(宿舎で一夜を明かしたリンディたちは、軍隊化反対への活動を進めていく)
ここでは自然をほとんど感じることはできない。
目に止まるのは無機質な人工物だらけだ。
床も壁も天井も、科学技術の手を借りた材質ばかりで出来ている。
窓から眺める景色も、眼下に広がるのは冷たい印象を与える構築物だけ。
上にはかろうじて不変の自然たる”空”が広がっているが、その奥には衛星が浮かんでおり、やはり人の手が加えられている。
ただひとつ変わらない――と、思えるのは――空気くらいだ。
これなら透明だから見た目には自然のものとしか思えない。
大気を成分分析すれば人工物が紛れ込んでいると分かるが、生活の中では実感せずにすむ。
リンディはここがあまり好きではなかった。
やるべき事があるために今は宿舎にいるが、1か月も居なければならないのかと思うと気が重くなる。
ここには人の温かみがない。
人間の数は多いし、モノも豊富にある。
しかし心は満たされない。
同じ管理局の人間でさえ、時と場合によっては敵と思えてくる。
実際、今も重要な議案に対して賛成・反対で対立している。
「ご心労、お察しします」
ぼんやりとしていたせいで、リンディは傍らにロドムがいることに気がつかなかった。
「お疲れでしたら活動は明日からでも――」
「いいえ、大丈夫よ。ありがとう」
決行を先延ばしにしようとするロドムを制して、彼女はすっと立ちあがった。
「1日くらいで事は大きく動きませんよ。私は提督のお体が心配です」
この士官は常に自分を気遣ってくれる。
リンディはそれを嬉しいと思う反面、そこに甘えてはいけないとも考えている。
「ここに来た理由を考えれば休んでいる暇なんてないわ」
殺伐とした空間の中でソファだけは居る者に安らぎを与えてくれる。
彼女にはこの安らぎを敢えて跳ね退け、冷たい戦いの中に飛び込む準備はできている。
「そうですか・・・・・・」
ロドムは呟き、背を向けて数枚の紙を取り出した。
A4サイズの書類には文字がびっしりと印刷されている。
「昨日のうちに反対派をリストアップしておきました。この宿舎にも30名ほどいますね」
遠目ではよく分からなかったが、よく見ると高官の名前が連なっている。
赤字で書かれているのが反対派、青字が賛成派だとすぐに分かった。
「これは・・・・・・」
リンディは言葉に詰まった。
精神的な疲労のせいか彼女は昨日、早々に眠ってしまった。
睡魔に敗れた瞬間、ロドムが何かしていたのは知っていたが・・・・・・。
何をしているのか尋ねる前にリンディの意識はなくなった。
本来ならこれは自分の仕事だ。
部下には護衛を頼むにしても、議案云々にまで巻き込むつもりはなかった。
しつこいようだが、アースラに属する者すべてがリンディの考え方に合わせる必要はない。
リンディは自分が恥ずかしくなった。
活動のとっかかりをロドムに押し付けた恰好になったことに、彼女自身は悔恨の念が強い。
部下だからそれくらいは、という考えはどうしても持てなかった。
「ごめんなさい」
出た言葉がこれだった。
軽々しく謝るものでもないと思ったが、今のリンディにはこれくらいしか言えない。
「私が頼りないせいであなたに要らない負担を――」
「それ以上は仰らないでください」
ロドムが止めた。
「無理やり連れて来られたなら別ですが、私は自分の意思でお手伝いしているのです」
だからいちいち気を遣わないでほしい、と彼は言った。
「議場で戦うのは提督ひとりかもしれませんが、そこに至るまでは私たちの戦いです」
リンディの体を熱いものが駆けた。
同時に彼のほうが自分よりもよほど提督に向いている、とも思った。
ロドムがこう言ったのは他ならないリンディの人徳によるものだと、本人は気付いていない。
上司を間違えればロドムでさえ、粗野で他人を顧みない冷徹な人間になっていたかもしれない。
「それにこのリスト、作ったのは私ひとりではありませんよ?」
ロドムは笑った。
その笑顔の陰に若きパイロット・ギミルや副管制官サイードの姿が見えた。
護衛となる武装隊も時間を見つけて手伝ってくれたに違いない。
トントンと扉を叩く音がした。
リンディは咄嗟にリストを隠し、
「どうぞ」
と入室を促した。
壁面の小型モニターを見れば、誰が訪問してきたかはすぐに分かる。
訪問者を確認したリンディはすぐにリストを隠す必要はなかったと悟った。
入ってきた男は一礼すると、すぐに善人そうな顔を2人に向けた。
「ビオドール提督」
見知った顔に出会えたリンディは無意識に顔をほころばせた。
「聞きましたよ。恐ろしいことです」
ビオドールは勧められてソファに座った。
リンディもそれに向かい合うように腰を下ろす。
この男はリンディとも旧知の仲であるビオドール提督。
デメテルの艦長でもあるが、今は任務から外れているため地上本部に留まっているようだ。
彼の自宅は本部に近いところにあり、そこでリンディたちが何者かの襲撃を受けたことを知った。
「まさかあのタクシーに乗っていたのがあなただったとは・・・・・・」
彼はことさら沈痛な面持ちで言った。
「頼もしい仲間が守ってくれましたわ」
リンディはちらりとロドムの方を見て言った。
「ご無事で何よりです」
ビオドールはそう返す他ない。
彼はここしばらくの間に起こった出来事についても話した。
大半はタクシー操縦士から聞いたのと同じだったが、いくつか気になる点もあった。
「ではやはり賛成派が?」
「ええ、それしか考えられません。捜査団もその線で調べているようです」
主犯は反対派と対立する賛成派。
この説はタクシー操縦士からも聞いている。
しかし今度は管理局に身を置くビオドールからの言葉だったため、この説はより真実味を帯びてくる。
「信じられない・・・・・・」
「信じられないのは手口のほうです」
落ち込むリンディにビオドールはぴしゃりと言った。
「同様の事件は何度かありましたが、一度としてその痕跡が残っていないのです」
彼は言う。
「人為的なものであるなら必ず痕跡が残ります。たとえば魔力の残滓とか――」
捜査当局が行き詰まるほど鮮やかな手口だという。
リンディやロドムもその点は実感している。
あの後、被害者ということで訪ねてきた調査官に事情を説明した。
ただ渦中の人物でありながら、犯人逮捕につながる情報をリンディたちは持っていなかった。
攻撃を受ける瞬間、中空に光が見えた、というだけでは捜査は進展しない。
「リンディ提督」
ビオドールは怖いほど低い声で言った。
「あなたは今、極めて不安定かつ危険な立場にあります」
彼は忠告してくれているのだ、と悟ったリンディは、
「ええ、その覚悟はできているつもりです」
と答えた。
が、ビオドールは身を乗り出して、
「違います。あなたが思っているよりも事は深刻なのです」
叱りうけるように切り返した。
「今回の起案は、ここしばらくの激動で家族や親しい者を失った局員や幹部によるものです。
みな表には出していませんが、中にはいまだにムドラへの怨恨を抱いている者もいます」
「ええ、ええ・・・・・・仕方のないことですね。犠牲者は戻ってはこないから・・・・・・」
ムドラの民や局員の中に、相手を恨んでいる者がいることは全然不思議に思わない。
何の犠牲も伴わず和睦の喜びに浮かれている者もいれば、その陰で涙を呑んだ者もいる。
特に親しい人を失った者ならば、その根源となった相手を憎むのも頷ける。
「リンディ提督、あなたは特に危険に晒されているのです」
ビオドールはこの点を強調した。
「私が反対派だから?」
「それだけではありません」
「どういう事でしょう?」
静観していたロドムが口を挟んできた。
「彼女が反対票を投じることは誰もが知っていることです。それに――」
「ちょっと待ってください。なぜ”誰もが”知っているんです? 事前調査は匿名のハズでは?」
ロドムはビオドールの言葉を遮って問うた。
まずここを明らかにしておかなければ、リンディにふりかかる危険は払えそうにない。
「先の2事件に最も深く関わったリンディ提督には内外の多くが注目しています。
彼女を見ていればどのような主義主張を持っているかはすぐに分かりますよ」
ビオドールは自分から見て立場が下の者に対しても丁寧な言葉づかいを選んだ。
ロドムは確かに階級は下だが、自分の部下ではない。
尊大な態度をとるのはただの驕りだ。
「今までに襲撃された者も、何らかの形で自分が反対派だと周囲に知られていました。
卑怯なようですが、より安全を求めるなら自分がどちらかを隠すべきだったのです」
ということはリンディは手遅れ・・・・・・ということになる。
「じゃあ、このリス――」
「なるほど! よく分かりました。それほど危険な状態だったのですね!」
ロドムはリストを取り出しかけたリンディに立ちはだかるように体を移動させた。
(それは出さないでください!)
さらに念話でリンディに釘を刺しておく。
(え? ええ・・・・・・)
なぜ隠す必要があるのか、と問いかけた彼女はロドムの鬼気迫る様子に何も言えなかった。
「それですと周りに反対派だと思われていて、実は賛成派だった、という人物にとっては災難でしかありませんね」
ロドムは声を落として言った。
「反対票を投じる可能性のある人物に対しては、確証がなくてもいいからとにかく数を減らしておく・・・・・・。
それが連中のやり方なんですよ」
ビオドールはため息混じりに吐いた。
(即答したか・・・・・・)
ロドムはわずかに視線を落とした。
ビオドールに何かを感じたロドムは、先ほどの質問に即答できなかったりチグハグな答えをした場合には疑うつもりでいた。
この場合の疑いとは、もちろんビオドールが賛成派の一味ではないか、ということである。
ロドムは二人の仲の良さを知っているが、そこを利用して付け込んでくるかもしれない。
表面上は親友を装って、リンディの心情を吐露させる。
そして賛成派にとって危険だと判断すれば・・・・・・。
こんな状況だ。
リンディには悪いが、疑いすぎるくらいで丁度いい。
ロドムは間違いなくビオドールを疑っていた。
(・・・・・・・・・・・・)
人として、決して褒められるようなことではないと自覚している。
しかし今は非常時だ。
リンディの命がかかっている。
信用することで破滅するくらいなら、疑って安全を勝ち得たほうがよい。
「事前調査では賛成派が多数を占めていますが、事が事だけに揺れ動いている者も多いハズ・・・・・・。
賛成派にとって、あなたの声は脅威なのです」
ビオドールが話を戻した。
「私が説得することが、ですか?」
「ええ、そうです。反対派はより意思を強め、賛成派は心動かされて身を翻す。そういうことなんですよ」
ビオドールは侮蔑するような笑みを浮かべた。
「茶番だわ」
リンディが吐き捨てた。
「軍隊化を押し進めるために反対派を力でねじ伏せる・・・・・・。これこそが未来の管理局の姿よ」
もっともだ、とロドムは思った。
「可決されれば、これと同じことが永久に続くことになるわ。邪魔な者、気に入らない者を蹴散らしてね」
そうなれば管理局はもはや”管理”をするのではなく、”制圧”を前提に動くことになる。
「賛同する者はそこまで考えていないのです。今の管理局の力不足を解消する、その一点しか見ていません」
彼は冷たく言い放つ。
「つまり賛成派は私を妨害する気なのですね?」
リンディは誰にともなく言った。
ビオドールは言う。
「昨日の襲撃は警告でしょう。それであなたが怯めばよし、駄目なら次の手を考えています」
「・・・・・・・・・・・・」
沈黙が流れた。
今度の敵は味方?
気の置けない同僚さえも疑えと?
これなら得体の知れない影のほうがよほどマシだった。
「あの程度の妨害に怯えていては提督は務まりませんわ。軍隊化が愚行だと説き伏せるまでです」
リンディは強気だ。
おそらく近くにいるロドムや護衛がこの強さの後押しをしているのだろう。
「あなたらしいお考えですね。しかし・・・・・・」
ビオドールは顔をしかめて水を差すようなことを言う。
「今回ばかりは退いたほうが賢明です」
しかしリンディも譲らない。
「ビオドール提督、ご憂慮感謝しますがこの案、どうしても可決させるわけにはいきません。
管理局は世界の秩序を守る組織。そこに過度の武力の存在を認めてしまえば、それは戦争に加担するのと同じです」
この言葉はそのまま演説に使える、と傍らで聞いていたロドムは思った。
リンディの声には魔法めいた力がある。
人はそれを慈愛に満ちた、と表現したりするが、たしかに聞く者の心に何かを感じさせる響きがある。
彼女の声と意味のある言葉を組み合わせれば、全く異なる考えを持つ者を靡かせることもできるかもしれない。
「私はあなたを危険な目に遭わせたくない。お気持ちは分かりますが、あなたの命はあなたひとりの物ではないのですよ?」
「・・・・・・」
リンディは言葉に詰まった。
(この人は本当にリンディ提督を心配しているのかもしれない・・・・・・)
ロドムは思った。
考えてみればリンディがこの部屋にいるのを知っているのだから、何も彼が直接やってくる必要はない。
リンディが反対派であることは明白なのだから、バレないよう素性の分からない刺客を差し向ければ済む話だ。
議案をどうしても可決させたいのであれば、それくらいのことで躊躇いは感じないハズだ。
(それとも親友のよしみで警告のつもりか?)
賛成派・反対派の関係よりも、親交の強さのほうが勝ったとでも言うのだろうか。
(これだけでは分からないな・・・・・・)
ロドムはそっとその場を離れ、目の届かない別室に移動した。
懐からリンディに渡したのとは違うリストを取り出す。
羅列された名前を下へ下へと確認する。
中ほどにビオドールの名前があった。
出身地、所属、階級などが黒字で書かれている。
(中立派か・・・・・・)
現時点で、投票権を持つ高官がどちらの考えを持っているかを知る材料は事前調査しかない。
これは匿名だが、少なくとも何人が賛成か反対か、あるいは中立かが分かる。
このリストの作成手順は単純ながら骨の折れる作業で、まずは事前調査の内訳を入手。
次に高官が公の場で発言したことがある場合にはその映像記録などから、どちらの考えであるかを調べる。
記録がない場合には近しい者などから直接聞き出す。
口の軽い者、考えの浅い者はたいていこのどちらかで賛成か反対かが判明する。
軍隊化についてはっきりとした見解を持っていれば、その人物はどこかで心情を吐露しているのだ。
ロドムたちはそれをひとつひとつ拾い上げ、リストの空欄を埋めていった。
大海に落とした針を探すような、気の遠くなる作業だ。
しかしこのリストが大いに役立つと考え、彼らは必死になって作成した。
リンディが無防備に賛成派と接触する危険を回避するのにも役立つ。
事前に敵と味方が分かっていれば、より安全にこの1か月を戦える。
ところがビオドール含め何人かは旗幟が明らかになっていなかった。
よほど慎重な性格なのか、賛成か反対かを窺わせるような痕跡をまったく残していない。
無口で人前に出ず、内向的な高官も多く、これらについてはリストに名前が載るのみである。
こういった人物は投票日までどちらか分からない。
土壇場になって棄権する可能性もある。
(こうなったら直接・・・・・・)
リストを再び懐にしまいこみ、ロドムは何食わぬ顔で部屋を出た。
が、いたのはリンディだけだった。
「・・・・・・提督、ビオドール提督は?」
「彼なら少し前に帰ったわ。雑務が残ってるとかで」
「そうですか・・・・・・」
ロドムは一呼吸おき、
「ビオドール提督は今回の件について、どうお考えなのでしょう?」
と本来、本人にするべき質問をリンディに投げた。
リンディは一瞬、意味が分からないという顔をする。
「決まってるじゃない。彼は野蛮な考えは好まないわ」
つまり反対派、ということだ。
「そ、そうですね・・・・・・」
彼女はビオドールを信用しきっている。
はたして本当に信用してもいいものだろうか。
ロドムは迷った。
どちらとも言えない。
彼の訪問はリンディを案じてとも、敵情視察とも考えられる。
(別に賛成派すべてが暗殺を目論んだりはしないか・・・・・・)
仮にビオドールが賛成派でも、そこまでするとは思えない。
ロドムは数分で熟考し、彼に危険はないと判断した。
いちいち懸念するよりも、このリストをもっと活用したほうがよさそうだ。
そう思っていると、リンディのほうから、
「もし良かったらついて来てくれないかしら?」
と声をかけてきた。
10分後。
投票日まで あと26日