悪魔の招待状 ―― 3日目(1) ――

 

――3日目。


 午前9時51分。
「う〜〜ん……?」
肩にのしかかる重みにこなたは目を覚ました。
眠い目をこすって頭を上げる。
反対側の縁を枕に寝ていたハズのみさおが、しなだれかかるように体を預けてきている。
「みさきち、寝相悪すぎ……」
迷惑そうにみさおを押し返そうとするこなた。
「………………ッ!?」
だが彼女の襟元に点々と付着している血を見つけ、こなたは小さく声を上げた。
「みさきちッッ!」
みさおは寝息も立てているし顔色もいいのだが、動転したこなたはそれには気付かない。
「んぁ……?」
肩をがくがくと揺さぶられ、妙に色っぽい声を出すみさお。
特徴的なアホ毛が激しく上下しているのを認めた彼女は、なぜ自分がそうされているのか分からずに揺さぶられ続ける。
が、やがて、
「ちょ、おい! やめろって!!」
小さな手を乱暴に振り払う。
「なんつー起こし方だよ……あ〜頭がクラクラする……」
「みさきち……良かった……生きてた……」
生存を確認したこなたは全身から力が抜けたようにソファに凭れかかった。
一方、まだ事態が呑み込めないみさおは目を白黒させている。
しかしそのお陰で目が冴えた彼女は大きく伸びをすると、隣のソファで寝ているあやのを見た。
可憐な少女はソファの上で軽く足を曲げ、自分の腕を枕に寝息を立てている。
その隣ではゆたかがリスのように体を丸めて眠っている。
呼吸に合わせて掛け布団が上下しているのを確かめたみさおは、もうひとつのソファに目を向け、そして絶句した。
――みゆきの姿がなかった。
彼女が寝ているハズのソファには掛け布団が乱雑に投げ出されている。
白いそれにはところどころにうっすらと血がついている。
「まさか…………!!」
みさおは慌てて飛び起き、ソファの前に立った。
血は掛け布団だけでなく、僅かだが床にも落ちている。
「みゆきさん……?」
遅れてそれに気付いたこなたも蒼い顔で血痕を眺める。
「ゆーちゃん! 峰岸さん! 起きて! 大変だよ!!」
弾かれたようにこなたが2人の体を揺する。
みさおもそれに加わってまずは彼女たちの安否を確かめる。
「ど、どうしたの……?」
先に目を覚ましたのはあやのだった。
ぼんやりとした表情からしてケガなどはしていないようだ。
程なくしてゆたかも体を起こす。
こちらも顔色こそ優れないが問題はないようである。
「大変なんだ! 眼鏡ちゃんが……眼鏡ちゃんが……!」
みさおは囈言(うわごと)のように何度も繰り返した。
普段、能天気に構えるみさおの異常なほどの狼狽ぶりに、あやのは弾かれたように立ち上がった。
目を擦りながら現場を見る。
そして彼女が慌てている理由を理解すると、
「落ち着いて、みさちゃん。もしかしたら私たちを起こさないように朝食の用意をしに行ったのかもしれないわ」
寝起きの頭で考えつく精一杯の慰めの言葉を口にした。
が、この慰めは虚しいと言わざるを得ない。
朝食の支度に行っているのなら血痕の存在を説明できない。
「じゃ、じゃあこの血は……?」
そこを指摘したのは青ざめた表情のゆたかだった。
何かの間違い……などという陳腐な誤魔化しは通用しない。
見えるのは間違いなく彼女のものと思われる血液なのだ。
「日下部先輩……それっ!?」
みさおの首元を見たゆたかが後ずさる。
少し遅れてあやのもそれに気付いた。
「ん……?」
2人の視線の先をたどったみさおは、どうやら襟元に何かがあるらしいと気付く。
「なにが……おわっ!?」
試しに襟を引っ張った彼女は視界に飛び込んできた赤に思わず声をあげた。
指先でなぞると既に乾ききっているらしく、固まった血液が粉状になって繊維から剥がれ落ちた。
「………………」
こなたとゆたかは怪訝そうな顔で彼女を見た。
その表情の意味に気付かないみさおではない。
「わ、私じゃねえよッ!」
「分かってる!」
額に汗を浮かべて否定するみさおに、こなたはいくらかは自分にも言い聞かせるように叫んだ。
「誰もみさきちだなんて思ってないよ。ただ、なんで血がついてるのかなって考えてただけ」
「それって結局は私を疑ってるんじゃないのかよ?」
「違うって。みさきちがやったんだったらそんな分かりやすい証拠残さないでしょ?」
「え、あ、ああ……」
「そうよ。返り血浴びたのなら着替えるなり何なりするハズよ」
あやのが助け舟を出した。
「それに血の量も少なすぎるわ。後でわざと付けたみたい……」
「そ、そうですよ。あからさま過ぎて逆に不自然だと思います!」
自分を疑っているものと思っていたこなたたちから代わる代わるに犯人の可能性を否定され、
みさおはようやく表情を弛緩させた。
「それよりかがみたちを呼びに行かないと!」
「ちょっと待って」
すぐに次にとるべき行動に移ろうとするこなたに、あやのは静かな口調で言う。
「交代で見張るんじゃなかったの?」
本来ならこなたから順番が回ってくるハズだった彼女は訝るように問うた。
やや険しい目は言外に、
”きちんとローテーションを守っていればみゆきの失踪は防げたのではないか?”
と語っているようだ。
「あ、いや、あれは……」
「悪りぃ! 私のせいなんだ!」
追及に目をそらしたこなたに代わってみさおが割り込んだ。
「チビッ子に代わるつもりだったんだけど……つい寝ちまったんだ……」
付き合いの長さがそうさせるのか、あやののこなたに対する態度とみさおに対するそれではいくらか違いがある。
起こされなかったとはいえ、自分が一度も見張りを受け持たなかった負い目もあってか、あやのはそれ以上の追及はしなかった。
「……分かったわ。今は柊ちゃんたちのところに急ぎましょ」
どこか釈然としない様子のあやのは、しかし今はそれどころではないと思いなおす。
こなたたちは一丸となって談話室を飛び出し、西棟2階のかがみの部屋へと急いだ。
「かがみ! つかさ!」
エチケットがどうのと言っていられない。
こなたたちはドアを激しく叩きながら2人の名を呼んだ。
「ちょっと出てきてくれ! 非常事態なんだ!」
「嫌かもしれないけどお願い! みゆきさんが……!!」
しかし何度呼んでも中からの反応はない。
向こう側に人の気配すら感じられなかった。
「眼鏡ちゃんがいなくなったんだ! 早く出てきてくれよ!」
「かがみ、つかさ!」
だが呼びかけも虚しく、音がすることもなければ、ドアが開く様子もない。
2人はドアを叩く手を止めて顔を見合わせた。
「ま、まさか柊たちももう…………」
最悪の事態を想定したみさおは唇を噛んだ。
ゆたかは蒼い顔でドアを見つめている。
その時、カチャリと鍵の開く音がし、ドアが少しだけ開いた。
「みゆきが……どうかしたの…………?」
ツリ目を細めてかがみが顔を出した。
「よかった……ひーちゃんも無事なのね?」
「当たり前よ。それで、みゆきがどうしたって……?」
「私たち、談話室で寝てたんだ。でも朝になったら眼鏡ちゃんがいなくなってて……」
みさおは現状を最も短い文章で説明した。
「みんな一緒にいたほうがいいと思うんだ」
「………………」
不安げなこなたの提案に、かがみは即答せず何事かを熟考した。
が、やがて小さく息を吐くと、
「分かったわ――つかさ、起きて。降りるわよ」
肩越しに振り返ってつかさを呼んだ。





ぼんやりとした顔のつかさを伴い、かがみが部屋を出たのは5分ほどしてからだった。
もはや一分の油断もならない。
6人はふらついた足取りで食堂に向かう。
「あれ…………」
最初に気付いたのはあやのだった。
本館に戻り、階段を降りかけたところで何気なく彼女が左手の壁に目を向けたのだ。
刷毛で塗ったように赤い線が1本、斜めに走っている。
「やっぱりみゆきも――」
かがみは途中で言葉を切った。
その先は言わずとも分かる。
どんなに愚鈍な人間でも同じ事が4度も起こればその関連性に気付く。
こなたたちは魅了されたように死の線を眺めていたが、いま一度意識をしっかり保てと自分に言い聞かせて食堂に集まった。


 午前10時12分。
「――っていうか、誰も何も気付かなかったの?」
かがみがイラついた口調で詰った。
全員が集まるのは決まって談話室だったが、今朝ばかりはみゆきが失踪し、床やシーツに血痕があることもあって、
6人は食堂に腰を据えた。
談話室とかがみの部屋、それぞれで過ごしていた時間について互いに情報を交換し合う。
彼女が怒気を孕ませてそんな台詞を吐いたのは、情報交換をおおかた終えた頃だった。
「なにか異変があったらすぐに分かると思うけど?」
疲労のために爆睡していたからといって、流血沙汰がすぐ傍で起こったのに誰も気付かないのはおかしい。
明らかに疑念に満ちた目でかがみは他の4人を見据えていた。
「じゃあ柊はどうなんだよ? 昨夜、物音とか聞かなかったのか?」
みさおが攻撃的な口調で問い返す。
「私たちは2階――しかも西棟にいたのよ。聞こえるわけないじゃない。仮に私たちが何か聞いてたらあんたたちも聞こえるハズでしょ?」
「そりゃそうだけど…………」
至極尤もな反論にみさおは言葉に詰まった。
「そっちには4人もいるのにみゆきだけ……なんておかしいと思わない?」
何が狙いなのか、かがみは腕を組んで熟考を促す。
勝ち気なツリ目はさらにつり上がっているが、これは疑いをかけているからのようだ。
「それ、どういう意味なの?」
珍しくあやのが噛みついた。
彼女の位置からはちょうどかがみの肩越しに暖炉が見えている。
「柊ちゃん、私たちのこと疑ってるみたいだけど……本当に誰も気付かなかったわ」
「本当に?」
「むしろみさちゃんと泉ちゃんとで交代で見張りをしようとしてたくらいなのよ」
「そ、そうなんですかっ!?」
ゆたかが声をあげた。
「あ、ごめんね。ゆーちゃんが寝た後にそういう話になったんだ」
「最初は私だったんだけど……」
こなたがフォローし、みさおがその後に付け足す。
そもそも見張りの件はあやのを休ませるためにこなたが提案し、みさおがそれに乗っただけの話だ。
「ふーん……」
何とか疑念を逸らそうとしたあやのだったが、それが却ってかがみの思考に疑いの種を蒔いたようだ。
「ねえ、日下部」
「うん?」
「あんたが最初に見張る予定だったのよね?」
「あ、ああ……」
「で、その次がこなた、次に峰岸……の順番で間違いない?」
「ああ」
こなたは汗を拭った。
かがみの口調は険しく、そんな権限などないというのにまるで警察官が尋問しているような威圧感さえある。
このツンデレはみさおの顔をじっと見つめた後、ほんの少しだけ視線を下にずらし、そこにあるものを見つけ、
「あんたじゃないの?」
凄むように低い声で言った。
「はぁっ!?」
突然の指摘にみさおは憤ることすら忘れ、呆れたように口を開けた。
「だってあんたの番の時、こなたと峰岸は寝てたんでしょ? ってことはその間は好きな事ができるわよね。
トイレに行くとか2階に上がるとか……みゆきを襲うなんてことも誰にも気付かれずにできるんじゃないの?
だいたい1巡目で寝過ごすっていうのが怪しいわよ。こなたに代わった時にバレるからでしょ? そう――」
「お姉ちゃんッッ!!」
それまで黙って成り行きを見守っていたつかさが大声をあげた。
「な、なによ……急に」
「駄目だよ、こんなの! 皆で力を合わせて助け合わないと!」
「真犯人を突き止めてしまえばそんな必要もないでしょ?」
「どうして日下部さんなの!? 私は違うと思う。だってそんなことする理由ないもんっ!」
滅多に自己を主張しないつかさが大粒の涙を零しながらかがみに食ってかかる。
その気迫に一同は圧倒されていたが、かがみだけは退かない。
「あれ見なさいよ!」
かがみがみさおの襟元を指さした。
「あの血は!? あの血は何なのよ! みゆきの血に決まってるわ!」
「ちょっとかがみ、落ち着いてよ! これは……」
「何だっていうのよ? 不自然じゃない? そんなところに血がつくなんて」
「だから違うって!」
「何がどう違うのよ? まさか絵の具だなんて言わないわよね?」
かみがは追及の手を緩めようとしない。
その血痕こそ決定的な証拠だと言わんばかりに苛烈に責め立てる。
「もうやめてよッ!!」
つかさがテーブルを叩いて立ち上がった。
「お姉ちゃん……証拠もないのに疑っちゃ駄目だよっ! 日下部さんがそんな事するハズないよ!!」
「つ、つかさ…………」
「こなちゃんだって、ゆたかちゃんだって、あやちゃんだって!! 誰もあんな事しないよッ!!
お姉ちゃんもほんとは分かってるんでしょっ!? 私たちの中に犯人はいないって」
「………………」
まさか妹からここまで強く反発されるとは思っていなかったらしいかがみは、つかさの剣幕に押されて押し黙った。
すっかり毒気を抜かれたかがみは居心地悪そうに視線を彷徨わせている。
感情の起伏が激しい姉が大人しくなったのを見たつかさは、みさおに向きなおって頭を下げた。
「日下部さん……ごめんなさい。お姉ちゃん、いつもはもっと冷静だけど、その……あんなことがあったから……。
それで冷静じゃなくなって日下部さんに――だからごめんなさい!」
「もういいって」
拗ねたような口調でみさおが目を逸らした。
「仲違いしてる場合じゃないんだ。明日までなんとか生き延びる方法を考えるんだ。
でないと……でないとみんなやられる……」
”みんな”という表現は適切だ。
この場にいる全員が告発文に挙げられた名前と罪状、ホールの赤い線に関連性を見出している。
この館の構造を知っているハズのみゆきですら気付かない隠された部屋や通路があり、
誰にも察知されずに4人もの人間を消し去った神出鬼没の殺人鬼が跋扈しているのだ。
「日下部」
かがみが沈んだ声で言った。
「その……ゴメン……ひどいこと言って――」
”ひどいこと”とは先ほどの発言だけでなく、昨夜のものも含んでいる。
「私、どうかしてたわ。普通に考えたら私たちの中の誰か……なんてあり得ないわよね。
ほんとにゴメン。自分とつかさを守ることばっかり考えてたから……」
「いや、いいんだって。それよりこれからの事を考えようぜ」
恬淡なみさおは自分が犯人扱いされた過去をさらりと流した。
いよいよ命の危険を間近に感じるようになった今、疑心暗鬼に陥っても待ち受けるのは悲劇しかない。
「受け身だよね、私たち」
場の空気が変わるのを待っていたのか、こなたがふっと漏らした。
「受け身?」
「うん。なんか犯人にいいように踊らされる気がしてさ」
「………………」
想い当たるところがあるだけに、この言葉に5人は唸った。
「この館って死角がたくさんありますよね。そういうところを衝いてきてる気がするんです。
だからそういう場所を避けたら大丈夫だと思うんです」
ゆたかの案は広く、明るく、遮蔽物の少ない見通しのよい場所で固まっていよう、というものだった。
このアイデア自体はみゆきをはじめ既に何人かが提案していて目新しいものではない。
条件に合致する場所はいま彼女たちがいる食堂、談話室、エントランスホール、2階の多目的ホールしかない。
厨房やトイレなど生活に必要な設備は1階に集中しているから、多目的ホールに固まるのは得策ではない。
エントランスも見通しはいいが、あちこちに赤い線を引かれ、腰掛けるところもないため不向きだ。
結局、消去法で食堂か談話室……ということになる。
「とりあえず――」
かがみが立ち上がった。
「――お腹空かない?」



 午前11時24分。
料理が得意なつかさ、あやのが生き残っているおかげで食事には困らない。
2人ならあり合わせの食材でも満足のいく料理を出せる。
「なんか……やりにくいね」
つかさがそう漏らしたのは、家主不在で厨房を使っているからだ。
台所は女性の聖域と比喩されたこともある。
持ち主に無断で使用していることに2人は後ろめたさを感じた。
「でも止むを得ないわ。こんな状況だし……」
大和撫子と言っても差し支えないあやのは意外と強かなようである。
かがみやつかさのようにすぐに感情に流されず、冷静に現状に適応しようとする。
それでいて冷淡に感じられないのは彼女が自然に備えている人柄ゆえかもしれない。
食堂だと厭でも告発文を意識してしまうというこなたの意見で、食事は談話室でとることになった。
2人が準備をしている間、こなたたち4人は布団などを手早く片付ける。
「ナイフか何かでやられたのかもね……」
床の血痕を見てかがみが言った。
「でも私たちに気付かれずになんて、どんな手を使ったのかな」
「寝てたんだから普通に刺したんじゃないの?」
「でもさ、だったらなんで私たちは無事だったんだろうな?」
みさおが首をひねった。
「絵描きちゃんの時もそうだったけどさ、その……もっと殺せるハズじゃん? ひとりずつってのが分かんねーんだよな」
「岩崎さんが言ってたみたいに、残った人に恐怖を味わわせるため?」
「誰なんだよ、それ」
「私に分かるわけないでしょ」
先ほどまでしおらしかったかがみはもういつもの調子を取り戻している。
「みなみちゃん…………」
不意にみなみの名を出され、ゆたかの瞳が潤んだ。
パティ、ひよりの死にもここまで反応しなかった彼女はともすれば発狂しそうなほどの苦痛を味わい続けている。
つかさとあやのが大皿に盛った料理を運んできた。
味の濃いものは喉を通らないだろうという配慮から野菜中心のメニューである。
「24時間……」
フォークを動かしながらつかさが呟いた。
「あと1日頑張れば迎えが来るんだよね?」
再度、確認するように呟く。
「そう、ね。1日なんてあっという間よ」
鼓舞するようにあやのが同調した。
「帰ったらすぐ警察に通報しないとな」
みさおにしては珍しく現実をしっかりと捉えた発言をする。
つかさの言うように24時間乗り切れば迎えの船が来る。
それで全てが終わるのだ。
この島から離れることによって、殺人鬼の脅威に怯えなくて済むのである。
「せめてテレビがあれば気も紛れるんだけどね。あとチョココロネと」
残りの時間を認識し、いくらか緊張が緩んだこなたは場を和ませるためにそんなことを口にした。
「あんたはどうせアニメしか観ないだろ」
呆れ顔で突っ込みを入れるかがみも、こうしたいつもの掛け合いで恐怖を紛らそうとしているらしい。
「なあ柊、深夜アニメってそんなに面白いのか?」
「なんで私に訊くのよ。ここにプロがいるだろ」
「…………いや、柊なら知ってそうだからさ」
「知るか!」
「お、いま怒ったな。チビッ子、今のがツンデレってやつ?」
「う〜ん、ちょっと違うかも。ただ怒ったり怒鳴ったりするんじゃなくて、素直になれない感情の裏返しがないと」
「よく分かんね」
「こなた、ヘンなこと教えんな」
3人のやりとりに、あやのたちは微苦笑を浮かべている。
会話について行けなくてもいい。
とにかく一時的にでも恐怖から解放されたいとの想いがある。
その点では通じる通じないお構いなしに話題を提供するこなたの存在はありがたい。
必然的にかがみ、あるいはみさおがそれに乗るという流れが出来上がるからだ。
「ごちそうさまでした」
量が少ないこともあり6人はほぼ同時に食べ終わった。
「後片付けは私たちでやるよ」
こなたが率先して空になった皿を重ねる。
「あ、じゃあ私も」
素早く立ち上がり、その後を追うゆたかは本当の妹のように見える。
念のため、という理由でつかさがそれに付き添った。
「ほんと、さっきはゴメン……」
3人の姿が見えなくなるのを待ってから、かがみが搾り出すように言った。
「謝って許してもらえるとは思ってないけど、私もいっぱいいっぱいだったから――」
「そんなの理由にならないわ」
余所を向いてあやのが呟いた。
「お互い協力しなきゃいけないっていう時にあんなこと――」
「あやの、よせって」
峰岸あやののように物腰の柔らかい人物は、見た目に反してその内側では密かに怒りを蓄えている。
幼馴染みに比べて精神的に成熟している彼女はそれを易々と表に出すことはしないが、一度箍(たが)が外れれば
溜め込んでいた分、放出に歯止めが利かなくなる。
「柊の肩持つわけじゃないけど、こんな状況なんだ……疑心暗鬼になるのも無理ないって」
「みさちゃんだって疑われてたのよ?」
「いや、だからさ。私も疑われるような行動しなきゃ良かったっていうか……」
「………………」
みさおはあやのの怒りを鎮める方法を模索したが、感情的になっている相手を諭すのは容易ではない。
「ほんとにゴメン……」
かがみはかがみでひたすら頭を下げるしかない。
プライドの高い彼女は素直に自分の非を詫びているが、どこか納得し難い部分があるのか、悔しそうに唇を噛んでいる。
「終わったよ〜〜」
談話室の入り口からそっと中を覗き見たこなたは不穏な空気が流れているのを感じ、わざとおどけた口調で戻ってきた。
後ろにハンカチで手を拭きながらゆたか、つかさと続く。
3人が割り込むようにソファに座ったことで、かがみとあやのの間を流れる冷たい空気は緩和された。
「ねえねえ、トランプしない?」
何の脈絡もなくつかさが言った。
「トランプ?」
なんでこんな時に、という顔でかがみが聞き返した。
「なんか間が持たなくて……」
というつかさの答えは、つまるところ間を持たせたいという意思の表れだ。
その意図を読んだこなたは、
「いいね、退屈だしやろっか」
いつもの軽い口調で同意する。
特に反対意見は出ない。
渋々ながらにかがみが乗り、まだ怒りを完全に鎮めきれていないあやのも気分転換ということで加わる。
「じゃあポーカーやろうぜ。ジョーカーが入ってるからファイブカードが最強な」
いつの間にかみさおが仕切っている。
提案したつかさは積極的に進行役を務めるタイプではないので、これも誰も異論を挟まない。
「よし! じゃあレイズ!」
さっさとカードを配り終えたみさおが手札を見るなり叫ぶ。
「え、お金かけるの?」
「私、今月あまりお金ないんですけど……」
つかさとゆたかが困惑する。
「あはは、雰囲気だって。私だってピンチだし」
「な、なんだぁ〜」
「ビックリしました……」
安堵する2人を尻目に、こなたはふぅっとため息をついた。
「泉ちゃん、どうしたの?」
「ほんとに賭けてみんなから大金巻き上げようと思ってたのに……」
「………………」


 午後1時17分。
ババ抜き、七ならべ、大富豪……と、知っているゲームを一通り遊び終え、ひとまずここで中断することにした。
時間を潰すにはトランプだけでは足りない。
「まだ1時間しか経ってないか……」
時計を見てこなたが呟く。
送迎船が来るのは明日の午後。
それまで20時間以上ある。
「手が疲れてきたわね」
トランプゲームはルール上、基本的に手札を人に見せない場合が多い。
1時間以上に渡って繰り広げられてきた不安を紛らすためのゲームは、緊張を弛緩させるとともに手頸にいくらかの不快感を齎した。
「次なにする?」
こなたが水を向けるが、
「ちょっと休憩しない?」
かがみが待ったをかける。
遊ぶ手を止めれば再び不安に襲われるが、つかさもゆたかも小休止挟みたいようだ。
誰もが乗り気ではないと分かったこなたは、ソファに背中をあずけた。
ふっと息を吐いて、こなたが何気なしに横を向く。
「…………?」
みさおがあやのに何事かを耳打ちしていた。
真剣な話なのか時おりあやのの表情が険しくなる。
何度か小さく頷いた彼女は僅かに唇を動かす。

”きをつけて”

こなたにはそう言っているように見えた。
「さってと……」
わざとらしく声に出してみさおが立ち上がった。
「どこ行くの?」
当然のごとくかがみが問う。
「なんかじっとしてるの落ち着かなくてさ。それにちょっと思いついたことがあるんだ」
意気揚々とみさおが答える。
得意満面の彼女は大袈裟に腕を振った。
「よく考えりゃここ海の真ん中じゃん。もしかしたら近くを通りかかる船があるかもしれないだろ?」
「あっ……!!」
その言葉に全員が唖然となる。
狭い空間に閉じ込められ、迎えが来るまで耐え切ればよいと考えていた彼女たちは、
自分から外にアプローチする方法を全く思慮していなかった。
確かに船が近くを通る可能性はゼロではない。
運よく見つかり助けを求めれば明日を待つ必要もなくなる。
望みは薄いがこのまま何もしないよりはいい。
誰もがそう思いかけるのだが、今ひとつ行動に移せない。
「でも大丈夫かな?」
つかさがぼそりと言った。
「林を通らないといけないんだよね? あそこは陰が多いから……」
犯人が潜んでいたら海に出る前に襲われる、とつかさは危惧した。
みさおの発案は良い結果を齎す可能性があるが、そこに至るまでが隘路だ。
ひよりの無残な姿がまだ記憶に鮮明に残っているため、希望があってもかえって思いきった行動がとれない。
「走って突っ切ればいいんじゃね?」
みさおは無茶苦茶なアイデアを出す。
先ほどの提案が希望の持てる現実的な救いの道だっただけに、この勢いに任せた追加策はこなたたちを落胆させた。
「そんな事したら”ここにいます”って犯人に教えるようなものじゃない」
拗ねたようにかがみが言った。
「私は……中にいたほうがいいと思います。外は危険だと思うので」
外界と接触する機会をゆたかは拒んだ。
通りかかる船に助けを求めるだけなのだから全員が館の外に出る必要は無い。
その役目を担うだけなら1人でも事足りるが、単独行動が引き起こす悲劇については
彼女たちは厭というほど思い知らされている。
「私も行くよ。私たちなら何かあっても大丈夫だと思うし」
面倒くさがりのこなたは外に望みがあると分かって行動的になった。
その気になれば何時間でも部屋に篭ってネトゲに没頭できる彼女だが、いくら従姉妹や友人がいるとはいえ
殺人事件の頻発する館にじっとしていたくはないのだろう。
活動的なみさおならそれは尚更で、彼女は気ばかり急いて浜辺に出ようとしている。
「う〜ん……」
あやのが顎に手を当てた。
確かにこなたとみさおなら、2人という人数の少なさをカバーできるかもしれない。
これが例えばつかさとゆたかのペアであったなら誰もが反対していただろう。
問題はかがみのような諫言役がいない点だが、あくまで近くを通りかかる船を見つけるのが目的であって、
積極的に知恵を働かせて動くわけではない。
「私はいいと思うわ」
考えた末にあやのが言った。
「私だって無茶はしないよ。ちょっと海を見てくるだけなんだし」
あやのの判断は正しい、というようにこなたが言った。
どうする? という意味の視線が残った4人の間で交わされる。
「なにかあったらすぐに戻って来なさいよ?」
かがみはこの案を呑んだ。
やはりつかさが心配であるらしい彼女は、妹ともども談話室に落ち着くつもりのようだ。
「私たちここで待ってるから……こなちゃんも日下部さんも危ないことしないでね?」
「お姉ちゃん、日下部先輩、気をつけてください」
メンバー構成については彼女たちに間違いはないといえる。
館に残る4人のうち、性格や体力から見て頼りになるのはかがみだけだ。
他の3人にはそれぞれに長所があるものの、それらは凶悪な犯人への対抗手段とはなり得ない。
バラバラになるのもこれが最後、という意味を込めてみさおは大きく頷く。
「じゃあ行ってくる。私たちが出たらすぐに玄関の鍵をかけておいてくれ」
用心のためモップの柄を携えた2人は軽い足どりで館を出た。
残る4人の手前、元気のある風を装ったのであるが状況が状況だけに空元気に見えなくもない。
背後に施錠する音を確かめたこなたとみさおは、注意深く辺りを窺いながら歩を進めた。


 午後1時28分。
桟橋の辺りまでやって来たところで、2人はようやく肩の力を抜いた。
ここなら見通しがよいため物陰から襲われる心配はないだろう。
「見えないね……」
海の向こうを眺めていたこなたが残念そうに言った。
茫洋たる青海はその向こうに果てしない世界を想像させるが、2人が求めているのは無限の航路などではなく、
近くを通りかかる一隻の船だ。
上を見ても青、前を見ても青。
人工物の影はない。
「ところでさ、みさきち」
「ん?」
「船が来たらどうやって知らせるの?」
「あ……」
「もしかして考えてなかった?」
「いや、あ、そだ! これがあるじゃん!」
明らかに考えていなかったと思われる彼女は、ポケットから携帯電話を取り出す。
「ほら、画面開いて光を反射させればいいんだよ。こうやって――」
高々と掲げたディスプレイの角度を調節していたみさおだったが、折角の回答も尻すぼみになる。
厚い雲がぐんぐんと押し寄せて日光を遮ってしまったからだ。
「花火でも持ってくればよかったね」
こなたが目を細めて言った。
「ま、なんとかなるだろ」
桟橋に立った2人は時々後ろを振り返りつつ、茫乎(ぼんやり)と水平線を眺めていた。
5分経ち、10分が経つ。
しかし船どころか海鳥の姿すら見えない。
「来ないね」
「来ないな」
さらに5分。
ここにいても埒が明かない。
どちらからともなく島の反対側に回ろうということになり、2人は沿岸を早足で歩く。
ひよりが磔にされていた巨木を見ないようにして林を抜け、再び海の見える開けた場所に出る。
だがここからも船は見えない。
林間では自分たちが茂みを踏み歩く音が僅かに遅れて響くため、2人は何度も何度も振り返った。
朽木の陰にいちいち怯える様は滑稽だったが、笑いを誘うほどの慎重さが命を守るのだ。
道はやがてなだらかな登り坂になる。
青い海を右手に見ながら斜面を登り切ると、太陽の位置からちょうど桟橋の反対側に来たことが分かった。
つまり館の後ろ側でもある。
都合、島の外周の半分をなぞったことになるが、やはりここからも船は見えない。
「もう少し回ろっか……」
憮然とした様子でこなたが言い、みさおがその後に続く。
道は再び平坦に戻るが、風雨の影響か足元は安定しない。
大小の砂礫を避けながら2人はさらに外周の4分の1ほどを踏破した。
「ここからじゃ無理だな……」
海を見ながらみさおが言った。
平坦だと思っていた地面はじつは緩やかな斜面になっていて、かなりの高地に立っていることに気付く。
海との境目は崖になっており仮に船と交信ができてもここからは降りられそうにない。
「この下に洞窟があって、そこに犯人が潜んでたりしてな」
ぐいっと前屈みになって真下を覗き込んだみさおが言った。
「船でもあったら崖の下の様子が分かるんだけどな」
と残念そうに言ったみさおに、すかさずこなたが、
「船があったらとっくに帰ってるじゃん」
呆れた口調で突っ込みを入れた。
「あ、そっか」
みさおが子供っぽく笑った。
やれやれと小さくため息をついて、こなたは大海の彼方を眺めた。
視界に遮るものが何もないと、まるで世界から取り残されたような錯覚に襲われる。
そんなハズはないのに外界との一切の接点を断ち切られたような気分になる。
「あ…………そうだッ!!」
空と海の境界線を見つめていたこなたの顔つきが変わった。
「みさきち! 船! 船だよ!!」
「んあ? どしたんだよ?」
勢い込んで叫ぶこなたにみさおは目を丸くした。
当の本人は何かに気付いたのか興奮していて額に汗まで浮かべている。
「私たち、どうやってこの島に来た!?」
突然の質問。
「……船だろ?」
今度はみさおが呆れ返って答えた。
「だったら犯人もそうしてるよね!?」
「ん、まあ……だろうな」
「じゃあさ――」
自分の考えに破綻がないかを確かめるようにこなたは少しだけ間を空けた。
「泳いで来られると思う?」
「いや、そりゃ無理だろ」
遠泳という手段もなくはないが、ここは本島から離れ過ぎている。
わざわざ殺人を犯しに泳いで来るハズがない。
「この島には船が泊まってなかった。泳いで来られる距離ならそういう手もあると思うけど、ここに船がないってことは――」
こなたは敢えてそこで言葉を切り、みさおにその先を促す。
彼女は顎に手を当てて――その際、ちらりと八重歯を覗かせて――小さく唸った。
やがてぱっと顔を上げると、
「犯人は泳いで来たってことか」
自信ありげにそう答えた。
がくりと肩を落とすこなた。
しかしもはや彼女の惚けた言動に呆れている場合ではないと悟ったこなたは、
「そうじゃないって! 船がないってことは犯人はこの島には来てないんだよ!」
頬を紅潮させて持論を述べた。
「………………」
「だから犯人は――」
こなたはその先を言うのを躊躇った。
ここまで仄めかしている以上、先延ばしにせずさっさと結論を述べるべきなのだが、こなたにはそれができないでいた。
「だから……!!」
「なあ、チビッ子」
海の向こうを見ていたみさおは、先ほどまでとは一転して険しい表情だった。
「今だから言うけどさ、実はその事にはとっくに気付いてたんだ」
「えっ…………?」
普段、滅多に見せないみさおの真剣な表情にこなたは言葉を失う。
「”近くを通る船があるかも知れない”っていうのは館の外に出る口実で、本当はこの島に犯人が来た船があるか確かめるためだったんだ。
まあもちろん本当に船が通りかかったらそれに越したことはないんだけどさ」
「そ、そ、そうなんだ……」
「結局どっちも見つからなかったけどな――」
ここに来る前からその覚悟があったのか、みさおは表情ひとつ変えない。
一方、多くを悟っていそうな彼女と対照的に、遥かに遅れて彼女と同じ目線に立てたこなたは憮然とした。
「だ、だったら言ってくれればよかったのに。私が言わなかったから黙ってるつもりだったの?」
「まあ、な」
「なんで?」
「なんで――?」
みさおはそのまま問い返した。
「だってさ、それ認めちまったら……人殺しが私たちの中にいることも認めちまうってことじゃんか」
「…………」
「だから黙ってたんだ。余計なこと言って不安にさせたり疑心暗鬼になったりしたらマズイだろ? まあ、これはあやのが言ったことなんだけどな」
こなたは驚いたようにみさおを見上げた。
この快活な少女は日頃の言動とは比較にならないほど冷静で周りをよく見ている。
しかも他者への気遣いもあやのやみゆきに劣らない。
とにかくこの悪夢から脱したい。
それしか考えいなかったこなたにとって、みさおのこの発言は大きな発見であったと同時に自分を省みる機会にもなった。
「そうだね、ごめん……軽はずみなこと言って」
自分が恥ずかしい、と彼女は言った。
確かに先ほどのこなたの弁が全員の耳に入っていたら、場は混乱していたに違いない。
誰もが誰もを疑い、それこそ犯人につけ入る隙を与えかねないのだ。
「いや――」
みさおが向きなおった。
「むしろ私たちと同じ考え方してくれたチビッ子が頼もしいぜ」
不安を吹き飛ばすように彼女は笑った。
その笑顔によってこなたはいくらか救われたが、彼女はそこまでの効果は意図していなかった。
「妹想いってのもあるんだろうけど、柊もあんな状態だろ? だから下手に刺激しないほうがいいと思うんだ。
それに確証があるわけじゃないし、他の可能性もあるしな」
「他の可能性って?」
「う〜ん……」
メンバーを疑いたくないみさおは、何とか納得できる別の考え方を探ってみる。
「たとえばさ、犯人は2人組――なんてのはどうだ?」
「…………?」
「2人で船で来て1人が島に残る。で、もう1人は船で引き揚げたんだ」
面白い推理だがこなたは表情を固くしたままだった。
確かにこれが事実なら外部犯ということになり、且つ島に船が泊まっていないことの説明もつく。
どうだ、と言わんばかりにみさおが鼻を鳴らした。
「わざわざそんな手の込んだことしなくても、2人もいるなら一緒に殺しをやるんじゃない?」
だが、こなたは冷静に彼女の推理を破綻に追い込む。
「だよなあ……」
そう切り返されることを予想していたのか、みさおは特に落胆した様子は見せない。
さらに歩みを進める2人。
5分も経たないうちに桟橋のところまで戻ってくる。
つまり島を一周し、船のないことを確かめてしまったのだった。
「あの大きな紙に告発文書いたりってのはけっこう手間がかかるな。チビッ子、この島に来たことあるか?」
再び桟橋の中ほどに立ったみさおは海を眺めて言った。
「ないよ。あるわけないじゃん。初めて来たんだし」
そのすぐ横にこなたが立つ。
傍からは水平線の向こうに想いを馳せる姉妹に見えなくもない。
「初めて、か。でもその証拠がないぜ?」
みさおが悪戯っぽく笑い、こなたは半歩後ずさり驚いたように彼女を見上げた。
「ま、まさか私を疑ってるの!?」
こなたは無意識のうちに距離をとった。
みさおがモップの柄を握る手に力を込めた気がしたのだ。
「んなことねえよ。あくまで可能性の話だって」
警戒心を解くためにか、みさおは両手をだらんとおろして海を見やった。
「もちろん私だって初めてだ。でも私もそれを証明できない」
「…………」
「あれ、結構いろいろ書いてたな。兄貴とあやのが付き合ってることまで――ってことはうちらをよく知ってる奴の仕業だろ」
「わ、私じゃないよっ!?」
こなたが慌ててかぶりを振った。
「そんなこと言うつもりねえよ。だけどチビッ子はもしかしたら2人の関係を知っていたかもしれないだろ」
「知らないって! じゃあ逆に訊くけどみさきちは私のお母さんが亡くなってることは知ってた?」
「いや、知らなかった」
みさおは即答した。
「知らなかったっていう証拠がないよ?」
こなたが仕返しとばかりに真顔で言う。
「……だな」
みさおは笑ったが、こなたは笑わなかった。
いちいち事柄について証拠があるかないかを問うのは不毛だ。
その作業にさほど意味はないし、回答者がウソを吐いている場合、それを確かめる術がない。
みさおの言ったように疑心暗鬼に陥るだけである。
2人はここで憶測のみで犯人を絞り込むことはしなかった。
生存者は今や6人。
その中の誰かが殺人者だと思いたくないのだ。
「そろそろ戻ろうよ。みんな心配してるだろうし」
もはや船が通りかかることに一縷の望みも抱かなくなった2人は館に戻ることにした。
人という生き物は行きには警戒するが、帰りにはすっかり油断しているものである。
2人は細心の注意を払って館を目指す。
鈍色の雲が太陽を断続的に覆い隠し、その度にこなたたちは悪くなった視界の中に犯人が潜んでいないかと目を凝らす。
しかしその慎重さは館に辿り着くまで何の役にも立たなかった。


 午後2時33分。
扉を開けるなりゆたかがこなたに抱きついた。
「よかった……無事で……」
彼女よりさらに幼い体躯の少女は瞳を僅かに濡らしていた。
「ご、ごめんね、ゆーちゃん。もう大丈夫だから」
危うくバランスを崩しそうになるこなたは何とか踏みとどまり、妹同然のゆかたを優しく包み込む。
その少し離れたところで――。
「やっぱりなかった……」
出迎えたあやのにみさおがそっと囁いた。
「そう…………」
俄かにあやのの表情が曇る。
みさおはわざと目を逸らしてソファに腰をおろした。
「2人とも」
つかさの手を握っていたかがみが険しい表情で言った。
「あんたたちが外に出てる間、つかさがこれを見つけたのよ」
そう言ってテーブルの上を指さす。
眼鏡が置いてあった。
左側のレンズが割れ、フレームが少し歪んでいる。
「ソファの下に落ちてたの」
つかさがおずおずと言った。
「これってみゆきさんの……?」
「たぶん」
「………………」
布団の乱れ具合、床に落ちていた血、そしてソファの下に滑り込んだと思われる眼鏡。
この事から深夜、犯人とみゆきが揉み合いになったのではないかと彼女たちは考えた。
「でも考えにくいね。寝てる相手なんだったら犯人にとっては簡単だと思うけど」
「そうね……1発で殴り倒したって考える方が自然だわ。眼鏡はその時に割れて、みゆきを運ぶ時に血が落ちたんじゃない?」
「だったらなんで私の襟に血が付いてるんだ?」
「それは本当の犯人が日下部に疑いが向くようにしたからでしょ。私たちを仲違いさせるのが目的だと思うわ」
つい数時間前までみさおを疑っていたかがみは、ぬけぬけとそんな事を言い出す。
「仲違いさせて……どうするの?」
つかさが訊いた。
「どこかで見て楽しんでるのよ。決まってるわ」
「でしたら離れ離れになるのは危険ですよね」
ゆたかが分かっていることを言った。
「用事があって部屋に戻る時も誰かと一緒のほうがいいと思います」
「そう、ね……」
あやのが頷いた。
「ちょうど6人だし、とりあえず2人1組になるのはどうかしら?」
かがみの提案に全員が頷く。
「どうやって分かれるの?」
こなたが問うた。
「私とつかさ、日下部と峰岸、こなたとゆたかちゃんでどう?」
特に異論は出ない。
それぞれの間柄かして妥当な組み合わせといえる。
「私はいいと思うわ」
みさおとペアになったことで満足したのか、真っ先にあやのが賛同する。
「私も」
「私もそれでいいと思います」
続いてこなた、ゆたかも同意した。
つかさは成行きに任せたいのか、かがみに場を委ねているようで特に意思を表明しない。
「じゃあ決まりね。今後は何があっても最低、このペアで動くようにすれば大丈夫だと思うわ」
かがみは極めて神妙な面持ちで言った。
「平気で人を殺すような奴だけど……少なくとも私たちが団結してるってところを見せれば手は出しにくいハズよ」
「あのさ……」
こなたが時計を見ながら言った。
「夜はどうするの? ほら、みゆきさんがあんな事になったし……どこかで固まって寝るにしても……」
「………………」
そこまでは気が回らなかったのか、かがみは腕を組んで唸った。
実際、こなたたちは談話室で一夜を過ごしたが、犯人はみゆきだけを襲ったのだ。
こうなると”団結”の持つ強みも薄れてくる。
「あと1日なら寝なくても大丈夫だろ」
それまで黙っていたみさおがさらりと言った。
「徹夜するってこと?」
つかさの問いにみさおは頷いた。
「ああ、昨日は寝ちまったけどさすがにな……今日は起きてるぜ」
「交代で見張り立てるのか?」
”徹夜”という手段にかがみは慎重なようだった。
心身ともに疲労している現状、寝ずに夜を明かすのは難しい。
そうなると交代制が効率的だが、昨夜はそれで失敗しているのだ。
見張り役が睡魔に負けてしまうという可能性も十分にある。
「それはゆっくり考えましょ。今はバラバラにならないことが大事よ」
そう言ってかがみはつかさの手をぎゅっと握った。





午後4時3分。
ペアになった者同士でひとつのソファに腰をおろす。
「だから別にラノベばっかり読んでるわけじゃないっての」
「そうかあ? 柊の部屋ってなんか漫画の絵描いてる本ばっかじゃん」
「逆にひーちゃんの部屋はお料理の本が多いよね」
「同じ双子なのになんでそんなに違うのかねぇ?」
「二卵性だからでしょ」
重苦しい空気を吹き飛ばすように、こなたたちは喋り続けた。
アニメの話、ゲームの話、スイーツの話、スポーツの話――。
話題は何でもよかった。
とにかく会話を途切れさせないことに腐心する。
「たしか二位だったのよね?」
「ああ、あん時は惜しかったぜ。タッチの差ってのはああいうのを言うんだろうな」
「それでも200Mじゃ大会記録更新したんでしょ? すごいじゃん」
「その次の次の走者に負けたけどな。そういやチビッ子もオタクの割にはけっこう運動得意だって聞いたけど?」
「たしかこなちゃん、アミノ式の運動全部できるって言ってたよね?」
「う……ごめん。あれはウソ。さすがにあんなのできないよ」
「そうなんだ? でも走るのはほんと速いよね」
「もったいないよな。陸上部入ればいいのに」
「今さらだしね〜。それに部活やってたらゴールデンのアニメ観れなくなるし……」
「あんたは……ゆたかちゃんもこんなのがお姉ちゃんじゃ疲れるでしょ?」
「いえ、そんなことないですよ」
こなたたちは”いつも通り”に努めた。
いま置かれている状況は明らかに異常だが、その感覚に囚われてしまっては平常心を失ってしまうからだ。
だから彼女たちは場違いなほど和やかな雰囲気作りに終始する。
しかし――。
不安を紛らすために誰からともなく言葉が紡がれたが、1時間もするとそれにも疲れたのか口数は少なくなり、
とうとう一言も喋らなくなってしまった。
姿の見えない殺人鬼はどこにいるのか。
島のどこかに、館の外に、あるいは中に……。
他愛のない会話で場を持たせても、どうしてもそれを考えてしまい歯切れも悪くなってしまう。
「みさちゃん、ごめん……」
10分ほどしてあやのが耳打ちした。
「――分かった」
2人がそっと立ち上がる。
こなたたちは衣擦れの音に一瞬そちらを見やるが、2人がトイレのために立ち上がったのだと分かるとすぐに目を伏せた。
「行ってくる」
みさおとあやのはそう言い、返事を待たずに廊下の向こうに消えた。
この館の中ではホールか談話室、食堂が一番安全だ。
みゆきの件を考えれば絶対とは言えないが少なくとも全員が集まれ、且つ見通しのよい場所となると、
どうしてもこの3ヵ所に限られてしまう。
無駄に体力を消費するべきではない、というかがみの提案でこなたたちはよほどの理由がない限り、
席を立つことはしなくなった。
トイレに行く時も、厨房に飲み物を取りに行く時も常に2人1組で行動する。
「あ、そうだ!」
不意につかさが立ち上がった。
「ど、どうしたのよ急に」
「携帯が繋がるか試してみようかなって。お姉ちゃん、ついてきて」
「なに言ってるのよ。みんなで試したじゃない」
かがみが呆れたように言った。
「あ、あのね、私……あの時は部屋に忘れてきちゃってまだ確認してないの」
「……そういえばつかさ、私のを見てたわね」
思い出したようにかがみが言う。
「でも同じ携帯だったらやっぱり通じないと思うんですけど……」
申し訳無さそうにゆたかが割り込んでくる。
機械に疎くてもこの程度のことは容易に想像がつく。
「いや……」
かがみはちらっとつかさの顔を見、すぐにゆたかに向き直った。
「私とつかさの携帯、機種が違うのよ。もしかしたら――」
うまくいくかも知れない、とかがみは言う。
試していない携帯がある、という空気に一同は僅かに希望を抱いた。
念のために各々、ポケットから携帯を取り出すが誰の物にもやはり”圏外”と表示されている。
こうなるとまだ確認していないというつかさの携帯に縋りたくなってくる。
「ちょっと行ってくるわ。すぐに戻ってくるから」
もしかしたら外に連絡できるかも知れない。
2人は小走りにつかさの部屋に向かった。
「繋がったらいいね」
ゆたかの呟きに、こなたは小さく頷く。
多機能で便利なツールもいざという時には何の役にも立たない。
「…………?」
ゆたかがそっとこなたの手を握った。
「大丈夫だよ。明日になったら迎えが来るから。だからそれまでもうちょっと頑張ろうよ」
異常事態で庇護心が湧いたのか、こなたはゆたかの頭を優しく撫でた。
姉代わりを務める彼女も精神はすでに襤褸布のごとく引き裂かれている。
しかしみなみが消えた今、自分が取り乱してしまってはゆたかを守る者がいなくなってしまう。
殆ど義務感に近い感覚で意識を保ち、ゆたかを支える役に回る。
「お姉ちゃん……」
「どしたの? 気分悪くなった?」
「人は――」
ゆたかが青白い顔でこなたを見上げた。
「どうして誰かを傷つけたり、いじめたり……殺したりできるの……?」
「………………」
単純だがあまりに難しすぎる問いかけに、こなたは答えられなかった。
この質問は、”人対人”を主題に持ってきているが、ゆかたは小さな頃――年齢の意――から虫を殺したことさえなかった。
彼女の生命に対する哲学的な見解はここでは問題ではない。
ただ率直に。
人が人を殺めるに至る心理が理解できないだけなのだ。
そしてもちろん、それはこなたにも分からない。
「私にも分からないよ……」
こんな単純な問いにすら答えられない姉、と嘲られようがこれがこなたの偽らざる解である。
もし分かったというのなら、それは犯人への共感。
つまり自分にも殺人者の素養があると認めることになってしまうのだ。
「怖いよ……」
そう言って震えるゆたかを、こなたは慰撫してやることしかできない。
いちいち犯人の心情を察してやる必要はないのだ。
今はただ、これ以上の犠牲者を出さず、生きて帰ること。
極めて当然のこの思考を怠った時、姿の見えない殺人鬼は新たな標的に忍び寄るのだ。
10分後。
かがみとつかさが落魄した様子で戻ってきた。
「駄目だったわ」
とは言うまでもなく、2人の顔が物語っている。
「一応ホールの電話も見たけどやっぱり切れてたよ……」
つかさが今にも泣き出しそうな顔で言った。
事実上、これで完全に外部との通信手段は断たれたことになる。
となれば如何にして明日まで生き延びるか。
「こなた、あんた運動得意なんだから本島まで泳いで行けないの?」
「無茶言わないでよ。いくら私だってあんな距離無理だよ……」
「水の抵抗少なそうなのに」
冗談なのか本気なのかよく分からない口調でかがみが言う。
「むぅ……」
いつも揶揄っている相手に自分がしているのと同じ手法で返され、こなたは口を尖らせた。
「何とかして外に伝える方法はないかな」
つかさは考えた。
が、難しいことを考えるのが得意でない彼女はわずか数秒でその作業を中断する。
代わりに彼女がやったのは頼りになる姉に視線を向けること。
「……そう、ね……あっ!」
「なにっ?」
「木を燃やすっていうのは? それなら遠くからでも分かるんじゃない?」
どうだ、と言わんばかりにかがみが胸を張った。
「危ないと思います。燃え広がったりしたら……」
ゆたかがその方法の問題点を指摘する。
「それにゆきちゃんの島だし勝手に火をつけるのはどうかな……」
おずおずとつかさが口を挟み、さらに、
「っていうかそれって放火じゃん。捕まるんじゃないの?」
こなたからも水を差され、かがみは意気消沈した。
名案だと思ったのに、と彼女は不貞腐れる。
「そうだ! ねえ、瓶に手紙を入れて流すのはどうかな?」
つかさのリボンがぴょこんと揺れた。
「…………」
「…………」
「駄目かな……やっぱり……」
こなた、かがみの呆れ顔につかさは照れ隠しに頭を掻いた。
4人は外部と連絡をとる手段をあれこれと論じ合ったが、有用な手は思いつかない。
唯一、現実味のあるアイデアとして筏を作って島を出るというものがあったが、
そもそも木を切る道具もなければ、そうした工作が得意な者もいない。
「お姉ちゃん、女の子の人形とか作ってるけど、それって筏作りに応用できないかな?」
ゆたかの言う”人形”とはフィギュアのことだ。
「や、あれは完成品を買ってるだけで、付属品を後から手に持たせたりしてるだけだよ」
「そうなんだ……」
親友のみなみと違い、この少女は表情をころころと変える。
良いところを見せられなかったこなたは額の汗を拭う。
「最悪、かがみの案をとるしかないかもね」
「木を燃やすっていうあれ?」
「うん。犯人がうろついてるのに今さらみゆきさんの家とか言ってられないよ。それに――」
「それに?」
「館を燃やしちゃえば犯人だって隠れる場所がなくなるんだから、きっと出てくると思うんだよね」
文字通りの炙り出し作戦だ。
この方法は確かに犯人の隠れ場所を奪う意味では効果的だが、逆上して死に物狂いの行動に出てくる危険もある。
どんな手段をとるにせよ、凶悪な犯人が健在である事実には変わりがなく、犯人を捕まえるか島を出るかしない限り、
彼女たちは常に危険に晒され続けるのである。
「ねえ、ちょっと……日下部たち、遅すぎない……?」
最終手段として館かあるいは木を燃やすという選択に一応落ち着いた時、かがみが上ずった声で言った。
その一言に全員がハッとなってかがみを見やる。
2人が席を立ってから既に15分以上が経過している。
「まさか……!?」
もう何度も口にした台詞が誰からともなく発せられた。
「トイレにしては長すぎる!」
こなたとかがみは殆ど同時に立ち上がった。
その熱に押されるようにしてつかさ、ゆたかも腰をあげた。
それぞれに武器を持った後、4人は示し合わせたように談話室を飛び出し、廊下の中ほどにあるトイレに走った。
距離にして数十メートル。
この程度ならつかさやゆたかが出遅れて逸(はぐ)れることはない。
やや薄暗くなった館内は魔物の棲み家を思わせる。
偶然に光の当たらない死角があって、そこに凶暴な何者か――殺人鬼――が潜んでいるのではないか。
光を好み、闇を厭う人間はこうして自分の認知できない部分に滑稽なほど臆病になる。
「みさきちッ!!」
先頭を走っていたこなたが叫んだ。
みさおが廊下の真ん中でうつ伏せに倒れていた。
「ウソでしょ…………?」
数秒遅れて辿り着いたかがみはその場に頽(くずお)れた。
その後ろではつかさが、ゆたかが口に手を当てて打ち震えている。
「みさきち! ねえ、起きてよ!! みさきちッ!!」
肩を掴んで仰向けにさせ、こなたは何度も何度も呼びかけた。
かがみたちは恐怖に慄(おのの)くばかりで行動を起こせない。
「なんで……なんでみんな死んじゃうの……?」
つかさが屈み込んだ。
「どうして? ねえ、なんで……?」
取り憑かれたように呟きを繰り返す。
「目覚ましてよっ! みさきちッ!! ねえ――!!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら……。
こなたは縋りつくように両肩を掴む。
激しく揺さぶられるみさおは、しかしそれでも閉じた目を開けることはなかった。
「くさか……べ……」
力の入らない足を引きずるようにしてかがみが歩み寄る。
ふっと視界が暗くなり、こなたは振り返る。
逆光に立つかがみは涙を流していなかった。
絶望と恐怖が極点にまで達したのか。
悲しむべきで、憤るべきで、涙するべき局面にもかかわらず……。
彼女は無表情で立ち尽くしていた。
「うっ…………」
不意にみさおがうめき声をあげた。
「みさきちッ!?」
こなたが反射的に顔を覗き込む。
瞼が僅かに痙攣している。
「日下部! 生きてるのね!?」
微妙な変化を認めたかがみが俄かに破顔する。
「………………」
みさおがゆっくりと目を開いた。
半ば夢の中にいるような表情で天井――厳密には見下ろすこなたとかがみの顔――をぼんやりと眺めている。
「みさきちぃっ!!」
こなたは覆いかぶさるようにみさおに抱きついた。
「んん……?」
いまだ意識のはっきりしない彼女は、自分を抱きしめる華奢な少女の存在を認識できないでいる。
だが次第に息苦しさを感じ、
「悪りぃ……ちょっと離してくんね?」
惚けた様子でそう言った。





「ほんとに心配したんだから……」
みさおが生きていることを喜ぶべきなのに、こなたたちは揃って涙を流していた。
「みさきちが倒れてて、何度呼んでも起きないから――私、もう駄目かと思って……」
咽び泣く様は子どもそのものだった。
ゆたかに借りたハンカチでこなたは涙を拭う。
「でも良かったです。日下部先輩が無事で……」
「ああ……悪かったな……」
頭を押さえながらみさおが立ち上がった。
「何があったの?」
至極冷静にかがみが問う。
「よく憶えてないんだ。そこであやのを待ってたら後ろからハンカチみたいなのを顔に押し当てられて……」
そこからは記憶がなく、目を覚ますとこなたたちがいた、という。
倒れた時に打ったのか、みさおは頭を擦っている。
「それってクロロフィルとかいうやつ?」
振り返りざまにこなたが問うた。
「クロロホルムだろ? 葉緑素なんて吸わせてどうすんのよ」
ジト目でかがみが突っ込んだ。
みさおがおもむろに立ち上がる。
足元がふらつき、傍にいたつかさが慌てて支えた。
「サンキュ」
みさおがぎこちない笑みを浮かべた。
その表情が一瞬で凍りつく。
「あやのは……?」
弾かれたように彼女はトイレに飛び込んだ。
数秒で出てきたみさおの顔は蒼白だ。
「あやのが――いない」
そのたった一言が再び全員を震え上がらせた。
犯人は多人数を相手にした場合でも、必ず1人ずつ手にかけていく――。
この法則が常に当てはまるのだとしたら……。
「あやのッッ!!」
考えるよりさきにみさおは駆け出していた。
よろめき反対側の壁に肩をぶつけながら、彼女は廊下を走った。
「あやの! どこだっ!? あやのッ!!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
単独行動を始めたみさおをかがみたちは追いかけた。
あやのがどこにいるかなど誰にも見当がつかない。
だが今、生きているかどうかを確かめる術ならある。
「あ、おい! こなた、どこ行くのよ!?」
「すぐ戻るからっ!」
反対方向に走ったこなたは、持ち前の運動神経を活かしてホールに飛び込む。
周囲に人の気配がないのを確かめてから、不気味に引かれた赤い線の数を数える。
「4本――4本しかない! 峰岸さんはまだ生きてるっ!!」
素早く視線を動かし、間違いなく線の数が4本であるのを認めたこなたは踵を返した。
「どこ行ってたの!?」
戻るなり蒼い顔のゆたかが詰め寄る。
「峰岸さん、まだ生きてるよ!」
しかし詰問を無視したこなたは、鍵のかかったノブをひとつひとつ回しながらあやのの名を叫んでいるみさおに向かって言った。
みさおは聞こえなかったのか、本館の部屋を片っ端から調べようとしている。
「日下部、落ち着けって」
「だってあやのが……!」
「峰岸さんなら生きてるって! さっき見たもん!」
かがみと2人がかりでみさおを押さえつける。
「見たって?」
問うたのはかがみだ。
「ホールに行ったら、あの線、4本しかなかったんだよ! だから絶対生きてるって!」
「じゃああやのはどこに行ったんだよ!?」
まるでこなたに責任があるかのようにみさおが問い詰める。
「分かんないよ」
こなたはかぶりを振った。
「日下部さん、落ち着いて。あやちゃん、きっと無事だから。みんなで一緒に探そうよ」
錯乱するみさおを見兼ねてか、つかさがやんわりとした口調で言った。
焦りが物事を成功させた例(ためし)はない。
その意味ではつかさのスタンスは間違いではないといえるが、ここは狼狽は許されずとも焦燥感に駆られても止むを得ない局面である。
彼女のアドバイスを無視したみさおは、ハッとなって顔をあげた。
「もしかしたら……」
呟くと同時にこなたたちを押しのけて廊下の向こうに走って行く。
「今度は何なのよ!!」
みさおの脚力に追いつけないかがみは舌打ちした。
しかしこの島での孤立は禁物であると、散々に思い知らされている彼女たちは若干の遅れをとりはしたものの、
懸命にみさおに追いつこうと走る。
運動が苦手なつかさや、体の弱いゆたかでさえ必死になって走った。
みさおは廊下の突き当たりに立っていた。
追ってきたつかさたちは肩で息をしている。
「日下部さん……独りで行っちゃ駄目だよう……うう、なんか吐き気が……」
急に激しい運動を要求されたつかさの体は早くも悲鳴をあげている。
ゆたかなどはこのわずかな距離を走っただけだというのに、尋常ではないほどの汗をかいている。
「みさきち……?」
尋常ではないのはみさおも同じだった。
彼女は無言のまま廊下の突き当たり――物置へと続くドアの前に立ち尽くしている。
数秒そうした後、みさおはゆっくりとドアを開けた。
途端に生温い風が流れ出す。
「そこはさっき――」
言いかけてかがみは口を噤んだ。
みさおのすぐ後ろでこなたたちは互いに顔を見合わせる。
物置部屋に漂うのはカビっぽい臭いだけではなかった。
肌にべったりと張り付くような湿気。
思わず噎せてしまいそうな塵埃。
そして――。
ここに来て彼女たちが幾度となく嗅いだ血の臭い。
他の部屋に比べて室温が高い理由は、狭く密閉されているからというだけではなさそうである。
みさおはゆっくりと歩を進め、埃をかぶった本棚に手を添えた。
全員が見守る中、彼女はゆっくりとそれをスライドさせる。
「………………ッ!!」
あやのがいた。
隠し部屋の奥で体をくの字に折り曲げて倒れていた。
何で殴られたのか、彼女のチャームポイントであった額はぐちゃぐちゃに潰れていた。
髪の生え際から溢れ出た夥しい量の血液が少女の顔を黒く染めている。
「あ、あ、あぁ…………」
つかさがその場にくず折れた。
あやのの体には無数の刺し傷があった。
首にも肩にも――。
ちょうど腹部を隠すように倒れているため、みさおたちの立ち位置からは確認できないが、
脇腹にも数か所の刺された跡がある。
「あや……の…………」
赤黒い池に横たわる可憐な少女の亡骸を、みさおは虚ろな眼で見ていた。
しかし殺害されて間もない少女のほうは目を閉じており、2人の視線が交錯することは永遠にない。
頭を殴られてから刺されたのか、刺されてから殴打されたのかは分からない。
彼女たちに分かるのは犯人がみさおを気絶させ、その隙にあやのを襲ったという事のみである。
「みさき――」
こなたがそっと手をかけようとした瞬間、
「うああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
弾かれたようにみさおは物置部屋を飛び出した。
「ちょっ、日下部!?」
かがみが素早く身を捻ってその後を追う。
すぐに衝撃音が響いてきた。
みさおがモップの柄を振りまわし、壁にドアに手当たり次第に叩きつけている。
「人殺しッ! 隠れてないで出てこいッッ!!」
般若のような形相で当たり散らす。
その様子をかがみは呆然と眺めていた。
後ろでゆたかが眩暈を起こしたが、かろうじて持ちこたえる。
「隠れてないで出てこいよッ!!」
「みさきちっ!!」
叫び声に我に返ったかがみは、こなたと共に暴れるみさおを取り押さえた。
「落ち着けって!」
かがみがみさおの左腕を胸元に密着させる。
だが激怒しているみさおは拘束を容易く振りほどく。
「離せ……離せよッ! 人殺し野郎!! ぶっ殺してやるッッ!!」
一度落としかけたモップの柄をしっかりと握りなおし、彼女はかがみを突き飛ばした。
かがみが尻餅をつく。
「みさきちっ!!」
こなたがみさおの背中に肩から当たった。
2人はバランスを崩して数歩走った後、翻筋斗(もんどり)打って倒れた。
その衝撃でモップの柄が手から滑り落ちる。
「ううっ…………」
床を引っ掻きながらみさおが上体を起こした。
「しっかりしてよ!」
馬乗りになったこなたは、華奢な体をいっぱいに使って押さえつける。
その下ではみさおが滂沱として流れる涙を拭うこともせず、獣のように低い唸り声を発している。
「あやの……あやの…………」
彼女は取り憑かれたようにあやのの名を呼び続けた。





午後5時15分。
涙が涸れるまで泣き続けたみさおは4人に見守られる中、あやのの亡骸を彼女の部屋に運んだ。
数時間前まで淑やかに振る舞い、誰もが見落としていた館の仕掛けを鋭い洞察力と観察眼で見抜き、
得意の料理の腕で疑心暗鬼に陥りかけていたメンバーの心を繋ぎ止めていた少女は、もうこの世の人ではない。
「絶対に仇をとってやるからな……」
血に濡れた手であやのの頬を優しく擦る。
数分、真っ赤な眼で幼馴染みの死に顔を眺めていたみさおは、
「悪いけど……あやのと2人っきりにさせてくんねえか?」
振り返りもせずに呟いた。
彼女の心情を察すればたたちにその言に従うべきである。
だがこなたたちは互いに顔を見合わせ、なかなか部屋を出ようとはしない。
交わされる視線の意味は誰もがよく分かっていた。
これ以上、犠牲者を出させないこと。
その為にはたとえ一瞬であっても離れ離れになってはいけないのだ。
「すぐに戻るからさ」
やや苛立った口調で退室を促すみさお。
「でも…………」
それは危険だ、と言いかけたつかさの袖をこなたが引っ張った。
「出よう。みさきち――絶対すぐに戻ってきてよ」
「こなちゃんっ!!」
「ああ…………」
背中越しに答えたみさおはその場にしゃがみこみ、ベッドに横たわるあやのと同じ目の高さで彼女を眺めている。
「鍵、かけときなさいよ」
かがみたちはそう言い残して、できるだけ音を立てないように部屋を出た。
ドアのすぐ傍で4人は呆然と立ち尽くす。
しかしいくら待っても施錠の音はしなかった。
「峰岸…………」
壁に凭れたかがみは陰鬱なため息をついた。
みさおには及ばないが、彼女もあやのと付き合ってきた時間は長かった。
その点を考慮すれば受けるショックの度合いが他に比べて大きいのも納得がいく。
「………………」
しかし柊かがみがふと覗かせた表情は単にクラスメートの死を偲ぶだけのものではなく、
それとは全く異なる思いつきによるものらしかった。
彼女はそっとドアノブに触れ、ゆっくりゆっくりと回し、数センチほど押した。
ドアは何かに引っかかることもなく、加えられた力の分だけ開く。
「やっぱり鍵はかけてないわね」
自分にしか聞き取れない声でそう呟くと、逆の手順でみさおに気付かれないようにドアを閉める。
「お姉ちゃん、何やってる――」
かがみは人差し指を立てて唇にあてた。
それから憔悴した様子のこなたとゆたかに向かって、
「ちょっと思いついたことがあるの。足音を立てないように談話室に行くわよ」
彼女らしい勝ち気な口調で言った。
「な、なに言ってるの? みさきち独りにできるわけないじゃん」
すぐにこなたが反駁する。
「そうしてくれって言ったのは日下部本人じゃない。それに――」
彼女はそこで深く息を吸い込む。
「それに……?」
かがみは極めて神妙な面持ちでこなたを見据えた。
「日下部なら大丈夫だと思わない? こなた」
「………………」
こなたは何も言わなかった。
「峰岸と2人きりになりたがってるのに、部屋の傍でこそこそしてるのも悪いわよ」
尤もらしい理由を付け加えてかがみは歩き出した。
「あ、待ってよ」
まるで引かれ合う磁石のようにかがみの行くところをつかさが追う。
ゆたかの視線が揺れた。
ここで2人について行けばみさおは孤立する。
先ほどかがみが確かめたとおり施錠はされていないため、犯人にすれば絶好の標的になり得る。
廊下の向こう、ホールに続く角まで歩いたかがみは一度だけ振り向いた。
が、こなたたちがあやのの部屋の前から動かないのを認めると、つかさの手を握って早々と階段を降りて行った。
「…………?」
ゆたかがこなたの袖を軽く引っ張った。
「ここにいようよ」
「分かってる。みさきちが出てくるのを待ってようね」
いよいよゆたかの精神も安定を保てなくなってきたようだ。
しかしこの状況で倒れないのは、彼女が気力だけで踏ん張っている証拠だ。
「………………」
あやのの部屋からは物音ひとつ聞こえてこない。
それどころか生きている者の気配すら感じられない。
1分が2人にはとてつもなく永く感ぜられた。
”すぐに戻るから”
2人の感覚では”すぐ”は既に超えている。
「お姉ちゃん……」
ゆたかが泣きそうな目でこなたを見上げた。
その視線の意味を理解しているこなたは、遠慮がちにノックする。
反応は――ない。
「日下部先輩……?」
怪訝そうな顔つきでゆたかが声をかけると、ドアが静かに開いた。
「待たせて悪かったな。降りようぜ」
普段のみさおとはあまりにかけ離れた落魄ぶりに、こなたは思わず目をそむけた。
その時、ドアの隙間から少しだけ部屋の中が見て取れた。
あやのはベッドに仰向けに寝かされており、その上からシーツをかけられている。
花瓶の下に敷いていたと思われるワイン色の布が、彼女の顔を覆っている。
「柊たちは?」
後ろ手にドアを閉めたみさおが訊いた。
「あ、うん、先に談話室に……」
「そっか……」
特に答えを期待していないらしかったみさおは、フルマラソンを走り終えた時のようにゆっくりとした足取りで廊下を歩く。
今にも倒れてしまいそうな彼女を、2人は左右からそっと支えた。

 

2日目(2)へ  SSページへ  3日目(2)へ