアは笑い飛ばそうとしたができなかった。
男はただひと言、確かなのかと訊いた。
「間違いないよ。ボクの部下がディーモスの地下で見た」
「ありえない・・・・・・」
男は狼狽した。
ソルシアがそんな慌てふためいた男を横目で見た。
「お前は最も悪い報せをもたらしてくれたな」
自分がわずかでも狼狽したことをひた隠すように、男は妙に堂々とした口ぶりで言った。
「それがそうでもないんだ」
ヒューゴは男の反応を予測していたように、立てた人差し指を左右に振った。
「”あれ”はもう、以前の奴じゃない。力のほとんどを失っている」
「どういうこと?」
ソルシアは首をひねった。
「奴はあの時、たしかに死んだ。だが今も生きている。だからもう奴ではないんだよ」
「さっぱり分かんないよ。もっと分かるように説明して」
「これ以上、分かりやすく説明できないよ。それで理解できないなら、ソルシア・・・・・・お前は――」
「――待って。それ以上言ったら殴るよ?」

ソルシアが殴るマネをしたので、ヒューゴは口を閉ざした。
「で・・・・・・どうする、ハイマン・レイダーバーグ・フォン・コマンドルーツ? 若干だけど計画に支障がでてるぞ」
ヒューゴは皮肉を込めて男の名を口にした。
この長ったらしい名前を口にするのは、これで最後にしたい。
正直、ヒューゴはその顔を見るのもうんざりしていた。
「奴が生きていた事実は予想外だが支障ではない。お前たちは決められた道を進め」
男は冷ややかに言った。
「はぁ〜い」
「・・・・・・ま、そう言うだろうと思っていたけれどね」

2人はそれぞれの性格を表わした反応をした後、再び闇の中に消えた。

 最初の質問は何だ?
ブライトはつい身構えてしまった。
リンディの”話を聞かせて”は、彼にとっては尋問に近かった。
「どうしてあそこにいたの? 影と戦っていた理由は・・・・・・?」
いきなり2つの質問を同時にぶつけられ、ブライトは惑った。
「ええ・・・・・・。その前に僕がムドラの民であることは、もうご存じですよね?」
ブライトは自分に注目している数名の顔を見て言った。
いくつかの視線と、頷く仕草から彼は今の問いが無意味である事に気付いた。
「いわばボランティアのようなものです」
彼は言った。
「つい最近まで故郷のアンヴァークラウンに住んでいましたが、ある時、影による事件が頻発していると知りました。
それで少しでも役に立とうと思い、世界を巡って影を鎮圧していたのです」
「あなた独りで?」
「はい」
訊いてきたのはエイミィだ。
彼女は制御盤を叩きながら聞くとはなしに聞いていたが、この年頃にしては殊勝な考え方に、
思わず身を乗り出していた。
「危険すぎるわ」
リンディが最も言いたいことを最も短い言葉で表わした。
「承知の上です。幸い、僕には他人に比べて強いプラーナがありますから」
「でもさっきは危なかったわ」
リンディは恩を着せるつもりは全く無かった。
この言葉の裏には”危険なことはやめて家に落ち着きなさい”という意味が込められている。
だが他人の心を読む能力に長けていたハズの彼は、全く別の意味で受け止めてしまった。
「僕は連携とか組織で動くようなことは苦手です」
「え――?」
リンディは目を瞬かせた。
ブライトは管理局に誘われていると解釈したらしい。
が、この解釈は突飛なものではなく、むしろ妥当な考え方だっただろう。
なぜなら彼はリンディの性格を知り得ている。
今がどんな状態であるかを勘案すると、リンディが戦力欲しさに自分を誘うことは予想できていた。
ところが予想とは逆に、彼女は彼を危険から遠ざけようと考えていた。
彼は深読みしすぎたのだろう。
言葉や行動の裏の裏まで読む彼は、最も近い部分をあえて避けて――見なかったことにして――しまう傾向がある。
「そうじゃないのよ。影の力は強大だわ。とてもあなたの手に負えるような存在じゃ――」
「強大だと思われるなら、なおさら僕が退くわけにはいきません」
僕は何を言っているんだろう。
ブライトは頭の中を整理する時間を持とうとした。
彼女らと行動をともにするわけにはいかない。
しかし手を引くわけにもいかない。
つまり、自分はあくまでも独りで行動すべきだ。
独りで闘い、独りで闇を滅ぼすべきだ。
が、彼女はそれを許すまい。
「・・・・・・・・・」
リンディはしばらく考えてからこんな提案をした。
「どうかしら? 私たちと一緒に戦うというのは?」
ブライトは言葉足らずな自分に腹が立った。
中途半端なものの言い方をしてしまったため、リンディには”あなたたちと共に戦いたいが、僕には団体行動をうまくやる自信がない。
だが僕は影との戦いをやめるつもりはない”と聞こえてしまったらしい。
「あくまで民間協力者としてよ? それなら多少規律にはずれた行動があっても、あなたが罰せられることはないわ」
「いえ、僕は・・・・・・」
そういえばリンディはこういう性格だったかもしれない。
彼女は相手を歳相応に見る。
クロノと同い年くらいの少年が強い意志を持っているのを見て、感激しているのだろう。
こういう相手に対しては彼女は提督という立場を利用して、様々なものを与えようとする。
戦士になら武器を与え、文弱の身なら書庫への出入りを許可するだろう。
もちろん、大志を抱く流浪の少年に対しては住む場所を与える。
一方でこれは管理局の戦力不足を露呈することにもなっている。
今は1人でも戦力が欲しい。
多少、目に余る行動があっても結果として影を撃退してくれるならアースラに置いておきたい。
しかも彼女は彼の言葉足らずを都合の良いように解釈している。
「あなた、住むところは?」
「・・・・・・僕はあちこちを旅していましたから」
彼はまたしてもリンディにチャンスを与えてしまった。
「ならちょうどいいわ。部屋を用意するから、民間協力者としてここにいたら――」
冗談じゃない、と彼は叫ぼうとしたが、それより早くリンディが
「みんなはどう思う?」
と同意を求めた。
勝手に話を進めてくれるな。
彼はそう思ったがもう遅い。
ほとんどがリンディの提案に賛成してしまっている。
アルフだけは難色を示し、曖昧な返答に終わっているが。
「あの・・・・・・!」
「大丈夫よ、みんな優しいから心配いらないわ。あなたの部屋もちゃんと用意する」
リンディの目にはブライトという少年が殊勝な心がけの持ち主と映っているのか。
強引に協力者として迎え入れようとしているのは、そんな心がけの持ち主を求めているからなのか。
(協力者というより”なかば協力させられている”格好だぞ)
ブライトはそんなツッコミを入れたいのをぐっとこらえた。
(とはいえ、考えてみる価値はあるかもしれないな)
リンディの熱意に押されてか、ブライトは態度を軟化させた。
「僕が言う立場ではありませんが・・・・・・」
ブライトは周囲の視線を感じながら切り出した。
「自由にやらせていただきたいのです。僕は規則とかそういうのは嫌いです。ここにいると・・・・・・。
あなた方にとって”勝手な行動”を僕はとるかもしれませんよ?」
多少の脅しを含めつつ言った。
爆弾のような問題児を彼女が受け容れるハズがない。
彼はそう見切ったうえで言ったのだが、リンディは寛大すぎた。
「いいわ。さっきも言ったけど、あなたはあくまで民間協力者よ。管理局の基準であなたを縛ることはできないわ」
だからこれから設える部屋を使って、とリンディは言った。
(リンディさん、あなたがそんな事でどうするんだ?)
ここの連中は甘すぎる。
見ず知らずの少年を連れてきて、名前と出身世界を明かしただけで部屋を貸すと?
もう少し警戒心を持ってもいいんじゃないか?
「・・・・・・・・・」
ブライトはリンディに気付かれないように息を吐いた。
いいだろう。
それならこの状況を最大限に利用させてもらう。
どうせ永くない命だ。
彼女らに危険が及ばない程度に自由に行動しようじゃないか。

「それじゃ、改めて自己紹介ね」
エイミィが襟を正して言った。
「私はエイミィ・リミエッタ。この艦の通信士よ」
気さく、という表現がぴったりな彼女はブライトの両手をとった。
「エイミィさんですね」
ブライトは照れ笑いを浮かべつつ、そっと彼女から視線をそらした。
「クロノ・ハラオウン。執務官だ」
対してクロノは必要なこと以外は喋ろうとしない。
まるで口から言葉が出るのを吝(お)しんでいるようだ。
「よろしく」
儀礼としてその手を握っておく。
「私、高町なのは。ブライト君と同じ民間協力者だよ」
なのはは少女らしい笑みを浮かべて握手を求めた。
「僕はユーノ。ユーノ・スクライアだ。よろしく」
改めてなのはとユーノを見比べ、この二人は雰囲気が似ているなとブライトは思った。
「ああ、こちらこそ――」
と言ってから彼は自分に少しだけ厳しい視線を送っている者に気付いた。
――アルフだ。
敵意こそ感じられないものの、少年のことを快く思ってはいないことが分かる。
ブライトはその視線に気付いていないフリをしてフェイトに向き直った。
「フェイト・テスタロッサだよ。よろしくね、ブライト」
ブライトは差し出された手をとった。
温かい。
これが生きている人間の温度なのか。
「フェイトさん・・・・・・でいいかな?」
ブライトがしずしずと言った時、フェイトは驚いたような表情で彼を見た。
「・・・・・・?」
その視線の意味が分からず、逆にブライトは目のやり場に困ってしまう。
「私はアルフ。フェイトの使い魔だ」
そんな雰囲気を苛立たしげに破ったのがアルフだ。
「あ、ああ・・・・・・」
妙な雰囲気になってしまった。
エイミィがあわてて取り繕う。
「さっ、ブライト君! 私が案内するから」
エイミィは何となくだがアルフがブライトを嫌っていることを悟った。
彼女の性格からして、それが露骨に表に出てしまう可能性は高い。
どんな些細な理由であれ、このアースラの中が険悪な雰囲気になるのはよくない。
一応、名前と顔は覚えてもらえたハズだ。
誰とでも仲良くなるのは難しいが、少なくとも蟠(わだかま)りは解いておきたい。
そのためには時間が必要だ、とエイミィは考えている。

 エイミィがブライトを案内している間、艦橋では別の話題が持ち出されていた。
「じゃあ、今度こそなのはさんは自由になったということですね」
『ええ、管理局にはなのは君に協力的な、というか常識でものを考えられる人が多いようですからね』
モニターの向こうでブリガンス弁護士が笑った。
「それにしても、そのパフォーマンス。私も見たかったですわ」
『表向きは予備審問ですから、文書による記録しかできないのですよ』
リンディたちは本部にいるブリガンス弁護士と遠隔通信をおこなっていた。
直接アースラに招いて話をする予定だったが彼には残務があるらしく、時間を割いてこうして話をしているというわけだ。
『パフォーマンスとしての効果は絶大です。なのは君の情状を斟酌しつつ、指導者シェイドを悪者にせずに済んだ・・・・・・。
遺族の怨恨が彼女たちに向くことはないでしょう』
モニターの中のブリガンスがなのはに手を振った。
「ブリガンス先生・・・本当に・・・・・・ほんとうにありがとうございました・・・・・・」
なのはは顔をくしゃくしゃにして泣いた。
『これが私の仕事だから、気にすることはないよ。法的にきみが罰を受けることはないんだ。ただ・・・・・・。
きみが罪の意識に悩まされているなら、それはちゃんと償わなければならないね』
「はい・・・・・・」
『いま世界のあちこちで異変が起きている。そのために沢山の人が命をかけてこれと戦っている。
そのお手伝いをするのは充分な償いだと思うよ?』
「はい」
なのはは涙を拭って笑顔を見せた。
そんな彼女を横目で見ながら、フェイトは嬉しさを隠せなかった。
ずっと見ることのできなかった彼女の笑顔を。
心からの笑顔をようやく見ることができたのだ。
『残るは被害者への補償問題ですが、これもじきに落ち着くでしょう。もちろん、管理局が補償するということで』
リンディはイスから立ち上がって深々と頭を下げた。
「ブリガンスさん、何から何まで本当にありがとうございます。あなたがいらっしゃらなかったら、私たちはどうなっていたか・・・・・・」
『大袈裟ですよ。私程度の弁護士なら何人もいます。ただ――歴史に残る大事件に関わることができたのは誇りですね』
その点、彼は自分を選んでくれたリンディに感謝すべきだろう。
 この後、リンディたちは何分か裁判に関するやりとりをしたが、ブリガンスの方が突然回線を切ってしまった。
緊急事態だ、ということだったがその内容をリンディが聞く前に彼はその場を立ち去ってしまったらしい。
「おめでとう、なのは」
クロノが笑った。
彼がこういう表情を見せることは滅多にない。
フェイトとはまた違った冷静さを持ち合わせている彼の笑顔は、それを見る者にとっては新鮮だった。
「ありがとう、クロノ君」
なのははまた涙を溜めて、
「ありがとう、ユーノ君、フェイトちゃん・・・・・・アルフさん・・・・・・」
自分を信じ、支え、助けてくれた全ての人に礼を述べた。
なのはは短い人生の中で最高の幸せを感じた。
彼女の目には魔導師や使い魔というよりも、温かい心の持ち主として映っている。
「良かったじゃないか、なのは。・・・・・・ほら、嬉しいことなんだから泣くんじゃないよ」
アルフは泣きじゃくる彼女をなだめた。
が、実は泣きたいのは自分だったことに気付く。
涙は悲しい時にだけ流れるものではない。
心を動かされた時に流れるものだ。
だから。
フェイトやユーノ、クロノまでもがわずかに瞳を濡らしているのは当然のことなのだ。
なのはの瞳からこぼれた涙は、アースラの照明に照らされ白く輝いた。

「だいたいこんなところね。回ってないところはまあ・・・・・・たぶん興味を引くようなところじゃないと思うわ」」
ひととおり案内し終えたエイミィは、ブライトを振り返って言った。
「わざわざ僕のためにありがとうございます」
ブライトは恭しく頭を下げた。
すでに知っている場所を改めて案内されるのは退屈だったが、彼はそういう感情は決して表には出さない。
エイミィの説明に適当に頷き、あるいはしきりに感心し、首をかしげたりすればよかった。
ブライトはエイミィの顔を見上げた。
彼にはただひとつ、どうしても気になることがあった。
エイミィがあの願いを聞いてくれたかどうか。
確かめる術は2つほどあるが、どちらも危険を伴なう。
「・・・・・・どうしたの?」
自分に向けられた視線にエイミィは怪訝そうな表情をした。
「あ、いえ・・・・・・エイミィさん。ところであの部屋は何です?」
彼は案内されていない部屋を指した。
あれこそが今、彼が最も気にかけている場所だ。
「ああ、あれはね――」
エイミィは鼻を掻きながら言った。
「通信室だよ。もう使われてないけど・・・・・・」
ブライトは気付かなかったが、彼女は目に涙を溜めていた。
「そうですか・・・・・・」
それ以上言う気にはなれなかった。
考えてみればこれほど皮肉なことはない。
自分が生きていた証を消せと言っておきながら、その自分が今ここにいる。
しかもそれが本当に成されたか確かめるということは、自ら矛盾を招いているようなものだ。
この艦にいるべきではない。
彼はそう思ったが、周りはそれを許してくれそうになかった。
「ケガのこともあるし、少し部屋で休んだらどうかな?」
エイミィは通信室の話題から逃げるように切り出した。
「ええ、そうですね。・・・・・・そうします」
ここに来て疲れを感じたブライトは素直に提案に従った。

 エイミィと別れたブライトは、設えられたベッドに倒れるように身をうずめた。
疲れた――。
治療のおかげで左肩の痛みは感じずに済んでいるが、これなら痛みをともなっていた方が良かった。
そうすれば傷にだけ意識を集中でき、余計なことを考えずにすむのに。
もう何がなんだか分からない。
いろいろな事が起こりすぎた。
しかも事態はわずかながら悪い方向に向かっている。
彼はこの悪い方向からどうにか逃れようと、あがいてみるべきか考えた。
――ダメだ。
過程を無視して結果だけを重視した彼の思案は、わずか1秒で不可能という結論を打ち出している。
やはり、人ひとりの力など微々たるものだというのか。
かつてメタリオンの長として跳梁跋扈し、管理局を震撼させたこの彼が。
偶然なのか必然なのか、アースラに戻ってきてしまった。
断るチャンスは何度もあったハズなのに。
気がつけば、こうなっている。
今や自分の身ひとつ自由に動かせないことに、彼は絶望にほど近い無力感を感じた。
(ツィラ・・・・・・僕はどうしたらいい・・・・・・?)
問いに答える者はいない。
「ふぅ・・・・・・」
口を開いても出るのはため息ばかりだ。
ここに来るまで、彼はほとんど言葉を発したことがなかった。
話すことが必要な場面にでくわさなかったし、なにより喋ることで自分の感情が揺れることを恐れていたからだ。
彼には成すべき事がある。
それを成した時、彼は消える。
「なにをやってるんだろうな、僕は・・・・・・」
(記録を消してくれ。僕が生きていた証を残さないために・・・・・・・・・まったく、どの口がそう言った?)
・・・・・・少なくとも、”この口”ではない。
ブライトは左肩を睨みつけた。
傷口は完全に塞がっている。
そっと触ってみると少しだけ痛かった。
眠ろう。
眠ってしまおう。
夢の中にあるうちは全てを忘れられる。
いずれ陰鬱な気持ちとともに目覚めなければならないと分かっていても――。
彼はほんのわずかの安息を得るために襲ってくる睡魔に身をまかせた。

 翌朝、ブライトはリンディに食堂に来るよう言われた。
この時間、食堂に行くのは朝食を摂るためだから当たり前として、なぜリンディに呼び出されたのかは分からなかった。
(モーニングコールか?)
まさか、とブライトは自らの考えを斬り捨てた。
考える必要はない。1分もすれば食堂に着く。
何があるのかはすぐに分かるのだから。
「あ、ブライト君!」
食堂に入るなりその姿を真っ先に認めたエイミィが手招きした。
「こっちこっち」
誘われるままブライトが進むと、周囲から拍手が巻き起こった。
「ようこそ、アースラへ!」
クルーたちが自分に注目しているのを見て、彼はようやくこれが歓迎会だと知った。
テーブルには朝食にしては豪華な品が並んでいる。
「紹介するわ。彼はブライト・D・ネビュラ君。私たちと共に戦ってくれる仲間よ!」
リンディが声高らかに言った。
(ちょっと待て・・・・・・! 共に戦うなんて僕は・・・・・・)
そう叫びたかったが、周囲の異様な盛り上がりがそれを許さない。
「ごめんなさいね、突然だからこれくらいしかできなくて・・・・・・」
リンディはすまなそうに言った。
「いえ・・・そんな・・・・・・」
そんな事しなくていいのに、と言いたいのを彼はぐっと堪えた。
(そうか、これは僕のせいだな。礼儀を示せなんて言ったために、わざわざ座を設けたのか)
ブライトは自分の軽率さを内心で詫びたが、この考えははずれている。
リンディは彼が礼儀について口にせずとも、このような歓迎会を開くつもりでいた。
「さあ、早く食べましょ。せっかくのお料理が冷めちゃうわ」
強引に取り皿を渡され、ブライトは惑った。
しかし本能は空腹を満たせと告げている。
彼は一礼してから手近にあったサラダを取った。
その後、ブライトはクルーから求められた握手にいちいち返し、なのはと話す機会を得た。
「管理局の艦っていうのは、もっとこう・・・・・・多人数で動いてるものだと思ってたけど」
歓迎会にしては急きょ決まったとはいえ、集まっているクルーが少ない。
「うん、事件のせいでケガしてる人が多いから・・・・・・」
「ああ、そうだったのか」
たしかにあの影を相手にしてクルー全員が無傷ということはありえない。
中には重傷、あるいは死者が出ているかもしれない。
「幸い死者は出てないけどね」
2人の会話に割って入るようにクロノが口を挟んだ。
ということは大半は医務室か。
「そうか、それは良かった」
「それにしても、きみも大胆だな。たった1人で奴らと戦うなんて」
クロノの口調は冷徹とも思えるほど静かだが、言葉に険はない。
大胆という単語には、単語そのものが表わす以外の意味は含んでいない。
この場合、彼は褒め言葉と受け取った。
「焦ってたのかもしれない。使命感・・・・・・に近いかもね」
そう言ってブライトは苦笑した。
あまり感情を表に出さない、しかも謙虚な物言いにクロノは好意を持った。
使命感はたびたび正義感と混同される。
これは管理局局員やなのはにも顕著に表れている性質だが、この感情は自分が正しく相手が間違っている、
という前提の下に成り立つ。
使命や正義は客観的なものだが、使命感や正義感は主観的なものだからだ。
ゆえに個人の感情が先走ることも多いが、ブライトは使命感であると言い切らず、”かもしれない”という
曖昧で謙虚な言い方をしている。
組織の一端を担うクロノとしては、自分を客観的に見ることのできる彼が羨ましく思えた。
彼は管理局を好いてはいないようだが、個人としてなら付き合いはできそうだ。
クロノはブライトのちょっとした言動から、そのように考えた。
「ムドラの民というのは元来、こういう性質なのだよ」
声に振り返ると、この艦では珍しく私服の男がいた。
「ヴォルドーさん、お戻りでしたか」
クロノがこの男の名を呼んだ。
「こちらはヴォルドーさん。きみと同じくムドラの出身だ」
よろしく、と言ってヴォルドーが手を差し出す。
「よろしくお願いします」
ブライトはためらうことなく握手を交わした。
「情報処理能力を買われてね、少し前から管理局に勤めているのだよ」
「そうでしたか。僕にはそんな能力はありませんから羨ましいです」
ブライトは彼の目を見た。澄んだ美しい瞳だ。
「私にはきみのような強いプラーナは備わっていない。私こそきみを羨ましく思うよ。
そしてそれと同時にムドラの民としてきみを誇りに思う」
「何故ですか?」
「きみのような子どもが、それもたった1人で影と戦っているからだよ。なかなかできることではない。
ムドラと魔導師は和解して日が浅い。我々の共存の道を邪魔しようとしている人間がいるとは思えないが・・・・・・。
きみが影と戦う姿は我々の親睦をさらに深めてくれるだろう」
(彼がここにいるということは、ムドラと魔導師の仲はうまくいっているようだな)
ブライトがそう思ったとき、彼の思考を読んだように、
「シェイド君がいてくれれば心強いのに・・・・・・」
ヴォルドーが嘆くように言った。
ヴォルドーは周囲に遠慮して小声で言ったが、ブライトたちには聞こえていた。
「・・・・・・ヴォルドーさん、彼は――」
クロノが小さく首を振った。
「あ、ああ、すまなかったな・・・・・・」
慌てて取り繕ったが、場は重苦しい雰囲気になってしまった。

 アースラ内においてはこれまで多くの影が認められたが、その存在をただ一度しか目撃されていないものがある。
この黒いヘビは風景に完全に溶け込み、クルーの視界から消え、アースラを我が物顔で爬行している。
そして双眸を妖しく光らせながら、辺りに漂う闇を喰い荒らす。
ここには影が好む闇がいくらでもある。
クルーの数だけ、いやそれ以上の闇が。
黒いヘビはそれらを吟味し、大きな口を開けてそれを嚥下する。
そうして新たな影を産む。

”お前は何を望む?”
夜。黒いヘビは宿主の首筋あたりで囁いた。
”お前には充分な時間を与えた。言え。何を望む?”
宿主はかぶりを振った。
「私は何も欲しくないよ。だって今のままでも――」
黒いヘビをその体内に住まわせている少女は、無意識にそうしていた。
毒の回りきった体は彼女の意思どおりに動くが、そのせいで彼女自身は毒に冒されていることに気付いていない。
もちろん、この瞬間、思考を乗っ取られていることも。
なのはという宿主は今、黒いヘビにとって最も居心地のよい棲みかになってしまった。
”私だけがお前の望みを叶えることができる。さあ、心を解き放て。お前の望みは何だ?”
黒いヘビはもう答えを得ている。
なのはの精神の中枢にまで侵り込んだ黒いヘビは、彼女の心を余すところなく見た。
だから知っている。
彼女が何を考え、何を想い、何を隠そうとしているのかを。
「・・・・・・・・・」
黒いヘビが見たなのはの心の中には、金髪の少女が映っていた。
彼女と同等、あるいは彼女を遥かに凌ぐ力の持ち主。
この高町なのはという少女は、彼女への愛慕を超えた感情をひた隠しにしようとしている。
が、それは一定の条件の下では虚しい努力に成り果てる。
この場合の”一定の条件”とは”黒いヘビがなのはに憑依している状態”をいう。
”臆することはない。お前はお前に忠実であればよい”
黒いヘビが取り憑いている間は、彼女の精神はほとんど全て支配されているといっていい。
かろうじて思考する余地は残されているのだが、この時の彼女は強い酒に泥酔している状態に似ている。
つまりひと握りの理性が押し寄せてくる本能や本心を必死に食い止めている時だ。
なのはは小さく頷いた。
彼女には黒いヘビに体を乗っ取られている実感がない。
精神の中枢を冒されてしまっているからだ。
いわば高町なのはは、区別のつかない現実と夢の両方を生きている生物ということになる。
「わたしは・・・・・・」
ぎらつく双眸が宿主を凝視した。
「私は・・・・・・フェイトちゃんが欲しい・・・・・・」
言った。
ついに言った。
彼女は欲しいものを言ったぞ。
しかも黒いヘビが予想していたとおりの限定的な表現で。
彼女はこれと決めたものに対する独占欲が強いようだ。
それが”欲しい”という言葉に露骨に表れている。
”よく言った。私がその願いを叶えよう”
なのははフェイトに想いを伝えたい、とは言わなかった。
フェイトに振り向いて欲しいとも、フェイトに好かれたいとも言わなかった。
彼女は”フェイトが欲しい”と言った。
フェイトを縛るあらゆるものを断ち切り、彼女と接する全ての面に自分だけがいたいという願望だ。
この世界に自分と彼女以外の存在を認めないという主張だ。
あまりにバカバカしく、飛躍した論に聞こえるが、少なくとも黒いヘビは彼女の言葉を以上のように受け取っている。

彼女の悲願はわざと誤った解釈をした闇によって成就しようとしている。
その兆候はすでに現れはじめているが、誰ひとりとしてその全容に気付く者はいない。
願いをかけた少女でさえも――。

 

 

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