悪魔の招待状 ―― 2日目(1) ――

 

――2日目。


 眠気を覚ますために頬をパチンと叩いたみさおは、心地よい痛みを感じながら食堂のドアを開けた。
「あ、おはようございます」
先に来ていたひよりが会釈する。
「おはよう。絵描きちゃん、朝早いんだな」
欠伸を噛み殺しながらみさおが答える。
「絵描きちゃんって私のことだよね。日下部先輩って面白い渾名思いつくんだ。岩崎さんはクールちゃんって呼んでたし……」
などと呟いた後、
「そんなことないッスよ。むしろいつもより遅いくらいッス。ほら――」
暖炉脇の時計を指さす。
「えっ!? もうこんな時間なのか?」
年季の入ったアナログ時計は午前10時20分を示している。
「こういうところだと時間の感覚狂いますよね」
「だよな……」
2人は告発文を見ないようにした。
が、時計を見る時だけは視野に映ってしまう。
「そういやさ、絵描きちゃんって運動系の部活もやってるのか?」
「はい? いえ、そういうのは入ってないッスよ」
「そっか……」
「どうかしたんスか?」
「いや、喋り方が体育会系っぽいなと思ってさ」
「あ〜よく言われるッス」
照れ隠しにひよりが鼻の頭を掻いた時、こなたとかがみがやって来た。
「やふ〜」
「おはよう、2人とも」
「おはようございます」
「おっす」
それぞれに挨拶を交わした後、こなたはあの告発文を眺めた。
かがみは告発分から目を逸らし、
「他のみんなは?」
とどちらにともなく問うた。
「さあ? 私はちょっと前に降りてきたばっかだし」
みさおが言うとすぐさま、
「岩崎さんと小早川さんは談話室にいるっスよ」
ひよりが1年生組の所在を明かした。
「おはよう〜……」
眠い目をこすりながらつかさとあやのが入って来る。
つかさは半開きになった目で食堂内を見回す。
「みんなもう起きてたのね」
そう言うあやのはぱっちりと目を開けてはいるものの、時おり険しい表情をする。
「ずいぶん遅くまで寝ちゃったわね」
腕時計を見ながらかがみが言った。
「………………」
見ないつもりがついつい告発文を視界に捉えてしまう。
「ねえ、こなた。本当にあんたじゃないの?」
かがみが冗談めかして問う。
「私なわけないじゃん」
こなたは柄にもなく怒気を孕んで否定した。
「ふ〜ん……」
かがみは少し目をつり上げて文面を追った。
簡単に言えば裁判官を気取ったような人間が、集まった10人にそれぞれ罪があるのでそれを裁く、というものだ。
難しい表現に惑わされなければ、各々の罪状はいたってシンプルな内容だ。
「全くのデタラメってわけじゃないんだよな…………」
みさおが顎に手をあてて呟いた時、
「なに言ってるのよ! こんなの根拠のない当て推量でしょ!」
あやのが体を震わせて怒鳴った。
「あ、ああ…………」
昨夜から見せるあやのの激情ぶりに、みさおは曖昧に頷いた。
しかしみさおの言葉どおり、全てが創作ではない。
たとえば彼女に絡む文面でいえば、兄とあやのの付き合いに関しては事実だし、
こなたの母親が亡くなっているという点も間違いない。
「仮に私だとしたら自分でお母さんのこと、こんな風に書かないよ……」
こなたはぼそりと呟く。
「皆さん、こちらにいらしたのですか」
みゆきがぼんやりとした顔でやって来た。
そこに集う数人を見た彼女は慌てて、
「す、すみません……! 私としたことが寝坊してしまって……すぐに朝食の用意をしますので……!!」
厨房へと走り去る。
昨夜と同じく、手伝うと言ってつかさとあやのがその後を追った。
「そんなに急がなくてもいいのに」
「だよね。旅館じゃないんだから……」
その後、食堂での閑談はまるで料理が出てくるのを待っているみたいで嫌だ、とかがみが言ったため、
彼女たちは談話室に場所を移した。
「あれ?」
ひよりが首を傾げた。
ゆたかとみなみの姿がない。
「トイレにでも行ってるんじゃね?」
みさおは別段気にする様子もなくソファに腰をおろす。
メンバーの元気印ともいうべき彼女も、昨日の遊び疲れが抜けていないのか声に元気がない。
これはみさおに限ったことではなく、こなたたちも同様だった。
他愛もない話をしている4人だが時々、会話がぷつりと途切れる。
「あの…………」
妙な空気が流れだした頃、ゆたかとみなみが談話室に入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます。あの……」
ゆたかが憚るように声を落とし、
「パトリシアさんが起きてこないんです……」
申し訳なさそうに言った。
「パトリシアさんが?」
「はい。何度も声をかけたのですが」
みなみの声はほとんど聞き取れない。
「疲れて寝てるのかもしれないね。私も今日ばかりは寝足りないくらいだし」
「あんたはいっつもそうでしょうが」
こなたに軽く突っ込みを入れ、かがみが立ち上がった。
「もうすぐ朝食ができるだろうし、そろそろ起こしてこよっか」
「私も行きます」
この辺りは面倒見のよいかがみは、ゆたかとみなみを率いてパティの部屋へ向かう。
談話室に残った3人は彼女たちが戻ってくるまでの間、一度は途切れた会話を再開させたが、
その大半はオタクトークに費やされた。
「――で、かがみみたいなのをツンデレって言うんだよ」
ひとり分からない顔をしているみさおに、2人はそっち方面の単語を刷り込もうとする。
「誰がツンデレだ」
いつの間にかかがみが戻って来ていた。
「うおぅ! そういうところがツン――あれ、パトリシアさんは?」
「それがさ、何度呼んでも返事がないのよ。仕方ないから諦めて戻って来たんだけど」
「眼鏡ちゃんに一応言っておいたほうがいいんじゃないか?」
「そうね」
そろそろ朝食もできる頃だろうと一丸となって食堂へ移る。
料理はすでに出来上がっていた。
寝起きで時間も足りなかったとあって、パンにサラダと紅茶というシンプルな品書きである。
「ちょうどよいところに。今できたばかりなんですよ」
笑みを浮かべるみゆきの顔にはやや元気が戻ってきているように見えた。
「みゆき……あのさ……」
代表してかがみが状況を伝えることにした。
話を聞いたみゆきはしばらく黙っていたが、
「ただお疲れならいいのですが……昨日は雨に当たりましたから、もしかしたら体調を崩されているのかもしれませんね」
やがて搾り出すように言った。
もしそうなら招いた側として看護する責任がある。
「皆さん、先に召しあがっていてください。様子を見てきますので」
「様子ったって鍵かかってるのよ?」
「管理人室に予備の鍵があったと思います」
「でも勝手に他人の部屋に――」
かがみは言いかけたが途中で言葉を切った。
「私たちも一緒に行きます……」
蚊の鳴くような声でみなみが言い、ゆたか、ひよりが同行する。
「先に……って言われても食べられるわけないよね?」
こなたがぼそりと言った。
「そうだよね。皆が戻ってくるまで待ってようよ」
残された5人はみゆきたちを待った。
秒針が時を刻む音が妙に響く。
「ね、ねえ、あれって…………」
つかさが告発文を指差して言いかけたが、
「単なる悪戯でしょ。ちょっと悪趣味だけど」
かがみが一蹴した。
誰もこれを剥がそうとはしない。
みゆきが戻ってくるまでの間、5人は他愛もない世間話で間を持たせた。
女の子らしくドラマやアイドルの話を中心に、時おりこなたがオタトークで話題を引っ掻き回す。
「カッコイイよね。あの人が主役って初めてかも?」
「だいぶ前にチョイ役で出てたことは何度かあったけどね」
「挿入歌も結構いいよな。ああいうテンポいいやつ聞いてると気持ちいいんだよな」
そこそこに話が盛り上がりかけた時、ドタドタと廊下を走る音が聞こえ、食堂のドアが乱暴に開かれた。
「ちょっ、みゆき? どうしたのよ……」
縁にしがみつき、肩で息をしながらみゆきが喉を小さく鳴らして、
「たいへん……大変です……パトリシアさんが…………!!」
掠れた声でそう言った。



 ふらつく足取りのみゆきを支えながらこなたたちがパティの部屋前までやって来ると、
「ああ、先輩……!!」
ひよりが今にも倒れそうな顔で駆け寄ってきた。
「パトリシアさんが…………」
彼女もみゆきと同じところで言葉を切る。
鉄錆の臭いが辺りに立ち込めている。
かがみが半開きになっていたドアをゆっくりと開いた。
「………………ッl?」
と同時に彼女の動きはぴたりと止まった。
パティが腹部から赤黒い液体を流して仰向けに倒れていた。
傷口から溢れたそれは彼女を中心に小さな池を作っている。
ほとんど黒に近い水溜まりの中に同じ色に染まったナイフが落ちていた。
「一向に……返事がありませんでしたので開けたんです……そうしたら、そうしたらこんな……」
みゆきがバランスを崩した。
傍にいたあやのが慌てて抱きとめる。
「何なんだよ……いったい……」
みさおが呟く。
まるで人形のようにパトリシアの体が横たわっている。
彼女は窓側に向かって倒れており、部屋の入り口からは顔が見えない。
「うっ…………!!」
ゆたかは口を手で覆った。
みなみが彼女の視界を遮るように正面に移動し、そっと両肩に手を添える。
「いちおう脈をとってみたほうが」
ひよりが提案したが、
「多分……無理だと思うわ……」
あやのがやんわりと制した。
「と、とにかく戻ろうよ!」
こなたの叫び声に皆は呪縛から解かれたようにその場を離れた。





一同は談話室に集まった。
食堂にはこれから食べるハズだった10人分の朝食が並べられたままだが、誰もそれには触れない。
柱時計の音がやけに大きく聞こえる。
「何の冗談よ、これ……?」
沈黙を苛立たしげに破ったのはかがみだ。
「昨日の晩からヘンな事ばっかり! 脅かすつもりなら別の時にやればいいでしょ!?」
誰に対して怒鳴っているのか、彼女は虚空に向かって叫んだ。
「お姉ちゃん、落ち着いて……」
つかさが袖を引っ張った。
「どうしてこんな事に…………どうして、どうして……」
みゆきは肩を震わせて同じ言葉を繰り返し呟いている。
「ね、ねえ……余興にしてはやりすぎだよ。もうこんなのいいからさ」
額に浮かぶ汗を拭うこともせずにこなたが言った。
その視線は別荘の持ち主であるみゆきに向けられているが、当の本人の視線は定まっていない。
「あの……どうするんスか……?」
「どうするったって、こんな事になってるんじゃ……」
「あ、あのぅ……警察に通報しないと――」
みなみに肩を抱かれていたゆたかが震えた声で言った。
「そ、そうだよ! 警察! 警察だよ!」
興奮して思わず立ち上がったこなたはポケットをまさぐって携帯を取り出す。
「あ…………」
しかしその勢いはすぐに萎えていく。
圏外だった。
通話ボタンを押しても、

”電波状態のよいところでかけなおしてください”

のメッセージが出るだけだ。
「マジかよ……」
「こっちも駄目だわ」
各々、自分の携帯を開いては落胆の声を漏らす。
「あれ、つかさは?」
かがみの携帯を覗き込んでいるつかさに、こなたは怪訝そうに訊ねた。
「部屋に置いてきちゃって……」
つかさが恥ずかしそうに顔を赤くした。
「あの皆さん……どうか落ち着いて聞いて下さい」
どこに行っていたのか、談話室の入口に立っていたみゆきは蒼い顔をして言った。
「電話が……通じないんです。電話線を切られているらしくて……」
この館にはホールに一台だけ電話機が備え付けられているが、何者かがそうしたのか繋がらないという。
「パトリシアさんを殺した人が?」
みなみが訊いた。
「迎えの船は明後日にならないと来ないのよね?」
というあやのの問いにみゆきは小さく頷く。
「船頭さんには連絡できないの?」
「電話が通じればすぐにでも迎えをお願いできるのですが……」
「その電話が通じないんでしょ!?」
かがみがヒステリックに叫んだ。
「は、はい……申し訳ありません……」
「眼鏡ちゃんを責めてもしょうがねえよ。これからの事を考え――」
「あっ!!」
その時、みなみが驚くほど大きな声をあげた。
「ど、どうしたの? みなみちゃん……?」
みなみは目を見開いて一点を凝視していた。
「い、いま……廊下の向こうに人が……!!」
こなたたちは互いに顔を見合わせた。
誰もが額に汗を浮かべているのを認める。
みなみが言うには何者かが廊下の向こうに消えていったらしい。
「みなみちゃん……」
「その誰かがパトリシアさんを……?」
ゆたかとひよりが唾を飲み込んだ。
「私たち以外に誰かいるっていうの?」
かがみの問いには誰も答えない。
「追いかけよう」
震える声でかがみが言った。
「これだけいるんだからきっと何とかなるわよ」
「で、でも……」
「気味悪いじゃない! それにどこかに隠れられたらどうするのよ!? 私たちで捕まえれば安心でしょ!?」
「わ、私は柊に賛成だ。そのほうがいいと思う」
みさおが前に出た。
「私も行くよ。ゆーちゃんたちはここに隠れてて」
犯人と対峙となった時、真っ先に狙われそうなゆたかをみなみに預ける。
「いや、私たちも行くッスよ。別行動だとかえって危ないスから」
結局、まとまって動いたほうが安全だということで9人総出で犯人の行方を追う事になった。
みなみが見たという人影は廊下の奥に走って行ったらしい。
こなたたちはその途中の部屋を順番に調べて回る。
空き部屋は施錠されているから、物置などのスペースを探ることになる。
基本的に一本道の構造だから突き当たりまで調査すれば、必ず犯人を捕まえられる。
――ハズだった。





「どういうこと……?」
目の前には薄暗い壁。
狭く、湿っぽい突き当たりの物置には窓がないために空気が淀んでいるように感じられた。
埃を被った本棚とキャビネット以外には何もなく、誰かが隠れられるようなスペースももちろんない。
その最後の物置まで調べたこなたたちは、呆然と立ち尽くした。
談話室はホールのすぐ左手にあり、みなみが見た人影はホールの反対側の廊下に消えたから2階に上がることはありえない。
追い詰めれば西棟の突き当たりを袋小路に捉えられるハズだったのだ。
「どこに消えたっていうの?」
一同は不安げにみゆきに視線を送る。
分からない、と答える代わりに彼女はかぶりを振った。
「皆で固まって動いたから、その隙に逃げたってことはないかな?」
かがみにぴったり寄り添うようにしてつかさが呟いた。
「でも隠れられるような場所はなかったと思うけど」
「途中の部屋は鍵がかかってたし」
「これだけいて誰にも見つからずに動けるか?」
昨日のうちに見取り図で館の構造を知っているかがみたちは、口々につかさの仮説を否定する。
「もしかしたら外に逃げたのかもしれません」
意外にも彼女の考えを支持したのはみゆきだった。
「どうやってそうしたのかは分かりませんが……見つからないのはそういう理由ではないかと……」
無言のままに9人の中で視線が交錯する。
館にいないからといって捜索を中断していいのか。
何者かを放置していいのか。
また戻ってくるのではないか。
明後日まで凌げるのか……。
そうした意味の視線を交わし合う。
「皆で手分けして捜そうぜ」
重い空気を吹き飛ばすようにみさおが言った。
「眼鏡ちゃんには悪いけどこの島はそんなに大きくないし、これだけいれば見つけられるんじゃないか?」
「それはそうですが……」
「だろ? だったら早い方がいいじゃん」
「ですが……皆さんはよろしいのですか?」
みゆきは宿泊客を順番に見回した。
どの顔も不安げである。
「……日下部さんのご意見に賛成の方は手を挙げてください」
挙手したのはみさお、こなた、かがみ、みなみ、ひよりの5人。
「では反対の方は?」
問うたみゆき自身とゆたかが手を挙げる。
あやのとつかさはどちらにも意思を示さなかった。
仮に2人が反対だとしても賛成を上回ることはできない。
みゆきは観念したように、
「分かりました。3人でグループを作りましょう。それでいいですか?」
前半は全員に、後半はみさおに言った。
「ああ、いいと思うぜ。3人なら何かあっても大丈夫だろうし」
いざ犯人と対峙した時を考え、性格や体格などを考慮して、

こなた・みさお・あやののAグループ。
かがみ・つかさ・ゆたかのBグループ。
みゆき・みなみ・ひよりのCグループ。

のように分かれることになった。
「私たちはちょっと心許ないわね」
かがみが顎に手を当てて言った。
「いやいや、凶暴なかがみんなら1人でも十分なくらいだよ」
「……もしかしなくてもケンカ売ってるわよね?」
「でしたらかがみさんのグループは館近辺を捜索されるのがいいと思います」
犯人は既に館の外に出て島のどこかに潜んでいる――。
との考えからBグループは館周辺を、Cグループは沿岸を、Aグループはその中間辺りを捜索することになった。
武器を持っていたほうがいいとこなたが言ったため、それぞれに使えそうな道具を探す。
厨房には包丁が数本あるが鋭利な物はかえって危険だということで、擂粉木やモップの柄などをかき集める。
ホールに集まった9人の顔色は晴れない。
「なんか頼りないね……」
「しょうがないわよ。刃物は危ないし」
「大丈夫かな……鉄砲とか持ってたらどうしよう……」
擂粉木をしっかりと握ったつかさはかがみに寄り添った。
「鉄砲持ってるんならナイフ使って殺したりしないわよ」
かがみが言った。
「私たちに気付かれないように敢えて銃を使わなかったかもしれないわ」
あやのがつかさの不安を煽るようなことを言った。
「だったらこんな棒きれなんて何の役にも――!?」
モップの柄をまじまじと見つめたかがみは、つかさの顔を見て声を失った。
「どうしたの?」
「つ、つかさ……ッ! それ……ッッ!!」
怯えたようなかがみの声にこなたたちは一斉につかさを見る。
彼女の左頬が赤く染まっていた。
まるで涙のように目尻の辺りから赤い液体が垂れている。
「…………?」
注目を浴びている理由が分からないつかさは、どうやら全員が自分の頬辺りを見つめていることに気付きそっと手で拭う。
「な、なにこれ!?」
手にべったりと貼りつく赤につかさは小さく悲鳴をあげた。
「あ、あれッスよ! あれ見てください!」
ひよりが天井を指さした。
「なんだあれ……?」
真っ白な吹き抜けの天井に刷毛で塗ったように赤い線が1本引かれている。
それが重力に従って落下し、その真下にいたつかさの頬を濡らしたのだ。
「これ……血じゃない……」
手を鼻に近づけたつかさは首を傾げた。
「絵の具か何かだと思うけど……血のつもりかしら……」
かがみが持っていたハンカチで擦ると、うっすら色が残るくらいにまで拭きとれた。
「悪趣味な犯人だわ」
「っていうかどうやってあんな所に塗ったんだ?」
「………………」
血を意識しているらしい赤い線に、こなたたちの目はしばらく釘付けになった。
「どうかしてるわ……」
かがみが唇を噛んだ。
「みゆきさん、あれどうする……?」
こなたが困ったような表情で問うた。
「どうと仰られても――」
一同、この不気味な演出が気になるのか気まずそうな顔でみゆきを見る。
「んなことより今はクールちゃんが見た奴を捕まえるのが先だろ」
返答に窮している様子のみゆきに、みさおが助け舟を出した。
「それにどうせ犯人の奴がやったに決まってんだ」
という付け足しがあり、彼女たちはひとまず赤い線を意識の外に置くことで意思統一した。
「で、では遭遇してもあまり刺激しない方向で……皆さん……大丈夫とは思いますがくれぐれも気をつけてください」
そう言うみゆきの声が一番震えていた。
もちろん不審者を捕まえるのが目的だが、ヘタに刺激して逆襲に出られると危険だ。
みゆきは再三に渡ってその点を強調した。
「分かってるって。じゃあ1時間後にここに集合な」
携帯が使えない状態での行動となるため、3組は成果に関係なく1時間後にホールに集まることにした。
「では行きましょう……」
みなみを先頭にCグループが館を出る。
「かがみ、ゆーちゃんのこと頼むね」
「分かったわ」
Aグループは館を離れていく。
「じゃあまたここで……」
みさおがモップの柄をぐっと握り締めた。




「高良ちゃんたちはもう海まで出たかしら?」
草木を掻き分けながらあやのが呟いた。
「もう着いてると思うよ。みゆきさん家の島だしスムーズに行ったんじゃないかな」
「気をつけろよ。この辺に隠れてるかもしれないぜ」
みさおは落ち着きなく辺りを窺っている。
時おり風が吹いて草が揺れると、彼女たちは反射的にそちらの方を見やる。
犯人はどこに潜んでいるか分からないのだ。
小さな物音ひとつにさえ、こなたたちは全神経を集中させる。
「あっ!」
みさおが声をあげた。
「なに!?」
「どうしたの!?」
それぞれに武器をしっかり構え、こなたとあやのが身を固くする。
「悪い……見間違いだった……」
みさおの視線の先では葉が風に揺れている。
「ちょっ、みさきち! 心臓に悪いって……!」
珍しくこなたが顔を赤くして怒った。
「だから悪かったって……」
みさおが照れ隠しに笑った。
捜索開始から10分程が経った。
こなたたちは館から300メートルほどの距離をぐるりと回ったが、特におかしなところはない。
「う〜ん……」
「どしたの、峰岸さん? さっきからずっと唸ってるけど」
声をかけられたあやのは徐(おもむろ)に顔を上げた。
「なにか気になるっていうか……」
ハッキリとはしないが引っ掛かるものがある、とあやのは言った。
Aグループは常に館が見える距離を捜索している。
あやのはしばしば顔を上げては館を見つめ、何か考えているのか小さく唸る。
「あれ…………?」
館の正面まで来て彼女の歩みがぴたりと止まった。
「あやの?」
前を歩いていたみさおが引き返す。
あやのはじっと館の屋根を凝視している。
「やっぱり……」
「…………?」
「ねえ、みさちゃん。ちょっと泉ちゃんを肩車してくれない?」
「…………ほえ?」
なんで私が、という目でみさおがこなたを見る。
見るというより見下ろす恰好となり、こなたは少し顔を上げて見返す。
「お願い」
「ん、まあ別にいいけど?」
「峰岸さん、急にどうしたの?」
「ちょっと気になることがあって」
こなたに確かめてほしい、とあやのは言った。
「しょうがねえな、ほら」
みさおが姿勢を落とした。
「う、うん……」
幼子がしてもらうように、こなたの股下にみさおが頭を挟み込む。
「掴まってろよ」
言うと同時にみさおがこなたの両膝に手を添えて立ち上がる。
「うわ、見た目どおりやっぱ軽いな」
「む……軽くて悪かったね」
余裕の笑みを浮かべてみさおは背伸びなどしている。
「泉ちゃん、そこから煙突見える?」
「煙突? ううん、何にもないよ?」
みさおが移動して別角度から見るが、煙突の類はどこにも見当たらなかった。
あやのは顎に手を当てて難しい顔をした。
何かを思いついたらしい彼女に、2人は沈黙を守った。
こなたもみさおも積極的にモノを考えるタイプではない。
ここではあやのの頭脳が頼りだ。
やがて彼女はゆっくりと顔を上げて、
「確かめたいことがあるの――」
凛とした表情で言った。



「お、お姉ちゃぁん……やめようよぅ……」
ゆたかの手を引きながら、つかさが涙目になって訴える。
一方のゆたかは緊張から体を固くしているものの、グループの一員として捜索を怠っていない。
これではどちらが年下なのか分からない。
「物陰に潜んでるかもしれないじゃない。それにちゃんと調べないと意味ないわよ」
かがみ率いるBグループはメンバーの弱さもあり、館のごく近辺を調べて回る。
単純な構造の別荘は輪郭をなぞってみると、意外と大きな屋敷であることが分かる。
3人はちょうどパティの部屋の前に来た。
「ここから入ったんでしょうね……」
1年生組は全員が1階に部屋をとっている。
窓から侵入するのは容易い。
「でも鍵がかかってますよ?」
ゆたかが言った。
彼女の言うように窓は施錠されていた。
「誰も触ってないわよね?」
かがみの問いに2人が頷く。
「じゃあ中から……?」
つかさの何気ない呟きは2人の心胆を寒からしめる。
これほど不気味なことはない。
犯人がいつ、どうやって忍び込んだのかは分からないが、彼女たちは凶悪な殺人犯と一夜を共にした可能性があるのだ。
「で、でも何か仕掛けを使って外から鍵をかけたのかもしれませんよ?」
気味の悪い可能性を否定するようにゆたかが言った。
「仕掛けってどんな……」
その時、すぐ近くの茂みからガサガサと音がした。
「先輩!」
「お姉ちゃん!」
2人がほとんど同時にかがみにしがみつく。
足音が近づいてくる。
「だ、誰よっ!? 出てきなさいよ!!」
かがみは後ずさりしながら吼えた。
「私たちだよ」
「ひゃああぁぁぁ!!」
茂みからぬっと顔を出したこなたたちに、かがみは尻もちをついた。
「なぁんだ、こなちゃんたちだったの」
「ビックリしたぁ〜」
見知った顔に妹たちは表情を綻ばせるが、かがみだけは引きつった笑みを浮かべていた。
「柊……ビビりすぎだぜ……」
「し、仕方ないじゃない! あんたたちが来るなんて思わなかったんだから!」
耳まで真っ赤にしたかがみは反射的に時計を見た。
集合まではまだ30分ちかくある。
「で、どうしたのよ? まだこんな時間じゃない」
かがみがばつ悪そうに訊いた。
「うん、あのね……」
後からやってきたあやのが答える。





「なんかドキドキするね」
心許ないBグループに体力に自信のあるAグループが加わったというのに、つかさはまた怯えの色を露にした。
確かめたいことがある、というあやのを先頭に5人は食堂にやって来た。
10人分の朝食はそのままテーブルに残されている。
告発文が厭でも視界に飛び込むが、彼女たちの目的はそのすぐ横にある暖炉だ。
「ずっと気になってたの。泉ちゃんに見てもらったら煙突はなかったって言うからもしかしたらと思って……」
こなたが暖炉の中に入る。
「あった! 峰岸さんが言ったとおりだよ! 足場がある!」
携帯のライトで暖炉内を照らしたこなたは壁に等間隔の突起を見つけた。
数十センチ張り出した突起は足をかけて登るには十分だ。
「じゃあここから……?」
ゆたかの問いにあやのは頷く。
彼女の考えは暖炉の奥に梯子のようなものがあって、犯人はそれを使って2階に逃げたというものだ。
これならみなみの目撃した人影が霧のように消えた理由も説明がつく。
「真上ってたしか多目的ホールだったわよね?」
「登って確かめてみようよ」
と言ってこなたは早くも一段目に足をかける。
「ちょ、ちょっと待って!」
つかさがこなたの足を引っ張った。
「1人で行っちゃ危ないよ。犯人が待ち伏せしてるかもしれないよ?」
「そう……ね。じゃあ私たち、上で待ってるから5分経ったら登ってきてよ」
Bグループの3人は小走りで食堂を出て行った。
あやのの推測通りならこの隠し通路は2階のどこかに繋がっているハズだ。
「しっかしよくこんなの気付くよな」
みさおが腕を組んで頻りに頷いている。
「うん、岩崎ちゃんが見たっていう人影がどこにもいなかったからおかしいなって思ったの。
それでいろいろ考えたら食堂をちゃんと調べてなかったことに気付いて……ほら、これがあるから……」
そう言って告発文を指さす。
内容が内容だけについ忌避してしまいがちだが、これも何かのヒントになるかも知れないとあやのは言った。
「そろそろ行くよ。みさきち、下は頼んだよ。かがみたちに会ったらすぐに降りるから」
「オッケ、任せとけ。チビッ子も気をつけろよ」
こなたが隠し通路を行く間、食堂はみさおとあやのだけになる。
犯人が近くに潜んでいたらその隙を衝いてくるかもしれない。
こなたは身軽さを活かして足場を登っていく。
中ほどに来ると光は届かなくなり、上下の感覚も分からなくなってくる。
こなたは携帯電話のライトを点けた。
頼りないが今はこれが唯一の光源だ。
何段か登ったところで天井にぶちあたる。
「やっぱり……」
行き止まりではなかった。
天井のように見えるが銀色の取っ手が付いている。
こなたは携帯を咥えてそれを引っ張ってみた。
が、ビクともしない。
ならばと押し上げてみると、天井の一部がぽっかりと開いた。
すぐに光が差し込んでくる。
「こなた!」
頭上からかがみの声がした。
見上げると不安そうに覗きこんでいるかがみとゆたかの顔があった。
最後の突起に足をかけて縁をつかみ、こなたはぐいっと体を持ち上げた。
「これで繋がったわね……」
辿りついたのは大方の予想どおり、多目的ホールだった。
「壁際にヘンな枠があったから、もしかしたらここかなって」
こなたが登ってくる場所を見つけたのはつかさだった。
ホールには入って正面に長テーブルが据え付けられていたが、その奥に回り込んでみると床下収納のようなスペースがあった。
ところがこの床側には取っ手も紙を差し込むような隙間もない。
つまりホールからは開けられないということだ。
「犯人はここを通って2階に逃げてたワケね」
かがみが頷いた。
「だからいくら捜しても見つからなかったんですね」
ゆたかはポッカリ空いた隠し通路を覗き見た。
「下でみさきちたちが待ってるから降りるよ。かがみたちも食堂に来て」
「分かったわ」
こなたが半分ほど降りたところで、かがみは入口をゆっくりと閉じた。
垂直の移動は登りよりも下りのほうが慎重さを必要とする。
目的を果たしたこなたはゆっくりと一段一段、確かめるように足を下ろしていく。
その時、下でイスが倒れる音がした。
「あやのっ!?」
続いてみさおの叫び声。
「な、なに……ッッ!?」
こなたの体は硬直した。
見上げれば暗闇、見下ろせばあと数段で暖炉を降り切る高さにこなたはいる。
彼女は息を呑んだ。
「どうしよう…………」
こなたは一段下の突起に足をかけた。
その姿勢のまま数秒待つ。
下からはそれ以上の音は聞こえない。
「犯人がいるんなら足音とか聞こえるハズだよね……」
こなたはそろりと足場を降りる。
「お、戻ってきた」
暖炉を覗き込んでいたみさおが小さく息を吐く。
みさおは涼しそうな顔をしているが、あやのは額にうっすらと汗を浮かべている。
「みさきち、今の音……何だったの?」
埃を払ったこなたは食堂を見回した。
イスはきちんと据えられており、揉み合いになったような形跡もない。
「あ、さっきのは――」
あやのが恥ずかしそうに俯いた。
「あやのがゴキブリ見つけてさ。急に飛びついてくるからイス倒しちまったんだよ」
「ビックリさせないでよ! 犯人かと思ったじゃん!」
こなたは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ご、ごめんね……それでどうだった?」
あやのが不安げな顔で問う。
「ホールに繋がってたよ。テーブルの奥に出られるようになってる」
次いで扉の構造についても説明する。
「――って感じなんだ。だからここからは登れるけど、逆に2階からは使えないんだよね」
なぜ一方通行にしてあるのかと、こなたは首を傾げた。
「そうよね。それじゃ隠し通路の意味がないと思うけど……」
この点にはあやのも合点がいかないようである。
仮に2階に犯人がいて総出で捜索されたら1階に逃げることはできなくなる。
「先にホールの方が見つかっても隠し通路だと思わせないためなんじゃねえの?」
その理由を説明したのはみさおだった。
「どういうこと?」
「あやのはたまたま気付いたけど普通、暖炉を覗き込んで足場があるなんて誰も思わないだろ? そもそも死角なんだし。
でも2階のホールだったらどうだ? 足元にヘンな枠があったらさすがにちょっとは気にならないか?」
「うーん……」
こなたは小さく唸った。
「でも取っ手も隙間もないんだから、まさか開けようなんて思わない。で、暖炉の方も誰も気づかない。
そういうのが”隠し通路”なんじゃね? 実際、あやのしか気が付かなかったんだし」
やや強引な感じもするが一応は筋が通っている。
みさおらしくない分析に2人は互いに顔を見合わせて苦笑いする。
「な、なんだよ……?」
「いやさ、みさきちらしくないなって……」
「悪かったな!」
みさおが不貞腐れると同時にかがみたちが戻ってきた。
「ここを使って逃げたってのは間違いなさそ――日下部、何でスネてんの?」
「ああ、これはね……」
こなたが身振り手振りを交えつつみさおの推理を伝える。
それを黙って聞いていたかがみはちらっと彼女の方を見て、
「へえ……日下部にしてはやるじゃない」
うんうんと頷いた。
「あやの〜〜私の推理がぁ……」
思ったほどの評価が得られず、みさおはあやのに泣きついた。
「みさちゃんの推理もすごかったわよ」
こんな時でさえ彼女はフォロー役に回った。
一時は隠し通路の発見に興奮気味だった彼女たちだが、すぐにその熱も冷めてしまう。
犯人の逃走経路が分かっただけで根本的な解決にはなっていない。
少なくともその犯人が捕まらない限り安息は得られないのだ。
「あの……犯人がここを通って逃げたということは……」
ゆたかが暖炉を見ながら言う。
「この別荘に詳しい人ってことになりますよね」
彼女の発言はごく当たり前のことだが、5人は互いに顔を見合わせた。
「もしかしたら他にもこういうのがあるんじゃない?」
というかがみの一言にこなたたちは頷いた。
パティの件はいわゆる密室殺人だ。
だが暖炉のような抜け道があれば密室を作り出すことは不可能ではない。
しかし今からパティの部屋を調べようとは誰も言い出さない。
館の捜索もしたいところだが集合時間が迫っているということで、一同はホールに戻る。
するとどうしても視線を上に向けてしまう。
天井の赤い線は乾ききったのか、塗料が滴り落ちることはもうない。
「…………」
ただペンキの類で赤い線が引かれているだけだというのに、こなたたちはそれを見るだけで身震いした。
湿った空気がどこからともなく流れてくる。
「ちょっと遅くない……?」
つかさが時計を見て言った。
約束の時間まで5分を切っている。
こなたならともかく、Cグループの3人は時間に遅れるようなことはない。
厳密にいえばまだ5分あるのだが、この時点で戻ってきていないことに不安が募る。
1分、2分と時間が経つ。
みゆきたちは戻ってこない。
「何かあったんじゃ……?」
ついに集合時間は過ぎたが、みゆきたちは姿を現さない。
6人の顔に焦りの色が浮かぶ。
「行こう!」
こなたたちは一丸となって外に飛び出した。




 昨日の雨がウソのように空は青々と晴れ渡っていた。
やや日差しが強いが、その分視界は広がり隠れ潜む場所は少なくなる。
ゆたかを中心に守るように5人は体を密着させて丘を下る。
特に最も遠い場所を捜索するCグループのルートを確認しておかなかったのは間違いだった。
沿岸を見て回るみゆきたちは少なくとも桟橋のところまで一直線に向かったハズだが、
その後に左右のどちらに移動したのかまでは分からない。
地面も乾いている今では足跡をたどることもできない。
「とりあえず海まで出よう」
暖炉の件といい、意外にも冷静なあやのがこの先の行動を決める。
他に案のないこなたたちは周囲に気を配りながら林を抜けた。
見晴らしのよい砂浜に出ると彼女たちは思わず大息した。
視界を遮るものは何もなく、犯人が身を潜めるような遮蔽物もない。
「誰も……いないわね」
かがみが呟く。
犯人の姿もみゆきたちの姿もない。
前日にはここでビーチバレーに興じていたというのに、それから半日も経たないうちに死者が出ている。
風光明媚はその後ろの館で陰惨な事件があったことを思わせない。
「どっちに行ったんだ?」
桟橋を前にしてみさおが腕を組んだ。
捜索は1時間で切り上げてホールに集まるという約束はきちんとした打ち合わせのように思えるが、
その実は犯人が見つからないことを前提としたお飾りのようなものだ。
従って細部に至って杜撰で連携もとれない。
試しに、とこなたが携帯を取り出してみたがやはり圏外だった。
「とりあえず左回りに歩いてみようよ」
つかさの言葉で6人は海を右手に沿岸を行く。
十数メートル続いた白砂の浜は突然に途切れ、代わって岩場が姿を現した。
永い時間をかけて漣(さざなみ)に穿たれた岩は、歪に丸みを帯びて堆くなり行く手を塞ぐ。
沿岸を行く、というコースはここで行き止まりだ。
だが岩場を迂回して一旦陸側に戻り、丘陵を登れば再び海岸に出ることができる。
桟橋まで引き返すより、このまま島を一周したほうがいい。
こなたたちは岩場を迂回することにした。
館と桟橋以外に人工物のないこの島は、手入れする者もいないためにあちこちに雑草が生い茂っている。
コースを逸れると途端にジャングルのような密林に飛び込んでしまう。
「わぁっ!」
「つかさー、自分の足音にビックリするのやめなさいよ」
暑苦しいほどぴったりと寄り添うつかさに、かがみは呆れ顔で窘めた。
「だって…………」
草を踏む音、小枝が折れる音は思いの外響く。
快晴のハズが頭上に広がる枝葉のせいで辺りは薄暗い。
おまけに人ひとりくらいなら息を潜めていても分からないほどの背の高い草が茂る。
こなたの歩みがぴたりと止まった。
彼女は呼吸するのも忘れて左手の茂みを見つめている。
「こなたお姉ちゃん?」
様子のおかしいのに気付き、ゆたかが不安げに顔を見上げる。
だがこなたはそれを無視して茂みをかき分けた。
「――――ッッ!!」
みゆきとみなみが倒れていた。
人目を憚るように2人は体を小さく折りたたんで身を寄せ合っている。
「あ、あ、ああ…………」
かがみたちを呼ぼうとするがうまく声が出ない。
「チビッ子、何か見つか――」
みさおがひょいと覗き込む。
瞬間、視界に捉えたものに息を呑んだ。
「…………」
非現実的な光景の連続につかさはその場に膝をつく。
「ちょっと待って!」
震える声で全員の注意を引いたのはあやのだった。
何を思ったか彼女はこなたを押し退けるように前に出ると、みゆきの肩を強く揺さぶった。
「高良ちゃん! 岩崎ちゃん!!」
額に汗を浮かべてあやのは何度も何度も2人の名を呼ぶ。
しかし反応はない。
「あやの…………もう」
もうダメかもしれない、とみさおが言いかけた時、
「うぅっ…………」
みゆきの瞼がぴくりと動いた。
「みゆきさんッ!!」
――生きている!!
絶望が希望に変わり、こなたたちは縋るように2人に呼びかけた。
呻き声とともにみゆきの目がゆっくりと開かれる。
「……峰岸さん…………?」
虚ろな目があやのを捉えた。
こなたが、みさおが、安堵した表情でみゆきを見つめた。
「良かった……ほんとに良かった…………」
あやのは大粒の涙を流していた。
「みなみちゃんッッ!!」
そのすぐ横でゆたかが大声を上げた。
みなみが頭を押さえて体を起こしたところだった。
「あ、あんたたち……心配したじゃないの……!!」
かがみが顔を真っ赤にして泣いている。
ツンデレだと揶揄する余裕は今のこなたにはない。
彼女もまた落涙していたからだ。





「じゃあ何も見てないの?」
「はい……」
しばらくして落ち着きを取り戻した一同は、みゆきたちに経緯を問うた。
林を歩いていて背後に物音がしたかと思うと、直後に頭に強い衝撃を受けて昏倒していたのだという。
海岸を回るハズだったCグループがここに倒れていたのは、こなたたちと同じように岩場を迂回する途中だったためだ。
「確かにこう草木が多いんじゃ隠れてても分からないよな」
みさおがぐるりと辺りを見回す。
緑の濃い林は犯人を潜伏させるには十分なだけの遮蔽物になる。
「私も……みゆきさんが倒れて慌てて振り返ったのですが……黒っぽい服を着ていた気がするのですがハッキリとは……」
状況はみなみも同じで、やはり何者かに殴り倒されたようだ。
「…………」
「…………」
犯人捕縛に繋がる手がかりは得られなかった。
こなたたちは憮然とした。
「みなみちゃん……」
ゆたかが泣きそうな目でみなみを見上げた。
「ごめん、ゆたか。でももう大丈夫だから……」
「ううん、そうじゃないの……そうじゃなくて」
「…………?」
「田村さんは……?」
誰かがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
「眼鏡ちゃんとクールちゃんは揃って無事だった……」
確認するようにみさおが呟く。
「捜そうよ。田村さんもきっと無事だよ!」
鼓舞するようにつかさが言った。
が、彼女たちの表情は暗い。
もう手遅れなのではないか、という雰囲気が漂っている。
「2人とも、歩ける?」
パンと手を打ってかがみが問うた。
一縷の望みに懸けて探しに行こうというのだ。
「ええ、何とか……」
「私も大丈夫です」
殴られたところが痛むと言うが、歩くくらいの振動なら問題ないと2人は言った。
「じゃあ――」
今度はかがみを先頭にひよりの捜索が始まった。





 半ば予想していた事態だけに、ゆたか以外はさほど驚かなかった。
が、驚かなかっただけで心身に受ける衝撃は計り知れないものがあった。
想像を絶する凄惨さだったからだ。
わずか10分足らずでひよりは発見された。
八方を捜索しながらの行軍だったため、その場所はみゆきたちが倒れていた場所からそう離れてはいない。
つまり同じく林の中。
ひよりはいた――。
槍のようなもので腹部を一刺しにされ、まるで磔刑(たっけい)のように巨木に打ちつけられている。
だらんと頭を垂れた彼女には、口から大量の血を吐いた跡があった。
「なんで……なんでこんなこと…………」
気丈に振る舞っていたかがみも、あまりの惨たらしさにその場に蹲った。
ひよりの足元の土だけが血を吸って黒く変色している。
「帰りたい……帰りたいよぅ……」
こなたにしがみついたゆたかは溢れる涙を拭おうともしない。
「ゆーちゃん……」
震えるゆたかの頭を、こなたがそっと撫でる。
一般に恐怖と怒りは負の感情と言われるが、人は怒りよりもまず恐怖を抱く生物だ。
残酷な方法で殺す犯人に対する怒りよりも、呆気なく死んでしまう人間の末路を目撃したことによる恐怖心の方が遥かに強い。
「戻ろうぜ……」
みさおが嘔吐感を抑えて言った。
誰も何も言わない。
みな魅入られたように既に息絶えているひよりを見つめていた。
みさおがあやのの手を引いた。
「みさちゃ――」
「戻るんだっ!!」
みさおが天に向かって怒鳴った。
その言葉に放心していた一同は我に返ったように彼女に注目する。
「帰ろう……帰ってみんなで考えようぜ」
なにを、とつかさが問いかけたがそれより先に、
「どうやって生き延びるか考えるんだ」
消え入りそうな声でみさおが言った。





 館に戻ってきた彼女たちは、ふと天井を見上げた。
「増えてる……」
新しくできた赤い線が1本目と平行に引かれている。
かすれ具合は同じだが、こちらのほうが色が少し濃くなっている。
「…………」
誰が言うともなしに示し合わせたように談話室に向かう。
ここ以外に全員が集まる場所はホールか食堂しかない。
だがそのどちらにも彼女たちが見たくないものがある。
「…………」
「…………」
誰も何も言わなかった。
対策を考えようと皆を引っ張ってきたみさおでさえ、ここでは無言のままだ。
互いが互いに視線を送る。
それぞれ思惑があるらしかったが、率先してそれを述べようとはしない。
「誰か……ないの?」
痺れを切らせてかがみが言った。
アイデアがあるなら発表しろ、という意味である。
「とにかくバラバラにならないほうがいいと思う」
涙目で言ったのはつかさだ。
犯人は誰にも気付かれずにパティとひよりを殺害しているのだ。
この先、単独行動すればみすみす犯人にチャンスを与えるようなものだ、つかさは言った。
「まさか1人ずつ順番に殺していくつもりじゃないよね……?」
こなたが俯き加減に呟いた。
「冗談じゃないわよ。何の理由があって――」
「分かんないよ、そんなの」
理由なんて犯人にしか分からない、とこなたは付け足した。
それはもちろんそうだが、今は殺害の動機について論じている場合ではない。
「泉先輩の言うとおりかもしれません」
みなみが表情を変えずに口を挟んできた。
「理由は分かりませんが、犯人は私たち全員を狙っているのかもしれません。
1人ずつ……どういう順番なのかは分かりませんが、おそらく1人ずつ……」
「どうして?」
「もし犯人がただ私たち全員を殺すつもりなら、私もみゆきさんもとっくに死んでると思います。
敢えて田村さんだけをころ――殺害したのはそういう意味なのかと」
彼女は途中で”殺す”という単語を”殺害”に切り替えた。
かがみは黙って腕を組んだ。
珍しく饒舌なみなみの言には説得力がある。
彼女はちらりとみゆきを見やる。
「…………」
みゆきは意見を述べなかったが、みなみの言葉を熟考しているようだ。
「そうなるとひーちゃんの言うように、はぐれるのは危険ね」
あやのが全員の顔を見ながら言った。
「でもなんでそんな手の込んだ事をする必要があるんだ?」
みさおが誰にともなく問う。
「残った人間に恐怖を味わわせるのが目的とか……?」
「なんだそれ? じゃあ2人は何の罪もないのに殺されたってことかよ」
この状況でひとり冷静な風のみなみの仮説に、みさおはイラついた口調で問い返した。
「罪といえば……」
みなみが徐に顔を上げた。
「あの告発はいったいどういう意味があるのでしょうか……」
声と文章をひっくるめて彼女は疑問を投げかける。
あやのが顔を顰めた。
「全く意味の通らない内容ではありませんでしたし、裁きを下すというのもつまり――」
「みなみちゃんはパトリシアさんと田村さんが殺されるような罪を犯したって思うわけ?」
かがみが問うた。
「そ、そんなッ! 違います! ただ……告発が……」
「あんなの頭のおかしい犯罪者のでっち上げに決まってるじゃない!」
かがみは苛立たしげにテーブルを叩いた。
「ああやって意味深なこと書いて私たちを怖がらせてるのよ」
みなみと違ってこちらは根拠のない推理とすら呼べない主張である。
「と、とにかく神出鬼没の殺人鬼がいるっていうのは間違いないよね?」
こなたが確認するように問うと、全員が一様に頷いた。
少なくともひよりを殺害した何者かは、こなたたちが駆けつける前に館に戻り、
ホールの天井に赤の線を引いてまたどこかに隠れているということになる。
「ゆきちゃん、どうしたの? もしかして気分悪い……?」
先ほどから一言も言葉を発しないみゆきに、つかさがおずおずと問いかける。
全員の視線がみゆきに注がれる。
「すみませんでした…………」
ゆっくりと顔を上げた彼女は殆んど唇を動かさずに言った。
「皆さんをお招きしたばかりに……こんな……」
「みゆきさんのせいじゃないよ」
即座にこなたが否定する。
「そうじゃないんです――」
「え……?」
「岩倉さ――船頭さんが仰っていたのです。不審者が目撃されていると……犬や猫がひどい殺され方を――」
「…………」
「まだ捕まっていないと……でも私は大丈夫だと、言ったんです……! ここは高良家の島だから……!
誰も入ることはできないから大丈夫だと……岩倉さんにそう言ったんです!!」
みゆきは肩を震わせて落涙した。
「あの時すぐに引き返していれば……こんなことには――」
「みゆき……」
「私のせいですっ! 私が大丈夫だと言ったから……! 私が――!!」
「高良ちゃんのせいじゃないわ」
あやのが凛とした表情で言う。
「誰が悪いとか……そんな事より今は生き延びることを考えようよ」
その言葉にみゆきを除いた全員が頷いた。
「ね、ねえ……お腹空かない?」
突然、つかさが顔を赤くして言った。
場の空気からはあまりにもかけ離れた台詞が、彼女たちの緊張を解きほぐすのに役立った。
「そういえば朝から何も食べてないね」
こなたは相槌を打ったが、朝はそれどころではなかった。
時刻は午後12時15分。
昼食をとってもおかしくない時間帯だ。
どうする? という意味の視線を互いに交わす。
現況で昼食というのはあまりに不謹慎なのではないか。
そう指摘されるのを恐れて誰も言いださない。
が、食べるという行為は生きるための手段である。
「………………」
結局、空腹には抗えず一同は固まって食堂に向かった。

 

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